余命後に蘇った彼女と僕の日々、あるいはその音楽について

7.
「生命は救われるけど、記憶は失われるってどういうことですか? 未来の記憶まで失われるって?」
 僕は何も言わずに俊明さんの説明を一方的に聞くだけだった美月に代わってついに耐えきれずに口を挟んでしまった。
 俊明さんは病室用のスツール椅子のうえに座りながら天井を仰いだ。
「これはそんなに難しい話じゃないさ。いいかい、美月の症状の型は、第三の症例と合致し、今回の脳波図測定で、扁桃体と海馬を中心とした記憶回路の異常発火が確認されたんだ。これまでのMRIやPET検査では、ニューロン群の微細な活動まで捉えられず、どの領域が異常を起こしているかは確定できなかった。しかし、今回の脳波測定で異常発火の起点とその活動の連鎖経路を追跡することができ、具体的な部位を特定できた」
 俊明さんは言った。
「美月の症例は今他の症例にこれまでなかったほど長期的なものとなっているがそのおかげで取れる可能性のあるアプローチが一つ浮上してきた。これまでの症例では、死の直前かあるいは死後解剖でしか、判断するしかなかった第六の波形のその出所がかなりの確度でわかっている。出所がわかり、その脳部位がオーバーヒートして異常活動を行っているとわかったなら、対処のしようがある」
「治せるんですか?」
「シンプルな話だ。異常な行動をしている脳の領域がある。それなら、その領域に働きかけその異常を取り去ってやればいい。方法は二つだ。外科的なアプローチか内科的なアプローチだ」
 俊明さんは指を一つ立てた。
「まず一つ目、外科的なアプローチだ。端的にいうと、これは手術だ。美月、この方法では君の脳にメスを入れ、特定のシナプスを切断したうえで、問題となっている脳の記憶領域を切り取る」
 脳の領域を切り取る、僕は医者ではないがそんなことして大丈夫なのだろうかとすぐに思った。俊明さんは僕らの疑問を察して答えた。
「もちろん、大丈夫じゃない。だが少なくとも生命維持そのものに問題はないはずだ。ただ脳内の記憶を担う箇所をそっく取り去ってしまうんだ。当然、君のこれまでの過去の記憶は失われるし、今後も何かを記憶するということは不可能になると思う。いってしまえば、壊れてしまった機械の特定の箇所を部品ごと取ってしまうんだ。当然、その機械からその機能は永久に失われる。だが生命は助かる。これはシンプルだが非常に強力で確実な方法だ」
 僕は俊明さんの説明に言葉を窮した。記憶とその機能を失って生きる、それがあり得ない選択肢なのか、生命と引き換えにして喪うべき代償なのか、それを本人に変わって判断できなかったからだ。
 みっともなく黙り込んでしまった僕に美月はとうとう口を開いた。
「でも、方法はもう一つあるんだよね。それは?」
 俊明さんは頷いた。
「もとよりわたしはこの一つ目の方法は選ぶつもりはない。脳の切除はあまりに大胆すぎる。それは成功すれば生命の維持の確率は高いが、そもそも手術の難易度もはっきり高い。この方法はリスクもデメリットも高い。ハイデメリットでなおかつ、ハイリスクなんだ。二つ目の方法があるなら、わざわざこの方法を選ぶ理由はない」
 俊明さんはもう一本立てる指を増やした。
「だから、二つ目の方法だ。内科的なアプローチだ。一つ目の方法が手術なら、こちらは薬、つまり投薬療法だ。もともとはとある精神病のために開発された薬がある。その精神病は、今の君の脳で起きているトラブルの場所と非常に近いところで起きていることが最近10年で証明されてきていて、もともとはその治療薬として研究開発が進められているものだ。この治療薬の成分を君の脳の記憶領域で働かす。そうすればほとんど手術をするのと変わらない効果を得ることができるだろう」
 手術するのと変わらないのなら、確かにこの二つ目の方法が良いのかもしれない。僕は話を聞きながら、俊明さんの説明の真意を図ろうとした。
「この方法では、君の脳の記憶領域の神経伝達の動きを消してしまう。細かい説明は省くが、この治療薬の成分は、記憶に関与する神経細胞の活動を永久的に消失させる働きを持つんだ。神経伝達物質の受容体をブロックして、興奮性ニューロンの過剰活動を完全に停止させることで、異常発火の回路を静止状態に持ち込む。……しかし、今の技術では、一度この治療薬で神経活動を消失させると、再び同じレベルでの記憶形成を行うことをできなくさせてしまう」
 俊明さんはここで初めて申し訳なさそうな表情を見せた。
「この化学的なアプローチはわたしの中心的な研究分野でもある。研究はまだ依然として課題を多く抱えていて完全なものではない。すまない。そう、だから、この薬で記憶領域の機能を停止させてしまえば、それを復活させる方法はない。残念だが、この投薬療法も手術と同じで不可逆的な治療なんだ」
「手術と変わらないってこと?」
「そうじゃないよ。わたしはそれでもこの二つ目のアプローチをとった方が良いと思っている。そもそも手術は非常に大胆な方法で、生命の維持はできるものの、身体的な後遺症や神経の損傷によって、認知機能全般に障害を残す可能性が高い。だがこの方法なら、そもそも失敗の確率が低くて確実だ。それに大幅に記憶領域を取り去ってしまう手術よりかはもう少し繊細に働きかけることができる。残念だけど、この投薬療法で君が記憶の多くを失うことは避けられない。けれど、手術と違ってこの方法なら、記憶を残す能力をまだほんの少しだけでも残すことができるんだ」
 それなら……、それなら手術ではなくて、投薬療法の方が確実にいい。論理的に考えて、デメリットもリスクも高い手術と、デメリットは高くともリスクはまだ比較的少ない薬の方がいい。
「わたしは手術と薬なら、確実に薬の方がいいと思う」
 俊明さんは僕が考えたことと同じようなことを美月に伝えた。
「お父さんがいう、生命の代わりに差し出すものって、これまでの記憶とこれからの記憶ってこと」
「そうだ。残念だが……、」
 俊明さんは徐々に後ろめたさを告白するように、説明を追加していく。
「残念だが、君の今日までの記憶の多くはいずれにせよ失われる。ここまで習得してきたピアノの能力などもおそらく失われるだろう。そして今後も弾くことはできない。君のピアノの能力はおそらく今回の異常脳波を出す脳部位と強い相関があるのだと思う。ピアノの演奏中に症例の初期症状が現れたのも今にして思えばそこには因果関係があったんだ。もし君が投薬後になお無理にピアノを弾こうとすると消去したはずの記憶領域の神経伝達の働きを蘇らせてしまうかもしれない。そしてそのときには再び異常脳波が予測不可能なかたちで再度現れるだろう」
「それだけ?」
 聡い美月は俊明さんの説明のトリックに気がついているようだった。 
「薬なら、記憶を残す能力を少しだけでも残せるんだよね。でも、じゃあその残せない記憶って何?」
 俊明さんはおそらく美月の症例につきっきりで疲れた顔をなんとか微笑ませた。
「そうだね、美月、ごめんね。最初からはっきりいうべきだったね。この薬の方法では、記憶を残す能力を少しだけでも残せる。逆にいうと記憶を残す能力のある部分が欠損する。それはつまり、将来にわたって、記憶できないものが発生するということなんだ」
 そうだ、それだけのはずがなかった。
 もし、それなら手術の説明なんかしなくても、最初から投薬療法の話だけをすればいい。僕だって本当は俊明さんの話を聞きながらわかっていた。
 つまり、手術の話は囮だ。
 少しでも、第二の方法をよく見せるための。
 嘘の苦手な俊明さんの精一杯の嘘にはならない嘘。
「それは?」
 美月は俊明さんに促すように再度尋ねた。
 おそらくその答えはピアノではない。
 僕もまた俊明さんの答えの前に考えた。だって、それはもう俊明さんの説明に登場している。そう、もう美月がいずれの方法でも生命を永らえようとするなら、ピアノが美月の人生から失われることが決まっている。
 だから、ピアノではない。そこにはなおもう一つ代償が求められている。
 俊明さんはその代償を説明した。
「君の情動がもっとも強く働くもの、いってしまえば記憶の作動にもっとも深く結びついている特定のものを記憶することができなくなる。おそらく、無理に”それ”を記憶しようとしたり、認識しようとすると消失させた記憶脳領域が再び活性化され再び第六の波形を出現させてしまうだろう。それは君が君自身の主観的世界で最も感情的に触れているものだ」
 俊明さんの問いかけは抽象的なものだった。
「君が一緒にいて、一番心が動く大切なものはなにかな?」
 美月にとってもっとも大事なもの、それを失うことこそが生命の代償に相応しいもの。
 僕は考えてみた。もし僕だったら?
 もし僕だったら、”それ”は何だろう?
 問うまでもない。答えははっきりしている。
 僕は僕の今日まで、そしてこれからにおいてもなんど問い自らにおいて答えてきた最も大切なものをこの目で見つめた。
 そして、それは美月も同じだった。
「どうしてこういうときに君と目が合っちゃうかな」
 僕たちは笑った。こんなときでも笑ってしまった。笑うしかなかった。
 僕たちは残酷に笑っていた。
1.
 俊明さんは最後に説明した。
 おそらく、それは最後の選択を美月がする前の医者として、そして父親として、大人の最後の誠実な役割として。でも僕には、それがどこか遠い、反響のない無響室で演奏される音楽みたいにひどくぼんやりと、どこか遠くで聴こえるようだった。
 美月、君にこの選択を迫るのは、君が症状を発症したときになんとなく予想していたよ。去年の春に入院が始まって、今年の退院のときまで脳波が主病巣をはっきりとさせて発生していなかったから、今日話したような治療アプローチはできなかった。だけど、おそらく症例の進行が末期になるに近づくにつれ、異常脳波がある閾値を越えるどこかのタイミングで今日の話はすることになっていたはずだ。でも、もうひとつ、やっぱりわたしは君にこの選択肢を提示するのが怖くて話すのを今日まで後ろにおいやってしまったことを認めるよ。投薬を行えば、君の生命は救われるだろう。けれど、その代わりに今日までの、そしてこのあとの君のもっとも大切な人との積み上げていくはずだった未来の記憶を失う。もちろん、薬を飲めば、だ。飲まなければ、君の過去の記憶も未来の記憶も失われることはない。そう、君は選ぶことができるんだよ。残酷で、本当に残酷な選択肢だけど君は選ぶことができる。生命か記憶か。美月、君はもうすぐ18歳だね。だから、自分でこの選択を選ばなくては。
2.
 俊明さんは全てを話しきると、いずれの治療をすることを選ぶのなら、おそらく早い方が良いと思うと最後に付け加えた。
 もはや症状の進行を完全に予測しきるのは不可能だから、いずれにしても早すぎるということはありえない、だから手術でも投薬療法を行うにしても、そしてあるいはそのいずれを選ばないにしても医師である自分に伝えてほしいと。
 俊明さんは、まだ子どもなのにこんな辛い選択を選ばせることになって申し訳ないとも、じっくり考えて決めなさいとも、なんともいわずただ黙って病室を出て行った。
 俊明さんが出て行ったあとも、僕も美月も陽菜も三人のうち、長いあいだ誰も口を開く人間はいなかった。
 それでも、ただ時間が過ぎて日が傾き始めると美月が僕と陽菜に部屋を出るように言った。
「ごめん、一人にさせてほしい」
 美月はただそう感情を伺わせない声で一言だけいうと、僕らのほうに顔を向けるのやめて、窓をみて僕らに意思表示をした。
 陽菜が僕の服の袖を引っ張って退室を促してきた。僕はなにもいわず陽菜と二人で病室を出て行った。
 それから僕と陽菜はいつか俊明さんと話したナースステーションの隣のプレイルームに腰かけた。プレイルームには以前にはなかった。子ども用入院患者のための積み木のような知育玩具のコーナーが隅に設置されていた。
「ここ最近さ、あたし、ずっと考えてたんだ」
 今は子ども患者はいないタイミングなのか、知育玩具のコーナーには誰もおらず積み木はただカーペットに散らかっているだけだった。陽菜はそんな様子を眺めながら行った。
「お姉ちゃんはどうして一回死んで、それでまた蘇ったのかな」
 僕は陽菜に言われて、今年の春に美月の心臓が一度停止したあの日のことを思い出した。あのとき陽菜はいなかった。
「お姉ちゃんの症状、お母さんの症例とおんなじだって、やっぱりそれは遺伝とかなのかな、でもどうしてそれはお姉ちゃんなのかな、どうしてわたしじゃなくてお姉ちゃんなんだろう」
 僕は隣に座る陽菜の表情をみた。
 俊明さんと美月は目がよく似ている。それからよく困ったように笑ったり、どちらかというと他人に対して受け身に立ってコミュニケーションをとる様子とか。
 陽菜はどうなんだろう。陽菜は美月とどこが似ているのだろう。僕はそんなことを考えた。
「もしこの世界の隣にたとえば並行世界みたいなものがあれば、その世界ではお姉ちゃんじゃなくて、あたしの方に症状が出ていたのかも。そうだったら、よかったのに」
 陽菜は自嘲気味に笑っていった。
 僕は陽菜の自嘲を少しでも取り去りたくてそんな言葉を返す。
「それいったら、美月はたぶん本気で怒るぞ。お姉ちゃんを怒らせたら怖いぞ」
「わかってるよ、だから、奏に言ってんじゃん」
 陽菜は僕の冗談めかした言い方を拾うように笑った。
「お姉ちゃんの心臓が止まったって外国で聞かされたとき、こっちの心臓まで一緒に止まりそうになった。どうしてあたしはいま海の向こうにいるんだって、どうしてお姉ちゃんの側にいないんだって」
 陽菜は最初ヨーロッパ渡航を確かに嫌がっていたし、一時は断念しようとしていた。けれども、それでも行こうとしていたのは、美月が妹に行くように頼んだからだ。
「でも、お姉ちゃんがもし自分だったら、そうだったら確かに自分のために将来のチャンスをふいにして欲しくない。それは確かに嫌だ。じゃあ、あたしはどうすればよかったのかな」
 美月はよく穏やかに笑う。
 陽菜はどうだろう。陽菜はどちらかというと、穏やかというより騒がしいやつだ。
 だから、二人の姉妹はもしかしたらあまり似ていないと人は言うのかもしれない。
「お母さんが死んだとき、誰も泣かなかったの」
 けれど、陽菜はそういって笑った。その笑いは僕の知っている人にとてもよく似た表情だった。
 「お母さんが死んで、わたしもお姉ちゃんもお父さんもどん底だった。そりゃ、めちゃくちゃ辛かったよ。でも私たち三人ともたぶんおんなじことを思ったの。他の二人も辛いだろうから、自分だけは泣いちゃダメだ。泣かないでおこうって」
 陽菜の声が歪んだ。泣かないように、涙を見せないようにしようとすれば、一層溢れてしまうものが僕たちにはある。僕たちの内側にあるそこから溢れてくるものはときに涙として、ときにはある一つの響きとして溢れてくる。
 僕の隣で鍵盤の音がした。
「どうして、お母さんもお姉ちゃんもあたしをおいていっちゃうの。どうしてしんどいめにあうのはあたしじゃなくて、あたし以外の人なの、あたし、もうお姉ちゃんが死んじゃうの嫌だ」
 二人はやっぱりよく似ている。なんだかんだで他人のことを考えてしまう。自分を押し殺して、他人の考えを優先してしまう気の弱さも、その優しさも二人のそれはとてもよく似ている。そしてそれがゆえの頑固さも。
「もしいま病気なのがあたしで、もしここに座っているのがお姉ちゃんなら、お姉ちゃんのあたしは、きっと記憶を失っても生きていてほしいと思う。それはいまこの場のあたしだって絶対にそう。お姉ちゃんには死んで欲しくない」
 もし違う世界だったらという他愛もない想像の唯一変更できない二人の姉妹の一致点。
「奏、お姉ちゃんがやばくなったときに隣りにいてくれたのはあんただった。それは本当に感謝してる。もしかしたら隣りに奏がいたからお姉ちゃんは戻ってきてくれたのかもしれない。あのとき隣りにいたのはあたしじゃないんだ」
 僕は何も言わなかった。
「きっとお姉ちゃんが薬を飲んで、これから一緒にいれなくなるのは奏だ。奏もそれはわかってるよね。お姉ちゃんにとって一番大切なもの、それは奏だよ、あたしじゃない。悔しいけど、でもそれはあたしはもう認めている」
 陽菜は意志のこもった目でこちらを見つめてきた。結局その瞳もやっぱり美月によく似ている。
「だから、今回の件でお姉ちゃんと話す権利はあんたにあると思う。そりゃ最終的にきめる権利はお姉ちゃんにあるよ。でもあんたは自分の気持ちを、思いを、あんた自身の願いをお姉ちゃんに伝える権利はあると思う」
 もし、もし、もし。もし、あのときのあの人が自分だったら、もしあのときの自分があの人だったら。自分がそんな状況だったら、あの人が自分の立場だったら、人はそんなことをときおり考える。考えても、その問いの答えはいつもわからない。
 でも考える。そう人が問うことにはどんな意味があるんだろう。それはただの後悔や迷いだけなのだろうか。そこに人がそう問うてしまうことに意味など本当にないのだろうか。
 たとえそんな想像が現実に何の意味を持たないとしても、ただ、いま、この場の、この世界にいる僕らにとって現実が圧倒的にただ確実に何か一つを選ばせてこようとするのだとしても。それに絶対に抵抗できないのだとしても。
「陽菜、ありがとう」
 僕は、僕と美月にとって数歳歳下の少女にお礼を言った。妹キャラなんかじゃなくて、一人の僕らの人生に登場するかけがないの一人の友人として。この世界のかけがえのない存在として、僕は彼女の瞳を見つめ返した。
 少女はやがて涙を拭うと、僕に笑っていった。
「奏、お姉ちゃんの部屋に戻ってあげて、それから二人で話してみて、それがどんな選択でも、間違ってないってこの妹様が世界に向かって保証してあげるから」

3.
 部屋に入ると美月は外を見ていた。
 僕はしばらくそっと外の景色に気を取られ続けている美月を見守った。
 今日は晴れていて、外は静かだった。
 窓は開けていないので風の音は聞こえなかった。
 僕はいつか母さんと過ごしたマンションの午後を思い出した。

「美月」
 僕は演奏前の静寂のなかでそっと一音を鳴らすように名前を呼んだ。そういえばあの日、彼女が病室で蘇ったときもこんなふうに彼女の名前を呼んだ気がする。
 美月は名前を呼ばれてようやく気がついたのか、こちらを振り返った。
「今日は晴れてるんだね」
「今日は?」
「うん、お母さんが死んだ日は雨だったから」
「ああ、そうなんだ」
 僕はてっきり、美月が春に心臓が止まった日のことを言っているのだと思っていた。
「運動会とか、遠足とか、楽しい日に決まって雨になる人は雨男とか雨女じゃない? じゃあ悲しい日にちゃんと雨になる人はなんていうのかな」

「逆雨女とか?」
「じゃあ、あたしが死ぬときにも雨が降ったら、それだ。逆雨女」
「まだ死ぬとは、決まってないだろ」
「いや、むしろ奏のほうなのかな。わたしが逆雨女じゃなくて、奏が逆雨男ってことになるのかな、うーむ」
「死ぬとは決まってないだろ!」
 最悪の出だし。
 演奏会ならこのあとの最後まで地獄の時間が決まるのが確定したような音だった。
 相手に怒りをみせれば、自分に怒りが返ってくる。そういうものだ。
 美月はぼくの言葉を飲み込むように怒鳴った。
「じゃあ今日までのことをどうしたらいいの! 奏のことぜんぶぜんぶ忘れればいいの? 記憶を失っても、生きてさえいればいい? 今日までの自分は失っても、また明日から自分を作って生きていけばいい? 勝手なこと言わないでよ! 奏はいないんでしょ? わたしの前からいなくなっちゃうんでしょ? 簡単に言わないでよ! わたしの人生から消えるなんて簡単に言わないでよ!」
 僕は美月を落ち着かせるために両腕で彼女を抱きしめた。
 美月の身体は震えていた。
 でも僕の腕も震えていた。
 身体が、全身に流れる血液が、神経が、心が、きっとそのどちらでもない二人のあいだにあるものがまるで張り詰めた弦のように震えていた。
「簡単に言えるわけないよ」
 僕の声も震えていた。
 僕は美月の震えを鎮めるために全力で強く抱きしめたつもりだった。
 でも僕の震えが伝わって、僕らの震えは結局大きなものになってしまった。
 それから美月はその震えが彼女の奥に伝わって、大きな、大きな声で泣き出した。
「ごめん」
 それはどちらが言った言葉だったろうか。
「死なないでよ、どこにもいかないでよ、どこにもいかないで僕のそばにいてよ」
 いつのまにか僕の視界も声も歪み切っていった。
「死にたくないよ、忘れたくないよ、わたしのことを忘れないでよ。わたしのことをずっと忘れずに一緒にいてよ」
「忘れないよ、だからずっとずっと一緒に生きようよ」
 答えになっていない。僕らに突きつけられた二択の答えになっていない矛盾した回答。
 けして弾くことのできない、けれど五線譜に書かれた楽譜。
「これからもそばにいようよ。ずっと」
 窓の七月の雲はぼんやりと僕らの病室に薄い影を送る。
 僕らは弱かった。
 神様のまえで、僕らはただ震える小さな楽器だった。
 震える弱さ、死への恐ろしさ、忘れていく切なさ、僕らはそれを受け入れる強さも乗り越える強さもなく、ただ僕らは弱く、それを見つめていまは一つの楽器として、せめてもの祈りとして、一番深い場所で、響かせるしかなかった。
 それ以外に僕らにできることはなかった。
4.
 八月の直前の空は過去にあった悲しみや苦しみを何一つ覚えていないような溌剌とした青さだった。けれど、それは天上に存在するものだけに許された特権で足元の地上で夏の虫たちはこの地球で起きたことぜんぶ忘れられないみたいな鳴き声で叫んでいた。
 テスト期間も終わり、一学期の最後の週の授業に僕はすっかりやる気を失ってしまい、午前も午後もこうして校舎の屋上でサボりがちになってしまった。七月三週目の屋上は熱さで灼けるようなコンクリートでとても座ってられないから、こうして影になる場所を探さないとやってられない。
 教室の喧騒や日常が今の僕には疎ましかった。
 だから僕はいまこうして退屈しのぎの文庫本を片手にぼんやり目を閉じる。

                 ***


 午後になって結局僕は屋上にいるのも飽きて、一コマだけ授業に顔を出した。それでも僕は教室でやっぱり何にもやる気が起きなくて、ただぼーっと教壇の教師が口を開くのをぼんやり眺めていた。なにやら教師の口からは音が発せられているらしいが、それがどういうわけか聴こえなかった。
 でも別にそんなことはどうでもよかった。テストも終わったんだし、いまさら聞いておくべき大事な話でもきっとないんだ。僕は教師が話す内容を勝手にそう決めつけて、ただパクパクと水中の魚か下手なオペラ歌手みたいになにごとか話し続ける無音の男の口元をじっと観察し続けた。
 教室の前方からはクラスメイトたちが全自動で動くからくり人形か何かみたいに身体を捻って、プリントを回していく。僕も後ろから二番めの席だから、自動的に身体を回して後ろの席にそのプリントを回す。振り返ったときに窓側の斜め後ろに座る美月の姿が見えた。
 回ってきた紙に書かれた文字を見て、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。そんなことで今日一日で久々に感情が微かに動いたのを感じた。

                 ***

 それから授業が終わって、教室の生徒たちは部活があるやつは部活に、もう三年で引退を終えたやつは早々に帰るか、予備校か塾に。そのいずれでもないやつも教室を出ていった。いずれにせよ教室に取り残されたのは僕だけだった。
 窓の外から運動部の声を聞いているといつか転校してきた初日に案内された音楽室にいるような気持ちがしてきた。
 ぼくは午後のホームルームで回された紙をぼうっと見つめた。進路希望調査票。その紙にはそんなふうに間抜けに未来が印字されていた。
 僕はプリントをわざと粗雑に鞄にしまうと、ポケットから文庫本を取り出して退屈しのぎにその字面を追った。音楽を聴く気にもなれなかった。ただいまは自分の内側から響きも言葉も溢れてきて欲しくなくて、心と思考を言葉で埋めるのに本はちょうどよかった。

                 ***
 
 そうして18歳の放課後をずっと無為に教室で遊ばせていると、扉が開いて一人の少女がやってくる。僕はその扉の音に待ちくたびれていたのか、それとも恐れていたのかわからなかった。そう、どことなく怖いのかもしれない。
「お待たせしました〜」
 少女が間延びした声で僕に声をかける。
「帰ろ」
 僕は僕のなかの恐怖心をそっとしまい込むように文庫本をまたポケットに押し込めて、帰り支度をする。そのあいだに彼女はなんてことのない日常のように不満を漏らす。
「はあ、なんでテスト期間も終わって授業も短縮でほとんどないのに、むしろ補講はどんどん増えていくわけ。てゆうか、わたしっていま勉強とかさせられてもふつうに意味なくない? はあ、すべては無だわ」
 僕は少女がそう口をへの字に曲げて不平を言うのを笑って受け止める。仕方ないだろ、学校だっていろいろ体裁とか手続き的なところとかいろいろあるんじゃないの。
「あーあ、大人の事情ってやつか。そんなシステマチックな壁みたいな大人になんてなりたくないぜ」
 そうだなあ、大人になんてなりたくないよなあ。
 僕は彼女の冗談を受け流すように笑って反復した。
 

                ***

 日が沈む帰り道。
 ゆっくりと時の流れが、アスファルトが赤に染まっていくその濃さで表現されていく時間、その赤の最後には暗くて青い夜がやってくる。
 彼女は横で踊るように歌うように、弾む演奏のようにずっと僕に話しかけてくる。僕も、そうだなーとか、うんうんとか、頼りない連弾のようにリアクションを返していく。
 ゆっくりとゆっくりとまるで舞台の幕が降りていくように太陽が地上に降りていく。それに連なって僕らの影も伸びていく。夕日は静止しているように、僕らの今のこの時間を凍りつかせる。でもその時間はやっぱり止まっていない、僕らの影が少しずつ、ほんの少し伸びていくにつれて時間は流れて、夜への距離はまた短くなっていく。
 それから人通りの少ない学校からの通学路を離れて、また車や人の多い駅前に続く道の脇に入る前に僕は呼び止められた。
 逆光を浴びた彼女のその瞳には少し大人びたように夜の影を纏っていて、その表情には遠い宇宙の果ての入り口が今このそばにあった。
 その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯。
 僕はポケットのなかの文庫本の言葉が頭に浮かんだ。
「奏、明後日の日曜日、時間ある?」
「あるけど?」
「大事なことを話したいの」
「今、ここじゃダメなのか?」
「うん、だめ。 陽菜といっしょに来て欲しいところがあるの」
「そっか、わかった」
「うん」
5.
 揺れる休日のバスが小刻みにリズムを刻んでいく。
 特急が止まるターミナル駅から電車は各駅に切り替わりそこからさらに七八駅くらい乗り過ごした駅だっただろうか。
 街中の喧騒はすっかりとどこかの地点で消え去って、僕ら三人はあっというまに非日常的な夏の田舎道や田んぼ道がよく似合う土地に運ばれた。
 
 電車を降りると次にバスに乗った。
 ちょうど電車が来る時間と合わせてバスは来たが、さりげなく乗る前に時刻表をみると、一本逃がすとつぎは五十分ほど先で、一日の本数も限られているようだった。
 バスのなかでは、誰も話さず静かな時間が続いた。
 バスは街の中心の果ての郊外のさらに果ての土地で夏の緑のあいだを抜けていった。
 それから目的の停留所に到着の二十分前くらいだったろうか、ようやく陽菜が僕らの空気を変えるように話した。
「お母さんもなんでこんな遠いところにしたんだろうね。いちいち毎回来るのが大変ったらないよね」
 美月は陽菜の言葉を受けて返した。
「あれじゃない? あんまりすぐ来れるようなところだと、陽菜がしょっちゅう来ちゃうから、やっぱりわざと遠いところにしたんでしょ」
「えー、どっちかというと、お姉ちゃんでしょ、それ」
 僕は休日に姉妹のじゃれあいを聞いていると、少しだけここ何日かの緊張が緩んだ気がして、朝が早かったこともありバスの揺れにそのまま身を委ねそうになった。
 僕は兄とこんな他愛もないやりとりをした時間は一度でもあったろうか。
 甘ったるいような眠気の感覚は、いつのまにか僕の無意識に問いかけていた。
 僕と兄でこんな会話をした記憶はない。ないけれど、もしかしたら記憶にもない小さい頃なら一度くらいあるのかもしれない。僕はなぜかそんなことを思った。記憶にはなくとも、そんなことが。
 どんなに忘れていたって、最後には本当の意味ではなにも忘れることはできない。
 そういえば、いつか美月がそんな言葉を言っていた気がする。でも、それは美月の言葉ではなくて誰の言葉だったっけ。
 僕はうつらうつらとバスと一緒に協奏曲を奏でながら、思い出そうとしていた。
 けれど、バスの停止ボタンが押されて、僕たちの協奏曲と追憶はそこで唐突なフェルマータに入った。
「奏、そろそろ着くから起きないとダメだよ」
 美月の声が閉じられた瞼と耳に割って入って聞こえた。


                   ***

 バスが止まったのは山道の入り口の駐車場だった。
 そこから数分歩くと山道の入り口の看板が立っていた。美月によれば、ここから歩き始めて十五分かからないくらいとのことだった。
 最後、結構歩くよと美月に事前に言われていた意味が僕はようやくわかった。できるだけ涼しい格好がいいよと言われて薄手のシャツを一枚重ねただけにしていたので電車やバスのなかは少し肌寒かったが、外を歩いた途端、夏の日差しは木々の葉の隙間からでも暴力的に熱く、みるみる服に汗を染み込ませていった。
 美月は半袖のブラウスにデニムのショートパンツで、陽菜は白のシャツとサロペットのようなものを着ていた。二人とも見知った道らしく山道を迷わずに登っていった。
 とはいえ美月は訪れるのが久々だったようで、加えて暑さも受けて少し登るのが辛そうだった。
「大丈夫か?」
 僕は先頭を歩く陽菜をしんがりとして後ろから声をかけた。
「大丈夫……、じゃない! ちょっと休憩!」
 美月はそう言って立ち止まるとカバンから駅のコンビニで買っておいたペットボトルを開けて勢いよく飲んだ。
 夏の日差しをうけて、喉元を上下してただ水を飲む美月の姿に僕はなぜか少し気恥ずかしい気がして目を逸らした。美月と初めて会った中学のときから同じ高校に入って今日までに美月はそのぶん大人になっていた。
 あたりまえのことだけど、僕たちの慌ただしく少し通常とは違う高校生活のなかでそんな当たり前のことに気がつくのを僕は忘れていた。山の虫たちは僕たちをけたたましくなにかにせきたてていた。
「水、欲しいの?」
 美月が飲み終わるとこちらにボトルを渡そうとしてきたが、僕は自分のがあるからいいよと断った。

                   ***

 それから僕らは半袖で時折触れる木々の葉っぱや寄りつく羽虫たちをものともせずに進む陽菜になんとかついていって山道を登り切った。
「こんな遠かったっけ?」
 陽菜も最後の方には流石に疲れたようで、最後の階段道で少し弱音をみせたが、すぐに到着を後ろの僕らに伝えた。
「着いた!」
 僕と美月が二人で陽菜に追いつくと、目の前に背の高い木々に囲まれた木材とコンクリートが合わさった教会が現れた。
「わたしとお父さんは去年の春前に来てるから半年ぶりだけど、お姉ちゃんは二年以上前?」
「あー、そうかも。入院前に来たのが最後だから、なんかわりと最近も来た感じあるんだけど、もうそんな経ったんだね」
 僕は二人の会話を隣りで聞きながら、教会の外観を観察した。
 建物は小ぶりで一階建ての一軒家よりは確実に大きいが二階建てとまではいえなさそうな大きさだった。山道のなかにポツンと立っている姿は屋根に十字架が掲げられていなければ、もしかしたらちょっとしたコテージか、あるいは小洒落た喫茶店と勘違いしてしまうかもしれなかった。
 陽菜が様子見とばかりに教会に近づいて、そっと扉を開ける後ろをついて僕らは建物の中に入った。
 一足その聖域に足を踏み込めばひんやりとした空気が肌に触れて、外界との差を一瞬で感じた。アナクロな雰囲気とは裏腹にどこかで空調が作動しているのだろう。しかし音は一切せずに静まりかえっていて、騒がしくすることは自然と憚られる雰囲気があった。
 ただそれも強圧的なものではなく、場の雰囲気が心地よく自らを敬虔とさせているがゆえで、緊張感は感じつつもけして不快なものではなかった。
 礼拝者は自分たち以外にはいないようで、教会特有の木製の椅子には腰掛ける人は誰もいなかった。祭壇の奥からは小さいながらステンドグラスの窓が二つあって、左右両方から室内へ虹の光りが差し込んでた。

 自然と惹かれるように祭壇のほうに歩もうとすると、祭壇脇から礼服姿の男がでてきた。僕は入ってきたことを咎められるかと身構えたが、すぐに陽菜と美月がご無沙汰してますと頭を下げた。
「こちらこそご無沙汰しています。美月さんはいらっしゃるのはいつ以来でしたでしょうか?」
 神父は両手を前に組み合わせて話しかけてきた。
「ちょうどその話をさっきしてました。多分最後に来たのは入院する前だから二年くらい前だと思います」
 神父はどうやら美月の事情について知っていそうだった。
 僕は神父がそのまま美月の体調や近況なんかについて尋ねるかと緊張した。しかし神父はそちらに話題を振らず、「お父さんは今日はいらっしゃらないのですか」と美月に尋ねた。
「はい、父からはくれぐれもよろしくとのことでした。今日は日曜日ですが、仕事の都合がつかなかったみたいで、でもまた母の命日には必ず伺うと伝えておいて欲しいとのことでした」
 陽菜が珍しくよそ行きの口調で神父に答えた。
「そうですか。ご健康ならなによりです。それでは良い祈りの時間としてください。皆さまに神のご加護があらんことを」
 そういって、神父はまた祭壇の脇から部屋に戻った。
 神父が退室したあと、陽菜が説明した。
「神父さんはお母さんとお父さんのちょっとした知り合いなの」
「へえ」
 なんだかすっかり神父の雰囲気に飲まれてしまった感じのある僕に美月は神様の前で隠すように笑った。
「奏ってこういう場所苦手? ちょっと緊張してるでしょ」
 僕は目を逸らして、美月の問いかけを誤魔化した。
「求めよ、さらば与えられん、だね」
「また適当なこといって、バチが当たるよ」
「神様は美月様より寛大な心をお持ちなのです」
 僕は美月の言葉に冗談で返しつつも、自分のいった聖句を頭のなかで反芻せずにはおれなかった。
 求めよ、さらば与えられん、か。
 僕たちは何を求めて、そして何を与えられたのだろうか。
「あ、奏が真面目な顔している。神の恩寵はこんな人にまで、偉大だなあ」
「それで今日はここに祈りに来たってこと?」
 僕は真面目腐った顔を見られた気恥ずかしさを誤魔化すように言った。
「それもあるけど、ここにはアレがあるからね」
 美月が陽菜に目線を送った。陽菜は「ああ、アレね」と頷いた。
「アレって?」
「ピアノ。ここの教会、お母さんがよく仕事で行き詰まったりしたらよく来てたの。悩める作曲家が神にも縋りに来たっていう感じなのかな」
 そういえば、と僕は思い出した。
 美月の母親はキャリアの後半では宗教的な調べに近づいていったという批評を読んだことがある。僕はその批評を読んだとき事情を知らないのでとくに気にも留めていなかったが、そこにはこの場で作曲家として曲へのインスピレーションを得ていたという事情もあったのかもしれない。
「休みの日になるとさ、お母さんが私たちを連れてきて、外で遊ばせているあいだにここでよく曲を作ってたの」
 美月は祭壇の隣りにあるピアノを愛おしそうに触れた。
 そのピアノは古そうな型だったが、それでもきちんと艶を失われずに丁寧に扱われていることが伺われた。きっとさっきの神父が粗末にせずに、大切に扱っているのだろう。美月が鍵盤を軽く触れて音を出しても調律もしっかりなされており、現役として使用されているようだった。
「教会って、パイプオルガンとかじゃなくてピアノのところもあるんだ」
「ここの教会は由緒は古いんだけど、建物自体はここ十数年くらいのあいだで建て直ししてるから結構新しいんだ。建て直すまえはちょっとしたパイプオルガンがあったらしいんだけど、建て替えのときにどうしてもお金が足りなくて残せなかったんだって、でも神父さんがツテを辿ってこのピアノを代わりに置いたの」
 僕の感想に陽菜がそんなふうに答えた。それから美月が引き取るように続けた。
「今日はね、このピアノを弾きたくてきたの」
「大丈夫なのか?」
「確かに古そうだけど、調律はしっかりしてるし……」
 美月が言ったのを遮って僕は言った。
「そうじゃなくて……」
 美月の症状はピアノを弾く能力と相関していると俊明さんは言っていた。僕は美月がピアノを弾くことがなにかのトリガーにならないか心配だった。美月は僕のいわんとせんとしていることを理解したらしくて、応えた。
「一曲くらいなら、きっと大丈夫。それに最後だから」
 僕は美月がピアノを愛おしそうに撫でるその指先を見つめた。
 最後。美月はただ一言そういったのだ。
「そっか。わかった」
 それじゃあ、お二人とも審査員をよろしく、演奏後に拍手はいらないからね。
 美月はそういって笑ってピアノの前に厳かな儀式のように、なんてことのないように座った。
 そっと鍵盤に彼女の指先が触れる瞬間、僕は緊張とともに一瞬この場所にいる誰かが僕らを見守っているような気がした。その手がほんの少しだけ震えたように思うと、美月はそっと目を閉じてゆっくりと最初の一音を弾いた。
 祭壇の十字架が着席した僕らを黙って見下ろしていた。

                     ***

 

 鍵盤によって持ち上げられたハンマーがそっと弦に降りて、その音は響く。
 それからゆっくりと天使が舞い降りる。
 柔らかく、優しく、穏やかで緩やかなパッセージ。
 怒りも悲しみもない。
 ただ静かで平穏なこの幸福な時間を祈る響き。
 今日の彼女との日々に。
 今日までの彼女の日々に。
 そして今日からの彼女の日々に。
 たとえ、それがどんなものであっても。
 起きたこと全てを認めて、全てを受け入れるような喜びにただ頭をたれるような。
 どんな日も、たとえどんなに辛い日々でも。
 全てが誰かから渡された大切な願いだって。
 そう信じるための、そう信じさせられる、そう祈る、そんな響きだった。
 僕は前にもこの曲を聴いたことがあった。
 美月が退院した日に陽菜がショッピングモールのストリートピアノで弾いた曲だ。たった数ヶ月前のことなのに随分と昔のことのように感じられる。
 でも、僕は覚えていた。そうだ、美月は確かこんなことを言っていた。
──ねえ、奏、この曲、きいたことないでしょ?
 僕はあの日もこんなふうに陽菜の演奏を見ながら隣で囁く美月の声を聴いていた。

──この曲はね、ママがちっちゃいときに私たちのために作ってくれた曲なんだよ。
 僕は頷く。
──この曲のタイトルはね、『与えられた幸いの日々』
──まんまだな。
 僕は言った。でも美月は満足そうに陽菜の演奏を聴きながら言った。
──でも、良い題だと思う、わたしは。
6.
 美月が演奏を終えると僕たちは教会を出て、外を歩いた。
 僕たちは黙ったまま、ただたんたんと敬虔な墓石が連なるあいだの道を一歩一歩歩いていく。教会に着くまでは汗が止まらないほどの暑さだった気温も午後のピークを過ぎると地上よりもわずかに標高の高いこの場所の風で落ち着きを見せたようだった。
 それから前を歩く美月と陽菜が歩みを止めると僕は目的地に到着したことを理解した。目の前の黒い御影石のかたちはシンプルでやや傾斜のついた真四角の墓石が夏の午後の光りを受けていた。
 藤咲望美。その墓石にはアルファベットでそう刻まれていた。美月と陽菜の母親の名前だった。
 陽菜が持ってきた鞄から献花を取り出すと墓石の前にそっと置いて離れた。
「久しぶり、ママ」
 美月は黒の御影石にそう語りかけた。その石の艶めきは僕にはどことなくピアノのそれを思わせた。僕は二人が目を閉じて手を合わせるのを見ると、みようみまねで手を合わせて目を閉じた。
 静かな夏の時間だった。
 ただ虫たちが背後の茂みで鳴きわめくなかで一瞬葉を揺らす風の音がした。
 僕は美月の母親に会ったことはない。
 けれどその風の音を聴いて、なんとなく美月と同じような笑い方をするような人だったんじゃないかと思った。
 美月は祈りの時間を終えると、閉じていた目を開けて一歩だけ進んで、僕らより墓石のほうに近づいた。
「今日は二人とも遠いところに連れてきちゃって、ごめんね。でも、どうしても二人とここに来たかったの、最後にさ」
 美月はそっと慎重に付け足すように言った。
「奏、これ」
 美月はそういって、鞄から一冊ノートを取り出した。僕は黙って、受け取った。一ページだけ捲るとなかに引かれた五線紙のうえに手書きでいくつもの音符と休符が描かれていた。ピアニストならそれだけでここに何が書かれているかわかる。これは楽譜だ、それもピアノのための。一ページ目のうえには曲のタイトルが書かれている。
 僕はノートから視線を上げて再び美月の表情に視線を戻した。
「これは……」
「奏に持っていてほしい」
 美月の目はまっすぐでそこにはいつもの冗談もいつもの笑った表情もなかった。でもそれは悲しみや嘆いているわけでもなかった。
 ただ美月はこちらをまっすぐと見つめていた。
 こんな表情もするんだな。
 僕はそんなことを思うとなぜか涙が溢れて止まらなくなるのを感じた。まだ彼女が涙を流していないのに、先に泣くべきではないとわかっているのに、それでもこれから美月がいうことが僕にはわかって、どうしても涙が止まらなかった。
「ごめん」
「大丈夫、謝らないで」
 責めるわけでもなく、咎めるわけでもなく美月は穏やかに言った。
「奏、あのね。わからないけど、たぶん、ママも今のわたしとおんなじ状況だったんだと思う。自分の生命か、それとも大切な人のこれまでの記憶と未来の記憶その二つのどちらか選ばないといけない状況だったんだと思う」
 美月の声がどこか遠くから響いているような気がした。目の前にいるのに、でも真剣に一音たりとも逃さずに聴かなければダメだと僕は目を閉じなかった。
「ママがここにいるってことは、ママは選ばなかったんだ、ううん、違うよね、ママも選んだんだ。ママは大切な人たちとの記憶を失うより、大切な人との未来を失うよりも、それを自分の命よりも抱えて、そういう人生にしようって選んだんだ」
 隣で嗚咽が聴こえる、陽菜も堪えきれずに泣いていた。陽菜は手で涙を拭うこともせず、ただ両手の拳をぎゅっと握り込めていた。

「ママの選択は娘のわたしにとってはちょっと残酷だったかな。わたしはママが記憶を失っても、わたしたちと生きていてほしかった。でももしかしたら、それも一つの残酷な選択なのかもしれない。ごめんね、奏、結局どっちを選んでもあなたには残酷な選択になっちゃうね、それはわかってるんだ」
 美月の声が掠れてくる。それでも美月は俯かずにまっすぐとこちらを見つめている。僕も決して目を逸らさない。逸らすもんか。

「でも、わたしが言えるのはわたしの選択はママと違うってこと。わたしはママと違う。わたしは生き続ける。わたしはわたしの道を選ぶよ。ごめんね、奏、本当にごめんね、あなたと本当にこの先も生きていきたかった、本当に本当に生きていきたかった。ごめんね、本当にごめんね」
 僕らはすでに涙を堪えることする諦めていた。
「僕も美月と生きていたいよ」
 だから、どこにもいかないでほしい。僕のことを忘れないでほしい。でも、それだけは言わなかった。それが僕にできることだから。それだけが僕が彼女にしてあげられることだから。それが僕の彼女についての選択だから。
 僕にとっての、彼女にとっての選択だから。
「奏と一緒にいたい。この先も、この先も、ずっとずっとずっと一緒にいたい。あなたのことを忘れたくない。ずっとずっとこれまでのことをこれからのことどんな些細なことも楽しいことも嬉しいことも、辛いことも悲しいことも、腹が立つことも、なんでもないこともぜんぶぜんぶあなたとの思い出を忘れたくない。それがわたしの今日までの人生で、そしてこれからの人生であってほしいから。だからわたし忘れたくない。あなたのこと忘れたくない」
「うん」
「でも、だからわたしは生きなくちゃいけないの。あなたのことが大切だから、あなたとの今日までをほんとうにほんとうに大事にしたいから、本当に本当に大事なものだと思うから、だから、あなたとわたしのために、あなたのことを忘れても、これからの人生が同じじゃなくても、あなたと生きるために、あなたのいない人生を選んで、精一杯生きないといけないの」
 うん、大丈夫、わかってるよ。
 僕の言葉は涙で声になっていなかった。
 美月にはどんなふうに聞こえたろう。
「ありがとう、わたしはあなたのことが大好きだった。ほんとうにほんとうに大好きだったよ、そしてこれからもずっとずっとあなたのことが大好きだよ、どうかそのことを忘れないで、わがままかもしれない、ずるいかもしれない、でもやっぱり忘れないで、わたしのことを忘れないで、この言葉が嘘偽りのないあなたへの誠実なわたしのことばだから、だからどうかお願い」
「ありがとう、僕も美月のことが大好きだったよ、心の底から大好きだったよ、これからもずっとずっと、偽りなく、僕は君を忘れないよ」
 それから僕たちは彼女の母親の墓の前で泣き続けた。どれくらいの時間泣き続けたのかわからない。どれくらいの時間が経ったのかわからない。もしかしたら、それは一瞬だったのかもしれない。それはとてもとても長い時間だったのかもしれない。でも僕たちは泣き続けた。
 最後にようやく僕たちは涙を全て枯れさせると、最後に、この演奏の最後に美月はいつものように泣き腫らした目で笑っていった。
「忘れても良いよって言おうと思ってたのに、失敗しちゃった」
 僕も同じような顔で笑った。
 僕も同じことを考えていたからだ。
 
7.
 それから次の日。その日は一学期最後の日だった。
 僕たちは学校を休んで俊明さんのところへ行った。それから僕と美月は二人で、僕らの選択を俊明さんに伝えた。
 俊明さんは僕らの言葉を聞くと、ただ黙ってしばらく物思いに耽った。
 それから、机のうえに一錠の薬をおいた。
「美月、君の、いや君たちの選択はわかった。理解するよ。では、この薬を……、これが君たちの選択の答えだよ」
 その小さな錠剤は決断というにはあまりにも頼りなくて、まるで子どものお菓子のようにぼんやりとちっぽけで些細なものだった。でも、美月はそれを摘み上げると、指先で少しだけ光にすかして、それから大事にピルケースにしまった。
 俊明さんはその所作を見届けると言った。
「その薬を飲むのはどんなタイミングでも良いよ。今じゃなくても、このあとでも、もう少し先でも、そのタイミングは君たちに委ねるよ」
 僕は俊明さんに尋ねた。
「いいんですか? 病院にいるときに飲まなくても大丈夫なんですか?」
 なんだかこの後に及んでそんなことを気にしている自分がすこし間抜けな気がして僕は自分で自分を笑ってしまいそうになった。けれど、俊明さんは真面目な医師の顔で言った。
「まあ正直にいうと、そうだ。はっきりいってそれは風邪薬とか咳止めとかそんな半端な薬じゃないから、きちんと医師と看護師がいて、万全の体制で見守りながらのんでほしい。というか、もちろんそれでもいい」
 そして次に俊明さんは父の顔で言った。
「でも、そうじゃなくてもいい。その薬を飲むタイミングは君たちに任せる。美月、君のこれからの新しい人生を始める最良のタイミングと場所は君自身が決めたら良い」
「大丈夫なの、お父さん、それあとでお父さんが怒られたりしないの?」
 俊明さんは相変わらず父の表情のままだった。
「怒られるどころか、たぶん、バレたらもっとめんどうなことになる。でもいいよ、君たちが好きなタイミングでその薬を飲んでも、絶対にわたしがなんとか対応してやるよ。なにがあっても、わたしが後始末をつける。だからめんどくさいあほくさいことは考えるな、君たちは君たちのことを考えろ、それが大人になる君たちへできるわたしの最後の仕事だ」
 僕はなかばやけっぱりにすらなっているような俊明さんを見て笑った。この人が美月の医者で、そしてこの人が美月の父親で本当によかったと僕はこのときこころから思った。
 なあ、奏くん。俊明さんは美月でも陽菜ではなく、僕にそう話しかけた。
「忘れられるのと忘れてしまうの、どちらが辛いんだろうな」
 俊明さんは僕が答えるよりも先に続ける。
「あるいは、忘れてしまうこととずっと忘れられないこと、そのどちらが辛いだろう」
 僕は少しだけ考えたが、すぐに答えた。
「それはどちらもです」
 俊明さんは僕をみて笑った。それはどこか僕を対等と認めたような、同じ大人の仲間の一員として認めてくれた、そんなふうに思える笑顔だった。
「わたしの妻は──望美は、忘れないことを選んだ、命に代えてもずっとずっと覚えていることをね。もちろん、美月の場合と違ってまだ前例はなくって、そして異常脳波の出どころも君の今の状態ほどはっきりしていなかった。ほとんどわたしの研究に基づく推論で、だから薬を飲んでも生命が永らえる可能性は今の美月よりは少なかった。それでも可能性はあった。でも、彼女は生命の代わりに最後まで記憶を、忘れないことを選んだ」
 俊明さんは記憶を呼び起こすように目を閉じながら眼鏡を外した。
「わたしはあのとき妻にどちらの選択をしてほしかったか、いまでもわからないんだ。ただ結果として望美は忘れないことを選んだ、そして生きることができる命を選ばなかった。そしてわたしは残された、わたしは最後まで望美の記憶に留まった、けれど彼女はもうわたしの側にはいない。それでよかったのか、悪かったのか、そんなこといまだにわからないよ」
 僕はただ俊明さんの物語になにも言わず、彼の言葉を待った。
「わたしはなんども望美を説得した。たとえ君のもっとも大事な記憶失って、生きるとしても、それでも生き続けてほしいと。でも望美は、美月、君と違って、そちらの選択は選ばなかった。ママは言ったよ『記憶は生きていることそのものだから』と、そう言ったよ。そういって死んでいったよ」

 俊明さんは望美さんを恨んでいるのだろうか、僕は俊明さんの目を見て考えた。けれど、俊明さんの寝不足で疲れた目からその答えはわからなかった。
「人の記憶とは不思議なものだね」
 俊明さんはいつかもそう言っていたことを僕はふと思い出した。
「望美にとって記憶とはなんだったんだろうな」
 俊明さんは考えに疲れ切った目を再び開いて、こちらを見た。それから俊明さんの愛する人が残した娘二人を見て、ふと何かに気がついたように、最後に言った。
「いや、そんな抽象的な話じゃないな。ママはただ君たちと一緒に生きている時間が捨て去ることがどうしてもできないくらいかけがえのなかったんだ。ただそれだけなのかな」
 俊明さんは最後には誰にいうでもなくてつぶやいた。
「『与えられた幸いの日々』か」
 それから、僕らがその日を決めるまでに長い時間はかからなかった。
 美月は夏休みのある日の夜に僕に電話をかけてきて、ただ一言だけいった。
「明日にしようと思う」
 僕も電話越しの美月のその言葉を聞いて、それ以上話すことはないと思って、一言だけ言葉を返した。
「わかった」
 それから、「僕は明日、どこにいけばいい?」と最後に美月に確認した。
「いろいろ考えたんだけど、前に退院したときに三人でいったショッピングモールがいいかなって、あの日、楽しかったから」
「いいと思う」
 僕は言葉少なに返事をして、それからなんだかもう僕たちは互いのなかで使い果たして言葉をすっからかんにしてしまったみたいに大した話もせずに電話を終えた。
 次の日、僕がショッピングモールのフードコートで何も頼まずにただ人混みのなかに紛れていると、僕を見つけた陽菜が、「奏」と人混みに負けないように僕の名前を呼ぶのが聞こえた。
 僕はその声をした方に振り返ると、二人の姉妹が笑ってこちらに向かって立っていた。
 僕は二人に合図するように手を挙げると、二人はこちらに歩み寄ってきた。
 夏休みのフードコートはいつかのときなんかよりももっともっと人が多くて、初デートの恋人たちや子ども連れの家族が、笑ったり泣いたり、怒ったり、ありきたりな、だけどどこまでも特別に幸せな与えられた時間を過ごしていた。
 僕と美月と陽菜はそんな様子をいつまでも見ていた。いつまでも。
 やがて陽菜が「お腹すかない? お姉ちゃん、ラーメンセット食べない? 今日は妹様が奢るよ」と言った。
美月は珍しいこともあるもんだと破顔して笑ったが、言った。
「大丈夫。代わりに、お水を汲んできてくれない」
 陽菜は美月のその言葉を聞くと、いつものように強がっていた顔を少しだけ不安にさせて姉に確認した。
「本当にいいの? お姉ちゃん」
 美月は黙って頷いた。
「わかった」
 それから陽菜は席を立って、冷水機まで小走りで走っていった。
「なんか、あんなふうにフードコートで走ってる妹をみてると、感慨深いものがあるなあ」
「お姉ちゃんとしてはやっぱりそういうもんかね」
 僕は美月の最後の会話に付き合った。
「陽菜ってほんとかわいいよね、奏もそう思うでしょ」
「まあ」
「あー! 彼女のまえで他の女の子のことをかわいいって言った!」
「なんというトラップ。人類はこんな愚かな争いを幾度繰り返してきたのであろうか」
 僕はそんなふうに真面目腐った声でふざけた。
 美月はそんな僕を見て笑った。僕も笑った美月を見て笑った。
 幸福ないつものフードコートだった。
 ありきたりで平凡で、だからこそ特別な、僕らに与えられた幸福な時間そのものだった。
 美月がポケットから、ピルケースを取り出す。
 それから一錠だけラムネみたいな粒を取り出す。
「はあ、これってすっごい苦かったりするのかなあ、パパって優しいけど気が利かないタイプだからなあ」
 「優しさというのは苦味でできているのだよ、美月サン」
 僕は美月がこぼした言葉にそう返した。
 美月は僕の言葉に微妙な表情でこちらを見た。
「なんだよ」
「べつにー」
 あとでこのことも僕は思い出したりするのかな、僕は声に出さずにそんなことを思った。
 美月は僕の内心を知ってか知らずか言った。

「この薬、飲んだらすっごく眠くなるらしいの、それで目が覚めたら……」
 美月は言葉を詰まらせた。だから僕はその続きを言った。
「目が覚めたら、黄泉の国から復活して、月に代わってお仕置きするんだろ?」
 美月は僕の言葉を聞いて驚いたように僕を見た。
 それから、いつものように笑っていった。
「なにそれ、ありえんくらいに滑ってるじゃん!」
「お前のギャグだろ!」
 僕らはまた笑った。
「奏」
 美月が僕の名前を呼んだ。
「なに?」
「ありがとう」
 僕は返事に迷った。でも結局なんのつまらないありきたりの答え方しかなかった。
「どういたしまして」
 やがて陽菜が一杯だけ水を紙コップに注いで持ってきた。
 美月は妹にから静かにコップを受け取った。
「はー」
 美月は少しだけ躊躇っていた。
「やっぱり、奏が飲む?」
「別にいいけど」
 美月は時間を引き延ばすように大袈裟に言った。
「別にいい?! これ、飲まなきゃ、わたし死んじゃうんだよ! あんたは最愛の彼女を殺す気か!」
「てゆうか、それ、俺が飲んだらどうなるんだろうな」
「あ、死んじゃうらしいよ、パパが言ってた。あたし以外の正常な脳の人が飲むと、ただの毒だからあっさり死んじゃうらしい」

「え、ほんとかよ! お前、俺を殺す気か!」
「ひっひっひっひ」
「……」
「……奏」
「うん?」
「飲むよ……」
「うん」
「ほんとにほんとに飲むよ」
「……うん」
「てやー!」
「え、ほんとに飲んだの?」
「飲んだ! 飲んじまったぜ!」
「あ、え、なんていうか、えー……」
「あ、これ、ほんとだ、ほんとにまじで眠くなるね……」
 美月はテーブルのうえの僕の手を取った。それから自分の指を絡めると強く握った。でも眠気のせいなのか、全身に力が入らなくなるのか、すぐに力は抜けていった。僕は美月の手を強く握り返した。
「ありがと、怖いから、わたしが眠るまでそうして握ってて」
「うん」
 なぜだか、美月の声を聞いていると僕まで眠たくなってきたような気がした。ここ何年か、ずっと続いてきた緊張の糸が最後の最後で切れてしまったのかもしれない。
 美月は少し眠そうな僕に気づいて抗議した。
「……こら……、彼女の一世一代の晴れ舞台の日に先に眠るやつが……おるか……」
 美月の声が小さく、かぼそくなっていく。
「わかったよ、こっちは最後まで起きてるよ」
「……それで……よいのじゃ……」
 美月の声がだんだんとフードコートの子どもたちの声に紛れていく。
 目が覚めたら、彼女が食べるものはなにかな?
 やっぱりラーメンセットだろうか。
 僕は子どもたちの声を聞いてそんなことを考えていた。

「奏……」
「なに?」
「キスして」
「いや、君、隣りで妹がすごい目でこっちを見とるんじゃが」
「見せつけてやろうぜ……」
「おお……」
「仕方ねえな、やれやれ」
「あ、ついに言ったな、そのセリフ」
「……」
「……」
「えへへ、じゃあ、おやすみ、奏」
「……おやすみ」
「なーんちゃって! キッスで眠る逆眠り姫と思った? 残念、美月ちゃんでした」
「はよ、ねろ!」
「え?」
「あ……」
「それが最後の言葉なんだ……」
「あわわわわわ」
「嘘だよ、じゃあ今度こそほんとにおやすみ」
「うん……」
「……」
「……おやすみ、美月、いい夢を」


                     ***

「おはよう、お姉ちゃん」

「……」
「どうしたの? 誰か探しているの?」
「すみません、なんだか起きたら、急にここに座ってて、でも……、あの……、さっきまでここに誰かいませんでしたか?」

「……ううん、ここにはあなたしか座ってなかったよ」