やがて彼女が持ってきた、小さなビーカーに入っていたのは、透明な液体だった。別に喉など乾いていない、と思いながら一口含むと、思いのほか甘く感じられて、一気に飲めてしまえる。
体の中に溜まったしんどささえ、液体に薄められたように楽になる。
これは何、と見上げると、寛子はチェシャ猫のように笑った。
「おいしいでしょ? 科学部特製、魔法の水です」
寛子のその言い方からして、準備室の冷蔵庫から出した、よく冷えた、ただのミネラルウォーターだろう。
それにしてもおいしい。目から出すのでも、体の水分量は律儀に減って、脱水する、というのだろうか。
十四年使っている体のことも、まだ、よく知らない。
心なんて――なおさら扱いが難しくて、困ってしまう。
隣に回り込んできた寛子が囁いた。
「それで、どうした?」
一佳だって理路整然とした話をしたいのはやまやまなのだが、説明できるほど、自分でもよくわからないのが正直な話だ。
とりあえず、寛子を信じて、わからないまま出すしかない。
「…………。せんぱい。ずっと疑問だったんですけど、高等部の科学部、どこが活動場所なんですか?」
「ああ、高等部の第一・第二共同実験室には、放課後はいつも鍵がかかってて、誰も入れないの。七不思議って言われてる。だから、高科はだいたい向こうの地学室に溜まってるかな。実験道具ないし、ほぼしゃべってるだけ」
「……さっき、いた……」
「うん?」
「さっき、話していらしたのは、高等部……高科の部員?」
「二年のね。うん」
「よく、あっちの地学室で、話しているんですか? あの人と」
「ほとんど会わない。だってこっちにめだかがいますから……用がない日はこっちに来るでしょ? お世話、関係ない後輩に押し付けるわけにはいかないもんね。高等部にあがったからって、中科に来ちゃいけないって校則はないし」
「制服が違うし、目立つでしょう?」
「気にしなきゃ平気」
「……せんぱいはそうでも。さっきの人は、わざわざ何しに」
「顧問の立田先生を探してるんだって」
「口実じゃないですか。そんなの、絶対」
「口実?」
「……言い寄られてましたよね?」
ここまで見せてしまえば、もう恥ずかしさは同じだ。
「あー、まあ、誘われたけど。違う違う、市の科学館で、関西の有名な大学教授が教えに来るイベントがあるから、申し込む? って」
「デートのお誘いじゃないですか」
「あはは、あんな子供向け施設で? ムードないな」
「そんなところくらいしか、ないでしょう。デートの場所なんて」
「確かにー! 海か、山、公園、せいぜい映画館……つらいわ」
一佳の気も知らず、寛子はけらけらとお腹を抱えて笑っている。
呑気なものだ。
何もないということは、二人きりになれる場所には困らないということでもある。
学校の外で会えば、立派に男女交際の実績解除だ。
誰かに見られれば、それだけで噂になる。何なら、頼まなくても後のことは周りが勝手にお膳立てしてくれるだろう。皆、そういう娯楽は大好きなのだ。
当事者同士、変な足踏みもない。
女の子同士と、違って――。
ぐっ、と唇を噛みかけたところで、寛子が一佳の頬に、指先で触れた。からかうように、えくぼの辺りに指を沈める。
「お断りしたよ。もちろん」
「……え……」
「夏休みに、その教授の別の講座受けるの。だから必要ないし、……二人きりで出かけるのはね。恋人が嫉妬するといけないので」
何とも言えない自分たちの関係性を、寛子がそう表現するのは、一佳の記憶にある限り、これが初めてだった。
「い、言ったんですか? あの人に、それ?」
「申し上げました。あ、あなただとは言ってない」
「……性別は」
「言ってないね。聞かれなかったし」
「…………」
「彼、あっそう、って。だからぁ、そういうお誘いじゃないって。変に邪推するの、先輩にも失礼。親切で情報くれたのに」
「……そう……なの……だったら、すみません、ですけど」
一佳の勘は、親切という線を否定して警戒信号を発し続けていたけれど、追及する気も勝手に削がれていた。
――断ってくれた。それに、「恋人」って。
目配せをされた以上、寛子がそう表現したのは、一佳のことなのだろう。耳になじまない。
同年代の子たちは「彼氏」「彼女」と言うから、「恋人」なんて、ドラマや小説の中でくらいしか使われない響きだ、と思う。
「……そう、なんですか?」
「何が」
「…………。私、せんぱいの『恋人』なんですか?」
「……多分?」
「多分って」
「いや、何だろう何だろう……ってずっと考えてたんだけど。私、長良ちゃん好きだし。そっちも私のこと好きでしょ?」
「やめてください」
「えっ何でそんな厭そうな顔」
「恥ずかしい」
「……何度もそう言ってくれたし」
「思春期の女子は気軽に言います、好きくらい」
「私はともかく、長良ちゃんはそういう女子っぽい女子じゃないし」
「……悪かったですね」
「私も距離感近すぎなところはあるけど、でも面倒くさがりだから、高等部にあがってまでわざわざ足しげく会いに……とはね。自分でも思わなかったから。最近、しみじみ、ああ、恋人なんだなって」
「…………」
「……厭なの?」
「厭だなんて言ってませんよ」
「いや、そんな厭そうな顔されたら自信なくす。恋人って思ってるの、私だけ?」
「……連呼しないで。恥ずかしいんですよ」
「一佳ちゃんも言って?」
「恥ずかしいんです!」
嘘ではなかった。じっとしていられないくらいに顔が熱くて、走り出したくなる。片手で寛子の視線を遮っても、まともに前も向けなかった。それでも寛子は容赦しない。
「じゃあ、見せて」
立ち上がって両手を広げた寛子を、一佳は横目で見た。
「……いいんですか。さっきの、人。戻って来るかも」
「別に、良くない?」
「…………」
そこまで言われてしまうと、もう逃げ場もない。
一佳は寛子に近付き、背中に手を回してぎゅっと抱いた。
人の体温は、落ち着く。
強張らない、自然体のままの寛子の体が、一佳を受け入れてくれる。突き放さない。……嫌われてはいない。
好き、という、不確かで曖昧な言葉を裏付ける。好意。
実験室に入って来た時から、揺れ動いていた胸のさざなみも、酔うような眩暈も、恥ずかしささえ、嘘のように凪いでいった。
「せんぱい。私、多分、もうだめです」
「何が」
「ちゃんとしていないのが、わかっているのに、止まらないの」
「何か困るの?」
「……すごい、他人ごと」
「だって、私にはわからないもん。ちゃんと(・・・・)とか、何、世間一般?」
「そうですよ」
一佳は、鼻で笑う寛子のことを、ずるい、と思う。
「ちゃんと」をやらないなんて、投げ捨ててしまうなんて、一佳には全然、勝ち目のない話だった。悪魔みたい、とすら思う。
同性との特別な付き合いに、禁忌のような気持ちや恥ずかしさを微塵も抱いていない様子なのも。
きっと、良いことなのだろう。
……良いことでしかない。
堂々としていて。寛子は正しい。いつも。
「せんぱいはずるいです」
「そう?」
体の中に溜まったしんどささえ、液体に薄められたように楽になる。
これは何、と見上げると、寛子はチェシャ猫のように笑った。
「おいしいでしょ? 科学部特製、魔法の水です」
寛子のその言い方からして、準備室の冷蔵庫から出した、よく冷えた、ただのミネラルウォーターだろう。
それにしてもおいしい。目から出すのでも、体の水分量は律儀に減って、脱水する、というのだろうか。
十四年使っている体のことも、まだ、よく知らない。
心なんて――なおさら扱いが難しくて、困ってしまう。
隣に回り込んできた寛子が囁いた。
「それで、どうした?」
一佳だって理路整然とした話をしたいのはやまやまなのだが、説明できるほど、自分でもよくわからないのが正直な話だ。
とりあえず、寛子を信じて、わからないまま出すしかない。
「…………。せんぱい。ずっと疑問だったんですけど、高等部の科学部、どこが活動場所なんですか?」
「ああ、高等部の第一・第二共同実験室には、放課後はいつも鍵がかかってて、誰も入れないの。七不思議って言われてる。だから、高科はだいたい向こうの地学室に溜まってるかな。実験道具ないし、ほぼしゃべってるだけ」
「……さっき、いた……」
「うん?」
「さっき、話していらしたのは、高等部……高科の部員?」
「二年のね。うん」
「よく、あっちの地学室で、話しているんですか? あの人と」
「ほとんど会わない。だってこっちにめだかがいますから……用がない日はこっちに来るでしょ? お世話、関係ない後輩に押し付けるわけにはいかないもんね。高等部にあがったからって、中科に来ちゃいけないって校則はないし」
「制服が違うし、目立つでしょう?」
「気にしなきゃ平気」
「……せんぱいはそうでも。さっきの人は、わざわざ何しに」
「顧問の立田先生を探してるんだって」
「口実じゃないですか。そんなの、絶対」
「口実?」
「……言い寄られてましたよね?」
ここまで見せてしまえば、もう恥ずかしさは同じだ。
「あー、まあ、誘われたけど。違う違う、市の科学館で、関西の有名な大学教授が教えに来るイベントがあるから、申し込む? って」
「デートのお誘いじゃないですか」
「あはは、あんな子供向け施設で? ムードないな」
「そんなところくらいしか、ないでしょう。デートの場所なんて」
「確かにー! 海か、山、公園、せいぜい映画館……つらいわ」
一佳の気も知らず、寛子はけらけらとお腹を抱えて笑っている。
呑気なものだ。
何もないということは、二人きりになれる場所には困らないということでもある。
学校の外で会えば、立派に男女交際の実績解除だ。
誰かに見られれば、それだけで噂になる。何なら、頼まなくても後のことは周りが勝手にお膳立てしてくれるだろう。皆、そういう娯楽は大好きなのだ。
当事者同士、変な足踏みもない。
女の子同士と、違って――。
ぐっ、と唇を噛みかけたところで、寛子が一佳の頬に、指先で触れた。からかうように、えくぼの辺りに指を沈める。
「お断りしたよ。もちろん」
「……え……」
「夏休みに、その教授の別の講座受けるの。だから必要ないし、……二人きりで出かけるのはね。恋人が嫉妬するといけないので」
何とも言えない自分たちの関係性を、寛子がそう表現するのは、一佳の記憶にある限り、これが初めてだった。
「い、言ったんですか? あの人に、それ?」
「申し上げました。あ、あなただとは言ってない」
「……性別は」
「言ってないね。聞かれなかったし」
「…………」
「彼、あっそう、って。だからぁ、そういうお誘いじゃないって。変に邪推するの、先輩にも失礼。親切で情報くれたのに」
「……そう……なの……だったら、すみません、ですけど」
一佳の勘は、親切という線を否定して警戒信号を発し続けていたけれど、追及する気も勝手に削がれていた。
――断ってくれた。それに、「恋人」って。
目配せをされた以上、寛子がそう表現したのは、一佳のことなのだろう。耳になじまない。
同年代の子たちは「彼氏」「彼女」と言うから、「恋人」なんて、ドラマや小説の中でくらいしか使われない響きだ、と思う。
「……そう、なんですか?」
「何が」
「…………。私、せんぱいの『恋人』なんですか?」
「……多分?」
「多分って」
「いや、何だろう何だろう……ってずっと考えてたんだけど。私、長良ちゃん好きだし。そっちも私のこと好きでしょ?」
「やめてください」
「えっ何でそんな厭そうな顔」
「恥ずかしい」
「……何度もそう言ってくれたし」
「思春期の女子は気軽に言います、好きくらい」
「私はともかく、長良ちゃんはそういう女子っぽい女子じゃないし」
「……悪かったですね」
「私も距離感近すぎなところはあるけど、でも面倒くさがりだから、高等部にあがってまでわざわざ足しげく会いに……とはね。自分でも思わなかったから。最近、しみじみ、ああ、恋人なんだなって」
「…………」
「……厭なの?」
「厭だなんて言ってませんよ」
「いや、そんな厭そうな顔されたら自信なくす。恋人って思ってるの、私だけ?」
「……連呼しないで。恥ずかしいんですよ」
「一佳ちゃんも言って?」
「恥ずかしいんです!」
嘘ではなかった。じっとしていられないくらいに顔が熱くて、走り出したくなる。片手で寛子の視線を遮っても、まともに前も向けなかった。それでも寛子は容赦しない。
「じゃあ、見せて」
立ち上がって両手を広げた寛子を、一佳は横目で見た。
「……いいんですか。さっきの、人。戻って来るかも」
「別に、良くない?」
「…………」
そこまで言われてしまうと、もう逃げ場もない。
一佳は寛子に近付き、背中に手を回してぎゅっと抱いた。
人の体温は、落ち着く。
強張らない、自然体のままの寛子の体が、一佳を受け入れてくれる。突き放さない。……嫌われてはいない。
好き、という、不確かで曖昧な言葉を裏付ける。好意。
実験室に入って来た時から、揺れ動いていた胸のさざなみも、酔うような眩暈も、恥ずかしささえ、嘘のように凪いでいった。
「せんぱい。私、多分、もうだめです」
「何が」
「ちゃんとしていないのが、わかっているのに、止まらないの」
「何か困るの?」
「……すごい、他人ごと」
「だって、私にはわからないもん。ちゃんと(・・・・)とか、何、世間一般?」
「そうですよ」
一佳は、鼻で笑う寛子のことを、ずるい、と思う。
「ちゃんと」をやらないなんて、投げ捨ててしまうなんて、一佳には全然、勝ち目のない話だった。悪魔みたい、とすら思う。
同性との特別な付き合いに、禁忌のような気持ちや恥ずかしさを微塵も抱いていない様子なのも。
きっと、良いことなのだろう。
……良いことでしかない。
堂々としていて。寛子は正しい。いつも。
「せんぱいはずるいです」
「そう?」