5.
揺れる休日のバスが小刻みにリズムを刻んでいく。
特急が止まるターミナル駅から電車は各駅に切り替わりそこからさらに七八駅くらい乗り過ごした駅だっただろうか。
街中の喧騒はすっかりとどこかの地点で消え去って、僕ら三人はあっというまに非日常的な夏の田舎道や田んぼ道がよく似合う土地に運ばれた。
電車を降りると次にバスに乗った。
ちょうど電車が来る時間と合わせてバスは来たが、さりげなく乗る前に時刻表をみると、一本逃がすとつぎは五十分ほど先で、一日の本数も限られているようだった。
バスのなかでは、誰も話さず静かな時間が続いた。
バスは街の中心の果ての郊外のさらに果ての土地で夏の緑のあいだを抜けていった。
それから目的の停留所に到着の二十分前くらいだったろうか、ようやく陽菜が僕らの空気を変えるように話した。
「お母さんもなんでこんな遠いところにしたんだろうね。いちいち毎回来るのが大変ったらないよね」
美月は陽菜の言葉を受けて返した。
「あれじゃない? あんまりすぐ来れるようなところだと、陽菜がしょっちゅう来ちゃうから、やっぱりわざと遠いところにしたんでしょ」
「えー、どっちかというと、お姉ちゃんでしょ、それ」
僕は休日に姉妹のじゃれあいを聞いていると、少しだけここ何日かの緊張が緩んだ気がして、朝が早かったこともありバスの揺れにそのまま身を委ねそうになった。
僕は兄とこんな他愛もないやりとりをした時間は一度でもあったろうか。
甘ったるいような眠気の感覚は、いつのまにか僕の無意識に問いかけていた。
僕と兄でこんな会話をした記憶はない。ないけれど、もしかしたら記憶にもない小さい頃なら一度くらいあるのかもしれない。僕はなぜかそんなことを思った。記憶にはなくとも、そんなことが。
どんなに忘れていたって、最後には本当の意味ではなにも忘れることはできない。
そういえば、いつか美月がそんな言葉を言っていた気がする。でも、それは美月の言葉ではなくて誰の言葉だったっけ。
僕はうつらうつらとバスと一緒に協奏曲を奏でながら、思い出そうとしていた。
けれど、バスの停止ボタンが押されて、僕たちの協奏曲と追憶はそこで唐突なフェルマータに入った。
「奏、そろそろ着くから起きないとダメだよ」
美月の声が閉じられた瞼と耳に割って入って聞こえた。
***
バスが止まったのは山道の入り口の駐車場だった。
そこから数分歩くと山道の入り口の看板が立っていた。美月によれば、ここから歩き始めて十五分かからないくらいとのことだった。
最後、結構歩くよと美月に事前に言われていた意味が僕はようやくわかった。できるだけ涼しい格好がいいよと言われて薄手のシャツを一枚重ねただけにしていたので電車やバスのなかは少し肌寒かったが、外を歩いた途端、夏の日差しは木々の葉の隙間からでも暴力的に熱く、みるみる服に汗を染み込ませていった。
美月は半袖のブラウスにデニムのショートパンツで、陽菜は白のシャツとサロペットのようなものを着ていた。二人とも見知った道らしく山道を迷わずに登っていった。
とはいえ美月は訪れるのが久々だったようで、加えて暑さも受けて少し登るのが辛そうだった。
「大丈夫か?」
僕は先頭を歩く陽菜をしんがりとして後ろから声をかけた。
「大丈夫……、じゃない! ちょっと休憩!」
美月はそう言って立ち止まるとカバンから駅のコンビニで買っておいたペットボトルを開けて勢いよく飲んだ。
夏の日差しをうけて、喉元を上下してただ水を飲む美月の姿に僕はなぜか少し気恥ずかしい気がして目を逸らした。美月と初めて会った中学のときから同じ高校に入って今日までに美月はそのぶん大人になっていた。
あたりまえのことだけど、僕たちの慌ただしく少し通常とは違う高校生活のなかでそんな当たり前のことに気がつくのを僕は忘れていた。山の虫たちは僕たちをけたたましくなにかにせきたてていた。
「水、欲しいの?」
美月が飲み終わるとこちらにボトルを渡そうとしてきたが、僕は自分のがあるからいいよと断った。
***
それから僕らは半袖で時折触れる木々の葉っぱや寄りつく羽虫たちをものともせずに進む陽菜になんとかついていって山道を登り切った。
「こんな遠かったっけ?」
陽菜も最後の方には流石に疲れたようで、最後の階段道で少し弱音をみせたが、すぐに到着を後ろの僕らに伝えた。
「着いた!」
僕と美月が二人で陽菜に追いつくと、目の前に背の高い木々に囲まれた木材とコンクリートが合わさった教会が現れた。
「わたしとお父さんは去年の春前に来てるから半年ぶりだけど、お姉ちゃんは二年以上前?」
「あー、そうかも。入院前に来たのが最後だから、なんかわりと最近も来た感じあるんだけど、もうそんな経ったんだね」
僕は二人の会話を隣りで聞きながら、教会の外観を観察した。
建物は小ぶりで一階建ての一軒家よりは確実に大きいが二階建てとまではいえなさそうな大きさだった。山道のなかにポツンと立っている姿は屋根に十字架が掲げられていなければ、もしかしたらちょっとしたコテージか、あるいは小洒落た喫茶店と勘違いしてしまうかもしれなかった。
陽菜が様子見とばかりに教会に近づいて、そっと扉を開ける後ろをついて僕らは建物の中に入った。
一足その聖域に足を踏み込めばひんやりとした空気が肌に触れて、外界との差を一瞬で感じた。アナクロな雰囲気とは裏腹にどこかで空調が作動しているのだろう。しかし音は一切せずに静まりかえっていて、騒がしくすることは自然と憚られる雰囲気があった。
ただそれも強圧的なものではなく、場の雰囲気が心地よく自らを敬虔とさせているがゆえで、緊張感は感じつつもけして不快なものではなかった。
礼拝者は自分たち以外にはいないようで、教会特有の木製の椅子には腰掛ける人は誰もいなかった。祭壇の奥からは小さいながらステンドグラスの窓が二つあって、左右両方から室内へ虹の光りが差し込んでた。
自然と惹かれるように祭壇のほうに歩もうとすると、祭壇脇から礼服姿の男がでてきた。僕は入ってきたことを咎められるかと身構えたが、すぐに陽菜と美月がご無沙汰してますと頭を下げた。
「こちらこそご無沙汰しています。美月さんはいらっしゃるのはいつ以来でしたでしょうか?」
神父は両手を前に組み合わせて話しかけてきた。
「ちょうどその話をさっきしてました。多分最後に来たのは入院する前だから二年くらい前だと思います」
神父はどうやら美月の事情について知っていそうだった。
僕は神父がそのまま美月の体調や近況なんかについて尋ねるかと緊張した。しかし神父はそちらに話題を振らず、「お父さんは今日はいらっしゃらないのですか」と美月に尋ねた。
「はい、父からはくれぐれもよろしくとのことでした。今日は日曜日ですが、仕事の都合がつかなかったみたいで、でもまた母の命日には必ず伺うと伝えておいて欲しいとのことでした」
陽菜が珍しくよそ行きの口調で神父に答えた。
「そうですか。ご健康ならなによりです。それでは良い祈りの時間としてください。皆さまに神のご加護があらんことを」
そういって、神父はまた祭壇の脇から部屋に戻った。
神父が退室したあと、陽菜が説明した。
「神父さんはお母さんとお父さんのちょっとした知り合いなの」
「へえ」
なんだかすっかり神父の雰囲気に飲まれてしまった感じのある僕に美月は神様の前で隠すように笑った。
「奏ってこういう場所苦手? ちょっと緊張してるでしょ」
僕は目を逸らして、美月の問いかけを誤魔化した。
「求めよ、さらば与えられん、だね」
「また適当なこといって、バチが当たるよ」
「神様は美月様より寛大な心をお持ちなのです」
僕は美月の言葉に冗談で返しつつも、自分のいった聖句を頭のなかで反芻せずにはおれなかった。
求めよ、さらば与えられん、か。
僕たちは何を求めて、そして何を与えられたのだろうか。
「あ、奏が真面目な顔している。神の恩寵はこんな人にまで、偉大だなあ」
「それで今日はここに祈りに来たってこと?」
僕は真面目腐った顔を見られた気恥ずかしさを誤魔化すように言った。
「それもあるけど、ここにはアレがあるからね」
美月が陽菜に目線を送った。陽菜は「ああ、アレね」と頷いた。
「アレって?」
「ピアノ。ここの教会、お母さんがよく仕事で行き詰まったりしたらよく来てたの。悩める作曲家が神にも縋りに来たっていう感じなのかな」
そういえば、と僕は思い出した。
美月の母親はキャリアの後半では宗教的な調べに近づいていったという批評を読んだことがある。僕はその批評を読んだとき事情を知らないのでとくに気にも留めていなかったが、そこにはこの場で作曲家として曲へのインスピレーションを得ていたという事情もあったのかもしれない。
「休みの日になるとさ、お母さんが私たちを連れてきて、外で遊ばせているあいだにここでよく曲を作ってたの」
美月は祭壇の隣りにあるピアノを愛おしそうに触れた。
そのピアノは古そうな型だったが、それでもきちんと艶を失われずに丁寧に扱われていることが伺われた。きっとさっきの神父が粗末にせずに、大切に扱っているのだろう。美月が鍵盤を軽く触れて音を出しても調律もしっかりなされており、現役として使用されているようだった。
「教会って、パイプオルガンとかじゃなくてピアノのところもあるんだ」
「ここの教会は由緒は古いんだけど、建物自体はここ十数年くらいのあいだで建て直ししてるから結構新しいんだ。建て直すまえはちょっとしたパイプオルガンがあったらしいんだけど、建て替えのときにどうしてもお金が足りなくて残せなかったんだって、でも神父さんがツテを辿ってこのピアノを代わりに置いたの」
僕の感想に陽菜がそんなふうに答えた。それから美月が引き取るように続けた。
「今日はね、このピアノを弾きたくてきたの」
「大丈夫なのか?」
「確かに古そうだけど、調律はしっかりしてるし……」
美月が言ったのを遮って僕は言った。
「そうじゃなくて……」
美月の症状はピアノを弾く能力と相関していると俊明さんは言っていた。僕は美月がピアノを弾くことがなにかのトリガーにならないか心配だった。美月は僕のいわんとせんとしていることを理解したらしくて、応えた。
「一曲くらいなら、きっと大丈夫。それに最後だから」
僕は美月がピアノを愛おしそうに撫でるその指先を見つめた。
最後。美月はただ一言そういったのだ。
「そっか。わかった」
それじゃあ、お二人とも審査員をよろしく、演奏後に拍手はいらないからね。
美月はそういって笑ってピアノの前に厳かな儀式のように、なんてことのないように座った。
そっと鍵盤に彼女の指先が触れる瞬間、僕は緊張とともに一瞬この場所にいる誰かが僕らを見守っているような気がした。その手がほんの少しだけ震えたように思うと、美月はそっと目を閉じてゆっくりと最初の一音を弾いた。
祭壇の十字架が着席した僕らを黙って見下ろしていた。
***
鍵盤によって持ち上げられたハンマーがそっと弦に降りて、その音は響く。
それからゆっくりと天使が舞い降りる。
柔らかく、優しく、穏やかで緩やかなパッセージ。
怒りも悲しみもない。
ただ静かで平穏なこの幸福な時間を祈る響き。
今日の彼女との日々に。
今日までの彼女の日々に。
そして今日からの彼女の日々に。
たとえ、それがどんなものであっても。
起きたこと全てを認めて、全てを受け入れるような喜びにただ頭をたれるような。
どんな日も、たとえどんなに辛い日々でも。
全てが誰かから渡された大切な願いだって。
そう信じるための、そう信じさせられる、そう祈る、そんな響きだった。
僕は前にもこの曲を聴いたことがあった。
美月が退院した日に陽菜がショッピングモールのストリートピアノで弾いた曲だ。たった数ヶ月前のことなのに随分と昔のことのように感じられる。
でも、僕は覚えていた。そうだ、美月は確かこんなことを言っていた。
──ねえ、奏、この曲、きいたことないでしょ?
僕はあの日もこんなふうに陽菜の演奏を見ながら隣で囁く美月の声を聴いていた。
──この曲はね、ママがちっちゃいときに私たちのために作ってくれた曲なんだよ。
僕は頷く。
──この曲のタイトルはね、『与えられた幸いの日々』
──まんまだな。
僕は言った。でも美月は満足そうに陽菜の演奏を聴きながら言った。
──でも、良い題だと思う、わたしは。
揺れる休日のバスが小刻みにリズムを刻んでいく。
特急が止まるターミナル駅から電車は各駅に切り替わりそこからさらに七八駅くらい乗り過ごした駅だっただろうか。
街中の喧騒はすっかりとどこかの地点で消え去って、僕ら三人はあっというまに非日常的な夏の田舎道や田んぼ道がよく似合う土地に運ばれた。
電車を降りると次にバスに乗った。
ちょうど電車が来る時間と合わせてバスは来たが、さりげなく乗る前に時刻表をみると、一本逃がすとつぎは五十分ほど先で、一日の本数も限られているようだった。
バスのなかでは、誰も話さず静かな時間が続いた。
バスは街の中心の果ての郊外のさらに果ての土地で夏の緑のあいだを抜けていった。
それから目的の停留所に到着の二十分前くらいだったろうか、ようやく陽菜が僕らの空気を変えるように話した。
「お母さんもなんでこんな遠いところにしたんだろうね。いちいち毎回来るのが大変ったらないよね」
美月は陽菜の言葉を受けて返した。
「あれじゃない? あんまりすぐ来れるようなところだと、陽菜がしょっちゅう来ちゃうから、やっぱりわざと遠いところにしたんでしょ」
「えー、どっちかというと、お姉ちゃんでしょ、それ」
僕は休日に姉妹のじゃれあいを聞いていると、少しだけここ何日かの緊張が緩んだ気がして、朝が早かったこともありバスの揺れにそのまま身を委ねそうになった。
僕は兄とこんな他愛もないやりとりをした時間は一度でもあったろうか。
甘ったるいような眠気の感覚は、いつのまにか僕の無意識に問いかけていた。
僕と兄でこんな会話をした記憶はない。ないけれど、もしかしたら記憶にもない小さい頃なら一度くらいあるのかもしれない。僕はなぜかそんなことを思った。記憶にはなくとも、そんなことが。
どんなに忘れていたって、最後には本当の意味ではなにも忘れることはできない。
そういえば、いつか美月がそんな言葉を言っていた気がする。でも、それは美月の言葉ではなくて誰の言葉だったっけ。
僕はうつらうつらとバスと一緒に協奏曲を奏でながら、思い出そうとしていた。
けれど、バスの停止ボタンが押されて、僕たちの協奏曲と追憶はそこで唐突なフェルマータに入った。
「奏、そろそろ着くから起きないとダメだよ」
美月の声が閉じられた瞼と耳に割って入って聞こえた。
***
バスが止まったのは山道の入り口の駐車場だった。
そこから数分歩くと山道の入り口の看板が立っていた。美月によれば、ここから歩き始めて十五分かからないくらいとのことだった。
最後、結構歩くよと美月に事前に言われていた意味が僕はようやくわかった。できるだけ涼しい格好がいいよと言われて薄手のシャツを一枚重ねただけにしていたので電車やバスのなかは少し肌寒かったが、外を歩いた途端、夏の日差しは木々の葉の隙間からでも暴力的に熱く、みるみる服に汗を染み込ませていった。
美月は半袖のブラウスにデニムのショートパンツで、陽菜は白のシャツとサロペットのようなものを着ていた。二人とも見知った道らしく山道を迷わずに登っていった。
とはいえ美月は訪れるのが久々だったようで、加えて暑さも受けて少し登るのが辛そうだった。
「大丈夫か?」
僕は先頭を歩く陽菜をしんがりとして後ろから声をかけた。
「大丈夫……、じゃない! ちょっと休憩!」
美月はそう言って立ち止まるとカバンから駅のコンビニで買っておいたペットボトルを開けて勢いよく飲んだ。
夏の日差しをうけて、喉元を上下してただ水を飲む美月の姿に僕はなぜか少し気恥ずかしい気がして目を逸らした。美月と初めて会った中学のときから同じ高校に入って今日までに美月はそのぶん大人になっていた。
あたりまえのことだけど、僕たちの慌ただしく少し通常とは違う高校生活のなかでそんな当たり前のことに気がつくのを僕は忘れていた。山の虫たちは僕たちをけたたましくなにかにせきたてていた。
「水、欲しいの?」
美月が飲み終わるとこちらにボトルを渡そうとしてきたが、僕は自分のがあるからいいよと断った。
***
それから僕らは半袖で時折触れる木々の葉っぱや寄りつく羽虫たちをものともせずに進む陽菜になんとかついていって山道を登り切った。
「こんな遠かったっけ?」
陽菜も最後の方には流石に疲れたようで、最後の階段道で少し弱音をみせたが、すぐに到着を後ろの僕らに伝えた。
「着いた!」
僕と美月が二人で陽菜に追いつくと、目の前に背の高い木々に囲まれた木材とコンクリートが合わさった教会が現れた。
「わたしとお父さんは去年の春前に来てるから半年ぶりだけど、お姉ちゃんは二年以上前?」
「あー、そうかも。入院前に来たのが最後だから、なんかわりと最近も来た感じあるんだけど、もうそんな経ったんだね」
僕は二人の会話を隣りで聞きながら、教会の外観を観察した。
建物は小ぶりで一階建ての一軒家よりは確実に大きいが二階建てとまではいえなさそうな大きさだった。山道のなかにポツンと立っている姿は屋根に十字架が掲げられていなければ、もしかしたらちょっとしたコテージか、あるいは小洒落た喫茶店と勘違いしてしまうかもしれなかった。
陽菜が様子見とばかりに教会に近づいて、そっと扉を開ける後ろをついて僕らは建物の中に入った。
一足その聖域に足を踏み込めばひんやりとした空気が肌に触れて、外界との差を一瞬で感じた。アナクロな雰囲気とは裏腹にどこかで空調が作動しているのだろう。しかし音は一切せずに静まりかえっていて、騒がしくすることは自然と憚られる雰囲気があった。
ただそれも強圧的なものではなく、場の雰囲気が心地よく自らを敬虔とさせているがゆえで、緊張感は感じつつもけして不快なものではなかった。
礼拝者は自分たち以外にはいないようで、教会特有の木製の椅子には腰掛ける人は誰もいなかった。祭壇の奥からは小さいながらステンドグラスの窓が二つあって、左右両方から室内へ虹の光りが差し込んでた。
自然と惹かれるように祭壇のほうに歩もうとすると、祭壇脇から礼服姿の男がでてきた。僕は入ってきたことを咎められるかと身構えたが、すぐに陽菜と美月がご無沙汰してますと頭を下げた。
「こちらこそご無沙汰しています。美月さんはいらっしゃるのはいつ以来でしたでしょうか?」
神父は両手を前に組み合わせて話しかけてきた。
「ちょうどその話をさっきしてました。多分最後に来たのは入院する前だから二年くらい前だと思います」
神父はどうやら美月の事情について知っていそうだった。
僕は神父がそのまま美月の体調や近況なんかについて尋ねるかと緊張した。しかし神父はそちらに話題を振らず、「お父さんは今日はいらっしゃらないのですか」と美月に尋ねた。
「はい、父からはくれぐれもよろしくとのことでした。今日は日曜日ですが、仕事の都合がつかなかったみたいで、でもまた母の命日には必ず伺うと伝えておいて欲しいとのことでした」
陽菜が珍しくよそ行きの口調で神父に答えた。
「そうですか。ご健康ならなによりです。それでは良い祈りの時間としてください。皆さまに神のご加護があらんことを」
そういって、神父はまた祭壇の脇から部屋に戻った。
神父が退室したあと、陽菜が説明した。
「神父さんはお母さんとお父さんのちょっとした知り合いなの」
「へえ」
なんだかすっかり神父の雰囲気に飲まれてしまった感じのある僕に美月は神様の前で隠すように笑った。
「奏ってこういう場所苦手? ちょっと緊張してるでしょ」
僕は目を逸らして、美月の問いかけを誤魔化した。
「求めよ、さらば与えられん、だね」
「また適当なこといって、バチが当たるよ」
「神様は美月様より寛大な心をお持ちなのです」
僕は美月の言葉に冗談で返しつつも、自分のいった聖句を頭のなかで反芻せずにはおれなかった。
求めよ、さらば与えられん、か。
僕たちは何を求めて、そして何を与えられたのだろうか。
「あ、奏が真面目な顔している。神の恩寵はこんな人にまで、偉大だなあ」
「それで今日はここに祈りに来たってこと?」
僕は真面目腐った顔を見られた気恥ずかしさを誤魔化すように言った。
「それもあるけど、ここにはアレがあるからね」
美月が陽菜に目線を送った。陽菜は「ああ、アレね」と頷いた。
「アレって?」
「ピアノ。ここの教会、お母さんがよく仕事で行き詰まったりしたらよく来てたの。悩める作曲家が神にも縋りに来たっていう感じなのかな」
そういえば、と僕は思い出した。
美月の母親はキャリアの後半では宗教的な調べに近づいていったという批評を読んだことがある。僕はその批評を読んだとき事情を知らないのでとくに気にも留めていなかったが、そこにはこの場で作曲家として曲へのインスピレーションを得ていたという事情もあったのかもしれない。
「休みの日になるとさ、お母さんが私たちを連れてきて、外で遊ばせているあいだにここでよく曲を作ってたの」
美月は祭壇の隣りにあるピアノを愛おしそうに触れた。
そのピアノは古そうな型だったが、それでもきちんと艶を失われずに丁寧に扱われていることが伺われた。きっとさっきの神父が粗末にせずに、大切に扱っているのだろう。美月が鍵盤を軽く触れて音を出しても調律もしっかりなされており、現役として使用されているようだった。
「教会って、パイプオルガンとかじゃなくてピアノのところもあるんだ」
「ここの教会は由緒は古いんだけど、建物自体はここ十数年くらいのあいだで建て直ししてるから結構新しいんだ。建て直すまえはちょっとしたパイプオルガンがあったらしいんだけど、建て替えのときにどうしてもお金が足りなくて残せなかったんだって、でも神父さんがツテを辿ってこのピアノを代わりに置いたの」
僕の感想に陽菜がそんなふうに答えた。それから美月が引き取るように続けた。
「今日はね、このピアノを弾きたくてきたの」
「大丈夫なのか?」
「確かに古そうだけど、調律はしっかりしてるし……」
美月が言ったのを遮って僕は言った。
「そうじゃなくて……」
美月の症状はピアノを弾く能力と相関していると俊明さんは言っていた。僕は美月がピアノを弾くことがなにかのトリガーにならないか心配だった。美月は僕のいわんとせんとしていることを理解したらしくて、応えた。
「一曲くらいなら、きっと大丈夫。それに最後だから」
僕は美月がピアノを愛おしそうに撫でるその指先を見つめた。
最後。美月はただ一言そういったのだ。
「そっか。わかった」
それじゃあ、お二人とも審査員をよろしく、演奏後に拍手はいらないからね。
美月はそういって笑ってピアノの前に厳かな儀式のように、なんてことのないように座った。
そっと鍵盤に彼女の指先が触れる瞬間、僕は緊張とともに一瞬この場所にいる誰かが僕らを見守っているような気がした。その手がほんの少しだけ震えたように思うと、美月はそっと目を閉じてゆっくりと最初の一音を弾いた。
祭壇の十字架が着席した僕らを黙って見下ろしていた。
***
鍵盤によって持ち上げられたハンマーがそっと弦に降りて、その音は響く。
それからゆっくりと天使が舞い降りる。
柔らかく、優しく、穏やかで緩やかなパッセージ。
怒りも悲しみもない。
ただ静かで平穏なこの幸福な時間を祈る響き。
今日の彼女との日々に。
今日までの彼女の日々に。
そして今日からの彼女の日々に。
たとえ、それがどんなものであっても。
起きたこと全てを認めて、全てを受け入れるような喜びにただ頭をたれるような。
どんな日も、たとえどんなに辛い日々でも。
全てが誰かから渡された大切な願いだって。
そう信じるための、そう信じさせられる、そう祈る、そんな響きだった。
僕は前にもこの曲を聴いたことがあった。
美月が退院した日に陽菜がショッピングモールのストリートピアノで弾いた曲だ。たった数ヶ月前のことなのに随分と昔のことのように感じられる。
でも、僕は覚えていた。そうだ、美月は確かこんなことを言っていた。
──ねえ、奏、この曲、きいたことないでしょ?
僕はあの日もこんなふうに陽菜の演奏を見ながら隣で囁く美月の声を聴いていた。
──この曲はね、ママがちっちゃいときに私たちのために作ってくれた曲なんだよ。
僕は頷く。
──この曲のタイトルはね、『与えられた幸いの日々』
──まんまだな。
僕は言った。でも美月は満足そうに陽菜の演奏を聴きながら言った。
──でも、良い題だと思う、わたしは。