3.
 中学二年の一学期、僕は前にいた学校から美月のいる同じ県の私立学校に転校した。
 母さんが施設に入って、僕と兄は半年ほどは祖母が用意したハウスキーパーに生活の面倒をみてもらっていたが、新しい学年になるタイミングで僕は正式に親類間で決められた親族の家に移ることになった。
 兄はちょうど中学を卒業するタイミングだったので、一人暮らしを始めるようだった。
 もっとも僕だって預けられる親族の家は中学を卒業するタイミングで出ようとはすでに考えていたし、引き受けた親族もそのつもりのようだった。
 僕の住所はこのときに10年以上暮らしたマンションを離れて、県の南部へと移った。
 一学期のクラス替えのタイミングで転校したので、特に目立たずに紛れ込めるかなと期待したが、新学年になって直後の教室でも一人知らない奴がいるということはすぐに気づかれた。おまけに初日のホームルームで転校生徒としてクラスメイトに挨拶するように担任の教師はわざわざ僕に言った。

 僕は教壇に立つと当たり障りのない自己紹介をした。
 担任の教師は僕があまり得意ではない種類の笑いをしながら、瀬川くんは好きなこととか特技はなにかな? と言った。
 僕は新しい担任の教師のその問いかけに一瞬答えに窮したが、それでも一応答えた。
──特にありません。
 僕はそれだけ言うと、教壇を降りてさっさと決められた席に戻った。
 美月と最初に話したのは確か転校してきたその日の放課後だった。美月はそのときクラス委員を任されていて、転校生の僕への校内案内を任されたのだった。
 美月は校内を歩きながら、ここが理科室、ここが放送室と僕にひとつひとつ丁寧に教室を説明してまわった。それから美月は最後に音楽室に僕に案内した。
 僕は少し校内を歩き疲れて、音楽室の椅子に腰掛けた。
 この学校には吹奏楽部はないのだろうか? 僕は誰もいない広い音楽室の黒板にチョークで書かれた消えかけの音楽記号を見つめながら思った。
 間の抜けた顔から僕の疑問を察したのか、美月は言った。
──まだ新学年が始まったばっかりだから部活の活動期間が始まってないんだ。瀬川くん、もしかして吹奏楽にも興味あるの。
 僕は黒板への目線を外した。美月の聞き方に、僕は微妙な違和感を感じて聞いた。
──いや、そういうわけじゃないけど、吹奏楽に〈も〉ってどういう意味?
──あ、えーと、それはね……。
 美月は僕の質問に答える代わりに、教室の隅のグラウンド・ピアノの鍵盤蓋を開くとピアノ椅子に座った。
 それから、ちょっと緊張するなと照れくさそうにいうと、両腕を挙げて袖を整えると演奏を始めた。
 弾むような対位法のステップ。涼しい夏の夜を思い出させるような柔らかなリズム。月明かりが夜の湖面を優しく揺らし、波の合間に映る光るほのかな輝きを伴って響くアレグレットの調べ。このあとの嵐のような展開を予感させる、短くも儚い優雅で楽しげなひととき。
 月光第二楽章アレグレットだ。
 左右のバランスは完璧で、音符の一つ一つがかけがえのない存在であるかのように語りかけている。テンポの揺らぎにも敏感に対応し、音の波に漂いながらも、決して溺れていない。
 そして、何よりもリズムがしっかりとコントロールされながらも、繊細な変化をピアニスト自身の意志によって作り出しているのが分かる。
 弾かされているのではなく、きちんと弾いている。
 いや、それ以上だ。
 このピアニストは、すでに自分の内面に「弾かされている」。
 初級者が楽譜に「弾かされる」段階を超え、技術的に卓越した先にある、自らの内面に導かれたそのピアニストだけの個性が感じられるもう一度今度は最初とは違う意味での「弾かされる」演奏をしている。
──どうかな?
 美月は照れ隠しに微笑みながらいった。
──第三楽章も弾けるんだよ。
──中学生でこのレベルは、なかなかのものだと思う。
 美月は軽く肩をすくめて苦笑いした。
──なにそれ、瀬川くんも中学生でしょ。
──あ、ごめん。
──冗談だよ。褒めてくれてありがとう。瀬川くん、春休みに県主催の演奏会にお兄さんと出てたでしょ? わたし、そのとき聴いてたんだよ。やっぱりお父さんの血は争えないね。でもまさか春休みが終わったら、同じクラスに転校してくるなんて思ってなかったよ。
 僕は美月の言葉を聞いて、自分の内側が身構えたのを感じた。
 演奏を聞く限りただ趣味でやっているというレベルではないのだろう。確かに著名な父とそしてその息子である自分と兄はある程度のピアノ関係者なら、気づくのはそんなに難しくないことなのかもしれない。
──ねえ、なんでさっきクラスでピアノのことみんなに話さなかったの?
──ピアノはもうやめたんだ。ちょうどそれこそ君が聴いた演奏会でね。
 美月は僕の言葉を聞いて、大袈裟に立ち上がった。鍵盤に勢いよく両手をついたので音楽室には耳障りな不協和音が響いた。
──ええ、どうして! 二人ともすっごい良かったのに!
──ピアノなんて親に言われてやってただけだよ。それに……。
 僕は次の言葉を言うのに躊躇った。耳元でいつか兄が言っていた言葉が蘇る。ピアノをまるで汚らしいものをみるような瞳。僕は自分のなかの違和感に配慮せずに言った。
──こんなもののなにが面白いの。
 美月は僕の言葉を聞くと少しムッとしたような表情になった。ピアニストの前で言うべきセリフではないのかもしれなかったのかもしれない。それはわかっていた。
──瀬川くん、嘘つきだね。
──え?
──だって、私の演奏聴いてるとき、すごく楽しそうだったもん。
 僕はいい返す言葉が思いつかなくて、黙るしかなかった。
 もしかしたら、僕はこのときからすでに美月に嫌われるようなことをもう言いたくなくなっていたのかもしれない。
──本当にやめちゃったの? もったいないなあ。瀬川一家の指先はピアノを弾くために存在するって、雑誌にも書いてあったよ。美しい家族の調和が奏でる孤高の響きって。
 僕は今度ばかりはあまり躊躇わずに嫌な笑いがこぼれた。
 美しい家族の調和が奏でる孤高の響きか。
 確かに小学校に上がってすぐに兄とコンクールに出たあとにそんな雑誌のインタビューを家族で受けた気がする。僕らとしては苦笑以外のなにものでもない記事だったけど。
 どうやら僕ら一家の事情はまだ雑誌記者のパパラッチ的な好奇心に見つかっていないようだ。だいたい家族の調和が奏でる孤高の響きってなんだ。調和と孤高って微妙に矛盾してないか。
──ねえねえ、じゃあさ、最後にファンのために一曲だけお願いできない?
 目に中学生らしい幼さを宿しながら美月は僕に言った。
──お断りするよ。それに父の演奏なら、兄の方がよっぽどうまくできるはずだよ。
 美月はさっきと同じように眉を寄せて少しムッとしたような表情でいった。
──私は瀬川くんの演奏が聴きたいの!
 お世辞のつもりにしては、やや真剣さを感じないでもない言い方だったが僕は言った。
──僕の演奏なんて、父と兄の劣化コピーだよ。音源を聴く方が時間の無駄にならなくていい。
──そんなことない! ていうか、それ、演奏会で感動したわたしにちょっと失礼じゃない。
 僕は罪悪感を隠すように少し語調を強めて言った。
──そんなの僕は知らないよ。
 美月はそれでもなお諦めずに食い下がった。
 それから最後に演奏会の演奏を思い出すような表情を見せていった。
──わたしは瀬川くんの演奏の方が好きだったんだけど。
──曲の感想にお世辞を言うのはあんまりよくないよ。さっきもいったけど、技術とかなら兄の方がいいし、父の演奏に近いから。

──お世辞じゃないよ! うーん、ていうか、瀬川くんの演奏ってどっちかというとお母さんの方に似てるよね。
 僕は美月の予想外の言葉に一瞬反応が遅れた。
 誰かが窓を閉め忘れたのだろうか、廊下のほうから春の風が感じられた。
 それは砂の匂いが混じっていたが、冷たさが日の暖かさに溶かされていて僕は不愉快に感じることはできなかった。
──そんな感想は初めてもらったよ。
 美月はまるでテストの成績を誉めてもらった子どものように無邪気に僕の言葉を褒め言葉だと受け取ったようだった。
──わたしとおんなじだね。私の演奏もママに似てるってよくパパに言われるの。
──どういうこと?
──私のママもピアノやってたんだ。だんだん作曲の方がメインになってあんまり演奏家としての活動は少なくなったんだけど。私の名前も曲からとったんだよ。なんの曲かわかる?
 ああ、だからさっき月光を弾いたのか。
 僕は美月の演奏にベタなオチがついたような気がして思わず笑った。
──へえ、それじゃあ、藤咲さんのお母さんもピアニストなのか。じゃあ今度お母さんの演奏会があったら聴かせてもらうよ。
 僕は会話を自分の話題から逸らそうと言った。
──わあ、瀬川くんにそう言ってもらえるの嬉しいなあ。
 言葉とは裏腹に、今度は美月が苦笑いする番だった。
 美月は僕の言葉に誤魔化すようにまたピアノ椅子に座った。
──でも、ダメなんだ。
──ダメってどうして?
──お母さん、私が小学生のときに死んじゃったんだ。