寛子がようやく用意を済ませてリビングに入ると、キッチンに立っていた一佳と目が合った。
「あー、やばい、お出汁のにおい、しみる」
「今日は、アゴ出汁のお鍋にしてみました」
「やったー!」
 鍋のふたから噴き出すおいしい蒸気のためか、柔らかい同居人の笑顔のためか。シャワーでぬくもりきらなかった体が、一気にぽかぽかしてきた。
「あー、部屋、あったかーい。ごはんがあるー。泣ける……」
「大げさな……」
「大げさじゃないよぉ……グズッ」
「あらら……ほんとに泣いていらっしゃる」
「ン……」
 半分くらいは、寒いところから暖かいところに移動したせいで出る鼻水のせいなのだが、感情としても多少ぐしょぐしょなところはあった。
 あまりに幸せで、泣きたい、という、ウェットな甘え。
「厭なことでもありました?」
「そう、そうかも、聞いてぇ一佳……!」
「聞きます。聞きますが、食べながらにしましょう?」
「お腹すいた……」
「でしょう?」
 なだめるようにそう言って、冷蔵庫を開けようとする一佳の背中に、柔らかい引力を感じた寛子は、
「ねえ、一佳、ぎゅってしていい?」
 すり寄るようにして、手を広げ、抱きついた。
 一佳は嫌がらず、怒らず、じっとしていてくれる。
 十秒ぐらい、そうしていた。
 労働中に与えられた理不尽から生まれる怒りや無力感でぐったりしていた細胞たちが、体の中で、むくむくと形を取り戻していくのがわかる。瀕死のそれらがうっかり流出しないように、こわばっていた外側の輪郭も、安心して溶けてゆく。
 は――、と、長い溜息が漏れた。
 他人の体温は、とにかく温かい。
「ありがと。甘えちゃった。復活」
「ストレスホルモン、減少しました?」
「した、した」
 血が手足の末端まで順調にめぐり始めたので、寛子はこたつテーブルにカセットコンロを準備し、とんすいやれんげ、箸などを並べた。
「熱いものを運びますよ」
「ほーい」
 両手にミトンをはめた一佳が、そろそろと、蓋つきの土鍋を運んでくる。
「あ、一佳、もうちょい右」
 ひっくり返らないように慎重に鍋の位置を調整して、カセットコンロの弱火にかけると、すぐにくつくつ、と音が立ち始め、寛子は慌てて水とグラスを運んで来た。
「蓋、開けますね……」
 ミトンをした手で一佳が土鍋の蓋を持ち上げる。瞬間、中に篭もっていた蒸気がふわぁっと白く立ちのぼり、鼻の奥をお出汁の香りが満たした。
「わーっ……! どうしたの、豪華じゃん……!」
 薄い琥珀色のアゴ出汁の中で、くたくたに煮られた白菜、ネギ、しめじ、豆腐が、ぐつぐつと踊っている。
 いつもの寄せ鍋と違うのは、その上に、すりおろした長芋がかかっていることだ。
 その上に、一佳が水菜を加え、三つ葉をトッピングする。
 見た目も、香り立ちも立派になって、TVで見たことのある料亭の鍋のようだ。
「三つ葉や水菜は、あんまり火を通さなくていいので。……はい、お先にどうぞ。寛子さん」
「えっ。いや、ここは作った人が先に……」
「いいから。どうぞ」
 有無を言わさない一佳に根負けして、寛子は穴あきおたまを受け取り、鍋に突っ込んだ。
 盛り付けまできちんとされた料理を崩すのは、勇気がいってドキドキするけれど、新雪を踏む時に似た高揚も中に混ざるような気がする。
 それは、他人と同居して初めて知った幸福だった。
 日々、手作りのプレゼントを交換する楽しみがある、ということなのだ。ごはんを作り合う、ということは。
 相手の、その日のコンディションを想像しながらレシピを考えて。
 包丁を入れて。
 好みそうな味付けをして。
 ちゃんと、美味しい、と思ってもらえるかな、と不安や期待を覚えながら、作る。そして、受け取る。
「では……失礼して」
 おたまを底の方からぐっとすくい上げると、確かな重みと共に、具材、そしてとろりと形を崩して流れる山芋と、半なまピンクの明太子が顔を出す。
「あっ何これ、すっごいきれい……明太子? ぜいたく!」
「普段ちびちび食べてますからね……。思い切りが必要でしたが、三腹ぶん入れました」
「やっばい。テンションあがる。肉は鶏肉で……魚もある!」
「ブリです」
「すっごぉ。リッチぃ……! はい、一佳も」
 寛子は山芋と明太子を攪拌しないように、そうっと、具を一通りとんすいに入れると、おたまを一佳に手渡した。
「どうも。や、雑誌でレシピを見て、作ってみたくなっただけなんです。たまたま。予算オーバーではありますけど、今年はどこにも旅行できなかったし」
 一佳は言い訳するように言いながら、中身を無造作にひとすくいして、手を合わせる。
「じゃ……」
「「いただきます」」
 声を合わせて唱和すると、寛子はふうふういいながら、とんすいの中身を箸で持ち上げた。
 あたたかい山芋と、ピリリと辛い七味明太子が、優しく煮えた具に絡んで、いいアクセントになる。三つ葉のさっぱりした風味も良い。そもそも、よく煮えた白菜やネギほど、冬場に食べたいものはない。
「肉も魚も野菜もほんとおいしい――! あったまる――! ありがとね~、一佳、天才!」
 寛子は心から大絶賛するのだが、一佳は、照れ隠しとも言い切れないような苦い顔をする。
「大げさですよ……」
「へ? なんで? めちゃくちゃおいしいよ?」
「レシピ通り作っただけです」
「レシピ通りにするのって大変じゃん。こんな手の込んだ料理を……」
「材料切って鍋に入れるだけですから」
「山芋すったり……」
「いいです。無理に褒めなくて。おいしいなら、普通に食べてください」
「無理してないけどなぁ……」
 一佳は、褒め言葉を、なかなか言葉のまま受け取らないところがある。
 数カ月前、寝る前の「同居人会議」でなにげなくその話を振ったところ、調理に苦手意識がある、と、告白していた。
「私、これ、っていう才能がなくて、何やっても、普通なので。わざわざ褒められるようなことじゃない、って思ってしまうんですよ……」
 ――なんでも「普通」にこなせてしまうなんて、すごいことじゃないか。
 と、苦手に足を引っ張られがちな寛子は思うし、その時も言ったのだが、一佳は元々完璧主義で、自分に厳しい。そして、自己評価が低い割に、プライドがちゃんと高い。
 その上、観光事業のクライアントを多く持つ広告会社で働いていた一佳は、コロナ禍で仕事がなくなり、自宅待機を余儀なくされていたところだった。
 たとえ一佳が人員整理の対象になっても、寛子の勤める教育関係の出版社は業績好調だったので、すぐに二人の生活が圧迫されるわけではない。
 そう言っても、一佳は聞かず、苦悩の表情だった。
 ――人に頼るのが苦手なのは、寛子も同じだ。
 地元にいた時、上京前後の屈託を、寛子も忘れてはいない。
 一佳の気持ちは、痛いほどにわかった。
 寛子も、春以降しばらく在宅勤務になり、時間に余裕ができたので、動画配信サイトを真似てスープから醤油ラーメンを手作りしたり、「キャラ弁」を作ったり、SNSで話題になっていた古代チーズ「蘇(そ)」を作ったりして、のん気きわまりない様子を同居人に見せていた。