7.
「生命は救われるけど、記憶は失われるってどういうことですか? 未来の記憶まで失われるって?」
僕は何も言わずに俊明さんの説明を一方的に聞くだけだった美月に代わってついに耐えきれずに口を挟んでしまった。
俊明さんは病室用のスツール椅子のうえに座りながら天井を仰いだ。
「これはそんなに難しい話じゃないさ。いいかい、美月の症状の型は、第三の症例と合致し、今回の脳波図測定で、扁桃体と海馬を中心とした記憶回路の異常発火が確認されたんだ。これまでのMRIやPET検査では、ニューロン群の微細な活動まで捉えられず、どの領域が異常を起こしているかは確定できなかった。しかし、今回の脳波測定で異常発火の起点とその活動の連鎖経路を追跡することができ、具体的な部位を特定できた」
俊明さんは言った。
「美月の症例は今他の症例にこれまでなかったほど長期的なものとなっているがそのおかげで取れる可能性のあるアプローチが一つ浮上してきた。これまでの症例では、死の直前かあるいは死後解剖でしか、判断するしかなかった第六の波形のその出所がかなりの確度でわかっている。出所がわかり、その脳部位がオーバーヒートして異常活動を行っているとわかったなら、対処のしようがある」
「治せるんですか?」
「シンプルな話だ。異常な行動をしている脳の領域がある。それなら、その領域に働きかけその異常を取り去ってやればいい。方法は二つだ。外科的なアプローチか内科的なアプローチだ」
俊明さんは指を一つ立てた。
「まず一つ目、外科的なアプローチだ。端的にいうと、これは手術だ。美月、この方法では君の脳にメスを入れ、特定のシナプスを切断したうえで、問題となっている脳の記憶領域を切り取る」
脳の領域を切り取る、僕は医者ではないがそんなことして大丈夫なのだろうかとすぐに思った。俊明さんは僕らの疑問を察して答えた。
「もちろん、大丈夫じゃない。だが少なくとも生命維持そのものに問題はないはずだ。ただ脳内の記憶を担う箇所をそっく取り去ってしまうんだ。当然、君のこれまでの過去の記憶は失われるし、今後も何かを記憶するということは不可能になると思う。いってしまえば、壊れてしまった機械の特定の箇所を部品ごと取ってしまうんだ。当然、その機械からその機能は永久に失われる。だが生命は助かる。これはシンプルだが非常に強力で確実な方法だ」
僕は俊明さんの説明に言葉を窮した。記憶とその機能を失って生きる、それがあり得ない選択肢なのか、生命と引き換えにして喪うべき代償なのか、それを本人に変わって判断できなかったからだ。
みっともなく黙り込んでしまった僕に美月はとうとう口を開いた。
「でも、方法はもう一つあるんだよね。それは?」
俊明さんは頷いた。
「もとよりわたしはこの一つ目の方法は選ぶつもりはない。脳の切除はあまりに大胆すぎる。それは成功すれば生命の維持の確率は高いが、そもそも手術の難易度もはっきり高い。この方法はリスクもデメリットも高い。ハイデメリットでなおかつ、ハイリスクなんだ。二つ目の方法があるなら、わざわざこの方法を選ぶ理由はない」
俊明さんはもう一本立てる指を増やした。
「だから、二つ目の方法だ。内科的なアプローチだ。一つ目の方法が手術なら、こちらは薬、つまり投薬療法だ。もともとはとある精神病のために開発された薬がある。その精神病は、今の君の脳で起きているトラブルの場所と非常に近いところで起きていることが最近10年で証明されてきていて、もともとはその治療薬として研究開発が進められているものだ。この治療薬の成分を君の脳の記憶領域で働かす。そうすればほとんど手術をするのと変わらない効果を得ることができるだろう」
手術するのと変わらないのなら、確かにこの二つ目の方法が良いのかもしれない。僕は話を聞きながら、俊明さんの説明の真意を図ろうとした。
「この方法では、君の脳の記憶領域の神経伝達の動きを消してしまう。細かい説明は省くが、この治療薬の成分は、記憶に関与する神経細胞の活動を永久的に消失させる働きを持つんだ。神経伝達物質の受容体をブロックして、興奮性ニューロンの過剰活動を完全に停止させることで、異常発火の回路を静止状態に持ち込む。……しかし、今の技術では、一度この治療薬で神経活動を消失させると、再び同じレベルでの記憶形成を行うことをできなくさせてしまう」
俊明さんはここで初めて申し訳なさそうな表情を見せた。
「この化学的なアプローチはわたしの中心的な研究分野でもある。研究はまだ依然として課題を多く抱えていて完全なものではない。すまない。そう、だから、この薬で記憶領域の機能を停止させてしまえば、それを復活させる方法はない。残念だが、この投薬療法も手術と同じで不可逆的な治療なんだ」
「手術と変わらないってこと?」
「そうじゃないよ。わたしはそれでもこの二つ目のアプローチをとった方が良いと思っている。そもそも手術は非常に大胆な方法で、生命の維持はできるものの、身体的な後遺症や神経の損傷によって、認知機能全般に障害を残す可能性が高い。だがこの方法なら、そもそも失敗の確率が低くて確実だ。それに大幅に記憶領域を取り去ってしまう手術よりかはもう少し繊細に働きかけることができる。残念だけど、この投薬療法で君が記憶の多くを失うことは避けられない。けれど、手術と違ってこの方法なら、記憶を残す能力をまだほんの少しだけでも残すことができるんだ」
それなら……、それなら手術ではなくて、投薬療法の方が確実にいい。論理的に考えて、デメリットもリスクも高い手術と、デメリットは高くともリスクはまだ比較的少ない薬の方がいい。
「わたしは手術と薬なら、確実に薬の方がいいと思う」
俊明さんは僕が考えたことと同じようなことを美月に伝えた。
「お父さんがいう、生命の代わりに差し出すものって、これまでの記憶とこれからの記憶ってこと」
「そうだ。残念だが……、」
俊明さんは徐々に後ろめたさを告白するように、説明を追加していく。
「残念だが、君の今日までの記憶の多くはいずれにせよ失われる。ここまで習得してきたピアノの能力などもおそらく失われるだろう。そして今後も弾くことはできない。君のピアノの能力はおそらく今回の異常脳波を出す脳部位と強い相関があるのだと思う。ピアノの演奏中に症例の初期症状が現れたのも今にして思えばそこには因果関係があったんだ。もし君が投薬後になお無理にピアノを弾こうとすると消去したはずの記憶領域の神経伝達の働きを蘇らせてしまうかもしれない。そしてそのときには再び異常脳波が予測不可能なかたちで再度現れるだろう」
「それだけ?」
聡い美月は俊明さんの説明のトリックに気がついているようだった。
「薬なら、記憶を残す能力を少しだけでも残せるんだよね。でも、じゃあその残せない記憶って何?」
俊明さんはおそらく美月の症例につきっきりで疲れた顔をなんとか微笑ませた。
「そうだね、美月、ごめんね。最初からはっきりいうべきだったね。この薬の方法では、記憶を残す能力を少しだけでも残せる。逆にいうと記憶を残す能力のある部分が欠損する。それはつまり、将来にわたって、記憶できないものが発生するということなんだ」
そうだ、それだけのはずがなかった。
もし、それなら手術の説明なんかしなくても、最初から投薬療法の話だけをすればいい。僕だって本当は俊明さんの話を聞きながらわかっていた。
つまり、手術の話は囮だ。
少しでも、第二の方法をよく見せるための。
嘘の苦手な俊明さんの精一杯の嘘にはならない嘘。
「それは?」
美月は俊明さんに促すように再度尋ねた。
おそらくその答えはピアノではない。
僕もまた俊明さんの答えの前に考えた。だって、それはもう俊明さんの説明に登場している。そう、もう美月がいずれの方法でも生命を永らえようとするなら、ピアノが美月の人生から失われることが決まっている。
だから、ピアノではない。そこにはなおもう一つ代償が求められている。
俊明さんはその代償を説明した。
「君の情動がもっとも強く働くもの、いってしまえば記憶の作動にもっとも深く結びついている特定のものを記憶することができなくなる。おそらく、無理に”それ”を記憶しようとしたり、認識しようとすると消失させた記憶脳領域が再び活性化され再び第六の波形を出現させてしまうだろう。それは君が君自身の主観的世界で最も感情的に触れているものだ」
俊明さんの問いかけは抽象的なものだった。
「君が一緒にいて、一番心が動く大切なものはなにかな?」
美月にとってもっとも大事なもの、それを失うことこそが生命の代償に相応しいもの。
僕は考えてみた。もし僕だったら?
もし僕だったら、”それ”は何だろう?
問うまでもない。答えははっきりしている。
僕は僕の今日まで、そしてこれからにおいてもなんど問い自らにおいて答えてきた最も大切なものをこの目で見つめた。
そして、それは美月も同じだった。
「どうしてこういうときに君と目が合っちゃうかな」
僕たちは笑った。こんなときでも笑ってしまった。笑うしかなかった。
僕たちは残酷に笑っていた。
「生命は救われるけど、記憶は失われるってどういうことですか? 未来の記憶まで失われるって?」
僕は何も言わずに俊明さんの説明を一方的に聞くだけだった美月に代わってついに耐えきれずに口を挟んでしまった。
俊明さんは病室用のスツール椅子のうえに座りながら天井を仰いだ。
「これはそんなに難しい話じゃないさ。いいかい、美月の症状の型は、第三の症例と合致し、今回の脳波図測定で、扁桃体と海馬を中心とした記憶回路の異常発火が確認されたんだ。これまでのMRIやPET検査では、ニューロン群の微細な活動まで捉えられず、どの領域が異常を起こしているかは確定できなかった。しかし、今回の脳波測定で異常発火の起点とその活動の連鎖経路を追跡することができ、具体的な部位を特定できた」
俊明さんは言った。
「美月の症例は今他の症例にこれまでなかったほど長期的なものとなっているがそのおかげで取れる可能性のあるアプローチが一つ浮上してきた。これまでの症例では、死の直前かあるいは死後解剖でしか、判断するしかなかった第六の波形のその出所がかなりの確度でわかっている。出所がわかり、その脳部位がオーバーヒートして異常活動を行っているとわかったなら、対処のしようがある」
「治せるんですか?」
「シンプルな話だ。異常な行動をしている脳の領域がある。それなら、その領域に働きかけその異常を取り去ってやればいい。方法は二つだ。外科的なアプローチか内科的なアプローチだ」
俊明さんは指を一つ立てた。
「まず一つ目、外科的なアプローチだ。端的にいうと、これは手術だ。美月、この方法では君の脳にメスを入れ、特定のシナプスを切断したうえで、問題となっている脳の記憶領域を切り取る」
脳の領域を切り取る、僕は医者ではないがそんなことして大丈夫なのだろうかとすぐに思った。俊明さんは僕らの疑問を察して答えた。
「もちろん、大丈夫じゃない。だが少なくとも生命維持そのものに問題はないはずだ。ただ脳内の記憶を担う箇所をそっく取り去ってしまうんだ。当然、君のこれまでの過去の記憶は失われるし、今後も何かを記憶するということは不可能になると思う。いってしまえば、壊れてしまった機械の特定の箇所を部品ごと取ってしまうんだ。当然、その機械からその機能は永久に失われる。だが生命は助かる。これはシンプルだが非常に強力で確実な方法だ」
僕は俊明さんの説明に言葉を窮した。記憶とその機能を失って生きる、それがあり得ない選択肢なのか、生命と引き換えにして喪うべき代償なのか、それを本人に変わって判断できなかったからだ。
みっともなく黙り込んでしまった僕に美月はとうとう口を開いた。
「でも、方法はもう一つあるんだよね。それは?」
俊明さんは頷いた。
「もとよりわたしはこの一つ目の方法は選ぶつもりはない。脳の切除はあまりに大胆すぎる。それは成功すれば生命の維持の確率は高いが、そもそも手術の難易度もはっきり高い。この方法はリスクもデメリットも高い。ハイデメリットでなおかつ、ハイリスクなんだ。二つ目の方法があるなら、わざわざこの方法を選ぶ理由はない」
俊明さんはもう一本立てる指を増やした。
「だから、二つ目の方法だ。内科的なアプローチだ。一つ目の方法が手術なら、こちらは薬、つまり投薬療法だ。もともとはとある精神病のために開発された薬がある。その精神病は、今の君の脳で起きているトラブルの場所と非常に近いところで起きていることが最近10年で証明されてきていて、もともとはその治療薬として研究開発が進められているものだ。この治療薬の成分を君の脳の記憶領域で働かす。そうすればほとんど手術をするのと変わらない効果を得ることができるだろう」
手術するのと変わらないのなら、確かにこの二つ目の方法が良いのかもしれない。僕は話を聞きながら、俊明さんの説明の真意を図ろうとした。
「この方法では、君の脳の記憶領域の神経伝達の動きを消してしまう。細かい説明は省くが、この治療薬の成分は、記憶に関与する神経細胞の活動を永久的に消失させる働きを持つんだ。神経伝達物質の受容体をブロックして、興奮性ニューロンの過剰活動を完全に停止させることで、異常発火の回路を静止状態に持ち込む。……しかし、今の技術では、一度この治療薬で神経活動を消失させると、再び同じレベルでの記憶形成を行うことをできなくさせてしまう」
俊明さんはここで初めて申し訳なさそうな表情を見せた。
「この化学的なアプローチはわたしの中心的な研究分野でもある。研究はまだ依然として課題を多く抱えていて完全なものではない。すまない。そう、だから、この薬で記憶領域の機能を停止させてしまえば、それを復活させる方法はない。残念だが、この投薬療法も手術と同じで不可逆的な治療なんだ」
「手術と変わらないってこと?」
「そうじゃないよ。わたしはそれでもこの二つ目のアプローチをとった方が良いと思っている。そもそも手術は非常に大胆な方法で、生命の維持はできるものの、身体的な後遺症や神経の損傷によって、認知機能全般に障害を残す可能性が高い。だがこの方法なら、そもそも失敗の確率が低くて確実だ。それに大幅に記憶領域を取り去ってしまう手術よりかはもう少し繊細に働きかけることができる。残念だけど、この投薬療法で君が記憶の多くを失うことは避けられない。けれど、手術と違ってこの方法なら、記憶を残す能力をまだほんの少しだけでも残すことができるんだ」
それなら……、それなら手術ではなくて、投薬療法の方が確実にいい。論理的に考えて、デメリットもリスクも高い手術と、デメリットは高くともリスクはまだ比較的少ない薬の方がいい。
「わたしは手術と薬なら、確実に薬の方がいいと思う」
俊明さんは僕が考えたことと同じようなことを美月に伝えた。
「お父さんがいう、生命の代わりに差し出すものって、これまでの記憶とこれからの記憶ってこと」
「そうだ。残念だが……、」
俊明さんは徐々に後ろめたさを告白するように、説明を追加していく。
「残念だが、君の今日までの記憶の多くはいずれにせよ失われる。ここまで習得してきたピアノの能力などもおそらく失われるだろう。そして今後も弾くことはできない。君のピアノの能力はおそらく今回の異常脳波を出す脳部位と強い相関があるのだと思う。ピアノの演奏中に症例の初期症状が現れたのも今にして思えばそこには因果関係があったんだ。もし君が投薬後になお無理にピアノを弾こうとすると消去したはずの記憶領域の神経伝達の働きを蘇らせてしまうかもしれない。そしてそのときには再び異常脳波が予測不可能なかたちで再度現れるだろう」
「それだけ?」
聡い美月は俊明さんの説明のトリックに気がついているようだった。
「薬なら、記憶を残す能力を少しだけでも残せるんだよね。でも、じゃあその残せない記憶って何?」
俊明さんはおそらく美月の症例につきっきりで疲れた顔をなんとか微笑ませた。
「そうだね、美月、ごめんね。最初からはっきりいうべきだったね。この薬の方法では、記憶を残す能力を少しだけでも残せる。逆にいうと記憶を残す能力のある部分が欠損する。それはつまり、将来にわたって、記憶できないものが発生するということなんだ」
そうだ、それだけのはずがなかった。
もし、それなら手術の説明なんかしなくても、最初から投薬療法の話だけをすればいい。僕だって本当は俊明さんの話を聞きながらわかっていた。
つまり、手術の話は囮だ。
少しでも、第二の方法をよく見せるための。
嘘の苦手な俊明さんの精一杯の嘘にはならない嘘。
「それは?」
美月は俊明さんに促すように再度尋ねた。
おそらくその答えはピアノではない。
僕もまた俊明さんの答えの前に考えた。だって、それはもう俊明さんの説明に登場している。そう、もう美月がいずれの方法でも生命を永らえようとするなら、ピアノが美月の人生から失われることが決まっている。
だから、ピアノではない。そこにはなおもう一つ代償が求められている。
俊明さんはその代償を説明した。
「君の情動がもっとも強く働くもの、いってしまえば記憶の作動にもっとも深く結びついている特定のものを記憶することができなくなる。おそらく、無理に”それ”を記憶しようとしたり、認識しようとすると消失させた記憶脳領域が再び活性化され再び第六の波形を出現させてしまうだろう。それは君が君自身の主観的世界で最も感情的に触れているものだ」
俊明さんの問いかけは抽象的なものだった。
「君が一緒にいて、一番心が動く大切なものはなにかな?」
美月にとってもっとも大事なもの、それを失うことこそが生命の代償に相応しいもの。
僕は考えてみた。もし僕だったら?
もし僕だったら、”それ”は何だろう?
問うまでもない。答えははっきりしている。
僕は僕の今日まで、そしてこれからにおいてもなんど問い自らにおいて答えてきた最も大切なものをこの目で見つめた。
そして、それは美月も同じだった。
「どうしてこういうときに君と目が合っちゃうかな」
僕たちは笑った。こんなときでも笑ってしまった。笑うしかなかった。
僕たちは残酷に笑っていた。