3.
中学二年の一学期、僕は前にいた学校から美月のいる同じ県の私立学校に転校した。
母さんが施設に入って、僕と兄は半年ほどは祖母が用意したハウスキーパーに生活の面倒をみてもらっていたが、新しい学年になるタイミングで僕は正式に親類間で決められた親族の家に移ることになった。
兄はちょうど中学を卒業するタイミングだったので、一人暮らしを始めるようだった。
もっとも僕だって預けられる親族の家は中学を卒業するタイミングで出ようとはすでに考えていたし、引き受けた親族もそのつもりのようだった。
僕の住所はこのときに10年以上暮らしたマンションを離れて、県の南部へと移った。
一学期のクラス替えのタイミングで転校したので、特に目立たずに紛れ込めるかなと期待したが、新学年になって直後の教室でも一人知らない奴がいるということはすぐに気づかれた。おまけに初日のホームルームで転校生徒としてクラスメイトに挨拶するように担任の教師はわざわざ僕に言った。
僕は教壇に立つと当たり障りのない自己紹介をした。
担任の教師は僕があまり得意ではない種類の笑いをしながら、瀬川くんは好きなこととか特技はなにかな? と言った。
僕は新しい担任の教師のその問いかけに一瞬答えに窮したが、それでも一応答えた。
──特にありません。
僕はそれだけ言うと、教壇を降りてさっさと決められた席に戻った。
美月と最初に話したのは確か転校してきたその日の放課後だった。美月はそのときクラス委員を任されていて、転校生の僕への校内案内を任されたのだった。
美月は校内を歩きながら、ここが理科室、ここが放送室と僕にひとつひとつ丁寧に教室を説明してまわった。それから美月は最後に音楽室に僕に案内した。
僕は少し校内を歩き疲れて、音楽室の椅子に腰掛けた。
この学校には吹奏楽部はないのだろうか? 僕は誰もいない広い音楽室の黒板にチョークで書かれた消えかけの音楽記号を見つめながら思った。
間の抜けた顔から僕の疑問を察したのか、美月は言った。
──まだ新学年が始まったばっかりだから部活の活動期間が始まってないんだ。瀬川くん、もしかして吹奏楽にも興味あるの。
僕は黒板への目線を外した。美月の聞き方に、僕は微妙な違和感を感じて聞いた。
──いや、そういうわけじゃないけど、吹奏楽に〈も〉ってどういう意味?
──あ、えーと、それはね……。
美月は僕の質問に答える代わりに、教室の隅のグラウンド・ピアノの鍵盤蓋を開くとピアノ椅子に座った。
それから、ちょっと緊張するなと照れくさそうにいうと、両腕を挙げて袖を整えると演奏を始めた。
弾むような対位法のステップ。涼しい夏の夜を思い出させるような柔らかなリズム。月明かりが夜の湖面を優しく揺らし、波の合間に映る光るほのかな輝きを伴って響くアレグレットの調べ。このあとの嵐のような展開を予感させる、短くも儚い優雅で楽しげなひととき。
月光第二楽章アレグレットだ。
左右のバランスは完璧で、音符の一つ一つがかけがえのない存在であるかのように語りかけている。テンポの揺らぎにも敏感に対応し、音の波に漂いながらも、決して溺れていない。
そして、何よりもリズムがしっかりとコントロールされながらも、繊細な変化をピアニスト自身の意志によって作り出しているのが分かる。
弾かされているのではなく、きちんと弾いている。
いや、それ以上だ。
このピアニストは、すでに自分の内面に「弾かされている」。
初級者が楽譜に「弾かされる」段階を超え、技術的に卓越した先にある、自らの内面に導かれたそのピアニストだけの個性が感じられるもう一度今度は最初とは違う意味での「弾かされる」演奏をしている。
──どうかな?
美月は照れ隠しに微笑みながらいった。
──第三楽章も弾けるんだよ。
──中学生でこのレベルは、なかなかのものだと思う。
美月は軽く肩をすくめて苦笑いした。
──なにそれ、瀬川くんも中学生でしょ。
──あ、ごめん。
──冗談だよ。褒めてくれてありがとう。瀬川くん、春休みに県主催の演奏会にお兄さんと出てたでしょ? わたし、そのとき聴いてたんだよ。やっぱりお父さんの血は争えないね。でもまさか春休みが終わったら、同じクラスに転校してくるなんて思ってなかったよ。
僕は美月の言葉を聞いて、自分の内側が身構えたのを感じた。
演奏を聞く限りただ趣味でやっているというレベルではないのだろう。確かに著名な父とそしてその息子である自分と兄はある程度のピアノ関係者なら、気づくのはそんなに難しくないことなのかもしれない。
──ねえ、なんでさっきクラスでピアノのことみんなに話さなかったの?
──ピアノはもうやめたんだ。ちょうどそれこそ君が聴いた演奏会でね。
美月は僕の言葉を聞いて、大袈裟に立ち上がった。鍵盤に勢いよく両手をついたので音楽室には耳障りな不協和音が響いた。
──ええ、どうして! 二人ともすっごい良かったのに!
──ピアノなんて親に言われてやってただけだよ。それに……。
僕は次の言葉を言うのに躊躇った。耳元でいつか兄が言っていた言葉が蘇る。ピアノをまるで汚らしいものをみるような瞳。僕は自分のなかの違和感に配慮せずに言った。
──こんなもののなにが面白いの。
美月は僕の言葉を聞くと少しムッとしたような表情になった。ピアニストの前で言うべきセリフではないのかもしれなかったのかもしれない。それはわかっていた。
──瀬川くん、嘘つきだね。
──え?
──だって、私の演奏聴いてるとき、すごく楽しそうだったもん。
僕はいい返す言葉が思いつかなくて、黙るしかなかった。
もしかしたら、僕はこのときからすでに美月に嫌われるようなことをもう言いたくなくなっていたのかもしれない。
──本当にやめちゃったの? もったいないなあ。瀬川一家の指先はピアノを弾くために存在するって、雑誌にも書いてあったよ。美しい家族の調和が奏でる孤高の響きって。
僕は今度ばかりはあまり躊躇わずに嫌な笑いがこぼれた。
美しい家族の調和が奏でる孤高の響きか。
確かに小学校に上がってすぐに兄とコンクールに出たあとにそんな雑誌のインタビューを家族で受けた気がする。僕らとしては苦笑以外のなにものでもない記事だったけど。
どうやら僕ら一家の事情はまだ雑誌記者のパパラッチ的な好奇心に見つかっていないようだ。だいたい家族の調和が奏でる孤高の響きってなんだ。調和と孤高って微妙に矛盾してないか。
──ねえねえ、じゃあさ、最後にファンのために一曲だけお願いできない?
目に中学生らしい幼さを宿しながら美月は僕に言った。
──お断りするよ。それに父の演奏なら、兄の方がよっぽどうまくできるはずだよ。
美月はさっきと同じように眉を寄せて少しムッとしたような表情でいった。
──私は瀬川くんの演奏が聴きたいの!
お世辞のつもりにしては、やや真剣さを感じないでもない言い方だったが僕は言った。
──僕の演奏なんて、父と兄の劣化コピーだよ。音源を聴く方が時間の無駄にならなくていい。
──そんなことない! ていうか、それ、演奏会で感動したわたしにちょっと失礼じゃない。
僕は罪悪感を隠すように少し語調を強めて言った。
──そんなの僕は知らないよ。
美月はそれでもなお諦めずに食い下がった。
それから最後に演奏会の演奏を思い出すような表情を見せていった。
──わたしは瀬川くんの演奏の方が好きだったんだけど。
──曲の感想にお世辞を言うのはあんまりよくないよ。さっきもいったけど、技術とかなら兄の方がいいし、父の演奏に近いから。
──お世辞じゃないよ! うーん、ていうか、瀬川くんの演奏ってどっちかというとお母さんの方に似てるよね。
僕は美月の予想外の言葉に一瞬反応が遅れた。
誰かが窓を閉め忘れたのだろうか、廊下のほうから春の風が感じられた。
それは砂の匂いが混じっていたが、冷たさが日の暖かさに溶かされていて僕は不愉快に感じることはできなかった。
──そんな感想は初めてもらったよ。
美月はまるでテストの成績を誉めてもらった子どものように無邪気に僕の言葉を褒め言葉だと受け取ったようだった。
──わたしとおんなじだね。私の演奏もママに似てるってよくパパに言われるの。
──どういうこと?
──私のママもピアノやってたんだ。だんだん作曲の方がメインになってあんまり演奏家としての活動は少なくなったんだけど。私の名前も曲からとったんだよ。なんの曲かわかる?
ああ、だからさっき月光を弾いたのか。
僕は美月の演奏にベタなオチがついたような気がして思わず笑った。
──へえ、それじゃあ、藤咲さんのお母さんもピアニストなのか。じゃあ今度お母さんの演奏会があったら聴かせてもらうよ。
僕は会話を自分の話題から逸らそうと言った。
──わあ、瀬川くんにそう言ってもらえるの嬉しいなあ。
言葉とは裏腹に、今度は美月が苦笑いする番だった。
美月は僕の言葉に誤魔化すようにまたピアノ椅子に座った。
──でも、ダメなんだ。
──ダメってどうして?
──お母さん、私が小学生のときに死んじゃったんだ。
4.
「奏くん、美月を頼むよ」
「はい」
美月の退院の日、俊明さんと看護師さんに見送られながら病院の玄関で僕らはタクシーを待っていた。
退院は、美月が蘇って一週間もしないうちに決まった。
──一通り検査の結果を見る限り、美月の身体はもうそこらの人とは変わらないよ。だったら病院に留めておく理由もない。
俊明さんは、入院中最後になった診察であっさりと美月にそう告げた。
──もちろん検査も定期的に行うし、入院生活で体力や筋力はかなり落ちてるだろうから、リハビリには通ってもらう。なによりもはしゃいでいきなり無理しすぎないように。
もしかしたら、俊明さんは美月がまた元のようにベッドから抜け出せない状態に戻ってしまわないか怖かったのかもしれない。
だから美月が症状が出る前に戻ったいますぐにでも、以前の生活を過ごさせてやりたかったのかもしれない。仮にまた症状が現れて元の状態に戻るのだとして、少しでも長く居心地の良い外の世界で過ごさせてやりたいのかもしれない。
実際、俊明さんは高校のほうには復学届はすぐに出したが、実をいうと学校側からは美月は二年生クラスで戻ってくるように提案されたらしい。
勉強は入院中でも、自分が教えたり学校側のフォローもあって実は問題ないとのことだったが、出席日数が足りないという点で難色を示されかけたらしい。
だが俊明さんはそれでも、美月が入学した学年である三年生クラスに戻してくれるように学校側になんとか頼み込んだようだ。
──勉強の方でも、生活の方でもたぶん奏くんにこれまで以上に頼るところが出てくると思う、申し訳ないけど頼むよ。
退院の前日に僕は俊明さんにそんな言葉を復学の裏事情と共に相談された。
僕にしてみれば、美月のフォローなど、そんなことは今更という気もしたが、それでも俊明さんの真剣な表情に黙って頷くしかなかった。
当の美月はこちらの気持ちをわかっているのか、わかっていないのか、入院以来の相変わらず能天気なふうで話していた。
「もー、二人とも心配しすぎ。まあ奏のアニキ、わしらがシャバに戻ったんやからまた組を復活させて仁義なきテッペン取りましょうや」
「あ、そうだ、美月、しばらくは奏くんがうちで生活してくれるから」
「え! なにそれ、わたしきいてないよ! もしかして奏は聞いてたの?」
「ああ」
美月の家でしばらくやっかいになるのは、俊明さんに事前に相談されていたことだった。
──もし奏くんのおうちが問題ないというのならの話なんだがと、俊明さんは下げた頭をさらにもう一度下げながら僕に言った。
──全然、問題ないです、むしろ、こっちからお願いしたいくらいですよ。
僕は俊明さんにそう返事をした。 今の僕は母方の親類に預けられているが、正直僕のことなどあまり関心はないようだった。むしろ親類は陰気な僕をどこか疎ましく思っているところがあるので、きっとこれ幸いと飛びついてくるだろうと僕は何となく思った。
「ええ、シャバの生活が最初からパパ公認の同棲生活(はーと)だなんて、あーれー、花のJKの貞操、まさに一世一代のピンチ! もー、奏の頭はぐへへー状態ですよ、ダンナ!」
「ハイハイ、グヘヘーグヘヘー、デスネ」
「なんでカタコト!?」
──ありがとう。基本的には私も家には帰ろうと思うんだが、やはり夜勤の当直もあるし、なによりも美月の症状についてデータを少しでも病院で調べておきたいんだ。
僕はやはり頷くしかなかった。
「まあ、こんなに元気になったとはいえ、やっぱり最初のうちはなにがあるかわからないから、私がいない日に美月たちだけにしておくのはな」
<たち>だけ? 聞き間違えだろうか? 藤咲の家はいまは美月と俊明さんだけのはずで、確かに二人にはもう一人妹がいるが、彼女はウィーンの音楽大学の音楽祭に招かれて一ヶ月日本にいなくて、だから俺が頼まれたということなのでは……?
「いやだ、こんな”らぶでこめ”展開が現実に許されていいの?」
美月の方はいまだに一人でコントモードのようだったが、僕は疑問を拭えず、俊明さんに確認しようとすると、「そのラブコメ展開ちょっと待ったーーーーー!」と、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
僕たちは振り返ると自分たちが呼んでいないんタクシーが一台止まっていて、一人の背の低いスーツケースを引っ張った少女が立っていた。
「あら、カナデさん、なんでしょう、あのいかにも妹キャラみたいな妹キャラは?」
美月は大袈裟にオホホとばかりに僕に言った。
それはまごうことなく元気系の妹キャラだった。
「退院のタイミングでパパ公認のラブコメ展開にさせようったそうはいかないわよ! わたしもたったいま帰ってきたから今日から三人で暮らすからね!」
美月と三つ歳の離れた現在同じ学園の中等部三年生でなおかつ天才女子中学生ピアニストという妹キャラのその名前は藤崎陽菜といった。
「え、陽菜、お前、あと一週間くらいウィーンのほうで音楽祭に参加するんじゃなかったのか?」
「なに言ってるの! 実の姉が死にかけていたのよ。そんなの予定を変更してすぐに帰ってくるに決まってるじゃない」
まあ、それはそうかもしれないが。俊明さんは騒がしい娘にはもう慣れたものなのかとくにマイペースを崩さすに話しかけた。
「おや、一昨日電話したしたときは、明日くらいに帰国っていってなかったっけ?」
え? 俊明さんは知ってたの?
「あれ? 奏くん、言ってなかったっけ?」
言ってなかったです。というか、陽菜が帰ってくるなら、確かに自分いらなくない?
俊明さんは僕の目を見て、いつもの穏やかな微笑みで応えるのだった。
「まあ、男手は多い方がいいし、やっぱり美人姉妹とやれやれな僕で三人同じ屋根の下っていうのが王道のラブコメじゃない?」
そうだった。この人、美月が入院してからのシリアス展開で忘れていたが、普段はただの穏やかで思慮深いパパ役なんじゃなくて、こんな天然属性な人だった。ていうか、王道のラブコメじゃない? ってそれ、もう天然じゃなくて確信犯ですよね?
そんなふうに僕が困惑していると陽菜はじっとこちらを見つめて、ぼそっと一言つぶやいたように言った。
「このシスコン厨二病男」
「どういう意味だよ! ていうか、シスコンの意味間違ってないか? シスコンはお前だろ!」
「わたしがシスコンなのはいいのよ! 奏がシスコンなのがやばいって言ってんの!」
「だから、僕はシスコンじゃないから!」
そんなふうに僕と陽菜がドツキ漫才をやっていると、美月は嬉しそうに笑っていた。
「なんか、まだ家に帰ってないのに帰ってきたみたい。二人ともありがとう」
陽菜は美月の言葉を聞くと、少し我に帰って恥ずかしそうにそっぽを向いた。
それからそっと照れながらお土産を渡すように言った。
「奏、わたしがいないあいだ、ありがと」
僕はその妹キャラらしい背の低い後ろ姿に思い出す。
陽菜がウィーンに向かったのはちょうど三週間前だった。
ウィーンの名門音楽大学からの招待にも、最初は陽菜は姉が入院しているうちは絶対に日本を離れないと応じるつもりはないようだった。
そのウィーンのさる音楽大学はヨーロッパのなかでも最高峰の名門音大のうちのひとつで、その音楽祭は世界中でもトップレベルの音楽関係者が集まる恐ろしいほどのレベルのものなのだが、それが陽菜の今後の音楽家キャリアの足がかりになるのは明らかだった。
それでも陽菜はそんなものはどうでもいいから姉のそばにいれるだけいたいと俊明さんの説得にも聞く耳を持っていなかった。
それでも最終的に「わたしには奏がいるから」と、美月が渡航期限の前日ギリギリに必殺のお姉ちゃん命令で送り出したのだった。
そのときの陽菜はそれでもまだなにか言いたそうだったが、その場にいた僕の胸に一発拳を打ち付けると一言「奏、わたしはお姉ちゃんのために行くんだからね! だから、あんたも……」とそれだけいうとようやく渡航を受け入れたのだった。
僕はそっぽを向く陽菜に背の低いの頭に手を乗せるとそのままわしわしと撫でた。
「留守は守ったよ、おかえり、妹キャラさん」
妹キャラは、頭を撫でられながら、少しだけ目を潤ませて「なんであんたに頭をなでられなきゃいけないのよ」と言った、けれど黙ってされるがままにされていた。それから、しばらくすると振り返って俺たちに叫んだ。
「さあ、シリアス展開はもう終わりなんだから! 三人で一つ屋根の下でラブコメ展開やるんだからね!」
「あ、お父さんも帰れる日はちゃんと帰るからね」
最後に俊明さんが珍しくオチを買って出るように付け足して、美月は自分が一番大事にする家族のコントに最前席で笑った。
5.
タクシーで藤咲の一軒家まで向かうと美月は早速お気に入りのソファに飛び込んだ。
「うにゃ〜、やっぱおうちが一番だにゃ〜」
入院生活が決まったこの一年間でも一度も帰る機会がなかったわけではないが、それでもここ数ヶ月は体調が急激に悪化していたせいで一度も帰れていなかったのだ。
父のいる病院とはいえ、それでもやはり自分の家だと安心感がまるで違うのだろう。美月がベッドのうえで猫のように嬉しそうに転がっているのを見るだけでなんだか胸が熱くなるような気がした。
お姉ちゃん、とりあえず服着替えなよー、あとからスーツケースをタクシーから下ろして入ってきた陽菜の声が背後から聞こえてきた。この姉妹とはなんだかんだで四五年くらいの付き合いになるはずだが、正直にいえば、二人の関係性はいまだに僕は掴みきれていなかった。
もちろん仲がいいのは確実にわかる。
面倒見のよい姉と子どもっぽい妹かと思えば、天然なお姉ちゃんと口は悪いがしっかりものの妹にみえたりもする。
そのリラックスした関係は兄と自分の関係とは違うなとぼんやり思う。
そんなことを思いながら、美月の隣に腰掛けると、美月は何かに気づいたらしくガバッと起きて、「あ、そうだ、着替え!」と叫んだ。
「はいはい、とりあえず着替えてこいって、飼い主(妹)が言ってるぞ」
「あ、そうじゃなくて、奏の着替え」
「うん? あー、そうか、まあ夕方くらいに一旦取りに帰るか」
美月は僕の言葉に、意味ありげにチッチッチと指を振りながらおおげさに言った。
「まあそれもいいんだけど、どうせなら他にもいろいろいるものあるでしょ?」
「まあ、そうだけど?」
「ね、せっかくなら買い物に行こうよ!」
***
というわけで、僕たち三人は病院から戻ってすぐに早速家を出て、再びバスに乗ってわざわざ少し遠めのショッピングモールまで向かった。
土曜日のショッピングモールはこんな県の中心から外れた郊外でもそれなりに人で賑わっていた。僕は人混みのなかで久々の外の世界は美月の負担にならないかと心配したが、当の美月は妹と二人でニコニコとエスカレータに乗り込んでいた。
お昼がまだだった僕たちは着いたらまずフートコートで食事をすることにしたが、美月は爛々とハンバーガーショップやらアイスクリームスタンドに目を輝かせた。
美月はさんざん何を食べるか悩んだ挙句、ミニ餃子がついてくるラーメンセットにした。ちなみに陽菜は親子丼と小うどんのセットで、自分はカットステーキ重と蕎麦にした。
美月は自分のラーメンセットが出来上がるまで呼び出し用のベルを両手で持ちながら、先に食べ始めた僕らの料理に「いいな、いいな、そっちもよかったなあ」と心底羨ましそうに言った。
「少し食べるか?」とせっかく聞いたが、美月は「ダメ、フードコートでは一人一つで欲張っちゃダメなの。それがルールなの」とよくわからないが妙に義理堅いことを言った。
「お姉ちゃんって本当に食いしん坊だよねえ」
「健康な証拠です」
美月は微妙に笑っていいのか、笑えないかのギリギリの発言をして、それからけたたましくラーメンセットに呼び出されて、席を外した。
「奏はさ、ここのモールが出来てから引っ越してきたんだよね?」
陽菜は最後に小うどんを食べる派らしく少し伸びた麺をずるずる啜りながら話しかけてきた。
「たぶん、そうじゃないかな。引っ越したばっかりのときにもここで買い物したからそうだと思うけど」
そういえば、美月と最初にどこかに出かけたという思い出も、ここのショッピングモールだった。
あのときは何を食べたっけ。
「ここのモールってさ、実はできたの結構最近なんだよね、その前はおんなじ系列なんだけど、もっとちっちゃいショッピングセンターだったんだ」
「へえ」
俺は答えながら最初に蕎麦を食べる派だったので、残ったメインディッシュのカットステーキ重についてきた山椒を振りかけた。
「それでお姉ちゃんとわたしがピアノのレッスンが終わるとお母さんがよく車で迎えに来てくれたついでに寄ったんだよね。なんかこんなふうに二人で来るのお母さんが死んでからあんまりなかったから懐かしいな。こんなふうに大きいモールになる前のショッピングセンターにもおんなじようなフードコートがあってさ」
美月はカウンターで和食料理屋の隣のラーメンセットのお盆を器からこぼれないように慎重に受け取っていた。
「なんかレッスンは大変だったけど、あの頃こうしてお母さんとお姉ちゃんとフードコートで食べた頃のことが最近いちばん思い出すんだよね」
ステーキ重の味の濃いソースで喉が渇いたので冷水機から汲んできた水を飲み干した。陽菜の話聞きながら、まるで迷子の子どものように人を避けながらこちらに戻ってこようとする美月を見守りながら僕は考えた。
きっとそれは美月もおんなじなんだろう。だから、今日もこんなに楽しそうに笑っているんだ。
僕は想像した。
幼い美月が母親に連れられて、たくさんの食べ物に目移りして、あれも食べたいこれも食べたいと駄々をこねる。でも母親はそんなに食べきれないから、一つだけにしときなさいという。
それがルールだから、と。
でも幼い美月はぐずって我儘をいう。案の上、叱られて泣く泣くラーメンセットを選ぶ。でも食べてるうちに機嫌が直って、最後には笑うのだ。
どれだけ叱られた思い出があっても、きっとそれすらここでは幸福な思い出として思い出される。
「奏の家は家族でこういうところ来たりした?」
「うちはこういうところには来なかったな、でも」
「でも?」
「来ればよかったな」
「そっか」
陽菜はそれ以上は何も言わなかった。
フードコートのラーメンなんて、ちゃちでどこにでもある味だ。でもだからこそその記憶のなかでその味はずっと忘れられないんだろう。ショッピングセンターのフードコートで叱られたり、話したり、そんなのきっと特別じゃないそこらの誰にでもあるどこにでもある他愛もない記憶だ。
でもだからこそ、特別でかけがえのない、大切な大切な記憶の一つになるのだろう。
陽菜は美月が席にたどり着くまでにイタズラっぽく付け加えた。
「でもさ、お姉ちゃんの人生の初キスは奏とここに来たときらしいから」
美月は人混みをかきわけて、ようやく僕らの席に戻ってきた。
「うーん? 陽菜はなんで、そんなニヤニヤしているの? あれ? 奏はなんでそんな顔赤いの? そのステーキ重、そんなに辛かった? 水取ってきてあげようか?」
陽菜は大丈夫だよ、と一言だけいった。
変なの、美月はそういって、持ってきたラーメンセットのミニ餃子をラーメンスープに浸して口に入れるとすぐに麺を啜った。
「いやあ、やっぱりフードコートのラーメンセットでしか味わえない美味しささって絶対あるよね」
美月は餃子をおかずにラーメンを一緒に食べる派だった。
「そうだねえ」
陽菜はそういって姉の満足げな表情をずっと見つめ続けていた。
6.
──お母さん、私が小学校のときに死んじゃったんだ。
美月が気まずさを隠すようにそう苦笑いして答えたとき、僕はなにを感じたろうか。
同情? 哀れみ?
それはなかったと思う。ある意味では僕もまた母さんを亡くしたといえば、そうなのだから。同情や哀れみといった、自分とは異なる他人事のようなそれは違った。
共感?
それも違ったと思う。なぜなら僕の母さんはまだ生きていたから。母親を失ったということを抽象的に同一視して、死者と生者の境を徒らに踏み越えて、彼女だけの悲しみと、僕だけの苦しみの尊厳を犯すようなものも違った。
恥ずかしさ。
もしかしたら、これが一番近かったかもしれない。
母親との関係は崩壊して、まるでそんな悲劇は自分だけのものだと思い込み。世界に対して不貞腐れて、不幸なのは自分だけなのだと思い込んでいたその子どもっぽさをまだ同い歳の幼い少女に見せつけられたという恥ずかしさ。
そしてなぜか生じたどこか説明できないような悔しさ。
結局いくつもの感情がないまぜになって、出てきた自分のなかの言葉は驚くほど短く間が抜けていた。
──藤咲さんはすごいね。
***
ぞれから美月と陽菜と三人でフードコートの食事を食べたあと、僕たちはエスカレーターを上がったり下がったり、右に回ったり左に回ったり、大きな水槽のなかの子魚みたいに、暗い宇宙のなかで廻る惑星みたいにモール内の店を見てまわった。
結局、自分の生活に必要な日用品を買い揃えるというのはただの名目で、姉妹のショッピングに一日付き合わされているという事実に途中から気づいていたが、なんだかんだでそれでも二人が楽しそうなら、それでいいかと僕は笑いながらため息をついた。
よくわからないキャラクラーグッズの店で妹にちょっと不気味な雰囲気のあるキーホルダーを姉として買わされたり、逆に妹にアパレルで服を何着も試着させたり、三人で話題の漫画について書店で喋ったり、本当に他愛もなく、かけがえのない時間だった。
退院したその日にこんなに人の多いところに連れてきて大丈夫だろうかと心配したが、美月は少しずつ日常と外の世界を取り戻していった。
ショッピングモールに訪れたのは昼過ぎくらいだったが、あっという間に日が沈む時間になろうとしていた。
「まあ今日はこんなもんかな」
三階のシネコンを出たところに併設されたベンチで小腹を満たすためのクレープやらタピオカミルクティーを分担で持ちながら、僕は言った。
「そうだね」
美月は隣の陽菜からもらったミルクティーの太いストローから口から離すとそう応えた。
「陽菜はもう大丈夫?」
美月は隣りの妹に尋ねた。
陽菜は真剣そうな顔で両手で数えながらぶつぶつと一人で呟いていた。
「ええと、フードコートでご飯は食べたでしょ、ワガママだけどかわいい妹が勧めてくるちょっとナンセンスなキャラクターグッズもお姉ちゃん買ったでしょ、うん、彼女が試着室で出てきて、いつもと違う大胆な格好で思わず彼氏もドキドキ! もやったでしょ、あと普通に集めてる漫画の最新刊は揃えたでしょ、えーと、あとなんか忘れていることは……」
陽菜のなかで今日の買い物の計画はいったいどういうものだったんだろう。なんとなく妹キャラも大変なんだなと深く触れないようにした。
ちなみに陽菜がつぶやいたことは確かにすべて実行していて、美月は最新の新型女子中学生のあいだでバズってるからと、本当か嘘かわからないが、ボケナス野菜のホウレンソウくんというぬいぐるみを買わされて、いまベンチに座らせていた。
そしてぶつぶつと呟き終えた妹キャラは最後にぽんと拳を手のひらに打ちつけた。
「あ、そうだ、最後に“アレ”やってないわ」
***
──すごい?
美月は僕からの予想外の言葉に驚いた表情を見せた。
──だって、さっき藤咲さんのピアノからは悲しさとか後悔とか、自己憐憫とかそういう響きが感じられなかった。明るくて、楽しくて、何よりも喜びに満ちていた気がする、そんな響きだった。
自分の悲しさを誇示するような悲嘆、膨れ上がったナルシシズムのような後悔、自分に対する哀れみ。いまの自分なら一音でも白鍵を叩けば隠しきれず漏れ出してしまうようなそんな感情をこの少女は無理に押し隠すでもなく、受け入れたうえで、それを強さとして響きに変えている。それはすごいことだ。
とてもとてもすごい。
──瀬川くんにまた褒められちゃった。
──あ、ごめん。
──なんで謝るの。
美月はそう言って笑った。
──瀬川くんって優しいね。
今度は僕が虚を突かれる番だった。僕は美月がいったことの意味がよくわからなかった。僕は言葉にせず、その代わりに眉根を寄せて美月に反応した。
美月はそんな僕をみてもう一度笑った。
笑うととてもかわいい子だな。僕は今更そんなことに気がついた。でも、その言葉を口にしたのは美月の方だった。
──それからすごいかわいい人だね。
──どういうこと……。
──瀬川くんは自分が思っている以上に、かわいくて、チャーミングで、面白い人だって気づいたほうがいいね。ピアノとかそんなの関係なくさ。
──はあ……。
僕は会話の方向がついにわからなくなって、困惑した。
僕は自分のことから話題を逸らそうと言った。
──お母さんはどんな人だったの?
──え、うちのママ?
会話のボールが今度は自分に渡されて、驚いた美月が目をぱちりとさせた。
──そうだねえ、うちのママがどんな人かあ……。
美月は目を細めると、小さな生き物を慈しむように微笑んだ。その表情はピアノを弾くときの彼女の表情を少し思わせた。
──うちのママはね、優しかったよ、すっごく。それにいろいろ細かいことをいーっぱい覚えているような人だった。それは記憶力がいいとか、几帳面だったとか必ずしもそういうことじゃなくてね。
美月は顎に手を当てて、正確にそれを表現しようとした。
──なんていったらいいのかな。道端に咲いているふつうの人だったら見過ごしてしまうような植物にも絶対に気がつけるような人って感じかな。ママは自分が生きてきたどんな些細な景色も出来事も覚えているような人だった、そのとき感じた自分の感情も。それは多分ママの音楽家というか作曲家としての信念のようなものだったというか、そんな人だったから音楽家だったのかも。
美月は話し続けた。
──ママがピアノについて言っていたのは、どんな些細な景色や思い出もそれはそれだけで大事で大切にされるべき価値があるものだって。逆に言えば音楽というのは、一つの曲というのは本質的には誰かが見た景色や感じた感情、つまり記憶そのものだって言っていた。ピアノはそれが他のどんな楽器よりもはっきりと出る一番本質的な楽器なんだっていうのがママの主張だった。
僕は美月の説明を聞きながら考えた。美月の母が言うことは一奏者としても違和感はなかった。ある意味それはどのような音楽家であれ多かれ少なかれ感じていることをまっすぐ言葉にしていた。
──ママはね、それがどんなにありきたりな景色でも、それがどんなに辛くて悲しい記憶でも、忘れたりせずに大切にすべきだって言っていた。それがどんなに悲しくても、辛くても、それをその人がその運命のなかで感じることになったのは意味のあることでそれはかけがえの特別なものだからって。
僕はさっき聴いた美月の演奏について考えていた。
伸びやかで、そして、まっすぐなその響き。
──人は誰かを覚えている限りたとえその人がその場にいなくても、それはそばにいるということだし、忘れない限りその人はずっと生き続けることができるはず。もしかしたらありきたりで平凡に聞こえるかもしれないけど、それでもやっぱり人が本当の意味で死ぬのは誰からも忘れられたときだって、だから自分はなにもかもどんな些細なことでも覚えておきたい、だってさ。
──それがどんなに辛かったり、苦しかったり、忘れてしまいたいようなことでも?
僕は美月に尋ねた。
美月は自分に母親が乗り移ったかのような真剣な顔でうなづいた。
──うん、たとえそれがどれほど苦しかったり、悲しくて、忘れたいような記憶でも。
僕は美月の言葉をきいて思った。
それはもしかしたら、とても強くて覚悟のいる生き方なのかもしれない。
美月はうなづいた。それからやっぱり母親を思い出すように穏やかに微笑んだ。
──そうだね。でも、ママは言っていたよ。結局人はどんなに忘れていたって、忘れてしまおうとしたって最後にはなにも忘れることはできない存在だって。
***
アレってなんだよ?
僕と美月は、陽菜に聞いたが、陽菜はいいからついてきてと言って、ほとんどまともに答えず僕らにエスカレータに乗るように促した。
三階から二階に降りる途中にあった子ども服売り場では、入学式前の子ども用のジャケットや色とりどりのランドセルが並べてあった。いまは男の子は黒で女の子は赤に限らないどころかそもそもランドセルで通う子は少なくなっていたりするのだろうかなんて関係ない思考が僕の頭をよぎった。
それから二階から一階に僕らはまるで天国への階段を逆走するみたいに運ばれていった。
一階のフロアに足元が辿り着くと、よっと、と陽菜は少し跳ねてエスカレータを降りた。
それからアパレルショップや抹茶アイスを売っているスタンドの前を通りモールの客のあいまをすいすいと避けていく。後ろの美月が置いていかれないようにちょこまかと前を歩く自分についてきた。
「おいおい、どこに行きたいかくらい言ってくれよ」
「ごめんごめん、もう着いたよ」
そこはちょうど吹き抜けになったモールの中心だった。その吹き抜け空間はイベントごとがなにかあるときは催事場として使われているイベントスペースだった。
スペースはいまは何もイベントがないらしく行き交うモール客の衆目を集めてはいなかったが、中心には「どなたさまもご自由に譲り合ってお使いください」と立て札が置かれた一台の慣れ親しんだ装置が置いてあった。
「なんだストリートピアノか」
陽菜はとびきっりの獲物を見つけてきた群れの一匹のようにどこか誇らしげに、ふふんと僕らに鼻を鳴らした。
「さてさて、ではここは退院一発目の記念すべき野良リサイタルとして藤咲美月さんに演奏をご賜り……たいところではありますが、流石に病み上がりですぐに衆目の演奏は荷が重いと思いますので、不祥私めがご披露させていただきたく思います」
「なんだ、結局お姉ちゃんにピアノを聴いて欲しかっただけか。はいはい、シスコン案件、シスコン案件」
「観客席のシスコンはお静かに願います」
「だから、シスコンの意味が違うって、シスコンはお前だろ」
美月は僕らのコントに嬉しそうにニコニコしながら、「それじゃあお願いしますわ、天才女子中学生ピアニストさま」といった。
「ふふん」
陽菜は姉に頼まれてますます嬉しそうに調子づいた。
「なんだ天才女子中学生ピアニストって満更でもないんだ」
僕はせめてものヤジとばかりにいった。
「うるさい、シスコン根暗凡俗ピアニスト」
だからお前はシスコンの意味がわかってるのか?
しかし、コントもそこまで。陽菜は天板の開かれたピアノに数歩近づいて着席した。
それから首をなんどか上下にゆらりと動かして予備動作をとり鍵盤に指を置く。
それからゆっくりと春風の吹き渡る海波を引き寄せるような指先で旋律を響かせ始めた。
買い物客の様々な色の音で溢れかえっていたモールに透明な風の音が混じる。
ピアノとは不思議な楽器だ。
どれだけの音が溢れてる場所でも、無数の楽器の楽団中の演奏でも必ず掻き消されず、この耳に響いてくる。
ピアノは無数の色で混ざり合った絵の具のなかでも必ずその透明な色を失わない特別な楽器で、そしてその透明さは必ずピアニストの心の色を示さずにはいない。ピアニストは透明なその音を聴きながら、自身の音の色と常に向き合い続ける人間だ。
ピアニストは響きを通じていつのまにか聴いている人間の心を染め上げてしまう。
それを意識的に無意識的に行うのがピアニストだ。
美月は僕の隣で一人のピアニストの演奏を静かに見つめている。
それから華やかで透き通った色に惹かれた人が一人、一人とまた足を止めていく。
天才女子中学生ピアニストか。
僕はテレビ局がつけたであろうその軽薄な呼び名を思い出す。
なかなかやるじゃないか。
美月が増えてきた人だかりのなかで、この透明な演奏会を壊さないようにそっと耳元で囁きかけてきた。
「ねえ、奏、この曲、きいたことないでしょ?」
陽菜が聴く曲はクラシックの定番でもなければ、有名なポップスというわけでもなかった。何かの現代音楽のなかの一曲だろうか。
美月は首を振っていった。
「この曲は発表されてないの。この曲を弾けるのは世界で私と陽菜の二人だけ。この曲はね、ママがちっちゃいときに私たちのために作ってくれた曲なんだよ」
美月は演奏を聴きながら、広いホール会場で響かせるようにピアノを黒鍵と白鍵で歌わせるピアニストを見つめた。
***
──藤咲さんは……、
──ねえ、もう「美月」でいいよ。それで瀬川くんは「奏」ね。私たちはもうマブダチだから。「マブ」の「ダチ」。マブいね。
──……マブダチね……。
──あれ、嫌だった?
僕はそんなことないよと言い直した。
──じゃあ美月はさ、お母さんのその考え方をどう思うの?
僕は最後にそう聞いた。
それがどんな答えなのかは美月自身のなかに、そして彼女の演奏のなかにその答えは存在しているような気はしていたけど。
──そうだなあ、演奏家としてシンプルだけどだからこそすごく力強い考え方だと思う。素敵だし、そうわたしもあれたらいいなって思う。痛みすら、ある意味ずっと自分の一部だとして大事にしておくの。でも、ちょっと怖いかなとも思う。
──怖いってどういうこと?
──だって、やっぱりときには忘れたいこともあるじゃん。それに……、
──それに?
──なんだろ? わかんない、なんとなくかな。
美月は衒いもなく笑った。
──そっか。
僕は美月の話をそれで全て聞き終えた。
──じゃあ、最後に奏くんの番、奏くんも一曲聴かせて! ああ、夢にまで見た瀬川奏の演奏が今ここで聴けるなんて!
──それはまた、今度ね。
──ええー、なんで、ずるい〜。
──簡単に忘れられるのも悔しいからさ。
──わたし、奏くんの演奏なら絶対忘れないよ。
美月は今度は歯を見せてニッと笑った。
僕も美月に向けて笑った。彼女が僕の名前を呼ぶとその響きはとても久しぶりに心地よいものとして胸に響いていることに僕は気がついた。彼女に向けた僕の笑いは自分でも驚くほどもう自然なものに変わっていた。
兄との演奏会以来、いや、もうずっとそれ以上前からこんなふうに笑ってなかった。
美月の前でそんなふうに笑えたことの意味を僕はまだそのときは気づいていなかった。
まあ、それはこのあとすぐに気づくことになったんだけど。
──今度、絶対聴かせてね。
──わかったよ。
──約束だからね。
音楽室に差し込んでいる日差しの色はもうすっかり変わっていた。
オレンジの光が差し込む音楽室で美月がイタズラっぽく笑うこの記憶は今の僕の何を構成しているだろう。
僕は、全てが終わった今この瞬間でそんなことを考える。
美月はいろんな笑い方をした。
優しく穏やかに、ニッと歯をみせたり、ときに寂しさや辛さを隠すように。
まるでたくさんの音楽記号みたいに。
でも美月はけして人を傷つけたりするような笑いはしなかった。
僕は美月のそんなところも好きだった。
そして、今になって後悔する。
ピアノなんていくらでも弾いてやればよかった。
望むなら何度でも。
でも、もうそれは叶わない。
結局僕は今日まで美月にピアノを弾いてやることは最後まで一度もなかった。
1.
そうして春は過ぎて、僕らは高校最後の年に進級した。
入院中でも自分がフォローしていたとはいえ、一年もの勉強のブランクは大変だったろうし、クラスの人間関係なんかもすっかり様変わりしていたろうから、自分が想像しているよりもきっと何倍も大変だったはずだが、それでも美月は弱音を吐かずに退院後の生活を危なげなくこなしていた。
美月は持ち前の屈託のなさでもともとクラスの人気者だったし、教師の覚えもめでたい生徒だったので、自然といろんな人が美月をフォローしてくれたことも幸いだったのかもしれない。
復帰後、教室のなかでクラスメイトに囲まれて歓迎されているのをみて、僕は安堵するとともに、美月の人を惹きつける姿に自分との違いを知らされて、苦笑いが漏れるのを感じないわけでもなかったが……。
もっともそれも陽菜にいわせれば、「そんなのあたりまでしょ、お姉ちゃんに奏が勝てるわけないじゃん」とのことだったが……。
反論はない。
「奏、今日、放課後空いてる?」
それは6月の最後の金曜日だった。
美月がお昼休み入る前に、学食を食べに行こうとする自分を引き止めて尋ねてきた。季節はとっくに春が過ぎて、涼しさはいよいよ立ち去り、暑さがやってきはじめていた。
「空いてるけど」
「よしよし、それじゃあ、今日、授業終わったらちょっと帰るの待っててくれる?」
「いつも待ってるだろ、まあいいけど、今日は補習はないのか」
「あ、うん、あるんだけど、今日は担当の先生が時間ないからいつもよりすぐお終わりそうなの」
美月は学校から放課後に、二年の学習内容をバックアップするための補修室での補講を入れられていた。二年の出席日数が足りてないところを特別に三年に進級させるために学校側が俊明さんに出した条件だったらしい。
俊明さんは退院後にあまり無理をさせたくなかったし、瀬川くんが勉強を教えてくれていたので、と少し抵抗したらしいが、学校側としてもなんらかの代替を行なったという実績を残しておきたいのか譲れないところだったらしく、俊明さんは結局その条件を飲んだらしい。
もっとも美月によれば、受験生だからむしろ受験勉強のために塾にいく代わりになってちょうどよい、渡りに船だと言っていた。もちろん一年かけてやる授業内容を放課後の短い時間にやるわけだから、完全なものではなかったらしいが、それでも入院中に自分が無手勝流に教えていたものはよりよいだろう。
「わかった。じゃあ教室で待ってる」
「うん、よろしく」
美月はそういって、教室のクラスメイトたちのもとに戻っていった。
***
「瀬川ってさ、藤咲さんと付き合ってんの?」
激辛特製麻辣担々麺セットか激甘特製味噌麻婆定食を見比べていると話しかけられた。
僕は比較的クラス内でまだ話す方であるクラスメイトと食堂でお昼を食べようと教室を出ていた。
短い昼休みの時間でさっさとオーダーをするために僕は積み重なったトレーを取った。
「激甘特製味噌麻婆定食をひとつ」
え、そっち?
僕の隣りでクラスメイトの困惑した声が聞こえた。
「辛いものは全然好きじゃないんだよ。麻婆定食一択」
クラスメイトは自分の選択が理解できんという顔で、食堂のおばちゃんに担々麺セットをオーダーしていた。というか、今日の二択は妙に極端だな。
「あ、ていうか、誤魔化すなよ。瀬川は藤咲さんと付き合ってんの?」
僕はどういうふうに答えようか、ふむと頬に手を当て、天井を見た。それから激甘味噌麻婆が来るまでに答えていた。
「付き合ってる?」
「なんで最後にハテナがつくんだよ」
「なんでって」
プロコフィエフ『サルカズム』。僕はこっそり目の前のクラスメイトを心のなかでいつもそう呼んでいた。なんとなく落ち着きのない騒がしいやつなので。
「付き合ってるってどういう状態なの?」
「はあ! お前は本当に、本当に高三か? そんなんもわからねえのか! お前受験生だろ、大学落ちるぞ」
「お前は大学入試をなんだと思ってるんだ……」
『サルカズム』は両腕が変になった指揮者のようにくねくねと身悶えするような動きをしつつ、絞り出すように言った。
「いいかね、瀬川くん、健全な男子高校生と女子高生のお付き合いという奴はだね。ちゃんとお互いに好きだとお伝えしあってですね。それから、こう……、むふふなキッスをしたり、こう……なんというか、こう……対戦したりするんだよ!」
「対戦ってなんだよ」
「きゃあああ、瀬川くんのえっち! すけべ! えろえろ大魔王! もうほんとにぴゅあでぴゅあな青年なんだから! もしかして瀬川クン、そんなんじゃまだちゃんと藤咲さんに告白もしてないのでは?!」
「告白ってちゃんと好きっていうとかそういう話? 確かにしてないな」
「瀬川クン、それは問題だよ! 大問題! それはよくない! そんなんじゃキッスもできないわよ」
「いや、それはしたけど」
「ぐあー!」
『サルカズム』は大袈裟に胸をおさえて叫んだ。
僕は目の前のこいつの名前を『サルカズム』よりさらにうるさい曲に変えようかと他にいい曲はないかと頭のなかで探した。
「お前、キスはしたのに? 付き合ってる(?)なのかよ! それはいかん! それはいかんぞ! おい、お前、ほんとに藤咲さんのこと好きなのかよ」
「? 当たり前だろ、好きに決まってるだろ」
「ぐあー!」
『サルカズム』はまた大袈裟に胸をおさえて叫んだ。リフレイン。
「もうだめだ、お前は今日麻婆を食べる資格はありません」
いつのまにか麻婆と担々麺がやってきていた。『サルカズム』は僕の麻婆まで自分のトレーに乗せてしまった。
「コラ、返せ」
僕たちは言い合いを続けながら、騒がしい食堂で席を見つけて座った。しかしテーブルに座っても『サルカズム』の騒がしい演奏は終わらなかった。
「とにかくちゃんと告白はしておいたほうがいいって、うん、そう倫理的にも! うん、これ、倫理の問題だから。こういうのはちゃんと言葉にして宣言する! それが倫理だから!」
どうにもピンと来なかったが僕は言い返す言葉も思いつかず、レンゲを口に咥えたまま、『サルカズム』の方を見た。
「ははーん、お前の考えていることはわかるぞ、俺と藤咲さんは言葉にしなくてもピアノのメロディで通じ合ってるんだとかそういう感じだろ! だめだぞ! そういうのはルール違反だぞ!」
「なんのルールだよ……」
でも、確かに僕は思い返すと美月にきちんと「好き」だとか、その他いろいろ言葉にするのを疎かにしてしまっていたのかもしれない。僕は美月との時間を思い出して今日までどんな言葉を美月に伝えたかを思い出してみた。だが、思い当たるのは美月が弾いて求められるピアノの感想とかばかりで、それ以外のことが思い当たらなかった。
「まあ、確かに、これからも一生ずっと一緒にいるなら、ちゃんと言うべきことは言ったほうがいいか」
「一生一緒にいる? おお、お前、なんか淡白そうにみえて、自覚なく激重だよな、くわばらくわばら」
「なんだよ、好きな人とは一生一緒にいたいだろ」
「ぐあー!」
付き合っていたら昼休みの時間がなくなると思い、僕は激甘味噌麻婆を口に運んだ。
しかし、激甘というわりにどうも甘さが足りない気がした。
そういえばと、僕は一つ疑問に思っていたことを『サルカズム』に聞いてみた。
「しかし、なんで彼女のいないお前が、僕と美月のことをそんなにアドバイスできるんだ?」
『サルカズム』は、もはや「ぐあー」とすら叫ばず、担々麺の箸を握ったまま床に倒れた。
どうやら、激辛の方は恐ろしいほど辛かったらしい。
僕は頼まなくて良かったと激甘麻婆をさらに口に運んだ。
2.
クラスメイトたちとお昼を食べきって食堂を出ると、すぐに背の低い中等部生に声をかけられた。学校で話すのは意外とないので珍しいなと思った。
「瀬川先輩、すみません、今いいですか?」
なにもべつに学校と外で使い分けなくてもいいんじゃないかと常々思うのだが、本人曰くクラスの女子の微妙な問題もあるのだといつか言われたことがある。正直よくわからないが、どうにも自分はその辺の事情を察しきるのが昔から苦手だったので、本人に任せることにしていた。
「お前、まさかさっきの純愛ぴゅあぴゅあ発言の裏でこんな……」
「美月の妹だよ」
陽菜はどうやら食堂のなかで自分たちを見つけて食べ終わるまで待っていたようだ。
美月と陽菜が姉妹だということは校内では意外と知られていないらしい。
美月とて、クラスでかなり人気があり、ましてや一年間休学していたというある意味ではセンセーショナルな話題の持ち主なので学年全体で名前を知らない生徒はいないと思う。
だが中等部も高等部も合わせて学園全体での知名度という点では、「天才女子中学生ピアニスト」の陽菜の方があると美月は言っていた。
「お姉ちゃんは?」
「さあ、他の友達と別のところでご飯食べてるんじゃないか?」
「なるほど」
陽菜はいまだ外向きの顔を崩さずに言った。
「ちょっと校舎裏に来てもらっていいですか?」
***
「いつもどおり話してくれればいいのに、なんでそんな眉間に皺を寄せてるんだよ」
クラスメイトたちには先に教室に戻ってもらって、わざわざ校舎裏にまで僕は陽菜と来ていた。陽菜は暑さをしのぐため日があたらず少し湿ったずっと影になっている地面を選んで立つと口を開いた。
「べつにいつもどおりでしょ? 話し方はまあアレかもしれないけど。どっちかというと奏が意識してるからじゃない?」
そうなのだろうか。まあでも確かにいつもどこか怒った感じというか、眉根を寄せているのは学校の外であってもそうなのはそうか。ただやはり声の響きというか、なにかがそれでも微妙に違う印象なのは間違いないと思うのだが。
「というか、そんなことはいいの。聞きたいのはお姉ちゃんのことなんだけど」
僕は陽菜の口から聞いた「お姉ちゃん」という言葉の響きで、彼女が自分がいつものよく知っているモードになったと感じた。さっきの食堂でやりとりしたときの「お姉ちゃん」の言葉の響きよりこちらのほうが自分には百倍いい。
「お姉ちゃん、どう?」
「どうって?」
「奏から、見てて前と変わったことはない?」
僕は陽菜の問いかけにすぐに答えずに考えてみた。
正直にいうと、それは結構難しい質問だと思った。
「一年ぶりの外での暮らしだぞ、そりゃ何にも変わってないっていう方がへんだろ」
「それはそうなんだけど」
陽菜はさっきまでの勢いを少し落としながら、自信がなさそうに声のトーンを下げた。
もちろん、自分としても陽菜の心配はわかる。
この一年の生活は美月にとってとても大きな出来事だった。うまくいえないが、それがなにか美月にとって暗い影を落としたり、なにか将来に対して悲観的なものを残していやしないか、心配なのだろう。
それはわかる。
「前と同じようにはいかないさ。むしろ、前と同じように見えるんだったら、それは美月がこっちを心配させないように無理してるんじゃないかって考えないといけないんじゃないか」
美月はよく笑う。そしてとても強い。でもだからこその弱さもきっとある。優しさゆえによく笑い、強い人がもつ、そんな弱さが。そんなことはわかっている。わかりきっている。
よく笑い、そして強い人が持つ弱さは、他人の前で笑うことをやめらず、そして弱さを見せられないことだ。美月の場合はそれが見栄や虚栄心でもなんでもなく、ただ他人を慮っての優しさだ。だから、他人は一層心配になる。
きっといつも笑ってなくてもいいんだよ、弱さを見せてもいいんだよ、と言っても、ありがとうとやはり微笑んで、相手を安心させようとする弱さを演技でもなんでも無意識に見せようとしてしまう。
やはりそれも優しさがゆえに。
「わかってるよ」
陽菜は足元の陰で暗くなった地面をスニーカーで掘り返しながらもどかしそうに言った。
そう、陽菜もそれくらいわかっているのだ。
「逆に家の方ではどうだ? それに検査もまめにいってるんだろ?」
退院して、俊明さんがいうところのドキドキラブコメ展開の自分の居候生活は退院後三週間ほどが経ち美月の生活リズムが戻ってきたかなというところで、僕は自分の家に戻っていた。
「検査はそうだね、今のところ問題はなにひとつないらしいよ。お父さんも、なにせ他の人にはないめちゃくちゃ珍しい症例だから、二週に一回ほどでかなり頻度を多くして診てるけど、今の結果が今月の終わりまで続くようなら、一月に一回に減らして、それも大丈夫そうなら、三月に一回、半年に一回、一年に一回と変えていけるはずって言ってる」
僕はうなづいた。
美月の検査は自分も付き添える限り付き添っていたし、どうしても無理なときは陽菜に行ってもらったりと二人でサポートするようにしていた。それは入院期間中と変わらずあたりまえにやっていた。
いまこうして陽菜と話しているのだって、どことなく美月のサポートチームのミーティングみたいなものだ。
「家でも、なにか具体的にどうってことはないんだけど。お姉ちゃんって受験生でもあるじゃん。だから将来ってどういうふうに考えているのかなって。お姉ちゃん、退院してまだ一度もピアノ弾いてないんだよね」
美月の内面、感情、不安、将来への本人なりの見え方、そんなもの他人の自分たちが結局わかるはずもない。それはこれまでだってそうだったし、そんなもの病気とか関係なく誰だってわからない。でもやっぱり不安になる。
それは僕たちが美月の足元を掴んだ死神の腕を知ってしまったからだった。どうしてもまた美月のどこかにそれをみてしまうからだった。
「お姉ちゃんってずっと音大目指してたじゃん。でももう諦めちゃったのかな。そりゃ音大目指している高校生にとって一年のブランクはめちゃくちゃでかい。でもわたしはお姉ちゃんに諦めてほしくないし、もし卒業したあとに一年でも二年でも、ううん、別にもっとかかっても全然支えるつもりだよ」
陽菜は後ろめたいのかもしれない。
陽菜は本当にお姉ちゃんが大好きで、ピアニストとしての目標もいつも目の前の姉だった。美月はもっと遠くを目標にしなさいといつも言っていたみたいだけど、それでも頑固に美月を目標にし続けた。
でも、所詮、美月と陽菜の歳の差は三年だけだ。10代のピアニストにとってこれくらいの年齢の差は大きい目で見ればほとんどないようなものだし、残酷な話だけど、陽菜のピアノの実力は入院中の一年であっさりと美月を追い越してしまった。
目標にしていた、最大の憧れだったピアニストよりも先を進んでしまった。もちろん美月が悪いわけでもないし、陽菜が悪いわけでもない。でもその事実がもしかしたら美月のピアノへの情熱を挫いてしまったのだとしたら。
「お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね」
陽菜の声には涙声が混じっていた。
ポツポツと初夏の校舎裏の地面に雨が溢れた。
天才女子中学生ピアニストか。
僕は口に出さずに呟いた。陽菜は美月の入院中にピアノを止めないにしても、少し中断しようとしたことがある。でも、それは美月が一番嫌がった。そして陽菜もそれが一番美月を傷つけることをすぐに理解った。
だから、結局陽菜はピアノを中断しなかった。
「美月がピアノを辞めたとしても、それは俺たちが口を挟むことじゃないよ、本人の自由だ」
陽菜は涙顔を隠さずにこちらを見上げた。だから僕は誤解がないようにすぐに天才女子中学生ピアニストをできるだけ落ち着かせるように笑いながら言い継いだ。
「でも、だからこそ、どんな選択をしようと、どんな将来を美月が選ぼうと俺たちはそれを肯定してやろうぜ」
そうだ、結局、僕たちにできることはそれくらいしかない。
僕たちが美月にできることは。
「それがどんな結果になろうと、どんな選択だろう、どんな将来だろうと、俺たちなりに真剣に受け止めて、そんで見守ってやろう、一生美月の側にいてやるためにさ」
僕はこの言葉が決して傲慢なものでないことを祈った。
僕たちが他人のためにできること。
それが存在することを校舎の隙間から見える太陽に祈った。
陽菜は黙って足元を見て僕の言葉を飲み込んでいるようだった。それから笑った。それがどういう意味の笑いなのかはわからなかった。
「そうだね、ありがとう、奏。わたしはたぶん、この先もピアノを辞めれないと思う。もちろんお姉ちゃんがどういうふうになってもお姉ちゃんを支えるつもりではいる。でも、たぶんだからこそお姉ちゃんのためにわたしはこれからもピアノをやめれないと思う」
聞く人によってはある意味陽菜の言葉は傲慢に聞こえるのかもしれない。他人のためにピアノを弾くなんて。でもそうじゃないことを少なくとも僕はわかる。陽菜にとってピアノを弾くことは姉のためなのだ。それが自分のためにピアノを弾くということなのだ。陽菜にとって姉のためにピアノを弾くことが自分のためにピアノを弾くということなのだ。
「だから、入院のときも、春先にお姉ちゃんが危なくなったときも、ありがとう。正直、わたしたちだけじゃなくて、奏がいてくれてほんとうによかったし、感謝してる。わたしたちだけだったら、もしかしたらなにかが壊れてたかもしれないってときどき怖くなる」
僕は陽菜が感じた恐怖を想った。美月の心臓が止まったときに、自分が遠い海の向こうにいて、側にいないことを思い知らされた恐怖を想像した。
それはまるで自分の中心から指先が凍りつくような、そんな感覚だった。
それは本当に陽菜にとって恐ろしいことだったのだろう。
「どういたしまして、天才女子中学生シスコンピアニストさん、これからもよろしく」
僕は陽菜の尊厳を守るように最後に笑って言ってやった。
「は、シスコンは奏、お前だろ?」
「え、いや……、それは普通にお前だろ……、俺と美月は兄妹じゃないんだから……」
「そういう問題じゃなくてえ」
どういう問題だよ。
「あ、そうだ、なあ陽菜ひとつ聞きたいんだけど、美月に「好き」って言った方がいいのか? なんかクラスのやつに言ったことないって言ったら、言えって言われたんだけど、そういうもん?」
「は? 言ってないの、それ?」
陽菜は信じられないほど下手くそな演奏を聞いたときみたいに目を丸くして言った。
「え? あ、うん、そうだけど」
「それで奏、あんた、お姉ちゃんの家に泊まって、しかもさっき一生側にいるとか言ったの?」
「あ、え、やっぱり不味かったのかな……」
陽菜はどんな演奏ミスをしたときの音楽教師よりも恐ろしく冷たい声で僕を指導した。
「いえよ、それは。ルール違反だから、それ」
とかくこの世のルールは難しいものだった。
3.
放課後。
美月から話があるといわれて、人がいなくなったあとの教室で待ちながら、僕は昼に校舎裏で陽菜と話したことをぼんやりと反芻していた。グラウンドからは運動部が一心不乱に迷うことなくボールを追いかけている声が響いていた。
将来か。
僕はそんな言葉を考える。
美月の将来、そして自分の将来、考えてみればそんなことをもう考える時期になっていて、そして今日まで考えていなかったのは遅かったのかもしれない。でもそれは美月も自分もある意味では仕方のないことだと思う。
美月にしてみれば、この一年は何年先の将来よりも、数ヶ月先、一月先、一週間先、明日のことを考える日々だった。それは必ずしも将来を悲観してとかそういう抽象的ではなく、具体的な生活のことだった。
では自分はどうだろう。
自分にしたって、それは同じだった。いつのことからか自分にとって未来のことを考えるというのは美月について考えることとほとんどイコールだった。それは美月の死がとても近づいていた時間ですらそうだった。美月がいなくなったあとのことなど考える発想すらなかった。
もし、いま。自分はふとそう思う。
もし、あのとき美月が蘇らなかったら、あのまま自分のもとを去っていたら、自分はそのあとどんなふうにして生きるつもりだったのだろう。
それは考えても仕方のないことだ。
美月は結果的に死ななかった。
彼女は蘇った。でも、もし……。
一生美月の側にいる。どういうわけだか今日はそういう言葉を口にすることが多かった。美月がこれからどんな状況になろうと、どんなことを選ぼうと自分はその選択を尊重して、その運命を見守る。助けてやるとか、導いてやるなんてそんなおこがましいことはとうてい自分には考えられない。
ただ自分ができることは側にいるだけ。
自分ができることはそれだけで、そして自分がしたいことはそれだけだ。それだけではダメなのだろうか。
それだけで良いのだろうか。
わからない。それで良いとか、それで悪いとかってなんなのだろう。
いや、やっぱりそれは良いとか悪いとかではないのだろう。
ただそう望むか望まないかだけだ。
退屈しのぎの思考はぐるぐると同じところを回っているだけだった。
美月も自分と同じだろうか。美月は自分の将来に何を望むだろう。
──お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね。
陽菜の言葉が頭に響く。
美月はピアノを求めるだろうか。
あるいは自分が美月の側にいることを望むのと同じように、彼女もまたこれからずっと自分といることを望むだろうか。
わからない。そんなことわかるはずもない。
仮に、そう、仮に彼女が自分と共に生きることを選ばないのであれば、自分と生きることを望まないときが来るのであれば、そのとき自分はどうすればいいのだろう。
何を選択すれば良いのだろう。
美月の選択を尊重する、彼女の運命を見守る。そんなことが本当に自分にできるのだろうか。側にいて彼女を見守っていたい。
でも、それすら許されなければ?
わからない。どうすれば良いのだろう。そもそも美月は本当に自分のことが好きなのだろうか? というか、なぜ自分はそこを疑っていなかったのだろう。なぜ自分は今日までそのことを疑問に思っていなかったのだろう。
もう初夏だというのに、唐突に自分の指先が冷たくなるのを感じた。
自分は美月に好きと口にされたことがあったろうか。
「いやあ、本当は嫌いなんだよねえ」
「ひょわあん!」
教室の扉が唐突に開いた。美月だった。
「なに奏ってそんな声出るんだ? なんでそんなにびっくりしてんの? 放課後待っててっていったじゃん……」
「いや、ちょっと考えごとして気が抜けてたから……」
「そうだったんだ。あ、もしかしてこんな夕方に幽霊だと思ったとか? はっはっは、残念でした、美月ちゃんでした! 黄泉の国から月に代わってお仕置きよ!」
思わぬ声を出してしまったことを誤魔化すように僕は美月に突っ込んだ。これで誤魔化せるといいのだけど。
「いや、だからそれ、滑ってるって」
「滑ってないよ! 滑ってるといったら、さっきの奏の変声のほうがバナナの皮で滑ったみたいな……」
「えーと、美月、『本当は嫌い』ってなんのこと?」
驚き声のことにまた話題が及びそうになったので、僕は話を強引に逸らした。
「ん? あー、数学だよぉ。今日の補講! 『美月さんはいつも一生懸命で先生嬉しくなっちゃう、きっと数学もピアノと同じで美しく完全なものだから、美月さんも好きになれるのね、オホホホ』だって。そんなわけねえじゃん、ぜんぜん、わかんねえし、好きじゃねえよお、数学が美しい? 美しくねえよお、数学が完全でも、こっちの頭は完全じゃねえんだよお。ねえ、奏さあん、お願いいたしますから、これからもこの哀れなオンナに数字の交響曲を教えてくだせえ」
「あ、そういうことね。なるほど、オッケーオッケー、いつでも任せなさい」
「アレ? なんか今日は奏、妙に素直だな」
そうカナー、僕はいつでも純粋まっすぐ、素直な好青年ダヨー。
僕はなんとかそんなふざけた調子で誤魔化した。
「それで話ってなに?」
「あ、そうだった、ねえ、奏さあん、あなたはなにか大事なことを忘れていないでしょうか? とーっても、とーっても、大事なことですヨ」
美月はチッチッと顔の前で人差し指を振った。
なんだろう、僕は一生懸命、記憶のなかを探ってみたが、思い当たるものがまるでなかった。
「うーん、なんだろうな、大事なこと……大事なこと……。あ、美月、明日、また検査だから忘れないようにしろよ、明日の検査で問題なかったら、定期検査の回数減らせるんだろ?」
「あ、うーん、そんな水臭い話じゃなくてですね」
「水臭いって、大事なことだろ?」
「あ、はい、そうですね……、ってそうじゃなくて! もー、しょうがないなあ、はい、これ!」
美月はポケットから取り出した、ホウレンソウのゆるキャラがあしらわれた包装紙にラッピングされた手のひらに載るくらい箱を目の前に掲げた。
なんだっけ? このホウレンソウのキャラ?
あ、そうだ、最新の新型女子中学生のあいだでバズってるボケナス野菜のホウレンソウ君だ。
「ホウレンソウ君だね」
「いや、そこじゃなくて……このボケナス! プレゼントだよ! プレゼント!」
「なんで?」
「なんでって、奏、今日誕生日じゃん」
「あ! まあ誕生日なんて自分以外平日だから、忘れちゃうよなあ」
「奏……お前……、お前悲しいやつよノオ……」
美月はどうも僕の言葉を聞いて、わりと本気で悲しんでいるらしい。そしてちょっと怒った。
「コラ、自分を大事にできない人は他人も大事にできないんだぞ! ちゃんと他人を大事にせえ!」
僕は美月の言葉に、美月らしさを感じて笑った。
自分を大事にできない人は他人も大事にできないか。その月並みな言葉を自分ではなく他人に言う奴はいいやつだ。
「うん、まあとにかくありがとう」
僕はボケナス野菜のホウレンソウくんの箱を受け取った
「うむ。本当は奏のために一曲弾いてあげようかと思ったんだけど、やっぱりまだちょっと怖くて……」
ピアノのことだ。陽菜は美月が退院後にまだ一度もピアノを弾いていないと言っていた。陽菜はもしかしたら、美月がピアノに対する関心をなくしたんじゃないかと言っていたが、これを聞く限りどうにもそれは違っているようだった。
「まあ無理する必要もないだろ、そんな無理してやる演奏なんてなんの意味もないだろうし」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
美月の症状がそもそも最初に発症したきっかけはピアノを弾いているときに感じた頭痛だった。それから演奏中の頭痛が酷くなって、そして入院という流れだった。美月がピアノを弾くのに抵抗感を感じるのは無理もない話だと思った。
「でも、やっぱりまた近いうちに再開するよ。怖いけど、弾きたくないわけじゃないし、ていうか弾きたいし、やっぱりわたし、ピアノ好きだもん」
「それは義務感とか惰性じゃなくて?」
わかりきったこと。僕はきっと美月がまっすぐ僕の大好きな彼女の瞳になって答えてくれることを期待して聞いた。
「うん。義務なんかじゃないよ。わたしが好きだから弾くの」
そうだ、この瞳だ。
この瞳が、この表情が、この声が、そしてその指先が自分は大好きなのだと僕は思った。
僕はそれを伝える。
「好きだよ、美月の演奏」
美月は僕の言葉に嬉しそうに、そして照れ臭さを隠すように大袈裟に笑った。
「へへん、知ってるよーだ」
それから、美月は僕に言った。
「奏もわたしのピアノ、これからもずっと一生隣りで聴いててね」
「約束する」
冗談、めかして答えようと思ったけど思いつかなくて、真っ直ぐな言葉になってしまった。でもたまにはそういうのもいいかなと思った。
「あらためて18歳のお誕生日おめでとう、奏。これからもよろしくね」
4.
雨の少ない六月はそんなふうにして終わっていった。
それから暑さは本格的にやってきた。僕らはようやくゆっくりとまた日常を取り戻そうとしていたと思っていた。
まっすぐに前に。
でも違っていた。僕らが前に進むための準備期間だと思っていた時間はもう一度やってくる嵐のなかの束の間の時間だった。
僕らが直進運動だったと思っていたものはゆっくりと振れる振り子運動だった。
そして振り子はまた片側に振れ切って、再び逆方向へと戻ろうとしているのだった。
ゆっくりと振り子がまた元に戻っていく。
***
七月も二週目が過ぎて後半になった。美月はこれまで一週に一度だった検査を二週に一度の頻度に減らして、その七月の二度目の検査を受けていた。
「七月の最初の検査結果も退院して今日までと変わらないね。脳のMRIなどで変化のある箇所はみられないし、まして脳波図においても異常なパターンはない。あのガンマ波を越える波形である第六の波形も現れていない」
俊明さんは診察室で丸い回転椅子に座る患者に問診した。
「美月自身の方はどうだい? また肩の痛みや背中側に連なるような頭痛は感じてないかい? それ以外でもなにかいつもと違う感じとかは?」
美月は目の前の医師の問いかけに考え込んで、心当たりを見つけ出そうとする。
「もちろん、思い当たらないなら、それでいい。というか、それに越したことはない」
俊明さんは手をぱっと振りながらいった。
「奏くんもどうかな? 美月を見ていていつもと変わったこととかないかな」
「うーん、そうですねえ、ちょっと頭が良くなったような?」
僕は少し場の空気を和らげようと両手を上げていってみた。
「ちょっとー、どういうことそれー」
「いいことじゃん」
しかし冗談ではなく、実際美月の成績はかなりよかった。一年中断していたところを取り戻そうと他のクラスメイトよりも補講も含めて多めに取り組んでいるゆえなのか一学期の中間はかなりの結果だったし、今はちょうど期末に向けてのテスト前で、一緒に準備しているが、隣りで見ていても大したものだった。
もっとも数学だけは相変わらずなので、まあそれも変わらないといえば変わらないのかもしれなかったが。
「なるほど。学業成績が向上したか……」
俊明さんは僕の冗談を真に受けたのか、それとも戯れにのってくれたのか、ふむふむと言いながらカルテにメモを残しそうとした。
「ちょっと、パパまで……」
「ははは、いや、すまんすまん、娘の学業が順調なら、親としては願ったり叶ったりだよ」
美月は目の前の優しい父親に膨れっ面を見せた。それは娘が父の気を引くための甘えに隠した不安だったのかも知れない。
父はそんな娘を安心させるように、頭を優しく撫でた。
「美月、君がこの頭で一年間起きたことは、この広い世界のなかで、これまで三例しか報告がなかったものだ。そして君は一度死んでからまた蘇り、そしてここまで回復した。はっきりいって、ここまでくるともはや、君の症例はその三例の事例すら越えて完全に未知のケースだ」
僕は美月の隣で穏やかで娘とよく似た少し楕円の父の瞳を覗き込んだ。
「君の前例の三例のケースはいずれも不幸な終わり方をしている。けれど、君のケースは繰り返すが、この三例のケースをもはや越えている。だから、君のこれからはまだ未確定だし、油断しすぎるのも確かによくないが、だからといって心配しすぎる必要もないんだよ」
「わかった」
美月はそういって、父親から気恥ずかしそうに目を俯かせ視線を外した。
でも、僕は俊明さんの目の中に一瞬だけ不安をみたような気がした。
心配しすぎる必要はない。
それは俊明さん本人が自分にも言い聞かせるために発したように思えてしまったのだ。
***
それから週明けの月曜日。
僕たちはまたテスト勉強のために放課後に美月の家にいた。テスト期間なのは中等部の陽菜も同じで僕らはリビングのカーペットにペタリと座り込んで冷房を浴びながら三人でノートやら参考書を広げていた。
「ambigous」「あいまいな」
「androgynos」「両性具有の」
「spontaneous」「自発的」
「undergo」「を経験する」
「swallow」「飲み込む」
全部正解。陽菜がノートを開きながら、美月に告げた。
「お姉ちゃんって、こんなに英語得意だったっけ? まあ数学よりはマシなのか」
「お姉ちゃんの偉大さを思い知ったか」
「はいはい。じゃあ、次ね。っても、これはわかるか」
「Andante」
隣で二人のやりとりを聞いていて、僕は思わず参考書を読みながら笑ってしまった。
これは音楽をやっていれば、覚えているとかそういう話ではないレベルだ。
「はい、お姉ちゃん、『Andante』だよ」
メガネをかけた陽菜が答えを急かすように言った。
美月は笑いながら、固まっていた。
「えーと、そうだね……。えーと、なんだっけ……。難しいね、初めて聞く単語かも」
「え?」
陽菜が不思議そうな声を出す。僕は少し胸騒ぎを覚えたような気が直感的にして、参考書から視線を外して、二人を見た。
「なに言ってんの? お姉ちゃん、『Andante』だよ。譜面で百回くらいみた単語でしょ」
美月は陽菜に言われて、目を丸くした。
「え、そうだっけ? 初めて聞くけどなあ。『Andante』だよね。アルデンテーじゃなくて、ええと、アンデルセンーでもなくて、はは……」
美月は冗談を言って誤魔化そうとしたが、それでも陽菜が動揺して、少し詰めるように問いかけてしまった。
「どうしたの、お姉ちゃん、『Andante』だよ! 音楽家ならわかるでしょ?」
美月は妹の若干不安に彩られたわずかな怒気を孕んだ声にますます動揺して、答えが出ないようだった。
「『Andante 歩くように』だ」
僕は助け舟のつもりで、場を仕切り直すように二人に割って入った。
「二人とも、少しやりすぎなんじゃないか。vivaceでやるのもいいけど、まだテストまでもう少しあるんだから、それこそAndanteでいいだろ。ちょっとPAUSEだ」
僕は冗談に聞こえるようにわざと怪しい音楽教師のような話しかたで言ってみた。陽菜は思わず、語気が強くなったのを誤魔化すように、僕の提案に乗った。
「そうだね、少し休憩にしよ。あーあ、頭がわけわかんない英単語ばっかりだから、やはりね、音楽に愛された天才女子中学生ピアニスト足るものしょーもない世俗の知識なんかじゃなくて、崇高な音楽で頭を充さなきゃ」
そういって、机のスマホを操作して、お気に入りの演奏曲を再生した。
それは去年ヨーロッパの映画祭で音楽賞を受賞したとある映画音楽の標題曲だった。僕が配信サイトでその映画を見つけて、劇伴が良かったので二人にも観るように勧めたのだった。美月はまだ観ていないらしいが、陽菜はついこのあいだ観て気に入ったらしかった。
曲はミステリー映画にふさわしく、序盤から怪しげなタッチで進行していった。
「うん、やっぱり出だしの展開がいいよね。この表題曲ラストにも使われてて、何気に伏線になってるんだよね」
陽菜がのんびりとそう言った。美月も釣られるように感想を言う。
「ほんとだ、これ、いい曲だね。さりげない対位法で実は女の方が殺人犯ってのを暗示しているんだね。芸が細かいね」
「なんだ、美月ももう配信みたのか」
僕は映画の最大のオチについて言及した美月に言った。
「え、あ、ごめん、まだだけど?」
「え? だって、いま女の方が犯人だって」
美月は僕に言われてようやく自分が何を言ったか気づいたらしかった。
「え、ああ、無意識。なんか曲を聴いてたら、赤いコートの女が短剣を持っているのが見えた気がして。はは、なんかやけに具体的だね」
「具体的も何も、それ、映画のラストシーンなんだけど……、ふつうそんなことまでわかる?」
陽菜が不気味そうに美月の言葉にいった。
「なんか昔からそういうところあったんだけど、最近はほんとに曲聴くと浮かぶイメージがすごくはっきりしてきて……」
「お姉ちゃん、それは天才がいうやつじゃん」
「えっへん」
僕は二人のやりとりみて、場の空気がいつものものに戻っていったのを感じて安堵した。
けれど、やはり胸騒ぎは消えなかった。
もちろん、演奏を聴いてある景色やイメージが浮かぶというのは音楽家として多かれ少なかれないことではない。だが、まさか観たことのない映画のストーリーまで解ってしまうというのは、それはもう感性とかのレベルを越えて、ほとんど超能力みたいな力だ。
僕は部屋の冷房が一気に下がった気がした。そういえば美月が最初に症状が出たときも、急激に演奏に対する感性が上がったのだった。
「さて、じゃあ、お茶でも飲んだらまた始めますか」
美月はそういって、シンクにいってアイスティーを入れようとした。僕は心配を紛らわすために立ち上がって手伝おうとした。
すると、すぐにグラスが割れる音がした。みるとキッチンの床には割れたガラスと注がれるはずだった氷がフローリングにだらしなく広がっていた。
「お姉ちゃん、大丈夫? 指怪我してない?」
陽菜が慌てて、美月に声をかけた。しかし美月には聞こえていないようだった。
美月はグラスを落とした手を目を丸くさせて、まるで他人の指先のようにずっと見続けていた。
***
それから僕らは協力して、グラスを片付けるともう勉強という雰囲気じゃなくて解散することになった。
僕は帰る前に美月に言った。
「今日、久々に泊まろうか?」
「ううん、大丈夫、今日は奏、帰りなよ、テスト勉強まだ残ってるんだしさ」
「そんなこといいだろ、自分のことをまず考えてくれ」
美月は首をまた振ってさっきからずっと苦笑いを崩さなかった。
「ごめんね、今日は帰ってほしいの。ちょっと一人で部屋で落ち着きたいの」
僕と美月のあいだに気まずい沈黙が流れた。
自分と美月がなにかをいうより先に陽菜が割って言った。
「奏は今日は帰んなよ。大丈夫、わたしもいるし、なんかあったら電話するからさ」
僕は言いかけた言葉を飲み込んで、陽菜に言った。
「すまん」
「奏が謝ることじゃないよ」
そう言ったのは美月の方だった。
5.
美月は嫌がったらしいが、その日の夜に、陽菜は帰宅した俊明さんに今日のことを伝えた。
俊明さんは、陽菜の話を聞くと、わかったと一言いい、それから、八月になったら行う予定だった検査を一週間繰り上げてまた今週の土曜日に行なおうと美月に提案した。
僕は陽菜から、そのことを夜に電話で聞かされ、土曜日の再検査は奏も付き添ってほしいと頼まれた。
僕は「あたりまえだろ」と陽菜に返した。
***
土曜日。僕たちは再び俊明さんが待つ病院に三人で向かった。
美月は着くなり、すぐに脳波測定の検査に入った。またお決まりのMRI、CT、脳波測定などだった。
僕と陽菜は検査を待つあいだに俊明さんの診察室に呼ばれた。
僕は美月のいないところで俊明さんと話すのに嫌な思い出が蘇った。美月の最初の入院検査のときに俊明さんと僕でナースステーション横のプレイルームで話したときのことを僕は思い出していた。
俊明さんは僕たちが診察室に入るとすぐにカルテや資料を出して説明した。
「先週の美月の検査結果だ」
僕は俊明さんから美月の脳波図を渡された。
「きちんといおう。美月の脳波図からピーク時ほどではないが、入院時に観測されていた波形と同じ波形が検出されている」
俊明さんは感情を交えずに言う。
「つまり、美月の脳で、扁桃体と海馬を中心に、微弱だが例の第六の波形が再び観測されているんだ。このことが感情や記憶の異常となりその症候を引き起こしていると考えられる。今美月の脳は感情と記憶を結びつける機能の過剰な活発化が再び始まろうとしているんだ」
奏くん、俊明さんは僕にそう呼びかけた。
「美月に現れている第六の波形を観測した症例はこれまで世界的に三例だと言ったね。そして一度心停止してその一時間後に蘇った美月は、もはやこの三例の症例ケースを越えて独自の領域に入っていると」
「はい」
僕は俊樹さんの言葉に答えた。
俊明さんは僕の返事を確認して続けた。
「症例ケース1は脳のなかでも、匂い、つまり嗅覚を司る第一脳神経から内嗅皮質において最も特徴的にこの特異な波形が観測されている。そして第二の症例ケースにおいては視床下部、ここは感情と関係の深い箇所だが、そこが中心となって第六の波形が観測された」
隣りの陽菜は部屋に入ってからなにも言わずにただ黙っていた。
「繰り返すが、第四症例となる美月の症例はもはや他の三つの症例とは、大幅に異なる状況となっている。けれど、前例となる三例のうち、一例だけ異常脳波が観測されている脳部位が極めて酷似している例があるんだ」
僕は俊明さんの説明を理解していることを示すために言った。
「三例目ですね? 今回の美月の脳波と類似しているのが、その三つ目の症例なんですね」
俊明さんは頷く。
唇をギュッと引き結び、手元の紙束を握る手は少し緊張したように強まっていた。
「そのとおりだ。三つ目の症例では、扁桃体を中心とした系、つまり記憶だ。記憶を司る脳部位を中心とした箇所から第六の波形が主だって観測された。この症例患者では、主症状として記憶力の異常な発達が見られた。そしてそれに付随するように情動の混乱、自己認識の不安定化などが発生した。そして……」
俊明さんは手元の紙をめくりながら話した。髪の擦れる不協和音が耳に響くたびに僕は頭蓋骨の奥の柔らかな部分に直接触れられ、そして心臓が鼓動とともに傷つけられるような気がした。
「そして最終的に最初の二症例と同様に、この第三の症例も異常波形が神経ネットワーク全体に伝播し、脳の各部位が互いに異常な信号を送り合い始めた。まるで自己崩壊のように、脳全体がオーバーフローに陥り、最終的には機能不全に至ったんだ」
俊明さんは第三の症例をそんなふうに説明した。隣りでずっと顔を上げずに俯いていた陽菜が口元だけ動かして小さく囁いた。
「お母さん」
俊明さんはその小さな声に気がついて、話すのを一瞬やめた。それから陽菜は相変わらず顔を床に向けたまま言った。
「お母さんは最後はなにも忘れられなくなっていた」
俊明さんは頷いた。そして最後に手元の紙を診察台のうえに置くと、僕の方に向き直って言った。
「そうだ、この美月の症例に最も近いケースは、わたしの妻……」
それはつまり……、僕は俊明さんの話す言葉を聞きながら、声に出さず当たり前のことをなぜかぼんやりと頭で確認しようとした。
しかし俊明さんがはっきりとそれを口にした。
「それはつまり、美月の母親だ」
***
俊明さんの話を診察室で聞いていると、診察室の内線が鳴った。俊明さんは看護師からの連絡を聞くと、美月の検査が終わったらしい、と僕らに告げた。
「美月は今、どこですか?」
俊明さんは答えた。
「美月は今、寝ているよ。たぶん、今週はあまり寝れていなかったんだろう。検査が終わって緊張の糸が切れたんだ、心配しなくても大丈夫だ。看護師長が空いているベッドを使わせてくれているようだ、病室を教えるよ」
俊明さんは僕と陽菜に病室の部屋番号を告げた。
「すまないが検査結果を早く確認したいから、中座させてもらうよ。先に美月の病室で待っていてくれ、本人のいるところでこの続きは話そう」
俊明さんと僕たちはそういって診察室を出て、別れた。
僕たちは俊明さんから告げられた番号の病室に向かった。診察室がある棟から離れた場所で以前入院していた棟とも異なって三階だった。
僕と陽菜は病室に向かうまで会話はなく、エレベータのなかではシャフトを上がるわずかな音が間延びしたように響いた。
それからフロアの廊下を進んで、美月のいる病室に辿りついた。
俊明さんがいったように美月はベッドの上で横になって寝ていた。
陽菜は声をかけようとしたが、僕は彼女の腕をひいて、それを制した。いまは美月を安らかにさせておくべきだと思ったのだ。
陽菜は僕の意図を理解すると検査のまえに姉から預かっていたライトグリーンのハンドバッグを棚のうえの置いた。それからそっと起こさないように両手でベッドのサイドレールを握ってその表情を覗き込んだ。
美月はただ意識を深く落として、その寝顔には不安も苦痛もなく穏やかそのものだった。
「わたしたちが小学生のときにママが病気で死んじゃったのは聞いてるよね」
陽菜は静かに眠っている美月には届かないように小さな声で話した。
「ああ。陽菜は美月がお母さんと同じ症状だって知っていたのか?」
陽菜は僕の質問に首を振った。
「ううん。お父さんからその話は今日初めて聞いた。でも、お姉ちゃんみてたら、なんとなく近いなっていうか、思わせるようなところはあったから、なるほどなって思った。たぶん、お姉ちゃんもおんなじような感じだと思う」
陽菜はベッドの姉から目線を逸さなかった。
「ママが病気だってわかったとき、最初はそんな深刻なことだと思ってなかったの……。ママが仕事でずーっと集中して曲を作っているときも同じようなことってよくあったから」
陽菜はそう切り出して自分の記憶を辿っているようだった。
「ママの症状が出始めたときもちょうどこの前のお姉ちゃんみたいにすごく細かいことを覚えていたり、なのにすごく当たり前のことを逆に忘れたり、全然思い出せなかったり、頭のなかの記憶がグチャグチャになってるみたいだった。最初はママのいつもの天然なのかなって思ってたんだ」
陽菜は思い出すように目を細め、苦笑いを浮かべた。
「でも、そのときママが一晩かけて作った曲を聴かせてもらったんだ。そうしたら、その曲、どこかで聴いたことがあるなと思ったら、二十年前にママがデビューしたときに作った曲と一音も違わずに同じだったの。でも、ママ自身は全然それに気づいてないみたいで、お姉ちゃんと二人でおかしいなって」
陽菜は当時の不安が蘇ったのかベッドのサイドレールを強く握った。
「そのときは、まあ、ママも昔作った曲を忘れちゃってるのかなって……。でもね、だんだん様子が変わっていったの。ママが突然、記譜の方法や楽譜の読み方を忘れて、私たちに聞いてきた。ママは音楽のすごい基本的なことをすっかり忘れちゃったの。それでも、なぜか曲だけは作れるみたいで、でも、その曲もやっぱり昔の作品とまったく同じだったり、同じフレーズを何度も繰り返したり、ひどいものだと無秩序でなんの調性もない音符の羅列が何小節も続いたりしていた」
はっきりいって、あの頃のママはちょっと不安定なところもあって怖かった。
陽菜は記憶の狭間にそう付け加えた。
異常波形が神経ネットワーク全体に伝播し、脳の各部位が互いに異常な信号を送り合い始めた。まるで自己崩壊のように、脳全体がオーバーフローに陥り、最終的には機能不全に至った。僕は俊明さんのさっきの説明を反芻していた。
「そのうち、ママは参考にしたいからって私たちに過去の演奏を頼むようになったの。あのときの何年何月のあの演奏のあの一音をもう一度鍵盤で押してみてくれない? って、すごく具体的に頼まれた。私たちが楽譜を見てその一音を弾いても、ママは、それじゃない、もっとこうだったって……。私たちは何度も何度も弾くんだけど、何が違うのかわからなくて、でもママはすごく必死に、あのときの音を再現してほしいのって、どうしても譲らなくて……」
陽菜は言葉を詰まらせて、一度唇を噛んだ。
僕は母さんに父と全く同じ演奏をするように怒鳴りつけられた日々が脳裏に蘇った。
母さんは最後には何もかも忘れて、自分を喪った。
けれど美月の母は何もかも忘れられずに、自分を喪っていったのだ。
僕はそこにとても嫌な皮肉を感じた。それはとてもとても嫌な皮肉だった。
「それでパパがママを病院で診て、ママの入院が決まったの。ママはそれから忘れられなくなっていった。大事なことも、どうでもいいことも、全部が頭に詰め込まれて……忘れることができなくなっちゃったの。だんだん記憶に支配されていって、たくさんの思い出や過去が押し寄せて、それを思い出している自分というのが定まらなくて、わからなくなっちゃうことが頻繁に起きた。ママは押し寄せる記憶のなかである日は二〇年前の二十歳の自分、でも別の日には子どもの時の六歳の自分になったりした」
陽菜は母親の最後の様子を話した。
僕は陽菜の話を聞きながら、美月の母親に生じた感覚を想像してみた。
それはまるで目や耳が自分に無数に増えたようだった。あらゆる楽器で鳴らした音が一斉に一つしかない脳に流れ込む。どれが自分が聴いている音か、鳴らしている音がなにもわからなくなって、やがて聴いている自分が誰かもわからなくなってしまう、そんな感覚。
「最後に死んじゃうまえには、これまでの感じた記憶の感覚も全部思い出して忘れられなくなって、今自分が聴いている音が、過去にかつて聴いていた記憶の音と区別がつけられなくなって、自分がいまいつどこで生きてるかわからなくっなっちゃった」
やがて記憶のなかで現在も過去も、時間が喪われる。最後には未来すらも。
陽菜は最後に僕にこう問いかけた。
「お姉ちゃんはいまなにか夢を見ているのかな」
美月はいま暗闇のなかで何をみているのだろうか。
僕は美月の寝顔を見て、彼女がいまいる場所のことを想像した。
美月はいまなにか夢でもみているのだろうか。
それとも何もみずにただ真っ黒な光景を見ているのだろうか。
あるいはハレーションを起こしたような真っ白。
真っ白な闇を。
その白い光で埋め尽くされた景色ではどんな音が響いているのだろうか。
土曜日の午後の病室はほとんど見舞客もいなくて、静かで風が吹く音も聴こえなかった。そしてようやく僕らの話し声に気がついて美月は目を覚ました。
目覚めたばかりの美月の目は虚ろでただ外界を写すだけの鏡のようだった。