窓の外、夜明けの空が白んでいく。あれからくるみは安心したように大人しく寝ていて、薬の効果が切れたあたしの心も、久しぶりに随分と穏やかだった。
 雲のようなふわふわソファーを借りて仮眠できたお陰で、寝不足だった身体も回復した気がする。

「……あ、旦那からメッセージ来てた」

 くるみの夜泣きも、結局あたしたちがずっと外に出たことも気付かず、今まで爆睡していたのだろう。『今どこ、散歩?』なんて呑気なメッセージに、前なら怒りや悔しさの後、すぐに帰らなきゃと萎縮していたのに、今はそんな感情は湧いてこない。

 理解して貰えないのは、あたしが嫌な視線から逃げて何も言わなかったせいだ。
 心の声は、たとえ叫びだとしても、言葉にしなきゃ伝わらない。帰ったら改めて、二人でくるみのことや他のことも、きちんと話し合おう。

「……あたし、そろそろ帰ります。たくさん、お世話になりました」
「ふふ、素敵な笑顔になれてよかったです! なずなさんも、くるみちゃんも、どうかお元気で」
「にゃあ」

 こよるちゃんは徹夜明けとは思えない眩しい笑顔で、黒猫は相変わらずくるみを興味深そうに見ている。
 そして、薬の効果が切れてから少しして様子を見に来てくれた店長さんは、その後寝落ちたあたしと入れ違いでお店の方に出ていたようだった。

「迷子になった夜には、またおいで。……きみたちに、もうそんな夜が来ないことを祈るけれど」

 モノトーンでシックな装いをした、背が高い二十代前半から中頃に見える若い男の人。少し長めの前髪で俯けば隠れてしまうものの、優しく凪いで美しい瞳をした、とても整った顔立ちの綺麗な人だった。
 こんなに素敵な人にぼろぼろの格好を見せるのは申し訳なかったし恥ずかしかったけれど、可愛い女の子達に感じた劣等感は既にない。見下されているような被害妄想も消えた。
 くるみの涙をたくさん吸ったこの服は、あたしの自慢の戦闘服だ。

「……あ、そうだ。なずなさん。なずなの花言葉をご存知ですか?」
「え? ううん……」
「なずなには『あなたにわたしのすべてを捧げます』なんて花言葉があるんです。献身的なのは素敵ですけど……わたし、すべてを捧げる必要なんてないと思います」
「え……?」

 あたしを見送るように店の扉を開けるこよるちゃんは、夜の終わりまで付き添うように、優しく言葉を続ける。

「自分はくるみちゃんのお母さんだって、そうやって胸を張る自信が出来たのは、素敵なことです。ですけど……なずなさんってお呼びした時の嬉しそうな顔も、本心だと思うから……せっかくの素敵なお名前、どうか忘れないでください」
「こよるちゃん……でも、あたし不器用だから、どっちかしか……」
「お母さんだけど、なずなさんで居ていいんです! 選ばなくていい、どっちもあなたです。……今は目の前の命を守るので精一杯で、そんな余裕がないと思うかもしれないけど…かそれでも、いつかくるみちゃんが大きくなって手を離れた時、空っぽになってしまわないように。甘いもの好きで、可愛らしいお洒落にも関心があるなずなさんを、見失わないでいて欲しいです。じゃないと、きっとまたいつか、迷子になっちゃいますから」
「うん……ありがとう。もう迷わないように、自分のこともちゃんと、見てあげることにする」
「はいっ!」

 目の前のことで精一杯だったあたしの、もっとずっと先を心配してくれるこよるちゃん。そのことが何だか照れくさい。
 あたしはこのお店で、母親としての自分と本来の自分、両方と向き合えたのだ。

「ああ、名前の由来と言うのなら、『くるみ』には『三位一体』という意味もあるね……。くるみさん、きみがお父さんとお母さん……家族をひとつにするんだ。今はたくさん泣いてもいいから、その分それより多くの笑顔を運ぶんだよ」

 今まであたしたちのやり取りを見守ってくれていた店長さんが、ふと眠るくるみを覗き込むようにして、静かに声をかけてくれる。その穏やかな響きは子守唄のようで、くるみは微笑んでいた。

「……それじゃあ、本当にありがとうございました!」

 店の外までお見送りしてくれた優しい夜の住人に別れを告げて、愛する我が子と朝に帰る。
 やがて昇った朝日の温かさに照らされながら、あたしはそっと、目を細めた。