「~~~っ……勉強なら図書室でやれ、とか、教室でやれ、とか、家帰れば、とか」
「やれるなら、そうしてるでしょ。できない理由があるんだと思ってるけど?」
「その理由は何か、とか、訊きたくならないの……?」
「訊いたら、喋りたくなるの? 長良ちゃんは」
「~~~~~っ……」
 間髪入れない寛子の返しに、彼女はとうとう言葉を失う。
 唇を噛み締める顔まで見れて、今日は良い日だ。
「喋りたいなら、いつでも聞くけど」
 ――だって、最初から、下手に干渉されたくない、って空気を醸し出してたし。
 そこから心境の変化があったのなら、確実に、寛子への好感度が上がっていっているということなのだろう。
 良い傾向だ。勝手に口の端が持ち上がってしまう。
 彼女はシャーペンをノートの上に転がし、ふい、と視線をそらした。勝ち誇る寛子の表情を見たくないのかもしれない。
「……別に、喋りたいってことはないです、けど……。私の名前、どこで調べたんですか?」
「サブバックの刺繍ネーム」
「あ――……なぁんだ――」
 単純な種明かしが意外だったらしく、彼女は頭を抱えた。
 完全に盲点だったのだろう。
 寛子は学校指定のサブバック、その側面に刺繍してある名字を、彼女が持っている日に何気なく盗み見ただけだった。
「靴履き替えた後に下駄箱を見る、とかもできるし、学校ってプライバシーがない場所だよね。気を付けないと」
 名探偵でも何でもない寛子が白々と言うのが、追い打ちになるのだろう。彼女は自分の髪をくしゃりと右手でかき回す。
「もー……やだ……くそ、かっこわるい……」
 まじめな彼女が不慣れに汚い言葉を使う姿は新鮮だった。
 寛子は満足感でいっぱいだったが、思えばそれは、支配欲に近しい感覚かもしれない。
 自分とのかかわりが、彼女を、変えていく。
 相手を染め変える、どこか後ろ暗い、悦び。
 ――だけど当然、意地悪するだけでは、だめで。
 寛子は座っている彼女の頭のてっぺんに、慰めるように触れた。
 お互い立っている時ならば、寛子が絶対に触れない場所。
 嫌がったらすぐやめる、と思ったけれど、彼女はされるがままだった。
 否、少し緊張して、様子を窺っているような気もする。
 どうして、と。
 相手が思っているかもしれない。そう思って、しかしそれは寛子の鏡写しの感情なのかもしれない、と思い直す。
 ――どうして。どうして。……何がしたいの?
 ――変えたいの?
 今なら、どちらが発した言葉でも、行為でも、どうにでも、関係が振れる。安全な方にも、危うい方にも。
 これはきっと、そういう時間なのだった。
 しかし、お互いに、様子見をして、動かない。
 とりあえず、寛子は、「妹分」を甘やかす方に舵を振った。それが無難だ、という直感に従ったのだ。
「……そんな、落ち込まなくても。私だって、長良ちゃんが言いたいと思ってないのに、変に探ったり、聞き出そうとしたり、したくないのさぁ」
「…………」
「興味がないなんてことはないよ」
「……ほんとう?」
「ほんと、ほんと」
「うそっぽい……」
「そんなことないって。だって関心がないとさぁ……」
 落ち込む彼女をフォローしなければ、と思って言葉を探そうとしたのだが、それが案外、難しい。
 考えて、考えて――寛子の唇は、そこで動きを止めてしまう。
 ――なんだろう。この苛立ちは。
「……関心がないと?」
「そりゃ、……同じ空間にいるのも嫌でしょ。ほんとにやだって思う子だったらさ」
 言いながら、まずいな、と寛子は思っている。おそらく、自分は選ぶ言葉を間違えた。
 案の定、彼女は拗ねたように唇を引き結ぶ。
「……そこまで嫌われているなら、問題外、ですね」
 ――ほら、やっぱり。
 予想が当たって後悔したが、もう遅い。
 彼女は、必要最低限、以上の好意を欲しがっているようだった。
 しかし、一口に好意と言っても、それが難しい。
 かたちにして見せられるようなものではないのだ。
 適量を間違えれば、引かれる。部活動や学年と言った、わかりやすいつながりや共通の思い出がないのだから、端的に言って、同じ学校に通う他人でしかない。
 好意の基盤として、誰でもわかるかたちで表現できる、言葉が思いつかなかった。
『あんたのことが、すごく気になる。日に日に存在感が大きくなる。それだけ。文句ある?』
 ……もしも寛子が少女漫画に出て来るイケメンなら、そうやって言い切れば良かったのかもしれない。
 言われた方は頬を赤く染め、ハッピーエンド。付き合うなり、結婚するなり、後は好きにすれば良い。
 ――しかし、寛子も彼女も、女の子。
 これは恋愛関係とは違うものだ、と、とりあえず反射的に頭で否定してしまう。
 どうするのが良いのか――考え、考えれば考えるほど、寛子の中で苛立ちが募った。
 どうして自分ばかりが、こんなことで悩まなければいけないのか。
 ――ああ、もう!
 寛子はそこで思考を止めてしまった。
「……めんどくさいよ、長良ちゃん。そういうの、すごく、めんどくさい」
「……え……」
 溜め息交じりに押し出した寛子の低い声に、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「せんぱい、話聞いて、って素直に言うんじゃだめ? そうやって内向きのまま、ちらちらと気を引いて、楽しい? 私ははっきり言ってもらった方が、いいんだけどな。『黙っててもうまく察して、ご機嫌取って』……それは、構ってちゃん、と言う」
 感情は抑えようとしたけれど、不機嫌はどうしたって声に出る。
 欲しがるばかりで、努力しない。そんな子どものおねだりを広い心で受け止められるほど、寛子も大人ではないのだ。
 特に、彼女が欲しがるものは、そこらに転がっているものではないのだから。あまり無理を言われると、困ってしまう。
「そういう……つもりじゃ……」
 彼女は消え入りそうな声で呟く。その後も少し唇を動かしていたが、声にはならなかった。
「もう……暗いなぁっ。違うなら、ちゃんと言い返してきなよ」
「……すみません……」
 俯くと、前髪で目が隠れてしまう。そこから輝くものが落ちて、制服のスカートに、ぱたり、と丸いしみができた。
 ――私が泣かせたみたいだ。いや、泣かせたんだろうけど、こんなことで泣くなよ……。
 勝手な言い分かもしれないが、
 ――言い返しもせずに、すぐに泣くなんて、ずるい。
と、咄嗟に相手を責めたい気持ちが浮かび上がる。
 人を泣かせたことは、初めてではなかった。
 幼少の頃は、口達者な寛子が何か言うと、喧嘩相手がすぐ泣き出した。そうなると、喧嘩の原因や経緯などは関係なく、大人は寛子が悪いと決めつけて叱る。
 性質が悪い子などは、泣けば勝ちだと学習していて、目立つように泣き真似をしては、大人たちの気を引いていたものだ。
 そんな苦い思い出があるものだから、すぐに泣く人間は、好きではない。
 寛子の好悪の基準で言えば、はっきり、そうと決まっている――筈だったのだけれど。
「んー……」
 しかし、この場をどうしたものかな、と腰に手を当て、思案する。
 彼女は、濡れた目元を、何度も手で拭っていた。
 すみません、と、喉に何かが引っ掛かったような声で繰り返す。