一章 一日目 
 
― ❄️ 姫乃(ひめの)side ―
 12月の函館(はこだて)
 朝の空気は、清々しいほどに冷えて澄んでいる。
 私は港を背に、雪化粧して白くなった八幡坂(はちまんざか)駆け上がっていた。この観光名所の長い長い坂道を登りきったらやっとバイト先の工房に辿り着く。
 後ろから聞こえるカモメのもったりした鳴き声が、のんきでムカつく。
 いつか振り返って大声を出してやろうかと思う。だけどきっと、そんなことをしたら、カモメの前に通りすがりの人を驚かせちゃって、私がただの変質者扱いされるだけなんだ。
 私がついたため息は、白くなって後ろに流れていった。
 
 坂を登り切って左に曲がったら、店の前に立て看板が出ているのが見えた。
 開店前なんだけどいつものことで、店の主とは折り合いがついている。
 ショーウインドウのなかにはクリスマス用の飾り付けがしてあった。ガラス窓のむこうには大きな木製の赤いソリとその上に乗る大きなテディベアが置かれている。
 
 今日も時間ぴったり9時に間に合った。

 
喜多(きた)せい子 陶芸工房』
 看板娘は、せい子おばあちゃん。「おばあちゃん」なんて本人に言ったら、洗濯機みたな陶芸用の電気窯にぶち込まれるかもしれない。なんてったって、65歳のせい子は絶賛婚活中の乙女だ。
 そんなことをぶつぶつ考えながら、私はバイト先のドアを開けた。
 
「先生、おはようございます」
「おはよう、姫乃さん。今日も時間ぴったりね」
「当たり前じゃないですか」
「まあ、たくましいこと」
 ネイビーのエプロンをした先生は、ほうきを持ったまま私に微笑んだ。
 いつも赤みがかっている先生の顔色が青白い。
 私が視線を落とすと、先生の足元には割れた陶器の破片が山になっていた。



― ⚓︎ 伏見司(ふしみつかさ)side ―
 8月のヴェネツィア。
 暖かい昼下がりのカフェは、東京駅のスタバ並みに忙しなく混んでいるが気にしない。
 僕は一人でテラス席に腰掛けて、定番のティラミスとカプチーノを楽しんでいる。
 約束の時間まで、まだ少し時間があった。
 水路を流れる水は濃く濁っていて、とても綺麗とは言えない。それでも、夏の日差しが水面に反射して、ゆらゆら揺れる光の玉が美しく見える。
 
 僕の足元を、一匹の黒猫が軽やかに駆け抜けた。
 映画の『サマータイム』みたいに素敵な出会いがあったらいいのに、もしくは『007 カジノ・ロワイヤル』のようなスリリングな事件に巻き込まれてみてもいい。
 伏見司は、最近手がけた大きな仕事がうまくいって最高に気分が良かった。
 そして、次の仕事の決行を考えている間に、移動手段が故障して足止めをくらっている。
 
 不意に、ポケットに入れたスマホが震えた。取り出して通知を確認すると、短いメッセージが届いていた。

喜多春生(きたはるお)の件です。面白いネタが手に入りました。伏見さんは、いくらまでなら出せますか?』
 喜多春生と言ったら、裏社会で有名な古美術商だ。

 伏見は少し考えてから『いくらでも。』と返した。
 ふと、ジュエリーショップに置いてきた仲間のことが気になって電話をかけてみる。
 電話はすぐにつながった。

『ボス、これからすぐに出発するとか言わないで下さいよ? 無理ですから! 私ひさびさのベニスで買いたいもの、いっぱいあるんですから! それに船だって、まだ修理中ですよ!』
 声が大きい。
 僕はスマホを耳元から離した。
「怒鳴らなくても聞こえているよ。次のネタを転送する。確認しておいてくれ。あと今回は彼の協力が必要になりそうだ。そっちの手配もよろしく」
 それだけ言って通話を切ろうとすると、通話相手から慌てて呼び止められた。

『私、あのひと好きじゃないんですよ、すぐ散らかすし、何を考えてるのかよくわからないし……でも私、我慢して働きますから。だからアンティークのシャンデリアを経費で買っていいですよね?』
 せっかくの気持ちのいい昼下がりを、これ以上愚痴聞きで邪魔されたくない。金で解決できることは、さっさと解決してしまえばいいんだ。
「はいはい。どうぞ」
 僕は呆れて通話を切った。
 
 ふと気づくと、黒いキャップを被った小男が笑顔で近づいてくる。小男はヒゲモジャにサングラスをかけていて、顔のほとんどが隠れている。男は、人懐こくにこやかに声をかけてきた。

「相席わるいね」
 クセの強いダミ声だ。内心迷惑だなと思いながら、僕は相席を了承した。
 男は僕の正面に腰を下ろすと、テーブルに肘をついて美味しそうにタバコを吸いはじめる。そのまま天気の話でもするように、自然に話しかけてきた。

「あんた、さっきの船の持ち主だろ? あれは最高にイカしてるな。俺はハリウッドの映画制作チームで働いてるんだ。今作ってる作品は、タイタニックを超える映画史上最高傑作になると思う、間違いなく。それで、君の船をセットのモデルにしてもらえないかな」
 男が話す流暢な日本語に、僕は驚いた。ただ、この男の話は嘘くさい。
 だから僕は一度断って、様子を見てみることにした。

「こう見えて、僕も暇じゃないんだ。他をあたってくれ」
 僕はカプチーノを口に含んだ。
 スマホの画面を見ると、待ち合わせの約束相手から、遅れる旨のメッセージが来ていた。
 男にチラリと視線を向けると、男は身を乗り出してきた。

「もちろんタダでとは言わない。謝礼なら払うさ!」
 そう言って、両手首に巻いたゴールドのロレックスをジャラジャラ見せびらかしてくる。
 ――暇が潰せそうだな。
 僕はスマホをしまって男に向き直った。

「……あんたの代表作は?」
「アバ、アバター……だったかな?」
 男はヒゲを撫で付けながら首を傾げた。
 僕はカプチーノを吹き出しそうになって、慌てて飲み込んだ。

「はは、嘘だろ。それが本当だったら全米興行収入歴代No.1だよ。あんた胡散臭いけど面白いこと言うね。……名前は?」
「最高の映画を作ってるのは本当だ。名前を教えてやってもいいけど、どうせウィキで見るだけだろ? それより、この近くに撮影用の道具を集めた倉庫があるんだ。覗いて行くかい?」
 男はにこやかに明るく言う。僕は、この陽気な男がいつの間にか好きになっていた。

「行く。ハリウッド映画の美術倉庫を見学できるなんて最高だよ。さっきはああ言ったけど、僕の子供の頃の夢は映画監督になることだったんだ。僕の船は修理中だけど、好きなだけ見てもらって構わない。あとで案内しよう」
 僕の心臓の鼓動は、どんな大仕事を達成した時よりも遥に高鳴っていた。
 


 ⚓︎

 12月の函館。ホテルの部屋で、伏見はネイビーのジャケットに袖を通した。
 姿見鏡の前で、都が選んだネクタイを合わせる。

「まぁ、お似合いです、ボス。たまにはスーツもいいですね」
 後ろに立っている馬場都(ばばみやこ)と、鏡越しに目があった。彼女は、いつもの冴えない白いダウンを着ている。これでいい。僕が彼女に期待しているのは、相手の懐に入り込む図々しいコミュニケーション能力だ。変にオシャレしてお高くとまっているより庶民的でずっと印象がいいはずだ。

「雑誌の『宝船』なんですけど、5冊鞄に入れておきますね」
 都はハムスターみたいにきびきびした動作で、出かける準備を進めている。

「ミーコありがとう。『喜多せい子工房』の様子は?」
 僕が聞くと、馬場都は笑顔で答えた。
「大丈夫です。取材キャンセルの連絡は来てません」
 伏見が鞄を持ち上げた拍子に、何かが床に転がり落ちて棚の下に入った。
 棚の下に手を差し込んで拾い上げてみると、シルバーのzippoだった。
 これは確か、ベニスで会った男が持ってたやつだよな……。
 伏見は、ふと懐かしい気持ちになる。

「ボス! もう行かないと遅れちゃいますよ!」
 都に急かされて、僕は急いで部屋を出た。 




 ― ❄️ 姫乃side ―
「どうぞ」
 私は、熱いお茶を淹れた湯呑みを先生の前に置くと、自分はテーブルを挟んだむかえ側の丸椅子に腰を下ろした。

「ありがとう」
 お淑やかな声の後に、ずずと茶をすする音がする。
 私はタブレット端末で今日の予定を確認して、ため息をついた。

「先生、今日の陶芸教室はお休みにしましょう」
「大丈夫よ、予約してくださった方に申し訳ないもの」
 私は、はっとして顔をあげた。
 なんだか先生らしくない。
 いつもの先生なら、風邪の引きかけ程度でも理由をつけて休もうとするのに__。
 あんなにたくさんの陶器を、先生が割ったにしろ、誰かが壊したにしろ、こんな状態は普通じゃない。店を臨時休業にするのが普通だ。
 
 それに、私の目に映る先生は、全然大丈夫そうじゃない。
 湯呑みを包んでいる先生の両手は、たぶん歳のせいじゃなく震えていた。
 
 窓の外で小さな鳥が羽ばたく気配がした。
 視線を外にむけた先生が、お店に起きたことを呟くように話しはじめた。
「朝来たら、工房の鍵が壊されていてね、中に入ったら作品がいくつも割られていたの。中には誰もいなかったから、犯人と鉢合わせなくてラッキーだったわ。最近このあたりで強盗事件があったけど、まさかこんな地味な工房まで荒らされるなんてね」
「何か盗まれたものは?」
「ない、と思う」
「私、警察に行ってきます」
「待ちさない。姫乃さん、警察は駄目」
 先生は、私を見据えてきっぱりと言った。
 どうしてですか? そう聞く前に先生が続ける。

「ご近所迷惑になるし、大ごとにしたくないの」
「そうですか……。でも、犯人がまた来るかもしれませんよ」
「もう来ないわよ」
 先生の様子になにか引っ掛かりを感じながら、私は黙ってお茶をすすった。ご近所迷惑って、こんなことされてるのに、ご近所迷惑を気にしちゃうタイプなのかな。奥ゆかしいというか、古風な大和撫子みたいな。
 
 先生と会ってから三週間、私は先生に怒られたことが一度もない。
 手を滑らせて出来立てのラーメンを先生の頭にぶっかけた時も、私が気取って履いた9センチのピンヒールで先生の爪先をブッ刺した時も、不注意で先生の作品を割ってしまったことなんて何回もある。
 それでも、「仕方ないわよ、わざとじゃないんだから」と言って、先生は私に損害賠償を請求することもなく、笑って許してくれた。
 それにこの店のオーナーは「喜多せい子先生」であって、私は陶芸の素人のバイト事務員兼、梱包発送係だ。
 
 だけど、たまに見せる先生の頑固な一面には、驚かされることがある。
 私は、つい三日前のことを思い出した。
 
 
 
 ❄️
 
 あの日は、陶器を窯から取り出す窯上げの日だった。
 つまり、手をかけて形造った陶器を高熱で焼き、ヒビが入らないようにじっくり冷ました作品と、先生が、4日ぶりに再会する日だった。
 窯上げの日には決まって、先生は工房を立ち入り禁止にしている。
 理由を聞いたら、「感情を抑えられなくなるから」としか答えてもらえなかった。

 そりゃ、そうか。
 陶芸家にとって窯上げは、自分が手をかけた作品が、ようやく完成系となって、生みの親に姿を見せる瞬間だ。素人の私のイメージでは「ずっと温めてきた卵からヒナが姿を見せる瞬間」とか「サナギから蝶が孵化する瞬間」とか、そんな感動的なイメージがあって、できれば立ち会ってみたいかも、なんて本音では思っていた。
 
 その日の朝、私は前日に作業で外した指輪を工房に置きっぱなしにしていたことを思い出して、店にむかった。
 指輪を取りに行くだけだから、ちょっと忘れ物を回収に行くだけ、10分いや5分だけ一瞬店に入るだけだから。
 
 だけど実際は、思っていたのと違った。
 ちょうど私が指輪を手に取ったとき、誰かが店のドアを開けて、中に入ってくる音がした。
 私がキッチンからこっそり様子を見ると、予想通り、窯の前に立っている先生の後ろ姿が見えた。
 
 蓋を開けて窯の中をのぞく、先生。
 先生の白髪の後ろ頭がゆらゆら左右にゆれたあとしばらくして、大きな舌打ちが工房に響いた。
 
 その後の先生は、机に広げた新聞紙の上に出来立ての器を次々と置き、小さなハンマーを陶器に振り下ろす。何度も何度も舌打ちしながら。
 
 そんな先生の姿を見た私は、先生を「のほほんとしたおばあちゃん」から「怒らせたらやばい人」へ、脳内修正したのだ。
 
 

 
 ❄️
 
「姫乃さん、裏の作品出すの手伝ってちょうだい。午後に取材の予定が入ってるの」
 席を立つ先生を追って、私も店裏の倉庫にむかった。
 
 倉庫の中はひんやりとしていて、吐いた息が白くなる。
 先生の指示に従って、私はせっせと倉庫から作品を出した。
 小皿、大皿、茶碗にお猪口に飾り壺。
 作品を載せている木の板ごと棚から外して、外にあるワゴンの上に並べて置く。
 黄色、黄色、黄色、白、黄色、また黄色。先生の作品のほとんどが黄色だ。
 仕方ない、黄色ばかりが売れるんだから。おばあちゃんのせい子先生の限られた体力と集中力は、売れ筋の黄色に注ぐしかない。

 出入り口に近い右側の棚には黄色い作品たちが並んでいる。
 そして反対側、左側の棚の、さらに奥の方には、黒い色の陶器たちが並んでいた。
 これらの黒い作品が店に出ているところを私は見たことがないし、黒の注文が入った記憶もなかった。
 きっと長い間置かれっぱなしになったままなんだろう、倉庫のヌシみたいな静かな貫禄が、黒く並んだ陶器から醸し出されている。



 ❄️
 
 空が茜色に染まる頃、店の玄関のチャイムが鳴った。
 
 私が戸を開けると、白のダウンを着た厚化粧の小太りなおばさんが立っていた。
「わたくし、雑誌『宝船』の編集をしております、馬場と申します。本日はお忙しいところ取材のお時間をいただき、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
 名刺を差し出した彼女の指は、焼く前のクロワッサンみたいに白い。
「同じく、編集長の伏見です」
 馬場の後ろから細身の男がひょっこり顔を出してお辞儀した。40代くらいのイケオジ風の男だった。
「せい子先生のアシスタントをしている姫乃です」
 私がそう返すと、伏見は私を観察するように目を細めた。
 そして、センター分けの前髪をかきあげると、流れるような手つきでメガネのフレームを軽く押し上げて言う。

「僕、キタノイエローのファンなんですよ」
 伏見が私に目線を合わせて、先生のことを言ったから、私は一瞬、戸惑った。伏見が目線を合わせるべき人は、私の右隣に立っているせい子先生なのではないか。というか、出会って最初にそういうお世辞を言う人は、信用できない。こんなの常識中の常識だ。こうやって褒めると、喜んでくれるって思ってるんだろうな。この人たちの世界では、そういうこと、知らないんだろうな。

 だけど、先生はそんなこと構う様子もなく、「それはどうも」と返した。
 先生の声は、言い慣れたように聞こえた。
 私が知らないだけで、先生はこれまでも取材を受けてきた経験があるのかもしれない。
 
 私は気を取り直して、いつになくアシスタントらしいことをしようと思った。
 
 
 
 私は窓側のテーブル席のほうへ二人の客人を通したあと、工房の奥にあるキッチンへ向かった。

 コーヒーを4つの黄色のマグカップに淹れ、それをお盆に載せて店の方へ戻ると、すでに取材が始まっているように見えた。
 テーブルに黄色のマグカップを4つ置くと、馬場が素敵なマグカップですねぇと、目を輝かせた。
 彼女は本当に先生の作品が好きで取材しに来てくれたのかもしれない、そう思うと私の頬は自然とほころんだ。
 実のところ、先生の作品の売り上げは、ほとんどがネット注文で、陶芸教室に来てくれるのは近くの旅館やホテルに泊まる観光客だった。それも月に一組か二組くらいしかいない。つまり、陶芸体験目当ての一見さんばかりで、先生を目的に店まで足を運んでくれるファンを、私は見たことがない。 だから、制作にノータッチのアシスタントとはいえ、先生の作品を褒められると私まで嬉しくなる。
 
 先生は黄色のカップを手にとって優しく見つめた。
「あのね、馬場さん。私ね、この黄色を出すのに、10年かかったの」
「え、10年ですか。それは相当この色を出すのにご苦労されたのですね」
「ええ、だから、今これだけ多くの人にこの色の作品を届けることができて、本当に嬉しいの」
 喜多せい子の作品には独自の釉薬(ゆうやく)が使われている。先生が自分で掘り出した土を混ぜ込むオリジナルブレンドで、それで焼いた陶器の美しい黄色は「キタノイエロー」と言われていた。
 
 私の正面に座っている伏見が、先生の言葉を受けて、興味深そうに何度も頷いている。
「やはり、奇跡は必然的に起きたように感じますね」
「馬場さん。これは奇跡ですよ」
「喜多さんの陶器はインスタのリール動画が拡散、いわゆるバズった状態になりましたよね。それもご近所の女子高生の子が『恋愛成就を呼ぶお皿』と言ったくらい、喜多さんの作品には多幸感が溢れているように私は感じます」
 そう、奇跡は突然に起きた。
 実は先生の作品は最近まで、ほとんど知名度がなく色も普通に何種類かあった。
 それが、神様か何かの気まぐれで、急にスポットライトが当たったのが、先生の作った黄色い陶器だった。
 

 
 ❄️
 
 あれは七夕の夜のこと。
 いつものようにコーギーの桃次郎の散歩に出た先生は、公園のベンチに黄色の小皿を置き忘れた。全てはそこから動き出す。
 
 先生の忘れ子皿を、学校帰りの女子高生が見つけた。優しい女子高生は小皿を交番に届けようとしたが、その途中で偶然、憧れの男子、タカハシ君と鉢合わせる。
「おう、何してんの?」
「えっと、忘れ物を交番に届けに行こうと思って」
「どれどれ、俺に見せてみ」
「このお皿なんだけど……」
「キレイだね」
「うん、キレイだよね。陽だまりみたいな色してるんだ」
「違うよ、お前がキレイってこと」
「え?」
「ずっと好きだった、付き合おうよ俺たち」
「えー! うそー! やだー! 超ウケる」
 たぶん、そんな感じで彼女の喜びが爆発したんだと思う。
 女子高生は、先生が作った小皿を写真に撮ってそれを動画にして、キラキラ煌めくエフェクトをつけてSNSに投稿した。
「恋愛成就しました❤️ 奇跡を呼ぶ陽だまり色のお皿」なんて、メッセージを添えて。

 その小皿は未だに、先生の元に戻ってきていない。犬の水飲み用に使っていた小皿を女子高生が記念品として制服のポケットにでも入れて持ち歩いていることを想像するだけで、私はなんとも言えないシラけた気持ちになってしまう。
 
 そして、その女子高生の投稿がたまたまバズった。
 小皿に書いてあった【喜多せい子】のサインから、誰かの書き込みで「幸せのキタノイエロー」と名付けられ、そこから好き勝手に派生したのが「縁結びのキタノイエロー」「合格祈願のキタノイエロー」「交通安全のキタノイエロー」「安産祈願のキタノイエロー」……誰かの承認欲求のおかげで信憑性があやふやなエピソードが繁殖し、先生の黄色い陶器が飛ぶように売れていった。
 そして、事務作業兼、梱包発送要員で求人が出ていたところに私が入ったのだった。
 
 
 
 ❄️
 
「今では、待ち受け画面にするだけで願いが叶うと言われていますよね、『幸運を呼ぶキタノイエロー』。はぁ、実物はますます神々しくて素敵です。今は便利な時代ですけど、やっぱり縁起物はちゃんと実物が手元にあった方がエネルギーをもらえますね」
 そんなことを言われても、先生も私も曖昧に微笑むことしかできなかった。
 馬場が言うエネルギーとは、きっとご利益的なもののことだろう。
 しかし、先生はバツイチ独身、私は彼氏に浮気された挙げ句、訳あってフラれたばかりのフリーだ。
 日常的に100を超える『キタノイエロー』に囲まれながら、女二人が一体なんのエネルギーを受けているのかと考えてみても、なにも思いつかない。
 
「宝船って、縁起物を紹介してるフリーペーパーでしたっけ? あんまり見たことないですけど」
 私が聞くと、腕を組んだ伏見が首を傾げた。
「まさにそうです。都内の駅には、かなりの部数置いてるんじゃないかな、ねぇ馬場さん先月号なんてスタンド100台超えたよね」
 伏見の言い方に棘があるように感じる。
「そうですね、120くらいはあると思います。今回の取材の内容は、読者人気の高い『幸福を引き寄せる、アートなパワースポット』で掲載したいと考えています」
 私は口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。店がスピリチュアル系の溜まり場になったらたまらない。

「うち、店ですけど、パワースポットになるんですか?」
「ご心配なく! もう十分パワースポットですよ」
 ここで、先生がコンコンと小さく咳払いをした。それを合図に、馬場が先生に向き直る。

「せい子さん、キタノイエローを作りはじめたきっかけを教えていただけますか?」
「そうですね。夫が昔、話してくれたんです。インディアンイエローという不思議な黄色の顔料のことを。17世紀ごろ、フェルメールが好んで使っていたことで有名な顔料がインディアンイエローです。当時は、陽の光やロウソクの灯りの表現によく使われていました。しかし、その原材料は未だ不明、現在では使用禁止になっています」
 黙って話を聞いていた伏見が、メガネのフレームを軽く押し上げた。

「不可解ですねぇ、使用禁止になっているということは、おそらく原材料ははっきりしているのでは‥…?」
「私もそういうことだと考えています。実際のところは『入手方法』の背景に問題があった。その不都合な真実を隠蔽するために『不明』ってことにしたのでしょうね。そのせいで、かえって色々と面白い諸説が生まれてしまいましたけど」
 おかしそうに小さく笑ったあと、先生の表情は和らいでいた。

「話を戻しますとね、当時学生だった夫は、留学先のウィーンで、とある小さな教会に飾られていた一枚の絵に魅了されたそうです。それがインディアンイエローを使って描かれた『朝焼けに染まる少女の横顔』でした。異国に馴染めなかった彼にとって、陽だまりのような黄色が希望の光そのものに見えたんだそうで、私に何度も何度も話してくれましたよ。そんな話を聞いているうちに、私もなんだか、黄色には特別な力があるんじゃないかって思い始めちゃって、気づいたら私自身が黄色の虜になってしまったんです」
「まぁ、素敵なお話ですね!」
 馬場は興味を惹かれたように、いっそう瞳を輝かせて声を上げた。私の目には、ものすごくそれが胡散臭く見えた。

「だけど、私の黄色はインディアンイエローとは違うでしょう? この色は私なりの解釈で作っているんですよ」
「せい子さんと旦那さん、ご夫婦の思い出の色なんですね」
「そうね、本当に思い出の色になってしまった。夫は10年以上前に行方がわからなくなって、半年前に死んだの。見て欲しかったわ、キタノイエロー」
 机を囲んで気まずい沈黙が流れる。
 私には、先生の瞳が赤く潤んでいるように見えた。時計の秒針が進むチクタク音がやけに大きく聞こえる。
 チクタクと微妙にタイミングをずらしながら、今度は自分の心臓の鼓動が聞こえてきた。
 
 
「本日から三日間、密着取材ということでちょこちょこ顔出させていただきますけど、喜多先生の自然なお姿を拝見したいので、我々のことはお気になさらず」
「はぁ、密着ですか」
「オフの喜多先生も、是非取材させてくださいね」
 60代女のオフの姿なんて見せない方が良いに決まっている。美魔女ならともかく、先生は普通オブシニアで、オフなんて老婆の休日そのものだ。
 
 
 
 ❄️

 伏見と馬場を玄関で見送ると、先生は玄関脇の小部屋の戸を軽くノックしてから開けた。
 コーギーの桃次郎が、小部屋からのそのそ出てきて、大きなあくびをする。
「姫乃さん、私、近々ここを閉めようと思うの」
 驚いて先生を見る。先生の視線は、客人が去ったばかりの戸の、さらにその先を見据えているようだった。

「あのたくさんの作品はどうするんですか?」
「うん、伏見さんたちに全部買い取ってもらおうかしらね。あの人たち私のファンらしいわよ」
「それはちょっと、もしそんなことが起きたら本当に奇跡です」
「奇跡は起こるって私は信じているの」
 先生はそう言って、微笑んだ。どうして、先生はそんなこと、信じるんだろう――。
 だって、いつも楽しそうに陶芸と向き合っているのに。私はそれが不思議でならなかった。


 
 
― 🐟️ アンナside ―
 12月の函館。
 大沼(おおぬま)公園の桟橋に小さくなってうずくまっている。こうして15分は経つはずなのに、まだワカサギが食いついた気配はない。寒い、寒すぎる、寒いっていうか、耳とかほっぺたとかじんじん痛くなってきた。
 ベテランさんに言われた通りフワフワの耳当てでもしてくるんだった。
 ショップで一目惚れしたティファニーのピアスを見せつけたくてここまできたけど、見せつける以前にもはや耳がちぎれそうなんですけど。

 例えば今、通りすがりの野生のシカの群れと遭遇したとして、そいつらが私のすぐよこを駆け抜けたらきっと、その風を受けて私のピアスは耳ごと吹っ飛ばされるに違いない。だって、北海道のエゾシカは、本州の鹿と破壊力が違うんだって相席屋で会ったタトゥーボーイズが言ってた。

 そんなことになったら、ミラノで買ったグッチのイヤーカフで、耳をゴールドにコーティングしてウィナーコーヒーをすするコメディエンヌになるしかない。それもいい、それもいいけど、アタシには刺激が足りない物足りない。だから早く面白いこと起きないかなって待ってるんだけど餌たらしてカモン函館ハッピークリスマスキャロルマイケルズ・ショーン。

「最高の祝福は地道なトラップからだよ」、そんな師匠の教えを思い出してみる。わかってるよ大丈夫、絶対うまくいく。だって仕掛けた罠は、潰れたローソンの居抜きなんだもの、誰になんと言われようと、これ以上ないほど地道なトラップ。
 
 首にかけたストラップの先でスマホがブルブルふるえた。
『ターゲットがエサに食いついた』
 絵文字なし、そっけない。
「よっしゃ!」
 叫んで立ち上がって思わずガッツポーズをした。
 その拍子に、氷の下から引きあげられた透明の糸が跳ね上がる。糸の先にはワカサギ3連チャンがキラキラ揺れていた。
 ――やっぱりアタシはラッキーガール、アタシのところには美味しいサカナが舞い込んでくる運命なんだわっしょい!
 
 
 
 
 二章 二日目 
 
― ❄️ 姫乃side ―
「先生、おはようございます」
「おはよう、姫乃さん。今日も時間ぴったりね」
 私が出勤すると、先生の後ろに馬場と伏見の姿が見えた。

「先生、ショーウインドウの前に出来た大きな雪だるま、かわいいです」
「ありがとう、そうね、昨日眠れなくて、徹夜して作ったの」
「えっ、徹夜ですか!?」
「それでね、ちょうどいい枝も見つからなかったから、スキー板を雪だるまの手にしたんだけど、どうかな? ちょっと大きすぎるかしら?」
「い、いえ。あんなもんじゃないですか」
 手のことより、どちらかというと、眠れなくて、徹夜して雪だるまを作った理由のほうが気になるって私は思った。

「あら姫乃さん、おはようございます」
「どうも」
 私は馬場と伏見に会釈しながら、そう返した。二人は今日の展示会の準備を手伝わされていたようだ。この真冬に、腕の袖をまくって額の汗を拭っている。店の中央には、大きな壺の形をした花器が三つ飾ってあった。玄関の正面から壺が見えるように、コの字型に並べたテーブルが、壺をぐるりと囲んでいる。
 
 テーブルの上には、食器や、こまごまとした雑貨が並んでいた。
 黄色、黄色、黄色、今日も黄色三昧。
 
 今日の陶芸教室は予約ゼロ。
 暇だったらたぶん、私が店番をして、先生と伏見と馬場で陶芸体験でもするのかもしれない。
 
 
 
 ❄️
 
 お客さんが一人も来ないまま、お腹がすいた12時過ぎ。私の午前中は、レジカウンターの椅子に座ったまま、スマホをいじって終わった。
 今日のランチはラッキーピエロにしようか、そんなことを考えていた矢先、ひと組の男女がお店に入ってきて、私はビクッとした。
 
「こ、こんにちは。いらっしゃいませ」と、私は慌てて二人に声をかける。
 すると、鮮やかな赤色のコートを着た女と、ハットをかぶった老人が、こちらを振り返った。
「ここにある陶器、全部買うわ。その売れなさそうなデカイ壺も全部」
「え?」
 私が思わず先生の方に視線を向けると、店の奥で陶芸を教えていた先生も、私の方を向いていた。だから、私と先生は自然と顔を見合わせる格好になった。

「バックヤードにもあるなら、それもみんな、全部全部ちょうだい」
「はい?」
「あとね、今度この建物をウチで買うことになったから、よろしく」
 女は、シャネルの名刺入れから黒いカードを取り出して机に置いた。

「ちょっと待ってください、店主はあちらです」私が先生の方を指さすと、あっそ。と言って、女は感じ悪く、カウンターに置いた名刺をすっと、手に取り、先生の方へ歩いていった。
 そして、女は右手で先生の手をとって、その上に自分の左手をそっと重ねた。

「喜多せい子さん、旦那様のこと、ご愁傷様でした。偉大な春生さんを失ったことは我々にとっても大きな損失です」
「あら、どうも。どこかでお会いしましたか?」
「えぇ。旦那様には生前、お世話になりまして、ご挨拶をと」
 先生は何も言わないまま、ただ、じっとその女を見つめているように見えた。 
 その沈黙が数秒続いたあと、女はその沈黙を終わらせた。

竹巳(たけみ)、行くわよ」
「はい、お嬢様」
 老人は、手にとっていた黄色のブローチを棚に戻した。それから流れるような所作で店の引き戸を開けて、お嬢様、こちらへ。としゃがれた声で言った。そして、二人は何ごともなかったかのように、颯爽と店を出ていった。
 


 ❄️
 
 女が置いていった名刺には、黒地に金の文字が並んでいた。
円城寺(えんじょうじ)さん。先生のお知り合いですか?」
「知らないわね、円城寺不動産、あんなお嬢さんが社長代理なんて大丈夫かしら」
 不動産の社長令嬢、だからハデハデの金持ちなんだ。それにしても、胡散臭い名前。
「先生の旦那さんって不動産の仕事されてたんですか?」
 私が黒い名刺を先生に返すと、先生は不思議そうに首をひねった。
「さぁ……夫は古美術商って言ってたけど」
 私には、お金持ちと古美術商の接点よりも、古美術商と陶芸家が恋に落ちたいきさつの方が気になる。絶対にロマンチックだ。
 
「せい子さーん! カタチぐっちゃぐちゃになちゃった」
 馬場の悔しそうで、嬉しそうな声が響いてきた。
「はぁい」
 先生も明るく返事をして、名刺を机に置くと、ろくろの方に向かって行った。私は、馬場も馬場で図太い神経をしているなって思った。さっきの二人が入ってきて、異様なやり取りをしていたのに、それに対して、気にもせず、ロクロを回していたからだ。
 
「円城寺……」
 ふいに右隣から声がして、私の肩がビクッと跳ね上がる。
 いつの間にか近づいてきていた伏見が、黒い名刺をじっと凝視していた。
「そういえば、姫乃さんお昼食べました?」
「い、いえ」
「僕がご馳走するので、ご一緒にどうですか」
 それって二人でですか? なんて聞いたら伏見にモテない女だと思われそうで嫌だ。イケオジに昼食を誘われるって、なんか、エロいよね。そんなことを考えながら、私は、久しぶりに自分の鼓動が高鳴るのを感じた。
「じ、じゃあ、ベイエリアのラッピでもいいですか」
「もちろんオッケーです」
 伏見の視線は鋭かった。

 
 
 ― 🐟️ アンナside ―
 ちょっと遅めの朝食に、チャイニーズチキンバーガーと黒ゴマシェイクを優雅にいただく。
 テーブルを挟んで正面にいるコウジは、ホワイトソースがかかったフライドポテトをクリーミー、クリーミー、と言ってパクパク食べている。あぁまたソースこぼした、あんなに気に入ってたポールスミスのジャケット。あぁもぅほんとこの男、おバカだわ。若見えする衣装はこれしかなんだって言ったのに、あとは地味なおじいちゃん用のセットアップしかないんだってば、今朝話したこと絶対忘れてるよ、この人。

 あら、あの二人――。
 アタシは遠くの席に座っている、陶芸教室にいた、若い女の店員と、40代の男がなにかを話しているのが見えた。

「あらら、やってるね」
 アタシは小さい声で独り言を言ったあと、窓の外を眺めた。

 窓の外は雪がチラついていた。
 でもドラマで見慣れた雪とはちがう。ガラスの破片が降り注ぐようなダイヤモンドダスト。
 正面に座っているコウジの心の中も、取り出してみたら案外純白で綺麗なのかもしれない。
 だって今回の件は、コウジが持ち込んだモノなんだから。
 アタシは当時のことを思い出した。
 
 
 
 🐟
 
 ヨーロッパアルプス最高峰のモンブラン。アタシたちは、その麓にある小さなカフェで、やけに小さいカップに入った濃いココアを飲んでいた。
「吹雪がおさまらないから今日はリフト運行中止だってさ、残念」
「いいよ、美味しいココアが飲めたからいい。それは?」
 そう言って、コウジはアタシの隣を指差した。さっき買ったばかりの赤い大きな紙袋。

「チョコレート。今ってオフシーズンでしょ、お店の人がめっちゃオマケしてくれたの、これでお土産問題も解決! お土産ないと、不貞腐れて書いてくれないんだよね。シナリオ君」
「あぁ。あのアフロ坊やのためか」
 コウジはにこやかに頷く。コウジはもう、60代後半らしいけど、ジェントルマンそのものだ。この世界も長いから、アタシにとっては、最高の師匠でもあり、最高のファミリーでもある。
 コウジは、いつも落ち着いている。そして、今も落ち着き払ったまま、再びゆっくり話し始めた。

「日本に帰らなくちゃいけなくなったんだ。できれば君も一緒に来て欲しい」
「急にどうしたの? 誕生日プレゼントに本場のピノキオ人形が欲しいってあなたが言ったから、ここまで来たんじゃない」
「ついさっき古い友人から連絡があってね、急病で入院してるらしいんだ。僕に大切な話があるから直接会って話したいって」
 そんなの答えは決まっている。

「……そっかぁ」
 アタシは少し躊躇うフリをしながら、日本までの帰路をどうやって盛り上げようか考える。
「それなら最速で帰国しよう! 桜子(さくらこ)とシバちゃん呼んでくる。それに今回の台本だったら、シバちゃんの顔の濃さも使えそうじゃん!」
 
 結局、ピノキオの着ぐるみを着たイタリア人七人と貸切ジェットでパイ投げパーティーをしたのが数ヶ月前だ。
 
 
 
 🐟
 
 あのパイの不味さは今でも鮮明に覚えてる。
「いろんなところに行ってるけどさぁ、やっぱり結局、食が基本だよねぇ。重要視すべきは食!」
 アタシが話しかけると、コウジはポテトに視線を向けたまま、うんうん頷いて答えた。

「函館はいいところだと思うよ。この店は最高にカオスだけど」
 確かに、ラッキーピエロの店内はクレイジーなハッピーで溢れている。
 メリーゴーランドから脱走してきたようなゴージャスな木馬の置物を前に、ブランコ席に座ってゆらゆら揺れると食欲三割増だった。
 一体どんなアーティストの頭の中を再現したらこうなるんだろうと思う。その人とは親友になれると思うの。
 そんなことを考えていたら、四つ買ったバーガーを食べきっていた。

「シバちゃんから作戦進捗の連絡来なくなっちゃったんだけど大丈夫かな、シバちゃん砂漠の真ん中にでもいるのかねぇ」
「今どき砂漠の真ん中でもネット繋がるよ」
「うっそ、じゃあ……もしかしてアタシが嫌われてる、だけ?」
 正面のコウジは肯定も否定もしないで、ただとぼけたキョトン顔でアタシを見つめただけだった。
 
 
 
 🐟
 
 シバちゃんが連絡をよこしたのは夜になってからだった。しかも依頼主のアタシにじゃなく、コウジの方に、だ。
 アタシたち二人が、ホテルの部屋から函館の街を見下ろしてパフェとワインを楽しんで、ちょうど思考がいい感じにぼんやりしてきた頃。
 食べかけのパフェを残して、コウジはスマホを持って部屋を出た。
 一人になったからって、楽しい時間が半分になるわけじゃないし、楽しいかどうかは自分次第でしょってことで今のうちに、コウジのパフェの苺を食べてやる、そうやってコウジのパフェに細長いスプーンを伸ばしていると、苺にたどり着く前にタイミング悪くコウジが部屋に戻ってきた。

 アタシの正面の椅子に、コウジがゆっくりと腰をおろす。そしてコウジは言った。
「シバちゃんは砂漠の中心にいた」

 それからコウジは嬉しそうにシバちゃんからの連絡の内容を語った。
 話を聞いている間、アタシは、体内を漂っていたアルコールがシュワシュワ音を立てて血管の中で沸き立つのを感じていた。
「砂漠の真ん中で生き別れた弟と再会? いいんじゃない、いいんじゃない!? まさにクリスマスの奇跡って感じのストーリー」
「で、作戦通り、お兄ちゃんの船に潜り込んだって」
「さっすがシバちゃん」
 これで今回の作戦は、ほとんど成功したと言ってもいいナイスガイ。あとはアタシたちが陽動をかけるだけで全てがマルっと上手くいくはずだ。
 だからここからは、もっともっともっともっとマネーを引き出すイエス・アイ・キャン! 
 
 2本のワインボトルを入れたアイスバケットの中に右手を突っ込む。ブロックの氷を取り出してインプラントの前歯でかじってみた。うん、鉄臭い。脳内で虹色のオーロラベールがかかっていた思考が冴えてきてシナプスが四方八方に走り出す。
 それにしても、あの宝船にあっさり他人を乗せるなんてね、相手の脇の甘さにはガッカリ。
 世界進出を狙う盗賊団が、こんなもんでいいのか。別に心配してやる義理はないんだけど、それともアタシたちが相手のフェイクに食いつてしまったのか、それなら大問題。
 アタシはセコマで買った辛口シャブリを口に含んで舌で転がした、ボーノ。

「それと、あなたに伝言だけど」
 コウジが黒目がちな瞳で、じっと私を見る。
「なぁに? ボーノ」
 テーブルに置いてある男のグラスにシャブリを注いであげる。
「毎日、日記みたいなメール送ってくるのやめてくれって」
 アタシの涙の代わりにグラスから溢れたシャブリが小さな水たまりをつくってオレンジ色の灯りを反射して煌めいた。
 やっぱり、アタシのこと嫌いなの? シバちゃん!
 



 三章 三日目 
 
― ❄️ 姫乃side ―
 
「先生、おはようございます」
「おはよう、姫乃さん。今日も時間ぴったりね」
「あら姫乃さん、おはようございます」
「どうも」 
 私が出勤すると、今日も先生の後ろに馬場と伏見の姿が見えた。
 二人は、午前中の陶芸教室の準備を手伝わされていたようで、事前に申し込みがあった二人分の道具が既に机にセッティングしてあった。

 先生は案外、上手いこと二人を使ってるみたいだ。陶芸教室は9時からで、始まるまでまだ1時間ある。
 四人分のコーヒーでも淹れようかと、私が椅子から腰を浮かせた時、玄関の扉が勢いよく開いた。
「喜多さぁん、円城寺です! 社長代理の円城寺! 一緒に食べようと思って蜜柑持ってきたの」
 玄関の方を見ると、そこには段ボール箱を抱えた社長令嬢が立っていた。
 令嬢の頭の上には、うっすらと雪が積もっている。

「どうしたんですか、この大量の蜜柑」
「いつものクセで箱買いしちゃったんだけど、アタシと竹巳じゃ食べきれないから、お裾分け。はい、貧乏学生」と言って、社長令嬢は能天気な様子で、ダンボールを私に渡そうとしてきたから、私は慌てて、ダンボールを受けとめた。
「ひ、姫乃です、私」
 ダンボールが思った以上に重くて、受け取った瞬間、私は前によろけた。
 
「今日はなんの用ですか?」
 ダンボールをレジカウンターの下に置きながら、私は社長令嬢に聞いてみた。
「だから蜜柑のお裾分けだってば、あとホームシック気味だから、話し相手を探してただけ」
「9時には帰ってくださいね」
 私が釘を刺すと、令嬢はあっけらかんとこう言い放った。
「陶芸体験に予約してた二人。あれ、アタシたちだからキャンセルで」
 なんなんだよ、図々しい人。私はそう思いながら、小さくため息をついた。

 昨日のランチは、伏見からのデートの誘いかと思って期待したら、面接みたいな質問攻めにあって結局疲れただけだった。
「せい子さんの旦那さんについて、他に知ってることありませんか?」とか、
「工房の中に、不自然に使っていない部屋はありますか?」とか、
「僕達の他に、最近急に店に来るようになった人物はいませんか?」とか、
そんなことを調べてどうするんだろう。どう切り取っても雑誌の記事には使えなさそうなことばかりだった。
 

 
 ❄️
 
「こちら、円城寺さんと竹巳さん」
 先生が伏見と馬場に紹介すると、四人はどうも、とボソボソと言って、軽く会釈をした。
「今度、この工房を買い取っていただく不動産の方です。そしてこちらは、うちの取材をしてくださっている宝船の伏見さんと馬場さんです」
 先生は続けて、雑誌宝船の二人を紹介した。伏見たちはめいめいに会釈をして名刺交換をしていた。
 不動産業と、出版業の人が関わることってあるのだろうかと思いながら、私はその様子を眺めた。
 
「これ、宝船の最新刊です。よかったらどうぞ」馬場が鞄から冊子を取り出して令嬢に渡した。令嬢は、つまらなさそうに冊子のページをペラペラめくり、隣から老人が雑誌を覗き見している。
「へぇ、名前のわりに、ずいぶん見すぼらしいものばかり載せているのねぇ。そうだ、今度アタシの行きつけのお店紹介してあげる、ね? 竹巳」
「お嬢様、失礼ですよ」
 老人が苦笑いをした。伏見がメガネのフレームを押し上げる。
「あぁ結構ですよ。ウチの読者はささやかな幸せを大切にできるようなアンテナの高い繊細な方々ですから。金に物言わせて全身ブランドづくめのお嬢様とは違うんですよ、センスが」
「そう? 褒め言葉として受け取っておくわ」
 両方とも胡散臭い。なんで、うちの店にはこう言う胡散臭いのばかり集まってくるんだろう。フリーペーパーの取材はまだわかる。だけど、不動産の人たちがここにいるのは、不思議だと思った。キタノイエローだって、SNSでバズって、まだ一年も経っていない。それなのに、どうして、こんなにぞろぞろといろんな人たちが来るんだろう。
 それとも、あれかな。不動産業も出版業も胡散臭さの塊みたいな業界なのかな。その塊でこんな雰囲気になっているのかも。そんなことを思いながら、私は蜜柑の皮を剥いた。
 
 
 
 ❄️
 
 令嬢たちはしばらく居座るつもりらしい。
 私は、令嬢と老人のコーヒーを淹れに席を立った。キッチンにむかう私の後ろを、馬場がついてくる気配がする。そして私たちの姿が令嬢たちの死角に入ると、馬場はすぐに小声で話しかけてきた。

「ちょっと姫乃さん、【喜多せい子陶芸工房】がなくなってしまうって本当なんですか?」
「私に聞かれても困ります。私も昨日聞いたばっかりなんですよ」
 私たちの話を聞いていたのか、先生がするりとキッチンに入ってきて話しはじめた。

「馬場さん、工房は円城寺さんたちに売ります。昨日の夜、円城寺さんとちゃんと話し合って正式に決めました。伏見さんと馬場さんには申し訳ないけど、ここはパワースポットじゃなくなってしまうわね。急でごめんなさい」
 先生は馬場に、深く頭をさげた。だけど、そんな先生の両肩を、馬場が掴んですぐに起き上がらせる。

「せい子さん、昨日の夜は私たちと函館山に登って、夜景が見えるレストランでディナーでしたよね?」
「えぇ、あの後、急いで下山してフレンチのフルコースを嗜みながら円城寺さんたちと会食したのよ」
 なんて豪華なハシゴ、私なんてワンルームで一人、コーラと焼きそば弁当だけの夕飯だったのに。

 私が二人分のマグカップをお盆に載せて机に戻るとき、通りに面した窓越しに黒い人影がちらりと見えた。
 そのあとすぐに、滅多に鳴らない呼び鈴が鳴った。ここは店なんだから、営業中はみんな勝手に自分で入ってくればいいのに。そう思いながら、私はドアの方へ向かった。
 
 私がドアを開けると、神経質そうなキツい顔の美女が立っていた。
「警察です。喜多せい子さん、いらっしゃいます?」
 女は、黒い手帳を開いて私に突き出したあと、素早く手帳を上着のポケットにしまった。
 私が、あっ。と、思わず声を漏らすと、あからさまに女の表情が険しくなった。別に悪いことなんてしてないのに、急なことすぎて、私は動揺したまま、店内を振り返って先生を呼ぶ。

「先生、警察の方です」
 先生が椅子から立ちあがる前に、女が店の中をずんずん進み、先生の正面の椅子にどかっと座った。
「喜多せい子さんですね。少し、お話聞かせてもらえますか」
「はい」
 
 伏見と馬場が驚いたように目を見開いて固まっている。令嬢の表情も引き攣ったように見えた。
「では、我々は外に出てきます」
 いつも通りの穏やかな口調で老人が言うと、先生と警察を残して、5人は席を立った。
「姫乃さんは、ちょっと残ってちょうだい」
 先生が静かに言った。
 

 
 ❄️

「喜多さん、どうして警察に通報なさらなかったんですか?」
 彼女が訪ねてきた理由は、二日前の朝、私が先生から聞いた強盗の件だった。
 だたし、先生がいうように何も盗まれていないのなら、空き巣? 荒らし? とでもいうのか、とにかく、目の前にいる獅子ヶ原(ししがはら)刑事はアレを連続強盗事件の一つとして捜査をしているらしい。テーブル席に座り、獅子ヶ原刑事の正面に先生が、先生の隣に私が座っている。
 窓の外では、ふわふわと牡丹雪が降りだしていた。

「うちの被害は大したことありませんでしたから警察に通報するまでもないと判断しました。ただ、姫乃さんは警察に連絡しようとしたんですよ、それを私が止めました」
 前のめりになって先生を睨んでいた獅子ヶ原刑事は、呆れたようにふっと、息をつくと椅子の背にもたれて天を仰いだ。

「ずいぶんのんきですねぇ、連続盗賊団逮捕の手がかりがあったかもしれないんですよ」
「はぁ……」
 先生が、消えいりそうな声で返事をする。警察の人って、どうしてこう、自分の都合しか考えないんだろう。私は、先生の美しい大和撫子の心を知っている。先生は近所迷惑にならないようにと思って、せっかく頑張って焼いた作品が壊されていても、黙っていたんだ。それなのに、この女刑事は、先生のその気持ちなんてわかっちゃいない。

「こういうのは初動捜査が一番大事なんです。とにかく今後は警察へのご協力お願いいたします。明日からは捜査に入りますんで」
 そう言うと、獅子ヶ原刑事は、用が済んだとでもいうように、立ち上がって玄関に向かって歩き出した。
 刑事の傲慢な言い方に、私は憤りを感じた。そして、彼女を少し困らせたくなった。
「あの、そんな急に言われても困ります。お客さんこなくなったら迷惑なんですけど」
 まぁお客さんなんて、元々来てないけど。
 獅子ヶ原刑事が足をとめて振り返った。その反動で、彼女のストレートヘアが美しく放射線状に広がる。その姿が、なんだか絵になっていて、私は獅子ヶ原刑事の美しさに一瞬、見惚れた。
 獅子ヶ原刑事は、猫っぽい丸い瞳を、さらに見開いている。

「あなた、誰ですか?」
「喜多先生のアシスタントの姫乃です」
「へぇ、警察が入って、何か困ることでもあるんですか? もしかして、あなたが犯人だったりして」
「ち、違います! 陶芸教室の生徒さんたちの迷惑になりますし……」
 ビクッとした。いや、私は悪いこと、まだしてないって。てか、悪いことしないし。やっぱり、私に対して、警察の当たりが強いような気がする。私は何も悪くないのに、急に胃を締め付けられるような感覚がした。

「あなた、ビビリでしょ」
「はい?」
 獅子ヶ原刑事の意図がわからず、私は思わず聞き返した。

「パトカーの赤ランプ見ただけで、震えるタイプかって聞いてるんだけど」
「それ、関係あります?」
「まあいいや」
 そう言って、獅子ヶ原刑事は不気味に微笑んだ。

「それで、捜査はどれくらいかかるでしょうか」と先生は、私と獅子ヶ原刑事のやり取りなんて、気にしてなさそうに、獅子ヶ原刑事に聞いた。
「あいにく、警察も今は人手不足で私一人の捜査となります。今の段階では捜査にどれくらいかかるかハッキリお伝えできません。今日は軽く状況を確認して、明日から近隣への聞き込みも含めて本格的な捜査を始めようと思っています」
「それは迷惑です。他のお客さんも来られますから」
「喜多さん。迷惑とか、言ってられる状況じゃないんですよ? わかってますか」
「はぁ」
 先生も獅子ヶ原刑事の強い言い分にたじろいでしまったのかもしれない。

「明日から、店内の捜査は閉店後の時間を中心にして、昼間は必要なら生徒のフリでもしますよ、それで問題ないでしょ」
「……わかりました」
 先生が渋々承知したように頷いた。
 正直、私は、獅子ヶ原刑事が生徒のフリをする意味がよくわからなかったけど、そう言う話の流れになったなら仕方ない、受けいれるしかない。

「連続窃盗事件って、このあたりでも起きてるんですか?」
「それは捜査上、言えません。ただ、今言える範囲で言えば、手慣れた盗賊団による、連続殺人強盗事件が起きてるの。訳あってまだメディアに公表してないんだけど、あなたたちは危機感なさすぎるから教えとくわ。闇ルートで取引される高価な美術品ばかりを狙った窃盗事件。その手口から犯人はプロの盗賊団だと私たち警察は考えてる。事件発生は最初に長崎が、次に横浜がやられた。やつらは美術品を盗んだ挙げ句、殺しまでしています。犯人と鉢合わせなくてラッキーでしたね、おばあさん」
 『連続殺人強盗事件』聞きなれない言葉に、私は背筋が寒くなった。

「どうして、そんな危ない盗賊団がウチを狙うんです?」
「正直わかりません。だけど、被害にあったグループの生き残りが揃って言ってきたんですよ、『次の標的は函館の喜多だ』って、そしたら今度はここで事件があったってお隣のお蕎麦屋さんから警察に相談があったんです」
「函館の喜多なんて、こことは限らないじゃないですか」
「もちろんそんなことはわかってます素人じゃないんだから。だけどね、可能性の低いあらゆる選択肢を潰していくのも警察の仕事なんです」
 ここで獅子ヶ原刑事は店内をぐるりと見渡した。

「どうしてここなのか、本当にここであっているのか、正直いうとこっちが教えて欲しいくらい。なにせ、他の被害者は嫌味なくらい金持ちばかりでしたから。せい子さん、なにか心当たりあります?」
「さっきも申し上げましたけど、何も盗まれてはいないと思います。陶器は壊されましたけど」
 思い当たる美術品と言ったらアレしかない。

「幸運を呼ぶキタノイエロー……ですかね。縁起物を壊すことに何か意味があった、とかでしょうか」
「素人は変な憶測挟まないでください。あとはこっちで考えますから。――もしかして、キタノイエローって裏ルートで売り捌いてるんですか?」
 獅子ヶ原刑事は私をあしらったあと、今度は意味ありげにニヤついた。

 
 
 ❄️
 
 約束の20時に現れた神崎流星(かんざきりゅうせい)は、私が記憶していた三年前の姿よりも派手に見えた。
 神崎の明るく染めた髪色が、彼の褐色の肌を引き立たせている。

 ――必死に若作りしたアラサー。
 それが、久しぶりに会う元彼の印象だった。

「こっちは寒いね、さっき日本に帰ってきたんだ。姫は元気だった?」
 私を「姫」と呼ぶのは、これまでも、きっとこれからもこの男だけだ。
 数年前にマッチングアプリで出会った彼が名乗った「神崎 流星」。この名前が本名なのか偽名なのかなんて、私は知らない。だけどきっと、彼がいくつも持っている偽名の一つなのだろうと思う。こうして腐れ縁の元恋人だって、神崎には世界中に幾人もいるに決まっている。なぜなら、彼がロマンス詐欺師だから。

「その髪色、似合ってないよ」
「そう? でも目立つでしょ?」
「悪目立ち」
「お金持ちのマダムミーコは、こういうのが案外お好きなんだよ」
「ふぅん、今度は遺産目当て?」
「そんなとこ」
 神崎にメニュー表を差し出すと、今日は姫の顔を見にきただけだからと言って、あっさり断られた。
 そんなことより、と前置きして、神崎が身を乗り出して私の顔をのぞき込んでくる。

「姫さぁ、今回の仕事はやばいんじゃない? 今からでもバシさんとこ行きなよ」
 私は、今頃ドイツでバカンスを楽しんでいるはずの大男を思い浮かべた。

「じゃあ流星が養ってよ、私のこと。そしたら仕事辞めてあげる」
 神崎は一瞬驚いたような表情をしたあと、苦笑いを浮かべた。

「そんなこと言っちゃって、本当は望んでないくせに」
 神崎はコートのポケットから小さな箱を出して、私の目の前のテーブルに置く。
 正方形の水色の箱には、光沢のある白いリボンがかかっていた。
 他の誰かから見たら、私たちはきっと恋人同士に見えるだろう。誰もが羨む定番ジュエリーブランドをプレゼントされる幸せな彼女。
 
 付き合っていた頃は、こんなプレゼントなんて一度もくれなかったのに……。
 
 ふと思い出して視線を神崎に戻すと、彼は鞄を抱えて席を立つところだった。
「じゃ、またいつか。元気でね、姫」
 彼の笑顔は眩しく感じたけど、最低な男だ。
 


 ❄️
 
 神崎が店を出た後、約束通りしばらく時間を潰してから、時間差で私は外に出た。
 気温は一層冷え込んで空気が凛としていた。22時、辺りはすっかり暗くなって車通りは少なく、開いている店も少ない。
 見上げると、澄んだ夜空に星々が明るく輝いている。真冬は、雲がある日は暖かく、雲がない日は寒くなる、らしい。私が北海道にきて知ったことの一つだ。早朝の放射冷却の景色も見てみたいけど、その頃にはもう、私は函館にいないような気がした。
 
 不意に右斜後ろの方から視線を感じた。
 私が振り返ると、資料館と住宅の隙間の暗闇から、不気味なダミ声が聞こえてくる。

「姫乃さん」
 小汚いモッズコートを着た中年のおじさんが、暗闇からぬるっと出てきた。
「僕ね、こういうものなんだけど、ちょっと話聞かせてくれない?」
 
 差し出されたシワだらけの名刺には、
 『私立探偵 鬼丸 鉄郎(おにまる てつろう)』と書いてあった。

「……私立探偵の鬼丸さん」
「姫乃さん、あなた喜多せい子の工房で働いてるね? そして最近、編集者を名乗る二人組が接触してきた。間違いない?」
「なんなんですか? 警察呼びますよ、刑事と知り合いなんです」
 私がスマホを操作し始めると、中年探偵は慌てて踵を返して暗闇に溶けていった。
 闇の奥から、遠のいていくダミ声が聞こえてくる。

「あの二人は詐欺師だ。表沙汰にはなってないが、殺しまでしてる。あいつらに『必ず檻にぶち込んでやる』と伝えてくれ」
 それにしても……雑誌編集者を詐欺師呼ばわり、最近は珍しくもないような気がする。
 探偵が言うように、伏見と馬場が本当に悪いことをしているのなら、探偵自身がさっさと警察に通報するか、裁判で訴えるかした方がいいに決まっている。

 なのに、どうして探偵は自分で警察に伝えないんだろう?
 だっていくら探偵が犯人を追い詰めたって、探偵に誰かを逮捕する権利なんてないし……。
 
 そう考えると、私には、誰よりもあの探偵こそが怪しい危険人物だという気がしてきた。それに、詐欺はともかく、あの二人が誰かを殺めるなんてとても想像できない。そして私は『窃盗事件の謎解き』にワクワクしている自分に気づいた。
 



― 🐟️ アンナside ―
 アタシは、入手した箱を慎重にテーブルの上に置いた。
 テーブルのむこう側、奥の作業台で仕事に熱中している双子の背中姿が見える。

 右が、金髪キノコ男。
 左が、角刈りヒゲ男。

 二人がほにゃほにゃの一卵性双生児だったのは20年以上も前のこと。
 今では魚肉ソーセージばっか食ってる仲良し熟成メロウツインズに華々しく進化しているんだから、一階にいるお母さんも、私はどこでなにを間違ってしまったんだろうかと首を捻っているに違いない。
 お母さん、安心してください。あなたの息子たちは今、立派な極秘機密計画のインポータントなポイントを担って戦っています。
 
 メロウツインズの巣窟は、いつも肉を燻製させたような芳ばしい香りが充満している。
 深呼吸をしてこの香りを嗅ぐと「あぁ、日本に帰ってきたんだぁ」と安心するんだからきっと、アタシの心の故郷は何かの誤作動でココに定着してしまっているんだと思うんだ、ただいまクールジャパン。
 
 正方形の水色の箱にかかったリボンをほどく。
 箱の蓋をそっとあけると、そこには指輪の代わりに小型SSDが刺さっていた。

「これ本物だよね?」
 右隣に座っているコウジに確認したら、彼はいつものように穏やかな口調で答えた。

「神崎もそこまでバカじゃないよ。偽物なんてよこしたら、シバちゃんが世界の果てまで追いかけて神崎を抹殺するだろうからね」
「ふふ、確かに」
 それはそれで面白そうだ。
 このSSDには、『宝船盗賊団』の強盗計画のシナリオデータが入っているはずだ。
 
 
 アタシは小型SSDを手のひらに乗せて、メロウツインズのもとにむかった。
「ジングルベール、ジングルベール、鈴がなるー、ハイ! 」
 金髪キノコ男と角刈りヒゲ男の間から手を差し入れて、手のひらに収まるサイズの小型SSDを作業台の上に置いた。
 
 作業台を覗いてみると、三台のドローンが並んでいた。
「あれぇ? チップ、こんな小さいのに三分割して運ぶわけ?」
「これはダミーだよ。イレギュラーに備えて一応、ね」
 金髪キノコが、ご自慢の早口で答えてくれた。

「そうなのぉ! 賢いねぇキノコ、よぉしよしよしよし」
「キノコ?」
「ん? なんでもない」
 キノコの金髪をわしゃわしゃしてやると、パウダースノーみたいにフケが舞い上がった。
 
 ふぅん、じゃあ二台が囮で、本命の一台をシバちゃんがゲットすればいいわけね。三台ぜんぶシバちゃんが回収できたらいいんだろうけど、そう簡単にはいかないだろうな。
 私は小指で『メッセージ送信』をタッチした。
 
『こちらから送り込むドローンは三台。そのうち二台はダミーで一台が本命。ヨロシク。』
 
 どれだけ考えたって、わからないことはあるんだ。
 大切なのは『ピンチの時に、どうやって逆転ホームランを打ち抜くか』ってこと。
 つまり毎日毎日一日も欠かさず、よく寝て、よく食べ、よく遊びましょうってこと。
 
 
 
 四章 四日目 
 
― ❄️ 姫乃side ―
 
「先生、おはようございます」
「おはよう、姫乃さん。今日も時間ぴったりね」
「あ、姫乃さん。おはよう」
「どうも」
「姫乃さーん、こっちこっち」
 
 私が出勤すると、先生の後ろで、伏見と馬場と獅子ヶ原刑事の3人がストーブを囲んでいた。
「林檎持ってきたよ、林檎!」
 背後から飛んできた元気な社長令嬢の声と一緒に、私の背中に重たいものがずんとぶつかってくる。
「そこで止まんないでよ、貧乏学生」
 両手でダンボール箱を持った令嬢が、私を押しのけて店の中に入っていく。今日は、ダンボールの中から林檎の香りがした。その後ろをついていく老人が、すみませんねぇと言いながら笑顔で私の横を通り過ぎていった。

 私が先生をみると、先生はニコニコしながら奥のキッチンに姿を消した。

 令嬢は、テーブルの上にダンボールを置くと、ストーブのそばに駆け寄った。
 そして、ストーブの前に並んでいる馬場と獅子ヶ原刑事の間に割り込んでストーブに手をかざす。令嬢の指先は赤くなって、ふるえていた。

「ちょっと馬場さん、もっとそっちに詰めなさいよ。こっちはミニスカなんだから」
「はぁ? あとから来て指図しないでもらえますぅ? だいたい冬の函館にそんな格好でくる方が悪いんでしょ。ほら、私のダウンはおりなさい」
「やだぁおばさん臭い……あ、あったかいわコレ」
 この人たちにとっての非日常的な函館の寒さが、彼女たちの結束力を引き出しているのかもしれない。
 私は、知り合ったばかりとは思えない彼女たちの仲睦まじい姿を信じられない気持ちで見つめた。

「姫乃さんも、こっちへおいで」
 すっかり図々しいおばちゃんになった馬場が、声をかけてきた。
 先生は、奥のキッチンに行ったきりで、まだ戻ってこない。私は、馬場と伏見の間の、空いたスペースに入った。

「そういえば昨日の夜、不審者に伏見さんたちのこと聞かれたんだけど」
 不意に令嬢が言った。私は、奇妙な体験をしたのが自分だけじゃなかったんだという安心感で嬉しくなった。

「私もです! 探偵の鬼丸って人に」
「ちょっと、そういうときは警察呼んでよ、そのために連絡先教えてるんだからさ」
 苛立った声で、獅子ヶ原刑事が話を遮る。
「それで、姫乃さんは何を聞かれたの?」
 獅子ヶ原刑事の攻撃的な視線が私を刺した。 私は、悪いことなんてしていないはずなのに、自分の心拍数がどんどん上がっていくのを感じる。このひと、ほんとに苦手だ。

「いや、ただ『編集者を名乗る二人組』が喜多陶芸工房に来なかったかって聞かれました。答えませんでしたけど」
 私が答えると、獅子ヶ原刑事は腕を組んで視線を右斜め上にむけた。何かしら考え事をしているのは明らかで、こんなに分かりやすい人が警察でいいのかと、私は不安になった。

「アタシには『二人は詐欺師なんだ!』 とか言ってたよ?」
「ふぅん。事件の匂いがする。伏見さん、馬場さん、お二人に何かこころ当たりは?」
 獅子ヶ原刑事が鋭い視線を向けると、伏見は首を捻った。
「うーん、職業がらやっかみでそんなこと言われることもありますけど……探偵とは面識ないですね」
 そう答えた伏見の横顔を、一筋の汗が流れていった。
 

 
 ❄️
 
 外が激しく吹雪きはじめて、窓の外の景色はすっかりホワイトアウトに包まれてしまった。雪のせいで、19時を過ぎても外は明るい。
 これ以上営業していても、お客さんはこなさそうだ。
 昨日の朝、獅子ヶ原刑事と入れ違いに出て行った伏見たちは、結局昼過ぎには店に戻ってきた。

 伏見たち四人は、店から長い坂を下った先にある『金森赤(かなもりあか)レンガ倉庫』で観光をしてきたらしい。今時期は、港に立ち並んだレンガ造りの巨大な倉庫がクリスマス仕様にライトアップされているはずだ。
 港では、一本の大きなクリスマスツリーが、
 海に浮かんで幻想的な世界観を演出しているらしい。
 
 私と先生、『宝船』編集者の二人、円城寺不動産の二人で、窓際のテーブルを囲んでいる。奥の部屋は獅子ヶ原刑事が陣取っていて、すっかり彼女の仕事部屋になってしまった。
 私は、ネットで注文が入った商品の梱包作業をするために、プチプチした緩衝材をテーブルに広げてハサミを手にとった。

「馬場さん、『キタノイエロー』の次はどんな特集をするんですか?」
 先生が横目で聞く。

「秘密です」
 馬場は営業スマイルで冷たく答えた。
「教えてよ、どうせ暇なんだから」
 令嬢が、スマホを操作しながらつまらなそうに言う。
 私たちは、なんとなくそろって、窓の外に視線をむけた。さっきよりも吹雪はさらにひどくなっていた。しばらく外に出られそうもない。馬場が鞄から手帳を取り出してページを開いた。

「次は、『幻の名作』っていうテーマで、所在不明になった絵画の特集を組むつもりなんです、あんまり言いふらさないでよ」
 令嬢が鼻で笑った。

「誰に言いふらすのよ。幻の名作って言ったら……ダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディ』とか?」
「あら、円城寺さん意外と絵画に詳しいのね。」
 感心したように言って、馬場はゆっくりとした動作でコーヒーを一口飲むと、カップをそっとテーブルに置いた。
「じゃあ、オグニマサオの『金木犀』って、知ってる?」
「オグニマサオ?」
 聞いたことがない名前だった。

 だから、知らない人が作った作品の『金木犀』を、私が知るわけがないけれど、その名前からしてきっと、オレンジ色の花が描かれた華やかな作品なんだろう、ということは想像がつく。
 少しの沈黙があって、馬場が話しはじめた。

「オグニマサオは大正ロマンを代表する画家の一人です。オグニの作品の特徴は、日本画の技法を用いて西洋文化の要素を取り入れた油絵を描いたこと。そして、生活と結びついた日常の風景が描かれていたオグニの作品は、彼の生前の評価としてはあまり高くなかったのだけれど、彼が亡くなった後になって、日本の近代グラフィック・デザイン、つまり『大衆芸術』の先駆けとして、一気に価値が高まっていったの」
「へぇ、聞いたことない画家。せい子さんは知ってる?」
 令嬢に聞かれた先生は、少し考えを巡らせるような間があったあと、首を左右にふった。

「私も知らないわ、夫からも聞いたことがないと思う」
 先生の正面に座っている馬場は、先生を観察をするようにじっと前を見つめていた。

「そうでしょうね、オグニマサオは若くして結核で死んでしまったし、同年代に活躍していた竹久夢二(たけひさゆめじ)ほど知名度がないもの。だけどね、作品の希少性から、オグニマサオの作品を熱心に収集しているコレクターって世界中に結構いるの」
「なんか浮世絵みたいですね、国内より国外の方が早くから評価されて高額で売買された挙げ句、日本よりも海外の方が作品を多く貯蔵してるみたいな……」
 私が口を挟むと、馬場の表情がぱっと明るくなった。

「そう! まさにそれ! 元々はオグニの知り合いの旅館とか、行きつけのお店に彼の作品が飾られてたみたいなんだけどね、海外から来た画商にほとんど買い取られたちゃったみたいで……あぁ、それに宿舎に飾られていた絵なんて、火事で燃えてなくなってしまったの。その絵は、オグニが妻の千世子さんをモデルに描いた世界にたった一枚の絵だったんだけど……それが、幻の名作『金木犀』」
 そんなこともあるのか、と私は素直に驚いた。

 考えてみれば当たり前のことだけど、名作の絵画と言ったら、お金持ちの部屋に飾られているか美術館で大切に保管されているものだと思い込んでいた。
 だけど、そうして今も良い状態で残っている作品なんて、数で言ったら、ものすごく少ないはずだ。

「なんだかロマンがあるわね」
 その先生の一言で、お店の雰囲気が和らいだ気がした。

「でもさぁ、その絵ってもう存在してないんでしょ? 雑誌に載せるには地味すぎない? お金にならなそうだしさ」
 不意にキッチンの方から、獅子ヶ原刑事のがさつな声がした。いつの間にか、私たちの会話を聞いていたらしい。

「僕もね、雑誌の題材にするならもっとメジャーな作品にしないと駄目だって言ったんですよ。それなのに馬場さんが、どうしても読者に知ってもらいたいって言うので僕も困ってるんです」
 伏見は神経質そうに眉間に指をあてると、ため息をついた。
 伏見は遠回しに、私たちが馬場を止めることを期待しているのかもしれない。だけど、雑誌の『宝船』がどうなろうと、私たちには関係のないことだ。
 
 マグカップを持った獅子ヶ原刑事が、キッチンから出てくる。そして彼女は、天気を確認するように一瞬、窓の外を見ると、何も言わずに隣の作業部屋に戻って行った。
 黄色い茶碗を包む私に、令嬢が肩を寄せてくる。
「獅子ヶ原さんって結構美人だと思わない? 喋らなっから絶対モテると思うんだけどなぁ」
「わかります」
 私も同意して頷いた。

「ちょっと! 聞こえてんのよ! 十分モテるんでご心配なく!」
 獅子ヶ原刑事になぞに怒鳴られた。そんなにモテないんだ、この人。てか、この人、結構遠くに行ってたのに、よく聞こえてたな。地獄耳じゃんと思い、やっぱりわたしはより彼女のことを苦手になった。
 あー、こういうタイプ、苦手なんだよなぁ。どんどん苦手になっていく。
 


 ❄️

「喜多さんと助手、ちょっとこっちに来て!」
 怒っているような獅子ヶ原刑事の声がして、作業をしていた私と先生は仕方なく席を立った。
 嫌な予感しかしない。

「このコンセント、壊れてるみたいなんだけど、延長コードあります?」
 こんなところにコンセントあったっけ? そう思うくらい、普段は全く使っていないコンセントだった。

「あぁ、獅子ヶ原さん。ごめんなさいね、今持ってくるわ」
 先生が、慌てた様子で部屋を出る。すると、獅子ヶ原刑事は、今度は私に黒いコードを差し出した。

「じゃあ助手、延長コードが来たら、コレに繋いで。いま私動けないから」
 それくらい自分でやって下さいって言おうとしてやめた。獅子ヶ原刑事は真剣な顔でパソコン画面を睨んでいて、すでにヘッドセットを装着している。
 きっと、この人は部下や後輩をこき使うタイプだ、しかも他人を振り回している自覚すらしないで……。
 私は、刑事ドラマを思い浮かべながら獅子ヶ原の職場でのポジションを想像してみた。単独行動で無茶なこともするけど、なんだかんだ同僚に恵まれて自由な振る舞いが許されているような得なタイプ。もしくは、ガチガチに固まった縦社会の中で、彼女は毛嫌いされて孤立しているのかもしれない。
 モヤモヤしながら、私は先生から延長コードを受け取った。
 
 私が部屋を出たとき、キャスター付きの青いキャビネットをコロコロ押した先生が、こちらに向かってきた。
 先生は、私に向かって微笑んだ。

「あのコンセント、誰かが間違って使わないようにしばらく塞いでおくわね」
 そう言ったあと、先生は獅子ヶ原刑事のいる部屋に入って行った。

「それ、ちゃんと直したほうがいいですよ。何かあったら出火するかもしれません」
 私は、最近偶然見た映像を思い出した。それは、劣化したコンセントから激しく炎が燃え上がる様子を映した動画で、思い出しただけで背筋がゾワっとした。私はここで働き始めてから、暇すぎて、帰るといつもテレビばかり観てしまう。もはや、退屈な日常になり始めていた。
 


 ❄️ 
 
 円成寺不動産の二人は、五稜郭(ごりょうかく)タワーに行くと言って、店を出て行った。
 獅子ヶ原刑事は「極秘の捜査会議があるから」と、泊まっているホテルに帰った。
 
 今の店内には、私と先生、伏見と馬場の四人しかいない。しかいない、っていうのも変な話で、もともと『宝船』の取材が入る前は、当たり前に先生と私の二人きりだった。
 それなのに、ここ最近一気に人数が増えて賑やかな雰囲気になっていたから、ちょっと人数が減っただけで急に寂しく感じる。
 そんなことを考えながら、私はいつも通りに淡々と閉店作業を進めた。
 テーブルに置いたままの空のマグカップを、お盆に乗せて奥のキッチンに向かう。
 すると、キッチンの中から何やら話し声が聞こえてきた。耳すませると、馬場の声が聞き取れる。

「ねぇ、せい子さん。この物件をうちに譲っていただくことはできない?」
 東京を拠点にしている馬場たちが、なぜ函館の小さくて古い店舗を欲しがるのか、私には全く理解できない。

「円成寺さんより、高く買いますよ」
 伏見の声が続く。
「そんなこと言われても難しいと思うわ」
 先生は落ち着いた声で、きっぱり断っていた。

 こういう時の先生は頑固だ。
 私は、伏見たちを少し気の毒に思った。だって、伏見たちはここを『パワースポット』と言ってくれたんだ。
 きっと伏見たちの方が、円成寺不動産よりも、この場所を大切にしてくれるような気がする。
 私は、伏見たちの援護をしようと思ってキッチンに足を踏み入れた。
 
 キッチンでは、馬場と伏見に左右を挟まれた状態で、明らかに居心地の悪そうな先生がいた。
 
「姫乃さんも聞いて」と、言って、先生は私を手招きした。え、私も聞かなきゃならないのと思ったけど、先生のためだ。私は我慢して、立ち会うことにした。

「円成寺さんは、ここを2億で買うっていうのよ、しかもそれとは別に作品も全て買ってくれるって言うし。だから私、全てを円成寺さんに譲って海の近くのグループホームで残りの人生をゆっくり過ごそうかなって思ってるの」
「に、2億!?」
 馬場が口元を手で押さえた。私の頭の中は真っ白になった。
 一方で、伏見は落ち着き払って先生の目を見据えていた。

「せい子さん、そんなの、絶対もったいないです。やはり、彼女たちには売らない方がいいと思います」
 伏見にそう言われて、先生は困ったように首を傾げた。
「伏見さん、もったいないってどういう意味でしょう?」
 伏見がメガネのフレームを押し上げる。

「せい子さん。落ち着いて、考えてみてください。人生百年時代になった今、生きがいを持ったまま、死ねる日本人なんて、そうそういないんですよ。確かにお金は必要かもしれません。しかし−−」
「お金の方が大事じゃないの。もう、私は疲れたんです。こう見えても。伏見さん、もしね、私が今までの人生の中で陶芸に費やした時間を、もしね、恋愛に費やしていたら、本当に楽しかったと思わない?」
「それは−−、僕にはわかりません。しかし−−」
「恋愛の方が大事じゃないの。もう、私は疲れたんです。私、ろくろを回すよりね、恋がしたいの、恋!」
 伏見は観念したように静かに目を閉じた。
 先生は、私が持ったままだったお盆を取り、そして、流し台に置いく。それから、お盆に乗っている空のマグカップを手に取ると、マグカップを洗い始めた。この話はもう終わり、そんな意思表示を、先生はしているみたいだった。

「先生が引退なんてもったいないですよ! 先生の作品を待っている人たちはたくさんいるんですから」
 加勢してきた馬場の言葉を聞いて、私はそろそろ止めに入ろうかなと思った。そもそも、先生がやりたくないと言っていることをなんで、よそ者の伏見や馬場が必死に止めようとしているのか、私には理不尽に感じた。
 だけど、私のそんな心配は杞憂だった。

「まぁ他所は他所、うちはうち。人生の最後まで誰かのために生きる気なんて、さらさらないってこと。取材が終わったらもう、私のことほっといてちょうだい」
 先生は、きっぱり拒絶した。
「わかりました先生。ですがこれだけは言わせてください。円成寺不動産は、調べれば調べるほど怪しいことだらけなんです。それに、我々も先生のファンですから――」
 本当に諦めの悪い人。私のイラつきも沸点に達した。いい加減にしてよ。次から次へと、いろんな人が先生のところに来すぎなんだ。先生のところに来て、金の話ばかりして、下品だ。先生はね、本当に質素でおしとやかな人なんだ。大和撫子感、たっぷりの人なんだ。あんたらみたいな都会の人は、ご近所付き合いに配慮できないだろうね。
 先生は崇高な芸術家だ。これ以上、汚さないで、そっとしておいてほしい。

 先生の作品には、お金で買えない価値があるんだ……!
 10年かけて到達した先生の努力の結晶。ちゃんと、キタノイエローを見てほしい!

「あの、申し訳ないですけど、本当にせい子先生のファンなら、先生自身の意思を一番大切にしましょうよ。私なんてクビ確定なんですよ、正直あなたたちより、よっぽどショックですよ、だけどいいじゃないですか、恋だっていい、やりたいことがあるって素敵なことだと思いません? 伏見さんたちも本物のファンなら『イメージ通りの取材対象』としてじゃなくて『ひとりの人』として、先生に接するべきでしょ?」
 しゃべっているうちに、私は自分の身体が熱くなっていくのを感じた。あれ、なんか私いま、かっこいいこと言ってるかも。人に正論をぶつけるのが気持ちいいって、これもしかして人間の本能的な欲求なのかもしれない。
 伏見が軽く手をあげて、私の話を遮った。

「僕の話を最後まで聞いてくださいよ。ですからね、ですから、つまり……我々が、この物件を円成寺さんより高額の三億円で、作品たちもすべて円成寺さんより高額で買わせて下さい。いかがですか? 喜多せい子さん」
 ――三億円って……年末ジャンボ一等賞当てるくらい?
 伏見の提案があまりに予想外で、私は口をだらしなく開けたままフリーズしてしまった。それでも、先生は呆れたように小さくため息をついた。

「そんな話、信じられませんよ」
 そんな先生に対して、伏見と馬場は、背筋をすっと伸ばして向き直る。そして、二人は深く頭を下げた。
「今夜。手付金として現金1億円をお持ちします。それで私たちの気持ちを、信じていただけますか、キタノイエローの喜多先生」
「どうかしらねぇ」
 先生は伏見たちの前を素通りして、キッチンを出て行った。
 
 
 先生が陶芸を離れてスローライフを満喫したいなんて、そんな話を私は聞いたことがなかった。だけど、先生の年齢を考えれば、年相応の普通の願望のような気もする。
 ただ……これで私のクビは確定した。
 ついでに、この店がどれだけ高額で売れようが、きっと私には関係ない。
 
 
 
 ❄️ 

 馬場が外にでて、伏見だけが店に残っている。伏見はいつもの席に座っている。馬場が外に出て、からもう2時間近く経った。

「先生、このまま待つんですか。怪しいですよ、この人たち」
 私は小さな声で、レジで私の隣に座っている先生に耳打ちした。
「いいの。私、もう決めたの」
「本当ですか、それ。でも、本当にいいんですか」
「いいの。こういうのはタイミングが大事なの」
 私は先生のまた新しい一面を見てしまったのかもしれない。私はため息をつき、外を眺めた。外は暗くなり始め、雪が降っていた。そのとき、馬場が帰ってきた。ドアを開けて、店に入ると、左手で抱え持っていた銀色のアタッシュケースを床に置いた。そのあと、馬場は頭や、コートについた雪を払った。
 
「あー、重かった」
「10キロあるからな。お疲れ馬場さん」
「あら、ありがとう、伏見さん」
 なんで、こんなに重いものを、伏見は、女性の馬場に持ってこさせたのだろう。普通、こういうのって男の人が持ってくるよとか言って、持ってくるんじゃないの?
 てか、この人たち、本当に1億円持ってるんだ。
 伏見は馬場の元へ行き、銀色のアタッシュケースを片手で持った。そして、レジから一番近いテーブルの上にアタッシュケースを置いた。

「これが、我々の誠意です」
 かちゃっと金属音がしたあと、ケースが開いた。そのなかには本当にお札の束が入っていた。先生がレジカウンターを出たから、私も一緒に先生について行った。

「うーん、困ったわねぇ」
 そう言いながら、先生は、一つの札束を手に取った。そして、左手に持った札束を右手で何度も、ブルルルルっと何度か弾いた。お金を数えるような手つきは、なぜか手慣れているように見えた。

「どうです? キタノイエローの喜多さん」
「いい匂いがするわ」
「そうでしょう。これで偽札ではないことはわかってもらえたでしょう。どうです?」
「ここまでしてもらったらしょうがないわね……。交渉成立よ!」
 私は驚いて、思わず先生の顔をみた。先生は本当に自信に満ちた顔をしていた。私はそんな先生の姿を見て、本当にこれでよかったんだなって思った。
 ただ……これで私のクビは確定した。予想外の出来事に、私は帰ったときの言い訳を考え始めた。


 
― 🐟️ アンナside ―
 ドローンのレンズが映す夜の海は、真っ黒く荒れ狂っていた。
 なんか嫌な予感がするなぁ、あぁ頭の中でなにかがひっかかる、なにかなにか。アタシは目を細めてぶつぶつつぶやいた。

「なんかさ、宝船、しょぼくない?」
「そう? 秘密基地なんだから、こんなもんだろ」
 コウジがそっけなく答える。
 盗賊団がアジトに船を選んだ理由は、クラスメイトが初めて掛け算を習ったあの日に仮病で学校に行かなかったアタシにだってわかる。
 一番の理由は『狙われにくい』から。
 アタシたちも最初はバカ真面目に日本中を駆けずり回って敵のアジトを探してたけど、最後は『北のドン』の男気で、ドンのコレクションを囮にして初めて、やつらのアジトを突き止めて一瞬ひるんだ。
 アタシたちにとって、盗賊団なんてステーキのパサパサパセリみたいなもんなのに、仕掛けになかなかお金がかかりそうで、あの日は豚骨ラーメンと相性抜群のトッピングのアレを我慢して寝つきが悪かった。
 
 夢の宝船はミニマム、この中に盗み集めた膨大なお宝コレクションが詰まっていると思うと、まるで『宝石箱』やぁ。
 宝石箱といったら、木の実を口いっぱいに詰め込んで真夏のシドニーの芝生を走るシマリスのほっぺのポケットみたい。
 小さな貯蔵庫にぎゅうぎゅうに詰め込まれたコレクションを妄想するだけで、今朝見つけたニキビの白いマルのことなんて私の頭の中から消滅した、バイバイ憂鬱くん。
 
 最前線で飛行しているカメラが小刻みに揺れるせいで、32インチのモニターで見てるこっちが酔って吐きそうになる。
 遠隔操作で無人なんだから気楽でいいよなって思ってたら、超軽量貧弱ボディーはあっさり海上の風に煽られて、これはこれで辛いから、やっぱりまだまだ機械には人間の繊細な気持ちなんて全然理解できないんだよエジソン。
 作業台に置いてあるモニターを、メロウツインズの金髪キノコとアタシ、コウジの三人で見守っている。

 金髪キノコの手元には、手汗でびしゃびしゃになったドローンのコントローラーが握られている。キノコの表情は、いわゆる「ゾーンに入っている状態」っぽくて、色白の真顔だった。
 アタシたちの右側でゲーミングチェアに座っている角刈りヒゲ男は、30分前にアタシたちが来た時からVRゴーグルをずっと装着している。
 あのゴーグルを外してみたら別人でしたってドッキリを、今回の打ち上げでやろうかしら。
 角刈りの指先は、エアーでピアノを演奏しているみたいにモニョモニョと忙しく動きっぱなしだった。
 
 こちらには音が入ってこないけど、きっとカメラの向こう側ではドローンの羽音がブンブン相当うるさいんじゃないかと思う。
 だって、船に接近した二機があっさり敵に見つかってライフルみたいなので速攻撃たれて壊されて、残っているのは最後の一機だけなんだから全滅リーチでどうしよう。

 こんなことになるんだったら、他のやり方にすれば良かったのかも。
 例えば、首輪にSSDを装着した犬のナカタニを船に向かって放つとか、伝書鳩のサカイの背中にSDDを入れた小さなリュックを背負わせて船に向かって放つとか……ダメだ、あんな可愛い子たちに真冬の津軽海峡を越えさせるなんて可哀想すぎてむり。
 そんなことを考えていたら、モニターの右端に見慣れた姿が映った。

「シバちゃん! いたいた!」
 シバちゃんは、夜の海上でも目立つ蛍光イエローのダウンを着ていた。
 シバちゃんもこっちに気づいて、めいいっぱい腕を伸ばしていた。
 そんなシバちゃんの後ろには、こちらに銃口を向けている黒づくめのスナイパーが立っている。
 やばい、こいつ。さっき二機撃ち落としたやり手じゃん。
 金髪キノコは一旦、ドローンを海面スレスレまで下げた。たぶん、ここからは様子見をしつつジリジリ船に接近する作戦だ。最後のチャンスはケアレスミスじゃ済まされない――。
 
 急にカメラが、すごい速さでグルンと星空を映した。
 
「えっ?」
 思わず声が出る。
 こんどは画面の上下から黒いギザギザが侵食してきて、あっといまに画面は真っ暗になってしまった。
 コウジが舌打ちをする。
 金髪キノコは息を吐いて、背もたれにだらしなくもたれた。

「食われた」
「なに?」
「トビウオかなんかに食われたんだよ、ドローンが」
「マグロじゃないか? 大間のマグロ」
「オーマイゴッド! そんなことってあるの? アンビリーバボー! どうしよう、どうする、なにかなにかなにかなにか、ダメだ思いつかないちょっと祈ってみるわ」
 アタシは情けなく、いつもは信じていない神様に祈りの舞を捧げてみたけど、神からのナイスアイディアはこれといって降ってこなかった、これだから貴方の存在は信じることができないのジーザス。
 
「ミッションコンプリート!」
 振り返ると、いつの間にかVRゴーグルを外した角刈りが、別画面でなにかを確認したのか、それを観て、清々しい表情でガッツポーズをしていた。
 
 
 
 
  五章 五日目 
 
― ❄️ 姫乃side ―
 吹雪の中、マフラーに顔の下半分をうずめて、私は今日も八幡坂をのぼっている。
 今年一番の寒波の到来と、店の定休日が重なったのはラッキーだった。
 なのに、そんなコタツの中でぬくぬくしていたい日に限って、お店に忘れ物をとりに行かきゃいけなくなった私は、ついてない。
 
 閉まったカーテンの所為で中が見えなくなっている店の様相は、いつにも増してもの悲しかった。
 ほんと「しがない雪国の小さな雑貨屋さん」って感じだ。
 これが二億とか三億とかなんて……やっぱり信じられない。
 鍵穴に鍵を差し込んで右にまわすと、空回りしたように軽い感触がした。
 あれ? 昨日も私が店の鍵を閉めたはず……。
 昨日のことを思い返した私は、ハッとして息をのんだ。
 昨日、この店で大金の受け渡しがあったんだ。先生は結構あたりまえな感じで1億円受け取ってたけど、これからもっと大きなお金をゲットして新しい生活をはじめるんだろうな。 
 昨日はいろいろありすぎて、鍵をかけわすれて帰っちゃったのかもしれない。


 
 真鍮製の冷たいドアノブを回して中に入る。
 すると、私の足元から店の奥にむかって、濡れた靴跡が続いていた。
 店内の異様な雰囲気に、一瞬鳥肌が立った。 私は、勢いで入ってしまった3歩分だけ店に入ったところで立ち尽くしてしまった。
 電気もストーブも着いていない。

 足跡は二組、店の奥にむかって迷わず真っ直ぐに進んでいるように見える。
 店の出入り口は一つしかないけど、店の玄関まで戻ってきた形跡はない。つまり、相手はまだ店内にいるかもしれない……そう思うと急に緊張感が走った。店の鍵は、私とせい子さんしか持っていないはずなのに⋯…。

 侵入者? 
 しかも今朝来たばかりの? それって――。

 私の脳裏を『盗賊団』という言葉がよぎる。
 
 店内はしんと静かだった。私は音を立てないように呼吸を浅くした。 でもきっと、もう遅い。
 だって私は、いつもの感じで呑気に店に入ってきてしまったんだから、ブーツの足音が木の床にコツコツ響いていたはずなんだ。
 
 どうしよう、とりあえず引き返そうか。
 どうしよう、どうしよう、誰かに連絡しないと……。

 でも、でもでもでも…もしかしたらちょっと大きい音を出したらあっちが驚いて、窓とか割って外に逃げてくれるかもしれない。
 頭の中だけグルグルグルグル思考がうるさくて、ただ、考えているあいだ私の足は一歩も動けなくて、恐怖で声も出ないままだった。
 
 
「あら姫乃さん、おはようございます」
 ふいに聞き慣れた声がして、私は顔をあげた。
 すると、目の前に、赤いコートを着た馬場が立っていた。

 ――なんだ、馬場か。
 強盗じゃなくてよかった。

 赤いコートなんて持ってたんだ。いつもは白いダウンしか着てないのに。
 私は、緊張を解いてふぅっと息を吐く。

「馬場さん、おはようございます」
 気が抜けたからか、私は思い出したように急に寒さを感じた。その寒さで思わず身震いをした。
 カーテンの隙間からぼんやり光が入る店内は、薄暗く冷え切っている。
 とりあえずストーブを着けようと思って、私はストーブまで歩きながら馬場に伝えた。

「あの、今日はうち定休日なんですよ」
「うん。知ってる。定休日だから来たの」
 なんだ知ってたのか――。って、だけど、どうして定休日を知ってて、わざわざ工房に来たの? しかも、ホワイトアウトに近い吹雪なのに。
 
 うーん、よくわからないけど、もしかすると、馬場は、昨日のうちに先生から鍵を借りたのかもしれない。
 それにしても、電気とストーブくらい勝手に使ってくれればいいのに、そういうところには気をつかうんだ、この人たち。

 私は、かがんで石油ストーブの耐震消化装置レバーを下げた。このあと『点火』にダイヤルを回せば簡単に火がつくはずだ。
 ダイヤルに指先が触れたとき、斜め後ろから近づいてくる人の気配がした。

「姫乃さん、あなたって運が悪いのね。どうして来てしまったの」
 馬場の声が今にも泣き出しそうに震えていたから、私は思わず手を止めて振り返った。
 
 薄く開いたカーテンから射した光が、馬場の身体の中心を帯状に照らしていた。
 彼女の表情は、なぜかとても悲しそうだった。驚いた私は、彼女を見つめたまま一瞬動けなくなってしまった。
 

 ブォン、と風を切る音がした。
 そのあとすぐ、後頭部に重い衝撃が走る。
 視界が歪む。
 反射的に頭をおさえた私の背中を、今度は硬く角張ったものが強く押した。次の瞬間には、私は顔面を床に叩きつけられていた。
 顔が、頭が痺れる。息が詰まって声が出ない。混乱した頭の中で、私は、命の危機が迫っていることだけを強く感じた。
 
 気がつけば、私はうつ伏せに倒されて両手を拘束されていた。何者かが、重しみたいに私の背中にどっかり体重をかけている。
 その『何者か』は、あっという間に私の手足を手際よく紐で縛り上げた。
 
 私が顔を上げると、こちらを心配そうに見ている馬場と目が合った。
 彼女は、「大丈夫だからね」とでも言うように、上目遣いで何度もコクコクと小さく頷いている。
 そして馬場は、両手をかざすと、私の口を黒いガムテープで覆った。
 
 私が必死にもがいても、紐が体にきつく食い込むだけで効果はなかった。
 このままじゃ、私、死んじゃう――。
 
 誰かに助けてほしいけど、私が入ったこの世界には助けてくれる人なんて都合よく現れることなんてない。だって、そもそも、仲間だけど、何度もピンチになっても助けてくれなかったじゃん。
 何度も、何度も、何度も……!
 私は、いつもこうだ。いつもこう、いつもこう、いつもこう!
 最悪だ。いつも私の人生は痛みを伴う最悪ばかりの人生なんだ。

 だったら、自分で脱出するしかない。だけど、どうすれば――。
 高校を卒業してからしばらく忘れていた自分の運動神経の悪さを思い出して、私は虚しくなった。
 小学生のとき鉄棒の逆上がりができないまま大人になった。縄跳びだって二重跳びができないまま大人になった。唯一得意だったのは、ただ雪道を落ちていくだけのスキーだけだった。逆上がりができてたら、二重跳びができてたら、こういうピンチを切り抜けられたのかもしれない。SF映画あるあるで、絶体絶命のタイミングに過去にタイムスリップできたら、今度こそ真剣に体育と向き合おう。
 
 あー、最悪だ。
 そんなこと考えているうちに、殴られたところがじんじん痛みだすし、きつく縛られた手と足も痛み始めている。
 それらの痛みと痺れで、再び視界が歪む。
 鮮やかな赤いコートに身を包む馬場の姿がぼんやり揺れて、頭の中で円成寺不動産の令嬢のコート姿と重なった。
 
 不意に、上の方から声が降ってきた。
「ごめんねぇ。姫乃さん。だけど、鈍臭い君が悪いよ」

 聞き慣れた低い声がしたあと、頭にもう一発重い痛みがのしかかった。
 痛いよ……。誰か……。たす……け……。
 そしてふっと身体が軽くなるように、私の意識は遠のいた。
 
 
 
― 🐟️ アンナside ―
「あ! 桜子にソリのこと言い忘れたかも」
 
 五稜郭タワーのレストランから見える外の景色は、赤ちゃんアザラシの腹の毛みたいに真っ白だ。
 目を凝らしてみたけど、ホワイトアウトの先の世界はなにも見えない。代わりに見えたのは、窓ガラスに映ったレディの姿だけだった。今日のレディには、三杯目の辛口カレーがよく似合う。と、自分のことながらホレボレ惚れ直す。アタシのハニトラに引っかからないカモが、この広い世界にいるわけがない。

「ソリ? 車の間違いじゃないの」
 コウジが、むかえの椅子に腰掛けながら聞いてきた。

「スキーしかできないって本人が言ったんだから消去法でサンタクロース役あげたの。それに、改造済みの爆速ソリって最高にクリスマスをエンジョイできそうじゃない?」
「まぁこの天気なら車よりそっちの方が早いか」
 アタシは真っ赤な福神漬けをつつきながら、ホテルからここに来るまでの道のりを思い出してみた。
 函館駅前の大通りは、すっかりクリスマス仕様に飾り付けられて華やいでいるはずだった。だけど……昨日からずっと続いている吹雪のせいでタクシーの窓から景色を楽しむことはできなかった。自分で走った方が早いんじゃないかってくらい、ひどい渋滞にはまって、ただただ真っ白な砂嵐を眺めた。
狙っていたとはいえ、作戦決行に最適な条件が揃った。やっぱりアタシはラッキーガールだ。
今日が決戦の日、ここからやっとフィナーレが始まる。
 
「桜子には今日の、クリスマスの作戦のこと隠してるんでしょ?」
そう聞いてきたコウジはちょっと不安そうな顔をしている。
大事な日に、我々はこんなゆっくりしててもいいのかい? って彼の顔に書いてある。

「もちろん。でも大丈夫、こっちの準備は全部出来てる。あとは罠にかかるのを待つだけ」
「あの子、店の定休日に吹雪の中わざわざ出勤するかな」
「あぁ絶対行くよ。あの子が大事にしてる指輪をこっそり盗んで店に置いてきたんだ。あの子抜けてるから、自分の不注意で忘れてきたって勘違いして無防備にのこのこ出勤すると思う」
 想像しただけでニヤニヤしてしまう。

「あとね、ドローンの失敗がねぇ。シバちゃんにSSD渡せなかったのが地味に痛い」
「珍しく弱気だね」
「シナリオ君にも、シナリオ考え直してもらわないといけないわね。あー、どうしようって感じ。せっかくいい感じに網にかかってるのに」
「ターゲットは網にかかってるんだ。そう、慌てることでもないだろ?」
 コウジはアタシを諭すように、優しく言ってくれた。

「それはそうなんだけどね。桜子があとでうるさいかも」
「うるさいのはいつものことだろ」
「そうなんだけどさ。――あ、桜子使えばいいんだ。いいこと思いついちゃったー!」
 あはは、アタシってやっぱり天才だ。ちょびーと、桜子ちゃんに痛いことしてもらうけど。ま、いっか。

「また、桜子に被せるのか」
「コウジ、さすがだね。これは桜子を救う作戦でもあるの」
「あーあ。僕、聞かなかったことにしようかな」
 コウジはそう言って、カレーを一口食べた。

「ねぇそれ、辛口?」
「甘口」
「一口ちょうだい」
 コウジの許可を待たないで、アタシは相手の皿にマイスプーンを伸ばした。
 上海の元カレにプレゼントしてもらった純金のマイスプーン。今も、彼との思い出の分だけ重さがずっしり、しっくりくる。
 あぁあの蟹味噌は美味しかった、明日はカニシャブ食べよう。
 すくったカレーを、ゆっくりと口に含んだ。



 ― ❄️ 姫乃side ―

 口いっぱいに鉄の味がして、目を覚ました私は唾を吐き出した。それに重たい痛みはジンジンと続いている。まだ、頭がくらくらしている。
 辺りを見回すと、さっきと状況は変わってなさそうだった。少しの間、気を失っていたらしい。相変わらず店の中は薄暗く冷えている。
 
 手首を縛られて腹ばいの私の姿を、誰かが見たら芋虫そっくりなんじゃないかと思って……、そして同時にほっとした。
 ――あぁ。私、まだ生きてるんだ。

 生きている証に、後頭部がズキズキと痛む。
 私は、うつ伏せていた顔を、ゆっくりあげた。

 すると、私のちょうど視線の先に、馬場と伏見の後ろ姿が見えた。
 あの声、私を殴ったのはやっぱり伏見だったんだ。
 ――それで、馬場は伏見の暴力性を知っていたからこそ、私のことを憐んで見ていたのかもしれない。そもそも二人は雑誌編集者の顔をしていたけど、今の二人の雰囲気は手慣れた犯罪者そのものだ。
 詐欺師? 盗賊団? あー、殺めるタイプ? 頭がクラクラして、私は聞いてきたはずのいろんなことが、途切れ途切れで、よくわからなくなっていた。
 伏見と馬場の二人は、昨日先生がキャビネットで塞いでいたコンセントのあたりを見下ろしている。

「本当に大丈夫なんですよね?」
 不安そうな馬場の声がする。
 伏見が急かすように早口で答えた。

「大丈夫だ、大丈夫大丈夫」
「もし私が感電死したら、ボスどうします?」
「ここに置き去りにしていく」
「そんなぁ」
 部屋に、馬場の甘えた声が響いた。
 
 馬場は、足元のコンセントの穴を覗き込んむと、コートのポケットから銀色に光る細長い工具を取り出して、コンセントの穴に差し込んだ。
 普通、コンセントにピンセットでも刺したら、身体中を電流が走って感電する。
 だけど、私の予想とは裏腹に、馬場が腕を手前に引くと、コンセントが壁から簡単に外れるのが見えた。

「ボス、当たりです」
 壁にあいた暗い穴に、馬場が手を差し入れて何かを取り出す。
 それを受け取った伏見は、自分の目の前にかざして首をかしげた。
 チリチリと金属が擦れる音がした。
 
 伏見が急に振りかえる気配がして、私は反射的に顔を伏せる。
 気絶したフリを続ければ、どこかで逃げるチャンスが来るかもしれない。
 
 今までだってそうしてきた。そうだ、私は、そうやってなんとか今日まで生き残ってきたんだった。
 小学校のとき、いじめられたときから、いつだってピンチになったら人を騙してきたんだ。
 
 早歩きで近づいてくる足音がする。
 その足音が、私の目の前で止まったかと思うと、グイと髪を引っ張られた。もう、いろんな痛みだらけで、思わず私は両目をぎゅっと瞑ったあと、再び見開いた。私がこんなに痛みに耐えるので精一杯なのに、相手は容赦なく、私の顎を上げた。

「この鍵に見覚えは?」
 いつもより声を低くして聞いてきた伏見が持っていたのは、小さな鍵だった。
 私は必死で首を横にふる。
 伏見がメガネのフレームを押し上げた。

 「質問を変えよう。黒い器はどこにある?」
 ――黒い器。店頭には一つも並べていない、倉庫の片隅でひとかたまりになってホコリを被っている、あの黒い食器たちのことだろうか?

「姫乃さん、あんた知ってるな」
 伏見の顔がぐっと近づいてくる。
 私の口を覆っていたガムテープは、乱暴にひき剥がされた。



 ❄️
 
 先頭から伏見、私、馬場の順番に並んで倉庫に入る。倉庫の中は、今日も冷え切っていた。
 私の両足は解放されて、歩かされている。ただ、私に与えられた自由はその程度だ。私の自由の手綱は、後ろ手に縛られた両手は馬場都が掴んでいる。
 
 倉庫は最初に調べたんだけどなぁ、そんなことをぶつぶつ呟きながら伏見が倉庫の中を見渡した。
 
 馬場は、いたって普通のぽっちゃりおばさん体型だし、とても格闘技経験がありそうにない。だから、運動神経の悪い私でも、全力で振り切ったら逃げられるような気がする。それでも、私は大人しく彼らのそばにいることにした。

 なぜなら、伏見と馬場は手慣れた盗賊団の可能性があるわけで、獅子ヶ原刑事が探している事件の犯人は、きっとこの二人だ。あと、あの怪しい探偵が言っていたことが本当だとすれば、伏見たちは人を殺している。
 
 つまり、伏見たちはピストルとかヤバい武器を隠し持っていてもおかしくない。ピストルならまだいいけど、ライフルとかマシンガンとかロケットランチャーとかで撃ち込まれたら、大輪の花火みたいに私の肉片が派手に飛び散る。
 そもそも伏見たちは、目的のものを盗み終えたら、用済みになった私を殺すつもりかもしれない。
 私は、そんな暗い想像を巡らせた。
 
 倉庫の片隅で、ひとかたまりになった黒い食器がホコリをかぶっている。
 伏見が黒い器を退けると、壁に小さな鍵穴が現れた。
 ――あれ、こんなものあったっけ。

「姫乃さん、この不自然な鍵穴に今まで気づかなかった?」
 後ろから、馬場の囁き声がする。

「知らないです。私、そのへんの作品動かしたことないですもん。先生の黒い食器って全然人気ないみたいで、黒色はずっとここに置きっぱなしだったんです」
 久しぶりに出した私の声は小さくて、カラカラにかすれていた。

「確かに。喜多せい子と言ったら幸せを呼ぶキタノイエローよねぇ」
 うっとりした声で馬場が言う。
 伏見は、さっき私に見せた鍵を、小さな鍵穴に差し込んで手首をひねった。
 カチリと軽い音がして、あっけなく錠が開いたことが、私にもわかった。
 
「やっと見つけた。予定より時間かかりましたね、ボス。私は力づくでせい子に吐かせてもよかったと思うんですけど」
 馬場がいたずらっ子のような視線を投げかけてくる。
 こういうことは、きっとこの二人にとってゲーム感覚なのだ。

「仕方ないだろ、ばぁさんにショック死されたらめんどくさい。なんのために1億も渡したと思ってるんだ? それ以上のものをいただくためだろ。金で解決できることはスマートに解決してしまえばいいんだ。殺しはスマートじゃない」
 何を今更、私はついさっき、本当に殺されかけた。

「そんなこと言って、素直に一般人にケガさせたくないだけでしょ」
 馬場の軽口に対して、伏見は、今度は何も言い返さなかった。
「あの人ね、悪党のくせに変に正義感があるの」
 彼女はドヤ顔をしながら、わざとらしい小声をつけ足す。

「私のことは? まだ身体中、痛いんですけど」
「姫乃さんは一般人じゃないようだからノーカンだ」
 伏見が、背を向けたまま言った。私は、自分の頬が強張るのを感じた。

「そうそう、神崎の仲間だったなんて驚いちゃった」
 馬場が、明るい声で言って、ポンと両手を合わせた。
「あの人は、ただの元カレです」
 私は、うつむいて早口で言った。すると、馬場は意味ありげに勝ち誇った顔で私を見てきた。
 彼女の耳には、人工的に安っぽく光るピアスが煌めいている。私は思わず顔をそむけた。

 あれは、神崎がターゲットにプレゼントする発信機付きのニセモノダイヤ。
 
 最悪。まさか、神崎が言ってた「マダム・ミーコ」って、馬場のことだったの?
 最低だ。今度会ったら、本物のティファニー買ってもらうまでシカトしてやろう。
 
 伏見が壁を押すと、壁に切目が出来て、アーチの形をした扉が出現した。伏見は両手で扉を押し開けていく。伏見の体が光に照らされていく。扉の奥は明るい世界につながっているようだ。
 隣にいる馬場が、わぁ〜っと、声をあげた。 私の鼓動も、自然と早くなる。
 
 
 
 
 ❄️ 
 当初の作戦会議では、こんな感じだった。
 そう考えると、私は最初から、捨て駒としてアンナに潜入するように言われたのかも。



「今回のターゲットは、喜多せい子」
 アンナは私に大きな声でそう言って、ホワイトボードに貼ってある、おばさんの顔がプリントアウトされたA4の紙をバンと叩いた。そして、すぐにニヤニヤとした表情を浮かべた。

「姫乃桜子ちゃんに質問です。喜多せい子って、だーれだ?」
「えー、わからないよ。そんなおばさん。そんな政治家いたっけ?」
 私はそう言って、冴えないおばあさん顔をぼんやりと見ていた。だけど、アンナはニヤニヤしたまま、答えをまだ出してくれない。

「え、女優? 実業家? 麻薬密売人? 裏カジノのドン?」
「はずれー」といたずらに言ってアンナがまた笑う。そして、もう一度、バンとホワイトボードを叩いた。

「最近売れっ子の陶芸家のおばあちゃんなんだけど、実はこの人ただものじゃない。田舎の陶芸家は表の顔、せい子の裏の顔は、ブラックマーケットで絵画を捌いてる北のドン、『喜多春生』の妻。春生とせい子は、ずっと別居婚だったんだけど、死んだ春生の遺産がせい子のところにごっそり残されてるっていう噂がある」
「え、こんな地味そうなおばさんが? 何売ってるの? 麻薬?」
「どんくさいねぇ、桜子は。せい子の懐に入って、春生の絵画コレクションをゲットするわよ」
「え、でも、その絵はお高いんですかー?」
 私はアンナにささやかに反論してみた。すると、アンナはテーブルに置いてあった、雑誌を手に取り、それを私に投げつけた。私は体で雑誌を受け止めて、床に落ちた雑誌を拾った。そして、付箋が貼られているページを開いた。

「この冴えない絵、いくらだと思う?」
「え、ここに7億って書いてある」
「そう、喜多せい子は函館に7億円を隠し持っているのよ」
「え――ー。人は見かけによらないね」
「でしょ。それでね、この喜多せい子。なんと、表の商売も大活躍みたいでSNSで喜多せい子の陶芸作品がバズってる」
 アンナはタブレットで、SNSの画像を見せてくれた。
 へえ、キタノイエローっていうんだ――。

「きれいな作品。私もほしいな」
「バズの所為で、喜多せい子は大忙し。それで、事務員の枠で求人出してるみたい。店の入口に黒いマジックで手書きした求人」
 アンナはそれだけ言うと、オレンジジュースを一気飲みした。

「それでも、好きな人ならすぐにやるんじゃないの? その仕事」
「それがね、喜多せい子は店の前に張り紙しかしてないから、誰も気がついてない。もちろん、函館の人にも気が付かれていない。オンライン注文でパンクして、梱包する人が必要なんじゃない?」
 アンナはタブレットをスライドさせて、もう一枚の画像を表示した。そこには、手書きの求人募集の紙が写っていた。

『急募! バイト事務員募集 梱包、レジ、陶芸教えるなど 人気が落ち着いたらクビにします』

「最後の一文で人がこないんじゃないの?」
「それだけ素直な人ってことよ。そんな素直そうな人だから、アタシたち以外にも、春生の遺産を目当てにいろんな組織が動いてるみたいだから気をつけて」
「えー、ヤダよ。だって、またトラブったらどうするの?」
「じゃ、桜子は先に函館入りして、せい子に接触して」
「ほら、また無視だよ、無視。私のこと、いつも危険なところに持ってくんだから」 
 あーあ、最悪だ。
 
 ピンポーンとインターフォンが鳴ったあと、大声で「すみません、町内会長のマルヤマですけどぉ」とデリカシーのないマルヤマがまたやってきたから、私は慌てて、はいはい。と言いながら、玄関まで走った。そして、玄関を開けると、マルヤマが立っていた。

「お正月の、お餅つき大会の打ち合わせしたいんです。あの下の、一階に集まってるんで来てくださいね」
 そう言って、一方的にマルヤマに腕を掴まれた。
「あ、ちょっ」
「ダメですよ。皆さん待ってるんです。町内会はみんなで支え合わないと」
 まただ。アンナの方を見ると、大きく手を振っていた。アンナがここをアジトにしたのは、一般庶民に紛れ込むためのものだっていってたけど、いくらなんでも、ここは面倒すぎるよ。私はため息をついて、マルヤマに連行されることにした。



 
 ❄️
 
 倉庫の奥に出現した立方体の部屋の中は、眩しいくらいに明るかった。
 きっとセンサーに反応してライトがつく仕組みになっているんだろう。
 
 四方の壁には、小さな額に入った家族写真が所狭しと飾られている。
 部屋の真ん中には台座があって、巨大なダイヤモンドモドキが飾られていた。
 
 今では珍しくない人工ダイヤでも、ここまで大きいものを私は見たことがなかった。
「あらあら、随分と立派なキュービックジルコニアね。ボス、これももらってく?」
 馬場が、七色の煌めきを反射するジルコニアをまじまじと見つめる。
「よせ。荷物になるだけだ」
 伏見はそう言って、小さく舌打ちをした。

「じゃあ、次は世界一大きなダイヤモンをターゲットにしましょう!」
 馬場の声は明らかに浮かれている。
 それに比べると、伏見は落ち着き払っているように見えた。
 伏見は、馬場にアイコンタクトをした。それを合図に、私の両手を縛っていた紐が解かれる。

「はい。一旦お疲れ様、姫乃さん。今度は前で両手を開げてちょうだい」
 私は無言で頷いて、両手を差し出した。
 すると馬場は、左腕に抱えていた黒い茶碗を、私の手の上に乗せた。
 冷えた茶碗が、大きさの割にずっしり重く感じる。伏見は私に手招きした。

「そのまま茶碗を壁に近づけて、僕の後ろについてこい」
 私は、手に持った茶碗をじっと見つめた。
 この茶碗を伏見の頭に叩きつけたら、彼を気絶されることぐらいはできるだろうか、そんなことをふと考える。

「変なことをしたら、さっきより痛い目に遭うわよ」
 後ろから、都が背中をこづいてきた。
 
 
 茶碗を壁に近づけて、壁に沿ってゆっくり歩く。
 私の前を行く伏見は、耳をすませながら、壁をノックして歩いていた。
 先週ネトフリで観た『カリスマ探偵田口ロロ』で、こんなシーンがあったな、と私は思った。カラクリ屋敷で落とし穴に落とされた探偵の田口ロロが、脱出を試みて壁をノックして歩く。
 ノックして一番軽い音がした場所が壁が薄いという理屈で、田口ロロは見事に、薄い壁を回し蹴りで突き破って、なんやかんやで人質のココを助けることに成功した……なんて話だった気がする。
 
 急に立ち止まった伏見が、私を振り返った。
 伏見は、おもむろに私の手から茶碗をふんだくると、その茶碗を壁に近づける。
 すると、壁の奥から「ガチャ」っと、金属音がした。
 その後、伏見が壁から離れると、壁の向こう側で重い鉄の塊が床に落ちる鈍い音と振動が伝わってきた。

「ほら、やっぱり二重トラップの隠し部屋があっただろ。昨日の賭け、忘れてないだろうな。今度のプーケットの宿代はミーコの奢りで決まりだ」
 明るい表情で、伏見が馬場に言った。
「もう、なんで隠し部屋が二つあること知ってたんですか?」
 馬場が不機嫌そうに聞く。

「勘だよ、勘。百戦錬磨の盗賊団のボスの勘。こればっかりは理屈じゃないんだよなぁ」
 そう言って、笑みを浮かべたまま伏見は勢いよく壁を蹴った。
 ミシミシと木が軋む音がして、四角い板が壁の向こう側に倒れる。今度の扉の先は、狭くて真っ暗な通路に繋がっていた。
「ここから先は、ちょっと不気味ですね」
 後ろから馬場の声がする。

「明るい部屋よりこっちの方が『隠し部屋』っぽくて、むしろ信用できる。行くぞ」
 伏見は茶碗を足下に置いて、暗い通路に踏み込んだ。
 
 私は息を呑んだ。
 今はもう、自分が置かれた恐怖よりも隠し部屋への好奇心の方が勝っている気がする。
 私は、馬場に手渡された懐中電灯で自分の足元を照らした。
 
 しばらく進んでいくと、地下に降る階段が現れた。私たち三人は声をかけ合いながら慎重に進む。
 
 
「姫乃さん、これを見て。さっき落ちたやつ」
 馬場が見せてきたのは、鉄の棒だった。
「さっきの扉はね、鉄製の突っ張り棒で閉まる仕掛なの。それで、せい子が隠していた黒い作品には、多分砂鉄がねりこんである。だから茶碗を磁石みたいに使って、扉越しにツッパリ棒を動かせば……こうして秘密の部屋が現れるってわけ」
 馬場は、いつの間に拾っていたのか、伏見が置いてきた黒い茶碗を取り出した。
 鉄の棒に、茶碗を近づける。
 すると、ガチッと音を立てて、茶碗に棒がひっついた。
 
「喜多せい子って、とんだタヌキババアね。姫乃さんもそう思うでしょう?」
「穏やかなせい子さんが……私はなんだか信じられません」
「無欲そうな顔してる奴に限って、変にこだわった罠を仕掛けているものさ」
 得意気に伏見が言ったあと、伏見と馬場はくすくす笑った。
「最初の隠し部屋はダミーと考えるのが自然ね。私たちがただの泥棒だったらダミーのジルコニアで満足していたかもしれない。だけどね、せい子の本当の宝物を知っている者たちにとっては、あんなの通用しないのよ。手間かけさせてくれるわね、あのタヌキババア」
「せい子は、ああ見えて、これまで裏社会の誰にも存在を悟られなかったんだ。やっぱり裏社会で一目置かれる喜多春生が惚れた女は、なかなか手強かったな。もうそろそろだぞ、ミーコ」
「……手間がかかるだけに、お宝を手に入れる喜びもいっそう高まるわね」
 急に空気が冷たくなって、私は、自分が広い空間に出たことを察した。
 
 ジジ、っと小さな電子音がしたかと思うと、常夜灯の明かりがついて、あたりはぼんやりとオレンジ色に照らされた。
 二つ目の隠し部屋は、上品なモスグリーンの部屋で、部屋の真ん中には背の高いフロアランプと一脚の椅子が置いてあるだけだった。
 
 そして、椅子と対面する壁には、一際存在感を放つ一枚の絵画が飾られていた。
 アンティーク調のゴールドの額に縁取られた絵の主人公は、着物を着た黒髪の女性だった。
 若い女性がこちらに微笑みかけている。
 その微笑みは、本来彼女の年頃の女性が持っている可憐さよりも、聡明な彼女の気高い魅力に焦点を当てて描いているようだった。

『あなたのことなんて、私は全てお見通しよ』
 そんな台詞がぴったりくるような、神秘的な眼差しをしている。
 背景はオレンジ色と黄色で描かれた金木犀の小花で埋め尽くされていた。
 その色彩はキタノイエローのように淡く輝いて見える。金色の額縁と相待って、絵画そのものが輝いているようにすら思えた。
 
 私が絵に見惚れていると、後ろにいた馬場が、私を押しのけて、絵画に走り寄った。
「なんて神々しいの! これがオグニのモナリザ『金木犀』。あの火事で燃えなくてよかった……本当に綺麗な状態で生き残っていたのね。画家オグニマサオの集大成にして、まさしく最高傑作! 冬の函館まで来た甲斐があったわぁ。ね、ボス!」
 感激している馬場に比べて、伏見はずっと落ち着いている。
 伏見は、絵画に歩み寄ると、慎重に壁から絵を外した。そして絵を観察するように、いろいろな角度から眺める。

「確かに『幻の名画』に相応しい最高の出来だな。オークションに出せば最低ラインでも5百万ドル……7億円ぐらいはいける。ミーコ、ここで気を抜くなよ。アジトに戻るまでが仕事だ」
「はいはい。わかってますって」
 そう言って、馬場は、アタッシュケースを開けた。
 手足が自由になっている私の存在を、伏見と馬場は忘れているかのように絵画に集中している。
 
 お目当てのブツが目の前にあるけど、7億より、私の命のほうが大事。
 今が、逃げるチャンス――。
 走りに自信がある人なら、迷わずに逃げるはずだ。私も、あの暗い通路まで数歩だけ戻れば、逃げ切れるかもしれない。
 そう思って、私は二人に悟られないように、静かにちょっとずつ後退りする。

「姫乃さん」
 絵画をしまう手元に視線を向けながら、馬場が言った。

「はい……」
 小心者の私は、半歩下がった足を、元いた場所に戻した。

「姫乃さん。あなた今、たった一枚の絵しか盗まないの? たった一枚の絵のためだけに、あんなに手の込んだ演技をしていたの? って思ったでしょ」
「そう、ですね」
 正直、どうでもいい。今はもう、逃げられればそれでいい。
 それで、獅子ヶ原刑事に連絡すれば、後は警察がなんとかしてくれるはずなんだ。私は、トンズラ。先生は真っ当に被害の相談。それでいいんだ、この仕事は。アンナ、私には盗むことができないよ。

 だって、喜多せい子は素朴でいい人なんだから――。
 先生はこのまま、昨日もらった1億円でグループホームに入ればいいんだ。そして、仕事に追われず、グループホームでゆっくり恋愛を楽しんでほしい。
 私は心の底から、そう思う。だから、アンナ、逃げるね。

 そのために、こういう時に大切なのは、まず相手を刺激しないこと……で、合ってるよね多分。
 スマホはカバンの中にある。できれば倉庫を出た後、一度工房に戻って取りに行きたい。

「姫乃さん。これはすごく大切なことなんだけど、私たちは海賊とか山賊みたいな野蛮な泥棒とは全然違うの。私たちはスマートに、且つ最も価値のあるものだけをいただく。つまり、賢くてオシャレ。姫乃さんもそう思わない?」
 急に聞かれた私は、「はぁ。」と、気のない返事しかできなかった。

「私たち『宝船盗賊団』がこれまで手がけてきた仕事は、どれも最高級のコレクションなのよ。それに、私たちは殺しをしないからね、派手な事件も起こさないように細心の注意を払ってる。そのために被害届が出せないような代物を選んでいるんだけど、その辺の話は、また今度。まぁ、そうやって丁寧な仕事をしてるからクライアントのリピート率だって、当社調べでナンバーワンよ。だから……」
 馬場は、間をおいて深く息を吐いた。

「姫乃さん。あなた、ウチに就職しなさい」
 考えていなかった馬場の提案を聞いて、私の喉の奥からグェッと変な音が出た。

「ち、ちょっと待ってください。ひとつ確認してもいいですか?」
「どうぞ」
 私は、頭の中でずっと気になっていたことを聞いた。

「鬼丸探偵と獅子ヶ原刑事から、裏社会の大物ばかり狙った盗賊団がいるって聞いたんです。で、その盗賊団が今度は『せい子工房』を狙ってるって言ってたんですけど、その犯人は伏見さん達で合ってます?」
「そういうことだ。僕たちの狙いが警察に読まれてたんだな」
 伏見が舌打ちした。

「さっき馬場さんは『殺しはしない』って言ってましたよね。だけど、探偵と獅子ヶ原刑事は犯人は銃を持っていて、それで何人も人を殺してるって言ってたんです」
 私がそう言うと、伏見は鼻で笑った。

「はぁ? 殺人事件なら、それは僕たちの仕業じゃない」
「そうですか……被害に遭った場所は、確か横浜と長崎のお金持ち。高価な美術品が盗まれたそうです」
 私の言葉を聞いて、伏見と馬場が顔を見合わせる。一瞬で、空気が張りつめた気がした。

「ボス。それって……」
「調査する必要があるな。僕たちの仕事に余計なことをしてるストーカーがいるかもしれない」
 私は、人狼ゲームに参加しているような感覚になってきていた。
「もしストーカーが居るとして、その人はどうしてそんなことをするんです?」
「さぁね、なんだか嫌な予感がする。さっさとここから出るぞ」
 伏見は、ごく自然な雰囲気で私に指示を出した。

「ちょっと! 私まだ仲間になるなんて言ってないんですけど!」
「その話もあとだ。アジトについたら姫乃さんの話もちゃんと聞くから」
 そう言うと、伏見は私の腕を掴んで走り出した。馬場も、アタッシュケースを持ってついてくる。
 二人から緊張感が伝わってくる。私の頭の中は混乱していた。伏見の手を振り払って逃げ出すなら今がチャンス、あの話ぶりだと殺されることはなさそうだし。だけど一方で、二人はなぜか私のことを信用してくれてるみたいで、そんな二人を裏切るのは後ろめたい気がする。
 だから、私は勇気を出して言うことにした。

「あの、お店の中にあるカバンを取りに行きたいんですけど……」
「えぇ? 今?」
 伏見の声に、あっさりかき消された。
 やっぱりダメか、仕方ない。

「じゃあ……明日でもいい、です」
 私がそう言うと、後ろから軽く肩を叩かれた。
 馬場が私に微笑んで、私と伏見を抜き去っる。

「姫乃さんのバッグ、私が取ってくるわ。こう見えても私、『宝船盗賊団』の武闘派なの」
 馬場は得意げに、そう言い残すと、あっという間に先に行ってしまった。
「人は見かけによらない……」
 私が思ったことをそのまま呟くと、伏見が声をあげて笑った。
 
 

 私たちが倉庫の出口にさしかかった時、朝よりも激しくなった吹雪の中で乾いた破裂音が聞こえた。
 その後すぐに、工房の方から女の叫び声がした。

「ミーコの声だ……」
 伏見と私は、足を止める。

「姫乃さん、車運転できる?」
「いや、免許もってないです」
「困ったな。……あ、渋滞すごいことになってるじゃないか」
 工房の前の道路に、車がぎっちり列になっている。この通りでさえこの状況だと、観光地につながる八幡坂は大変な渋滞になっているはずだ。

 ふと、赤いソリが私の目にとまった。
『せい子工房』のショーウィンドウは、クリスマス仕様の飾り付けになっている。
 ガラス窓のすぐ向こうでは、サンタの衣装を着た大きなテディベアが、赤いソリに乗っていた。そのソリを囲むように、たくさんのプレゼントボックスが並んでいて、ショーウインドウの前に立っている雪だるまには、腕の代わりにスキー板が刺さっている。スキー板の先には、小さなミトン手袋がちょこんと可愛く乗っていた。
 
「ミーコ!」
 伏見の声がして、私は伏見の視線の先を見た。
 すると、赤いコートを着た馬場が、工房の前に倒れているの見えた。

「馬場さん!」
 私が呼ぶと彼女は苦しそうに、ぎこちなく立ち上がった。彼女の足元にある雪は、真っ赤に染まっている。
 ――大怪我してるんだ。助けないと。
 反射的に、私は馬場に駆け寄った。
 そんな私を見て、馬場は一瞬驚いた顔をした後、激しく首を振った。

「駄目! 姫乃さん……逃げて!」
 馬場の声が聞こえるのと同時に、自分の右肩に痛みが走る。

「……あ」
 右肩を左手で触ると、手のひらに嫌な生暖さを感じた。そっと、手のひらを確認すると、指の先まで鮮やかな赤色に染まっている。
 ――今度こそ本当に、死ぬのかもしれない。
 私が呆然としていると、馬場が私を守るように、前に出て両手を広げた。工房の暗がりで、人影が揺れる。その人影がゆっくりと近づいてきた。

「あー……、やっと追いついた『宝船盗賊団』。姫乃さんよぉ、あんたの演技には騙されたねぇ、まさか奴らの仲間だったなんて……とんだ腹黒サプライズ!」
 不気味なダミ声。
 工房から現れた鬼丸探偵は、この前会った時と同じように、小汚いモッズコートを着ていた。そして、鬼丸の右手には、ピストルが握られている。
「おばさん、お前さん達のボスはどこにいるんだい? とぼけたらどうなるか、わかってるよなぁ? 景気付けにもう一発お見舞いしてやろうか」
 鬼丸探偵は、ボサボサの前髪を掻き上げて私たちに銃口を向け直した。

「ちょっと待って! 鬼丸さん! この前は伏見さん達を檻に入れたいって言ってたじゃない! それって警察に逮捕させたいってことでしょ。これ以上やったら、あなたが人殺しになっちゃうかもしれないよ?」
 鬼丸探偵は困ったように、ピストルを持った方の手の甲で頭を掻く。

「人殺しねぇ……」
 そんな鬼丸探偵の様子を見て、私は自分の言葉が相手に届くような直感がした。
「そう。それに伏見さん達は、盗みはやったけど、人は殺してないって言ってた。つまりね、あなたが探している殺人事件の真犯人は、他にいるってこと! それなのに、あなたは本当の犯人を野放しにして自分が人殺しになろうってわけ?」
 私が畳み掛けるように言うと、馬場も加勢した。

「そうよ! 私たちは殺しなんて絶対しない! 横浜や長崎の殺しは私たちのストーカーの仕業なの!」
 私たちと鬼丸探偵の間に強い風が吹いた。細かい雪の粒が真っ白く舞い上がる。そのせいで、鬼丸探偵の姿が見えなくなって、私は強い力で背中を押された。

「ガハハハハ! 宝船盗賊団が殺しもできない腰抜けだってことは、わかってんだよ。なんでかってさぁ……だってさぁ、あんたらが荒らした跡に目撃者を殺して回ったのは俺だぜ。みみっちい窃盗じゃなくて殺人事件なら、派手に警察が動くと思ったんだよなぁ。狙い通り刑事が動いて、焦ったあんたらの行動が雑になった。函館のクリスマスでフィナーレを迎えるなんて、最高にドラマチック!」
 鬼丸探偵は、勝ち誇ったように豪快に笑っている。
 その笑い声は、吹雪の中でも、よく聞こえた。

「姫乃さん、伏せて」
 小さく馬場の声が聞こえた後、私は頭を押さえつけられた。
 そして、次の瞬間、頭上で派手にガラスが割れる衝撃が襲ってきた。
 
 吹雪で状況が掴めないまま、ホワイトアウトの中で誰かに腕を引っ張られる。そのまま、私は角ばった箱の中に引き入れられた。
 風の音に紛れて、鬼丸探偵がなにか怒鳴っているのが聞こえる。
 すぐ側で伏見の声がした後、不意に体が浮き上がる感覚がして、うるさかった鬼丸探偵の声が遠のいていった。
 
 吹雪が落ち着くと、次第に視界が開けてくる。そこでようやく、私は自分の置かれている状況を知った。
 私と馬場と伏見の三人は、ショーウィンドウに飾ってあったあの赤いソリに乗って、八幡坂を滑り降りている。
 私と馬場は前のシートに座って並び、伏見は後ろ向きに座って、サンタのテディベアを盾のように構えていた。ソリは直線の雪道を、どんどん加速して滑っていく。

「姫乃さん、肩大丈夫?」
 馬場が心配そうに、私の肩に触れた。

「そういえば、あんまり痛くないです、感覚が麻痺してるのかな。……それより色々ありすぎて、撃たれたこと忘れてかけてました」
 私の返答に、馬場は頷いた。

「私も、もうすっかり大丈夫なの。不思議よね、血も止まったみたいだし、なんだか走れそうなくらいよ」
 そう言って、馬場は不思議そうに撃たれた足をさすっている。

「姫乃さん、後ろに来れる?」
 ソリの乗り心地は当たり前に悪い。

 バランスを崩さないように、私はのそのそと後ろに移動した。
「姫乃さん、ここ。僕の横に座って。ミーコ、あれ持ってきてるよね?」
「もちろんですとも」
 馬場が後ろに放り投げたボストンバッグを、伏見はキャッチして、私の隣に置いた。
「僕はガードに集中するから、そっちは姫乃さんに頼んだよ」
 私はバッグを開けて、一番上に入っている透明な筒を手に取った。バドミントンのシャトルを入れるケースに似た形の筒には、シャトルの代わりに小さく尖ったものがたくさん入っている。

「これ、なんですか?」
 私は馬場に聞いてみた。

「マキビシよ! 『宝船盗賊団』の七つ道具の一つ。他にも色々入ってるけど……」
「追ってきた! 探偵だ!」
 早口でしてくれた馬場の説明を、伏見が遮った。
 私はとりあえず筒を構えて、雪が降る八幡坂の上に目を凝らした。
 すると、モッズコートをはためかせながら私たちを追いかけてくる鬼丸探偵の姿が見えた。私たちと同じように、鬼丸探偵も坂を滑り降りてきている。鬼丸探偵の足元をよく見ると、彼はショーウィンドウの雪だるまに刺さっていたスキー板を履いていた。
 私たちのソリが危ういバランスで滑っているのに対して、鬼丸探偵は無駄のない動きでスピードを上げてくる。
 私たちと距離が縮まってきた鬼丸探偵は、再びピストルを構えた。
 それを見た伏見が、大きなテディベアを突き出す。ガードってそれのことかよ! なんてがっかりしながら、私は筒の蓋を急いで開けた。

「マキビシって、どうやって使うんですか?」
「撒くんだよ、地面に」
 伏見は視線を鬼丸探偵に集中したまま言った。
「それは、なんとなく知ってます」
「タイミングは、僕が合図を出す。なるべく相手を引きつけるんだ」
「……わかりました」
 攻撃の手は、私にかかっている。そう思うと緊張で指が震えてきた。
 鬼丸探偵が向かってくる。

「姫乃さん、あと10秒。10、9……」
 じりじり距離を縮めていた鬼丸探偵が、急にジャンプした。私たちに向かって手を伸ばしてくる。
 捕まる! そう思った瞬間、私は思わず目をつぶってマキビシを投げつけた。鬼丸探偵めがけて投げたマキビシは、雪道にばらけて広がった。

 鬼丸探偵は、スキーのスピードを落とした。
 今にも止まりそうな探偵は、驚いた顔をして、ピストルの銃口を下げている。
 そうして鬼丸探偵と私たちの距離は、ぐっと開いた。
 
 隣にいる伏見がガッツポーズをして、私の背中をバシバシ叩いた。
「姫乃さん、グッジョブ! 君は合格だ」
「よかったぁ」
 私は全身の力が抜けた。
 ――これできっと、逃げ切れる。

「ねぇ姫乃さん、アジトに着いたら歓迎会と今回の打ち上げパーティーが待ってるわよ。今頃、私たちの仲間がお祝いの準備をしてくれていると思う。クリスマスだから、メインは七面鳥かしらね。あ、姫乃さんて、もしかしてヴィーガン?」
「全然! 肉食です! フライドチキンとコーラも追加で……」
 私は、安心したからか急にお腹が空いてきた。だけど、それもすぐにどうでも良くなって口をつぐむ。
 なぜなら私の予想を裏切って、鬼丸探偵が器用にマキビシをかわしてきたからだ。

「鬼丸が来ます!」
 私が大声で言った瞬間、銃声が響いた。
「あっぶねぇ」
 伏見が息をついて体勢を整える。
 幸いにも弾は外れたようだ。
 鬼丸探偵は悔しそうに何か文句を言いながら銃の装填をしている。
 
 私は、鬼丸探偵から目を離さないようにしながら、隣のバッグに手を突っ込んだ。手に触れたものを引っ張り出す。この際、石でもなんでもいい。最悪、手当たり次第になんでも投げつけてやればいいんだ。馬場はというと、ずっと誰かと忙しく連絡を取り合っている。先ほど言っていたアジトにいる仲間に、助けを求めているのかもしれない。だとしたら、私に任されているのは時間稼ぎだ。
 私は唾を飲んだ。
 
 私たちのソリは、もうすぐ大通りにさしかかる。函館駅前と繋がる大通りには市電のレールが引かれていて、そのレールは八幡坂の下の方と交差していた。私はソリのスピードが落ちていくのを感じた。このままだと追いつかれてしまう。鬼丸探偵がピストルの弾をこめている間に、私は攻撃を仕掛けることにした。子供の頃から気になっていた。ヒーローが変身している間に、攻撃しない怪獣はなんて手抜きなんだろうって。私は手に持った武器を確認した。手のひらにおさまる三角形の先っぽから紐が出ている。

「なんで、クラッカー……?」
「姫乃さん。それはパーティー用だ」
 私の問いに、伏見が早口で答えてくれた。私が答えて欲しかったのはそこじゃなかったけど、仕方がない。
 私は、またバッグの中に手を突っ込んだ。なんでもいい、今度こそ、パーティーグッズじゃない武器ならなんでもいい。
 
 ガタンと音がして、急に大きくソリが揺れた。私の体がバウンドするのと一緒に、バッグがふわりと浮いて、ソリから転がり落ちる。
 すぐに伸ばした伏見の手は、残念ながらバッグをかすって、バッグは吸い込まれるように雪に消えた。
 私にはその動きのすべてが、スローモーションに見えた。そうして、私にはクラッカーだけが残った。
 
「今度こそ外さねぇよ!」
 鬼丸探偵の声がして、私はハッとした。
 もう、すぐそこにピストルを構えた鬼丸探偵が迫っている。
「伏見さん。私、やってやりますよ」
 私は、鬼丸探偵に向かってクラッカーのひもを引いた。

 パァン!
 思ったより音がかなり大きくて、耳の奥がキンと痛む。
 私は、反射的につぶった目を、そっと開いた。
 目の前に舞い上がっていたのは、金色のテープに銀色のビーズ、そして……ムカデにゴキブリにバッタの数々。

「「ぎゃ――――ー!!」」
 私は叫んだ。
 尻餅をついて、鬼丸探偵もダミ声で叫んでた。
 伏見を見ると、彼は悪い顔で微笑んでいた。

「姫乃さん、グッジョブ!」
 伏見が、すっかり怯えている鬼丸探偵にテディベアを投げつけた。私たちを乗せたソリは坂を滑り続ける。大通りを渡り切ったところで、私たちと鬼丸探偵の間を、市電が遮って走り抜けた。
 
 
 
「なんだったんですかあれ、心臓止まりましたよ私」
 私は、疲れきった体を車のシートにあずける。
「おもちゃだよ。うちではクラッカーと言ったらあれなんだ」
 前の助手席に座っている伏見が笑った。
「先に言ってくれたらよかったのに」
 私は、安堵のため息をつく。

「それじゃあ、意味がないでしょ。あのおじさん、あそこまで虫が苦手だったなんてね。びびる顔、私もみたかったわぁ」
 隣に座っている馬場が豪快に笑った。彼女の腕には『金木犀』を入れたアタッシュケースがしっかりと抱かれている。市電が大通りを横切って、私たちの姿を探偵から目隠ししてくれている間、私たち三人はソリから降りて路地を走った。馬場が先導して走った先には、既に『宝船盗賊団』の仲間が車で待機していた。その車に乗って、私たちは今『宝船盗賊団』のアジトに向かっている。
 運転手は『スナイパー』と呼ばれていた。

 その『スナイパー』が役割的な意味なのか、彼の名前なのかはわからない。ただ無口で堀が深くて強面で肌が浅黒い。そんな彼を見ていて、私はふと思った。これで2メートルくらい身長があったらシバちゃんとそっくりかもしれない。
 スナイパーは運転に集中していて、私のことや『金木犀』について、全く興味がなさそうだった。

「あの探偵、私たちのこと警察に通報しますかね」
 私が聞くと、馬場は首をひねった。

「うーん、大丈夫だと思うな。そんなことをしたら、彼の方がヤバくなるでしょ。だって、私たちは窃盗だけど、彼なんて殺人犯よ」
「確かにそうですね。そっちの心配より、私たちのことをまたストーカーしに来るんじゃないかって方を心配した方がいいかもですね」
 話を聞いていた助手席の伏見が振り向いた。

「あぁ、それは大丈夫だよ姫乃さん。僕たち国外逃亡するから」
「出国するなら1週間後くらいですか……。この吹雪なら、飛行機は飛ばないし、フェリーだって冬は動いてないですもんね」
「その通り! 警察も同じように考えるだろうね。だから、我々はそれを逆手にとって裏をかく」
 高らかに伏見が声を張り上げた。

「姫乃さん、私たちを誰だと思ってるの。『宝船盗賊団』よ! 私たちのアジトを見たら、あなた驚きすぎて腰を抜かすかもね!」
 そう言って、馬場は大笑いした。
「ついでに、もうひとつバラすとね、私たちが編集者として工房を訪問した日、前日にお店荒らされてたでしょう。あれも私たちがやったの。本当はこっそり工房に忍び込めばすぐに『金木犀』を見つけられると思ってた。だけど、どこを探しても見つからなかったの。だから、物取りの犯行に見せかけて店内にカメラと盗聴器を仕込んでずっとせい子の様子を観察してたってわけ。姫乃さんが隠れてお菓子食べてたこともちゃんと知ってるわよ」
 馬場の告白に、私は呆然とした。そして、今回は特に、仲間たちが助けに来てくれなかった理由が納得できた。伏見たちは、私やアンナより一枚も二枚も上手(うわて)だったんだ……。



 車は、イルミネーションで彩られた赤レンガ倉庫の前を通って、ゆっくりと停車した。
 倉庫の先にある港は、暗い闇に包まれた海につながっている。
 もうすっかり夜になってしまったけど、ひどい吹雪で視界が悪い。
 
 伏見と馬場に続いて、私も車を降りた。
 その時に運転席のスナイパーに会釈をすると、彼はニヤリと笑った。一応、仲間として歓迎してくれているようだ。

「姫乃さん、こっち。ちゃんとついてこないとはぐれるわよ」
 馬場に呼ばれて、私は小走りに近づいた。
「これは……」
 暗闇に目が慣れてくると、大きな黒い影が見えてきた。船だ。目の前に船が浮かんでいる。
「ね、びっくりしたでしょ」
「姫乃さん。僕たち『宝船盗賊団』のアジトへようこそ!」
 私は彼らのアジトに足を踏み入れた。

 私たちが船に乗ると、馬場は手早く扉を閉めて、明かりをつけた。
 船内の雰囲気はアンティーク調の木製で、高級感がある。床も壁も天井も艶のある赤茶色の木目が美しく、オレンジ色の照明の光を優しく反射していた。
 入り口を入ってすぐの中央には、大きな螺旋階段があり、その周りには他の部屋に繋がるドアがいくつも並んでいる。
 暖房のかかっている船内には、レコード風のジャズのBGMが流れていた。

「パーティーの準備はいつも通り、デッキに揃っているよ」
 スナイパーが身軽に階段を駆け上がっていく。私たちも、ゆっくりと彼のあとに続いた。螺旋階段から上を見上げると、豪華なシャンデリアが吊り下げられている。

「すごく立派な船ですね。私、こういうの映画でしか見たことないです。こんな素敵な船が実在するなんてびっくり……」
「どうも」
 伏見は、リラックスした表情で腕時計を外した。
「自慢のアジトよ。内装は私の趣味も結構入ってるの。特にあのシャンデリアは特注で作ってもらったのよ。でも変ねぇ、いつもならスナイパーが結構散らかしてるんだけど今日はいい子にしていたみたい」
 馬場は、先を行くスナイパーに声をかけた。スナイパーは振り返って、真っ白い歯を覗かせる。

「掃除も料理も全部、俺の弟がやってくれたんだ。あとでボスにも紹介する」
「お前、部外者を船に乗せたのか」
 厳しい声で伏見が言った。
「弟さんと、どこで会ったの?」
 馬場も重ねてスナイパーに聞く。
「サハラ砂漠の真ん中だよ。生き別れの弟でね。可哀想にあいつ、記憶喪失になっちまってた。俺のことだけ覚えてて、ずっとずっと何年も探してくれてたんだ。感動的な再会だったよ、まさにクリスマスの奇跡ってやつだな」
 記憶喪失になっても掃除や料理ができるんだな、なんてすぐに考えてしまう私は、きっとすごく性格が悪い類の人間なんだ。そう思って、私は黒い疑惑を飲み込んだ。
 純粋そうなスナイパーの瞳は、潤んでキラキラ輝いている。

「で、お兄ちゃんの俺は、身寄りがない弟に泣きつかれて船に乗せたってわけよ」
「そんなこと電話で言ってなかったじゃない!」
 怒鳴る馬場に対して、スナイパーは慣れた様子でおどけてみせた。
「どうせ言ったって、君たちはダメだって反対するだろ。だから直接会わせることに決めたのさ」
 スナイパーの言葉に、伏見と馬場は顔を見合わせる。
「じゃあ……もしかしてまだ、この船に乗ってるの?」
「そう。さっきからひどい船酔いでトイレにこもってる。後で紹介するよ」
 それだけ言うと、スナイパーはまた軽快に階段を上り始めた。
 
 
 
 デッキに出ると、既にパーティーの準備が整っていた。デッキには大きなテントが張ってあって、テントの中が上品なパーティー会場になっている。テーブルの上には何種類ものケーキと、どさくさに紛れて私がリクエストしたフライドチキンやコーラも並んでいた。
 スナイパーが馬場から連絡を受けて、わざわざ追加で準備してくれたのかもしれない。

「最高にゴージャスなパーティー会場でハイセンス過ぎます! 私、コーラが大好きなんです。ありがとうございます」
 私はスナイパーに、気を使い過ぎてよくわからなくなったお礼を言った。そんな私に対して、スナイパーは満足気に微笑んでくれた。スナイパーはちょっと変わってるけど、いい人そうだ。私の中でスナイパーの好感度が爆上がりする。伏見に小声で何か話すと、スナイパーは元来た道を戻って行った。
 伏見は声を張り上げた。

「ミーコ、姫乃さん。乾杯はスナイパーたちを待って改めてするけど、パーティーは先に我々だけで始めちゃっていいそうだ。特に、弟さんが作った自慢のスープを冷める前に飲んで欲しいらしい。二人とも、飲み物は準備できてるかい?」
 いつの間にか、伏見と馬場はそれぞれグラスを手に持っていた。伏見の飲み物は透明な炭酸で、馬場はシャンパンゴールドの飲み物を準備している。私は、手近にあったコーラを開けて急いでグラスに注いだ。

「よし! じゃあ二人とも、今日は本当にお疲れ様でした!」
「お疲れ様でした!」
 私たち三人は笑顔でグラスを合わせた。
 
 朝から吹雪で荒れていた天気は、今ではすっかり落ち着いている。馬場はシャンパングラスを片手に夜空を見上げて黄昏ていた。私は、馬場にマグカップを手渡した。マグカップの中には、温かいスープを入れてある。

「姫乃さん、ここの床下にヒーターがあるから裸足でも寒くないわよ。風は冷たいけどね」
 馬場が優しく微笑む。
「馬場さん、その赤いコート似合ってますよね、素敵です」
 馬場は、一瞬おどいたような顔をした後、声をあげて笑った。
「似合わないわよ。どこかの派手な社長令嬢じゃないんだから。このコートは変装用! だけど汚れちゃった、これペイント弾だわ」
 そう言って、馬場は赤いコートを脱ぐと、裏返した。そのまま馬場が袖を通すと、あっという間に彼女は白いダウン姿になった。
「姫乃さんも、あいつに撃たれたところ血のりがついてるだけよ。あの男、結局なにが目的だったんでしょうね……」
 そう言って、馬場は白い息を吐いた。

「さて、姫乃さんはバッチリ監視カメラに写ってると思うから。ここも早く出発しなきゃね」
 私は呆然とした。

「一応言っておくけど、あの赤いコートは社長令嬢を真似してみたの。ボスも竹巳さんの格好をしてたわよ。今日のひどい吹雪のせいで、カメラの映像は鮮明に撮れていないはず。つまり、真っ先に容疑がかかるのは円成寺不動産の二人ってわけ」
「……ってことは、最初から罪を擦りつけるつもりだったんですか」
 私の質問には答えずに、馬場はマグカップに口をつけた。

「本気で罪を被せるつもりはない。日本の警察だってそんなに馬鹿じゃない。ただ時間を稼ぐだけさ。僕たちが国外逃亡するまでのね。次の行き先はタイのプーケット島だよ、楽しい年越しが僕たちを待っている!」
 酔っているのか、伏見の顔は赤くなっている。いつものポーカーフェイスも、ゆるゆるに崩れてしまっている。
「そういえば探偵のダミ声、どこかで聞いたことある気がするんだよなぁ……思い出せそうで思い出せない」
 馬場が、笑い飛ばした。

「あんなストーカーのこと今夜は忘れましょうよ、ボス! せっかく楽しい時間なんだから。ねぇ姫乃さん、名前聞いてもいいかしら?」
 私はおずおずと答えた。
「姫乃……桜子です」
「まぁ! なんて可愛らしい名前!」
 馬場は目を輝かせて私の手をとった。



 
「ボス……」
 スナイパーの声がして、テントの中にスナイパーと彼の弟らしき男が入ってきた。弟は2メートル近く身長があって、かなり太っていて威圧感がある。スナイパーの話を聞いて、私は勝手にヒョロガリをイメージしてたから衝撃だった。しかも、弟の顔は黒い布でぐるぐるぐる巻きになっていて、ものすごく怪しい。

「ボス! コンニチハ! タカラブネサイコー! ボク、24ジカンハタラキマス!」
 スナイパーを押しのけて、弟はいきなり伏見に抱きついた。
「おー! よしよし君の名前は今日からノッポクンだぁ」
 ノッポクンを受け止めた伏見は、船の掃除や料理のことをたくさん褒めた、特にスープの味を饒舌に絶賛した。ノッポクンは「ナンデモイッテクダサイ!」と、すっかりやる気満々だ。そのノッポクンの元気な挨拶にノッポクンを連れてきたスナイパーもご満悦な表情を浮かべていた。
 
 私は、テントから少し離れて、デッキの先頭にもたれた。ここからだと、みんなの楽しげな様子がよく見える。
 ――私の居場所って本当はこっちなのかもしれない。さっき少し飲んだお酒のせいで、頭がぼんやり重く、熱くなってくるのを感じる。私はうつむいた。

 ふと、『金木犀』が飾ってあった部屋を思い出す。きっとせい子先生は一人で、あの椅子に座って絵を眺めていたんだろうな。あの神秘的な女性の瞳から、せい子先生は何を感じていたんだろう。もしかしたら『キタノイエロー』は元々『金木犀』をイメージして先生が作ったのかも……。あーあ、せい子先生と『金木犀』について一緒に話してみたかったな。でも、もうできないよね。バイトバックれたこと、私たちのせいでショーウィンドウ壊したこと、本当は謝らなきゃいけないことがたくさんある。
 
 そんなことを考えてたら、なんだかちょっと泣きそうになってしまった。
 
「コンニチハ」
 すぐ近くで声がして私は顔を上げた。いつの間にか私の目の前に、長身のノッポクンが立っている。
 彼は、上着のポケットから右腕を引いた。その時、海から風が吹きつけて、彼の顔を隠していた布がはだけた。あまりにも見慣れた顔で、私は苦笑いをしてしまう。

 ――なんだ、シバちゃんじゃん。ようやく仲間が助けに来てくれたんだ。というか、今回も濃い顔立ちを使って、中東系アジア人役で敵の懐に潜入していたんだね。よかったー、最高じゃん。先に教えといてよ。今回も、ベリーハードモード過ぎたよ。さ、早く逃げようよー。シバちゃん。

「ここまでだ」
 シバちゃんは笑いながら、私にピストルを向けた。
「え、ちょっと待って。どういうこと……?」
 シバちゃんのずっと笑っている。その笑みはサイコパスそのものだよ。シバちゃん。

「オマエヲコロス」
 シバちゃんはピストルのスライドを引いた。カシャンと乾いた音が私を死へ向かわせているように思えた。そして、シバちゃんは、再びピストルを私に向けて囁くように言った。

「さぁ、楽しい夢の時間は終わりだ。お疲れさん、オバサン」
「おばさんじゃな――ーい!」
 私は叫んだ。その声に驚いた馬場と伏見がこちらを見る。

 でも、もう間に合わない。銃声と同時に、私の体は後ろに突き飛ばされた。
 
 視界が赤い飛沫で染まっていく。
 トドメに思い切り腹を蹴られて、私は背中から海に突き落とされた。



 六章 六日目 
 
― ⚓︎ 馬場都side ―
 銀色の寒空の下、船のデッキの上で、馬場都は目を覚ました。
 昨日までの吹雪は嘘だったみたいに、あたりは清々しく晴れている。

 上半身を起こすと、ひどい頭痛に襲われて、都は思わず頭をおさえた。体がだるい、熱があるかもしれない。狙っていた絵画をやっと手に入れて気持ちが浮かれていたとはいえ、酒を飲んでそのまま朝まで眠ってしまうなんて私らしくないわ。そう悔やみながら、都はフラフラと立ち上がる。あたりを見回すと、船はひどく散らかった状態だった。床には、空になった酒の瓶が何本も転がっている。テーブルの上では、ボスの伏見が大の字になっていびきをかいていた。

 そのボスの周りに、食べかけのフライドチキンやクリスマスケーキが散乱している。いつも格好をつけているボスが、こんなに羽目を外したところを都は久しぶりに見た。都はポケットからスマホを取り出して、だらしないボスの姿を記録に残した。
 これで、お正月に滞在するプーケット島までの時間潰しに、ちょどいいネタが手に入った。不意に、カモメの鳴き声がした。空を見上げると、遠くに乳白色の月が浮かんでいる。

 都は、腕時計を確認した。午前5時半。
 昼間は観光客で賑わっている赤レンガも、まだひっそりとしている。準備ができたら早く船を出発させたい、プーケットのカウントダウンパーティーが待ち遠しい。三日かけて飾りつけたクリスマスツリーは、電飾やオーナメントが外されて、ただのモミの木状態になっていた。
 ツリーの横では、星型のクリスタルを手に持ったスナイパーが横たわっている。

 スナイパーの足元には、一丁の拳銃が転がっていた。
 まだ重くぼんやりした都の頭の中で、昨日の記憶が少しずつ蘇ってくる。
 ハッとして、都はデッキの先端まで走った。身を乗り出して海を見下ろす。
 
 撃たれた桜子が落ちて行ったはずの海は、静かに波打っている。昨日は確かに赤く染まっていた水面は、すっかりいつものブルーになっていた。
 
 ――姫乃さん。あの子には、可哀想なことしちゃったな。私たちの正体を知ってしまった時に、彼女の選択肢は二択しかなかった。一つは、口封じのためにこの世界から消えること。そしてもう一つは、私たちの仲間になること。姫乃桜子、21歳、事前の調査で天涯孤独の貧乏学生だってことはわかってた。特別美人でもないし愛嬌がいい子ってわけじゃない。だけど姫乃さんには、嘘がつけなさそうな不器用な雰囲気があって、短い間だったけど関わっていくうちにだんだん愛着みたいなのが湧いてしまっていた。今振り返ってみると、あのモテそうな神崎が彼女を選んだ理由がわかる気がする。

 だから……そう思ったから私は、昨日せい子の工房に行く途中でボスに相談してみたんだ。
 
 ホワイトアウトの中で、ボスと私は並んで八幡坂を上っていた。
 ボスはいつものクセで、メガネのフレームを押し上げる。

「うーん、あの子を仲間にしたところで使い道あるかなぁ? 不器用そうだし華もない」
「そうねぇ、でも『普通の子』って案外探しても見つからないものよ? それに親や親戚と疎遠だから条件はクリアしてる」
「確かに……まだ若いから僕たちで鍛えてみるか。でも仲間にスカウトする前に、ちょっと彼女を試させてもらうよ。それでいいかい?」
「わかった。あんまり乱暴はしないであげてね」
 私が言うと、ボスはいつものポーカーフェイスで前を向いていた。
 だけど私には、ボスの口元が少しだけ微笑んでいるように見えた。その顔を見て、ボスもきっと姫乃さんが仲間入りした『宝船盗賊団』を想像してるんだなって、私は嬉しくなった。
 私たちの正体を知った人には選択肢が二つある。消されるか、仲間になること。
 私たちがスカウトすれば、姫乃さんは絶対断らないと思った。
 
 姫乃さんには痛い思いをさせちゃったけど、ボスの【合格】が出た時、私は本当に嬉しかったんだけどなぁ……。
「あの子には可哀想なこと、しちゃったな」
 口に出すと、都の目から思わず涙があふれた。
「ミーコ、水。冷えた炭酸水をくれ……」
 呻くようなボスの声が聞こえた。
「承知しました!」
 コートの袖で涙を拭うと、都は小走りでキャビンに向かった。たしか、ドリンク専用冷蔵庫に、ボスの好きなウィルキンソンがストックしてあったはずだ。ひどい頭痛で体がだるい。
 キャビンの扉を押し開けた反動で、都の上半身が前にがくりと折れる。すると、腹のほうから吐き気が込み上げてきた。

「ゔっ……」
 口元を手で押さえて、都は床に膝をついた。

 おかしい。一晩を外で過ごしたとか、二日酔いとか、そんな些細なことで崩れないのが、私の自慢のパワフルボディだ。
 思い返せば、初めてお酒を飲み始めた頃から、都はほとんど酔い潰れたことがない。ボスとの飲み比べでも、ドイツ人の大男に囲まれて参加したビールの大酒呑みコンテストでも簡単に勝ってきた。
 デッキの床に転がっていた空き瓶を思い出す。

「もしかして……睡眠薬?」
 たしか、船に乗っていたのは、都を入れて5人。都と行動していたボスと桜子には、睡眠薬を仕掛ける時間なんてなかった、と思う。
 他の二人はどうだろう。半年前に雇ったばかりのスナイパー、それとスナイパーが連れてきた彼の弟。暗くて、顔がはっきり見えなかった背の高い男。桜子を躊躇なく打ち抜いたも、あの男だった。

 ちょっと待った……あの男の姿、さっきデッキで見ただろうか。
 嫌な予感がして、都は顔をあげた。すると都の目の前に、見慣れない光景が広がっていた。
 
 
「ボス! この船おかしいです! すぐ降りましょう!」
「……水。」
 都は持ってきた炭酸水のボトルを伏見にむかって投げた。伏見はボトルを受け取ると、キャップを外して炭酸水を飲み始める。

「ボス、私たち騙されてたんです! 犯人はスナイパーの弟です! あいつ、昨日の飲み物に睡眠薬入れてたみたいで……」
「どおりで頭が……最悪の気分だ。それで、奴の狙いはなんだ?」
 都に視線をむけた伏見の表情は険しい。都は、伏見の元に駆け寄った。

「船です! 私たちの、『宝船盗賊団』のアジト丸ごとです!」
 都は、伏見の両肩を掴んでゆさぶった。

「それはつまり……船に爆弾でも仕掛けられているのか?」
 伏見は眠たそうに目をこすりながら聞いた。

「違います」
 都はきっぱり答えた。
「じゃあ……取引のために『金木犀』が連れ去られたとか?」
 そう言って、伏見はあくびをした。
「それも、違います」
 緊張感がない伏見の態度に腹が立って、都は伏見の右頬をフルスウイングで引っ叩いた。あたりに乾いた音が響いて、数羽のカモメが飛び立った。

「じ、じゃあ……一体なにが起きてるの?」
 ビンタされた頬をさすりながら伏見が言った。都は大きく息を吸う。
「私もまだ信じられないんですけどね、落ち着いて聞いてください、ボス。いま私たちが乗っているこの船は……」
「この船は?」
「……ニセモノです! 昨日の夜、私たちが乗り込む前に本物とニセモノを取り替えられていたんだと思います。船の大きさとデッキ、外側だけは、上手く似せて作ってあるんです。だけど、船の中はデタラメで、骨組みの木材が剥き出しだったり資材が散乱してたり……いわゆる突貫工事ですね」
「そんな、僕たちが集めたお宝は……」
 伏見は、テーブルから飛び降りて走り出した。船の階段を駆け降りて、外に出る。伏見の後ろに、都も続いた。
 
「なんだ、これは……」
 立ち尽くした伏見が呟いた。外から見た船は、都が想像していたよりもっと雑な作りだった。例えるなら、作りかけの学芸会のセットのようだ。船の前側半分は『宝船』にそっくりで、木材に丁寧なダメージ加工が施されている。それに比べて、後ろ側の半分はテカテカのプラスチックのパネルに赤茶色の塗装をしただけの安っぽい作りだった。
 都は肩の力が抜けてしまった。

「こんな穴だらけの罠に引っかかるなんて、ありえない」
「昨日、外が吹雪いてなかったら絶対に騙されなかった。僕たちをバカにしやがって!」
 伏見は悔しそうに唇を噛んだ。伏見の言った通りだ、と都も思う。昨日の激しい吹雪がなければ、騙されなかったはずだ。そして同時に、都の頭の中に疑問が浮かんできた。

「ボス、敵側にしたら相当ギャンブルな作戦だったと思います。そもそも敵は、どうやって事前に船の情報をゲットしたのでしょうか。どうやって、私たちが函館に来ることを予想して『金木犀』を盗むタイミングも完璧に把握できたのでしょうか。しかも昨日に限って、天気が大荒れになった……こんな奇跡的にチャンスが重なることって、普通ないと思いません?」
「確かに妙だな……スナイパーには最小限の情報共有しかしていなかった、あいつ脇が甘そうだったからな。それにスナイパーとの接触だけでこれだけのことを仕掛けるのは無理だ。ミーコ、心当たりは?」
「えぇ? わ、私ですか?」
 都はドキリとした。マッチングアプリをしていたことはボスに言っていない。神崎には愚痴を聞いてもらっていただけで、具体的な作戦の話は一切していなかった。

「私の方は、ちょっと思い当たらないですね……ボスこそ、どうなんですか?」
「どうって、僕から情報が漏れるわけないだろ! なにより、僕たちは一緒に行動していたんだからお互いが証人のはずだ。あるとすれば、大切に隠し持ってた絵画を失った可哀想なばぁさんくらいしか思いつかないよ」
 伏見の言葉にハッとして、都は伏見を見上げる。伏見も驚いたような表情で、都を見ていた。

「「あのタヌキババァ!」」
 二人は同時に叫んだ。
 
 喜多せい子工房にむかう八幡坂を、二人で走ってのぼる。走りながら、都は腕時計を確認した。午前6時半。
 家々のあちこちで眠りから目覚めた人たちの気配を感じる。それでも、人通りはまだ、ほとんどない。
 
 八幡坂を登り切って左に曲がるとき、大きなトラックとすれ違った。前にいる伏見の、走るスピードがさらに速くなって、都もなんとかくらいつく。そのまま二人は、工房の前にたどり着いた。

「何、これ……」
 伏見と都は、呆然と立ち尽くす。目の前には、空っぽになったテナントが暗く佇んでいた。
 見慣れた『喜多せい子 陶芸工房』の看板はなく、カーテンすらついていない。
 少しの間、二人は黙って店を眺めていた。
 
 不意に、都は肩を軽くたたかれて振り向いた。するとそこには、制服姿の警察官らしき二人の男が立っていた。警察官の一人が、黒い手帳を開げてこちらに提示してくる。

「あのぉ、ちょっと、お話し聞かせてもらえませんかね」
 もう一人の警察官が、都たちの前側に回り込む。
「あなた方、ここで何をされてるんです?」
 警察官に囲まれた伏見と都は、観念したように大きなため息をついた。
 
 
 

 七章 作戦会議 

― 🐟️ アンナside ― 
「今回のターゲットは、喜多せい子」
 アタシは大きな声でそう言って、ホワイトボードに貼ってある、おばさんの顔がプリントアウトされたA4の紙をバンと叩いた。そして、すぐにニヤニヤとした表情を浮かべた。

「姫乃桜子ちゃんに質問です。喜多せい子って、だーれだ?」
「えー、わからないよ。そんなおばさん。そんな政治家いたっけ?」
 桜子はそう言って、冴えないおばあさん顔をぼんやりと見ていた。そんな間抜け顔の桜子が面白いから、アタシはニヤニヤしたまま、桜子を泳がせることにした。

「え、女優? 実業家? 麻薬密売人? 裏カジノのドン?」
「はずれー」とアタシはそう言って、アルコールもまだ入っていないのに、ゲラゲラと笑った。そして、もう一度、バンとホワイトボードを叩いた。

「最近売れっ子の陶芸家のおばあちゃんなんだけど、実はこの人ただものじゃない。田舎の陶芸家は表の顔、せい子の裏の顔は、ブラックマーケットで絵画を捌いてる北のドン、『喜多春生』の妻。春生とせい子は、ずっと別居婚だったんだけど、死んだ春生の遺産がせい子のところにごっそり残されてるっていう噂がある」
「え、こんな地味そうなおばさんが? 何売ってるの? 麻薬?」
「どんくさいねぇ、桜子は。せい子の懐に入って、春生の絵画コレクションをゲットするわよ」
「え、でも、その絵はお高いんですかー?」
 アタシは桜子の、そんなささやかに反論にムッとした。だけど、可愛いから許してあげる。だって、桜子。今回のお魚は桜子でもあるんだから!
 アタシは早くいいたくて仕方なくて、テーブルに置いてあった、雑誌を手に取った。そして、それを思いっきり桜子にめがけて投げつけた。バシッっときれいな音を立てて、雑誌は桜子の体に当たった。桜子は床に落ちた雑誌を拾った。そして、付箋が貼られているページを開いた。

「この冴えない絵、いくらだと思う?」
「え、ここに7億って書いてある」
「そう、喜多せい子は函館に7億円を隠し持っているのよ」
「え――ー。人は見かけによらないよね」
「でしょ。それでね、この喜多せい子。なんと、表の商売も大活躍みたいでSNSで喜多せい子の陶芸作品がバズってる」
 アタシはタブレットで、SNSの画像を見せてくれた。
 3日で作ったキタノイエロー。

「きれいな作品。私もほしいな」
「バズの所為で、喜多せい子は大忙し。それで、事務員の枠で求人出してるみたい。店の入口に黒いマジックで手書きした求人」
 アタシは笑いをこらえるために、無理やりオレンジジュースを一気飲みした。

「それでも、好きな人ならすぐにやるんじゃないの? その仕事」
「それがね、喜多せい子は店の前に張り紙しかしてないから、誰も気がついてない。もちろん、函館の人にも気が付かれていない。オンライン注文でパンクして、梱包する人が必要なんじゃない?」
 アタシはタブレットをスライドさせて、もう一枚の画像を表示した。そして、アタシが左手で書いた手書きの求人募集の紙を表示させた。

『急募! 事務員募集 梱包、レジ、陶芸教えるなど 人気が落ち着いたらクビにします』
 何度見ても、バランスが悪いし、字がガタガタだ。だけど、右で書いたらバレるもん、桜子に。

「最後の一文で人がこないんじゃないの?」
「それだけ素直な人ってことよ。そんな素直そうな人だから、アタシたち以外にも、春生の遺産を目当てにいろんな組織が動いてるみたいだから気をつけて」
「えー、ヤダよ。だって、またトラブったらどうするの?」
「じゃ、桜子は先に函館入りして、せい子に接触して」
「ほら、また無視だよ、無視。私のこと、いつも危険なところに持ってくんだから」 
 あーあ、最高だ。もう、餌に食いついた。全部のターゲットが桜子みたいに素直だったら楽勝なのにねー!
 
 ピンポーンとインターフォンが鳴ったあと、大声で「すみません、町内会長のマルヤマですけどぉ」とデリカシーのないマルヤマが狙い通りやってきたから、桜子は慌てて、はいはい。と言いながら、玄関まで走っていった。

「お正月の、お餅つき大会の打ち合わせしたいんです。あの下の、一階に集まってるんで来てくださいね」
 玄関から、マルヤマの大きな声が聞こえる。あーあ、腕つまかれてやんの。昨日、マルヤマが13時から打ち合わせだって言われたから、『はい、行きまーす』って適当に答えたんだった。

「あ、ちょっ」
「ダメですよ。皆さん待ってるんです。町内会はみんなで支え合わないと」
 桜子はすでに泣きそうな顔でアタシの方を見ていた。ばいばーい。5時間あるみたいだよー。う・ち・あ・わ・せ。

 お・し・あ・わ・せ・に。という意味を込めて、アタシは大きく手を振った。桜子は予想通り、マルヤマに連行された。
 
 
 
「桜子は?」
 竹巳がひょこっと、隣の部屋から顔を出してきた。

「函館クリスマスイルミネーションに魅せられて出発したよ」
「それ、どういう意味?」
「マルヤマに連行されってた。5時間は帰ってこない」
「どこが、イルミネーションなんだよ。まったく」
 そう言って、竹巳は低い声でゲラゲラと笑ったから、私もゲラゲラと笑い返した。

「そういえば、よくキタノイエロー、上手く仕込めたよな。しかもSNSでバズって、本当に商売してるし」
 竹巳幸二(たけみこうじ)はそう言いながら、テーブルに置かれた黄色い小皿を手に取った。

「あれ、すごいでしょ。インフルエンサーになりたい女の子にちょびっと、お金渡してね、シナリオ君が考えてくれたエピソード通りに投稿してって、アタシが頼みに行ったの」
「それって、闇バイトってこと?」
「いーや、全然違う。だってアタシは、ただ、女子高生にDM送って、案件依頼しただけだもーん。ちょうど1万人のフォロワーくらいのアカウントって伸び悩むみたいなんだよね。だから、簡単にその女子高生、ぱっくんちょしてくれた。いつも、疲れるお魚相手にしてるから、楽勝だったわー」
「アンナも、悪い人だね」
「いーや、私は違う。本当は何人かのそういう伸び悩んでいるアカウントの子にやってもらおうと思ってたけど、その子のキタノイエローの投稿がバズりにバズって、必要なくなっちゃったー! 向こうも、フォロワー一気に10万人になったみたいだし、アタシたちはアタシたちで、3日で作ったキタノイエローが、本当に有名になっちゃったから、ラッキーだよね!」
「そう。アンナは本当に強運だね。で、今回の本当のターゲットは?」
「よし、本番の作戦会議を始めますか!」
 アンナは、デカデカと『ターゲット 喜多せい子』と書かれたホワイトボードをぐるっと反転させた。
 すると、ボードの裏面が正面にきた。

『ターゲット 宝船盗賊団 伏見司 馬場都』
 アンナは、スリープにしていたPCを起動した。
「作戦会議するよ! みんな、お待たせ!声と映像大丈夫そ? 」
 アンナは声を張り上げた。
「シバちゃん、メロウツインズ、あと刑事役の獅子ヶ原瞳ちゃんと、探偵役の鬼丸おじさん、アーユーレディー?」
「「「イェイ!!」」」
 みんなは一画面に仲良く写っていた。
 
「今回の依頼主は喜多春生。ターゲットは、アジアを中心に暴れてる宝船盗賊団。盗賊団の主要人物は二人。伏見司と馬場都。この二人は、闇ルートで出回ってるモノを盗んでは転売してる。最近は、日本の裏ルート古美術商をカモにしてるみたいで、『横浜の狂犬、蝶崎ジュニア』と『長崎のガマガエル、龍ノ島』がたて続けにやられた」
「やられたって、あの大所帯のドンたちが、たった二人の日本人に潰されたのか?」
「ちょこっと玄関の美術品を盗まれただけよ。それでも、ああいう大物が狙われるなんて誰も想定していなかったから、本人たちはすごくショックだったみたい。それも、そもそも裏ルートで手に入れたモノだから警察に被害届も出せないし、プライドもズタズタになって怒り心頭。しかも伏見たちのアジトがなかなか見つからないもんだから、なんだか薄気味悪いのよ」
「蝶崎ジュニア、南のガマガエルときたら……次が北のドン、喜多春生なわけだ」
「そう。喜多春生も盗賊団の事件を知って最初は警戒していたみたいなんだけど、それもすぐやめたの」
「やめた?」
「彼は自分が狙われていることを逆手にとって、盗賊団を捕まえることにした。で、その依頼がアタシたちにきたってこと」
「ほぉ、あんまり春生らしくないな。俺の知ってる春生なら得意の日本刀で、自ら盗賊団を待ち受けて叩き切るくらいのことをしそうだ。春生とは長い付き合いだけど、こんな依頼は初めてだな」
「信じられない?」
「うーん、ひっかかる」
「喜多春生はね、人生観が変わったのよ。はい」
 アンナはメモを渡した。北関東クララケ竜田総合病院(きたかんとうくららがたったびょういん) 111号室。

「もし自分が死んだら、ってこと、初めて考えたんだって。そしたら学生時代に大恋愛したカノジョを思い出して、現在のカノジョを調べたらしい」
「あぁ、ウィーンで出会った子かな」
「カノジョの名前は『しょう子』。彼女は今も未婚のまま、函館で娘と二人で暮らしてる。普通の真っ当な庶民暮らしだよ。その娘がね、実は春生との子供だってことが分かったの。自分に娘がいることを、春生はずっと知らなかった。でも、知ってしまった春生は、しょう子と娘のことが急に心配になってしまった」
「なるほど。もし自分が死んだら、娘に少しでも何か遺してやりたいってこと?」
「そう。でも自分と接点があることがバレたら、裏社会の人間に狙われるかもしれないでしょ? だから春生は今回の策を考えたの」
「なるほど」
「まず、春生は自分が死んだっていう噂を流す。そして、春生のコレクションを狙う盗賊団を、わかりやすく配置した「ニセモノのせい子」に誘導する。その「せい子」に釣られた詐欺師をアタシたちが見せしめにお仕置きしてあげる。そしたらもう誰も、せい子に手を出さなくなるし、「本物のしょう子」の存在なんて誰も調べないまま知られずにすむってわけ」
「結構、まわりくどいな」
「その分、報酬もたっぷり」
「報酬は?」
「喜多春生が長年コレクションしてきた美術品全部」
「はぁ?」
「そのくらいの覚悟があるってこと。喜多春生はしばらく入院して、このまま引退するつもりなんだって」
「そういうことか……」
 いつもの穏やかなコウジの笑顔は、ちょっと寂しそうだ。お腹でも痛いのかもしれない、可哀想に。
「決戦は12月の函館。クリスマスに『宝船盗賊団』を釣り上げる!」
 アタシは声を張り上げた。

「オッケーだ。これまでの実績を見ると、ターゲットは相当グルメなコレクターだな」
 画面越しの鬼丸は苺味のポッキーを咥えている。
 過酷な禁煙に耐えた中年は、ニコチン依存症から甘味中毒者にアップデートしたらしい。

「うん。私たちと同じで雑魚狩りに興味ないタイプっぽいわ。選りすぐったあいつらのコレクションが楽しみ❤️」
 獅子ヶ原は、占い師みたいなディープパープルの民族衣装を着ていた。

「で、僕たちはなにをすれば良いわけ?」
 メロウツインズの角刈りが言う。アタシは軽く咳払いをしてから話し出した。

「順番に説明するね。今回は、ターゲットのアジトを丸ごと、根こそぎいく。『宝船盗賊団』のアジトが船ってことは最近わかったことなんだけど、あいつらガードが固くてなかなか情報が出てこないの。船がアジトだから、普通に考えると海上での接触が難しい。だからその分、警戒は手薄な予感がするの。多分ちょっと囮のトラップ入れれば船に近づけると思う。まずは何回かに分けて、彼らに接触して船のデータを集める。それで本物そっくりの偽物の船を作るの」
「なるほど。船かぁ、身軽で羨ましい」
 鬼丸が遠くを見て言う。アタシはまた咳払いをした。

「集めた情報を結集させて、冬になる前にどうにか偽物の船を作りたい。それでクリスマスの夜に、本物の宝船とニセモノの船をすり変える。最後は『宝船盗賊団』をニセモノ船に追い込んで、アタシたちが彼らのアジトを船ごといただくって算段よ」
 アタシがビシッと宣言すると、あたりはしんと静まり返った。みんな浮かない顔をしている。獅子ヶ原瞳は、わざとらしくため息をついてアタシを睨んだ。

「ずいぶんと雑な作戦を思いついたわね アンナちゃん、あなたバカなの?」
「失礼な! 奇想天外と言ってください!」
 アタシは仁王立ちをしてドヤ顔をつくった。

「まぁいいじゃないですか。やるなら派手にいきましょう」
 竹巳が拍手をすると、みんな何故かつられて拍手をする。アタシは二回手を叩いて仕切り直した。

「伏見たちを函館に誘い出すネタは『喜多せい子』でいきます。こっちの準備はアタシに任せてください。そのためになんと、喜多春生から幻の絵画『金木犀』の実物を貸してもらえることになりました!」
 アタシが『金木犀』を見せると、おぉ! と歓声が上がった。

「話を戻すと『宝船盗賊団』の現在の主要メンバーは二人。42歳の伏見司は盗賊団のボス、なかなかな映画オタク。37歳の馬場都は武闘派の動けるデブ、最近の趣味はマッチングアプリで男あさり。登録名は『マダム・ミーコ』。メインの二人はこんな感じで、たまに船の運転手兼警護要因として26歳のスナイパー君が合流してる。スナイパー君の方はシバちゃんに任せるから、いい感じに料理してね。あとは……」
 玄関の方から、鍵をあける音がした。

「やばい! 桜子が帰ってきた……続きはまた今度、解散!」
 アタシは急いでPCの画面を切った。椅子から離れて、壁の前に立つ。桜子が廊下を歩いてくる音が聞こえる。アタシは床に両手のひらをついて逆立ちした。
 
 リビングのドアが開いて桜子が入ってきた。
「ただいまー。あれ、アンナ何してんの?」
 桜子は、疲れた顔で聞いてきた。

「シナプスに酸素送ってんの」
 何事もなかったようにアタシが言うと、桜子は呆れたように微笑んだ。
「アンナはお気楽でいいよねぇ」
 ――あんたこそ、お気楽でいいよねぇ。
 桜子の背中に向かって、アタシは心の中だけで言った。
 
 


 🐟️

 8月某日。
 
 鬼丸鉄郎からメールが届いた。

『Dearアンナちゃん。
 ターゲットの居場所がわかった。
 『宝船盗賊団』は今、ベニスに滞在中。8月いっぱいは船の修理で足止め。
 そろそろ喜多春生の噂が彼らの耳に入ってる可能性あり。
 俺はこれから映画関係者に変装して伏見に接触する。チャンスがあれば船にGPS仕込んでみるよ。写真もあとで送る。これがうまくいったら今度は『私立探偵の鬼丸』に変身だな。12月の函館で会えるのを楽しみにしてるよ😊😊😊
 From鬼丸』
『😊😊😊』
 アタシは手早く返信した。
 シバちゃんからのメールも確認する。

『サハラ砂漠でスナイパー君と接触。
 雑用係として宝船に潜入済み。
 クリスマスに函館にて伏見司、馬場都と合流予定。
 姫乃桜子を合法的に射殺するピストルを求む。』

「ねぇ、あのピストルってまだみんなに渡してなかったっけ?」 
 アタシはコウジに声をかけた。
「あの赤いインクが入ったペイント弾丸のこと? 今朝届いたから、一旦僕の部屋に隠してあるよ。ちょっとまってて」
そう言って、コウジがソファーから起き上がる。
 その間に、アタシは獅子ヶ原瞳からのメールを開いた。

『黒髪に地味なパンツスーツ。女刑事ってこんか感じかしら?』
 メールと一緒に送られてきた画像は、獅子ヶ原の刑事姿だった。溢れ出る『いい女感』が隠しきれていない。ただの眩しい写真だった。
 ――こんなことなら、刑事役じゃなくて社長令嬢の方を担当して貰えばよかったかな……。
 そんなことを考えていると、コウジが戻ってきた。手に赤いカプセルを持っている。桜子が外に出ているのを改めて確認してから、アタシとコウジは洗面所に向かった。

「せーのっ!」
 掛け声をあげてカプセルをシンクに叩きつける。
 すると、パァンと派手な音がして弾けたカプセルの中から赤い液体が飛び散った。アタシとコウジを目を見合わせる。

「これで血に見えるかなぁ?」
「普通は嘘だってバレるね。騙せるとしたら視界が悪くなる暗闇か、よっぽどせっぱつまったとき……」
「なるほど。みんなにも伝えておこう。この弾を使う時は、視界が悪い状況か、よっぽど相手をテンパらせたときだけって」
「そんな都合のいい状況になるかな」
「大丈夫よ、みんなプロだから。せっかくだからガンガン使ってもらおう!」
そう言って、アタシはコウジとハイタッチを交わした。
 


メロウツインズからの着信に折り返すと、涙声の金髪キノコが電話に出た。
「マダムミーコ、ドタキャンしやがった。お兄ちゃんとのディナーも、僕との映画鑑賞も」
マダムミーコは、相手が男なら誰でもいい、という訳ではないらしい。こうなったら最終兵器の神崎を出すしかないか。アタシはなるべく優しい声で金髪キノコを慰めた。

「大変だったね、お疲れ様。あとで美味しいお土産持っていくから楽しみにしててね。あのオバサン、男見る目ないわぁ」 
アタシはそのまま通話を切ったあと、すぐ神崎に電話をかけた。
 
 
 
 
 八章 終章 

― ❄️ 姫乃side ―
「で、どんなお宝があったの? 秘密の部屋には」
 無邪気に身を乗り出して、アンナが聞いてきた。アンナのひじがバカラのグラスに当たって、グラスがアンティーク調のテーブルの上からすべり落ちる。そのグラスが大理石の床につく前に、年老いた手がサッと伸びた。その手は、グラスを掬い上げるように優しくキャッチする。
 そのまま手に持ったグラスを、竹巳幸二はテーブルの上に戻した。

「わぁ。コウジの動体視力はすごいね。さすが、適当人間のアンナの子守りで鍛えられてる」
 私は、皮肉たっぷりにアンナに微笑んだ。アンナはきょとんとした顔で私を見ている。

「アンナのガサツさが隠しきれてなくて、社長令嬢の役が全然似合ってなかったよ」
 そう言って、私はアンナに黒い名刺を突き出す。

『円城寺不動産 社長代理 円城寺アンナ』
 これは、アンナが竹巳と二人で工房に現れたとき、私に見せてきた名刺だった。
 鼻で笑って、アンナは名刺を指先ではじいた。

「桜子はわかってないなぁ。アタシは肝心なところで失敗しないの。注意力は本業に全振り。今回の仕事だってアタシのおかげで成功したでしょ?」
 私は、あの日味わった痛みと、血の匂いを思い出して腹が立ってきた。

「私はアンナのせいで死にそうになった。あの時は本当に……今回こそ本気で死ぬかと思ったんだから。なんでいっつも私に作戦教えてくれないわけ?」
 ニヤついていたアンナの顔が、ふと真顔になった。

「そんなの決まってるじゃん、桜子の演技が大根だから。もしかして自覚ないの? まぁ、そのかわり『普通の地味な人』の演技はなかなかいいんだよねぇ。あー、影が薄くて羨ましいわ! ねぇコウジ?」
 私とアンナの間に座った竹巳は、ただただ穏やかにニコニコと頷いている。

「それで? お宝はどうだった?」
 竹巳の口調は、いつも通り穏やかだった。
 上品なおじ様の竹巳には、今回のような紳士的な雰囲気の役が似合っていたように思う。少なくとも、これまで桜子が見てきた「中華マフィアのボス役」や「熱狂的な地下アイドルの追っかけ役」よりは、ずっと似合っている。桜子は、あの倉庫の奥の光景を思い起こした。

「お宝っていうか……最初の部屋には、中央の台座にバレバレのキュービックジルコニアが飾ってあって、あとは壁一面に家族写真とか、子供が描いた絵とかが飾られてただけだったかな」
「はぁ? しょうもな!」
 アンナは途端に興味を失ったように、椅子から立ち上がった。私は、そのままキッチンに消えていくアンナに向かって声を張り上げる。

「しょうもなくないでしょ! 孤独なおばあさんにとっては、思い出が最高の宝物なんだよ!」
 すぐにキッチンから戻ってきたアンナは、左腕でホッピングシャワーのバケツアイスを抱えて、右手には純金製のスプーンを握っている。さっきモンブランをワンホール一人で食べたくせに、まだまだ糖分を摂取するつもりらしい。こんな食生活で、どうしてアンナは太らないんだろう、本当に理不尽だ。

「ふーん。まだ気づいてないんだ。純粋だねぇ桜子は」
 そう言うと、アンナはバケツからすくった水色のアイスを大口で食べた。
「知ってるよ、もう一つ秘密の部屋があったことなんて」
「それじゃない」
 アンナが大袈裟にむせる。私はアンナと竹巳を交互に見つめた。

「じゃあ、何よ」
 竹巳幸二は、穏やかな笑みを浮かべて、マカロンをつまんだ。

「せい子おばあちゃんなんて、本当はいないんだよ。キタノイエローはアンナが作った設定で、SNSで拡散したのも、もちろん我々だ」
 アンナも、手に取ったマカロンにアイスを塗りつけながら自慢げに言った。
「ねぇすごいでしょ! あの工房だって、コンビニの居抜きなんだから……これも全部伏見たちをおびき寄せるためのエサ。詐欺師ホイホイってわけ」
 
「はぁ? じゃあ、あのせい子先生は一体何者?」
 
「あの人ねぇ、昔は『ハニトラ界の女帝』って言われてたくらいの凄腕女スパイ。今は休業中で趣味は陶芸。ちなみにモデルは『せい子さん』じゃなくて『しょう子さん』て名前。ほら、漢字にすると『聖子』で、一緒でしょ?」
「ちょっと、それって……どこまで私のこと騙してたの?」
 
「敵を騙すなら先ず桜子からって、ね」
 アンナは踊るように軽やかに、窓際の大きなホワイトボードにかけよった。
 ホワイトボードには、見慣れた作戦内容がびっちり書き込んである。そしてボードの一番上にはデカデカと文字が書いてあった。

『ターゲット 喜多せい子』
「今回のターゲットは喜多せい子、ってことにしてたけど、実は……」
「実は……?」
 嫌な予感がした。

「本当の作戦はこっちでしたぁ!」
 そう言って、アンナはホワイトボードの表側を裏に回した。
 そうして、これまで隠れていた裏側のボードが露わになった。
 こちらの面も、様々な文字や図で、びっしりと埋まっている。
 だけど、さっきと大きく違うのは、一番上の太字。

 そこには、こう書いてあった。
『ターゲット 宝船盗賊団 伏見司 馬場都』

「あの二人も、アンナの仕込みだったの?」
「カモだよ、カモ。作戦、ちゃんと読んで。伏見と馬場は、そもそも詐欺師だったの、それを釣ったのがアタシたち」
「伏見も馬場も、せい子先生まで詐欺師だったら……この作戦、私が潜入する必要性あった?」
「あ、気づいちゃった? 勘がいいね!」
「最悪。また私で遊んでたんでしょ」
「期待を裏切らない面白さだった。特に最後のセリフ」
 アンナはリモコンのスイッチを押した。
 すると、天井に設置したプロジェクターが、夜の海の映像を映し出した。

『おばさんじゃな――ーい!』
「ちょっと何これ!?」
「ドローンで、こっそり撮影してました」
「監視してたわけ?」
「いや、ただの記念撮影」
 怒りが沸点に達した私が、アンナに飛びかかるのと、ほぼ同時に玄関の呼び鈴が鳴った。
 昨日注文した『カリスマ探偵田口ロロ』の等身大パネルが届いたのかもしれない。私は急いでインターホンのカメラを確認した。
「はーい。」
「姫乃桜子さんですか? お届け物です。荷物が大きくて宅配ボックスに入らなくて……上に持っていきますね」
 カメラの画面いっぱいに、段ボール箱が写っていて配達員の顔は見えない。まるで、ダンボールから声が出ているみたいだ。
「ありがとうございます、お願いしますー」
 そう言って、私は【ロック解除】のボタンを押した。
 
 
 適当な上着を羽織ってブーツを履いていると、ちょうど玄関先の呼び鈴が鳴った。慌てて、ドアを開ける。すると、目の前に現れたのは、箱を抱えた配達員ではなく、一人の男だった。私にとっては、トラウマ級に会いたくない相手だ。

「姫乃さん。またお会いできましたねぇ」
 ネチネチした粘着質な話し方。銃口を私に向けて、探偵の鬼丸鉄郎が静かに言った。鬼丸は、死んだはずの私を怪しんで執念深く探し回ってたんだ。私がドアを閉めようとしたら、ドアの間に鬼丸が体をねじ込んできた。

「死に損ないが。今度こそ、逃がさねぇぞ」
 私は、部屋にいるアンナたちに向かって叫んだ。

「緊急事態! 警備員に連絡して! 早く!」
 少しずつ鬼丸の力に押されていく。

「あらあら、物騒ねぇ。お巡りさんが必要かしら?」
 鬼丸の後ろから、配達員の作業着を着た女が顔を出した。女が青色のキャップを脱ぐと、美しく長い黒髪が、流れるように彼女の肩にかかった。整った顔立ちに、印象的な猫目。

「獅子ヶ原さん、どうして……」
 私は、急な状況に驚きながら、瞬時に悟った。これから私は逮捕されて牢屋に入れられるんだ。冷たい檻の中で、きっと何年も、本当におばさんになるまで刑務所にぶち込まれる。だけど、そんなの今更考えたって仕方ない。あの地震に巻き込まれたあと、アンナや竹巳と暮らし始めた頃から、本当は心のどこかでずっと私は覚悟をしていた。
 必死にドアを抑えている私の全体重が、相手のパワーにじりじりと負けていくのを感じる。ドアが大きく開いていく。
 
 不意に、私の頬を一筋の涙が流れた。
 ――アンナも私もひとりぼっちになっちゃうんだ、今度こそ本当に。
 
 その時――。
「おぉ! お二人ともお疲れ様でした! 早く中に入って、一緒に乾杯しましょうよ!」
 後ろから、アンナの楽しそうな声がした。

「いやぁ、待ってましたよ。今夜のスペシャルゲスト」
 竹巳の声もつづく。そして、客人を歓迎するように盛大な拍手が起こった。振り返ると、アンナと竹巳、メイドたちが笑顔で拍手している。

「ちょちょちょっと待って、この人たちの顔よく見て? 警察と探偵だよ?」
「あれ、言ってなかったっけ。鬼丸さんと獅子ヶ原さんは同業の先輩。今回の函館作戦のために喜多春生が紹介してくれたの!」
 得意げにアンナが言ってウィンクした。

「そういうこと! 意地悪してごめんね、桜子ちゃん」
 函館では見せなかった明るい表情で、獅子ヶ原がVサインを向けてくる。その隣にいる鬼丸が、手に持っている銃の引き金を引くと、銃口からオモチャの薔薇が飛び出した。

「打ち上げにはサプライズがつきものだろ? さっきの君のリアクション、最高だった。ガハハハハ!」
 鬼丸が豪快に笑う、それにつられて私以外のみんなは楽しそうに笑った。怒る気力も沸かない私は、全身の力が抜けて、玄関の床にへたり込んだ。そんな私の頭を、アンナがわしゃわしゃ撫でまわす。

「ドンの紹介じゃなきゃなかなか会えない大物よ。桜子が一番、二人と絡む時間長かったんだからね……って、もしかして、あんた泣いてんの?」
 自分勝手に振り回すにも程がある。アンナの遊び癖は直らない。だってきっと今より刺激的な日常なんて、他のどこにもない。

「……よかったぁ」
 私はそう呟いて、アンナにパンチを繰り出した。だけど、私の拳はあっさり空振りして、アンナはというと、図々しく獅子ヶ原に抱きついていた。




― 💼 喜多春生side ―

 病棟の窓を見ると、楓の葉はすべて落ちていた。そうか、もうすぐ新年か。喜多春生は点滴がぶら下がったキャスターつきのスタンドを左手で、押し始めた。

 そして、喜多春生は回想する。あの日、ウィーンでしょう子に出会わなければ、こんなことにならなかっただろう。あのときの二人はお互いに若く、そして、社会の基本構造もわかっていないような、そんな年頃だった。
 喜多春生は思う。あのときの刺激が強い感覚は、もう戻らないが、40年前のしょう子と出会ったあの日の感覚は鮮明に覚えている。




 メトロの出口、黒い階段を登ると、雲ひとつないまっさらな秋空とともに、石造りのオペラ座が見えてくる。
 そして、メトロからオペラ座につながる広間を歩いていうちに、安っぽい司祭風の衣装を纏った何人かのおじさんたちとすれ違った。

「ニーハオ! アニョハセヨー! コンニチハ」
「わぁ! 日本語話せるの? すごい!」
「コンニチハ! サムライ! アキラ・クロサワ!」
「あ! それ、今夜のオペラのチケットですか?」
 後ろからそんな会話が聞こえてきて、俺は振り返った。
 留学先で孤独な生活にストレスが溜まっていた俺は、脳天気な日本人の声に腹が立って話しかける。

「その人、ダフ屋ですよ」
ダフ屋につかまっていたのは、小柄で目がぱっちりしていて小動物みたいな少女だった。育ちの良さそうな格好をしている。
彼女は大きな瞳で俺を見つめた。
今思えば、俺はあと時、しょう子に一目惚れしていたんだ。
「大丈夫だと思います。公式っぽい格好してるし、愛想良くていい人そうだし」
彼女の瞳は澄んでいた。
「そのポリエステル衣装のどこが公式なんだよ、明らかにコスプレだろ。公式っていうのは施設内の窓口のこと言うんだよ。割高でもいいなら、その人から買えば? あんたが言うように『いい人』なら命までは取られないだろ。でもさ、あんたさっきから騙されすぎなんだよ。メトロからここに歩いてくる間にミサンガ買って、鳩のエサ買って……観光客丸出しのカモられまくり。あんたみたいな人に限って、帰国してから被害者ヅラするんだよな」
まくしたてるような俺のしゃべりを、彼女はぽかんとした顔で聞いていた。
なんかめんどくさい空気を察したのか、ダフ屋が俺達から離れて別のターゲットに声をかけに行く。
ちょっと口調がきつかったかなと、俺が後悔しはじめとき、彼女は俺の手をとって微笑んだ。
「助けてくれて、ありがとう」

どこにでもあるような些細なことが、俺としょう子との出会いだった。
その夜、二人でオペラを観て、次の日から俺が彼女の観光をアテンドした。




 



― 💼 竹巳幸二side ―

「竹巳、俺は死ぬ」
 広々とした個室に、年老いた喜多春生の声が響いた。
 真っ白なベッドに横たわる幼馴染の姿を見て、竹巳幸二の胸は痛んだ。

「珍しく弱気だね。心配しなくても誰だっていつかは死ぬさ」
 竹巳は、座った自分の膝の上に、見舞いの品をおいた。
 藍染の風呂敷が、微かに暖かく感じる。

「医者が怪しいんだ。絶対なにか隠してる。誰も口に出さないけど、俺は本当は末期癌で、もう手の施しようがないんだろう。部下たちも変に優しくしやがる。今更年寄り扱いしやがって見え見えなんだよ、あいつら」
 
 
 
「春生。ウィーンで会ったお嬢さんのために、こんな手の混んだことをしたのかい?」
「今更なのは分かってる。何年もほったらかして、しょう子は俺を忘れているかもしれないな。これは完全にエゴだよ」
 それより、と言って、喜多春生は話を続けた。

「『金木犀』は、しょう子に渡してくれたのか?」
 竹巳は、首を左右に振って答えた。

「大丈夫。もうすぐ、彼女に届くはずだ。約束する」
 アンナによると、春生の依頼は盗賊団を懲らしめること以外に、もう一つあった。それは『金木犀』のことだ。春生は、送り主を秘密にしたまま、『金木犀』をしょう子に届けたかったらしい。喜多春生は困ったように、頬をかいた。

「アンナちゃんは切れ者だが、道草を楽しみすぎるところが悪いクセだな」
 竹巳は、堪えきれずに吹き出した。

「確かに。アンナにとっては道草がご馳走に見えるんだよ。仕方ない」
 ふと、竹巳は春生の寂しそうな眼差しに気づいた。きっと春生は、晴れた空の先にしょう子と娘の姿を見ているんだろう。
 竹巳は、胸の奥が締め付けられる思いがした。そして、目の前の老人がひどく孤独な人のように感じた。北のドン『喜多春生』と言ったら代々裏社会で暗躍する一目置かれた存在で、彼を慕う部下も多い。それ故に、春生はずっと、恋した人と距離をおいていた。

「お前、本当は俺なんかより、しょう子さんに会いたかったよな……」
「もうとっくに諦めてるんだ。お前が会いにきてくれて、俺は本当に嬉しいよ。ありがとう」
「やっぱり、らしくないよ。春生」
 
 病室のドアを、ノックする音が聞こえた。
 ――そろそろ彼女が着く頃だろうか。竹巳は静かに腰を浮かせた。

「気にするな、買い出しに行かせた部下だと思う」
 喜多春生は視線を窓の外に向けたまま言った。
 春生の視線の先では、まだ雪が積もった桜の枝が風に揺れている。
 
「そろそろ俺は帰るよ。春生が退院したら、また一緒に悪巧みをしような」
 そう言って、竹巳幸二は、オグニマサオの『金木犀』をベッドの脚に立てかけた。
 絵画は、喜多春生から見えない位置にある。これは、これからこの部屋に入ってくる女性に宛てたメッセージ。
 今の春生の気持ちを、あの絵は素直に伝えてくれるに違いない。
 
 竹巳は、何かを言いかけた春生の声を背中で聞いた。
 そして、ドアを引く。
 
 すると予想通り、竹巳の目の前に、小柄な女性が立っていた。
 グレイヘアの彼女は驚いたような表情をしている。竹巳は彼女にむかって小声で囁いた。

「しょう子さん久しぶり、来てくれてありがとう。あとはあなたに任せる」
 しょう子の瞳は、大きく見開いたまま次第に涙が溜まっていく。
「あいつ、なにか勘違いして弱りきってるけど、ただの尿路結石だそうだ」
 それだけ言って、竹巳は病室をあとにした。
『金木犀』が、離れ離れになった二人を、また引き寄せてくれる。これはある意味、幸せを呼ぶキタノイエローが本当に効果を発揮したのかもしれない。

 外に出ると、冷たい風が吹きつけた。
 竹巳は、幼馴染の春生の依頼を完遂してくれたアンナに感謝の気持ちを伝えたくなって、アンナに電話をかけた。
 


― ❄️ 姫乃side ―
 アンナが電話しているのを横目に、私はそっとキッチンに向かった。
 昨日から始まった打ち上げパーティーは、今日になってもだらだら続いている。

 テーブルの上には、みんなが飽きて中断した「人生ゲーム」やオセロが出しっぱなしになっていた。私は、ケーキとジュースとピザをプレートに並べると、いつも引きこもっている仲間の書斎に運ぶ。

「そういえば、私のことを撃った裏切り者のシバちゃんは?」
「シバちゃんはね、また、旅にでたよ。今回のバカンスで沖縄だって」
 アンナそう言って、ゲラゲラ笑った。

「意外と近場なんだ」
「あの人、海外ばっかり行ってるでしょ。それで疲れ果てると、沖縄のコテージに行くんだって」
「へえ、あんなことするのに庶民的」
「ま、桜子のこと撃つの考えたのアタシだから、シバちゃんに罪はないけどね。しかも赤いペイント弾だし」
「アンナって、悪女すぎるよね」
「バン、バーン!」と言いながら、アンナは指で拳銃を作り、私を撃ちまくった。マジで一度、銃口を向けられたほうがいい。

「てか、どうやって、シバちゃんにペイント弾渡したの?」
「それはね、メロウツインズによる、三機のドローンで華麗に輸送ようとした、ま、三機ともスナイパーに撃ち落とされたけどね」
「あのスナイパー、腕はいいんだ。え、でもそれじゃあ、ペイント弾運んだ理由になってないじゃん」
「結果としてだけど、メロウツインズが操縦する、三機のドローンがスナイパー君を引き付ける囮になってくれたの。その間に獅子ヶ原さんが、小型のラジコン船持って、近くに行ってくれたの。ここだけ、急ごしらえだったからアナログだったんだ」
「うわー、ペイント弾、シバちゃんに渡せなかったら、どうしてたの?」
「そのときは、シバちゃんに、桜子のこと、投げ技で海に落としてもらおうと思ってた」
「どっちにしろ、私のこと、あの真冬の冷たい海に落とすつもりだったんだね」
 そうアンナに言うと、アンナは、また大爆笑した。

「その銃撃シーンを書いた、シナリオ君の部屋に行くの?」
 不意にアンナが聞いてくる。
 私が頷くと、さっきまで別のテーブルでテキーラを飲んでいた獅子ケ原瞳が私の肩にもたれかかってきた。
「なにシナリオ君て、まだ仲間がいるの? 紹介してよぉ」
 呂律が回ってなくて、完全に酔っている。

「シナリオ君は極度の人見知りで、いつも自分の書斎に引きこもってるんです。だからこっそり行こうとしたのに……」
 私がそう言うと、獅子ケ原瞳は不満げに眉間にシワをよせた。
「ふぅん、その引きこもりの仲間になにができるってわけ? 詐欺師はコミュ力と演技力があってなんぼでしょ」
「ですよね! アタシもそう思ってるんです! だけどびっくり、うちにはコミュ障も大根役者も揃ってまして……」
 アンナはわざとらしく私に視線をむける。私は肩で獅子ケ原瞳の腕を払って、咳払いをした。

「シナリオ君は、作戦の組み立て兼、スケジュール管理兼、調査員兼、記録担当って感じで裏方の殆どをやってくれています」
 獅子ケ原瞳は、大げさに目を見開いて声を上げる。
「えぇ! そういうのってアンナがやってるんじゃないの?」
「無理無理。アタシが閃いたことは、シナリオ君がちゃんと計画立ててくれてないと実現できないんですよ。ほら、アタシって発想が自由だから細かい調整とかはできなくて」
 アンナの言葉に、私も続けた。

「そうそう、ガサツなアンナには無理無理。でもシナリオ君は、さっき言ったみたいに超がつくほどシャイなので、表向きはアンナがやってることにしてるんです」
「へぇ。そうだったんだぁ、余計会いたくなっちゃったなぁシナリオ君」
 ぐでぐでに酔った獅子ケ原が、また私の腕にくっついてきたのを見て、アンナが間に入った。
「瞳さんは、アタシとオセロの続きやりましょー」
 そうやって開放された私は、準備したプレートを持ってシナリオ君の書斎に運ぶ。





 ドアを4回ノックする。
 これが私の合図だ。
 しばらくすると部屋の内側から鍵を開ける音がして、扉が開いた。
「シナリオ君、久しぶり。元気だった? ジュースとケーキ持ってきたから一緒に食べよ?」
 小柄なシナリオ君は、私を見上げて微笑む。いつものフレームがない丸メガネに、天然パーマのアフロ。彼は、アフロのパヤパヤの髪先を揺らしながら、自分の席に戻っていく。

「ありがとう桜子ちゃん、今回の仕事は特に疲れたでしょ。大活躍だったね」
 シナリオ君に通されて、プレートを持った私は部屋に入った。

 デスクの上には分厚い本が置いてある。
「これが今回の台本?」
「そうだよ。『幸運を呼ぶキタノイエロー編』あとちょっとで書き終わるから待ってて」
 シナリオ君は、自信満々そうに、アフロを揺らし、頷いた。シナリオ君は椅子に座ると、本のページをめくりはじめた。
 
 この本は、最初は白紙のページに、自分で自由に書くことができる。
 シナリオくんがめくったページには、すでにびっしりと書き込みがしてあった。

「クリスマスの函館で何回も死にそうになったんだけど。あれシナリオ君の仕業? 私なんか恨まれるようなことしたかな」
「あ、あれは自分じゃなくてアンナちゃんのアイディアだよ! 桜子ちゃんが勝手にプリン食べたこと、もう恨んでないから」
「あー! 恨んでるじゃん!」



 私は、プレートを持ったままシナリオ君の手元をのぞきこんだ。
 シナリオ君は、最後に一行だけ書き足して本を閉じた。 
        
                                   
 『この物語はフィクションです』