現実から浮いてしまう一佳だから、きっと物語の中ですらつまはじきにされ、居場所がないだろう。
 書店を歩けば、同性間の愛の話も見つからないではないけれど、ページを開けばどぎつい性愛や都会の風俗描写に面食らい、すぐに棚に戻してしまうことを思い出した。
 急に落ち着かない気持ちになって、一佳はベッドに戻り、倒れ込んで丸くなる。
 ――他人が住んでくれて、良いのに。私の代わりに、素直でかわいい十四歳の女の子が、この家から通学してくれたら。
 玲香も以前のように、笑顔を取り戻すかもしれない。クラスの空気も良くなるだろう。万事解決、なのに。
 好かれにくい自分を、一佳は、自分が一番わかっていた。
 かわいい、とは、可愛い、と書く。
 愛せるわけがない、と一佳は思う。
 涙が出た。
 明日が来て、学校に行くのがおっくうな時間に、ぱらぱらと騒がしい夜の気配が、悪い魔法をかける。
 気分の昂りが眠気を払うことも、べそべそしていても何も解決しないことも、わかっているのに。
 生暖かい涙が、頬を濡らす。首まで垂れれば、蒸れて痒くなる。
 引っ搔けば、痛い。繰り返せば傷になりそうで……踏んだり蹴ったりだ。
 一佳は、もう一度起き上がると、机の引き出しを開けた。
 中身が半分ほどに減った、小瓶を取り出す。
 特に何の日でもない時に、なんとなく寛子がくれた、使いかけのコロンだ。蓋を外し、手首に一滴、落としてみる。
 雨上がりに木蓮の木の下に立つような、すっきりとした甘い香りが広がると、寛子の笑顔と声が自然に浮かんだ。
「……かわいいよ。一佳ちゃんは、世界一かわいい」
 体の中から逃げ出したがっているようだった心が、その響きの余韻を捕まえた瞬間、定位置におさまった。
 ――こんなことで負けない。厭でも、学校には行く。
 寛子がいるから。
 ……そういう理由付けで動く自分自身のことが、浅はかにも思えてしまうけれど、そこは妥協ラインだった。


 寛子がいるから――。
 という考え方は、やはり危険だということを、そこから一週間もしないうちに一佳は思い知った。
 何の日でもない、六時限授業の火曜のある日。
 通い慣れた生物実験室に足を踏み入れると、高等部の制服を着た寛子と、同じ色合いの制服の男子が、壁際で見つめ合っていた。
「…………」
 一佳は、何も言わずに自習用の定位置に座ると、英語(グラマー)の教科書を広げる。
 男子は小さく言葉を発すると、さりげなく実験室を出て行った。
 寛子も、何事もなかったかのように自分の鞄のある席に戻り、本を読み始める。
 いつもなら、半々の確率でちょっかいをかけにきて一佳の勉強を邪魔するのだが、たまたまそうしない日なのか、意味のある行動なのか、判断がつきづらい。
 一佳の胸の中に、正体のしれないもやもやが広がった。
 出て行った男子生徒と寛子の間に漂っていたと思われる空気の残り香を嗅いでいると、悪い方、悪い方へと考えが進んでいく。
 その予感が万一当たっていたとしても、一佳の立場で、何を言っていいのかわからなかった。
 放課後に会い、時々キスをする、先輩と後輩。
 という関係に、今のところ、名前はついていないのだから。
 ――やだな。
 我慢しようと思ったのに、教科書にぽたり、と涙が落ちる。
 静かにポケットティッシュを出して、拭って乾かそうとするが、止め方がわからなかった。
 真夜中でもないのに、コントロール不可能な後ろ向きの予感を察知して、一佳は前方の席に座る寛子にばれないように、そうっと溜息を吐いた。
 内に溜め込むくらいなら、ストレートに聞いてみたらいいはずなのに、実行に移すことができない。いつもそうだ。
 どこかでブレーキをかけているのかもしれない、と、思う。例えば一佳の想像した以上の事態が進行していたら、受け止められない。
 もし、寛子が彼氏を作ったら。
 もし、母か父が、他にパートナーを作って家を出て行ったら。
 一佳はもっと、孤独になる。
 あなたがかわいくないから自業自得、と言われれば、反論はない。
 ――特に、せんぱいは。いつ、「ふつう」の方に戻るわ、って言ったとしても。止める方が悪人みたい。
 一佳は、一佳であるだけであちこちに不具合を起こす。ただでさえ「間違い」みたいなのに、想う相手まで同性で「ふつう」と違う。
 そんな自分が、悲しくて仕方ないのも加わって、途切れない涙を俯いて拭い続けていると、頭上から声がこぼれ落ちてきた。木蓮に似た、香りとともに。
「……英語の宿題? 泣くほど難しいの? 長良(ながら)ちゃん」
「……せ、んぱいには、わかりません……」
 机を挟んだ向こう側に立つ寛子には見えないように、一佳は濡れた手の中に使用済みのティッシュを握り込む。
 泣きたいのではない。止まらないだけなのだ。
 見られたくなかった。でも、もう自分ではどうしようもない。
 寛子はひょいと教科書を掬い上げて、英語で書かれたテキストに目を走らせる。
「出た。良くないよ。何も話さないの。見せてごらん。……懐かしいな。二年の教科書……」
「……どうせ……」
「うん?」
「……せんぱい、何でも、おできに……なるからっ」
「いや、英語苦手だよ。でも言うだけ言ってごらん、一佳ちゃん。どこがわからないのか……」
 二人きりの、特別に甘い声を出す時だけに使う呼び名は、電気のように、一佳の耳を痺れさせる。
 ――その麻酔にハマって、今、この始末だ。
「頭からゆっくり読んでいこうか……『人々はニューヨークを、大きなりんごと呼んだ』……」
「今! ニューヨーク、どうでも良いので!」
 口を開いたら、ろくな言葉が出てこないのは、わかっていたのだ。
 しかし猫なで声で先生ぶる寛子が、一佳の涙の理由について、わざとわからないふりをしているようで、ゆるせなくて、誘われてしまった。
 導火線が短い。……それが一番の欠点だと、自覚はある。
「……え。どうでも……良いんだ?」
 寛子は、リスのような目を丸めて驚く。ごもっともだ。
 激昂する自分、をどこかで冷静に見ている一佳は、苦々しい顔をしている。
 ――理性より、感情。都合の良いところだけ女の子。
 したくないのに、コントロールが巧くない。
「……そっか……? まぁいいや、ちょっと、待ってなさい」
 寛子は首を傾げつつ、部員特権で鍵を持っている準備室の方へ向かった。
 歩くたびに揺れる茶色の髪は、百獣の王のたてがみに似て誇らしげだ。染髪はしてない、と、本人が言い張る髪。その「本当」に、教師も、誰も口出しできない。
 自分の「本当」を、守り切る。それができる人は、多くない。中高一貫の学園という狭い箱庭は、教師はもちろん、力のある生徒が白と言えば白になる場所だから。
 皆に一目置かれる寛子だから、できること。そういうすべてが眩しくて、時々、憎らしくもなる。ふつうは、無理なのだ、と、――彼女に伝わらないことは承知の上で。
 寛子は絶対しないけれど、それでも、できないことをいつか責められるような気がするのが、怖い。
「ほら、……これ飲みなさい」