3.
 部屋に入ると美月は外を見ていた。
 僕はしばらくそっと外の景色に気を取られ続けている美月を見守った。
 今日は晴れていて、外は静かだった。
 窓は開けていないので風の音は聞こえなかった。
 僕はいつか母さんと過ごしたマンションの午後を思い出した。

「美月」
 僕は演奏前の静寂のなかでそっと一音を鳴らすように名前を呼んだ。そういえばあの日、彼女が病室で蘇ったときもこんなふうに彼女の名前を呼んだ気がする。
 美月は名前を呼ばれてようやく気がついたのか、こちらを振り返った。
「今日は晴れてるんだね」
「今日は?」
「うん、お母さんが死んだ日は雨だったから」
「ああ、そうなんだ」
 僕はてっきり、美月が春に心臓が止まった日のことを言っているのだと思っていた。
「運動会とか、遠足とか、楽しい日に決まって雨になる人は雨男とか雨女じゃない? じゃあ悲しい日にちゃんと雨になる人はなんていうのかな」

「逆雨女とか?」
「じゃあ、あたしが死ぬときにも雨が降ったら、それだ。逆雨女」
「まだ死ぬとは、決まってないだろ」
「いや、むしろ奏のほうなのかな。わたしが逆雨女じゃなくて、奏が逆雨男ってことになるのかな、うーむ」
「死ぬとは決まってないだろ!」
 最悪の出だし。
 演奏会ならこのあとの最後まで地獄の時間が決まるのが確定したような音だった。
 相手に怒りをみせれば、自分に怒りが返ってくる。そういうものだ。
 美月はぼくの言葉を飲み込むように怒鳴った。
「じゃあ今日までのことをどうしたらいいの! 奏のことぜんぶぜんぶ忘れればいいの? 記憶を失っても、生きてさえいればいい? 今日までの自分は失っても、また明日から自分を作って生きていけばいい? 勝手なこと言わないでよ! 奏はいないんでしょ? わたしの前からいなくなっちゃうんでしょ? 簡単に言わないでよ! わたしの人生から消えるなんて簡単に言わないでよ!」
 僕は美月を落ち着かせるために両腕で彼女を抱きしめた。
 美月の身体は震えていた。
 でも僕の腕も震えていた。
 身体が、全身に流れる血液が、神経が、心が、きっとそのどちらでもない二人のあいだにあるものがまるで張り詰めた弦のように震えていた。
「簡単に言えるわけないよ」
 僕の声も震えていた。
 僕は美月の震えを鎮めるために全力で強く抱きしめたつもりだった。
 でも僕の震えが伝わって、僕らの震えは結局大きなものになってしまった。
 それから美月はその震えが彼女の奥に伝わって、大きな、大きな声で泣き出した。
「ごめん」
 それはどちらが言った言葉だったろうか。
「死なないでよ、どこにもいかないでよ、どこにもいかないで僕のそばにいてよ」
 いつのまにか僕の視界も声も歪み切っていった。
「死にたくないよ、忘れたくないよ、わたしのことを忘れないでよ。わたしのことをずっと忘れずに一緒にいてよ」
「忘れないよ、だからずっとずっと一緒に生きようよ」
 答えになっていない。僕らに突きつけられた二択の答えになっていない矛盾した回答。
 けして弾くことのできない、けれど五線譜に書かれた楽譜。
「これからもそばにいようよ。ずっと」
 窓の七月の雲はぼんやりと僕らの病室に薄い影を送る。
 僕らは弱かった。
 神様のまえで、僕らはただ震える小さな楽器だった。
 震える弱さ、死への恐ろしさ、忘れていく切なさ、僕らはそれを受け入れる強さも乗り越える強さもなく、ただ僕らは弱く、それを見つめていまは一つの楽器として、せめてもの祈りとして、一番深い場所で、響かせるしかなかった。
 それ以外に僕らにできることはなかった。