2.
 クラスメイトたちとお昼を食べきって食堂を出ると、すぐに背の低い中等部生に声をかけられた。学校で話すのは意外とないので珍しいなと思った。
「瀬川先輩、すみません、今いいですか?」
 なにもべつに学校と外で使い分けなくてもいいんじゃないかと常々思うのだが、本人曰くクラスの女子の微妙な問題もあるのだといつか言われたことがある。正直よくわからないが、どうにも自分はその辺の事情を察しきるのが昔から苦手だったので、本人に任せることにしていた。
「お前、まさかさっきの純愛ぴゅあぴゅあ発言の裏でこんな……」
「美月の妹だよ」
 陽菜はどうやら食堂のなかで自分たちを見つけて食べ終わるまで待っていたようだ。

 美月と陽菜が姉妹だということは校内では意外と知られていないらしい。
 美月とて、クラスでかなり人気があり、ましてや一年間休学していたというある意味ではセンセーショナルな話題の持ち主なので学年全体で名前を知らない生徒はいないと思う。
 だが中等部も高等部も合わせて学園全体での知名度という点では、「天才女子中学生ピアニスト」の陽菜の方があると美月は言っていた。
「お姉ちゃんは?」
「さあ、他の友達と別のところでご飯食べてるんじゃないか?」
「なるほど」
 陽菜はいまだ外向きの顔を崩さずに言った。
「ちょっと校舎裏に来てもらっていいですか?」
 


                    ***

「いつもどおり話してくれればいいのに、なんでそんな眉間に皺を寄せてるんだよ」
 クラスメイトたちには先に教室に戻ってもらって、わざわざ校舎裏にまで僕は陽菜と来ていた。陽菜は暑さをしのぐため日があたらず少し湿ったずっと影になっている地面を選んで立つと口を開いた。
「べつにいつもどおりでしょ? 話し方はまあアレかもしれないけど。どっちかというと奏が意識してるからじゃない?」
 そうなのだろうか。まあでも確かにいつもどこか怒った感じというか、眉根を寄せているのは学校の外であってもそうなのはそうか。ただやはり声の響きというか、なにかがそれでも微妙に違う印象なのは間違いないと思うのだが。
「というか、そんなことはいいの。聞きたいのはお姉ちゃんのことなんだけど」
 僕は陽菜の口から聞いた「お姉ちゃん」という言葉の響きで、彼女が自分がいつものよく知っているモードになったと感じた。さっきの食堂でやりとりしたときの「お姉ちゃん」の言葉の響きよりこちらのほうが自分には百倍いい。
「お姉ちゃん、どう?」
「どうって?」
「奏から、見てて前と変わったことはない?」
 僕は陽菜の問いかけにすぐに答えずに考えてみた。
 正直にいうと、それは結構難しい質問だと思った。
「一年ぶりの外での暮らしだぞ、そりゃ何にも変わってないっていう方がへんだろ」
「それはそうなんだけど」
 陽菜はさっきまでの勢いを少し落としながら、自信がなさそうに声のトーンを下げた。
 もちろん、自分としても陽菜の心配はわかる。
 この一年の生活は美月にとってとても大きな出来事だった。うまくいえないが、それがなにか美月にとって暗い影を落としたり、なにか将来に対して悲観的なものを残していやしないか、心配なのだろう。
 それはわかる。

「前と同じようにはいかないさ。むしろ、前と同じように見えるんだったら、それは美月がこっちを心配させないように無理してるんじゃないかって考えないといけないんじゃないか」
 美月はよく笑う。そしてとても強い。でもだからこその弱さもきっとある。優しさゆえによく笑い、強い人がもつ、そんな弱さが。そんなことはわかっている。わかりきっている。
 よく笑い、そして強い人が持つ弱さは、他人の前で笑うことをやめらず、そして弱さを見せられないことだ。美月の場合はそれが見栄や虚栄心でもなんでもなく、ただ他人を慮っての優しさだ。だから、他人は一層心配になる。
 きっといつも笑ってなくてもいいんだよ、弱さを見せてもいいんだよ、と言っても、ありがとうとやはり微笑んで、相手を安心させようとする弱さを演技でもなんでも無意識に見せようとしてしまう。
 やはりそれも優しさがゆえに。
「わかってるよ」
 陽菜は足元の陰で暗くなった地面をスニーカーで掘り返しながらもどかしそうに言った。
 そう、陽菜もそれくらいわかっているのだ。
「逆に家の方ではどうだ? それに検査もまめにいってるんだろ?」
 退院して、俊明さんがいうところのドキドキラブコメ展開の自分の居候生活は退院後三週間ほどが経ち美月の生活リズムが戻ってきたかなというところで、僕は自分の家に戻っていた。
「検査はそうだね、今のところ問題はなにひとつないらしいよ。お父さんも、なにせ他の人にはないめちゃくちゃ珍しい症例だから、二週に一回ほどでかなり頻度を多くして診てるけど、今の結果が今月の終わりまで続くようなら、一月に一回に減らして、それも大丈夫そうなら、三月に一回、半年に一回、一年に一回と変えていけるはずって言ってる」
 僕はうなづいた。
 美月の検査は自分も付き添える限り付き添っていたし、どうしても無理なときは陽菜に行ってもらったりと二人でサポートするようにしていた。それは入院期間中と変わらずあたりまえにやっていた。
 いまこうして陽菜と話しているのだって、どことなく美月のサポートチームのミーティングみたいなものだ。
「家でも、なにか具体的にどうってことはないんだけど。お姉ちゃんって受験生でもあるじゃん。だから将来ってどういうふうに考えているのかなって。お姉ちゃん、退院してまだ一度もピアノ弾いてないんだよね」
 美月の内面、感情、不安、将来への本人なりの見え方、そんなもの他人の自分たちが結局わかるはずもない。それはこれまでだってそうだったし、そんなもの病気とか関係なく誰だってわからない。でもやっぱり不安になる。
 それは僕たちが美月の足元を掴んだ死神の腕を知ってしまったからだった。どうしてもまた美月のどこかにそれをみてしまうからだった。
「お姉ちゃんってずっと音大目指してたじゃん。でももう諦めちゃったのかな。そりゃ音大目指している高校生にとって一年のブランクはめちゃくちゃでかい。でもわたしはお姉ちゃんに諦めてほしくないし、もし卒業したあとに一年でも二年でも、ううん、別にもっとかかっても全然支えるつもりだよ」
 陽菜は後ろめたいのかもしれない。
 陽菜は本当にお姉ちゃんが大好きで、ピアニストとしての目標もいつも目の前の姉だった。美月はもっと遠くを目標にしなさいといつも言っていたみたいだけど、それでも頑固に美月を目標にし続けた。
 でも、所詮、美月と陽菜の歳の差は三年だけだ。10代のピアニストにとってこれくらいの年齢の差は大きい目で見ればほとんどないようなものだし、残酷な話だけど、陽菜のピアノの実力は入院中の一年であっさりと美月を追い越してしまった。
 目標にしていた、最大の憧れだったピアニストよりも先を進んでしまった。もちろん美月が悪いわけでもないし、陽菜が悪いわけでもない。でもその事実がもしかしたら美月のピアノへの情熱を挫いてしまったのだとしたら。
「お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね」
 陽菜の声には涙声が混じっていた。
 ポツポツと初夏の校舎裏の地面に雨が溢れた。
 天才女子中学生ピアニストか。
 僕は口に出さずに呟いた。陽菜は美月の入院中にピアノを止めないにしても、少し中断しようとしたことがある。でも、それは美月が一番嫌がった。そして陽菜もそれが一番美月を傷つけることをすぐに理解った。
 だから、結局陽菜はピアノを中断しなかった。
「美月がピアノを辞めたとしても、それは俺たちが口を挟むことじゃないよ、本人の自由だ」
 陽菜は涙顔を隠さずにこちらを見上げた。だから僕は誤解がないようにすぐに天才女子中学生ピアニストをできるだけ落ち着かせるように笑いながら言い継いだ。
「でも、だからこそ、どんな選択をしようと、どんな将来を美月が選ぼうと俺たちはそれを肯定してやろうぜ」
 そうだ、結局、僕たちにできることはそれくらいしかない。
 僕たちが美月にできることは。
「それがどんな結果になろうと、どんな選択だろう、どんな将来だろうと、俺たちなりに真剣に受け止めて、そんで見守ってやろう、一生美月の側にいてやるためにさ」
 僕はこの言葉が決して傲慢なものでないことを祈った。
 僕たちが他人のためにできること。
 それが存在することを校舎の隙間から見える太陽に祈った。
 陽菜は黙って足元を見て僕の言葉を飲み込んでいるようだった。それから笑った。それがどういう意味の笑いなのかはわからなかった。
「そうだね、ありがとう、奏。わたしはたぶん、この先もピアノを辞めれないと思う。もちろんお姉ちゃんがどういうふうになってもお姉ちゃんを支えるつもりではいる。でも、たぶんだからこそお姉ちゃんのためにわたしはこれからもピアノをやめれないと思う」
 聞く人によってはある意味陽菜の言葉は傲慢に聞こえるのかもしれない。他人のためにピアノを弾くなんて。でもそうじゃないことを少なくとも僕はわかる。陽菜にとってピアノを弾くことは姉のためなのだ。それが自分のためにピアノを弾くということなのだ。陽菜にとって姉のためにピアノを弾くことが自分のためにピアノを弾くということなのだ。
 「だから、入院のときも、春先にお姉ちゃんが危なくなったときも、ありがとう。正直、わたしたちだけじゃなくて、奏がいてくれてほんとうによかったし、感謝してる。わたしたちだけだったら、もしかしたらなにかが壊れてたかもしれないってときどき怖くなる」
 
 僕は陽菜が感じた恐怖を想った。美月の心臓が止まったときに、自分が遠い海の向こうにいて、側にいないことを思い知らされた恐怖を想像した。
 それはまるで自分の中心から指先が凍りつくような、そんな感覚だった。
 それは本当に陽菜にとって恐ろしいことだったのだろう。
「どういたしまして、天才女子中学生シスコンピアニストさん、これからもよろしく」
 僕は陽菜の尊厳を守るように最後に笑って言ってやった。
「は、シスコンは奏、お前だろ?」
「え、いや……、それは普通にお前だろ……、俺と美月は兄妹じゃないんだから……」
「そういう問題じゃなくてえ」
 どういう問題だよ。
「あ、そうだ、なあ陽菜ひとつ聞きたいんだけど、美月に「好き」って言った方がいいのか? なんかクラスのやつに言ったことないって言ったら、言えって言われたんだけど、そういうもん?」
「は? 言ってないの、それ?」
 陽菜は信じられないほど下手くそな演奏を聞いたときみたいに目を丸くして言った。
「え? あ、うん、そうだけど」
「それで奏、あんた、お姉ちゃんの家に泊まって、しかもさっき一生側にいるとか言ったの?」
「あ、え、やっぱり不味かったのかな……」
 陽菜はどんな演奏ミスをしたときの音楽教師よりも恐ろしく冷たい声で僕を指導した。
「いえよ、それは。ルール違反だから、それ」
 とかくこの世のルールは難しいものだった。