ぎりぎり上級生に対して敬語らしきものは使っているが、持ち前のものらしい傲岸さは隠せていない。
 生意気、ではあるが、無防備でもあるのだ。
 これでよく今まで上級生に目をつけられなかったものだ、と感心すらする。
 希少種だ。
 そういうものは、嫌いではない。
 まして、三年で一番スカート丈が短く、何度も染髪を疑われるほどの茶髪で、態度が大きい寛子に対して、一歩も引かない。
 見どころがある、と言えるのかもしれなかった。
「うん、寝てた。もう世話終わったからさ」
 寛子が認めて指で水槽を示すと、彼女は少し目を輝かせた。
「せんぱいの、めだかなんですか?」
 やはりほとんど藻で濁って何も見えないかめの水槽ではなく、その横に二つ並んだ、めだかの水槽が気になっていたようだった。
「私が育てて、データ取ってる。科学部の活動って、化学だけじゃないからね」
 音だけだと混ざってしまいそうだな、と思いながら伝えると、彼女は少し顎を引いた。
「私も、めだかに餌あげてみたいです」
「……毎日はあげないんだよ。お腹壊しちゃう」
 彼女の関心の行く先に、寛子は少し緊張する。
 ――部外者が餌をあげちゃいけない理由、何かあるんですか、とか、さっきみたいに詰め寄られたら、困るな。
 子どもに毛が生えた程度の中学生は、小さな生き物に対して、驚くほど無邪気に残酷なことがある。移動教室で訪れた生徒たちが遊び半分で水槽をいじるので、寛子も世話の後、餌や網を放置しないように気を付けていた。
 生き物に対する慈愛ではない。
 ストレスで死なれたら実験結果に差し障るというのが大きいが、見た目は無害でおとなしそうな後輩たちが、引くほどひどいことをやってのけるのは、ちょっとしたトラウマでもあった。
 半分無意識だったが、世話が必要ない日も様子を見に来るのは、そうした悪戯に手を焼いた過去があるからかもしれない。
 顧問に相談し、水槽の蓋が簡単に持ち上がらないようにしてもらって以降、悪戯の被害は減っていたが、
 ――この子も、もしかしたらそのうちのひとりかも。目が、罅(ひび)の入った氷みたい。
 感情のはけ口が必要になるほどに、張り詰めていて、危うい――。
 寛子は意識して肩の力を抜くと、わざと無造作に自分のかばんを漁った。
 ノートの隙間に入っていた開封済みのコンビニ菓子を手に取り、そのまま突き出す。
「食べる?」
 彼女はきょとんと目を丸めた。寛子の行動が、意外だったのかもしれない。
「……でも、校則……」
「これくらい大丈夫。三年になれば誰も守らないから」
 一度自分の方に戻し、パッケージの上部を開いて振る。棒状のチョコレート菓子の先端が、三、四本、顔を出した。
 そのうちの一本を、寛子は摘まみ、自分の口に放り込む。
「ほら」
 再度、紙箱を突き出して、くぐもった声ですすめると、彼女はおずおずと細い指先で一本摘まみ上げた。
 その後、辺りを憚るようにさっと見渡したので、寛子は自分が一年だった頃を思い出し、懐かしい気持ちになる。
「……ありがとう……ございます」
 ゆっくりと紡がれた礼に、鷹揚に頷き返した時、ひらめいた。
 ――そうだ。ついでに。
 秘密が増えれば、比例して口が堅くなるもの。
 関心をめだかから移したいのもあって、寛子はひらっと手招きし、彼女を準備室の戸の前へ連れて行く。
「…………? 先生、会議中なんじゃ……」
 当然の疑問を挟む彼女は無視して、スカートのポケットから鍵を出す。戸を開けてみせると、彼女はようやく、敬意のこもった眼差しで寛子を見た。
 菓子を咀嚼し終えた寛子は、すたすたと無人の準備室の中に入りながら告げる。
「鍵、預かってんの」
 ただの部長特権なのだが、多少、ドヤ感が滲むのは許されたい。
 部屋の右奥の流し台のそばにはコーヒーメーカーが置いてあり、科学部部員なら誰でも、他の教諭や生徒に見つからないように、勝手に飲んでいいことになっていた。
 寛子はそれを、彼女にも振る舞おうと思ったのだ。
 ――部外者は、多分いけないんだけど。だめ、とはっきり言われたわけじゃない、思えば。
 明確な言葉にはされないまま、強制されているルールが、この世の中には驚くほどある。
 その中には、自分が勝手にルールと思い込んでいるものも、きっと多いのだろう。
 ――どうやって見分ければいいんだろうな。
 大人に怒られれば、明確に、いけないことだとわかる。
 よって、「怒られたら、怒られた時」という開き直りをもって、寛子は水切りかごから洗ってあるビーカーを二つ取り出し、湯気の立つコーヒーを注いだ。
「ブラック? 砂糖もクリームもあるけど」
 数歩後ろで所在なげに立っていた彼女に尋ねる。
 彼女は返事をしなかった。
「あ。不良だと思ってるんでしょ。大丈夫、部員みんな飲んでるから。むしろ部費で買ってるから、先生がタダ飲み?」
 言って笑ってみせるが、彼女は緊張した面持ちを崩さない。
 どうして。何が、気に入らない。
 可能性を一通り、考えてみる。
「コーヒー嫌い?」
 ふるふるっと首を横に振る。
「飲んだことない?」
 少しの逡巡の後、こくりと頷く。
 ――そうか。そっちか。
 思わず、寛子の目尻が緩む。
 そうだ。彼女は半年前まで、小学生だったのだ。
 ――なぁんだ。……かわいいじゃん。
 庇護欲のようなものが、少しだけ残っていた反発を消してしまった。
 寛子は優しい気持ちで、茶色い薬品瓶に入ったコーヒーシュガーとパウダークリームを、多めに掬って入れてやる。ガラス管でかき混ぜた後、ビーカーの上の方を摘まんで彼女に渡した。
「はい」
「……いいんですか? 私、部員じゃ……」
「いいんじゃない? お客さんだし。でも内緒ね? どーぞ。あ、先生の机とかにこぼしたりしないで」
「……は、い」
 座ってくつろげるソファなどはないので、二人立ったままビーカーに口をつける。
 寛子はこっそり、彼女の表情を盗み見た。
 彼女は無表情のまま、しかしゆっくりとした動きで、ビーカーを口元に運ぶ。液体の正体を確かめるように、鼻を膨らませて匂いを嗅ぐ。ためらう時間を埋めるように、息を吹きかけて冷まそうとする。苦手な味がした時に備えてだろう、少しだけ口に含む。
 ――そして、想像以上の甘さに、ほっと息が漏れる。
「あ、……おいしい、です」
 いい子だ、と寛子は思った。
 何が傲岸だ。ただ、舐められないように精一杯、虚勢を張っていただけだ。後から思えばそれだって、年齢相応に不完全だった。
 強張った頬、剣呑な瞳、そっけない声。そんなものを纏ってコミュニケーションを拒むようでいて、実際はどきどきと心臓を高鳴らせ、緊張していたのだろう。
 今となっては、スケルトンのエビと同じく、そんなすべてが透けて見えるような気がしてくる。
 同級生たちは出会った当初から何もかも明け透けに出し過ぎていて、興味すら持てなかった。科学部の後輩たちは、自分たちだけの世界に篭もる内向的なタイプが多く、ごく浅い付き合いしかしていない。
 寛子は、初めて、どこか自分と似たところのある――接点を持つことが可能な、妹分のような存在に出会ったのだった。