一通り語り終えると、ぼくはすっかり喉がからからになった。おかわりにと入れて貰ったミルクを、一気に飲み干す。
こんなに話をしたのは、はじめてのことだった。胸の内にあったいろんな気持ちを吐き出すのは、思い出して恋しくなると同時に、いっそ晴れやかな気持ちだった。
ぼくはきっと、こんな見るからに可哀想な野良猫にだって、自慢したくなるくらいの幸せがあったのだと、誰かに知っていて欲しかったのだ。
「ぼくの願いは結局叶わなかったけど……叶わなかったからこそ、ここまで頑張れたんだ。そのお陰で、今日まで生き延びられて、マスターさんやコヨルさんに会えた……素敵な夜を、ありがとう」
「……シャハルちゃん……あなたの優しさや決断を否定するつもりはないし、よく頑張りましたねって、たくさんたくさん褒めたいです。でも……やっぱり、こんなのあんまりです……」
ソファーの隣に腰掛けながらぼくの話を聞いていたコヨルさんは、泣きそうな顔をしている。悲しませるつもりはなかったのにと慌てたぼくは、彼女の手によってふわふわになった体を擦り寄せた。
コヨルさんは驚いたように瞬きした後、そっと頭を撫でてくれる。手触りを気に入ってくれたのか、その表情は少し和らいだ。
この体で誰かを笑顔に出来るのは、いつぶりだろう。懐かしさと共に感じたのは、満ち足りた気持ちだった。
「……シャハルさん。きみの名前の由来は知ってるかい?」
ふかふかのソファーでコヨルさんの温かな膝に乗せて貰いながら、繰り返し撫でられる感覚に思わず喉を鳴らしていると、マスターさんがぼくに優しげな視線を向けてきた。
「え? 由来? ううん……リョウヤくんが、色んな本を見比べながら決めてくれたんだけど……意味はわからない。教えてくれた気もするけど……小さかったから覚えてなくて」
「そうか、シャハルは……『夜明け』や『明けの明星』を意味する言葉だよ」
「夜明けに……明けの明星……? それが、ぼくの名前?」
「まあ、真っ暗な夜の終わりの新しい朝に、夜空に輝くキラキラの希望ですね!」
あれだけ思い出の中で大切にしてきた呼び声の意味を、今はじめて知った。
ぼくは何度も反芻したあの響きを思い返し、目を閉じる。
「……そんな意味だったんだ。そういえば、お父さんやお母さんはぼくを『ハルちゃん』とか短く呼ぶのに、リョウヤくんだけはずっと『シャハル』って呼んでくれた……」
「ふふ、名前ははじめての大切な贈り物ですものね」
「きみがその名前を捨てず、名付けてくれた大切な人との思い出を忘れない限り……いつかその響きがきみを迷いの夜から、明るい光へと導くだろう」
マスターさんの言葉が、すべてを諦め尽きるつもりだったぼくを、優しく鼓舞する。
背中を押して貰えるのなら、そこに光があると示してくれるのなら、もう少し希望を捨てずにいてもいいんじゃないかとさえ思えた。
けれど、どうしたって不安は捨てきれず、ぼくは呟く。
「……でもぼく、もうこの冬を越せそうになくて……今日ごはんを貰えたから、多分あと何日かは頑張れるけど……」
自分の限界は、自分が一番よくわかっている。ここに招き入れられるまでに感じた冷たい死の匂いは、きっと外に出たらまたぼくに付きまとうに違いない。
しかしマスターさんは、ぼくの言葉を聞いて心底不思議そうに首を傾げる。
「……おや? きみは僕たちが、夜の迷子を外に放り出すとでも?」
「へ……? いや、だってさっき『この夜が終わるまで』って……」
「ああ、それは今飲んだ薬の効果の話だよ。きみが望むなら、また薬の調合をしよう。お代は出世払いでいいよ」
「ふふっ、わーい。シャハルちゃんも、お店の仲間入りですね!」
「……え、えっ?」
予想外の展開に、ぼくは思わず瞬きを繰り返す。
「えっと……だけど、ここ、お薬屋さん? なんだよね? 汚い野良猫なんかが、居てもいいの?」
「あら、シャハルちゃんは今、誰が見ても可愛い綺麗な猫ちゃんですよ」
「まあ招き猫とか看板猫とか、いくらでも言いようはあるしね。気になるようならお客様が居る時には隠れるとかでも……」
「そんなんでいいの……?」
「ふふ……どう過ごすかはきみに任せるよ。猫は自由な生き物だ、僕たちはそれを縛らない。もちろん、薬屋としてきみが完全に回復するまでは居て欲しいけれど……どうする?」
「ぼくは……」
優しい人たち、温かな寝床、清潔な環境に、美味しいミルク。このお店に拾われた方が、絶対にいいに決まっている。
けれど、かつて失った温かな幸せに、また手を伸ばすのは憚られた。
こんなにも親切な人たちの空間を、また自分のせいで壊してしまうんじゃないかと、怖かった。
「お客様の中にきみの探し人が来るかもしれないしね、ふらふらあてもなく彷徨うよりは、居を構える方が心の余裕もあると思うけれど……任せるよ、きみのしたいように」
「……ここに居ても、いいの? 迷惑かけるかもしれないよ?」
「ふふ、大丈夫ですよー。わたしもマスターにご迷惑かけっぱなしですから!」
「えっ、それそんな明るく言う……?」
「あはは、否定はしないかな。基本真面目だけど、こよるさんは少しおっちょこちょいなところもあるから」
「えへへぇ……それほどでも」
「コヨルさん、それ褒められてないと思う……」
マスターさんのおおらかな人柄と、コヨルんのふんわりとした雰囲気が、このお店の優しい空気を作り出しているのだと改めて感じる。
リョウヤくんと居た頃は毎日目まぐるしくて楽しかったけれど、ぼくは、こんな落ち着く空気も好きだった。
「……だけどね、迷惑だなんて考えなくていいんだ。きみたちがこの夜に溺れず笑っていられるのなら、それが僕たちの幸せだからね」
この空間は、凍えそうな夜にあまりにも温かくて、優しくて、冷たく凍った心が溶けてしまうようで、ぼくはこれ以上、拒むことが出来ない。
そっと見上げると優しく差し出される、マスターさんの黒い手袋をした手のひら。恐る恐る前足を差し出して、ぼくはそっとその手に触れる。
「……その。とりあえず冬を越えるまで……お世話になってもいい?」
「ふふ、もちろんだよ」
「わぁい、よろしくお願いしますね! シャハルちゃん!」
「……ありがとう。マスターさん、コヨルさん……よろしく、お願いします」
「ふふ。では改めて……ようこそ『薬屋 夜海月』へ!」
ふと見上げた先の窓の外の街並みは、ぼんやりと明るくなっている。
もうすぐ長かった夜が明ける。朝が来れば、暗闇の中迷子だったシャハルはもう居ない。絶望していたあの野良猫は、確かにこの夜に死んだのだ。
薬の効果が切れてしまう前に、ぼくは届かない感謝の言葉を口にする。
「リョウヤくん、素敵な名前を、愛をありがとう……きみのくれたぬくもりが、今日もぼくを生かしてくれる」
そうしてぼくは新しい場所で、生まれたての朝を迎えた。