彼女たちが初めてキスをしたのは、生物実験室だった。
生物実験室は、私立汀野(みぎわの)大学附属中学校の四階建て校舎、その二階廊下突き当たりにあった。
がらがらと音のする戸を横に引いて中に入ると、つん、とアンモニア、遅れてかめの水槽の匂いが鼻腔に届く。
窓際に三つの水槽と手洗い場、反対側に人体模型や骨格標本、顕微鏡や電流計、実験器具等がおさめられた棚がある。
奥には理科教諭用の準備室があるが、不在時は戸が閉まっていた。
授業が終わると、寛子(ひろこ)は毎日生物実験室に行き、めだかの水槽の横に座る。日課の後は、気の向くまま読みたい本を読んだり、気がかりな宿題を片付けたりすることもあるが、大きくてすべすべした黒い机の感触が好きで、突っ伏して居眠りしてしまうことも多かった。背もたれのない、木でできた角イスを前に傾けて眠ると、起きた時にはふとももの裏側に痕がついている。
部活の時間ではあるが、他の女子部員は屋上菜園、男子部員は顧問の目が届かない三階化学室でそれぞれ羽を伸ばしており、教諭不在時の生物実験室は、実質、寛子ひとりの城なのだった。
平穏な放課後。
そこに、突如入り込んできたのが、彼女だった。
――すごい……目立つ子。
と言うよりは、寛子の目に特別「刺さった」と言うべきかもしれない。長身で手足が長く、集団の中で頭一つ抜けそうなスタイルではあったし、好みの顔ではあったが、印象は地味であったから。
短く切り揃えた髪は濡れたように黒く、前髪は厚め。運動部なのか、少し日焼けしている。リップすら引いていない化粧っ気のなさだが、その割には吊り目がちの瞳が大きくてかわいかった。紺のスカート丈は規定の膝下で、プリーツには皺ひとつない。
まじめな中学生、を絵に描いたような姿だ。
――あ。でも……上履きの、色が違う。
白い布キャンバス地の、つま先と底のゴムに色がついている上履きは学校指定のものだ。色が校則で決まっているわけではないが、不文律のように女子生徒はえんじ、男子生徒はコバルトブルーを選ぶものだったので、そうではない彼女は新鮮に映った。
こだわりだろうか。何かの事情でそうなったのだろうか。
開口一番に訊けることではないが、気にはなった。
――こんな子、いたかな。一年だろうけど。
汀野大学附属は中高一貫校だが、高校で外部生を多く迎えるため、中学は各学年に九十人程度だ。女子ならその半分。学年が違っても、下駄箱やトイレ、ロッカー室などですれ違うので、目立つ子は自然と顔や名前を覚えられる。噂話の対象にもなる。
しかし、そもそも、寛子は他人にあまり興味がないのだった。
彼女の方も、寛子の姿が見えていないわけではないだろうに、先輩に挨拶するでもなく、遠慮するでもなく、堂々と生物実験室を横切って、窓際の水槽を覗き込む。あまり手持ち無沙汰そうにも見えなかったのだが、寛子は部屋の「城主」として、念のため尋ねた。
「何か用? ……忘れ物でもした?」
彼女は何も反応しない。
エアーポンプのモーター音が、気まずく空間を埋める。
もしかして聴こえない振りを決め込む気か、それとも聴こえないのか、と焦れを感じたところで、ようやく、彼女は振り返り、寛子を見た。
「……いいえ」
「先生に用事? 授業でわからないところがあったとか……。職員会議で、今、いないんだよね」
「……いいえ。別に」
彼女は表情筋も、唇すらろくに動かさずに、ぼそぼそと答える。
小さいが、その割にはよく通る声だ。だが内容は要領を得ない。
寛子は舌打ちしたくなった。
――何しに来たのか、って訊いてるの、わかんないのかな。
知らない先輩に話しかけられ、怯えて挙動不審になっている、という感じでもない。むしろ、逆だった。背中を伸ばし、愛想笑いひとつなく視線をぶつける。不遜な態度、と言えるかもしれない。
目障りな後輩を説教し、先輩風を吹かすような同級生のことを内心軽蔑していた寛子だが、好き嫌いは当然ある。
空気を読まず、打って響かない相手に対して親切にしてやるような度量もまた、持ち合わせていなかった。
――めんど。もう、放置しとこ。
苛立ちめいた感情が、寛子の眉間の辺りにわだかまる。
それを読み取ったのか、先ほどよりは強めに、押し出すような声で、彼女は言った。
「私が、ここにいたらいけない理由――何かあるんですか?」
思いもよらなかった返しに、寛子は絶句した。
理由。――理由?
わざわざ説明しなければいけないようなこととは、寛子には思えなかった。
しかし、疑問をぶつけられれば、回答義務がこちらにあるような気もしてくる。
本来、疑問をぶつけたかったのは寛子なのだが……。
――疑問に疑問で返しちゃいけない、っていうの、常識だと思ってたけど。違ったっけ。そもそも、何で、だめなんだっけ。
結局、「返されたら自分がムカつくから」という理由しか思いつけなかった寛子は、「その理由は駄目でしょ」と判断して、仕方なく答えた。
「……いや、だって……部室だし」
「えっ?」
――えっ、て何だ。
心の中で突っ込みながら、続ける。
「夏休み明けで、入部希望もないでしょ。いや、できなくはない? できなくはないかもしれないけど、わかんない、先生に訊いて」
「入部する気はないです」
それは半ば予測していた答えだったので、深く考えずに流す。
「ここ、科学部の部室だからさ……」
部室は部活動のためにある。部外者は立ち入らない。
それが「ふつう」だ、と寛子は思っていたから、ずかずかと入ってきた彼女には最初から疑問符しか浮かばなかった。
もしかしたら、喧嘩を売られているのか? 舐められているのか? とすら思った。
悪意を除けて考えれば、「ルールをまだ知らない」と解釈もできるのだが、それを講釈しようと思うと、「ルール」がどこまで正確なものか、自信がないことに気付く。
科学部の、一部の活動に必要なものがここにあり、持ち出しができない。ということは、寛子はここで活動する他はない。
と同時に授業で使う場所であり、生徒が忘れ物を取りに来たり、理科教諭に補習を求めに来たり、教諭が明日の準備をしているということはざらにある。
その場合、寛子も特に、気に留めない。
――じゃあ、用がない生徒が、「いたらいけない」理由……?
寛子は匙を投げた。
わからない。
部室に友達を集めてたまり場にしていたら、「まじめに部活動しなさい」と怒り出しそうな教師もいるが、彼女と面識はない。
そして、そもそもそういうことを気に留めそうな科学部の顧問でもないのだった。
――問題があるなら、先生が注意するでしょ。任せよ。
好きにしてくれ、ということを寛子が言おうとすると、彼女が先に口を開いた。
「化学室にも何人か人がいたから、活動場所、そっちかと。実験とかしている風だったし……。せんぱい、寝てましたよね?」
――先輩に本当のことを指摘するとは、生意気な子だ。
と思いつつ、不躾な物言いに慣れ始めたこともあって、寛子の中に彼女への興味が芽生えつつあった。
ぎりぎり上級生に対して敬語らしきものは使っているが、持ち前のものらしい傲岸さは隠せていない。
生意気、ではあるが、無防備でもあるのだ。
これでよく今まで上級生に目をつけられなかったものだ、と感心すらする。
希少種だ。
そういうものは、嫌いではない。
まして、三年で一番スカート丈が短く、何度も染髪を疑われるほどの茶髪で、態度が大きい寛子に対して、一歩も引かない。
見どころがある、と言えるのかもしれなかった。
「うん、寝てた。もう世話終わったからさ」
寛子が認めて指で水槽を示すと、彼女は少し目を輝かせた。
「せんぱいの、めだかなんですか?」
やはりほとんど藻で濁って何も見えないかめの水槽ではなく、その横に二つ並んだ、めだかの水槽が気になっていたようだった。
「私が育てて、データ取ってる。科学部の活動って、化学だけじゃないからね」
音だけだと混ざってしまいそうだな、と思いながら伝えると、彼女は少し顎を引いた。
「私も、めだかに餌あげてみたいです」
「……毎日はあげないんだよ。お腹壊しちゃう」
彼女の関心の行く先に、寛子は少し緊張する。
――部外者が餌をあげちゃいけない理由、何かあるんですか、とか、さっきみたいに詰め寄られたら、困るな。
子どもに毛が生えた程度の中学生は、小さな生き物に対して、驚くほど無邪気に残酷なことがある。移動教室で訪れた生徒たちが遊び半分で水槽をいじるので、寛子も世話の後、餌や網を放置しないように気を付けていた。
生き物に対する慈愛ではない。
ストレスで死なれたら実験結果に差し障るというのが大きいが、見た目は無害でおとなしそうな後輩たちが、引くほどひどいことをやってのけるのは、ちょっとしたトラウマでもあった。
半分無意識だったが、世話が必要ない日も様子を見に来るのは、そうした悪戯に手を焼いた過去があるからかもしれない。
顧問に相談し、水槽の蓋が簡単に持ち上がらないようにしてもらって以降、悪戯の被害は減っていたが、
――この子も、もしかしたらそのうちのひとりかも。目が、罅(ひび)の入った氷みたい。
感情のはけ口が必要になるほどに、張り詰めていて、危うい――。
寛子は意識して肩の力を抜くと、わざと無造作に自分のかばんを漁った。
ノートの隙間に入っていた開封済みのコンビニ菓子を手に取り、そのまま突き出す。
「食べる?」
彼女はきょとんと目を丸めた。寛子の行動が、意外だったのかもしれない。
「……でも、校則……」
「これくらい大丈夫。三年になれば誰も守らないから」
一度自分の方に戻し、パッケージの上部を開いて振る。棒状のチョコレート菓子の先端が、三、四本、顔を出した。
そのうちの一本を、寛子は摘まみ、自分の口に放り込む。
「ほら」
再度、紙箱を突き出して、くぐもった声ですすめると、彼女はおずおずと細い指先で一本摘まみ上げた。
その後、辺りを憚るようにさっと見渡したので、寛子は自分が一年だった頃を思い出し、懐かしい気持ちになる。
「……ありがとう……ございます」
ゆっくりと紡がれた礼に、鷹揚に頷き返した時、ひらめいた。
――そうだ。ついでに。
秘密が増えれば、比例して口が堅くなるもの。
関心をめだかから移したいのもあって、寛子はひらっと手招きし、彼女を準備室の戸の前へ連れて行く。
「…………? 先生、会議中なんじゃ……」
当然の疑問を挟む彼女は無視して、スカートのポケットから鍵を出す。戸を開けてみせると、彼女はようやく、敬意のこもった眼差しで寛子を見た。
菓子を咀嚼し終えた寛子は、すたすたと無人の準備室の中に入りながら告げる。
「鍵、預かってんの」
ただの部長特権なのだが、多少、ドヤ感が滲むのは許されたい。
部屋の右奥の流し台のそばにはコーヒーメーカーが置いてあり、科学部部員なら誰でも、他の教諭や生徒に見つからないように、勝手に飲んでいいことになっていた。
寛子はそれを、彼女にも振る舞おうと思ったのだ。
――部外者は、多分いけないんだけど。だめ、とはっきり言われたわけじゃない、思えば。
明確な言葉にはされないまま、強制されているルールが、この世の中には驚くほどある。
その中には、自分が勝手にルールと思い込んでいるものも、きっと多いのだろう。
――どうやって見分ければいいんだろうな。
大人に怒られれば、明確に、いけないことだとわかる。
よって、「怒られたら、怒られた時」という開き直りをもって、寛子は水切りかごから洗ってあるビーカーを二つ取り出し、湯気の立つコーヒーを注いだ。
「ブラック? 砂糖もクリームもあるけど」
数歩後ろで所在なげに立っていた彼女に尋ねる。
彼女は返事をしなかった。
「あ。不良だと思ってるんでしょ。大丈夫、部員みんな飲んでるから。むしろ部費で買ってるから、先生がタダ飲み?」
言って笑ってみせるが、彼女は緊張した面持ちを崩さない。
どうして。何が、気に入らない。
可能性を一通り、考えてみる。
「コーヒー嫌い?」
ふるふるっと首を横に振る。
「飲んだことない?」
少しの逡巡の後、こくりと頷く。
――そうか。そっちか。
思わず、寛子の目尻が緩む。
そうだ。彼女は半年前まで、小学生だったのだ。
――なぁんだ。……かわいいじゃん。
庇護欲のようなものが、少しだけ残っていた反発を消してしまった。
寛子は優しい気持ちで、茶色い薬品瓶に入ったコーヒーシュガーとパウダークリームを、多めに掬って入れてやる。ガラス管でかき混ぜた後、ビーカーの上の方を摘まんで彼女に渡した。
「はい」
「……いいんですか? 私、部員じゃ……」
「いいんじゃない? お客さんだし。でも内緒ね? どーぞ。あ、先生の机とかにこぼしたりしないで」
「……は、い」
座ってくつろげるソファなどはないので、二人立ったままビーカーに口をつける。
寛子はこっそり、彼女の表情を盗み見た。
彼女は無表情のまま、しかしゆっくりとした動きで、ビーカーを口元に運ぶ。液体の正体を確かめるように、鼻を膨らませて匂いを嗅ぐ。ためらう時間を埋めるように、息を吹きかけて冷まそうとする。苦手な味がした時に備えてだろう、少しだけ口に含む。
――そして、想像以上の甘さに、ほっと息が漏れる。
「あ、……おいしい、です」
いい子だ、と寛子は思った。
何が傲岸だ。ただ、舐められないように精一杯、虚勢を張っていただけだ。後から思えばそれだって、年齢相応に不完全だった。
強張った頬、剣呑な瞳、そっけない声。そんなものを纏ってコミュニケーションを拒むようでいて、実際はどきどきと心臓を高鳴らせ、緊張していたのだろう。
今となっては、スケルトンのエビと同じく、そんなすべてが透けて見えるような気がしてくる。
同級生たちは出会った当初から何もかも明け透けに出し過ぎていて、興味すら持てなかった。科学部の後輩たちは、自分たちだけの世界に篭もる内向的なタイプが多く、ごく浅い付き合いしかしていない。
寛子は、初めて、どこか自分と似たところのある――接点を持つことが可能な、妹分のような存在に出会ったのだった。
そして、自分でも意外だったのだが、そのことにひどく、浮ついた気持ちになっている。
――餌付け、か。なるほど、こういう。悪くないじゃん。
もっとつつきたい。構いたい。
甘やかしてもみたい。反応が見たい。
彼女にとって「初めて」のことを、善し悪しは別にして、ひとつひとつ全部教えてみたい――。
年少者への保護欲に、良からぬ気持ちまで加わって、それは寛子が今まで知らなかった高揚へと化学変化するのだった。
寛子がそんなことを考えているとは、つゆほども想像していないのだろう彼女は、教諭の机が密集している部屋の左奥には行かず、入り口付近に戻りながら、コーヒーを飲んでいた。
誰か来ないか、心配なのかもしれない。
そっと横に立つと、彼女は先ほどまでよりずっと気を許したような表情で、寛子を見た。
「この棚も、せんぱいは開けられるんですか?」
……見上げた、とならないのは、悲しいかな身長差のせいで、寛子は態度に反比例して身長が低く、一年生の大半より――
では、なく。
目の前の鍵つきの棚の中には、硫酸や塩酸といった、取り扱い要注意の劇薬ばかりが入っている。
寛子の密かな興奮は、氷水をかけられたように引いていった。
「……さすがに、ここは」
「ですよね」
敢えて重く受け止めずに返答すると、彼女はさらりと納得する。
食い下がることもなかったので、それ以上突っ込んで話を聞くこともできない。
――開けられる、と答えたら、どうする気だったのか。
詳しく聞き出した方が良かったかも、とも思いつつ、自分に扱い切れないものには触れない方がいい気がして、寛子は黙ってコーヒーを啜った。
飲むのが遅い彼女を待って、ビーカーを洗い、準備室を出る。
準備室の鍵を閉める時は、思わずいつもよりも慎重に、施錠できているか確認してしまった。
寛子のそばに立つことに、もう緊張しなくなったらしい彼女が、離れざまに言い残す。
「ここで自習していきます。部活動の邪魔はしませんから」
「……好きにすれば」
その権利が自分にあると疑わない様子の彼女と、これ以上やり合う気はなかった。何より、寛子はこの夏休みに研究をひと段落させており、内部進学なので受験も、部活引退もない。
つまりはとても退屈な日々を過ごしていて、新しい観察対象ができるのは大歓迎なのだった。
彼女はそれから、放課後の生物実験室に顔を出すようになった。
週に三度、多い時は四度。来ると器具棚の横、自分の定位置に座り、授業の復習や予習に精を出し、六時のチャイムと共に片付けをして帰る。
勉強中はほとんど物音も立てないお行儀の良さは、寛子の気に入った。
寛子はつかず離れず、注意深く彼女に接した。
踏み込み過ぎると、彼女は手負いのケモノのように、わかりやすく警戒信号を発する。
そんな頑なさを、寛子はかわいい、と感じてもいたから、危うさに触れない範囲で、ウザがられない程度にちょっかいを出す。
しばらく彼女が勉強に集中した後、ひと息つきたくなった頃合いを見計らって。
あるいは行き詰ったことを見取って、菓子を持って近づく。そして彼女がそれを摘まんでいる間に、ノートに視線を落とす。あくまでさりげなく。
「お、一次方程式だ。懐かしい」
「…………」
「そのノートの取らせ方、イッキシでしょ」
「…………? 田島先生ですけど」
「あの先生、xのこと『イッキシッ!』って言わない?」
寛子が田島教諭の声真似をすると、彼女はくしゃりと笑み崩れた。
「言う! ふふっ……あ、すみません、すごく似てます」
「最初は、しゃっくりか何かだと思うんだよね。『イッキシ!』『イッキシッ!』って何度も聞こえるから、先生風邪かな? って隣の席の子と顔を見合わせて。でも、授業のたびに、『イッキシッ』が……」
「ふっ……! も……やめ……。次の授業で、私だけ笑っちゃうからっ」
ウケたのが嬉しかったので、寛子は調子に乗って繰り返す。
ツボに入ったらしい彼女はお腹を押さえるようにして、息も絶え絶えになるまで笑ってくれた。
「ふふふっ……はぁ……く、苦しいので……そのくらいに……」
「こらぁ、遊んでないでまじめに勉強しな! 後輩」
「もー……せんぱいのせいでどこまで解いたかわかんなくなりましたよ……」
そんな風にじゃれ合って過ごす日もあれば、自分も教科書を開いて、まったく話しかけない日もあった。
しつこく構って、嫌われたくなかったのだ。
彼女が居合わせた日は、めだかの餌やりを任せてやることもあった。念願叶った彼女は、
「わー、食べてる食べてる」
と、嬉々として仕事を果たしたものだ。
「餌あげるの、そんなに楽しい?」
「はい、楽しいです」
「だよね。あ、今日もコーヒー飲む?」
「いただきます。……あれ?」
彼女は間髪おかずに返事をした後、ふと首を捻る。
「せんぱい、私、餌付けされてません?」
「気のせい、気のせい」
寛子は笑って準備室に向かう。
彼女は憮然としながらも、何も言わない。
お行儀が良く、寛子がどれだけ特別扱いしても、一線を引いた態度を崩さない――。
それが彼女だったが、ある日は、生物実験室に現れた時から、雰囲気がおかしかった。
「……せんぱいも」
珍しくシャーペンが動かない様子の彼女を覗きに行くと、あの罅の入っていそうな黒い瞳に、ふいに覗き返される。
「……ん? 何?」
「せんぱいって、私に興味ないですよね」
寛子にとっては、心外の一言だった。
見る目がない。それとも、外から見ると、寛子はそんなに分かりづらいのだろうか。
気に入りでなければ、他人をこれほど近くに寄らせたりしない。
寛子の性格をまだよく知らないから、言える台詞だ。
「……そんなことないよ?」
「あります」
彼女は妙に確信めいて言い切る。
間違いだらけの視野。打ち砕いてあげたくなる。そうすれば、もっと寛子のことが眼中に入るようになるだろうか。
「そうかなぁ。どうしてそう思ったの、長良(ながら)ちゃんは」
「だって名前すら、……え」
思い付きで、初めて名字を呼んでみた。
無意識の計算以上に、タイミングがてきめんにはまった。
彼女の唇が、はくはくと動く。眉間がきゅっと絞られる。
普段、表情に乏しい顔が「信じられない」という色に染まってゆくさまを、至近距離でつぶさに眺めることができ、寛子は眼福だった。
「なん……、で、私の、名前……?」
「ね。何でそう思った?」
呼吸が浅い彼女は、会話の主導権をすぐに寛子に持って行かれてしまう。
アドリブに弱い。
彼女の中では、寛子を問い詰めるための話の組み立てが、既にできていたのだろう。その立ち上げを寛子のまぐれに挫かれて、ずたぼろになっている。
自分の勝ち筋を見失った彼女は、ただの無力な一年生だった。
「何で、って……。だって、私のこと、何も……名前は知ってた、みたいですけどっ。せんぱい、訊かないじゃないですか、毎日、何しに来るんだ、とか」
「自習、でしょ? 最初に宣言してたじゃん」
「そう、ですけどっ……。ここ、自習用の部屋じゃないし」
「生物実験室だねぇ」
――よく知っていますとも。
寛子は満面の笑みで応じる。
「~~~っ……勉強なら図書室でやれ、とか、教室でやれ、とか、家帰れば、とか」
「やれるなら、そうしてるでしょ。できない理由があるんだと思ってるけど?」
「その理由は何か、とか、訊きたくならないの……?」
「訊いたら、喋りたくなるの? 長良ちゃんは」
「~~~~~っ……」
間髪入れない寛子の返しに、彼女はとうとう言葉を失う。
唇を噛み締める顔まで見れて、今日は良い日だ。
「喋りたいなら、いつでも聞くけど」
――だって、最初から、下手に干渉されたくない、って空気を醸し出してたし。
そこから心境の変化があったのなら、確実に、寛子への好感度が上がっていっているということなのだろう。
良い傾向だ。勝手に口の端が持ち上がってしまう。
彼女はシャーペンをノートの上に転がし、ふい、と視線をそらした。勝ち誇る寛子の表情を見たくないのかもしれない。
「……別に、喋りたいってことはないです、けど……。私の名前、どこで調べたんですか?」
「サブバックの刺繍ネーム」
「あ――……なぁんだ――」
単純な種明かしが意外だったらしく、彼女は頭を抱えた。
完全に盲点だったのだろう。
寛子は学校指定のサブバック、その側面に刺繍してある名字を、彼女が持っている日に何気なく盗み見ただけだった。
「靴履き替えた後に下駄箱を見る、とかもできるし、学校ってプライバシーがない場所だよね。気を付けないと」
名探偵でも何でもない寛子が白々と言うのが、追い打ちになるのだろう。彼女は自分の髪をくしゃりと右手でかき回す。
「もー……やだ……くそ、かっこわるい……」
まじめな彼女が不慣れに汚い言葉を使う姿は新鮮だった。
寛子は満足感でいっぱいだったが、思えばそれは、支配欲に近しい感覚かもしれない。
自分とのかかわりが、彼女を、変えていく。
相手を染め変える、どこか後ろ暗い、悦び。
――だけど当然、意地悪するだけでは、だめで。
寛子は座っている彼女の頭のてっぺんに、慰めるように触れた。
お互い立っている時ならば、寛子が絶対に触れない場所。
嫌がったらすぐやめる、と思ったけれど、彼女はされるがままだった。
否、少し緊張して、様子を窺っているような気もする。
どうして、と。
相手が思っているかもしれない。そう思って、しかしそれは寛子の鏡写しの感情なのかもしれない、と思い直す。
――どうして。どうして。……何がしたいの?
――変えたいの?
今なら、どちらが発した言葉でも、行為でも、どうにでも、関係が振れる。安全な方にも、危うい方にも。
これはきっと、そういう時間なのだった。
しかし、お互いに、様子見をして、動かない。
とりあえず、寛子は、「妹分」を甘やかす方に舵を振った。それが無難だ、という直感に従ったのだ。
「……そんな、落ち込まなくても。私だって、長良ちゃんが言いたいと思ってないのに、変に探ったり、聞き出そうとしたり、したくないのさぁ」
「…………」
「興味がないなんてことはないよ」
「……ほんとう?」
「ほんと、ほんと」
「うそっぽい……」
「そんなことないって。だって関心がないとさぁ……」
落ち込む彼女をフォローしなければ、と思って言葉を探そうとしたのだが、それが案外、難しい。
考えて、考えて――寛子の唇は、そこで動きを止めてしまう。
――なんだろう。この苛立ちは。
「……関心がないと?」
「そりゃ、……同じ空間にいるのも嫌でしょ。ほんとにやだって思う子だったらさ」
言いながら、まずいな、と寛子は思っている。おそらく、自分は選ぶ言葉を間違えた。
案の定、彼女は拗ねたように唇を引き結ぶ。
「……そこまで嫌われているなら、問題外、ですね」
――ほら、やっぱり。
予想が当たって後悔したが、もう遅い。
彼女は、必要最低限、以上の好意を欲しがっているようだった。
しかし、一口に好意と言っても、それが難しい。
かたちにして見せられるようなものではないのだ。
適量を間違えれば、引かれる。部活動や学年と言った、わかりやすいつながりや共通の思い出がないのだから、端的に言って、同じ学校に通う他人でしかない。
好意の基盤として、誰でもわかるかたちで表現できる、言葉が思いつかなかった。
『あんたのことが、すごく気になる。日に日に存在感が大きくなる。それだけ。文句ある?』
……もしも寛子が少女漫画に出て来るイケメンなら、そうやって言い切れば良かったのかもしれない。
言われた方は頬を赤く染め、ハッピーエンド。付き合うなり、結婚するなり、後は好きにすれば良い。
――しかし、寛子も彼女も、女の子。
これは恋愛関係とは違うものだ、と、とりあえず反射的に頭で否定してしまう。
どうするのが良いのか――考え、考えれば考えるほど、寛子の中で苛立ちが募った。
どうして自分ばかりが、こんなことで悩まなければいけないのか。
――ああ、もう!
寛子はそこで思考を止めてしまった。
「……めんどくさいよ、長良ちゃん。そういうの、すごく、めんどくさい」
「……え……」
溜め息交じりに押し出した寛子の低い声に、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「せんぱい、話聞いて、って素直に言うんじゃだめ? そうやって内向きのまま、ちらちらと気を引いて、楽しい? 私ははっきり言ってもらった方が、いいんだけどな。『黙っててもうまく察して、ご機嫌取って』……それは、構ってちゃん、と言う」
感情は抑えようとしたけれど、不機嫌はどうしたって声に出る。
欲しがるばかりで、努力しない。そんな子どものおねだりを広い心で受け止められるほど、寛子も大人ではないのだ。
特に、彼女が欲しがるものは、そこらに転がっているものではないのだから。あまり無理を言われると、困ってしまう。
「そういう……つもりじゃ……」
彼女は消え入りそうな声で呟く。その後も少し唇を動かしていたが、声にはならなかった。
「もう……暗いなぁっ。違うなら、ちゃんと言い返してきなよ」
「……すみません……」
俯くと、前髪で目が隠れてしまう。そこから輝くものが落ちて、制服のスカートに、ぱたり、と丸いしみができた。
――私が泣かせたみたいだ。いや、泣かせたんだろうけど、こんなことで泣くなよ……。
勝手な言い分かもしれないが、
――言い返しもせずに、すぐに泣くなんて、ずるい。
と、咄嗟に相手を責めたい気持ちが浮かび上がる。
人を泣かせたことは、初めてではなかった。
幼少の頃は、口達者な寛子が何か言うと、喧嘩相手がすぐ泣き出した。そうなると、喧嘩の原因や経緯などは関係なく、大人は寛子が悪いと決めつけて叱る。
性質が悪い子などは、泣けば勝ちだと学習していて、目立つように泣き真似をしては、大人たちの気を引いていたものだ。
そんな苦い思い出があるものだから、すぐに泣く人間は、好きではない。
寛子の好悪の基準で言えば、はっきり、そうと決まっている――筈だったのだけれど。
「んー……」
しかし、この場をどうしたものかな、と腰に手を当て、思案する。
彼女は、濡れた目元を、何度も手で拭っていた。
すみません、と、喉に何かが引っ掛かったような声で繰り返す。
それを見ていると、二学年も下の、しかも気に入りの子を泣かせてしまった罪悪感で、寛子も滅入って来るのだった。
――こんなことで、気まずくなって、終わり……?
寛子がこれだけ関心を寄せられる、希少な存在なのに。
好き嫌いで裁けば、一瞬で、切れてしまう関係。
今まではそれで、別に困らなかった。だが。
「……ごめん。長良ちゃん。言い過ぎたかも」
「……いえ……」
寛子は謝ることにした。
悪いことをした、と心から思ったわけではなかったが、それでも、一緒にいる時間の中で、これだけ居心地の悪い空間を作った責任の、少なくとも半分は自分にある。
「はっきり言い過ぎるんだよね。私。きつかったかな」
「いえ……今日、私もなんか、グラグラしてて。その、精神的に。……めんどくさい、って、おっしゃる通りだと……思います。でも、……すみません、これ、止まらなくって」
震える声の合間に、ぐず、と、鼻が鳴る。
寛子は準備室に行き、ボックスティッシュを取ってきた。それを彼女の前に置いて、できるだけ柔らかく告げる。
「……ちょっと、冷却期間、置こ。お互い。落ち着いてから話そう。……いい?」
彼女はティッシュで鼻を嚙みながら、二度頷く。
それを確認してから、寛子はその場を離れた。
窓際にひとつだけある扉からベランダに出て、汲み置きの水を入れたバケツを取り込む。
太陽光を浴び、砂埃舞うグラウンドでボールを追っているユニフォーム姿の男子たちを見下ろしながら、吹奏楽部のパート練習に耳を傾けていると、先ほどまでの気持ちの閉塞感が吹き飛んだ。
生物実験室に戻ると、自分のかばんから出した食べかけの菓子のパッケージを、まだ泣いている彼女のそばに積み上げる。
「今日は水替えしなきゃだから。これでも食べてて」
声に、彼女は再び、二度大きく頷いた。
寛子は取り入れたバケツの元へ戻ると、ヒーターで中の水をあたため、人工海水の素を計り入れる。
水槽のめだかを、作ったばかりの水溶液に移すと、汚れた水槽を洗い場へ持って行き、スポンジでごしごしと擦った。
制服を汚さないように水仕事をするのはなかなか大変だ。
集中して洗い、水溶液ごとめだかを水槽に戻す頃には、それなりに時間が経過していた。
西日の差し込む中で、彼女は姿勢良く座っている。もう目元は拭っていない。どこか虚脱したようにぼうっとしていたが、寛子が近付くと、わずかに笑ってみせた。
「すみません。せんぱい。ご迷惑、おかけしました」
「こちらこそ。落ち着いた?」
「はい。……泣くと、疲れる」
目元と鼻が赤い。使ったティッシュ何枚かが、拳に握り込まれている。菓子には手がつけられていないようだった。
「なんか、食べなよ、」
勧めつつ、寛子もクッキーに手を伸ばそうとした。その時だ。
空気の読めていない、今のこの場には乱暴すぎる音を立てて、生物実験室の戸が開いたのは。
「しつれーしまぁす」
話の途中なのか、大きな声の後ろでげらげらと笑い声までする。
姿を見ずとも寛子にはわかった。科学部の二年生トリオだ。
彼らは、繊細に織り上げられた仲直りの雰囲気を粉砕した罪に気付かないまま、部屋の中まで入って来、寛子と彼女に気付いた。
「お、え……? っとぉ」
「アッ……すんまそん」
漂う「取り込み中」の緊張感を感じ取ったのか、彼らの先輩である寛子に睨まれてまずいと思ったのかはわからないが、彼らは口を閉ざし、お互いの顔をなんとなく見合っている。
やがて一番のお調子者が、他のふたりを先導するように、
「しつれーしましたぁ」
と言って、出て行った。がらがらぴしゃり。戸が閉まる。
彼女は窺うように、寛子を見上げた。
「……あ、同じ部活の? ……ですよね。すみません。部外者は、出て行きます、ので……」
見えない糸に操られるように立ち上がり、彼らの後を追おうとする彼女を、寛子は慌てて追いかけ、手首を握った。
骨のつくる窪みにどきり、とする。
けれど、その動揺は面に出さないようにして。
「出て行かなくていい」
「でも……」
「いい。あいつらより、あなたの方が、大事」
口が滑った。行き過ぎた言葉だっただろうか。どう考えてみてもそうだ。だが幸い、今の彼女は細かい言葉のニュアンスを吟味できるほど万全の状態ではないようだった。
細かくまばたきして、逡巡した後、寛子に問う。
「……でも、あの人たちも何か用事があったのでは?」
寛子は首を捻った。
「いや~……科学部としちゃ、夏休み明けに大きめのレポート提出して、研究がひと段落している時期なんだよね。あの子たちも、多分コーヒー飲みに来ただけ……あっ!」
素で忘れていたので、声が裏返りそうになった。しまった。
「まっず。そうだ、先生の出張のおみやげが、準備室にあるんだ。それを取りに来たんだな。あいつら。悪いことしたな……」
寛子はかしかしと頭を掻いた。
流石にフォローが必要のようだ。
「長良ちゃん、ごめん。ちょっと三階行って、渡してくるわ」
ばたばたと準備室に入り、みやげもののひよこの銘菓とコーヒーを三セット用意していると、おずおずと彼女が入室してきた。
「私、届けてきましょうか」
「えっ?」
「おみやげ。後輩さんたちに」
早く片付けてしまおう、と手を動かしていた寛子は吹き出しそうになってしまった。あの子たちも、彼女にとっては、先輩だ。
「いい、いい。あれでビビリだから、知らない女の子来たらキョドっちゃう。さっと渡して来るから、待ってて。いい? 帰らないで待っててね」
以前、劇薬に反応していた彼女を、準備室に残していくわけにはいかない。その手に寛子たちの分の菓子を押し付けて、一緒に部屋を出、鍵をかける。
寛子が化学室にいる後輩の元へ行って戻ってくると、彼女は定位置に座っておとなしく待っていた。目の前に、二匹のひよこを鎮座させているのが、何だかとてもかわいらしい。
「お待たせ! 渡してきたよ。私たちも、食べよ」
彼女の向かいに腰かけながら、早速銘菓に手を伸ばす。
「いえ、私は……」
「あれ、嫌い?」
「科学部の人たちへのおみやげでしょう?」
「いや、長良ちゃんの分もあるから」
「……何故?」
彼女はまた、ぴり、と警戒をめぐらせる。寛子はわざと大雑把に菓子の包装を向いて、あぐ、と頭からかじりついた。
「いや、顧問が……いつも来ている子にも、あげていいって」
「私のこと、見えてないのかと」
「いや、ああいう人、立田先生。生徒に干渉しないの。でも見てる」
立田教諭が放課後、準備室に出入りする時はある。彼女がいる時にも、何度か部屋の端を素通りしていたが、忙しそうな歩調と周りに目もくれない態度から、認知されていないものと彼女は思ったのだろう。
「……何か言ってました? 私のこと?」
「いや? 別に。ビーカーの数でコーヒー飲んでることも薄々察しているだろうけど、何も」
「……そのうち入部するものと思っているのかな……」
「そんな考えてないと思うよ、箱買いだし。食べたらいいと思う。泣くとお腹すかない?」
寛子が何度か促すと、彼女はまるでみかんの皮をむくように、ていねいに包装をはがした。まだ、少し逡巡している。
「……いいですね、科学部。色々と特典があって」
「でしょう。入ってもいいよ? 高校とは棟が違うし、気楽で拘束が少ないし」
彼女は重い溜息をつく。
「特典目当てってわけにはいきません。あーあ、帰宅部の部室がないの、何ででしょう……同じ学費を払っているのに」
「いや、帰宅しろよ」
「帰宅、したくない時に、人目に触れずに、時間潰せる場所が欲しいです。教室はうるさい人がいたり、図書室だって……」
「…………」
「……居場所があるの、良いですね」
彼女は時々、静電気を宿す。それが内側の熱や涙や周囲の摩擦とまずいタイミングでぶつかると、いずれとんでもない化学反応を起こしそうで見ていられない。そんな危うさがあるのだった。
「居場所なんて……あるなしじゃなくて、今自分がいる、ここ、でいいんじゃないの? 難しく考えなくてもさ。『ここにいていけない理由なんかない』ってさ。最初はメンチ切ってきたじゃん」
「……そんな喧嘩腰じゃないし……似てないです。まじめに聞いてください」
出会った時に言われたことを、声音を誇張して混ぜ返すと、彼女はあきれた顔をして唇を曲げる。
仕方のないせんぱいだ、と顔に書いてあるようだ。
「いやぁ、私ってば生まれながらの不まじめで」
「せんぱいみたいな人には、わかんないです。そこにいてもいい、ってちゃんと認められないと、息もできない、苦しさ」
「……そんなものかな」
「そんなものです」
できる限り、こまめに放散させてあげられたらいいのかもしれない。まともに受け止めたらこちらが怪我をしてしまいそうだから、吸い取ったり、いなしたり、受け流したり。工夫をして。
――うまくそれができるかは、わからないけど。
時々、彼女の精神をグラグラさせるもの。その原因を寛子が知ったのは、それから何週間か後の休憩時間だった。
肌寒い日だったのでカーディガンを着ようと思ってロッカー室に入ったところ、声が飛び込んできたのだ。
「長良ぁ。お前、いい加減にしろよぉ」
「目障りなんだよ。やる気あんの?」
入り口からは死角になっていてわからないが、奥の方で、女子集団がひとりの子を問い詰めているようだった。
――名前からして、もしかして……。
と思う前に、知っている硬質な声が、集団の声を弾いた。
「やる気? ない。出るわけない。あんたたちなんかと」
寛子は、これほどまでに完璧な『火に油を注ぐ発言』を聞いたことがなかった。軽蔑的な声音と言い、遠慮のない物言いと言い、人を煽るのにこれほど効果的なものは、知らない。
――事情も経緯も知らないけど、あなたが悪い、長良ちゃん。これは完全に、敵しか作らない行動!
それはかつて幼少の寛子が軽蔑した「大人」と似た思考回路だったが、咄嗟にそこまでは思い至らない。
一拍遅れて、ロッカー室は蜂の巣をひっくり返したような大騒ぎになる。感情的な罵詈雑言がぶつかり合って聞き取れない。
寛子は思わず、渦中の方へ足を向けていた。
ロッカーの影から、やがて、見えてくる。一年生が十人弱、長身の彼女を囲んでいた。皆、幼い顔立ちだが、気は強そうだ。
寛子は歩みを止めず、すたすたと、輪に近付いて行った。
一年生たちは、寛子に気付くと、一様に戸惑いを浮かべる。
怒りのせいか、自分たちで世界が完結していたようで、外から介入があるとは思ってもみなかったのだろう。
周囲が虚を突かれているのをいいことに、寛子は輪の中にいる彼女を、ちょいちょい、と手招き、明るい声を押し出した。
「長良ちゃーん! ちょうど良かった。ルーズリーフ、貸してくれない? さっきなくなっちゃったんだよね~」
「え……」
「早く! 休憩時間終わっちゃう」
声に押されて輪から外れかけた彼女の、腕をするりと取って、来た方へ引き返す。
「今、話し合いの最中……」
「しっ」
彼女は不服そうだったが、無理やり黙らせた。
これはもう話し合いの空気ではない。
このまま頭に血が上った少女たちの攻撃を大人の目が届かない場所で受け続けるより、一度逃げた方がいいと思ったのだ。
それに、彼女に敵が多いのであれば、親しい上級生がいるらしい、と示しておくことも、それほど悪手ではない筈だった。
汀野大学附属は、名門とは言えないが、受験を潜り抜けないと入れない私立の一貫校だ。将来についてはまじめに考えている学生が多い。在学中に問題を起こして処分を受けたい子などいない筈だ。
寛子は下級生に顔が利くタイプではなかったが、それでも、ないよりはましだろう。そう、思ったのだが。
「今度は不良の先輩に取り入っちゃって!」
「はー、もう、いいよ、あんな子、無視無視」
寛子の予想よりは気骨のある一年生で、黙って寛子たちを見送ることはせず、捨て台詞のようなものを背中にぶつけてきた。
彼女が、ぎしっと腕を突っ張らせる。
寛子は言わせるままにしておいた。別に、不良ではないのだけれど、そういう見方には慣れている。
それよりも、彼女の態度の方が気にかかった。
ロッカー室の外に出たところで、彼女は、
「もう、いいでしょう」
そう言って、寛子の手を振りほどき、一人で階段を上って行ってしまう。同級生にされたことよりも、寛子が介入してきたことの方が不快だったのではないか、と思わせる、孤高の背中だった。
感謝されたい、とは思わなかったが、彼女の立場が更に悪くなるようなことに加担してしまったのかなぁ、と思えば、罪の意識で、寛子は彼女の後をそれ以上追えなくなってしまうのだった。
「部の同級生と、うまく行ってないんです」
もしかしたら、二度と彼女は生物実験室に来ないのかもしれない、と思っていたから、その日の放課後すぐ現れて、しかも寛子の定位置まで来て、開口一番そう言ったのには、寛子も度肝を抜かれてしまった。
「……何、いきなり。目がコワイよ、長良ちゃん」
「変なところ見られたし、説明義務があるかと思いまして」
長身の彼女に至近距離で見据えられると、圧を感じてしまう。
――泣いたり、すごんだり、わからない子だな。わかるけど。
きっとわかる気がする、という予感はあるけれど、時々、外れる。
だから、話が聞きたいと言うのは、確かだった。
「長良ちゃん、何部なの?」
「バスケ部です。今日ロッカー室で一緒にいた子たちも、そう。でも、もう部活辞めるつもりで、ずっと休んでいるんですけど。何が気に食わないのか、あれこれ文句つけて来て」
「そっか……」
「なかなか退部できないので、科学部には、入れません」
「そんなしつこく勧誘してないだろっ。失礼な」
それから彼女は、事情をかいつまんで説明した。小学生の頃からミニバスを続けていて、その延長で中学でも女子バスケットボール部に入ったこと。長身で経験者の彼女を、二年生と三年生が目に見えてチヤホヤし、他の新入生の反感を買ったこと。「話し合い」をすればするほど断絶が深まり、今ではクラスの女子にまで嫌われていること。
「嫌われるのは慣れてるんです。だけど……。何でしょう、学校って変なところ。お弁当をひとりで食べていたら先生に心配されるし、英語や体育では毎回、二人一組になれとか言われて、だけど私と組みたい子がいなくて、クラス中が気まずくなっちゃう。授業が進まない。私はひとりで、何にも困らないんです。誰の邪魔もする気はないのに、迷惑って言われても心外。普通に勉強して、運動したいだけ。授業料を払っているんですから、当然の権利じゃないですか?」
「……うーん、それは……いじめとは、違うの?」
ただの先輩にしては踏み込みすぎだろうかと思ったけれど、大事なことだと思うので確認した。直球なのは、うまく婉曲に聞き出せる自信がなかったからだ。
彼女は、その質問をされることがあらかじめわかっていたかのように、落ち着いて答えた。
「違うと思います。ニュースで見るような、ひどいいじめは本当に、なくなるべきだと思う。助けて欲しいと言った子は、大人が助けるべきだと思う。……だけど私は、放っておいて欲しい。どうせ、どこに行っても浮くんです」
「『協調性を養う』ってやつをしなくちゃいけないんでしょ。学校は。知らないけど」
「あんな頭の悪い人たちと、将来関わる気、しません。社会に出て会社に入ったら……その時は自分が本当に付き合いたい人と、付き合う。実力がないのに人の足ばかり引っ張りたがる、ああいう子たちと歩調を合わせてたら、そういう場所へ行けないじゃないですか」
一方的に拒絶されているわけではない、こちらでも選んだ結果だ、ということなのだろう。
確かに、いじめとは違うのかもしれない。そして、あからさまに侮蔑を向けて来る彼女のことを、嫌う子たちの理屈もわかる。
……と寛子には思われるけれど、そう言い切っていいのかどうかわからなかった。聞いたことは、全部彼女の主観。事実と違うことが混ざっていたり、虚勢の可能性だってある。
とにかく、孤立した彼女は、クラスの子の目がある教室や図書室には長くいられず、しかし家に帰れば、部活に出なくなったことを親に告白しなければならない。登下校中の寄り道は校則で禁止されている。
窮した彼女の選択が、空いている特別教室で下校時間までやり過ごすことだったのだ。
「……誰も組んでくれなくても、いいものですよ。先生が組んでくれたら、マンツーマン授業です。同じ授業料で。……かわいくない一年、って、思ってるんでしょ、せんぱい」
自嘲の笑みを浮かべる淡色の唇に見とれながら、寛子は返した。
「いや? なんかどうしようもなく、かわいいなって」
「え?」
「あなたと同学年の子は、このかわいさがわからなくて気の毒、って思ってる。将来、後悔するかもね。年上で良かった」
「………………」
悪ぶって肩をそびやかした彼女が、寛子の言葉で、毒気を抜かれたように黙り込む。
「ご不満?」
「……不満と言うか……一周回って、バカだと思われてるんだな、って、へこみそうになります。せんぱい、私、これでも一生懸命考えて、整理してきて、喋ってるんですけど……」
「かわいい。好き」
「なんか、これじゃない感……」
寛子の方が最上級の肯定表現をすればするほど、彼女はへこんでいってしまうのだった。
「まあ、無理するのは確かに良くないし……さっさとバスケ部辞めて、科学部来たら良いんじゃない?」
「そんなのバレたら、今度は何言われるか……」
溜め息をつく彼女に、そう言えば、と寛子は思い出す。
「何? あっ、『不良の先輩』?」
自分を指してへらへらと笑って見せると、彼女は肩を揺らした。
「……私は言ったことないですからね。一年、まじめなので。そんな髪を茶色くしてスカート短くしてる人、いないから」
「よく間違えられるけど、これ、髪の毛は地だからね。親もそうなの」
スカートは自分でウエストを折って短くしているけれども。
「黒染めしろって、生徒指導の先生に言われません?」
「染髪禁止されてるし……。もう諦められたんじゃないかな。言われないよ」
「……それに、私は思いませんけど。あの子たち、陰口すごいから。科学部なんてくさいとか、キモいとか、絶対言われそうだなって」
「そうなの?」
「……瓶底眼鏡のオタクが白衣着て、かえるの解剖とかやっていそうなイメージなんじゃないですか?」
「ああー、なるほどね。まあ、やりたかったらできるよ、かえるの解剖も」
科学部に人気がない理由を端的に教わり、寛子は、納得しかなかった。
――まあ、言いたい人は、言わせておけば。
そう割り切っている寛子の内心を見透かしたように、彼女はまた、「せんぱいみたいな人には、わからない」という目をした。
何故か寛子の胸を疼かせる、傷だらけの眼差し。
「……私は、自分の選んだ場所にいたい。染まりたくない周りに、染まらないままで。普通に、息がしたい。どこにいても、苦しい」
「……いきもの……」
彼女の独白を聞いて、ふと寛子の口をついて出たのは、率直な感想だった。聞いた彼女は、眉を顰める。
「どういうことですか?」
「気に障ったらごめんね。前読んだ本のこと、思い出して」
「本?」
「植物の本。知ってた? 植物って会話するんだって。知ってた? 会話って言っても、人間の言葉を喋るわけじゃない。有名なのは、動物や昆虫の食害を受けた木が、その傷口から防御物質を分泌したり、周囲の木へ警戒信号を出したりする、っていうのとか。化学物質を出して、他の植物の生育を邪魔したりもするらしい」
「……へえ」
「動かない植物だって、『空気』を読んでナワバリ争いをするんだよね。そりゃ近くに背の高い植物が来れば、太陽光は当たらないし、枝がぶつかるし、迷惑なわけ。……肉食動物なんて、もっとシビアに、今日、明日、食べて生きるための蹴落とし合いをするわけで。愛おしいまであるよね。必死だなぁって。だからヒトも、法律や常識を守らないのは論外だけど、嫌な匂いを出して攻撃してくるくらいは……まあ生物だから……争いが起こるのは仕方ないかって」
これで、寛子の言いたいことが、伝わるだろうか。
不安だったが、彼女の戸惑う顔を見て、ますます自信がなくなった。
「……葉っぱや肉食獣と一緒にされましても……」
「だよね。ごめん。私は嫌じゃないんだけど。嫌だよね、くくられるの。多分、こういうところなんだよね、科学部がキモいって言われるのは」
寛子からすれば、体育会系の部活に所属している子の方が、強制もされないのに運動をしたがる変人ということになるのだが、こういうものは、人の数だけ見方があるのだろう。
彼女の目にも、やはり気持ちが悪いものに見えているだろうか。
しばらく考え込むような顔をしていた彼女だが、
「……ナワバリ争い、か……。同情されるより、良いです」
そんな理屈で、寛子の暴論を許してくれることにしたようだった。
彼女を取り巻く環境は、なかなか良くならないようだった。
当人が、
「もう、どうでも良くなって来ました」
と割り切って話すので、寛子もそれ以上何もできないのだが、移動教室の時などに、誰とも話さずひとりでぽつんと歩いている彼女を見て、寛子の方がつらくなったこともある。