4.
八月の直前の空は過去にあった悲しみや苦しみを何一つ覚えていないような溌剌とした青さだった。けれど、それは天上に存在するものだけに許された特権で足元の地上で夏の虫たちはこの地球で起きたことぜんぶ忘れられないみたいな鳴き声で叫んでいた。
テスト期間も終わり、一学期の最後の週の授業に僕はすっかりやる気を失ってしまい、午前も午後もこうして校舎の屋上でサボりがちになってしまった。七月三週目の屋上は熱さで灼けるようなコンクリートでとても座ってられないから、こうして影になる場所を探さないとやってられない。
教室の喧騒や日常が今の僕には疎ましかった。
だから僕はいまこうして退屈しのぎの文庫本を片手にぼんやり目を閉じる。
***
午後になって結局僕は屋上にいるのも飽きて、一コマだけ授業に顔を出した。それでも僕は教室でやっぱり何にもやる気が起きなくて、ただぼーっと教壇の教師が口を開くのをぼんやり眺めていた。なにやら教師の口からは音が発せられているらしいが、それがどういうわけか聴こえなかった。
でも別にそんなことはどうでもよかった。テストも終わったんだし、いまさら聞いておくべき大事な話でもきっとないんだ。僕は教師が話す内容を勝手にそう決めつけて、ただパクパクと水中の魚か下手なオペラ歌手みたいになにごとか話し続ける無音の男の口元をじっと観察し続けた。
教室の前方からはクラスメイトたちが全自動で動くからくり人形か何かみたいに身体を捻って、プリントを回していく。僕も後ろから二番めの席だから、自動的に身体を回して後ろの席にそのプリントを回す。振り返ったときに窓側の斜め後ろに座る美月の姿が見えた。
回ってきた紙に書かれた文字を見て、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。そんなことで今日一日で久々に感情が微かに動いたのを感じた。
***
それから授業が終わって、教室の生徒たちは部活があるやつは部活に、もう三年で引退を終えたやつは早々に帰るか、予備校か塾に。そのいずれでもないやつも教室を出ていった。いずれにせよ教室に取り残されたのは僕だけだった。
窓の外から運動部の声を聞いているといつか転校してきた初日に案内された音楽室にいるような気持ちがしてきた。
ぼくは午後のホームルームで回された紙をぼうっと見つめた。進路希望調査票。その紙にはそんなふうに間抜けに未来が印字されていた。
僕はプリントをわざと粗雑に鞄にしまうと、ポケットから文庫本を取り出して退屈しのぎにその字面を追った。音楽を聴く気にもなれなかった。ただいまは自分の内側から響きも言葉も溢れてきて欲しくなくて、心と思考を言葉で埋めるのに本はちょうどよかった。
***
そうして18歳の放課後をずっと無為に教室で遊ばせていると、扉が開いて一人の少女がやってくる。僕はその扉の音に待ちくたびれていたのか、それとも恐れていたのかわからなかった。そう、どことなく怖いのかもしれない。
「お待たせしました〜」
少女が間延びした声で僕に声をかける。
「帰ろ」
僕は僕のなかの恐怖心をそっとしまい込むように文庫本をまたポケットに押し込めて、帰り支度をする。そのあいだに彼女はなんてことのない日常のように不満を漏らす。
「はあ、なんでテスト期間も終わって授業も短縮でほとんどないのに、むしろ補講はどんどん増えていくわけ。てゆうか、わたしっていま勉強とかさせられてもふつうに意味なくない? はあ、すべては無だわ」
僕は少女がそう口をへの字に曲げて不平を言うのを笑って受け止める。仕方ないだろ、学校だっていろいろ体裁とか手続き的なところとかいろいろあるんじゃないの。
「あーあ、大人の事情ってやつか。そんなシステマチックな壁みたいな大人になんてなりたくないぜ」
そうだなあ、大人になんてなりたくないよなあ。
僕は彼女の冗談を受け流すように笑って反復した。
***
日が沈む帰り道。
ゆっくりと時の流れが、アスファルトが赤に染まっていくその濃さで表現されていく時間、その赤の最後には暗くて青い夜がやってくる。
彼女は横で踊るように歌うように、弾む演奏のようにずっと僕に話しかけてくる。僕も、そうだなーとか、うんうんとか、頼りない連弾のようにリアクションを返していく。
ゆっくりとゆっくりとまるで舞台の幕が降りていくように太陽が地上に降りていく。それに連なって僕らの影も伸びていく。夕日は静止しているように、僕らの今のこの時間を凍りつかせる。でもその時間はやっぱり止まっていない、僕らの影が少しずつ、ほんの少し伸びていくにつれて時間は流れて、夜への距離はまた短くなっていく。
それから人通りの少ない学校からの通学路を離れて、また車や人の多い駅前に続く道の脇に入る前に僕は呼び止められた。
逆光を浴びた彼女のその瞳には少し大人びたように夜の影を纏っていて、その表情には遠い宇宙の果ての入り口が今このそばにあった。
その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯。
僕はポケットのなかの文庫本の言葉が頭に浮かんだ。
「奏、明後日の日曜日、時間ある?」
「あるけど?」
「大事なことを話したいの」
「今、ここじゃダメなのか?」
「うん、だめ。 陽菜といっしょに来て欲しいところがあるの」
「そっか、わかった」
「うん」
八月の直前の空は過去にあった悲しみや苦しみを何一つ覚えていないような溌剌とした青さだった。けれど、それは天上に存在するものだけに許された特権で足元の地上で夏の虫たちはこの地球で起きたことぜんぶ忘れられないみたいな鳴き声で叫んでいた。
テスト期間も終わり、一学期の最後の週の授業に僕はすっかりやる気を失ってしまい、午前も午後もこうして校舎の屋上でサボりがちになってしまった。七月三週目の屋上は熱さで灼けるようなコンクリートでとても座ってられないから、こうして影になる場所を探さないとやってられない。
教室の喧騒や日常が今の僕には疎ましかった。
だから僕はいまこうして退屈しのぎの文庫本を片手にぼんやり目を閉じる。
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午後になって結局僕は屋上にいるのも飽きて、一コマだけ授業に顔を出した。それでも僕は教室でやっぱり何にもやる気が起きなくて、ただぼーっと教壇の教師が口を開くのをぼんやり眺めていた。なにやら教師の口からは音が発せられているらしいが、それがどういうわけか聴こえなかった。
でも別にそんなことはどうでもよかった。テストも終わったんだし、いまさら聞いておくべき大事な話でもきっとないんだ。僕は教師が話す内容を勝手にそう決めつけて、ただパクパクと水中の魚か下手なオペラ歌手みたいになにごとか話し続ける無音の男の口元をじっと観察し続けた。
教室の前方からはクラスメイトたちが全自動で動くからくり人形か何かみたいに身体を捻って、プリントを回していく。僕も後ろから二番めの席だから、自動的に身体を回して後ろの席にそのプリントを回す。振り返ったときに窓側の斜め後ろに座る美月の姿が見えた。
回ってきた紙に書かれた文字を見て、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。そんなことで今日一日で久々に感情が微かに動いたのを感じた。
***
それから授業が終わって、教室の生徒たちは部活があるやつは部活に、もう三年で引退を終えたやつは早々に帰るか、予備校か塾に。そのいずれでもないやつも教室を出ていった。いずれにせよ教室に取り残されたのは僕だけだった。
窓の外から運動部の声を聞いているといつか転校してきた初日に案内された音楽室にいるような気持ちがしてきた。
ぼくは午後のホームルームで回された紙をぼうっと見つめた。進路希望調査票。その紙にはそんなふうに間抜けに未来が印字されていた。
僕はプリントをわざと粗雑に鞄にしまうと、ポケットから文庫本を取り出して退屈しのぎにその字面を追った。音楽を聴く気にもなれなかった。ただいまは自分の内側から響きも言葉も溢れてきて欲しくなくて、心と思考を言葉で埋めるのに本はちょうどよかった。
***
そうして18歳の放課後をずっと無為に教室で遊ばせていると、扉が開いて一人の少女がやってくる。僕はその扉の音に待ちくたびれていたのか、それとも恐れていたのかわからなかった。そう、どことなく怖いのかもしれない。
「お待たせしました〜」
少女が間延びした声で僕に声をかける。
「帰ろ」
僕は僕のなかの恐怖心をそっとしまい込むように文庫本をまたポケットに押し込めて、帰り支度をする。そのあいだに彼女はなんてことのない日常のように不満を漏らす。
「はあ、なんでテスト期間も終わって授業も短縮でほとんどないのに、むしろ補講はどんどん増えていくわけ。てゆうか、わたしっていま勉強とかさせられてもふつうに意味なくない? はあ、すべては無だわ」
僕は少女がそう口をへの字に曲げて不平を言うのを笑って受け止める。仕方ないだろ、学校だっていろいろ体裁とか手続き的なところとかいろいろあるんじゃないの。
「あーあ、大人の事情ってやつか。そんなシステマチックな壁みたいな大人になんてなりたくないぜ」
そうだなあ、大人になんてなりたくないよなあ。
僕は彼女の冗談を受け流すように笑って反復した。
***
日が沈む帰り道。
ゆっくりと時の流れが、アスファルトが赤に染まっていくその濃さで表現されていく時間、その赤の最後には暗くて青い夜がやってくる。
彼女は横で踊るように歌うように、弾む演奏のようにずっと僕に話しかけてくる。僕も、そうだなーとか、うんうんとか、頼りない連弾のようにリアクションを返していく。
ゆっくりとゆっくりとまるで舞台の幕が降りていくように太陽が地上に降りていく。それに連なって僕らの影も伸びていく。夕日は静止しているように、僕らの今のこの時間を凍りつかせる。でもその時間はやっぱり止まっていない、僕らの影が少しずつ、ほんの少し伸びていくにつれて時間は流れて、夜への距離はまた短くなっていく。
それから人通りの少ない学校からの通学路を離れて、また車や人の多い駅前に続く道の脇に入る前に僕は呼び止められた。
逆光を浴びた彼女のその瞳には少し大人びたように夜の影を纏っていて、その表情には遠い宇宙の果ての入り口が今このそばにあった。
その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯。
僕はポケットのなかの文庫本の言葉が頭に浮かんだ。
「奏、明後日の日曜日、時間ある?」
「あるけど?」
「大事なことを話したいの」
「今、ここじゃダメなのか?」
「うん、だめ。 陽菜といっしょに来て欲しいところがあるの」
「そっか、わかった」
「うん」