「なるほど……なずなさんはきっと、目が怖いんですねぇ」
「……え?」
今度はホイップクリームで可愛らしく盛り付けられた、二杯目のココア。
甘く心を溶かすそれを飲み終える頃、あたしの弱音を黙って聞いてくれていたこよるちゃんは、ふとどこか納得したようにぽつりと告げた。その予想外の言葉に、あたしは思わず瞬きをする。
「え? 目って……なんで?」
「その、お話を聞いていたら……なんとなく。自分の中でのぐるぐるが、どれも周りの反応に起因している気がして……なずなさんは、ご自分に向けられる『目』が、苦手なんじゃないですか?」
「あたしに向けられる、目……」
指摘されて改めて、あたしはこれまでの苦しみを振り返る。そしてようやく、その原因に気付いた。
「……そっか、あたし、他人の目が怖いんだ。くるみが泣く度に迷惑そうに向けられる周りからの目も、こんなに頑張ってるのにそれを見ようともせずあたしを見下す旦那の目も……目を真っ赤にして泣きながらあたしを見上げて来る、くるみの目も……」
誰かに嫌な目を向けられるくらいなら、逃げ出したかった。すべてから目を逸らして、見て見ぬふりをしたかった。あたしはあたしだと強がりたかった。
だけど、そうはいかなかった。どうしたって周りの目は気になるし、自分がどう見られているのか気になった。
自分に手間をかける余裕がないと言い訳をしながら、可愛い女の子に劣等感を覚えるのも。母親として、お洒落なんかしていないで子供に手をかけろと思われそうで、自分を蔑ろにするのも。
自分では精一杯頑張っているつもりでも、母親として劣っていると評価されるのを恐れるのも。きっと全部、人の目が気になるからだ。
「そう、だったんだ……でも、じゃあ。あたしの不安が周りからのものなら、どうしたらいいの……?」
どうしようもない。全部そんな目を向ける周りの人が悪いのだ。
目が怖い、そう意識してしまうと、途端にこよるちゃんや黒猫の目さえ気になった。
こよるちゃんは、大きな目でまっすぐにあたしを見据えて、こんなあたしの弱音に付き合って嫌な顔ひとつせず優しい言葉をくれる。 なのにその澄んだ瞳からは、うまく感情が読み取れない。
黒猫はまるでお星様みたいなキラキラの目で、今もなお穏やかに眠るくるみを眺めている。
けれども時折あたしを見上げては、不思議そうにじっと見つめる。その気持ちもわかるはずがない。
「うーん……すみません、少々お待ちくださいね」
「えっ……!?」
てっきり何かアドバイスをくれるものと思っていた。そうでなくとも安心させるような優しい言葉をくれると思ったのに、こよるちゃんは立ち上がり、ひらりとスカートを翻して店の奥へと行ってしまった。
「え、あ……どうしよう」
調子に乗って頼りすぎた。呆れられたに違いない。これまでひとりで頑張ってきたのに、優しくされて甘えてしまったせいだ。
もしも戻ってきたこよるちゃんから迷惑なものを見る目をされたら、あたしは今度こそ闇の底に落ちてしまう。
そんな錯覚に、思わずあたしは立ち上がって、こよるちゃんを追いかける。
こよるちゃんの向かった方向、暗い店の奥。暗幕のような布の向こうの扉を抜けた先には、小さな部屋があった。
「マスター、いい加減起きてください!」
「んー……でも、今夜のお客様はきみが……」
仮眠室だろうか、窓ひとつなくランタンがひとつだけ灯された薄暗がりの中に、天蓋つきのベッドがあるのが見える。そしてそこに寝ている人物を、こよるちゃんは起こしているようだった。
「……おや? そこに誰か居るのかな。申し訳ないけれど、ここは従業員以外立ち入り禁止なんだ」
「えっ、あ……ごめんなさい! あたし、その……」
「こちら、天川なずなさんです。今夜のお客様ですよ。今あちらでお話を伺っていて……」
暗くて店主の姿は見えない。けれども静かに響く落ち着いた若い男の人の声に、あたしは動揺する。
なんとなく、若いけれど同性であるこよるちゃんになら、母親としての悩みも弱みも打ち明けられた。
けれど男の人には、そんなものは甘えだとか、些末なことだとか、蔑ろにされる気がしたのだ。旦那がいつも、あたしにするように。
「……こよるさん、天川さんの話を伺って、彼女にぴったりの薬は思い浮かんだのかな?」
「はいっ、他人の目が怖いなずなさんには……『新月のヴェール』はいかがでしょう?」
「うん。いいセレクトだと思うよ。それから……『星の囁き』もプラスでどうだろう」
「わあ、いいかもしれません! さすがマスターです!」
あたしにはわからない名前ばかりで、本当に薬の話をしているのかと疑問が浮かぶ。やはり、やばい薬を取り扱っている店ではないのだろうか。
「それじゃあ……僕はまだ寝起きだから、改めて彼女のことはこよるさんに任せようかな」
「……もう、ちゃんと支度して起きてきてくださいね?」
「ふふ、わかってるよ。……ええと、天川さん」
「は、はい!」
「こよるさんが、きみにぴったりのお薬を用意してくれるから……赤ちゃんのところに戻ってあげるといい。きっともうすぐ、目を覚ますから」
「え……?」
今起きたばかりの人が、何故赤ちゃんを連れてきていることを知っているのか。暗闇から聞こえる声に、問い返そうとした時だった。彼の言う通りお店の方からくるみの泣き声が聞こえてきて、あたしは慌てて踵返す。
「くるみ……よしよし、どうして泣いてるの……? お腹空いた? おむつ?」
くるみを見ていてくれた黒猫は、どこかおろおろした様子であたしを見上げる。
その瞳が、まるで早く泣き止ませろと言っているような気がして、苦しくなる。あたしを見上げるくるみの目も、どうして一人置いていったのかと責めているように見えた。
やはりあたしは、目が怖いのだ。自覚してしまうと、よりダメになってしまった。くるみを抱く指先が、小さく震える。
「あ……あたし……」
「なずなさん。こちら、良ければお使いください」
「え……?」
不意にこよるちゃんがテーブルに用意してくれたのは、トレーに乗せられた白いお皿。
真ん中にあるオブラートに似た質感の半透明のそれは、夜空の色をしている。そこだけ四角く切り取られて、夜に繋がった窓枠のよう。
その隣に添えられた小瓶には、金色に輝くラメのような粉が入っていて、こよるちゃんは溢さないよう慎重にその粉を夜空色へと散らした。
光のなかった空に星を瞬かせるような、美しい光景。あんなに怖かった目も泣き声も、一瞬にして意識の隅に追いやられた。
「こちらの『新月のヴェール』に『星の囁き』をくるんで、お召し上がりください」
「……この綺麗なのが、さっき話してた薬なの?」
「はい。きっとなずなさんを楽にしてくれます」
楽にする、その言葉に一瞬、これが薬ではなく毒でも構わないとさえ思ってしまった。
グラスの中の揺れる水面に映ったあたしは、本当に迷子のような情けない顔をしている。
泣いているくるみをこよるちゃんに預けて、あたしはオブラートに包んだ粉薬を水で流し込む。藁にも縋るような思いだった。
「……飲み込んだら、五秒間目を閉じてください。何も考えずに、星の瞬きを数えるみたいに」
「……いち、に、さん、し……ご」
「はい、目を開けてもいいですよ」
あたしは言われるまま目を閉じて、数を数える。そして恐る恐る目を開けると、すぐにその変化に気付いた。
「え……?」
先程まであんなに怖かった視線が、何ともない。向けられる目が怖くて目を逸らしたかったのに、こちらを見見上げる黒猫の金色の瞳はただ綺麗だなと思うし、涙に濡れるくるみの瞳はあたしを責める色を失くしていて、追い立てられる感覚ではなく、ただ泣き止ませてあげたいなと感じる。
「どうですか?」
「えっ、と……怖くない……」
「よかったぁ。今お渡しした『新月のヴェール』は、お月様のない夜みたいに、余計なものが見えないよう包み込んでくれるんです」
「……?」
「えーと……つまり、自己嫌悪とか自責の念から感じる他者からの圧ですとか、『他所からこう思われてるに違いない』っていう思い込みからねじ曲がってしまうものを全部シャットアウトして、ありのままの姿だけ残るようにしてくれるお薬です」
「……あたしが見ていた怖い目……そこにこめられてた負の感情は……全部自分の中で作り出した幻ってこと?」
そんなはずはない。迷惑そうな視線も、恨むような目も、今までずっと感じてきたものだ。
けれども、目が怖いと自覚して尚更ダメになってしまったように、気持ちから来るものもあったのかもしれないと、薬の影響か少し落ち着いて考えられるようになった。
見る視点ひとつで、心持ちひとつでこうも世界は違うものなのかと驚くあたしに、こよるちゃんはそっと、くるみを抱かせてくれた。もう指先は震えない。
「なずなさん。『新月のヴェール』越しに見る、先入観のない状態のくるみちゃんは、いかがですか?」
「……すごく、あたしを見てくる……でも、これは……嫌な目じゃない」
そうだ、この子はずっと、あたしだけを見つめている。そのことが、失敗ばかりのあたしを母親失格だと責めているようで、怖かった。
だけど、そんなんじゃない。言葉を持たず泣くしか表現法方のないこの子には、あたししか居ないのだ。あたしがこの子をまっすぐ見て、理解してあげなくちゃいけなかったのだ。
「周りばかり気にして……責められてるみたいに勝手に感じて、ずっと、見ないようにしてごめんね……くるみ……」
「ふぇえ……っ!」
柔らかな頬を赤く染めて涙に濡らすくるみ。感じるのは苛立ちではなく、慈しむような気持ち。
早く泣き止ませたいとは思うけれど、それはもう周りのことを気遣ってじゃない。くるみのために早く落ち着かせてあげたかった。
あやすようにその背をとんとんと叩いていると、ふと、泣き声の中に小さな別の声が聞こえるのに気付く。
「おかあさん」「こっちを見て」「もっとだっこして」
それは微かな囁き声のように、泣き声の合間に聞こえた。
「え……っ?」
「ふふ、何か聞こえましたか?」
「えっと、もっとだっこして、とか……え、今のって……」
「ふふ。くるみちゃんは甘えたいんですねぇ。ほら、ぎゅっとしてあげてください」
「え、えっ?」
あたしは理解が追い付かないのに、こよるちゃんはにこにこと笑いながらそう促す。試しにくるみをぎゅっと抱きしめてみると、本当にそれがくるみの望みだったかのように、泣き声が弱まった。
「あったかい」「おかあさんもっと」「わらって」
そんな声が聞こえて、あたしはしっかり抱きしめたまま、ぬくもりを伝えるように包み込む。するとやがて、あんなにも続いていた泣き声は止んだ。
「これって、まさか……」
「先程飲んでいただいた『星の囁き』は、触れている相手の心の声がほんのすこーし聞こえるんです。効果は五分から十五分くらいなんですけど」
魔法のような薬の効果に驚くものの、もはや疑う余地はなかった。くるみは、きっといつも泣き声と共にあたしに呼び掛けてくれていたのだろう。
さっきはあんなにこよるちゃんに呼ばれた『なずな』が嬉しかったのに、今はくるみの『おかあさん』が何より嬉しかった。
「そっか……くるみは、ずっとあたしの愛情を欲しがって泣いてたのかな……ごめんね、くるみ。愛してるよ……」
薬の効果は、触れている相手の心の声を伝えること。ならばそれが本心だと、くるみにも伝わっているといい。
腕の中のぬくもりと、やがて落ち着いたのか穏やかに繰り返される寝息に、あたしはほっと一息吐く。
「おやすみなさい、くるみ……おかあさん、もう目を逸らしたりしないからね」
こうして孤独な迷子のようだったあたしの長い夜は、静かに終わりを迎えた。
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