6.
──お母さん、私が小学校のときに死んじゃったんだ。
 美月が気まずさを隠すようにそう苦笑いして答えたとき、僕はなにを感じたろうか。
 同情? 哀れみ?
 それはなかったと思う。ある意味では僕もまた母さんを亡くしたといえば、そうなのだから。同情や哀れみといった、自分とは異なる他人事のようなそれは違った。
 共感?
 それも違ったと思う。なぜなら僕の母さんはまだ生きていたから。母親を失ったということを抽象的に同一視して、死者と生者の境を徒らに踏み越えて、彼女だけの悲しみと、僕だけの苦しみの尊厳を犯すようなものも違った。
 恥ずかしさ。
 もしかしたら、これが一番近かったかもしれない。
 母親との関係は崩壊して、まるでそんな悲劇は自分だけのものだと思い込み。世界に対して不貞腐れて、不幸なのは自分だけなのだと思い込んでいたその子どもっぽさをまだ同い歳の幼い少女に見せつけられたという恥ずかしさ。
 そしてなぜか生じたどこか説明できないような悔しさ。

 結局いくつもの感情がないまぜになって、出てきた自分のなかの言葉は驚くほど短く間が抜けていた。

──藤咲さんはすごいね。



                  ***

 ぞれから美月と陽菜と三人でフードコートの食事を食べたあと、僕たちはエスカレーターを上がったり下がったり、右に回ったり左に回ったり、大きな水槽のなかの子魚みたいに、暗い宇宙のなかで廻る惑星みたいにモール内の店を見てまわった。
 結局、自分の生活に必要な日用品を買い揃えるというのはただの名目で、姉妹のショッピングに一日付き合わされているという事実に途中から気づいていたが、なんだかんだでそれでも二人が楽しそうなら、それでいいかと僕は笑いながらため息をついた。
 よくわからないキャラクラーグッズの店で妹にちょっと不気味な雰囲気のあるキーホルダーを姉として買わされたり、逆に妹にアパレルで服を何着も試着させたり、三人で話題の漫画について書店で喋ったり、本当に他愛もなく、かけがえのない時間だった。
 退院したその日にこんなに人の多いところに連れてきて大丈夫だろうかと心配したが、美月は少しずつ日常と外の世界を取り戻していった。
 ショッピングモールに訪れたのは昼過ぎくらいだったが、あっという間に日が沈む時間になろうとしていた。
「まあ今日はこんなもんかな」
 三階のシネコンを出たところに併設されたベンチで小腹を満たすためのクレープやらタピオカミルクティーを分担で持ちながら、僕は言った。
「そうだね」
 美月は隣の陽菜からもらったミルクティーの太いストローから口から離すとそう応えた。
「陽菜はもう大丈夫?」
 美月は隣りの妹に尋ねた。
 陽菜は真剣そうな顔で両手で数えながらぶつぶつと一人で呟いていた。
「ええと、フードコートでご飯は食べたでしょ、ワガママだけどかわいい妹が勧めてくるちょっとナンセンスなキャラクターグッズもお姉ちゃん買ったでしょ、うん、彼女が試着室で出てきて、いつもと違う大胆な格好で思わず彼氏もドキドキ! もやったでしょ、あと普通に集めてる漫画の最新刊は揃えたでしょ、えーと、あとなんか忘れていることは……」
 陽菜のなかで今日の買い物の計画はいったいどういうものだったんだろう。なんとなく妹キャラも大変なんだなと深く触れないようにした。
 ちなみに陽菜がつぶやいたことは確かにすべて実行していて、美月は最新の新型女子中学生のあいだでバズってるからと、本当か嘘かわからないが、ボケナス野菜のホウレンソウくんというぬいぐるみを買わされて、いまベンチに座らせていた。
 そしてぶつぶつと呟き終えた妹キャラは最後にぽんと拳を手のひらに打ちつけた。
「あ、そうだ、最後に“アレ”やってないわ」



                    ***


──すごい?
 美月は僕からの予想外の言葉に驚いた表情を見せた。
──だって、さっき藤咲さんのピアノからは悲しさとか後悔とか、自己憐憫とかそういう響きが感じられなかった。明るくて、楽しくて、何よりも喜びに満ちていた気がする、そんな響きだった。
 自分の悲しさを誇示するような悲嘆、膨れ上がったナルシシズムのような後悔、自分に対する哀れみ。いまの自分なら一音でも白鍵を叩けば隠しきれず漏れ出してしまうようなそんな感情をこの少女は無理に押し隠すでもなく、受け入れたうえで、それを強さとして響きに変えている。それはすごいことだ。
 とてもとてもすごい。
──瀬川くんにまた褒められちゃった。
──あ、ごめん。
──なんで謝るの。
 美月はそう言って笑った。
──瀬川くんって優しいね。
 今度は僕が虚を突かれる番だった。僕は美月がいったことの意味がよくわからなかった。僕は言葉にせず、その代わりに眉根を寄せて美月に反応した。
 美月はそんな僕をみてもう一度笑った。
 笑うととてもかわいい子だな。僕は今更そんなことに気がついた。でも、その言葉を口にしたのは美月の方だった。
──それからすごいかわいい人だね。
──どういうこと……。
──瀬川くんは自分が思っている以上に、かわいくて、チャーミングで、面白い人だって気づいたほうがいいね。ピアノとかそんなの関係なくさ。
──はあ……。
 僕は会話の方向がついにわからなくなって、困惑した。
 僕は自分のことから話題を逸らそうと言った。
──お母さんはどんな人だったの?
──え、うちのママ?
 会話のボールが今度は自分に渡されて、驚いた美月が目をぱちりとさせた。
──そうだねえ、うちのママがどんな人かあ……。
 美月は目を細めると、小さな生き物を慈しむように微笑んだ。その表情はピアノを弾くときの彼女の表情を少し思わせた。
──うちのママはね、優しかったよ、すっごく。それにいろいろ細かいことをいーっぱい覚えているような人だった。それは記憶力がいいとか、几帳面だったとか必ずしもそういうことじゃなくてね。
 美月は顎に手を当てて、正確にそれを表現しようとした。
──なんていったらいいのかな。道端に咲いているふつうの人だったら見過ごしてしまうような植物にも絶対に気がつけるような人って感じかな。ママは自分が生きてきたどんな些細な景色も出来事も覚えているような人だった、そのとき感じた自分の感情も。それは多分ママの音楽家というか作曲家としての信念のようなものだったというか、そんな人だったから音楽家だったのかも。
 美月は話し続けた。
──ママがピアノについて言っていたのは、どんな些細な景色や思い出もそれはそれだけで大事で大切にされるべき価値があるものだって。逆に言えば音楽というのは、一つの曲というのは本質的には誰かが見た景色や感じた感情、つまり記憶そのものだって言っていた。ピアノはそれが他のどんな楽器よりもはっきりと出る一番本質的な楽器なんだっていうのがママの主張だった。
 僕は美月の説明を聞きながら考えた。美月の母が言うことは一奏者としても違和感はなかった。ある意味それはどのような音楽家であれ多かれ少なかれ感じていることをまっすぐ言葉にしていた。
──ママはね、それがどんなにありきたりな景色でも、それがどんなに辛くて悲しい記憶でも、忘れたりせずに大切にすべきだって言っていた。それがどんなに悲しくても、辛くても、それをその人がその運命のなかで感じることになったのは意味のあることでそれはかけがえの特別なものだからって。
 僕はさっき聴いた美月の演奏について考えていた。
 伸びやかで、そして、まっすぐなその響き。
──人は誰かを覚えている限りたとえその人がその場にいなくても、それはそばにいるということだし、忘れない限りその人はずっと生き続けることができるはず。もしかしたらありきたりで平凡に聞こえるかもしれないけど、それでもやっぱり人が本当の意味で死ぬのは誰からも忘れられたときだって、だから自分はなにもかもどんな些細なことでも覚えておきたい、だってさ。
──それがどんなに辛かったり、苦しかったり、忘れてしまいたいようなことでも?
 僕は美月に尋ねた。
 美月は自分に母親が乗り移ったかのような真剣な顔でうなづいた。
──うん、たとえそれがどれほど苦しかったり、悲しくて、忘れたいような記憶でも。
 僕は美月の言葉をきいて思った。
 それはもしかしたら、とても強くて覚悟のいる生き方なのかもしれない。
 美月はうなづいた。それからやっぱり母親を思い出すように穏やかに微笑んだ。
──そうだね。でも、ママは言っていたよ。結局人はどんなに忘れていたって、忘れてしまおうとしたって最後にはなにも忘れることはできない存在だって。



                 ***


 アレってなんだよ?
 僕と美月は、陽菜に聞いたが、陽菜はいいからついてきてと言って、ほとんどまともに答えず僕らにエスカレータに乗るように促した。
 三階から二階に降りる途中にあった子ども服売り場では、入学式前の子ども用のジャケットや色とりどりのランドセルが並べてあった。いまは男の子は黒で女の子は赤に限らないどころかそもそもランドセルで通う子は少なくなっていたりするのだろうかなんて関係ない思考が僕の頭をよぎった。
 それから二階から一階に僕らはまるで天国への階段を逆走するみたいに運ばれていった。
 一階のフロアに足元が辿り着くと、よっと、と陽菜は少し跳ねてエスカレータを降りた。
 それからアパレルショップや抹茶アイスを売っているスタンドの前を通りモールの客のあいまをすいすいと避けていく。後ろの美月が置いていかれないようにちょこまかと前を歩く自分についてきた。
「おいおい、どこに行きたいかくらい言ってくれよ」
「ごめんごめん、もう着いたよ」
 そこはちょうど吹き抜けになったモールの中心だった。その吹き抜け空間はイベントごとがなにかあるときは催事場として使われているイベントスペースだった。
 スペースはいまは何もイベントがないらしく行き交うモール客の衆目を集めてはいなかったが、中心には「どなたさまもご自由に譲り合ってお使いください」と立て札が置かれた一台の慣れ親しんだ装置が置いてあった。
「なんだストリートピアノか」
 陽菜はとびきっりの獲物を見つけてきた群れの一匹のようにどこか誇らしげに、ふふんと僕らに鼻を鳴らした。
「さてさて、ではここは退院一発目の記念すべき野良リサイタルとして藤咲美月さんに演奏をご賜り……たいところではありますが、流石に病み上がりですぐに衆目の演奏は荷が重いと思いますので、不祥私めがご披露させていただきたく思います」
「なんだ、結局お姉ちゃんにピアノを聴いて欲しかっただけか。はいはい、シスコン案件、シスコン案件」
「観客席のシスコンはお静かに願います」
「だから、シスコンの意味が違うって、シスコンはお前だろ」
 美月は僕らのコントに嬉しそうにニコニコしながら、「それじゃあお願いしますわ、天才女子中学生ピアニストさま」といった。
「ふふん」
 陽菜は姉に頼まれてますます嬉しそうに調子づいた。
「なんだ天才女子中学生ピアニストって満更でもないんだ」
 僕はせめてものヤジとばかりにいった。
「うるさい、シスコン根暗凡俗ピアニスト」
 だからお前はシスコンの意味がわかってるのか?
 しかし、コントもそこまで。陽菜は天板の開かれたピアノに数歩近づいて着席した。
 それから首をなんどか上下にゆらりと動かして予備動作をとり鍵盤に指を置く。
 それからゆっくりと春風の吹き渡る海波を引き寄せるような指先で旋律を響かせ始めた。
 買い物客の様々な色の音で溢れかえっていたモールに透明な風の音が混じる。
 ピアノとは不思議な楽器だ。
 どれだけの音が溢れてる場所でも、無数の楽器の楽団中の演奏でも必ず掻き消されず、この耳に響いてくる。
 ピアノは無数の色で混ざり合った絵の具のなかでも必ずその透明な色を失わない特別な楽器で、そしてその透明さは必ずピアニストの心の色を示さずにはいない。ピアニストは透明なその音を聴きながら、自身の音の色と常に向き合い続ける人間だ。
 ピアニストは響きを通じていつのまにか聴いている人間の心を染め上げてしまう。
 それを意識的に無意識的に行うのがピアニストだ。
 美月は僕の隣で一人のピアニストの演奏を静かに見つめている。
 それから華やかで透き通った色に惹かれた人が一人、一人とまた足を止めていく。
 天才女子中学生ピアニストか。
 僕はテレビ局がつけたであろうその軽薄な呼び名を思い出す。
 なかなかやるじゃないか。
 美月が増えてきた人だかりのなかで、この透明な演奏会を壊さないようにそっと耳元で囁きかけてきた。
「ねえ、奏、この曲、きいたことないでしょ?」
 陽菜が聴く曲はクラシックの定番でもなければ、有名なポップスというわけでもなかった。何かの現代音楽のなかの一曲だろうか。
 美月は首を振っていった。
「この曲は発表されてないの。この曲を弾けるのは世界で私と陽菜の二人だけ。この曲はね、ママがちっちゃいときに私たちのために作ってくれた曲なんだよ」
 美月は演奏を聴きながら、広いホール会場で響かせるようにピアノを黒鍵と白鍵で歌わせるピアニストを見つめた。



                    ***

──藤咲さんは……、
──ねえ、もう「美月」でいいよ。それで瀬川くんは「奏」ね。私たちはもうマブダチだから。「マブ」の「ダチ」。マブいね。

──……マブダチね……。
──あれ、嫌だった?
 僕はそんなことないよと言い直した。
──じゃあ美月はさ、お母さんのその考え方をどう思うの?
 僕は最後にそう聞いた。
 それがどんな答えなのかは美月自身のなかに、そして彼女の演奏のなかにその答えは存在しているような気はしていたけど。
──そうだなあ、演奏家としてシンプルだけどだからこそすごく力強い考え方だと思う。素敵だし、そうわたしもあれたらいいなって思う。痛みすら、ある意味ずっと自分の一部だとして大事にしておくの。でも、ちょっと怖いかなとも思う。
──怖いってどういうこと?
──だって、やっぱりときには忘れたいこともあるじゃん。それに……、
──それに?
──なんだろ? わかんない、なんとなくかな。

 美月は衒いもなく笑った。

──そっか。

 僕は美月の話をそれで全て聞き終えた。
──じゃあ、最後に奏くんの番、奏くんも一曲聴かせて! ああ、夢にまで見た瀬川奏の演奏が今ここで聴けるなんて!
──それはまた、今度ね。
──ええー、なんで、ずるい〜。
──簡単に忘れられるのも悔しいからさ。
──わたし、奏くんの演奏なら絶対忘れないよ。
 美月は今度は歯を見せてニッと笑った。
 僕も美月に向けて笑った。彼女が僕の名前を呼ぶとその響きはとても久しぶりに心地よいものとして胸に響いていることに僕は気がついた。彼女に向けた僕の笑いは自分でも驚くほどもう自然なものに変わっていた。
 兄との演奏会以来、いや、もうずっとそれ以上前からこんなふうに笑ってなかった。
 美月の前でそんなふうに笑えたことの意味を僕はまだそのときは気づいていなかった。
 まあ、それはこのあとすぐに気づくことになったんだけど。
──今度、絶対聴かせてね。
──わかったよ。
──約束だからね。

 音楽室に差し込んでいる日差しの色はもうすっかり変わっていた。
 オレンジの光が差し込む音楽室で美月がイタズラっぽく笑うこの記憶は今の僕の何を構成しているだろう。
 僕は、全てが終わった今この瞬間でそんなことを考える。
 美月はいろんな笑い方をした。
 優しく穏やかに、ニッと歯をみせたり、ときに寂しさや辛さを隠すように。
 まるでたくさんの音楽記号みたいに。
 でも美月はけして人を傷つけたりするような笑いはしなかった。
 僕は美月のそんなところも好きだった。
 そして、今になって後悔する。
 ピアノなんていくらでも弾いてやればよかった。
 望むなら何度でも。
 でも、もうそれは叶わない。
 結局僕は今日まで美月にピアノを弾いてやることは最後まで一度もなかった。