「私の方が本気なのに。せんぱい、楽してる。ちゃんとしてない、と向かい合わずに、傷つかないで、勝ちっぱなし……」
「勝ち負けじゃないでしょう、こんなの」
 少し呆れたような、見透かしたような、軽やかな寛子の声の響きに、心臓を包み込まれる。
 ――ほら、また。慎重な方が主導権を握るべきなのに、どうしてせんぱいが遊ぶの。強いの? 圧倒的に。
 小学生の頃、父と乗った、カヌーのことを思い出す。
 必死に漕げば漕ぐほど、舟の下でうねる波が、進路を狂わせる。
 落ちれば溺れるかもしれなくて、絶対に冷たい。そしてひどく深い。世間は水だ。
「……私ばかり好きで、私ばかりガタガタ……」
「私がガタガタになるところなんて、見たくないでしょ? きっと幻滅するよ」
「ならないくせに」
 改めて少し体を離して見ると、寛子は何とも言えないような表情をしていた。それでも、乱れない。彼女は自分の場所に、錨をきちんと下ろしている。一佳と一緒に迷子にはなる気はないのだろう。
 一佳はやり場のない思いで、唇を噛む。
 力加減ができなくて、血の味が滲んだ。
「少し落ち着いたら、長良ちゃん。思い詰め過ぎ」
「……そう。悪い薬でもやっているみたい。こんな恋、したくなかった。最高に格好悪いの、どうしたら?」
「血の気が余っているねえ……。とりあえず勉学はしておきなさい、身を助けるから」
「させてくれないくせに……」
「私は何にもしてない」
 ――こんな薄情な人、嫌いになりたい。
 そう思って睨むけれど、正視がつらいくらい、好きだ、と思う。
 発光しているみたいに眩しくて、一瞬、一瞬の表情が目に焼き付いて、見たことのない顔は全部見たい、と思い。そして授業中でも真夜中でも、ふとした時に思い出してしまうのだ。
 ――こんな繰り返しで、私はすっかり別人になってしまった。
 弱くて、めめしい。
 見たくなかった自分を知ってしまう。
 相手がそんな風ではないから、余計、空回りのようでつらい。
 寄る辺ない感情にどうしようもなくて、相手頼みになって、弱い目で見つめてしまう。媚、とは言いたくないけれど、他人から見た時、どんなふうに見えるのか。
 寛子は一佳の顔を見てから、背中に手を添え、とんとんと叩いた。
「……さびしがりやさん。不安にさせてごめんね……」
 傷口に直に薬を塗られるような、言葉のやり取りに潜む甘さを、知ってしまう。
 恋というものは、性質が悪い。
「……せんぱいが行きたいんだったら、いつでも」
「うん」
「誰とでも。行けばいい。どこでも。止めませんから」
「うん。行かない。ごめんね」
 時間差で、一佳の頭に、「さびしがりや」という寛子の言葉がすとんと落ちてくる。
 ――そう、これがさびしい、という感情なんだ。
 否、知っていたけれど、頭の中にあった言葉に、色や、温度や、湿度、波長がともなって、実感がうまれる。
 不安で、引き裂かれるようで、こわくて、生暖かい感情。
 人の耳には届かない音波で、ずっと悲鳴をあげ続けているような生き物が、自分の肋骨の檻(おり)に、いつの間にか閉じ込められているのを知る。
 本当に、恋というものは、性質が悪い。