あたしは、母親失格だ。煌めく街明かり、眠らない世界の片隅で、抱っこ紐で抱えた我が子が泣き続けるのにすっかり疲弊していた。
「もう……どうしたら泣き止んでくれるの……泣きたいのは、あたしの方なのに」
すれ違う人たちの迷惑そうな視線に頭を下げながらも、あたしは泣き続ける我が子への怒りを募らせる。
本当なら、もっと可愛がりたかった。本当なら、もっと優しくあやしてあげたかった。本当なら、こんな夜更けに外に連れ出さず、暖かな家の中で寝かし付けたかった。
それでも毎日のように火がついたように泣きわめく赤ちゃんを、壁も薄く狭いアパートで宥め続けるのには、限界があった。
「ぎゃあ、おぎゃあ……!」
「ねえ。わからないよ……何がそんなに悲しいの? 何がそんなに不満なの?」
「ぎゃぁあ……っ!」
「くるみ……お願いだから、泣き止んで……」
ふらふらとあてもなく歩きながら、独り言のように呟くしか出来ない。いつか力尽きて泣き止んでくれれば安心できるのにと、少し放っておいてみるけれど、一向に泣き止む気配はなかった。
「……ねえねえ、ヒメミ~、あれやばくない?」
「えっ、わ……ぎゃん泣きじゃん、やば~……虐待とかじゃないの?」
「えっ、もしかして通報案件? ひゃくとーばんって何番だっけ?」
「……えーっと、……ひゃくとーばんは百十番じゃない?」
「あははっ、そっか! ネオンちょー酔ってるね、うける!」
すれ違った可愛らしい服を着た女の子たちが、そんな言葉と共にスマホを弄るのを見て、あたしは思わず駆け出した。
どこへ行っても変わらない。至近距離で泣き続ける愛する我が子に、早く泣き止ませなきゃという焦りと苛立ちが募る。
人気の少ない路地裏に駆け込むと、さらに反響する泣き声に頭を抱えた。もうずっと頭が割れそうだ。あたしには、どこにも逃げ場がなかった。
「もうやだ……助けて……」
「……にゃあ」
「え……猫?」
あたしの助けを求める声に応えるように、不意に足元に近付いてきた、一匹の黒猫。ふわふわの毛並みに、暗闇に紛れても一等星のように光る、キラキラの金の瞳。
黒猫はそのしなやかな尻尾を揺らして、時折あたしを振り向くようにしてゆっくりと歩き出す。
まるで、その猫に導かれるように、あたしはその後をついていく。どうせ行くあてもないのだ、終わりの見えない夜の中、何だかその猫が道標のように思えた。
「にゃあ」
しばらく歩くと、黒猫は一軒の建物の前で立ち止まる。こんな奥まった場所に来るのは初めてだ。
今時珍しいレンガ造りの建物に、ガラス張りのショーウィンドウ。そっと中を覗くけれど、店内は然程明るくなく、上手く見えない。まだ営業前なのか、お休みなのかもしれない。
「ねえ、猫ちゃん。ここは……?」
ふと視線を黒猫に戻すと、ショーウィンドウの隣、店の入口であろう木製の扉に、ベルが二つ取り付けられているのが見えた。
黒猫はその内のひとつ、猫の目線に合わせたような珍しい位置にあるベルを器用に前足で鳴らす。
すると、少ししてがちゃりと鍵の開く音がして、その扉が開いた。
「シャハルちゃん、お帰りなさい。今日は早かったですねぇ、お散歩はもうおしまいですか……?」
「にゃあ!」
建物の中から現れ黒猫を出迎えたのは、物語から飛び出してきたみたいなキラキラとした女の子だった。
白いリボンで編み込みに結われ綺麗に手入れされた長い髪、ひらひらのレースとリボンのついた甘いテイストながら品もあるネイビーの服、淡い色のリップが象る愛らしい笑顔。
どう見ても若く可愛らしい女の子にのに、彼女が黒猫の手足を拭いてから丁寧に抱き上げる仕草は、あたしがかつて憧れた優しいお母さんにも見えた。
「おぎゃあ、おぎゃあ……!」
「……あら?」
ふと、また大声を上げ始めた赤ちゃんの泣き声に驚いたように顔を上げる彼女と、ぱちりと目が合う。大きな目が瞬きをすると、まるで星が煌めくようだ。
「まあまあ、可哀想に……どうされたんですか!?」
「あ、えっと……」
しまった。なんて言おう。これでは泣いている赤ちゃんを放って飼い猫に家までついてきたあやしい女だ。
間違ってはいないけれど、何となくそのまま伝えるのは憚られた。
言い訳を考えながらも、じりじりと足は逃げる方に向かう。いつだってそうだ、嫌な目を向けられるくらいなら、逃げ出したかった。
泣いているくるみに対して可哀想だと言われる度、母親失格だと非難されているようで苦しかった。
「あの、お店の開店時間はまだなんですけど……よかったらどうぞ! 赤ちゃんも、ずっとお外は寒いでしょうし……」
「いえ、あの。すみません……あたし……」
「何より、あなたが……そんなに苦しそうな顔をしていては可哀想ですから。どうか温かい店内で、ご自分を労って差し上げてください」
「え……あたし……?」
彼女の言葉に、思わず瞬きをする。泣き叫ぶ赤ちゃんよりも、自分を労れなんて言われるのは、くるみが生まれてから初めてだった。
「あの、すみません、あたし……どんな顔してますか?」
「……迷子みたいな、とても不安そうなお顔です。ずっと暗闇を彷徨うのは、疲れてしまいますから……良ければうちで、少し足を止めてみませんか? 赤ちゃんも、お母さんが元気になってくれた方が、きっと安心できますよ」
「……はい、お邪魔します……」
「ではいらっしゃいませ、『夜海月』へようこそ!」
何の店かもわからないのに、怪しいキャッチや勧誘かもしれないのに、あたしはつい彼女に招かれるまま、店の中に足を踏み入れる。
あたしの不安に気付いてくれたのも、迷惑そうな顔ひとつせず手を差しのべてくれたのも、彼女が初めてだった。いけないとわかりつつも、あたしはこの優しさに縋りたかった。
「わあ……あったかい」
思わず呟いて、あたしは自分の身体が思っていたより冷えていたことに気付く。
薄暗い店内に、間接照明の柔らかな光が灯る。橙色の温かな明かりに包まれた店の奥、片隅に配置された白いソファーへと促された。
雲のようにふかふかで、あたしはそこでようやく抱っこ紐を外してくるみを下ろす。
「ふぎゃあ、ふぎゃあ……」
「あー……よしよし、ごめんね」
ずっと顔を見ないようにしていたけれど、あたしの服に大きな染みが出来るくらい顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしていて、申し訳ない気持ちで一杯になった。
ハンドタオルで顔を拭い、鼻を拭い、とんとんとお腹を撫でる。
彼女が飲み物を用意しに離れている間に、あたしはくるみの泣く原因を探った。ミルクでも、おむつでもない、痒いところや痛いところも無さそうだ。可能性は一通り潰した。それなのに、どうしてもこの子が泣く理由がわからなかった。
「あー、もう……どうして泣くの……」
「……お待たせしました。こんな時間ですしカフェインはあれかと思って、こちらをご用意したんですけど……ホットココアはお好きですか? もし苦手でしたらハーブティーなんかもご用意できますけど……」
「あ……ありがとう、ございます。えっと、あたし甘いものめちゃくちゃ好きで……この子が生まれてから、自分のココアをいれる余裕なんかなかったから……嬉しい」
しばらくして湯気立つカップを乗せたトレーを持って戻ってきた彼女は、その間赤ちゃんを泣き止ませることも出来なかったあたしに対して微笑みかけてくれる。
目の前のテーブルに置かれた夜空柄のマグカップをそっと覗き込むと、中にはあつあつのココアの上にマシュマロが浮かんでいた。ふわりと漂う甘い香りの湯気に、それだけで心が和らぐ。
万が一くるみに火傷でもさせたらと、熱いものを自分の前に置くことさえ久しくしていなかった。
「まあ、そうでしたか。それはよかったです。……ふふ、お洋服のワンポイントも、ポケットからはみ出たスマートフォンのストラップやカバーもどれもスイーツだったので、お客様は甘いものがお好きなのかなぁって」
「よく見てますね……」
ふわふわとしていそうな雰囲気をした彼女の意外な洞察力と名推理に感服しつつ、ポケットから落ちそうになっていたスマホをちらりと確認する。
旦那はまだ寝ているようで、メッセージは何もない。あたしたちが出ていったことにも気付いていないだろう。
「ふふっ。仕事柄ですかねぇ……あっ、良ければ赤ちゃん抱っこしてますから、ゆっくりお召し上がりください」
「えっ、でも……泣き声うるさいですし……」
「大丈夫ですよ~、赤ちゃんは泣くのがお仕事ですもの。よしよーし、働き者なんですねぇ」
「おぎゃあ……っ!」
「……。何から何まですみません……」
泣いてもいい、そんな風に言ってもらえたのは初めてだ。赤ちゃんは泣くのが仕事とはいうけれど、多くの人はそのうるささに嫌な目を向けてくる。
あたしも、いつも早く泣き止んでとイライラしてしまっていた。
「いえいえ。もし赤ちゃんのミルクも粉のものを用意するようでしたら、お湯をお持ちしますね。……でもまずは、そちらをお召し上がりください」
「……ありがとうございます」
母乳至上主義の義母からの圧で、粉ミルクは甘えだのと散々言われていたから、その何気ない言葉がやけに嬉しい。粉ミルクも選択肢にあっていいのだと、逃げ道を照らしてくれた気がした。
「あの、じゃあ……お言葉に甘えて、飲んでいる間、抱っこをお願いしてもいいですか……?」
「はいっ、大切な赤ちゃん、お預かりしますね」
優しく頼もしい言葉に甘えて彼女にくるみを預け、あつあつのマグカップを手に取ると、冷えた指先がじんわりと温まる感覚に浸る。
ふうふうと息を吹き掛けて一口含むと、溶けたマシュマロが甘く柔らかく、次いでミルクココアの濃厚な味わいが広がった。あたたかく甘いそれは、疲れきった心と身体に染み渡るようだった。
誰かが用意してくれたものというのは、こんなに美味しかっただろうか。
「……っ、おいしい……世界一美味しい」
「ふふ、よかったです。おかわりもありますからね」
「えっ、そんな……本当に、すみません……ありがとうございます。……あの、重くないですか?」
さっき会ったばかりの他人に我が子を預けるなんて不安でしかたないはずなのに、何故か彼女なら大丈夫だと安心してしまう。実際、くるみは彼女に抱き上げられて、大分落ち着いたようだった。
たまたま泣き疲れたタイミングなのだと思いながらも、あたしだからいくらあやしてもダメなのかと、少し落ち込んでしまう。
「ふふ、大丈夫ですよ。わたし、こう見えて力持ちなんです! ……よぉしよし、たくさん泣いて疲れちゃいましたねぇ。次はねんねですよ~」
「にゃあ」
「あら、シャハルちゃんも赤ちゃん見に来たんですか?」
いつの間にか先程この店まであたしたちを案内をしてくれた黒猫が足元までやって来て、彼女に抱かれたくるみをじっと見上げていた。赤ちゃんに興味があるのだろうか。
温かいココアを飲んで落ち着いたことで、少しだけ周りを見る余裕が生まれた。
「もう……どうしたら泣き止んでくれるの……泣きたいのは、あたしの方なのに」
すれ違う人たちの迷惑そうな視線に頭を下げながらも、あたしは泣き続ける我が子への怒りを募らせる。
本当なら、もっと可愛がりたかった。本当なら、もっと優しくあやしてあげたかった。本当なら、こんな夜更けに外に連れ出さず、暖かな家の中で寝かし付けたかった。
それでも毎日のように火がついたように泣きわめく赤ちゃんを、壁も薄く狭いアパートで宥め続けるのには、限界があった。
「ぎゃあ、おぎゃあ……!」
「ねえ。わからないよ……何がそんなに悲しいの? 何がそんなに不満なの?」
「ぎゃぁあ……っ!」
「くるみ……お願いだから、泣き止んで……」
ふらふらとあてもなく歩きながら、独り言のように呟くしか出来ない。いつか力尽きて泣き止んでくれれば安心できるのにと、少し放っておいてみるけれど、一向に泣き止む気配はなかった。
「……ねえねえ、ヒメミ~、あれやばくない?」
「えっ、わ……ぎゃん泣きじゃん、やば~……虐待とかじゃないの?」
「えっ、もしかして通報案件? ひゃくとーばんって何番だっけ?」
「……えーっと、……ひゃくとーばんは百十番じゃない?」
「あははっ、そっか! ネオンちょー酔ってるね、うける!」
すれ違った可愛らしい服を着た女の子たちが、そんな言葉と共にスマホを弄るのを見て、あたしは思わず駆け出した。
どこへ行っても変わらない。至近距離で泣き続ける愛する我が子に、早く泣き止ませなきゃという焦りと苛立ちが募る。
人気の少ない路地裏に駆け込むと、さらに反響する泣き声に頭を抱えた。もうずっと頭が割れそうだ。あたしには、どこにも逃げ場がなかった。
「もうやだ……助けて……」
「……にゃあ」
「え……猫?」
あたしの助けを求める声に応えるように、不意に足元に近付いてきた、一匹の黒猫。ふわふわの毛並みに、暗闇に紛れても一等星のように光る、キラキラの金の瞳。
黒猫はそのしなやかな尻尾を揺らして、時折あたしを振り向くようにしてゆっくりと歩き出す。
まるで、その猫に導かれるように、あたしはその後をついていく。どうせ行くあてもないのだ、終わりの見えない夜の中、何だかその猫が道標のように思えた。
「にゃあ」
しばらく歩くと、黒猫は一軒の建物の前で立ち止まる。こんな奥まった場所に来るのは初めてだ。
今時珍しいレンガ造りの建物に、ガラス張りのショーウィンドウ。そっと中を覗くけれど、店内は然程明るくなく、上手く見えない。まだ営業前なのか、お休みなのかもしれない。
「ねえ、猫ちゃん。ここは……?」
ふと視線を黒猫に戻すと、ショーウィンドウの隣、店の入口であろう木製の扉に、ベルが二つ取り付けられているのが見えた。
黒猫はその内のひとつ、猫の目線に合わせたような珍しい位置にあるベルを器用に前足で鳴らす。
すると、少ししてがちゃりと鍵の開く音がして、その扉が開いた。
「シャハルちゃん、お帰りなさい。今日は早かったですねぇ、お散歩はもうおしまいですか……?」
「にゃあ!」
建物の中から現れ黒猫を出迎えたのは、物語から飛び出してきたみたいなキラキラとした女の子だった。
白いリボンで編み込みに結われ綺麗に手入れされた長い髪、ひらひらのレースとリボンのついた甘いテイストながら品もあるネイビーの服、淡い色のリップが象る愛らしい笑顔。
どう見ても若く可愛らしい女の子にのに、彼女が黒猫の手足を拭いてから丁寧に抱き上げる仕草は、あたしがかつて憧れた優しいお母さんにも見えた。
「おぎゃあ、おぎゃあ……!」
「……あら?」
ふと、また大声を上げ始めた赤ちゃんの泣き声に驚いたように顔を上げる彼女と、ぱちりと目が合う。大きな目が瞬きをすると、まるで星が煌めくようだ。
「まあまあ、可哀想に……どうされたんですか!?」
「あ、えっと……」
しまった。なんて言おう。これでは泣いている赤ちゃんを放って飼い猫に家までついてきたあやしい女だ。
間違ってはいないけれど、何となくそのまま伝えるのは憚られた。
言い訳を考えながらも、じりじりと足は逃げる方に向かう。いつだってそうだ、嫌な目を向けられるくらいなら、逃げ出したかった。
泣いているくるみに対して可哀想だと言われる度、母親失格だと非難されているようで苦しかった。
「あの、お店の開店時間はまだなんですけど……よかったらどうぞ! 赤ちゃんも、ずっとお外は寒いでしょうし……」
「いえ、あの。すみません……あたし……」
「何より、あなたが……そんなに苦しそうな顔をしていては可哀想ですから。どうか温かい店内で、ご自分を労って差し上げてください」
「え……あたし……?」
彼女の言葉に、思わず瞬きをする。泣き叫ぶ赤ちゃんよりも、自分を労れなんて言われるのは、くるみが生まれてから初めてだった。
「あの、すみません、あたし……どんな顔してますか?」
「……迷子みたいな、とても不安そうなお顔です。ずっと暗闇を彷徨うのは、疲れてしまいますから……良ければうちで、少し足を止めてみませんか? 赤ちゃんも、お母さんが元気になってくれた方が、きっと安心できますよ」
「……はい、お邪魔します……」
「ではいらっしゃいませ、『夜海月』へようこそ!」
何の店かもわからないのに、怪しいキャッチや勧誘かもしれないのに、あたしはつい彼女に招かれるまま、店の中に足を踏み入れる。
あたしの不安に気付いてくれたのも、迷惑そうな顔ひとつせず手を差しのべてくれたのも、彼女が初めてだった。いけないとわかりつつも、あたしはこの優しさに縋りたかった。
「わあ……あったかい」
思わず呟いて、あたしは自分の身体が思っていたより冷えていたことに気付く。
薄暗い店内に、間接照明の柔らかな光が灯る。橙色の温かな明かりに包まれた店の奥、片隅に配置された白いソファーへと促された。
雲のようにふかふかで、あたしはそこでようやく抱っこ紐を外してくるみを下ろす。
「ふぎゃあ、ふぎゃあ……」
「あー……よしよし、ごめんね」
ずっと顔を見ないようにしていたけれど、あたしの服に大きな染みが出来るくらい顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしていて、申し訳ない気持ちで一杯になった。
ハンドタオルで顔を拭い、鼻を拭い、とんとんとお腹を撫でる。
彼女が飲み物を用意しに離れている間に、あたしはくるみの泣く原因を探った。ミルクでも、おむつでもない、痒いところや痛いところも無さそうだ。可能性は一通り潰した。それなのに、どうしてもこの子が泣く理由がわからなかった。
「あー、もう……どうして泣くの……」
「……お待たせしました。こんな時間ですしカフェインはあれかと思って、こちらをご用意したんですけど……ホットココアはお好きですか? もし苦手でしたらハーブティーなんかもご用意できますけど……」
「あ……ありがとう、ございます。えっと、あたし甘いものめちゃくちゃ好きで……この子が生まれてから、自分のココアをいれる余裕なんかなかったから……嬉しい」
しばらくして湯気立つカップを乗せたトレーを持って戻ってきた彼女は、その間赤ちゃんを泣き止ませることも出来なかったあたしに対して微笑みかけてくれる。
目の前のテーブルに置かれた夜空柄のマグカップをそっと覗き込むと、中にはあつあつのココアの上にマシュマロが浮かんでいた。ふわりと漂う甘い香りの湯気に、それだけで心が和らぐ。
万が一くるみに火傷でもさせたらと、熱いものを自分の前に置くことさえ久しくしていなかった。
「まあ、そうでしたか。それはよかったです。……ふふ、お洋服のワンポイントも、ポケットからはみ出たスマートフォンのストラップやカバーもどれもスイーツだったので、お客様は甘いものがお好きなのかなぁって」
「よく見てますね……」
ふわふわとしていそうな雰囲気をした彼女の意外な洞察力と名推理に感服しつつ、ポケットから落ちそうになっていたスマホをちらりと確認する。
旦那はまだ寝ているようで、メッセージは何もない。あたしたちが出ていったことにも気付いていないだろう。
「ふふっ。仕事柄ですかねぇ……あっ、良ければ赤ちゃん抱っこしてますから、ゆっくりお召し上がりください」
「えっ、でも……泣き声うるさいですし……」
「大丈夫ですよ~、赤ちゃんは泣くのがお仕事ですもの。よしよーし、働き者なんですねぇ」
「おぎゃあ……っ!」
「……。何から何まですみません……」
泣いてもいい、そんな風に言ってもらえたのは初めてだ。赤ちゃんは泣くのが仕事とはいうけれど、多くの人はそのうるささに嫌な目を向けてくる。
あたしも、いつも早く泣き止んでとイライラしてしまっていた。
「いえいえ。もし赤ちゃんのミルクも粉のものを用意するようでしたら、お湯をお持ちしますね。……でもまずは、そちらをお召し上がりください」
「……ありがとうございます」
母乳至上主義の義母からの圧で、粉ミルクは甘えだのと散々言われていたから、その何気ない言葉がやけに嬉しい。粉ミルクも選択肢にあっていいのだと、逃げ道を照らしてくれた気がした。
「あの、じゃあ……お言葉に甘えて、飲んでいる間、抱っこをお願いしてもいいですか……?」
「はいっ、大切な赤ちゃん、お預かりしますね」
優しく頼もしい言葉に甘えて彼女にくるみを預け、あつあつのマグカップを手に取ると、冷えた指先がじんわりと温まる感覚に浸る。
ふうふうと息を吹き掛けて一口含むと、溶けたマシュマロが甘く柔らかく、次いでミルクココアの濃厚な味わいが広がった。あたたかく甘いそれは、疲れきった心と身体に染み渡るようだった。
誰かが用意してくれたものというのは、こんなに美味しかっただろうか。
「……っ、おいしい……世界一美味しい」
「ふふ、よかったです。おかわりもありますからね」
「えっ、そんな……本当に、すみません……ありがとうございます。……あの、重くないですか?」
さっき会ったばかりの他人に我が子を預けるなんて不安でしかたないはずなのに、何故か彼女なら大丈夫だと安心してしまう。実際、くるみは彼女に抱き上げられて、大分落ち着いたようだった。
たまたま泣き疲れたタイミングなのだと思いながらも、あたしだからいくらあやしてもダメなのかと、少し落ち込んでしまう。
「ふふ、大丈夫ですよ。わたし、こう見えて力持ちなんです! ……よぉしよし、たくさん泣いて疲れちゃいましたねぇ。次はねんねですよ~」
「にゃあ」
「あら、シャハルちゃんも赤ちゃん見に来たんですか?」
いつの間にか先程この店まであたしたちを案内をしてくれた黒猫が足元までやって来て、彼女に抱かれたくるみをじっと見上げていた。赤ちゃんに興味があるのだろうか。
温かいココアを飲んで落ち着いたことで、少しだけ周りを見る余裕が生まれた。