4.
「奏くん、美月を頼むよ」

「はい」
 美月の退院の日、俊明さんと看護師さんに見送られながら病院の玄関で僕らはタクシーを待っていた。
 退院は、美月が蘇って一週間もしないうちに決まった。
──一通り検査の結果を見る限り、美月の身体はもうそこらの人とは変わらないよ。だったら病院に留めておく理由もない。
 俊明さんは、入院中最後になった診察であっさりと美月にそう告げた。
──もちろん検査も定期的に行うし、入院生活で体力や筋力はかなり落ちてるだろうから、リハビリには通ってもらう。なによりもはしゃいでいきなり無理しすぎないように。
 もしかしたら、俊明さんは美月がまた元のようにベッドから抜け出せない状態に戻ってしまわないか怖かったのかもしれない。
 だから美月が症状が出る前に戻ったいますぐにでも、以前の生活を過ごさせてやりたかったのかもしれない。仮にまた症状が現れて元の状態に戻るのだとして、少しでも長く居心地の良い外の世界で過ごさせてやりたいのかもしれない。
 実際、俊明さんは高校のほうには復学届はすぐに出したが、実をいうと学校側からは美月は二年生クラスで戻ってくるように提案されたらしい。
 勉強は入院中でも、自分が教えたり学校側のフォローもあって実は問題ないとのことだったが、出席日数が足りないという点で難色を示されかけたらしい。
 だが俊明さんはそれでも、美月が入学した学年である三年生クラスに戻してくれるように学校側になんとか頼み込んだようだ。
──勉強の方でも、生活の方でもたぶん奏くんにこれまで以上に頼るところが出てくると思う、申し訳ないけど頼むよ。
 退院の前日に僕は俊明さんにそんな言葉を復学の裏事情と共に相談された。
 僕にしてみれば、美月のフォローなど、そんなことは今更という気もしたが、それでも俊明さんの真剣な表情に黙って頷くしかなかった。
 当の美月はこちらの気持ちをわかっているのか、わかっていないのか、入院以来の相変わらず能天気なふうで話していた。
「もー、二人とも心配しすぎ。まあ奏のアニキ、わしらがシャバに戻ったんやからまた組を復活させて仁義なきテッペン取りましょうや」
「あ、そうだ、美月、しばらくは奏くんがうちで生活してくれるから」
「え! なにそれ、わたしきいてないよ! もしかして奏は聞いてたの?」
「ああ」
 美月の家でしばらくやっかいになるのは、俊明さんに事前に相談されていたことだった。
──もし奏くんのおうちが問題ないというのならの話なんだがと、俊明さんは下げた頭をさらにもう一度下げながら僕に言った。
──全然、問題ないです、むしろ、こっちからお願いしたいくらいですよ。
 僕は俊明さんにそう返事をした。 今の僕は母方の親類に預けられているが、正直僕のことなどあまり関心はないようだった。むしろ親類は陰気な僕をどこか疎ましく思っているところがあるので、きっとこれ幸いと飛びついてくるだろうと僕は何となく思った。
「ええ、シャバの生活が最初からパパ公認の同棲生活(はーと)だなんて、あーれー、花のJKの貞操、まさに一世一代のピンチ! もー、奏の頭はぐへへー状態ですよ、ダンナ!」
「ハイハイ、グヘヘーグヘヘー、デスネ」
「なんでカタコト!?」
──ありがとう。基本的には私も家には帰ろうと思うんだが、やはり夜勤の当直もあるし、なによりも美月の症状についてデータを少しでも病院で調べておきたいんだ。
 僕はやはり頷くしかなかった。
「まあ、こんなに元気になったとはいえ、やっぱり最初のうちはなにがあるかわからないから、私がいない日に美月たちだけにしておくのはな」
 <たち>だけ? 聞き間違えだろうか? 藤咲の家はいまは美月と俊明さんだけのはずで、確かに二人にはもう一人妹がいるが、彼女はウィーンの音楽大学の音楽祭に招かれて一ヶ月日本にいなくて、だから俺が頼まれたということなのでは……?
「いやだ、こんな”らぶでこめ”展開が現実に許されていいの?」
 美月の方はいまだに一人でコントモードのようだったが、僕は疑問を拭えず、俊明さんに確認しようとすると、「そのラブコメ展開ちょっと待ったーーーーー!」と、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
 僕たちは振り返ると自分たちが呼んでいないんタクシーが一台止まっていて、一人の背の低いスーツケースを引っ張った少女が立っていた。
「あら、カナデさん、なんでしょう、あのいかにも妹キャラみたいな妹キャラは?」
 美月は大袈裟にオホホとばかりに僕に言った。
 それはまごうことなく元気系の妹キャラだった。
「退院のタイミングでパパ公認のラブコメ展開にさせようったそうはいかないわよ! わたしもたったいま帰ってきたから今日から三人で暮らすからね!」

 美月と三つ歳の離れた現在同じ学園の中等部三年生でなおかつ天才女子中学生ピアニストという妹キャラのその名前は藤崎陽菜といった。
「え、陽菜、お前、あと一週間くらいウィーンのほうで音楽祭に参加するんじゃなかったのか?」
「なに言ってるの! 実の姉が死にかけていたのよ。そんなの予定を変更してすぐに帰ってくるに決まってるじゃない」
 まあ、それはそうかもしれないが。俊明さんは騒がしい娘にはもう慣れたものなのかとくにマイペースを崩さすに話しかけた。
「おや、一昨日電話したしたときは、明日くらいに帰国っていってなかったっけ?」
 え? 俊明さんは知ってたの?
「あれ? 奏くん、言ってなかったっけ?」
 言ってなかったです。というか、陽菜が帰ってくるなら、確かに自分いらなくない?
 俊明さんは僕の目を見て、いつもの穏やかな微笑みで応えるのだった。
「まあ、男手は多い方がいいし、やっぱり美人姉妹とやれやれな僕で三人同じ屋根の下っていうのが王道のラブコメじゃない?」
 そうだった。この人、美月が入院してからのシリアス展開で忘れていたが、普段はただの穏やかで思慮深いパパ役なんじゃなくて、こんな天然属性な人だった。ていうか、王道のラブコメじゃない? ってそれ、もう天然じゃなくて確信犯ですよね?
 そんなふうに僕が困惑していると陽菜はじっとこちらを見つめて、ぼそっと一言つぶやいたように言った。
「このシスコン厨二病男」
「どういう意味だよ! ていうか、シスコンの意味間違ってないか? シスコンはお前だろ!」
「わたしがシスコンなのはいいのよ! 奏がシスコンなのがやばいって言ってんの!」
「だから、僕はシスコンじゃないから!」
 そんなふうに僕と陽菜がドツキ漫才をやっていると、美月は嬉しそうに笑っていた。
「なんか、まだ家に帰ってないのに帰ってきたみたい。二人ともありがとう」
 陽菜は美月の言葉を聞くと、少し我に帰って恥ずかしそうにそっぽを向いた。
 それからそっと照れながらお土産を渡すように言った。
「奏、わたしがいないあいだ、ありがと」
 僕はその妹キャラらしい背の低い後ろ姿に思い出す。
 陽菜がウィーンに向かったのはちょうど三週間前だった。
 ウィーンの名門音楽大学からの招待にも、最初は陽菜は姉が入院しているうちは絶対に日本を離れないと応じるつもりはないようだった。
 そのウィーンのさる音楽大学はヨーロッパのなかでも最高峰の名門音大のうちのひとつで、その音楽祭は世界中でもトップレベルの音楽関係者が集まる恐ろしいほどのレベルのものなのだが、それが陽菜の今後の音楽家キャリアの足がかりになるのは明らかだった。
 それでも陽菜はそんなものはどうでもいいから姉のそばにいれるだけいたいと俊明さんの説得にも聞く耳を持っていなかった。
 それでも最終的に「わたしには奏がいるから」と、美月が渡航期限の前日ギリギリに必殺のお姉ちゃん命令で送り出したのだった。

 そのときの陽菜はそれでもまだなにか言いたそうだったが、その場にいた僕の胸に一発拳を打ち付けると一言「奏、わたしはお姉ちゃんのために行くんだからね! だから、あんたも……」とそれだけいうとようやく渡航を受け入れたのだった。
 僕はそっぽを向く陽菜に背の低いの頭に手を乗せるとそのままわしわしと撫でた。
「留守は守ったよ、おかえり、妹キャラさん」
 妹キャラは、頭を撫でられながら、少しだけ目を潤ませて「なんであんたに頭をなでられなきゃいけないのよ」と言った、けれど黙ってされるがままにされていた。それから、しばらくすると振り返って俺たちに叫んだ。
「さあ、シリアス展開はもう終わりなんだから! 三人で一つ屋根の下でラブコメ展開やるんだからね!」

「あ、お父さんも帰れる日はちゃんと帰るからね」
 最後に俊明さんが珍しくオチを買って出るように付け足して、美月は自分が一番大事にする家族のコントに最前席で笑った。