煌びやかなネオンの明かり、眠らない街の喧騒。星の見えない今にも雪が降り出しそうな寒空の下、寄り添える仲間も居ないひとりぼっちのぼくは、間近に迫る冬の気配に震えていた。

 居場所もなく転々と住み処を変える日々の中、ひもじい思いをしては路地裏で飲食店の廃棄物を探し、お店の人間に見付かっては追い掛けられて逃げ惑う。
 そんなその日暮らしの生活をして居たぼくは、自分の身体の限界を感じていた。

『せめて一目、もう一度あの子に会いたい』

 そんな淡い期待を胸にここまで頑張って来たものの、そろそろ諦めなくてはいけないのかもしれない。

 もう何日も食べていない身体は、すでにほとんど力も入らない。ついには歩くこともままならずに、ぼくはそのまま行き倒れた。
 石畳の固く冷たい感触に、幼い頃眠った柔らかな布団の幻を見る。心地好い微睡みに、このまま眠れば本当にあの頃に帰れる気がした。

「あら……? まあ、大変! マスター、どうしましょう!? お店の前に、小さなお客様が倒れています……!」

 ふと、カランと小さなベルが鳴り、扉の開く音がした。そして上から降ってくる、女の子の慌てたような声。
 穏やかな微睡みから引き戻される苛立ちと、そんなに慌てなくてもいいのにという困惑。
 そして、『お客様』なんてあまりにぼくに似つかわしくない言葉に、ぼくが倒れるこの場所が、何かのお店の前だと理解する。

「……逃げ、なきゃ……」

 今までも、お店の前に居るだけで睨まれて「あっちに行け」と言われてきた。小汚ない見た目で不衛生だからと、酷い時には水をかけられたし、下手したら殴られたり蹴られたりすることもあった。
 早く退けなくちゃ。またやられてしまう。きっと今何かされたら、今度こそ死んでしまう。急いでどこかへ行こうと思うのに、既に身体には力が入らなかった。

「マスター、こっちです! はやく~!」
「……おや。これは珍しいね……随分小さなお客様だ。……しかし、この子もまた『夜の迷子』だね。こよるさん、バスタオルを持ってきてくれるかな。店の中にお連れしよう」

 不意に、女の子とは別の、男の人の声がした。先程彼女に呼ばれていた『マスターさん』なのだろう。
 今までたくさん聞いてきた怒声とは違う、穏やかで温かな優しい声。
 女の子の声が星の瞬きのように澄んだ声だとしたら、マスターさんの声は真っ暗な夜空の中でお月様を見つけた時みたいに、安心する響きだ。

「……、……」

 うっすらと目を開けてみると、しゃがみ込んでこちらを見下ろす二人の姿が見えた。
 店の明かりで影になって表情はよく見えないものの、敵意や害意ではなく心配そうに向けられる視線だけは感じた。

「えっ、いいんですか!? うち、一応お薬屋さんですし、その……」
「いいんだよ。きみも今言っただろう? この子は『小さなお客様』なんだから」
「……! はい! バスタオル、ただいまお持ちしますね!」
「……」

 こんなにも薄汚れたぼくを、店の中に入れてくれる。無一文のぼくをお客さんとして扱ってくれる。
 そんな言葉が都合のいい幻聴のようで、けれどすぐにいい匂いのするふわふわのバスタオルに包まれてマスターさんに抱き上げられたぼくは、このまま天国へ行ってしまうのかと思った。

「お外、寒かったでしょう? よければホットミルクをお持ちしますね」
「ああ……こよるさん、その前にお湯を頼むよ。冷えきっているし、少し汚れているからね……まずは綺麗にして差し上げよう」
「はいっ、かしこまりました!」

 ぱたぱたと足音を立ててお店の奥へと駆けていく彼女の後ろ姿は、三つ編みにした長い髪とスカートがゆらゆらと揺れて、つい目で追ってしまう。
 そしてぼくはタオルにくるまれたまま、マスターさんとふたりきり。

 お店の照明の淡い光の中、ぼくは改めてマスターさんの姿を盗み見る。
 さらさらの髪は夜の色をしていて、前髪が少し長い。そこから覗く柔らかな瞳は、優しくぼくを見下ろしている。こんなに温かな視線を向けられるのは、いつぶりだろう。
 黒い服の上に羽織る白い上着はお医者さんが着る白衣に似ていて、眩しいくらいの白に触れて汚してしまわないよう緊張した。

「さて、こよるさんが湯浴みの支度をしてくれるから、もう少し待っていてくれるかな。……湯上がりにはホットミルクを、それから……きみのための薬を用意しておくからね」
「……くすり?」

 薬。そんな慣れない響きに戸惑うと同時に、やはり彼はお医者さんか何かなのかと考える。
 こんな死にかけのぼくをどうにかしてくれるのかと、ほんの少し期待してしまっては、すぐにそんな希望を否定した。

 今までこの街で暮らしてきて、散々な扱いをされて来たのだ。そう簡単に他人を信用できるはずもない。
 今は動く気力もないけれど、もう少し回復したら噛みついてでも逃げ出してやる。そんな風に思っていた。

 けれどあんなにもすぐに死んでしまいそうだった身体は、暖かな室内に入れてもらえただけで少し楽になったのだ。この環境を自ら手放すには惜しく、自分の中で葛藤した。

「マスタ~、用意できました。お客様をお預かりしますね!」
「ああ、ありがとう、こよるさん。後はよろしく頼むよ」
「お任せください! さあお客様、こちらですよ」
「いや、あの、ぼくは……」
「僕は部屋でお客様に出す薬の調合をしているから、何かあれば声をかけてくれ」
「わかりました! よぉし、お客様。夜空のお星さまよりもぴかぴかになりましょうね~!」
「え……いや、まって、さすがに無理……」

 こちらの警戒もつっこみも一切気にせず、『コヨルさん』と呼ばれた女の子へとぼくは身柄を引き渡される。

「ふふ、心配しなくても気持ちいいだけですからね」
「いや、本当に待ってよ、ぼく、お湯はちょっと……」

 ぼくの悲痛な声なんて聞こえていないようで、終始にこにことしているコヨルさん。お店の二階に通されると、そこには彼女が整えた綺麗なバスルームがあった。

 バスタブではなく洗い場に大きなタライのような入れ物があって、そこにお湯が張られている。
 そして熱すぎない温かなお湯といい匂いのする石鹸で全身を泡立てられ、冷えきった身体がじんわりと熱を帯び、あれよあれよという間に綺麗にされた。

「うう……」
「……あら、おねむですか?」
「ちが……んん」

 警戒していたのとは裏腹に、あまりの心地好さからうとうとと微睡んでしまう。そんなぼくに気付いて、くすくすと笑いながらコヨルさんは優しい手付きでぼくの頭を撫でてくれた。
 その感触が何だかとても懐かしくて、泣いてしまいそうになった。

「……さぁて、綺麗になりましたよ」

 再び柔らかなタオルに包み込まれて、弱めの温風で乾かされる。そのどれもが優しくて温かくて、冷たくなりかけていた心の中までじんわりと溶かされるような心地がした。

「マスター、お待たせしました!」
「……おや。ずいぶんと可愛らしくなったね」
「ふふ、でしょう? お客様、とってもお利口さんでした」
「それはよかった。きみも濡れてしまったね、着替えておいで」
「はぁい」

 ぼくのせいで綺麗な洋服が濡れてしまった。そのことが申し訳なかったけれど、着替えに戻るコヨルさんは、とても満足そうな顔をしていた。

 色んなハーブや花みたいな匂いがする店内の片隅、ぼくは白いソファーの上にそっと身を沈める。そのふわふわで柔らかな感触は、かつて安心の象徴だったあのお布団に似ていた。

「きみのための薬が出来たんだ、よければ飲んで欲しいな」
「……これが、くすり?」

 すっかり警戒心もなくなったぼくは、いっそその薬とやらで殺されてもいいかとさえ思った。むしろ、既にここが天国なのではないかとさえ思えてきたのだ。
 しかし目の前の彼が用意してきた薬は、ぼくの知っているものとは少し違った。
 はちみつのようにキラキラのそれはとろりとしていて、小瓶の中でゆらゆらと揺れる。

「これは『星座の物語』……きみの物語が知りたくてね。味は悪くないと思うけど……きみは何も食べていないんだろう。空きっ腹に薬はよくないからね、ホットミルクに入れて飲もうか」
「ホットミルク……」
「まあ、ミルクも本来薬と飲むのはよくないんだけど……今夜は特別」

 マスターさんの言葉の意味は、あまりよくわからなかった。そもそも薬という存在は知っていても、ぼくは飲んだことがなかったからだ。

 マスターさんは小さな夜空色の器に温めたミルクを注ぎ入れ、そこに小瓶の中の液体を注いだ。すると、とろとろだったそれは少しだけ固まって、そのキラキラの粒は星座のように集まりやがてくっついていった。

「さあ、召し上がれ」
「……いただきます」

 ふわりとした、懐かしいような甘い香り。ほんのり漂う淡い湯気。恐る恐る口をつけると、咥内に広がる柔らかく温かな甘みに身体の内側も温かくなる。

「……!」

 ずっと痛いくらいに空いていたお腹の中に染み込むような感覚がして、ぼくは夢中でミルクを飲んだ。
 途中で『星座の物語』と呼ばれたそれを口に含めば、より甘い味とカリカリとした食感も楽しめた。固形物を食べたのなんて、いつぶりだろう。
 そんなぼくを微笑ましそうに見下ろすマスターさんの様子や、いつの間にか着替えから戻ってきたコヨルさんに気付くことなく必死に食べ進めれば、あっという間に器は空っぽになった。

「……いい飲みっぷりだったね。美味しかったかい?」
「ふふ、もっと何か食べますか? クッキーやビスケットもありますけど……あ、でもいきなりたくさん食べたらお腹びっくりしちゃいますかね……?」

 暖かい部屋で、身体は綺麗になって、甘くて優しい味でお腹がいっぱいで、こんなにも親切な人たちに囲まれて気遣われている。
 ひとりぼっちの夜の終わりに、こんな幸せが待っているなんて思わなかった。泣いてしまいそうで、つい弱々しい声がもれた。

「あったかい……美味しかった……こんなに美味しいの、初めて……ありがとう」
「……まあ。ふふ、お礼なんていいんですよ。美味しかったならよかったです……!」
「……、え……?」

 ふと、コヨルさんからの返事に違和感を覚えて、僕は瞬きをする。
 そしてマスターさんは正面の椅子に座りながら安心したように頷いて、少し前屈みになって僕の目をまっすぐに見詰めてきた。

「薬、効いたみたいだね。よかったよ。……改めて、きみの名前を聞いてもいいかな?」
「え? えっと……ぼくは、シャハル……」
「シャハル……なるほど、素敵な名前だね」
「シャハルちゃん……! ふふ、なんだか可愛い響きです」
「え……あの、二人とも、ぼくの言葉がわかるの?」

 遠い昔に呼ばれたきり、既に自分の中にしか存在しなかった、ぼくの名前。それを誰かにまた呼ばれる奇跡に、ぼくは目を丸くする。

「ああ。きみに飲んで貰った『星座の物語』の効果だよ。……星座には物語がつきものだけど、物言わぬ星からそれを読み解くのは難しいだろう? だから、星自らに語って貰おうってわけ」
「……そんなことが……?」
「ふふ。マスターの薬はこう……手っ取り早い翻訳機ですね! お手頃便利!」
「あはは、そうそう。そんな感じだよ」
「え……そのたとえ、本当に合ってる? もっとこう、魔法とかそういう……」

 本当に、これは奇跡や魔法だ。でなければ、こんな何の力もない死にかけの『野良猫』であるぼくの言葉が、人間に理解されるわけがない。
 にわかに信じられなかったものの、ここまでしっかりと会話が成立している現状に信じざるを得なかった。

「マスター、このお薬の効果はどれくらいなんですか?」
「そうだなぁ、おそらくこの夜が終わるまで。……だからシャハルさん、よければきみの物語を、僕たちに聞かせてくれないかな」
「ぼくの……物語。うん……聞いて欲しい。ぼくは、昔飼い猫だったんだ」

 本当に不思議な夜だ。死を覚悟した寒空の下、今はこんなにも温かく満たされた心地の中で、走馬灯ではなく穏やかな気持ちで思い出を振り返る。
 どうせ一夜限りの夢ならば、誰かに伝えたい。知っていて欲しい。
 ぼくはそっと、言葉を紡ぎ始めた。


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