「ヒメミさん、紅茶はお好きですか? わたし、深夜のティータイムをしようと思ってて……」
「えっと、それじゃあ夜永さんとこよるちゃんに紅茶で……ここ、メニュー表ないけど、紅茶二人に入れたらいくらなの?」
「いくら、とは……?」
「え、だから紅茶一杯いくら? って……あ、でもひめも飲みたいから、三杯分の料金、タックス込みで教えて。飲み放題プランあるならそれでもいいし……」
「えっ? あれ? もしかしてこれ、ヒメミさんがわたしたちの飲み物代も払おうとしてます? わたしたちが飲むのに、お客様から飲み物のお代をいただくんですか? 何故……?」
「え? 何故、って……」

 ホストクラブやキャバクラ、コンカフェ辺りのお店なら、キャストにドリンクを入れて、それを飲みながら会話を楽しむのが基本。注文したドリンク代は、キャスト分もお客が払うのが普通だ。
 人気のホストなんかは、より高いボトルを入れた客の卓に行ってしまうから、お財布と相談しながら競うように次々高いお酒を頼むのだ。

 たった数分彼の隣を独占するためだけに、彼が毎晩いろんな卓で浴びるように飲んでいるはずの、もう飲みたくもないであろうお酒を入れる。
 何とも無駄なシステムだ。それならその額そのまま彼に渡せたらいいのにと、何度も思った。

 けれどわたしにとってそのシステムが普通だったから、こよるちゃんが驚いたことに驚く。

「……なるほど。そういうシステムがあるんですかぁ……不思議なお店なんですねぇ」
「不思議、なのかな……? というか、この『星見町』に居てそういうお店知らないの珍しいね? 向こうのネオン街なら、むしろそんな店ばっかりだよ?」
「うーん……だって、好きな人に奢りたいって気持ちならまだわかるんですけど……お金を飲み物にして、お金を積んで時間を買ってるんですよね? 飲み物がおまけになっちゃうのは悲しいです!」
「え、そこ……? 時間を買うとかじゃなくて、そっちが悲しいの?」
「わたし、深夜のティータイムが好きなので……あ、紅茶に限らずハーブティーでもホットミルクでもココアでもいいんですけど! 飲み物はしっかり味わって、誰かとのんびりお話ししながら楽しみたいですもん……」

 通された店の片隅の、ふかふかの綿菓子みたいな白いソファーに腰掛けながら、わたしは自分の中の常識がやはりすでに一般からはずれて来ていることを実感する。
 夜永さんがお店の奥で紅茶の用意をしていてくれる間、わたしはリュウセイくんのことやホストクラブについて説明していた。
 隣に腰かけたこよるちゃんは、わたしの話を聞きながら膝に黒い猫を乗せて撫でている。薬屋と聞いたけれど店の内装は雑貨屋のようで、その上猫カフェでも兼ねているのかもしれない。

「ふふ、僕たちの飲み物をヒメミさんが払う必要はないし、そもそも紅茶代は要らないよ。こよるさんのティータイムに付き合って貰うんだからね」

 不意に目の前のテーブルに夜永さんが用意してくれたのは、専門店で出されるような洒落なティーセットだった。
 繊細なデザインのカップとソーサーには星空が描かれていて可愛らしく、ティーポットもお揃いのものだ。
 まだ茶葉を蒸らしているようで、隣に砂時計を添えられる。それもアンティークな装飾が美しい。

「えー、もうすごい。イケメンが用意してくれる本格紅茶……これが無料? 良心的……毎晩通いたい」
「おや、喜んで貰えたところ恐縮だけど、紅茶を淹れるのはこよるさんの方が上手いんだよ」
「そうなの? じゃあなんで今夜は……?」
「……シャハルさんがこよるさんの膝で寝ているから、今夜は僕が用意したんだ。特別にね」
「特別……えーん、ひめそういうの弱い……ずるい……」
「おや、ふふ」

 シャハルさん、というのはこの黒猫の名前だろうか。猫にまでさん付けをする上、猫を起こさないために店主自らお茶を用意してくれるなんて。
 その優しく丁寧な人柄に、やはりリュウセイくんの細やかで誠実な性格が重なってしまう。

「……僕はそんなに、きみの好きなホストに似ているのかな」
「え……ひめ、夜永さんがリュウセイくんに似てるって、言ったっけ?」
「ふふ、きみの目を見ていたらわかるよ」
「わたしの目……?」

 自分ではわからない。わたしはリュウセイくんに似た彼に、どんな目を向けているのだろう。わたしはリュウセイくんに、あの頃と今、変わらない顔をしているのだろうか。

「わたし、そういうお店は行ったことないんですけど……ヒメミさんは、毎晩そのホストクラブに通われてるんですか?」
「あはは、毎晩はさすがに通えないよ~。お金がないとリュウセイくんには会えないもん。……けどね、ひめ、このネオン街にしか居場所がないの。だから毎晩この街には来てるよ」
「さっきのシステムを聞いている分に、ずいぶんお金がかかりそうですもんねぇ……。そんなにお金をかけてまで、そのお店に通いたいものなんですか?」

 こよるちゃんの問いかけに、わたしは思わず目を伏せる。かつては舞踏会に行くお姫様のようにわくわくとした、彼との会瀬。
 いつからだろう。スケジュール帳の会える日にピンクのハートシールを貼るんじゃなく、彼に使える金額を書くようになったのは。
 いつからだろう。とびきりのお洒落をして何を話そうかとうきうきしていたのに、彼の言葉がわたしではなく、グラス越しのお金に向けて紡がれている事実に打ちのめされて、魔法のフィルターをも壊してしまったのは。

「……お金を払えば、その時だけはリュウセイくんに愛して貰える。本物になれないってわかってても、お姫様になれる夢を見させてくれる……それに溺れるのは、いけないこと?」

 自分自身に問いかけるような、そんな響き。俯くわたしに対して、二人は忌憚のない意見をくれる。

「べつにいけないとは思わないけれど……ヒメミさんは、苦しんでいるように見えるかな」
「そうですねぇ。わたしにはそのお店のことも、そのリュウセイさんという方のこともわからないんですけど……その夢を見るためにヒメミさんが支払っている対価は、それに見合うものなんですか?」
「え……?」
「本物にならないその夢は本当に、ヒメミさんの望むものなんですか?」
「え、えっと……」
「どこか間違っている気がしているのに、やめられない。その迷いがきみの本当の望みを、覆い隠している気がするな」
「本当の望み? でも……ひめ、は……」

 二人の言葉に、一瞬ぐらりと視界が揺らぐ。わたしの中の常識が、覆されそうになる。

 ふと砂時計の砂がぴたりと止まって、それを合図に夜永さんはティーポットから三つのカップへとそれぞれ紅茶を注いだ。

「あ……」

 揺らめく湯気が仄かな甘い香りを漂わせて、アルコールとは違う心休まるそれに思わず顔を寄せる。
 紅茶なんていつぶりだろう。差し出されたカップの中を覗き込むと、映ったわたしの顔は確かに迷子の子供のようだった。
 それを見たくなくて、添えられたミルクで紅茶を白く濁らせる。わたしはいつも、こうして見たくないものを覆い隠してきたのかもしれない。

「……そうだな、たとえばゲームへの課金や、ギャンブルもそうか……『コンコルド効果』と言ってね、コストをかけた分リターンを求める……後に何も残らないと知りながらも、お金を掛ければ掛けるだけ、離れがたくなるものなんだよ」

 給仕を終えた夜永さんが正面のアンティーク調のお洒落な椅子に腰掛けて足を組み、ティーカップを片手に言葉を紡ぐ。その内容に、わたしのカップを持つ指先が震えた。
 誤魔化すようにミルクで温くなった紅茶を一口飲むと、その仄かな甘味とまろやかな味わいに少しだけ落ち着く。

「べつにひめは……そんなんじゃ……」
「本当に? 辛そうに彼のことを語るきみの気持ちは、意地や執着ではなく、今も本当に純粋な恋心なのかな?」
「……それ、は」

 重ねられた問い掛けに、何度も見ないふりをしてきた感情が、一気にわき上がる。おかしい、以前なら、間違いなく本気の恋だと断言できたはずなのに。

「……っ」

 いつからだろう。叶わない恋ですら愛しいと健気に思っていた頃から、諦めと共に「どうして愛してくれないのか」と理不尽な怒りを秘めるようになったのは。
 いつからだろう。彼の名前を口にするだけで口許が綻ぶような幸せな気持ちだったのが、彼の名前を呼びたくなるのは苦しくて耐えられない時になったのは。
 いつからだろう。優しい夢を見させてくれる彼を好きだったのに、まやかしばかり与えてくる彼に虚しさを覚えるようになったのは。

「ひめは……」
「きみが執着しているのは、こんなにも尽くしたのだから愛されたいって欲求? 彼にお金を積むことで得られる承認欲求? それとも……」
「……ちがう、ひめは……、わたし、は……」

 認めたくなかった。認めたら最後、わたしは心の拠り所にしていた『あの頃の純粋な恋心』を、本当に失くしてしまう気がした。
 とっくに、偽物の苦しいだけの感情だとわかっていたのに。確かに一番大きかったはずの大切な記憶を、自ら手離すのが怖かった。

「……シンデレラの魔法が解けてしまうのが、怖かったの……」

 思わず溢れた本音に、わたしは動揺する。ずっと辿り着かないように迷い続けていた答えを、こんなにもあっさりと出せたことに、困惑した。
 それでも、まるで決壊したかのように、次々と心の奥底に閉じ込めた本音が溢れてきた。

「会いに行けば、また魔法をかけて貰える。彼の側なら、居場所のない惨めなわたしも、愛されるお姫様になれる。……そう信じて頑張って来たのに、それが無駄だったなんて思いたくなかった……」
「無駄……ですか?」

 吐き出すように告げると、こよるちゃんは心配そうにわたしに視線を向けてくる。けれど、やっぱりもう止まらなかった。

「とっくに、魔法なんて解けてたの。与えられる愛が全部嘘だって、とっくにわかってたよ。リュウセイくんはホストだもん……どうしたって『ひめ』はお客の一人のまま。頑張って彼のエースになっても、特別なお姫様にはなれなかった……愛されたかった『わたし』は、いつまでも惨めなままだった……!」
「ヒメミさん……」
「だけど……それは、最初からわかっていたんだろう?」
「わかってた……それでも、わたしはリュウセイくんを好きになったの……幻だったとしてもその恋は確かに幸せで、わたしにとってのたった一つの宝物だったから……壊れてしまっても、あの頃の恋を嘘にしたくなかった……あの頃の幸せな気持ちまで嘘にしたくなくて、縋り続けるしかなかった……魔法の先の奇跡を、信じたかったの……」

 心の中の不安や恐怖全てを次々吐き出す口は、自分の物じゃないみたい。どんなにお酒に酔っていたって、ここまで話すこともなかった。
 自分の本当の気持ちをようやく理解して、思わず涙が溢れる。

「あの頃の恋、ということは……今は、違うんですね?」
「苦しくても、縋りたかった……嘘でも愛をくれたから、それを返したかった……だけど、そっか、わたし……もうとっくに偽物の気持ちって気付いて、失恋して、幸せじゃないことに気付いてた……それを、認めたくなかったんだ」

 心の安寧としていたものが心を蝕んで、縋っていたものがもうとっくに失われていることを、ずっと見ないふりしてきた。だけどもう、とっくに限界だったのだ。
 ぼろぼろと涙が溢れると、こよるちゃんが優しく刺繍のハンカチで拭ってくれる。
 口の中に広がっていた甘いミルクティーの風味は、すっかり涙の味になってしまった。
 わたしはただ、叶わなかったとしても健気に恋する女の子で居たかった。確かに本物だった恋心を誇っていたかった。
 最初から偽りだとわかっていたはずなのに、傷ついて悲劇のヒロインぶるつもりもなかったのに。今さら認めたところで、自業自得なのに。

「うう……ごめ、……ひめ……こんな、可愛くない……」
「気にせずたくさん泣くといいよ。……紅茶には『深淵の北斗七星』が入っていたから、その涙は紛れもない、本物のきみの心の痛みだ。向き合ってたくさん流してあげるといい」
「……? しんえん? の北斗七星、って……なに?」

 聞き慣れない単語に思わず聞き返すと、夜永さんは白い上着のポケットから、手のひらより小さめのガラスの小瓶を取り出す。
 瓶の中には、スプーンよりも少し歪な、北斗七星に似た形のピンクの塊が入っていた。可愛らしい形状に、琥珀糖のような半透明の色合い。
 ぐすぐすと泣きながらも、その美しさに思わず視線を向ける。

「綺麗……これなに? 砂糖菓子?」
「これはね、自分の心と向き合う薬だよ」
「……、……は?」
「ああ、味は甘いから、紅茶に溶かしても問題ないはずだよ」
「あ、うん。味はおいしかったけど……」
「それはよかった。『深淵の北斗七星』はね、心の奥底に閉じ込めた本当の気持ちを、ひしゃくが掬い上げるようにして表に浮上させてくれるんだ。本来向き合うことが怖い本音を優しく掬って……」
「ちょ、ちょっとまって……えっ、これ入ってたの? 飲み物に知らぬ間に薬盛られてるとかドン引きなんですけど!?」
「おや、心外だな。薬屋である僕たちに、迷いを断ち切るための手伝いを頼んだのはきみだろうに」
「それはそうだけど~……せめてそれ飲む前に教えて欲しい……!」

 驚きのあまり、ついぼろぼろと止まらなかった涙が引っ込んだ。思わず夜永さんの顔と手元の小瓶、そしてわたしの前のティーカップを交互に見る。
 こよるちゃんは薬を盛られることを知っていたのか、困ったように笑っていた。

「すみません、ヒメミさん。マスターがお薬を配合するから、紅茶の準備もお任せしたんです……」
「特別ってそういうこと!? ひめのときめき返して!?」
「ふふ、うちの薬を怪しんでいたけれど、プラシーボ効果なんかなくとも効くってわかったろう?」
「あ……案外根に持ってたんだ? 怪しんでたのは効果じゃなくて……いや、もう、なんでもいいや……」

 確かに、ぐるぐるとしていた気持ちに答えは出た。わたしもそれを望んでいた。背中を押してくれたことには感謝したい。それでも、これでは自白剤で無理矢理引きずり出されたようなものだ。
 予想外のことに思わず頭を抱えていると、隣のこよるちゃんは自分の手元のカップの中身を一気に煽る。

「えっ、こよるちゃん!?」
「ふう……ヒメミさん、大丈夫ですよ。わたしも同じものを飲みましたから……お互い本音で語り合いましょう!」
「へ……?」

 こよるちゃんの予想外の行動に呆けていると、夜永さんは楽しそうに微笑みながら頷く。

「ふふ、そうだね。この薬は本来、喧嘩や誤解で拗れた二人に振る舞うことが多いけれど……そうやって、誰かに本心から寄り添って貰うのも悪くないだろう。……嘘ばかりじゃない、本当の心でさ」
「本当の、心で……?」
「……まあ、僕はあんまり薬は効かないから、そこはこよるさんと女子会してて貰うかたちになるんだけど」
「……もう、台無しなんだけど!?」
「おや、効いたふりをして同席する方が不誠実じゃないかい?」
「それはそうだけど~……!」

 そう言って自らも薬入り紅茶を飲み干すどこまでも自由な夜永さんは、リュウセイくんとは全然違っていて、思わず肩の力が抜ける。
 わたしは時々笑って、やっぱり溢れる涙は無理に止めず、素直に気持ちの整理をする。

 偽りばかりの夜の片隅、塗り固められた嘘と建前に疲れきっていたわたしは、型破りで自由でまっすぐな薬屋で、久しぶりに本当の心と向き合った。


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