それでもこんな時間に、きちんと寝支度まで済ませてパジャマでごろごろするだけでも、ご自愛感は出るものだ。
「寛子さん」
「うん?」
「寛子さんは、一目惚れを信じますか?」
 シングルベッドの向こう側から、ほつりと響く声。
 本日も、検証日和だ。
「あると思うね」
「……即答……」
 自信満々に言い切ってしまう寛子と対照的に、一佳は納得しかねる様子だった。
「ん? 一佳ちゃんは、いつ私を好きになってくれたのかな?」
「茶化さないでください」
「ケチ」
 寛子の方だって、たまには甘い囁きを受けてみたいのだが、一佳のガードはなかなか固い。
「……私の方は、生物実験室で会ううちに少しずつ、ですよ。でも、寛子さんは、初対面の時から私の顔が好きだって、以前」
「顔は……うん」
「あ、すみません、思い上がりでしたか」
「いや好きだよ。とても好き。でも造作に焦がれるっていうより、持って行かれた……って感じだったんだよね。歩く佇まい、とか、オーラの重さとか。あ、悪い意味じゃないからね!」
「……重いですよ、私は、どうせ」
「うーん。大丈夫か? とは思ったよね、守りが必要な学校って場所であんな雰囲気出して、って。その瞬間、『好き!』ってお花畑が咲き乱れる恋にはならなかったけど。気になって、話してみたいとは思った。つまり、知りたいと」
「……はい」
「それで……話すようになって。見るよね、とりあえず、知り合ったら、興味持ったらその人を。その状態を好きというかどうかはわからないけど、私はまずその状態になることが少ないから。そうなった人とは全員付き合ってるんじゃないかな。つまりその時点で『好き』に寄って行ってるとは言えると思う」
「本当に、せんぱいは、人に興味がなかったですよね」
「あの頃、謎に省エネ入ってたから。……正直に言えば他にも、少ないけど観察対象、候補はいた。大学にも。社会に出てから知り合った人にも。……でも、結局、選ばれなかったり、選ばなかったり、でもそういう人を思い出す時、『一目惚れ』って言葉は当たらないんだよね。何かなければ、ほぼ存在も思い出さないし。だから持論ですが、うまくいかなかった恋について、私は『一目惚れ』とは呼ばない。結果オーライの時だけ使う」
「うわぁ……」
「ペーパーテストのヤマかけに近いものがあるね。基本、得意だと思っているけど、外れた時のことはすぐに忘れるとも言える」
「それ、完全に、性格ですよ……私はカン外した時の『やっば……』ってなった時の記憶しか残ってません」
「ほんっと、一佳ってば、損な生き方……」
 オーライにならなかったものも。合図を出して距離を縮めたり、一緒に過ごして一挙手一投足にいちいち心の中で反応したり。ヤマの当たり外れを確かめるまでの、駆け引きも予感も高揚も、どれも、いわゆる恋らしかったと思う。
 と、言うと、純愛の、夢が壊れる、と外野に叩かれるだろうか。
『恋バナ』は、どこかで聞いたことがあるくらいポピュラーなお約束しか求められない。
 ストレートな恋情に、わかりやすい泥沼。
 不透明な人間が絡む時点で、純度百パーセントの寄り道なし、なんて恋、至難だろうにと寛子は思う。
 ポピュラーで鉄板で、間違いない。
 間違いなく、労せず、正しい相槌が打ちたいあまりに?
 見込みを外したものは、not for me、そう呟いて忘れてしまえばいいのに。
「私は、今でも覚えている、あなたの姿があるよ。一佳」
「……え。何ですか」
「昔だけど、すぐ思い出せる。一佳がバスケしてる姿」
「……バスケ? って、あのバスケ? 中学入って間もなく部活やめましたけど……」
 とっくに縁は切れたものの話をする時の、記憶を手繰り寄せるようなスピードで、一佳が応じた。
 確かに一佳はバスケットボールを続けなかった。
 同級生との関係がうまくいかずに部活動をやめ、その後、インカレッジや社会人サークルのようなものに入った話も聞かない。
「そう、部活動してる一佳には会えなかったけど。毎年、クラス対抗の球技イベントがあったでしょう。クラスマッチだっけ?」
「……ああ! ありました。よく覚えてますね。せんぱい、体育会系イベント、全サボリだったタイプでしょう?」
「いやいや」
「バレーは手が痛くなるとか、ソフトボールは日焼けするとか」
「……確かに言いそう、若かりし私」
「寛子さんから、そう聞いた気がします。出なくて済むよう、逃げ回るんだって。何年生の時か、ジャンケンに負けて、卓球で、一瞬で負けて終わりにしたんじゃなかったですか?」
「! そうだわ。いつだか卓球やった記憶がある、同じくらい、やる気のない子とダブルス組んで……。よく覚えてんね、一佳」
「自分の記憶の方は曖昧なんです。寛子さんに、話したのかな、私……? そんな筈はないんだけど……」
「見に行ったんだよ。わざわざ中等部の体育館まで。ということは、私が高等部、あなたが中二か中三の時、かな」
「……バスケの選手に入ったのは中三ですね。……ああ、あんまり思い出すべきじゃない、って本能が告げてる。パンドラの箱」
「ほんと? やめようか」
「いや、さすがに時効の筈……。っていうか、初耳なので、最後まで聞きたいです。見てたんですか? どこで?」
「フツーに二階の観覧席……あれ、見るの禁止されてた?」
「私が中三の時は、寛子さん高二でしょ。お互い勉強やらなきゃで、そんな話、していなかったんじゃないですか?」
「そっか。難しい時期だね、進路のこととかね……」
「せんぱいもお化粧して、どんどん大人っぽくなっていくし……興味関心とかもちょっとずつズレてきて」
 話を続けるうちに、どんどん思い出していく。
 一佳の目に映る寛子も、寛子の知らない寛子だが、一佳の目に映っていないだろう一佳を寛子も知っている。
 ――あの頃、私達、距離ができたんだよね。距離って言うと、語弊があるか。
 私立汀野(みぎわの)大学附属は、中等部では二年と三年、高等部では一年と二年のはざまで、進路に沿ったクラス分けが行われる。
 中等部三年になって、一佳は、関係が悪化したままの元女子バスケットボール部員たちとクラスが別れた。
 寛子の予想でしかないけれど、新しいクラスで、彼女はようやく落ち着けたのだと思う。
 体感的に、自分にかかる重さが減った。
 もちろん、寛子にとって一佳は大事なかわいい交際相手なのは変わらなかったけれど、彼女の世界が広がり、自分以外にふらりと立ち寄れる居場所ができたんじゃないかな、というのは、なんとなく、感情の圧だとか、視線の熱、感情の容量などで伺い知ることができた。
 一佳から向けられる重みを受け止めるのは不快ではなかった。
 それでも、軽くなって初めて、肩の力が抜けたところがある。
 ――私があの子の、世界のすべて。……じゃ、ない。
 たったひとつ、と、いくつかのうちの何割、は全然違う。
 青春の時間も情熱も限りのあるものだから、その配分は、一佳任せにしよう、と決めていた。寛子の方も暇というわけではないから、重みの減ったぶんは、勉学他で埋めるので構わない。
「……クラスマッチ、かぁ……」