「悔しいなー……。男子なんか、大半気付いてなかっただろうに、『あいつ、いじめられてかわいそうだったんだ』って思われたかな。小さい時から、何かができなくて目立つようなこと、なかったのに。何だって、私、できるのに。……かわいそうなんて、二度と人に思わせない。絶対」
彼女の声に含まれているのは、もう、静電気ではなくて、炎だった。
見る者の目を焼くような、尊大なほどの、自負。
――多分、色は違うけれど、似たようなものを私も持っているんだろうな。
と、寛子はその時、薄っすらとした、共感感情のことを考えた。
本題とずれそうなのでその場で口を挟むことはしなかったけれど、いつか、彼女にそれを伝えたい、とも思った。
彼女は、右手を持ち上げた。目元を乱暴に拭う。
「高三まであいつらと別れられないの、気まずいけど、私、この学校へは勉強しに来たから。そんな、将来の夢ってほど本気じゃないから、バスケは諦めてあげる。その代わり、勉強では全員抜く。何の誘惑もなくなって、ちょうど良い。……ちょっと、せんぱい、」
涙と鼻水交じりの、その割に威勢の良い宣言に聞き惚れていた寛子は、突然呼ばれて驚いた。
しかも、何だか声には怒気が含まれている。
「……私、教室では泣かなかったんですけど」
「そうなの? えらいじゃん」
「はい。今だって別に泣きたいわけじゃない。ここに来て、勝手に……。つまり、せんぱいが泣かしてるんですよ」
「そうなる?」
超理論だ。
まるで自覚のないことを言われて、寛子は戸惑ってしまった。
彼女は、すん、と鼻をすすり上げて、子どもみたいな声で言う。
「せんぱいが、よりにもよって今日みたいな日に、表彰されて。……かっこよく壇上に上がっていったところ、何度も思い出したら、学級会で何を言われても、我慢できたのに。何で、ここに来たら、かっこ悪いことばかり言っているんですか? 私は」
「……えーと、知らないよ」
「冷たい。……どうにかしてください」
無茶を言うなぁ、と、お手上げのポーズを取りたくなった。
――同情したら怒るくせに……。
だが、何度も何度も硬い制服の袖で目をこする彼女を見ていると、これ以上、せめて自分の手では自分を傷つけて欲しくない、という気持ちが募る。
とは言え、放課後なので、一枚しかないハンカチは湿って人に貸せる状態ではない。
「長良ちゃんは、うーんと、泣き止みたいのよね?」
彼女は何度も頷いた。随分と素直で、今日の彼女がよほど自分の感情を持て余していることが伝わってくる。
寛子は立ち上がった。角イスが床の上でタップし、かたかたん、と音を立てる。
彼女の後ろに立った。
腕を引いて、振り向かせる。
「じゃあ、今からあなたを、ぎゅってしていい?」
彼女はぐしゃぐしゃの顔を、驚愕の表情に固めた。
「……な、な、な何で……」
「どうにかしろ、って言ったから」
片腕を腰に回す。これくらいのことは、仲の良い友達同士ならよく見られる範囲のスキンシップに思われたが、彼女は経験が少ないらしく、硬直している。
「はい、ぎゅー」
「ま、まっ、こ、どうにもなりません、こんなっ」
「こういうの嫌い? 嫌いな子もいるからなぁ。やだって言わなきゃダメだよ、そういう時は。言わないとわかんないし」
「…………。嫌い、っていうか、え、変な感じ……これ、何なんですか?」
戸惑っている。
嫌がってはいなさそうだ、と判断した寛子は、子守唄を歌うように、小さな声で囁きかけた。
「長良ちゃん……試しにこのまま何度か深呼吸してごらん。吸って、吐いて、……そう。ハグには、ストレスホルモンの血中濃度を下げて、代わりにオキシトシンを上昇させる効果があるらしい」
「……せんぱいの言葉、よくわかりません」
「……人とハグしたら、ストレス値が下がるらしいよ、ってこと。長良ちゃん。下の名前、何?」
「……一佳(いちか)」
「そうか。一佳ちゃん。今日はよく、がんばりました」
両手を背中に回して、ぎゅう、と抱擁する。そうしてから、彼女が落ち着くまで、背中を優しく撫で上げた。
少しすると、彼女の背骨の奥に、多めに空気が入るのがわかる。
「……落ち着く?」
「……はい」
「スキンシップは、ストレス全般に良いんだって」
言いながら、嘘ではない筈だ、と、言い訳めいて寛子は思う。確かに、本で読んだのだ。
だが、データを見たわけではないのに、理詰めとは言えない説明にあっさり流される彼女がちょろくて、心配になる。
――この子、同じことを言われたら、誰にでも身を任すんだろうか。……もっと進んだ行為でも?
そう思うと、むらむらと、苛立ちめいた感情が立ち起こる。
これが、独占欲、というものなのだろうか。
体を離すと、目が合う。
彼女の目の窪みに溜まった水分が、顎の辺りに伝い落ちている。
何とはなしに、寛子はそれに触れ、そのまま、口に入れてみた。
理由が説明できる行為ではなかったけれど、
――涙がフェロモンっていう動物も、いるんだよな。
ということをぼんやり考えながら、そうした自分に気付いた瞬間、体がかっと熱くなった。
彼女は、意味が分かっていないようだ。それもまた、ストレスに効く行為、とでも思っているのだろうか。無防備にもほどがある。
――やばい、何、これ。
突然、手ひどくしたい、という衝動に襲われた。彼女の髪をぐしゃっと撫で上げて、怒らせたりしてみたい。相手の感情を、振り幅いっぱいに動かしたい。
嫌われることを望みはしないのに、そんなことを思わせるほどに、彼女が、「かわいい」。
もっといろんな顔を見たい。この子が見せたくない、そういう表情まで。自分の手で暴きたい。そういう、暴力的な、関心。
そんなものを、寄せられる方は迷惑だろう、と頭ではわかるのに。
体温が馴染む。骨の形が、肉の感触が、手放したくないほどにぴったりくる。
こんな感情は、知らない。
「……あなた。一佳ちゃん。私が泣かせた、って言いたいみたいだけど」
「…………」
「泣きに来たんじゃないの? 私のところへ」
煽ると、燃える。
彼女の顔が真っ赤に染まった。
密着した体が、ぎしりと強張る。
だけど、彼女はまだ、寛子を突き飛ばしまでは、しない。
――ばかみたいにプライドの高い、この子が。
慕われている、と思うと、寛子の心臓も、やけに煩く奔り出すのだった。
塩辛い体液に触れた舌が痺れる。
別の、あまいもので上書きされたがっているのがわかって、寛子は。
「涙、まだ止まらないね。……次はキスしてもいい?」
問う。
自ら退路を崩す行為。
いっそ自分は、その瓦礫に埋まりたいのかもしれない、と思った。
――恥ずかしい。何これ。
けれど、どうしてか、彼女――一佳も等しく、狂気の沙汰で。
「…………。それは……スキンシップと同じで、……ストレス値を下げるんですか?」
「実験してみないと、なんとも言えない」
暗幕のカーテンに遮られた生物実験室で、唇の合間数センチの距離を、ふたりで踏み越えた――
好奇心の、行く末はいかに。
「……あんた、一佳(いちか)。また背伸びた?」
「え」
冷蔵庫を開けたところで、母の玲香(れいか)に声をかけられた。
彼女は作り置きの夕食を温めているところで、いつもなら手を動かしている時に話しかけると機嫌を損ねるくせに、今日は無遠慮に近付いてきて、一佳の肩を掴む。
「痛っ」
「なーに、大げさ。……絶対伸びたでしょ。伸びた。やーだ」
やぁだ、いやねぇ、と繰り返されると、悪いことをしたような気持ちになってくるものだ。成長が、そんなに悪いことだろうか。
前回の健康診断では、165cmと言われた。クラスの女子の中で一番背が高い。学年では二番目だ。……というのは中学入学時からの事実で、視界はそれから大きく変わらない。
――せんぱい(・・・・)は最初から小さいし。
一番距離が近い人の、時々金に透ける猫っ毛や、リスのように
くるくるよく動く眸(ひとみ)を思い出すと、少し気分が和んだ。
しかし、ふんわりした気持ちは、玲香の声にかき消される。
「パパに似たのかしら」
それだって、悪いことではない。と思う。
一佳は、昔から、父親っ子だった。会社経営をしている父は仕事で帰宅が遅いし、出張も多いから話す回数は減っているが、歳の割に若々しく、長身で堂々としている父に似てはいけないのか。
――そんな言いかた、しなくても。
言い回しに、声音。そこから滲むネガティブな圧が、一佳の顔から、表情を消させる。
玲香は、いつからか、たいてい機嫌が悪い。笑顔や楽しい気分は罪なのだと言うように、一佳からも、父からも、もって回った雰囲気で、それを奪おうとする。
「バスケ部なんて、やめて正解よ。女の子がそれだけ大きいと、男の子がデートに誘う時、気後れするでしょ。でももう手遅れかしら。……髪くらい伸ばしたら?」
一佳は飲み物を諦め、ぱたんと冷蔵庫の扉を閉めた。
部活をやめることになった経緯を、もちろん玲香は知っている。
入部間もない頃、恵まれた体格を持つ一佳は、キャプテンや副キャプテンに目をかけられていた。ささいな理由――皆のしている掃除を免除され、朝練参加を命じられたことか何かで同級生部員の反発を買い、つまはじきにされていたところ、大ごとになって、担任教師からそれぞれの親が呼び出された。
マイペースな玲香が保護者会で親らしく立ち回れるとも思えず、詳しい話は聞かないままだが、元部活仲間たちとは、学年がひとつ上がってクラス替えを経た今も、気まずいままだ。
そんな経緯を知った上で、違う理由で「やめて正解」,と言える玲香のことを、逆にすごい、と一佳は思う。
「女の子と仲良くできないなら、男の子と話しなさいよ。せっかく共学なんだし。年頃の女の子らしく、かわいくしてりゃ、やさしくしてくれるわよ」
余計なお世話、と、一佳は言わない。
反抗期と決めつけられるのがわかっているし、伝えたところで実りがない。それにしたって、ほうっておいて、と思う。
娘のクラスメイトの顔ぶれも、授業参観や体育祭などの学校行事に一切顔を見せない玲香は知らない。今の「男の子」がどれだけシャイかも、同族の輪を抜けた「黒い羊」を取り囲む空気の独特さも、わからないならせめて黙っていてほしいのに。
見当はずれな助言など、受け流すのがきっと一番かしこい、と、一佳も頭ではわかっている。
だけど、思いがともなっていないのに、口先だけ嘘をつくなんて、自分というものへの裏切りのようだ。
「……二階で洗濯物たたんでくる」
「ついでにママのスカート、アイロンかけといて」
「……はい」
――また、男の人と会うの。
と、うんざりした気持ちで一佳はリビングを出る。
彼女比で機嫌が良さそうだったのも、それが理由なのだ。
色を抜いた長い髪を巻き、昔父からもらった外国の香水を振り、膝をあらわにするミニスカートで出かけることが、玲香にとって「かわいくする」ということなのだろう。
それで、どれだけ価値のあるやさしさが相手から返ってくるものかは知らないが、ああはなりたくない、と一佳は思う。
父親似、ばんざい。
――女、というものが、たぶん、一佳は好きになれないのだ。
すぐ群れる面倒な女子のグループも、電車で化粧する配慮のないOLも、理性より感情を優先してわめくドラマの女優も、「ああはなりたくない」の対象だから。
だからと言って、男になりたい、わけでもないけれど。
かわいくない一佳でも。男の子ならゆるされる。
男なら。成績が良ければ。仕事ができれば。父のようにたくさん稼げれば、かわいくなくても、つまはじきにならない。成員としてみなされる気がするのに。
合わない女子なんかに生まれたから。
――こういうところが「かわいくない」のだろう。
わかってはいるが、死ぬほど厭なものに染まるくらいなら、死んだ方がましだ。死ぬほどつらいことが、今以上に増えないうちに。
夕食の片付けを済ませた一佳は、早々に自室に引き上げた。
宿題は学校で済ませたが、授業の復習をしなくては。――今日の授業中、教壇に立つある教師の咳払いの回数に関する報告書をせんぱい(・・・・)の寛子(ひろこ)に送らなくてはという衝動にかられて、ルーズリーフ二枚に渡る大作をしたためた。その穴埋めだ。
――どうして授業中に、今すぐやらなければ、と思ったことほど、後で考えるとまったく必要のないことなの。
嘆きながらノートを埋めていたら、時計の針は、あっさり翌日を迎えていた。
いつの間にか、雨が降っている。隣家の屋根か雨樋か何かに当たって、澄んだ音がぱらぱらと鳴っていた。
そろそろ、と思ってベッドに潜り込んだものの、全然眠気が来なかった。雨音を聞きながら、湿気を吸った布団の中で何度か寝返りを打って一時間弱、下手をすると朝までこのままかもしれない、と焦り始めて、体を起こす。
なんとか、もう少しクタクタになって、眠るスイッチを入れなくては。
父も母も、日付が変わる前には就寝する。ラジオも音楽も流せない。こういう時は、本。
だが、自分の本棚の前で、一佳はしばらく茫然としてしまった。
見慣れたはずの、本の背の並び。題字の上で目が滑って、ひとつのところに視点が定まらない。手に取りたい本が見つからないのだ。
確かに中学受験で忙しかった頃から、新しい本はあまり増やせていない。けれど、本は昔から好きだったから、百科事典から近代文学、現代小説、エッセイまで、硬軟織り交ぜて好きなものを集めていたはずなのに。
――夜なので、怖くも重くもない、柔らかな文体の、女性主人公の小説がいいんじゃないか。
思って探してみたが、やはりページをめくる手が進まない。文体は好きだ。けれど、違う。
――こんなに、人って、突然生まれ変わったみたいになるもの?
そう、その表現が一番ぴったりくる。
――誰か、他人の、部屋みたい。
書店の目立つところに堂々と置いてある、「ふつう」の小説。
一佳を取り囲む現実と地続きの――学校やオフィスで、家族や、友達と仲良く語らい、異性の恋人とけんかしながら愛し合う日常が、当たり前に進行する本の世界に、入っていくことを体が拒む。
現実から浮いてしまう一佳だから、きっと物語の中ですらつまはじきにされ、居場所がないだろう。
書店を歩けば、同性間の愛の話も見つからないではないけれど、ページを開けばどぎつい性愛や都会の風俗描写に面食らい、すぐに棚に戻してしまうことを思い出した。
急に落ち着かない気持ちになって、一佳はベッドに戻り、倒れ込んで丸くなる。
――他人が住んでくれて、良いのに。私の代わりに、素直でかわいい十四歳の女の子が、この家から通学してくれたら。
玲香も以前のように、笑顔を取り戻すかもしれない。クラスの空気も良くなるだろう。万事解決、なのに。
好かれにくい自分を、一佳は、自分が一番わかっていた。
かわいい、とは、可愛い、と書く。
愛せるわけがない、と一佳は思う。
涙が出た。
明日が来て、学校に行くのがおっくうな時間に、ぱらぱらと騒がしい夜の気配が、悪い魔法をかける。
気分の昂りが眠気を払うことも、べそべそしていても何も解決しないことも、わかっているのに。
生暖かい涙が、頬を濡らす。首まで垂れれば、蒸れて痒くなる。
引っ搔けば、痛い。繰り返せば傷になりそうで……踏んだり蹴ったりだ。
一佳は、もう一度起き上がると、机の引き出しを開けた。
中身が半分ほどに減った、小瓶を取り出す。
特に何の日でもない時に、なんとなく寛子がくれた、使いかけのコロンだ。蓋を外し、手首に一滴、落としてみる。
雨上がりに木蓮の木の下に立つような、すっきりとした甘い香りが広がると、寛子の笑顔と声が自然に浮かんだ。
「……かわいいよ。一佳ちゃんは、世界一かわいい」
体の中から逃げ出したがっているようだった心が、その響きの余韻を捕まえた瞬間、定位置におさまった。
――こんなことで負けない。厭でも、学校には行く。
寛子がいるから。
……そういう理由付けで動く自分自身のことが、浅はかにも思えてしまうけれど、そこは妥協ラインだった。
寛子がいるから――。
という考え方は、やはり危険だということを、そこから一週間もしないうちに一佳は思い知った。
何の日でもない、六時限授業の火曜のある日。
通い慣れた生物実験室に足を踏み入れると、高等部の制服を着た寛子と、同じ色合いの制服の男子が、壁際で見つめ合っていた。
「…………」
一佳は、何も言わずに自習用の定位置に座ると、英語(グラマー)の教科書を広げる。
男子は小さく言葉を発すると、さりげなく実験室を出て行った。
寛子も、何事もなかったかのように自分の鞄のある席に戻り、本を読み始める。
いつもなら、半々の確率でちょっかいをかけにきて一佳の勉強を邪魔するのだが、たまたまそうしない日なのか、意味のある行動なのか、判断がつきづらい。
一佳の胸の中に、正体のしれないもやもやが広がった。
出て行った男子生徒と寛子の間に漂っていたと思われる空気の残り香を嗅いでいると、悪い方、悪い方へと考えが進んでいく。
その予感が万一当たっていたとしても、一佳の立場で、何を言っていいのかわからなかった。
放課後に会い、時々キスをする、先輩と後輩。
という関係に、今のところ、名前はついていないのだから。
――やだな。
我慢しようと思ったのに、教科書にぽたり、と涙が落ちる。
静かにポケットティッシュを出して、拭って乾かそうとするが、止め方がわからなかった。
真夜中でもないのに、コントロール不可能な後ろ向きの予感を察知して、一佳は前方の席に座る寛子にばれないように、そうっと溜息を吐いた。
内に溜め込むくらいなら、ストレートに聞いてみたらいいはずなのに、実行に移すことができない。いつもそうだ。
どこかでブレーキをかけているのかもしれない、と、思う。例えば一佳の想像した以上の事態が進行していたら、受け止められない。
もし、寛子が彼氏を作ったら。
もし、母か父が、他にパートナーを作って家を出て行ったら。
一佳はもっと、孤独になる。
あなたがかわいくないから自業自得、と言われれば、反論はない。
――特に、せんぱいは。いつ、「ふつう」の方に戻るわ、って言ったとしても。止める方が悪人みたい。
一佳は、一佳であるだけであちこちに不具合を起こす。ただでさえ「間違い」みたいなのに、想う相手まで同性で「ふつう」と違う。
そんな自分が、悲しくて仕方ないのも加わって、途切れない涙を俯いて拭い続けていると、頭上から声がこぼれ落ちてきた。木蓮に似た、香りとともに。
「……英語の宿題? 泣くほど難しいの? 長良(ながら)ちゃん」
「……せ、んぱいには、わかりません……」
机を挟んだ向こう側に立つ寛子には見えないように、一佳は濡れた手の中に使用済みのティッシュを握り込む。
泣きたいのではない。止まらないだけなのだ。
見られたくなかった。でも、もう自分ではどうしようもない。
寛子はひょいと教科書を掬い上げて、英語で書かれたテキストに目を走らせる。
「出た。良くないよ。何も話さないの。見せてごらん。……懐かしいな。二年の教科書……」
「……どうせ……」
「うん?」
「……せんぱい、何でも、おできに……なるからっ」
「いや、英語苦手だよ。でも言うだけ言ってごらん、一佳ちゃん。どこがわからないのか……」
二人きりの、特別に甘い声を出す時だけに使う呼び名は、電気のように、一佳の耳を痺れさせる。
――その麻酔にハマって、今、この始末だ。
「頭からゆっくり読んでいこうか……『人々はニューヨークを、大きなりんごと呼んだ』……」
「今! ニューヨーク、どうでも良いので!」
口を開いたら、ろくな言葉が出てこないのは、わかっていたのだ。
しかし猫なで声で先生ぶる寛子が、一佳の涙の理由について、わざとわからないふりをしているようで、ゆるせなくて、誘われてしまった。
導火線が短い。……それが一番の欠点だと、自覚はある。
「……え。どうでも……良いんだ?」
寛子は、リスのような目を丸めて驚く。ごもっともだ。
激昂する自分、をどこかで冷静に見ている一佳は、苦々しい顔をしている。
――理性より、感情。都合の良いところだけ女の子。
したくないのに、コントロールが巧くない。
「……そっか……? まぁいいや、ちょっと、待ってなさい」
寛子は首を傾げつつ、部員特権で鍵を持っている準備室の方へ向かった。
歩くたびに揺れる茶色の髪は、百獣の王のたてがみに似て誇らしげだ。染髪はしてない、と、本人が言い張る髪。その「本当」に、教師も、誰も口出しできない。
自分の「本当」を、守り切る。それができる人は、多くない。中高一貫の学園という狭い箱庭は、教師はもちろん、力のある生徒が白と言えば白になる場所だから。
皆に一目置かれる寛子だから、できること。そういうすべてが眩しくて、時々、憎らしくもなる。ふつうは、無理なのだ、と、――彼女に伝わらないことは承知の上で。
寛子は絶対しないけれど、それでも、できないことをいつか責められるような気がするのが、怖い。
「ほら、……これ飲みなさい」
やがて彼女が持ってきた、小さなビーカーに入っていたのは、透明な液体だった。別に喉など乾いていない、と思いながら一口含むと、思いのほか甘く感じられて、一気に飲めてしまえる。
体の中に溜まったしんどささえ、液体に薄められたように楽になる。
これは何、と見上げると、寛子はチェシャ猫のように笑った。
「おいしいでしょ? 科学部特製、魔法の水です」
寛子のその言い方からして、準備室の冷蔵庫から出した、よく冷えた、ただのミネラルウォーターだろう。
それにしてもおいしい。目から出すのでも、体の水分量は律儀に減って、脱水する、というのだろうか。
十四年使っている体のことも、まだ、よく知らない。
心なんて――なおさら扱いが難しくて、困ってしまう。
隣に回り込んできた寛子が囁いた。
「それで、どうした?」
一佳だって理路整然とした話をしたいのはやまやまなのだが、説明できるほど、自分でもよくわからないのが正直な話だ。
とりあえず、寛子を信じて、わからないまま出すしかない。
「…………。せんぱい。ずっと疑問だったんですけど、高等部の科学部、どこが活動場所なんですか?」
「ああ、高等部の第一・第二共同実験室には、放課後はいつも鍵がかかってて、誰も入れないの。七不思議って言われてる。だから、高科はだいたい向こうの地学室に溜まってるかな。実験道具ないし、ほぼしゃべってるだけ」
「……さっき、いた……」
「うん?」
「さっき、話していらしたのは、高等部……高科の部員?」
「二年のね。うん」
「よく、あっちの地学室で、話しているんですか? あの人と」
「ほとんど会わない。だってこっちにめだかがいますから……用がない日はこっちに来るでしょ? お世話、関係ない後輩に押し付けるわけにはいかないもんね。高等部にあがったからって、中科に来ちゃいけないって校則はないし」
「制服が違うし、目立つでしょう?」
「気にしなきゃ平気」
「……せんぱいはそうでも。さっきの人は、わざわざ何しに」
「顧問の立田先生を探してるんだって」
「口実じゃないですか。そんなの、絶対」
「口実?」
「……言い寄られてましたよね?」
ここまで見せてしまえば、もう恥ずかしさは同じだ。
「あー、まあ、誘われたけど。違う違う、市の科学館で、関西の有名な大学教授が教えに来るイベントがあるから、申し込む? って」
「デートのお誘いじゃないですか」
「あはは、あんな子供向け施設で? ムードないな」
「そんなところくらいしか、ないでしょう。デートの場所なんて」
「確かにー! 海か、山、公園、せいぜい映画館……つらいわ」
一佳の気も知らず、寛子はけらけらとお腹を抱えて笑っている。
呑気なものだ。
何もないということは、二人きりになれる場所には困らないということでもある。
学校の外で会えば、立派に男女交際の実績解除だ。
誰かに見られれば、それだけで噂になる。何なら、頼まなくても後のことは周りが勝手にお膳立てしてくれるだろう。皆、そういう娯楽は大好きなのだ。
当事者同士、変な足踏みもない。
女の子同士と、違って――。
ぐっ、と唇を噛みかけたところで、寛子が一佳の頬に、指先で触れた。からかうように、えくぼの辺りに指を沈める。
「お断りしたよ。もちろん」
「……え……」
「夏休みに、その教授の別の講座受けるの。だから必要ないし、……二人きりで出かけるのはね。恋人が嫉妬するといけないので」
何とも言えない自分たちの関係性を、寛子がそう表現するのは、一佳の記憶にある限り、これが初めてだった。
「い、言ったんですか? あの人に、それ?」
「申し上げました。あ、あなただとは言ってない」
「……性別は」
「言ってないね。聞かれなかったし」
「…………」
「彼、あっそう、って。だからぁ、そういうお誘いじゃないって。変に邪推するの、先輩にも失礼。親切で情報くれたのに」
「……そう……なの……だったら、すみません、ですけど」
一佳の勘は、親切という線を否定して警戒信号を発し続けていたけれど、追及する気も勝手に削がれていた。
――断ってくれた。それに、「恋人」って。
目配せをされた以上、寛子がそう表現したのは、一佳のことなのだろう。耳になじまない。
同年代の子たちは「彼氏」「彼女」と言うから、「恋人」なんて、ドラマや小説の中でくらいしか使われない響きだ、と思う。
「……そう、なんですか?」
「何が」
「…………。私、せんぱいの『恋人』なんですか?」
「……多分?」
「多分って」
「いや、何だろう何だろう……ってずっと考えてたんだけど。私、長良ちゃん好きだし。そっちも私のこと好きでしょ?」
「やめてください」
「えっ何でそんな厭そうな顔」
「恥ずかしい」
「……何度もそう言ってくれたし」
「思春期の女子は気軽に言います、好きくらい」
「私はともかく、長良ちゃんはそういう女子っぽい女子じゃないし」
「……悪かったですね」
「私も距離感近すぎなところはあるけど、でも面倒くさがりだから、高等部にあがってまでわざわざ足しげく会いに……とはね。自分でも思わなかったから。最近、しみじみ、ああ、恋人なんだなって」
「…………」
「……厭なの?」
「厭だなんて言ってませんよ」
「いや、そんな厭そうな顔されたら自信なくす。恋人って思ってるの、私だけ?」
「……連呼しないで。恥ずかしいんですよ」
「一佳ちゃんも言って?」
「恥ずかしいんです!」
嘘ではなかった。じっとしていられないくらいに顔が熱くて、走り出したくなる。片手で寛子の視線を遮っても、まともに前も向けなかった。それでも寛子は容赦しない。
「じゃあ、見せて」
立ち上がって両手を広げた寛子を、一佳は横目で見た。
「……いいんですか。さっきの、人。戻って来るかも」
「別に、良くない?」
「…………」
そこまで言われてしまうと、もう逃げ場もない。
一佳は寛子に近付き、背中に手を回してぎゅっと抱いた。
人の体温は、落ち着く。
強張らない、自然体のままの寛子の体が、一佳を受け入れてくれる。突き放さない。……嫌われてはいない。
好き、という、不確かで曖昧な言葉を裏付ける。好意。
実験室に入って来た時から、揺れ動いていた胸のさざなみも、酔うような眩暈も、恥ずかしささえ、嘘のように凪いでいった。
「せんぱい。私、多分、もうだめです」
「何が」
「ちゃんとしていないのが、わかっているのに、止まらないの」
「何か困るの?」
「……すごい、他人ごと」
「だって、私にはわからないもん。ちゃんと(・・・・)とか、何、世間一般?」
「そうですよ」
一佳は、鼻で笑う寛子のことを、ずるい、と思う。
「ちゃんと」をやらないなんて、投げ捨ててしまうなんて、一佳には全然、勝ち目のない話だった。悪魔みたい、とすら思う。
同性との特別な付き合いに、禁忌のような気持ちや恥ずかしさを微塵も抱いていない様子なのも。
きっと、良いことなのだろう。
……良いことでしかない。
堂々としていて。寛子は正しい。いつも。
「せんぱいはずるいです」
「そう?」
「私の方が本気なのに。せんぱい、楽してる。ちゃんとしてない、と向かい合わずに、傷つかないで、勝ちっぱなし……」
「勝ち負けじゃないでしょう、こんなの」
少し呆れたような、見透かしたような、軽やかな寛子の声の響きに、心臓を包み込まれる。
――ほら、また。慎重な方が主導権を握るべきなのに、どうしてせんぱいが遊ぶの。強いの? 圧倒的に。
小学生の頃、父と乗った、カヌーのことを思い出す。
必死に漕げば漕ぐほど、舟の下でうねる波が、進路を狂わせる。
落ちれば溺れるかもしれなくて、絶対に冷たい。そしてひどく深い。世間は水だ。
「……私ばかり好きで、私ばかりガタガタ……」
「私がガタガタになるところなんて、見たくないでしょ? きっと幻滅するよ」
「ならないくせに」
改めて少し体を離して見ると、寛子は何とも言えないような表情をしていた。それでも、乱れない。彼女は自分の場所に、錨をきちんと下ろしている。一佳と一緒に迷子にはなる気はないのだろう。
一佳はやり場のない思いで、唇を噛む。
力加減ができなくて、血の味が滲んだ。
「少し落ち着いたら、長良ちゃん。思い詰め過ぎ」
「……そう。悪い薬でもやっているみたい。こんな恋、したくなかった。最高に格好悪いの、どうしたら?」
「血の気が余っているねえ……。とりあえず勉学はしておきなさい、身を助けるから」
「させてくれないくせに……」
「私は何にもしてない」
――こんな薄情な人、嫌いになりたい。
そう思って睨むけれど、正視がつらいくらい、好きだ、と思う。
発光しているみたいに眩しくて、一瞬、一瞬の表情が目に焼き付いて、見たことのない顔は全部見たい、と思い。そして授業中でも真夜中でも、ふとした時に思い出してしまうのだ。
――こんな繰り返しで、私はすっかり別人になってしまった。
弱くて、めめしい。
見たくなかった自分を知ってしまう。
相手がそんな風ではないから、余計、空回りのようでつらい。
寄る辺ない感情にどうしようもなくて、相手頼みになって、弱い目で見つめてしまう。媚、とは言いたくないけれど、他人から見た時、どんなふうに見えるのか。
寛子は一佳の顔を見てから、背中に手を添え、とんとんと叩いた。
「……さびしがりやさん。不安にさせてごめんね……」
傷口に直に薬を塗られるような、言葉のやり取りに潜む甘さを、知ってしまう。
恋というものは、性質が悪い。
「……せんぱいが行きたいんだったら、いつでも」
「うん」
「誰とでも。行けばいい。どこでも。止めませんから」
「うん。行かない。ごめんね」
時間差で、一佳の頭に、「さびしがりや」という寛子の言葉がすとんと落ちてくる。
――そう、これがさびしい、という感情なんだ。
否、知っていたけれど、頭の中にあった言葉に、色や、温度や、湿度、波長がともなって、実感がうまれる。
不安で、引き裂かれるようで、こわくて、生暖かい感情。
人の耳には届かない音波で、ずっと悲鳴をあげ続けているような生き物が、自分の肋骨の檻(おり)に、いつの間にか閉じ込められているのを知る。
本当に、恋というものは、性質が悪い。
大学進学を機に縁遠くなっていた一佳(いちか)と再会したのは、中学・高校と通った私立汀野(みぎわの)大学附属中学・高校の同窓会だった。
それは居酒屋などで開かれる個人主催のクラス同窓会ではなく、十年に一度、県下の高級ホテルの宴会場で行われる、学校主催の大規模なものだ。
卒業年次でテーブルが割り振られ、立食パーティらしい。
会場中に、知らない人がひしめいている上、もうすぐ三十歳というライフステージの変化著しい寛子(ひろこ)の学年は、ほとんど会話したこともない男子二人しか来ていない。
頼みの教師も入れ替わりがあったようで、理事長挨拶の中、寛子は心もとない気分で周囲に視線をさまよわせていた。
そこで、彼女を見つけてしまったのだった。
――いると思わなかった。どうしよう。
動揺してしまった寛子をよそに、歓談の時間になると、一佳は迷いのない足取りでテーブルにやって来た。
「お久しぶりです。せんぱい」
ほっそりとした身体に、通勤着と見まがうような飾り気のないスーツを纏わせ、生のままの黒髪を短く揃えた彼女は、学生時代と比べると随分と洗練されていたが、相変わらずのようでもあった。
人を寄せ付けず、馴れ合いを必要とせず、当たり前のように一人で立っている。
長年の積み重ねの成果か、今では、貫禄のようなものが備わっているようにも見えた。
「……えーと、久しぶり。一佳。元気?」
「はい、まあ、普通に」
きれいになって、と言いそうになった寛子は、すんでのところで堪えた。
――正月に会った親戚のおっさんじゃあるまいし。
しかし、大卒で社会に出て六年と少し。過労死ラインすれすれの激務や理不尽ハラスメントにすっかり擦り切れ、誰からも特別に顧みられるということなく、自分の価値を信じられずにボロ雑巾を自嘲する寛子の目には、二歳下の一佳の若さが、眩しく映った。肌荒れもないし、表情も豊かではないけれど、ハリや精彩があるように思える。
――こっちは、失望されてないと、いいけど……。
ヘアサロンにも、服のバーゲンにも、デパコス売り場にも、この頃まったく足を運べていない。久しぶりに知り合いに会うかもしれない場所に出かけるにあたっても、まったく気力がわかず、三年前に買ったワンピースで来てしまった。
俯き加減になった途端、パンプスに入った小さな擦り傷が目に入る。目をそらしたいのに、離すことができない。
――会うとわかっていたら、もう少しマシな恰好で来たのに。
トリートメントが足りないパサパサの髪を片耳にかけながら、寛子は思い悩みを振り切るように、笑顔を作った。
「一佳、こういうの来るんだねー。ちょっと意外だけど、大学もこっちだったし……、就職も、地元で?」
「いえ、今日は東京から。実家がハガキを転送してきたので、顔見せがてら」
「わざわざ来たの? 大変だね! 同級生の子と約束でも?」
「いえ、あまり知っている子はいないみたいで……」
「そうだよね……こっちもそう。みんなどこで何してるんだろ」
寛子は今、地元の実家住まいなので、ちょっと出かける、くらいのノリで来ることができたのだが、わざわざ時間もお金もかけて、一佳がこの手の催しに来るとは、昔なら考えられなかったことだと思う。
大人になって、変わったのか。学生時代を懐かしむ里心でもついたとか――恩師に感謝を伝えたい気分にでもなったとか――色々仮定で考えてはみるけれど、元々内面の回路がわかりづらい子だ。
変化のありようも、通り一遍ではないのかもしれない。
一佳が友達同伴なら、そちらに注意を向けようと思ったのだが、寛子の目論見は失敗に終わりそうだった。
「へえー……そう、東京かぁ……。どの辺、住んでるの?」
数年のブランクは、ぎくしゃくと、会話の歯車を軋ませる。
それでも、辛抱して話を回しているうちに、
――そうそう、相槌はこのテンポで来るんだったな、彼女。
ということが懐かしさとともに思い出せて、あまり時間を必要とせずに、さしさわりのない話題を振れるようになっていった。
学生時代、寛子と一佳は、仲が良かった。一般的に言われる、「仲の良い先輩・後輩」からは逸脱するように、成り行き任せで唇も合わせたし、素肌も合わせた。
「常識」に縛られず、二人ならどこまで行けるのか、を、試すような関係だったと思う。
大人の理性でもって人に説明するなら、「思春期の好奇心の暴走」とでも言えば良いだろうか。一言、「黒歴史」と言えば済むのかもしれない。
それくらい、暴力的で、盲目的で、恐れを知らず、破滅的だった。
同性同士の恋がいけないことだとは、当時、何を参照してもはっきりそこに書いてあって、「常識」だったけれど、ただ頭の固い大人に内緒にしていれば良いと、その程度の認識だった。
問題は、女同士だからというようなことではなく、当時の自分たちの幼さだった――と、今の寛子は、思う。
その制御されていない、思春期の自己愛まみれのコミュニケーション自体に、「若さ」だけでは許容しえない恥ずかしさと苦さがまぶされていて、思い出すと頭を抱えたくなる。
まだ彼女と出会った時、寛子は人間十五年目やそこらのお嬢さんだったのだから、仕方ないと言えばそうなのだが、とにかく未熟に過ぎた。
二人の関係性が、二人きりで長くいるうちに純度を高め、凝縮され、煮詰まり切って、ひとつばかりの臭みに辟易するようになった頃――大学でのサラッとした人間関係を知り、幼さと逆ベクトルの魅力に惹かれ、「早く、あちらに行かなければ」と何かに強くうながされるような心地で、気持ちを移した。
という薄情きわまりない心の揺れを含んだ経緯を、大人の理性でもって人に説明するなら、「大学進学とともに、なんとなく自然消滅した」ということになる。
寛子は生まれ育った地方都市を出て京都の私大に進学したので、物理的距離が、なんの愁嘆場も作らず、四年近い付き合いを断ち切ってのけた。
あっさりと、寛子は一佳を失った。しばらくはメールや手紙のやり取りが続いたが、それがくれる刺激は実際に会って話すことに比べれば何百倍も希釈されたものだったから、いつの間にか、どちらともなく立ち消えになっていた。
それでも、大学生・新社会人といった新しい環境で、新しく人と出会うのはそれなりに刺激的だったので、未練はないように思われた。長い間、きっと、平気だった。ただ、次第に環境に慣れ、そこでの人とのやり取りに息苦しさを覚え、倦(う)み、耐えている時、ふと、
彼女と一緒にいた時の空気――水を、懐かしく思うのだった。
空気が良い、水が合う、ということ。
それはあまりに体に馴染むので、渦中にある時、恩恵をはっきり意識することはない。
まして、それは選び競争した上で勝ち取ったわけではなく、当たり前に、親に与えられた環境として、そこにあったものだった。
同じ学校に通いながら、寛子と一佳は、なんとなく居心地が良さそうな場所として、同じ生物実験室を選んだだけあって、休日に出かけたいような場所も似通っていた。地方都市ゆえの、選択肢の狭さというものはあるが、ともかくなにかと距離を縮めやすい同級生たちを差し置いて、毎週末、誘い合って出かける仲になるまで、時間はかからなかった。
当時の寛子は、気楽さを優先して、固定の所属から逃げ回るように、気ままに同級生たちのグループや部活動仲間の間を泳ぎ回っていた。
一佳の方は、もう少し人間関係に対して不器用だったが、そんなところが愛しくて、もっと知りたいと思った。
行動を共にすることが増え、むき出しの言葉を気軽に交わしていたら、あっさり信じられないくらい近くまで、寄ることができた。
互いの間に、障害物のようなものがなく、つまづきがなかった。――それがどんなに稀有なことか、人生経験が少ない頃だから、
わからなかったのだ。
なくしたら、もう簡単に手に入らないものだとわかっていたら、どうしただろう。そんなことを、考えても遅い。
「せんぱいは、今、何しているんですか?」
「無職だよー。色々あって、ちょっとのんびりしてる」
彼女固有の会話のテンポを自分の舌が思い出すと、するするする、と、言葉が出て来る。スムーズに過ぎるほど、ほとんど思考を介さずに発された言葉は、当時の無遠慮な色を滲ませていた。
――そんなことを前触れなく明かされても、一佳がコメントに困るだろう。
そう遅れて悔やんだものの、彼女はもちろんもう中学生ではないので、器用にするりと地雷を跨いでみせた。
「……のんびり。それは、良いですね。ご実家ですか?」
「まあね。一佳はいつまでこっちに?」
「明日には帰らないと。正月休み、短いんです」
一佳はいわゆる、丸の内OLというやつらしい。
――協調性のなかったあの子がよく、就活をかいくぐって……。
後輩の成長を寿ぐ気持ちはあったが、無職の寛子が上から目線で褒めて良いこととも思えず、結局、スムーズに会話を流すことに努めるのみだった。
「そりゃあ、大変だ」
「はい。また新幹線やらなにやら、四時間、缶詰です」
「お疲れさんだ」
「せんぱい、遊びに来ませんか?」
「……いつ?」
「いつでも」
「そりゃあ……良いね。けど、無職の身で遊び歩くのも、実家の目が、さ。親はそろそろ、定年が見えてきてるし。早く仕事見つけろ、ってうるさいから」
「……そうですか」
きっかけがなければ、また、自然消滅するだけだろう。大人の暇が噛み合う瞬間というのは、奇跡でも起こらない限り、めったにあるものではない。
これで永劫のお別れ、と思えば、少しさびしい気もした。しかし、一度ほどけた糸のしっぽは、容易には手の中に戻らないものだ。
ひょろり、ひゅるり、相手と自分の間を横切る糸。さあ、いつまでそこにあってくれるものか。別のものに気を取られた瞬間、波間に潜って二度と帰らない、それは未練の影か――。
会話の何かの拍子に、寛子は努めて明るく、あははっ、と笑ってのけた。繊細な糸を脅かす、ざわめきの泡。だってあれは、いつまでも追っていても仕方のない影。実りのないただの楽しさだから。
――さあ、せめて再会は楽しく、思い出は愛おしく。
形良くやり過ごそうと思った寛子の目の前で、一佳はバッグを探り、スマートフォンを取り出した。
「チャットアプリ入れてます?」
「ああ……あれね、前の職場で使ってた」
寛子は導入時以来、連絡先を新しく入れるということをしていなかったので、少し手間取りつつも、ふるふると互いの端末を揺らすことで、相手の連絡先を小さな箱に閉じ込める。
そのすぐ後、マイクの拾う、こつんこつんという雑音が、会場に広がった。壇上を見れば、マイクの前にはいかにも偉そうな来賓が、長い話を始めそうな雰囲気で立っている。
「テーブルに戻った方が、良さそうですね」
「そうだね。じゃあ、一佳。ばいばい、……また」
一佳も、せっかく遠くから来て、寛子とばかり話しているわけにはいかないだろう。寛子も後で、顔なじみの先生に挨拶しに行こうと思っている。大勢、人がいる会場で、きっと、このまま入れ違いになってしまう可能性が高いだろうことは、予測がついた。
――約束してたわけじゃないんだから。
偶然とは言え、ばったり会えて、久しぶりに顔が見られたことを喜ぶべきなのだろう。自分の体が火照るように熱く、この不意の出来事に驚き興奮しているらしいことはわかったが、どういう感情によるものかは説明しようがなく――ひらひらひら。なんとか軽やかに手を振って、笑みを送る。
一佳の方も同じものを返してきたら、それでしまいの筈だった。
しかし。
「せんぱい」
一佳はひらひらと手を振り返しながら、寛子の息が止まるようなことを言ってのけた。
「せんぱい、東京で転職するのは、なしですか?」
――……なんだって?
「……え? えー……。良いけど、なんで……東京?」
「私がいます」
「…………」
どういう意味だと問い返したいのを、見栄で堪えていると、一佳は顔色一つ変えずに言うのだった。
「面接受けにいらっしゃるなら、家にお泊めしようと思って。お金、浮きますよ。連泊だとばかにならないでしょう。使ってください。日程決まったら、連絡くださいね。じゃ」
言いたいことは言った、とばかりに踵を返した一佳の、すっと伸びた背中は、未練の端もひらつかせることなく人の波へと消えて行った。
――どういうこと……。いきなり、東京って……?
一緒に東京の大学を受けようね、というような、ある種気軽で無責任な学生同士の約束とは、違う。もう互いに生活が――地に根付いたそれが、ある筈だ。ある程度、スタイルだって固まっている。たとえ職がない状態だって、様々な縁が絡まり、そうっと寛子を縛っている。そういうものだ。
東京……。
寛子は呆然と、遠くにある首都のことを、思った。
一佳以外には知り合いもいない。親戚がいるという話を聞いたこともない。土地勘もゼロだ。理由もなく東京に憧れる友人たちも、高校、大学とそれぞれいたことにはいたが、はっきりとしないながらも、おそらく理由は彼女たちの中に存在した筈だ。流行りの店があるとか、服が買えるとか――。
ただ、その希望をある程度叶えてくれる都会としては、関西の方が距離的に近かった。化け物じみた巨大さ、どこか機械的な冷たさを感じさせる東京よりは、大阪の方が心理的に親近感も持てる。大学時代を関西で過ごしたので、土地勘もあり、困った時に頼れる知人もいる。
そちらで転職というのならともかく――。一佳がいるという理由だけで乗り込むには、あまりに説得力に欠ける誘惑だ、と結論付けて、寛子は自分の中に舞う澱をなだめた。あまりに説得力に欠ける、筈なのに、そんなことをあの聡明な子がわからない筈はないのに、と思えば、理屈に合わない気がして、余計に気にかかってしまうのかもしれなかった。
結局、その日はそれきり一佳と話をしなかった。遠目に、元担任と話している彼女を見かけて、邪魔をしないように距離を取った、それが最後だ。
同窓会から日が経つほどに、寛子には、あの日の彼女が自分の願望の見せたまぼろしだったのではないかと思われ、あの時の淡い興奮を何度も思い起こさずにはおれなかった。
そして回想するごとに、「東京」という言葉が、自身の内側に擦り込まれていくような心地がするのだった。
◆
そして。
同窓会から半年後。寛子はリクルートスーツ姿で、真夏の東京駅に降り立っていた。
紆余曲折――というべきようなことは、なかった。仕事が見つからないまままっすぐ困窮に向かって一直線、普通ならありそうな筈の抜け道や近道ひとつ見つからず、このままだと詰むな、と、記帳したばかりの銀行通帳を見た瞬間、突然、電撃的に、覚悟が決まった。
それで、賭けに出ることにしたのだ。負けがこむほど、人はギャンブル的な選択肢に執心するという。今の寛子には、不本意ながら、その気持ちが痛いほどわかった。
両親に話すと、当然のように当惑と反対の態度で迎えられたが、彼らは娘を私立の中高一貫校、そして県外の私大にやれた、金銭面で今基準で言うなら「勝ち組」だ。感覚が違う世代の人なのだ。
「選り好みしなければ、地元にだって仕事はあるだろう。見つけきれないだけで」
父と母の言うように、親元にいられ、身の丈に合い、給与や休日数に納得のいく「普通」の会社だって、なくはないのだろう。
けれど、待遇というのは、すべて雇用契約書に明文化できるものではない。言葉にならない居心地の良さ悪さというのは、人間関係を含めて存在するし、生きていくのもしんどいレベルの環境というのは存在する。どうしても。
寛子の前職、前々職の経験、転職活動でいくつかの職場を訪問したり、遊びに行った先で見る同年代店員の顔、友人の愚痴などから、否応なしに受け取れてしまうものがある。
どうやら、「当たり」の可能性が、なかなか低いようだ、と。
体感でわかっていることというのは、他人には、たとえ親でも、うまく説明ができないものだ。「あなたの主観でしょう」で済まされてしまったりする。だが、生存に響くレベルで「ヤバい」職場というものが世の中にはあって、動かなくても死ぬけれど動いても割と死ぬ、ということが現実にあるということを、知らない人たちは知らないものだ。
――選り好みが激しくてすみません、お父さん、お母さん。地元平均の「普通」より適応力が劣るらしい、私のことは、諦めて。
そう思い、最終的には、説得を諦めた。転職サイトでエントリーしたいくつかの会社から面接の日程確認が来ると、それをまとめた日程で受けられるように調整し、一週間ぶんほどの着替えをキャリーカートに詰めて、早朝、家を出た。
サラリーマンに混ざって平日の新幹線に乗り込みながら、なんだかプチ家出のようだな、と思うと、笑いが出たものだ。生まれつき色素が薄く、地毛が茶色に見えるからと、一部の教師に不良のような言われ方をした学生時代にも、そんなことは一度もしたことはなかった。いつだって、他人の言うことは、本当の寛子の思いには掠りもしない。つまらない――と、倦んでいた時に、出会ったのが一佳だった。彼女だって、時に的外れだったけれど、間違ったピントで人を決めつけるようなことは、絶対に言わなかった。
新幹線が滑るように高速で動き出すと、不思議な解放感が寛子の胸を満たした。
――遠くへ行く。
遠くへ行ける。それだけのことなのだけれど、それは、自分を息苦しくさせるものから物理的に離れられる、ということでもあるのだった。東京で転職がしたいかどうかは未だに答えの出ない問いだが、それはそれとして、自分は息がしたかったのだ――と、行動に移してようやく気付くのだった。
電波が通じにくい地域を抜けると、気持ちが前向きになり、追加でいくつかの会社にエントリーし、日程的に参加できそうな転職セミナーにも申し込んだ。スケジュールがあらかた埋まってしまったこともあり、一佳の連絡先は、ホーム画面を眺めるだけに留めておいた。まだ、連絡は取らない。だけど、一佳のいる東京に、今から行く――。
降り立った東京駅は、とにかく人が多かった。沢山の在来線が乗り入れていて、更に大勢の人をいずこからか運んでくる。
駅や電車に配されたデジタルサイネージや巨大ポスターが、行き交う人々に対し、様々な商品やイベントをアピールしていた。
TVや雑誌で見たことのある商業ビルや劇場、博物館や、ドラマのロケに使われるようなお洒落なカフェが、確かに自分と地続きの場所に実在していて、気が向いた時に目の前の電車に乗り込めば、ほんの短い移動時間や安い運賃で運んで行ってくれるのだということに気付くと、未来にタイムトリップしてしまった人のように、落ち着かない気持ちになった。
滞在中、前もってどうしても行きたい、という目的地はなかった筈だけれど、面接の前の時間潰しや、一日の予定を消化した後に、「せっかくだから」と貧乏性に駆られて、有名な建物を踏破してみることを覚えた。
どうやって足場を組んだのだろう、と思わされるような高層建築物群は、涼風のような感動を吹き込んでくれたし、誰もが知るランドマークも、TVや雑誌経由ではなく、確かに己の記憶に所有したのだと思えば、親しみが湧いてくるものだ。
……と言いながら、開業したばかりの東京スカイツリーに関しては、人の多さにめげて最寄り駅までも近付けなかったのだが、その優美な姿は浅草などからも眺めることができた。
ひとつひとつ、本当にあるんだなぁ、と、シンプルな感慨に打たれながら、自分は現実というものからひどく遅れているのではないか、という焦りにも襲われるのが、我ながら面白かった。
――これがおのぼりさん、の心境ってやつ。なるほどね……。
かっこわらい、と自嘲の笑みを浮かべながら、それでもそれなりに感動を覚えつつ、寛子は窓の外、夕映えに照らされ始めた東京駅舎を見遣る。
最初に到着した時は駅の複雑さと人の多さに挙動不審になり、建物を眺める余裕もなかったものだ。一週間足らずで、少しはこの空気にも慣れ、短期の観光客よりは少しなじんだ心地で、駅舎を見ることができている。
グレーの丸屋根をかぶった赤レンガのレトロ建築は美しいけれど、周囲の高層ビルディング群とはまるでマッチしていなかった。
が、それだけに、時代を超えて残された貴重なものなのだ、という矜持を示すことに成功しているようだ。当然、今はガス灯ではないのだろうが、それを思わせるオレンジ色の明かりが、徐々に彩度を落とし始めた丸の内に、存在感を現し始めている。
ぼんやりと頬杖をついて見惚れているうちに、ようやく待ち人が現れた。
「せんぱい。お待たせしてすみません」
――と言っても、彼女が待ち合わせ時間に遅刻したわけではない。
律儀な性格は変わらないらしく、定刻通りの到着だった。
寛子が、勝手に待ったのだ。
――同窓会の日から。楽しい遠足が終わってしまうのを嫌がる子どものように、再会を先延ばしにしてきた。やっと――、と思うと、自分で決めた縛りだというのに、心臓が高鳴ってしまう。
一佳は同窓会の時とほとんど変化のないオフィスカジュアル姿だったが、唇に乗ったグロスの光沢が妙に艶っぽく映って、どきりとした。
――きれいな子。っていうか、やっぱり、好きな顔……。
「よっ、お疲れ、丸の内OL。似合ってるじゃない」
――小学生男子か、もしくは親戚のおっさん二回目か。
逸りを隠すための、つまらないからかい文句に、寛子自身が辟易する。一佳も「ばかなんですか?」という目つきをしてみせたが、特に反論もせず、聞き流すことにしたらしかった。
「ここ、すぐわかりました?」
「あ、うん。助かったよ。下のカフェはいっぱいだったし」
東京滞在予定の半分以上を過ごしてから、寛子はようやく、一佳に連絡を取った。
『今東京来てるんだけどさ、帰る日は予定ないから、会わない?』
そうアプリに送信すると、一佳はすぐに返事をよこした。
待ち合わせ場所に指定してきたのは、東京駅の至近に新しくできたばかりだという元中央郵便局局舎を使った商業施設だ。四階に局長室の再現スペースがあり、誰でも入れるようになっている。
東京駅舎と同じく、明治大正期の官製建築の重厚さを思わせる空間に椅子が置かれ、窓からの眺めも良く、静かで待ち合わせには最適に思えたが、あまり人気がないのか、知られていないのか、一佳が現れるまでは、寛子ともう一人、中年の女性が座っているのみだった。
「ここ、雰囲気良いんですけど、飲食できないですからね……。のど乾きません? せんぱい」
「大丈夫よ。今の時間、どこも混んでない?」
「少し駅から離れれば、座れるカフェあると思います。すぐに見つからなかったら、歩かせてしまうかもしれませんが……」
「それは構わないけど」
「じゃあ移動しますか。荷物持ちますね」
「えっ、いいって……」
足元に屈み込み、荷物一式を詰めたキャリーカートに手を伸ばす一佳を、寛子は慌てて制した。
「せんぱい、お疲れでしょう?」
「いやいや、それは仕事してきた一佳こそ」
「別に。座り仕事なので、体は元気です」
「私も、今日はほとんど何もしてない。ロッカーに放り込んでて、さっきまで手ぶらだったし」
荷物をかばうようにして持ち手を確保しながら、寛子は初めて見る一佳のリードに面食らっていた。
結局のところ、ここは寛子にとって不慣れな土地だ。この後食事する店も、一佳に任せてしまっている。ただの元同級生ならばそれに甘んじて楽をさせてもらうことも「あり」だっただろう。兄の妹、末っ子の寛子は、それなりに要領の良さを自認していた。
――だけど、一佳は後輩だし。学生時代はそれなりに……えらそうにしてしまったから。
自業自得とはいえ、今更、ばつが悪いのだった。
中高一貫校に二年早く入学し、学年が上。意識しないまま、優位性を保ってきたが、互いに大人の外見になれば、あまりその頃の関係を引き摺ってばかりもいられない。
一佳はすっかり大人っぽくなった。そして、すっかり大都会になじんでいる。求職中の寛子は、うっかり引き比べてしまい、自分が半人前のような心地になって、卑屈だなぁと肩を竦めるのだった。
そんな内心を読ませまいと、寛子はへらりと笑ってみせる。
「自分で持つよ。さ、どこに連れて行ってくれる? 一佳」
元気良くけしかける。
上京中はほとんどチェーンのカフェのサンドイッチなどでお茶を濁した寛子だ。どんな店でも、座れさえすれば文句を言うつもりはなかった。
けれど、一佳はバッグからスマートフォンを出す。
わざわざ検索するらしい。
「何がお好きですか? 和、洋、中、エスニック……」
「なんでも食べるよ。一佳の好きな店でいいけど」
「あんまりこの辺詳しくないんですよね……高いし。色々あり過ぎて。会社の飲み会の時くらいで……」
――そうか、高いのか。
密かに財布の心配をしていると、一佳が質問を重ねた。
「今日、時間、どれくらい大丈夫なんです? 新幹線なら近いところにしないと……」
「夜行バスだから。八時過ぎくらいまでは大丈夫」
「バスなら、お酒はやめておきますよね」
「一杯くらいなら平気だけど、……酔うかな。そっか、一佳もお酒飲めるようになったんだよね。なんか感激~」
「何を今さら」
「だって、同窓会じゃウーロン茶のグラスだったじゃん」
「ああいう場所で酔って、何が楽しいんですか?」
――あーあ、相変わらずの物言い。
「変わらないね。昔のあなたなら、ああいう場所に行くのだって、何が楽しいの、と言いそうなものだけど」
一佳は端末を注視して、からかう寛子をスルーする。
腹は立たない。そうだ、こういう子だったなあ、と思えば、変わらなさが愛しくなった。
普通は社会で揉まれているうちに角が丸くなるものだと思うのだけれど、そうなってはいない、強さが眩しい。
――というのは、「無敵の女子中学生(JC)」から変わってしまった自分への哀悼も含んでいるのかもしれないけれど。
黙って待っていると、やがて一佳が自分の端末を差し出した。
お店の情報ページが、目の前で素早くスライドされていく。
「ここはお惣菜が選べるお店。ヘルシーで胃がもたれないかも。洋食だと、ここならお酒頼まなくても、ワンプレートでしっかり夜ご飯できます。エスニックだと、前行った店なんですが、ここの海鮮が美味しいです。で、ここは薪窯のナポリピッツァの……」
候補の数と検索に要したスピードからして、前もってピックアップしておいてくれたのだろうということがわかる。寛子が連絡してから、数日しかなかったのに。
ありがたい、と思いながら、寛子は店を即決した。
「一個前のところ、デザートがおいしそうだった」
「じゃあそこにしましょう」
大事なのは何を食べるか、じゃない。
彼女と一緒にいる時間を、どれだけ無駄にしないか、だ。
――ちなみに、お値段もそれほど高そうではなかった。
◆
無事店を決めたものの、時間的にまだ食事には早い、ということで、まずはそのビル二階のミュージアムに連れて行かれた。
東京大学のコレクションだという、ミンククジラ、アカシカ、キリン、幻の巨鳥エピオルニスなどの骨格標本や、哺乳類や鳥類の剥製、昔の医療器具や鉱石のたぐいが、詳細な説明もなく広大なスペースにただ並べられている。
重厚な観賞棚の印象もあって、少しばかりマッドでお金持ちな博士の秘密の展示室、という感じだ。かすかに漂う埃と薬品が混ざり合ったようなにおいは、二人が出会った生物実験室を思い出させた。
一佳は、ちらりと寛子を見て言う。
「せんぱい、こういうのお好きかなって」
「うーん、うん、そうだね」
「もし私が来るまで時間を持て余していたら、通り道に覗けるかな、とも思って」
――こんなに気を使う子だったっけ。
戸惑いながらも、寛子は殊勝に礼を言う。
「なるほど、ありがと。そうだね、上野の博物館には行ってみたよ」
「上野……かはく? トーハク?」
「……えーと」
「こういう感じの標本がある方ですか?」
「そうそう。首長竜がいるところ」
「なるほど。かはくです」
愛称ないしは略称だろう、と遅れて気付いた。国立科(・)学博(・)物館。
――わざわざ略する必要あったか?