「それは……。これまでの積み重ねもあるでしょ?」
「過ごした年月を重石にできるというなら、親子や長年連れ添った夫婦は……」
「……そうだね。ごめん。積み重ねて知り過ぎたからこそ、離れたくなることもあるのかもしれない」
 ――人の苦しみや悩みに、言えることなんて限られてる。
 と、寛子はいつもすぐ、匙を投げてしまう。
 勝算は、いつもない。
 寛子は何のプロフェッショナルでもない。特別な能力も経験もない。自分の人生だけを、直感と突貫工事でどうにかこなしてきた。
 つれづれなるままに。存分に。負けてさまよう。
 実験なんて、失敗しているうちが楽しいのだ。そんなことを口に出したら、当時の指導役には怒られただろうけれど。
 文理に分ければ寛子は理系だったし、理系学問は概ね好きだったが、だからと言って、そういう人間がみんな研究者の才能を持っているとは限らない、と寛子は思っている。理科が好きだから、という理由で学部を選んだ大学の同級生の中には、寛子を含め、物事を論理立てて考えることは実は苦手という人も、大勢いた。
 そこまで考えて、ふと思い出したことがある。
「DNAの配列まで見れば、まず間違いなくオリジナルだね」
「素養がないと、どこを見たらいいかわかりません」
「気軽な検査キットがあるんだよ、今。確か」
「そうなんですか?」
「ゼミの元同級生の……あ、女の子ね! SNSにアップしてた。誕生日プレゼントに友達からもらった、って」
「残してるじゃないですか、昔からの付き合い」
「生きてるか確認するだけ。コメントはしないよ。……唾液をどこかに送ったら、肌質とか薄毛のリスクとか、病気の発症リスクとか、そういうものを解析してくれるんだって」
「へえ、小さい頃想像してた二十一世紀みたい……」
 話し始めた側なのに、いつの間にか寛子は背中にひやりとしたものを感じている。
 ――しくじった。
 何ヶ月か前に、寛子はある記事をインターネットで読んだ。
 メダカの性指向や配偶行動を決定づけているのは、たったひとつの遺伝子変異によるものだと、東京大学の研究者が明らかにしたという、小さな記事だ。
 ヒトの場合はより複雑なメカニズムが想定されている――と記事で補足されていたけれど、同性愛者を故障やバグと決めつけたい人たちは、優生学を伝家の宝刀のように使ってくる。遺伝子関係のトピックスは反証が難しいことをよくわかっているのだ。相手の主観的な決めつけをはねのけたい側は、常にすべての正解を知っていなければならない――なんて、とんでもない無理ゲーなのに。
「……まあ、検査にどこまで根拠があるのかっていうのが怪しいから、自分でやるとしたら占いレベルだよね、うん」
 さっさとその話題を引き上げようとしたが、一佳の琴線のどこかに引っかかってしまったようだった。
「いくらくらいなんだろ」
「気になる?」
「……まあ、少し。才能とか、寿命とか。あらかじめ、ある程度は決まっているとわかったら、楽になるんでしょうか。知らなきゃよかったってなるんでしょうか……」
「内容によるんじゃない? 望むことかどうか」
「運命の人……とか」
「一佳、好き? そういう話」
「……あんまり……。ある時から、恋愛小説とか、女の人の書いたエッセイとか、楽しく読めなくなってしまいました。私には関係ない世界だなって」
「ふうん」
「……性別女性で検査申し込んで……女の人が運命の相手だって……結果に出ること、あるのかな。ないでしょう? きっと」
「知らないけど。あるんじゃない?」
「寛子さんはあっていい人だけど、キット作ってる会社の人は、どうかな。ダメ、って考える人、多いから。同性間は恋じゃないって」
「恋なんて、何を満たしたら恋なのか、そもそもふわっとしてるのに」
「疑似恋愛って言葉、昔ありませんでした?」
「全然覚えてない」
「教材だったか、『保健だより』みたいなプリントだったか。教室で、見た記憶。周りにはクラスメイトがいて……」
「ほう」
「同性間の憧れとか恋愛感情は、正しい男女恋愛に辿りつく前の、怯えを乗り越えるための練習、やさしい実験台、みたいなニュアンスの読み物。読んですごく腹が立ったし、胸がざわざわして。当時、放課後、生物実験室で寛子さんと会う間も、しばらく考えちゃってた。この気持ちは、疑似? 正しくない贋物? って。せんぱいは二年前に読んでる筈、とか。……本当に覚えてないですか?」
「ない……読んだか怪しい……あ、溜め息つかないで」
「そういう人でしたよね……。私はずっと……どこかに刺さり続けてます。恋をしてカップルになるのは必ず男女の組み合わせ、最後はみんな必ずそう、って、雑な断言も厭だったし……。あと、生殖しない女性が生きているのは、無駄で、罪っていう」
「当時の都知事の『ババア発言』ね。担任のー……あー顔は出てくるけど名前が思い出せない……先生がブチ切れてたな。『あんたたちが政治家にキレないと大人になった時もこんな社会のままだよ!』って。でも、どこにキレていいのかわかんなかったんだよね。都民税払う予定、あの頃全然なかったし」
「淡々というか、時々冷え冷えとしてましたしね、せんぱい」
「感情的になったら負けって空気とか、あと、キレる十七歳になりたくないという怖さがね……。歳が近かったから、少年Aと。酷い少年犯罪がいくつも起こって……女子高生ブームなんて言われて。ガングロに、ヤマンバに……言葉も酷いね、今思い出すと」
「そうですね」
「一佳はルーズソックスすら厭な顔してた。頑なだったよね。あ、疑似恋愛は覚えてないけど、本能、って言葉は目についたかも。男と女が惹かれ合うのは本能。ビビビッとくるのが本能」
「九十年代J-POPsの空気ですね……」
「居酒屋とかで聞くと、懐かしさもこみ上げるんだけどね。残念ながら未来の令和はあんまりうぉーうぉーうぉーじゃないぞ……って心の中で学生の自分に語り掛けてしまう」
「あの頃の未来には立ってないですよね。全然」
「本能って言葉、私、ちょっと納得いってなくてさ。ヒトの標準装備なら、石器時代からそうだったのかなって、つい考えちゃうんだけど……石器時代にわけあって少子高齢化の村があったとして、だよ。将来、誰が労働して村を支えてくれるんだって皆が不安になった時、若い男女が仲良くなっていたら、周りはラッキーって思うと思うんだよ」
「外来語もう入ってきてるんですか、その村」
「混ぜっ返すのうまくなったね、一佳。……村の長老とか、二人の親は、二人に、それは恋だよ、結ばれる運命だよ、この村で子ども作りなよ、ってけしかけると思うんだよね。築き上げた集団の維持のため。それが、集団生活する生物の工夫、って言うなら、まだわかる。種を残すのが本能、っていうのは、個人的にはわからない。環境が悪い時に、子を産むことで、面倒を見る親の生存率まで下がることがある。ヒトみたいに、幼体が一人前になるのに時間がかかる種だと、特にそう。親が死ねば子も苦労する。多産すれば、残る確率は単純に高まるけど、それもできない」
「はぁ……」