余命後に蘇った彼女と僕の日々、あるいはその音楽について

8.

 どうすれば音は戻ってくるだろう?

 僕は美月が死んでずっとそんなことをぼうっと考えていた。
 美月の生命反応が消えて、それから蘇生措置も終わって、俊明さんが僕に何かを語りかけて、それから病室を出て、誰かに電話をしているあいだにも、僕はなにも聴こえなくなった世界で、そんなことばかり考えていた。
 どうすれば音は僕のもとに返ってくる?
 俊明さんが電話を終えて戻ってきた。また僕に何かを話しかけている。僕は口を動かして俊明さんに何か答えている。
 でも僕はなんて言っているのだろう。なにも聴こえない。
 僕は表情を動かしている。
 どうやら驚いたことに俊明さんに微笑んでいるらしい。
 わからない。
 まるで深夜に観客席で自分が出ているレイトショーの映画でも見ているみたいだ。
 僕は今どこにいるのだろう。
 母さんがいなくなったときもこうだったっけ?
 僕は中学に上がってほどなく母さんを失っていた。そのときもこんなふうに音がなにも聴こえなくなったような感覚があった。
 あのときはどうだったっけ。なんだっけ、少し頭がぼんやりしている。
 ああ、でもあのとき母さんが完全に壊れて僅かにほっとしたのを思い出した。
 どうしてだろう、いま美月が死んでも同じようにどこかほっとしたように感じてしまっているのは。
 ひどいな、僕はとてもひどいやつだな。自分の大切な人が壊れて、死んでいるのにほっとしたように感じるだなんて。

 悲しいのにな、すごくすごく悲しいのにな。
 結局、僕はピアノが好きだったのか、嫌いだったのか、いまでもわかっていない。
 僕は母さんがいなくなってからピアノを弾くのをやめてしまった。僕にとってピアノを弾くのはその程度のものだったのだろうか。
 それはわからない。
 僕にとってピアノはその程度のものだったから、母さんは僕のピアノが嫌いだったのだろうか。母さんは僕のことが嫌いだったのだろうか。
 僕は美月のピアノを思い出す。どんな音だったかな。
 それはうまく言葉にならない。
 僕はそれをどんなふうに感じていたかな。
 それもうまく言葉にならない。
 でも美月の弾くピアノの音はいまでも頭のなかでずっと聴くことができる。
 美月の弾くピアノの音は母さんの弾くピアノの音と似ていたのだろうか。
 それとも全然似ていなかったのだろうか。
 わからないな。でも、それはこんな音で。
 僕は頭のなかで美月が弾くピアノの音を思い出す。静寂で満たされたうるさい世界で、美月のピアノの静かな音は少しづつ心地よく僕の頭のなかに流れた。
 その音は少しずつ大きくなって、世界のうるさい静けさを食い破っていく。
 少しづつ、少しづつ。
 そうだ、世界に音が再び充されていく。
 さっきまで他人の身体のようだった僕の指先に再び血が通っていく感覚が戻ってくる。
 止まっていた演奏が、楽譜が再び動き始めたような気がした。
 雨の音が戻ってくる。
 リズムを刻むような遠くの雷の響きも
。 
 最初に聴いたような懐かしい音だ。
 最初の最初のような。
 美月のピアノは僕に何を思い出させようとしているんだろう。
 なにか驚くような人の声が聞こえる。
 音が世界に戻りつつあった。
 やがて、大人たちのあいだで一人の少女が目を開けた。
 ゆっくりと目覚めの音ともに。
 彼女の目はぼーっと天井を見ている。
 ゆっくりと身体を起こして。
 やがて少女はこちらを見て最初のフレーズを弾くように、何かを求めるように僕の名前を囁いた。
 僕は彼女が目覚めて最初に求めるものを知っていた。
 音だ。目覚めた彼女は響きを求めていた。
 だから、僕はそれに応えるように、彼女にそれを与える。
「美月」
 目覚めた彼女の最初の一音になるように、僕は蘇った少女の名前を呼んだ。
1.
 記憶のなかで最初に見たものは思い出せない。でも最初に聞いた音ははっきりしている。きっとそれはピアノだ。
 なんてね。
 人は最初に目を開ける前に、口を開く。世界を見る前にまず声を出すんだ。
 僕たちの声を最初に聞くのは母親だ。母さんは僕の声をどんな音だと感じたろうか。
 物心をつく頃には鍵盤に触れていた。
 自分から触ったのか、母さんが最初に弾かせようとしたのかはわからない。
 僕が好きだったのはメヌエットだ。
 穏やかに、弾むように4分の3で踊る響き。
 兄が幼稚園に行って、父が北京だかワルシャワだかに演奏会に出かけているとき、僕と母さんは二人防音のマンションに残された。
退屈しのぎだったのか、今となってはどこまで本気だったのか、わからない。けれど母さんは僕をアップライトピアノの前に座らせて、確かに二人で鍵盤に触れた。
 母さんは片手でメヌエットを弾いて、僕の方を横目でじっと見ていた。

──奏には、わかる?
 母さんは弾き終えると、僕にそう問いかけた。
 僕は返事もせず、ただ手のひらで黒鍵も白鍵も一緒に打楽器みたいに叩いた。
 鍵盤は柔らかく、笑うように沈んだ。
 それから僕は不協和音がおかしくて笑った。
 響きが笑えば、僕も笑った。
 母さんはそんな僕とピアノを、閉め切って風の音がしないマンションの静かな午後に眺めていた。
 たんたんたんと母さんが指で鍵盤を弾く。
 僕はピアノに両手をたんたんたんと叩きつける。
 繰り返しのなかに心地よいものを見つける。それがリズムの始まり。
 母さんがまた指先でたんたんたん。
 僕も手のひらでたんたんたん。
 母さんはやがて僕の子どもらしい短い人差し指をとって、一本沈み込ませた。
 ド。
 それから、指を右にずらして、ド。レ。ミ。
 その繰り返し。
 ド。レ。ミ。ド。レ。ミ。
 母さんが指をとって一音づつ旋律を僕に感じさせる。
 僕にとって、それは音よりも音だった、それは言葉よりも言葉だった。
 きっとそれは母さんにとってもそうだったんだろう。
 僕はそのとき言葉をすでに覚えていたかはわからない。
 けれど、そのとき母さんと初めて会話をしたという感覚を感じていた。
 幼稚園に上がるころには兄と同じピアノ教室に入れられていた。
 母さんはもともと父と同じでプレイヤーだった。
 結婚をしたばかりの頃は有名なピアニスト同士の結婚ということでそれなりに世間を騒がせたらしい。
 母さんは妊娠をする少し前に引退をした。
 理由を知ったことはない。
 演奏家としての実力は父のほうが上だったから、比べられたくなかったんじゃないの。僕は昔、僕ら家族に近い大人がそう話しているのを耳にしたことがある。
 けれど、僕はそれは違うと思う。少なくとも僕が小学校に上がってしばらくまでは、母さんと父の関係は悪くなかったように子どもながらに見えていた。というか母さんは父に対して依存というか、どこか不健全な神格化のような振る舞いをしていた。
 父は母さん以上にピアニストとして評価も高く、世界的演奏家として家を空けることが多かった。多忙だったのだろうが、それでも父は僕ら家族に心の底では冷めていて、関心を少しも示していないのが兄も僕も子どもながらに早い段階でわかっていた。
 でも母さんだけはどういうわけかそれに気づいていなかった。
 いや、無意識では気づいていたのだろうか。
 いずれにせよ父といるときの母さんは子どもながら少し不気味だった。
 母さんは父といるときは、まるで従者のように、そしてときに父を大きい子どものように扱った。そして父はそれを明らかに疎ましく思っていた。
 でもやっぱり母さんだけが家族のなかでそれに気づいていなかった。
 それは痛々しく、そして歪だった。
 兄は器用な男だった。
 同じ教室で同じ課題曲を与えられていても、早く弾きこなせるようになるのは兄だった。
 兄は求められるものをすぐに理解して、すぐに弾きこなしてしまう。先生がイメージして僕らに弾かせようとしている音を即座に把握して、いとも簡単に弾いてみせた。彼は周りが聴きたい音をすぐに理解して、それを再現する音を作るのが上手だった。確かに天才だったのかもしれない。
 僕は先生や周囲の大人から、もっと兄のように上手に弾けるようになれとよく言われた。
 周りを楽しませるタイプのピアニストという意味ではある意味、兄は美月と似たタイプの演奏家なのかもしれない。
 けれど、僕は兄と美月の演奏はまるで違うのだと思う。
 僕は兄の演奏が苦手だった。
 兄の響きを聴いても、僕は彼がどういう人間かまるでわからなかった。
 いつか兄が演奏室で珍しく遅くまで練習しているのをこっそり覗き込んでいたことがある。
 兄はみるみるうちに自分の演奏を作り上げていった。僕はそのあまりの手際のよさに一人の奏者として感銘を感じた。
 でも、兄は違っていた。
 兄はある程度のところまで弾き終えると、楽譜をつまらなそうにまるで心底軽蔑するかのようにパラパラめくりながら一人言ったのだ。
──こんなもののなにが面白いんだ? と。
 僕はそのとき兄が楽譜をひどく汚れたものをみるようにみていたその目が忘れられない。
 兄は覗き込んでいた僕に気がつくと、少し驚いた顔を見せたが、それでもすぐにもとのつまらない表情に戻って、すぐに僕に苦笑いしたのだった。
 父と母さんの関係が破綻したのは僕が小学校四年の頃だった。
 父は母さんをおいて出て行った。
 ある日も海外の演奏会から、夜中の飛行機で空港から帰ってきた。そして日が明けるまでにまた演奏会に行くようにマンションから出て行った。そしてもう二度と戻ってこなかった。
 そのときは知らなかったが、あとで知ったところによれば海外での演奏会の最中に出会ったべつの女性ピアニストと不倫していたらしい。
 父が出ていったあと、母さんの精神は明確に不安定になった。
 僕と兄に、通わせていた教室を唐突に辞めさせ、自分で教えると宣言してからピアノを休みの日は朝から晩まで、平日は学校の友達と放課後遊ぶことは許さず、ご飯を食べるとき以外徹底的に僕らに教え込んだ。
 僕たちはその母さんのピアノ指導のなかで、──どうしてお父さんのように弾けないの、と言われ続けた。
 少しでも間違えたりミスをしたり、いや完璧に弾きこなせたとしても、どうして、どうして、どうして、と。それがその頃の母さんの口癖だった。もう幼いときにマンションで共にアップライトを弾いたような楽しさはなかった。
 緊張感のある母さんの指導のなかで僕は少しでも母さんの心を癒せるような音を探した。
 兄はいつものように求められるように弾くだけだったが、僕はなんとか母さんを元に戻したかった。
 母さんは父の弾くピアノが忘れられなかった。
 母さんの頭の底でずっと父のピアノが鳴り続けていた。
 だからそれに代わるような新しい音を、響きを見つけさえすれば……。
 そしてそれは兄ではなく僕ならできると思った。
 いつのまにか母さんは僕らに手をあげるようになっていた。
 それでも僕はずっと音を探し続けた。
 あの響きを、あのマンションの午後で弾いた音を。
 でも無駄だった。
 母さんはそのうち薬の飲みすぎで事故を起こした。
 目覚めた母さんはなにも覚えていなかった。僕たち家族も、そして自分ですら。
 それが僕が中学一年生の冬だ。
 僕と兄はその年の最後に演奏会で演奏を行った。母さんはその頃もう施設に入っていたが、その日は祖母に連れられてきていた。僕の演奏は兄の演奏順の前だった、母さんの前で演奏をするのはそのとき半年ぶりだった。
 僕が弾き、そしてその次に兄が最後に演奏をした。
 母さんは演奏会が終わったあとに言ったそうだ。
 最後に演奏した子の音の方が私は好きだわ、と。
 母は施設でずっと一日中それが自分にとって誰なのかもわからず、父の演奏の録音を聴いているらしかった。
 僕はその演奏会以来、ピアノを弾かなくなった。
 美月に最初に会ったのはその演奏会の次の年の中学二年のときだった。

2.
 死んだ美月が蘇ってから、三日が経っていた。
 美月の心臓が一度心停止をして、再び鼓動を始めたのは実に一時間以上を過ぎてからのことだった。俊明さんはこれを計器類の間違いなどではなく心停止死亡後からの蘇生だとはっきりと断言した。
 僕はあのとき茫然自失としてほとんどなにも覚えていなかったが、俊明さんは、実際にあのとき呼吸の停止や瞳の対光反射がないことを確認して、娘の死亡宣告を自分の手でしたのだと言った。
──もちろん、心停止後に再び蘇生するということはあり得る。でも、それはごくごく限られた短い時間の話だよ。
 俊明さんは美月が検査のために病室にいないタイミングで僕に説明した。
──例えば心停止後3〜4分を過ぎると血流の停止で脳は重篤なダメージが生じ始める。5分を過ぎれば、回復不可能な状態が始まり脳は他の臓器への司令塔という神経系の役割を失う。それが始まれば死はもはやすぐそこだ。やがてさらに3分後には生存確率は限りなくゼロに近づく。ましてや一時間以上経って再び蘇生だなんて……。
 俊明さんは大袈裟に手を振った。
──ありえない。雪山での遭難で身体が極端に冷温などの仮死状態になっていれば、まだ科学的にはわかる。でもそういう状況じゃなかったろう。
 僕は美月が蘇生してからまだまとまな会話をしていなかった。美月は蘇生の直後は心ここにあらずといった感じで呆けていたが、だがそれも一日経って二日が過ぎ、目に正気が戻り、口は聞かずとも意思表示も行うようになっていた。
 俊明さんは言った。
──さっき心停止後の血流停止で脳は回復不能な状態になるといったね、しかしここ数日改めて美月の脳のMRIをとってみたが、やはりそれは心停止前の傷ひとつない綺麗なものだったよ。それどころか……。
 俊明さんは状況の急激な変化で喜びよりも驚きの方が勝っているようだった。
──脳波図やPET検査で見る限り、美月の脳波もドーパミンやセロトニンなどの脳内物質も症例発症前の正常な値に完全に戻っている。あの第六の波形が消えたんだ。
──それは、美月の病が治ったということなんですか?
 俊明さんは僕の問いに考えあぐねているようだったが、それでも医師として回答した。
──そうだね、少なくとも現時点ではそうだと言うべきだろう。
──俊明さん……、
 ぼくは話の最後にひとつ質問をしてみた。
──俊明さんは、今の美月の状態は医学的にあってはならないことだと考えていますか?
 俊明さんは僕の質問に少し虚をつかれたような表情をした。
 それからいつものように穏やかな微笑みを見せて答えた。
──娘が蘇って、それをあってはならないことだなんて父親として口が裂けても言う気にはなれないよ。
 それから翌日、美月は僕たちについにはっきりと言葉を返すようになった。
 美月は病室に入ってきた僕をみて、なぜだかきまづそうにしていた。
「えーと、奏サン?」
 僕も僕でどういうふうに美月に声をかければいいのかわからないような気がした。どうやら美月が言葉を取り戻したのと逆に僕は声を失ってしまったらしい。
 なにやらくすぐったいような沈黙が流れるような病室。
 美月は思い切って、僕に叫んだ。

「我は黄泉の国より生き返りし伝説のピアニスト、さあて月に代わってお仕置きよ!」
「うん、やっぱり幽霊じゃなくて本当に美月みたいだね」
「冷静にいうのはヤメテ! 滑ったみたいだから!」
 もう一度沈黙。
 しかし春は訪れようとしていた。やがてどちらともなくクツクツと声を噛み殺すような笑い声。最初はピアニッシモ、クレッシェンドで、やがてフォルテへ。僕たちはやがて二人で声を上げて、笑った。そして気がつけば、笑いはやがて涙に変わっていた。

「なんだよ……。蘇った第一声が盛大に滑ってるってなんだよ……」
 僕たちは病室のベッドのうえで泣き続けていた。

「うるさいなあ、うるさいなあ、だってなんていえばいいかわからなかったんだもん」

「それでも月に代わってお仕置きはないだろ」
 泣いたり、笑ったり、美月が入院するようになって、僕たちの日常にあった涙も笑いもそれはずいぶんとぎこちないものに変わってしまっていた。
 こんなふうに泣いたり、笑ったりしたのは本当に久しぶりな気がした。
 僕たちは今日までずっと悲しみを隠すように笑っていた。
 でもいまは嬉しくて、心から嬉しくて泣いている。
 そのことが嬉しかった。嬉しいことが嬉しかった。

「奏」

 彼女は僕の名前をそっと呼んだ。うん? 僕は応える。

「ただいま」

 おかえり、僕はそういう代わりにベッドに座る彼女の身体を強く抱きしめていた。
3.
 中学二年の一学期、僕は前にいた学校から美月のいる同じ県の私立学校に転校した。
 母さんが施設に入って、僕と兄は半年ほどは祖母が用意したハウスキーパーに生活の面倒をみてもらっていたが、新しい学年になるタイミングで僕は正式に親類間で決められた親族の家に移ることになった。
 兄はちょうど中学を卒業するタイミングだったので、一人暮らしを始めるようだった。
 もっとも僕だって預けられる親族の家は中学を卒業するタイミングで出ようとはすでに考えていたし、引き受けた親族もそのつもりのようだった。
 僕の住所はこのときに10年以上暮らしたマンションを離れて、県の南部へと移った。
 一学期のクラス替えのタイミングで転校したので、特に目立たずに紛れ込めるかなと期待したが、新学年になって直後の教室でも一人知らない奴がいるということはすぐに気づかれた。おまけに初日のホームルームで転校生徒としてクラスメイトに挨拶するように担任の教師はわざわざ僕に言った。

 僕は教壇に立つと当たり障りのない自己紹介をした。
 担任の教師は僕があまり得意ではない種類の笑いをしながら、瀬川くんは好きなこととか特技はなにかな? と言った。
 僕は新しい担任の教師のその問いかけに一瞬答えに窮したが、それでも一応答えた。
──特にありません。
 僕はそれだけ言うと、教壇を降りてさっさと決められた席に戻った。
 美月と最初に話したのは確か転校してきたその日の放課後だった。美月はそのときクラス委員を任されていて、転校生の僕への校内案内を任されたのだった。
 美月は校内を歩きながら、ここが理科室、ここが放送室と僕にひとつひとつ丁寧に教室を説明してまわった。それから美月は最後に音楽室に僕に案内した。
 僕は少し校内を歩き疲れて、音楽室の椅子に腰掛けた。
 この学校には吹奏楽部はないのだろうか? 僕は誰もいない広い音楽室の黒板にチョークで書かれた消えかけの音楽記号を見つめながら思った。
 間の抜けた顔から僕の疑問を察したのか、美月は言った。
──まだ新学年が始まったばっかりだから部活の活動期間が始まってないんだ。瀬川くん、もしかして吹奏楽にも興味あるの。
 僕は黒板への目線を外した。美月の聞き方に、僕は微妙な違和感を感じて聞いた。
──いや、そういうわけじゃないけど、吹奏楽に〈も〉ってどういう意味?
──あ、えーと、それはね……。
 美月は僕の質問に答える代わりに、教室の隅のグラウンド・ピアノの鍵盤蓋を開くとピアノ椅子に座った。
 それから、ちょっと緊張するなと照れくさそうにいうと、両腕を挙げて袖を整えると演奏を始めた。
 弾むような対位法のステップ。涼しい夏の夜を思い出させるような柔らかなリズム。月明かりが夜の湖面を優しく揺らし、波の合間に映る光るほのかな輝きを伴って響くアレグレットの調べ。このあとの嵐のような展開を予感させる、短くも儚い優雅で楽しげなひととき。
 月光第二楽章アレグレットだ。
 左右のバランスは完璧で、音符の一つ一つがかけがえのない存在であるかのように語りかけている。テンポの揺らぎにも敏感に対応し、音の波に漂いながらも、決して溺れていない。
 そして、何よりもリズムがしっかりとコントロールされながらも、繊細な変化をピアニスト自身の意志によって作り出しているのが分かる。
 弾かされているのではなく、きちんと弾いている。
 いや、それ以上だ。
 このピアニストは、すでに自分の内面に「弾かされている」。
 初級者が楽譜に「弾かされる」段階を超え、技術的に卓越した先にある、自らの内面に導かれたそのピアニストだけの個性が感じられるもう一度今度は最初とは違う意味での「弾かされる」演奏をしている。
──どうかな?
 美月は照れ隠しに微笑みながらいった。
──第三楽章も弾けるんだよ。
──中学生でこのレベルは、なかなかのものだと思う。
 美月は軽く肩をすくめて苦笑いした。
──なにそれ、瀬川くんも中学生でしょ。
──あ、ごめん。
──冗談だよ。褒めてくれてありがとう。瀬川くん、春休みに県主催の演奏会にお兄さんと出てたでしょ? わたし、そのとき聴いてたんだよ。やっぱりお父さんの血は争えないね。でもまさか春休みが終わったら、同じクラスに転校してくるなんて思ってなかったよ。
 僕は美月の言葉を聞いて、自分の内側が身構えたのを感じた。
 演奏を聞く限りただ趣味でやっているというレベルではないのだろう。確かに著名な父とそしてその息子である自分と兄はある程度のピアノ関係者なら、気づくのはそんなに難しくないことなのかもしれない。
──ねえ、なんでさっきクラスでピアノのことみんなに話さなかったの?
──ピアノはもうやめたんだ。ちょうどそれこそ君が聴いた演奏会でね。
 美月は僕の言葉を聞いて、大袈裟に立ち上がった。鍵盤に勢いよく両手をついたので音楽室には耳障りな不協和音が響いた。
──ええ、どうして! 二人ともすっごい良かったのに!
──ピアノなんて親に言われてやってただけだよ。それに……。
 僕は次の言葉を言うのに躊躇った。耳元でいつか兄が言っていた言葉が蘇る。ピアノをまるで汚らしいものをみるような瞳。僕は自分のなかの違和感に配慮せずに言った。
──こんなもののなにが面白いの。
 美月は僕の言葉を聞くと少しムッとしたような表情になった。ピアニストの前で言うべきセリフではないのかもしれなかったのかもしれない。それはわかっていた。
──瀬川くん、嘘つきだね。
──え?
──だって、私の演奏聴いてるとき、すごく楽しそうだったもん。
 僕はいい返す言葉が思いつかなくて、黙るしかなかった。
 もしかしたら、僕はこのときからすでに美月に嫌われるようなことをもう言いたくなくなっていたのかもしれない。
──本当にやめちゃったの? もったいないなあ。瀬川一家の指先はピアノを弾くために存在するって、雑誌にも書いてあったよ。美しい家族の調和が奏でる孤高の響きって。
 僕は今度ばかりはあまり躊躇わずに嫌な笑いがこぼれた。
 美しい家族の調和が奏でる孤高の響きか。
 確かに小学校に上がってすぐに兄とコンクールに出たあとにそんな雑誌のインタビューを家族で受けた気がする。僕らとしては苦笑以外のなにものでもない記事だったけど。
 どうやら僕ら一家の事情はまだ雑誌記者のパパラッチ的な好奇心に見つかっていないようだ。だいたい家族の調和が奏でる孤高の響きってなんだ。調和と孤高って微妙に矛盾してないか。
──ねえねえ、じゃあさ、最後にファンのために一曲だけお願いできない?
 目に中学生らしい幼さを宿しながら美月は僕に言った。
──お断りするよ。それに父の演奏なら、兄の方がよっぽどうまくできるはずだよ。
 美月はさっきと同じように眉を寄せて少しムッとしたような表情でいった。
──私は瀬川くんの演奏が聴きたいの!
 お世辞のつもりにしては、やや真剣さを感じないでもない言い方だったが僕は言った。
──僕の演奏なんて、父と兄の劣化コピーだよ。音源を聴く方が時間の無駄にならなくていい。
──そんなことない! ていうか、それ、演奏会で感動したわたしにちょっと失礼じゃない。
 僕は罪悪感を隠すように少し語調を強めて言った。
──そんなの僕は知らないよ。
 美月はそれでもなお諦めずに食い下がった。
 それから最後に演奏会の演奏を思い出すような表情を見せていった。
──わたしは瀬川くんの演奏の方が好きだったんだけど。
──曲の感想にお世辞を言うのはあんまりよくないよ。さっきもいったけど、技術とかなら兄の方がいいし、父の演奏に近いから。

──お世辞じゃないよ! うーん、ていうか、瀬川くんの演奏ってどっちかというとお母さんの方に似てるよね。
 僕は美月の予想外の言葉に一瞬反応が遅れた。
 誰かが窓を閉め忘れたのだろうか、廊下のほうから春の風が感じられた。
 それは砂の匂いが混じっていたが、冷たさが日の暖かさに溶かされていて僕は不愉快に感じることはできなかった。
──そんな感想は初めてもらったよ。
 美月はまるでテストの成績を誉めてもらった子どものように無邪気に僕の言葉を褒め言葉だと受け取ったようだった。
──わたしとおんなじだね。私の演奏もママに似てるってよくパパに言われるの。
──どういうこと?
──私のママもピアノやってたんだ。だんだん作曲の方がメインになってあんまり演奏家としての活動は少なくなったんだけど。私の名前も曲からとったんだよ。なんの曲かわかる?
 ああ、だからさっき月光を弾いたのか。
 僕は美月の演奏にベタなオチがついたような気がして思わず笑った。
──へえ、それじゃあ、藤咲さんのお母さんもピアニストなのか。じゃあ今度お母さんの演奏会があったら聴かせてもらうよ。
 僕は会話を自分の話題から逸らそうと言った。
──わあ、瀬川くんにそう言ってもらえるの嬉しいなあ。
 言葉とは裏腹に、今度は美月が苦笑いする番だった。
 美月は僕の言葉に誤魔化すようにまたピアノ椅子に座った。
──でも、ダメなんだ。
──ダメってどうして?
──お母さん、私が小学生のときに死んじゃったんだ。
4.
「奏くん、美月を頼むよ」

「はい」
 美月の退院の日、俊明さんと看護師さんに見送られながら病院の玄関で僕らはタクシーを待っていた。
 退院は、美月が蘇って一週間もしないうちに決まった。
──一通り検査の結果を見る限り、美月の身体はもうそこらの人とは変わらないよ。だったら病院に留めておく理由もない。
 俊明さんは、入院中最後になった診察であっさりと美月にそう告げた。
──もちろん検査も定期的に行うし、入院生活で体力や筋力はかなり落ちてるだろうから、リハビリには通ってもらう。なによりもはしゃいでいきなり無理しすぎないように。
 もしかしたら、俊明さんは美月がまた元のようにベッドから抜け出せない状態に戻ってしまわないか怖かったのかもしれない。
 だから美月が症状が出る前に戻ったいますぐにでも、以前の生活を過ごさせてやりたかったのかもしれない。仮にまた症状が現れて元の状態に戻るのだとして、少しでも長く居心地の良い外の世界で過ごさせてやりたいのかもしれない。
 実際、俊明さんは高校のほうには復学届はすぐに出したが、実をいうと学校側からは美月は二年生クラスで戻ってくるように提案されたらしい。
 勉強は入院中でも、自分が教えたり学校側のフォローもあって実は問題ないとのことだったが、出席日数が足りないという点で難色を示されかけたらしい。
 だが俊明さんはそれでも、美月が入学した学年である三年生クラスに戻してくれるように学校側になんとか頼み込んだようだ。
──勉強の方でも、生活の方でもたぶん奏くんにこれまで以上に頼るところが出てくると思う、申し訳ないけど頼むよ。
 退院の前日に僕は俊明さんにそんな言葉を復学の裏事情と共に相談された。
 僕にしてみれば、美月のフォローなど、そんなことは今更という気もしたが、それでも俊明さんの真剣な表情に黙って頷くしかなかった。
 当の美月はこちらの気持ちをわかっているのか、わかっていないのか、入院以来の相変わらず能天気なふうで話していた。
「もー、二人とも心配しすぎ。まあ奏のアニキ、わしらがシャバに戻ったんやからまた組を復活させて仁義なきテッペン取りましょうや」
「あ、そうだ、美月、しばらくは奏くんがうちで生活してくれるから」
「え! なにそれ、わたしきいてないよ! もしかして奏は聞いてたの?」
「ああ」
 美月の家でしばらくやっかいになるのは、俊明さんに事前に相談されていたことだった。
──もし奏くんのおうちが問題ないというのならの話なんだがと、俊明さんは下げた頭をさらにもう一度下げながら僕に言った。
──全然、問題ないです、むしろ、こっちからお願いしたいくらいですよ。
 僕は俊明さんにそう返事をした。 今の僕は母方の親類に預けられているが、正直僕のことなどあまり関心はないようだった。むしろ親類は陰気な僕をどこか疎ましく思っているところがあるので、きっとこれ幸いと飛びついてくるだろうと僕は何となく思った。
「ええ、シャバの生活が最初からパパ公認の同棲生活(はーと)だなんて、あーれー、花のJKの貞操、まさに一世一代のピンチ! もー、奏の頭はぐへへー状態ですよ、ダンナ!」
「ハイハイ、グヘヘーグヘヘー、デスネ」
「なんでカタコト!?」
──ありがとう。基本的には私も家には帰ろうと思うんだが、やはり夜勤の当直もあるし、なによりも美月の症状についてデータを少しでも病院で調べておきたいんだ。
 僕はやはり頷くしかなかった。
「まあ、こんなに元気になったとはいえ、やっぱり最初のうちはなにがあるかわからないから、私がいない日に美月たちだけにしておくのはな」
 <たち>だけ? 聞き間違えだろうか? 藤咲の家はいまは美月と俊明さんだけのはずで、確かに二人にはもう一人妹がいるが、彼女はウィーンの音楽大学の音楽祭に招かれて一ヶ月日本にいなくて、だから俺が頼まれたということなのでは……?
「いやだ、こんな”らぶでこめ”展開が現実に許されていいの?」
 美月の方はいまだに一人でコントモードのようだったが、僕は疑問を拭えず、俊明さんに確認しようとすると、「そのラブコメ展開ちょっと待ったーーーーー!」と、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
 僕たちは振り返ると自分たちが呼んでいないんタクシーが一台止まっていて、一人の背の低いスーツケースを引っ張った少女が立っていた。
「あら、カナデさん、なんでしょう、あのいかにも妹キャラみたいな妹キャラは?」
 美月は大袈裟にオホホとばかりに僕に言った。
 それはまごうことなく元気系の妹キャラだった。
「退院のタイミングでパパ公認のラブコメ展開にさせようったそうはいかないわよ! わたしもたったいま帰ってきたから今日から三人で暮らすからね!」

 美月と三つ歳の離れた現在同じ学園の中等部三年生でなおかつ天才女子中学生ピアニストという妹キャラのその名前は藤崎陽菜といった。
「え、陽菜、お前、あと一週間くらいウィーンのほうで音楽祭に参加するんじゃなかったのか?」
「なに言ってるの! 実の姉が死にかけていたのよ。そんなの予定を変更してすぐに帰ってくるに決まってるじゃない」
 まあ、それはそうかもしれないが。俊明さんは騒がしい娘にはもう慣れたものなのかとくにマイペースを崩さすに話しかけた。
「おや、一昨日電話したしたときは、明日くらいに帰国っていってなかったっけ?」
 え? 俊明さんは知ってたの?
「あれ? 奏くん、言ってなかったっけ?」
 言ってなかったです。というか、陽菜が帰ってくるなら、確かに自分いらなくない?
 俊明さんは僕の目を見て、いつもの穏やかな微笑みで応えるのだった。
「まあ、男手は多い方がいいし、やっぱり美人姉妹とやれやれな僕で三人同じ屋根の下っていうのが王道のラブコメじゃない?」
 そうだった。この人、美月が入院してからのシリアス展開で忘れていたが、普段はただの穏やかで思慮深いパパ役なんじゃなくて、こんな天然属性な人だった。ていうか、王道のラブコメじゃない? ってそれ、もう天然じゃなくて確信犯ですよね?
 そんなふうに僕が困惑していると陽菜はじっとこちらを見つめて、ぼそっと一言つぶやいたように言った。
「このシスコン厨二病男」
「どういう意味だよ! ていうか、シスコンの意味間違ってないか? シスコンはお前だろ!」
「わたしがシスコンなのはいいのよ! 奏がシスコンなのがやばいって言ってんの!」
「だから、僕はシスコンじゃないから!」
 そんなふうに僕と陽菜がドツキ漫才をやっていると、美月は嬉しそうに笑っていた。
「なんか、まだ家に帰ってないのに帰ってきたみたい。二人ともありがとう」
 陽菜は美月の言葉を聞くと、少し我に帰って恥ずかしそうにそっぽを向いた。
 それからそっと照れながらお土産を渡すように言った。
「奏、わたしがいないあいだ、ありがと」
 僕はその妹キャラらしい背の低い後ろ姿に思い出す。
 陽菜がウィーンに向かったのはちょうど三週間前だった。
 ウィーンの名門音楽大学からの招待にも、最初は陽菜は姉が入院しているうちは絶対に日本を離れないと応じるつもりはないようだった。
 そのウィーンのさる音楽大学はヨーロッパのなかでも最高峰の名門音大のうちのひとつで、その音楽祭は世界中でもトップレベルの音楽関係者が集まる恐ろしいほどのレベルのものなのだが、それが陽菜の今後の音楽家キャリアの足がかりになるのは明らかだった。
 それでも陽菜はそんなものはどうでもいいから姉のそばにいれるだけいたいと俊明さんの説得にも聞く耳を持っていなかった。
 それでも最終的に「わたしには奏がいるから」と、美月が渡航期限の前日ギリギリに必殺のお姉ちゃん命令で送り出したのだった。

 そのときの陽菜はそれでもまだなにか言いたそうだったが、その場にいた僕の胸に一発拳を打ち付けると一言「奏、わたしはお姉ちゃんのために行くんだからね! だから、あんたも……」とそれだけいうとようやく渡航を受け入れたのだった。
 僕はそっぽを向く陽菜に背の低いの頭に手を乗せるとそのままわしわしと撫でた。
「留守は守ったよ、おかえり、妹キャラさん」
 妹キャラは、頭を撫でられながら、少しだけ目を潤ませて「なんであんたに頭をなでられなきゃいけないのよ」と言った、けれど黙ってされるがままにされていた。それから、しばらくすると振り返って俺たちに叫んだ。
「さあ、シリアス展開はもう終わりなんだから! 三人で一つ屋根の下でラブコメ展開やるんだからね!」

「あ、お父さんも帰れる日はちゃんと帰るからね」
 最後に俊明さんが珍しくオチを買って出るように付け足して、美月は自分が一番大事にする家族のコントに最前席で笑った。
5.
 タクシーで藤咲の一軒家まで向かうと美月は早速お気に入りのソファに飛び込んだ。
「うにゃ〜、やっぱおうちが一番だにゃ〜」
 入院生活が決まったこの一年間でも一度も帰る機会がなかったわけではないが、それでもここ数ヶ月は体調が急激に悪化していたせいで一度も帰れていなかったのだ。
 父のいる病院とはいえ、それでもやはり自分の家だと安心感がまるで違うのだろう。美月がベッドのうえで猫のように嬉しそうに転がっているのを見るだけでなんだか胸が熱くなるような気がした。
 お姉ちゃん、とりあえず服着替えなよー、あとからスーツケースをタクシーから下ろして入ってきた陽菜の声が背後から聞こえてきた。この姉妹とはなんだかんだで四五年くらいの付き合いになるはずだが、正直にいえば、二人の関係性はいまだに僕は掴みきれていなかった。
 もちろん仲がいいのは確実にわかる。
 面倒見のよい姉と子どもっぽい妹かと思えば、天然なお姉ちゃんと口は悪いがしっかりものの妹にみえたりもする。
 そのリラックスした関係は兄と自分の関係とは違うなとぼんやり思う。
 そんなことを思いながら、美月の隣に腰掛けると、美月は何かに気づいたらしくガバッと起きて、「あ、そうだ、着替え!」と叫んだ。
「はいはい、とりあえず着替えてこいって、飼い主(妹)が言ってるぞ」
「あ、そうじゃなくて、奏の着替え」
「うん? あー、そうか、まあ夕方くらいに一旦取りに帰るか」
 美月は僕の言葉に、意味ありげにチッチッチと指を振りながらおおげさに言った。
「まあそれもいいんだけど、どうせなら他にもいろいろいるものあるでしょ?」
「まあ、そうだけど?」
「ね、せっかくなら買い物に行こうよ!」



                   ***

 
 
 というわけで、僕たち三人は病院から戻ってすぐに早速家を出て、再びバスに乗ってわざわざ少し遠めのショッピングモールまで向かった。
 土曜日のショッピングモールはこんな県の中心から外れた郊外でもそれなりに人で賑わっていた。僕は人混みのなかで久々の外の世界は美月の負担にならないかと心配したが、当の美月は妹と二人でニコニコとエスカレータに乗り込んでいた。
 お昼がまだだった僕たちは着いたらまずフートコートで食事をすることにしたが、美月は爛々とハンバーガーショップやらアイスクリームスタンドに目を輝かせた。
 美月はさんざん何を食べるか悩んだ挙句、ミニ餃子がついてくるラーメンセットにした。ちなみに陽菜は親子丼と小うどんのセットで、自分はカットステーキ重と蕎麦にした。
 美月は自分のラーメンセットが出来上がるまで呼び出し用のベルを両手で持ちながら、先に食べ始めた僕らの料理に「いいな、いいな、そっちもよかったなあ」と心底羨ましそうに言った。
「少し食べるか?」とせっかく聞いたが、美月は「ダメ、フードコートでは一人一つで欲張っちゃダメなの。それがルールなの」とよくわからないが妙に義理堅いことを言った。
「お姉ちゃんって本当に食いしん坊だよねえ」
「健康な証拠です」
 美月は微妙に笑っていいのか、笑えないかのギリギリの発言をして、それからけたたましくラーメンセットに呼び出されて、席を外した。
「奏はさ、ここのモールが出来てから引っ越してきたんだよね?」
 陽菜は最後に小うどんを食べる派らしく少し伸びた麺をずるずる啜りながら話しかけてきた。
「たぶん、そうじゃないかな。引っ越したばっかりのときにもここで買い物したからそうだと思うけど」
 そういえば、美月と最初にどこかに出かけたという思い出も、ここのショッピングモールだった。
 あのときは何を食べたっけ。
「ここのモールってさ、実はできたの結構最近なんだよね、その前はおんなじ系列なんだけど、もっとちっちゃいショッピングセンターだったんだ」
「へえ」
 俺は答えながら最初に蕎麦を食べる派だったので、残ったメインディッシュのカットステーキ重についてきた山椒を振りかけた。
「それでお姉ちゃんとわたしがピアノのレッスンが終わるとお母さんがよく車で迎えに来てくれたついでに寄ったんだよね。なんかこんなふうに二人で来るのお母さんが死んでからあんまりなかったから懐かしいな。こんなふうに大きいモールになる前のショッピングセンターにもおんなじようなフードコートがあってさ」
 美月はカウンターで和食料理屋の隣のラーメンセットのお盆を器からこぼれないように慎重に受け取っていた。
「なんかレッスンは大変だったけど、あの頃こうしてお母さんとお姉ちゃんとフードコートで食べた頃のことが最近いちばん思い出すんだよね」
 ステーキ重の味の濃いソースで喉が渇いたので冷水機から汲んできた水を飲み干した。陽菜の話聞きながら、まるで迷子の子どものように人を避けながらこちらに戻ってこようとする美月を見守りながら僕は考えた。
 きっとそれは美月もおんなじなんだろう。だから、今日もこんなに楽しそうに笑っているんだ。
 僕は想像した。
 幼い美月が母親に連れられて、たくさんの食べ物に目移りして、あれも食べたいこれも食べたいと駄々をこねる。でも母親はそんなに食べきれないから、一つだけにしときなさいという。
 それがルールだから、と。
 でも幼い美月はぐずって我儘をいう。案の上、叱られて泣く泣くラーメンセットを選ぶ。でも食べてるうちに機嫌が直って、最後には笑うのだ。
 どれだけ叱られた思い出があっても、きっとそれすらここでは幸福な思い出として思い出される。
「奏の家は家族でこういうところ来たりした?」
「うちはこういうところには来なかったな、でも」
「でも?」
「来ればよかったな」
「そっか」
 陽菜はそれ以上は何も言わなかった。
 フードコートのラーメンなんて、ちゃちでどこにでもある味だ。でもだからこそその記憶のなかでその味はずっと忘れられないんだろう。ショッピングセンターのフードコートで叱られたり、話したり、そんなのきっと特別じゃないそこらの誰にでもあるどこにでもある他愛もない記憶だ。
 でもだからこそ、特別でかけがえのない、大切な大切な記憶の一つになるのだろう。
 陽菜は美月が席にたどり着くまでにイタズラっぽく付け加えた。
「でもさ、お姉ちゃんの人生の初キスは奏とここに来たときらしいから」
 美月は人混みをかきわけて、ようやく僕らの席に戻ってきた。
「うーん? 陽菜はなんで、そんなニヤニヤしているの? あれ? 奏はなんでそんな顔赤いの? そのステーキ重、そんなに辛かった? 水取ってきてあげようか?」
 陽菜は大丈夫だよ、と一言だけいった。
 変なの、美月はそういって、持ってきたラーメンセットのミニ餃子をラーメンスープに浸して口に入れるとすぐに麺を啜った。
「いやあ、やっぱりフードコートのラーメンセットでしか味わえない美味しささって絶対あるよね」
 美月は餃子をおかずにラーメンを一緒に食べる派だった。
「そうだねえ」
 陽菜はそういって姉の満足げな表情をずっと見つめ続けていた。

6.
──お母さん、私が小学校のときに死んじゃったんだ。
 美月が気まずさを隠すようにそう苦笑いして答えたとき、僕はなにを感じたろうか。
 同情? 哀れみ?
 それはなかったと思う。ある意味では僕もまた母さんを亡くしたといえば、そうなのだから。同情や哀れみといった、自分とは異なる他人事のようなそれは違った。
 共感?
 それも違ったと思う。なぜなら僕の母さんはまだ生きていたから。母親を失ったということを抽象的に同一視して、死者と生者の境を徒らに踏み越えて、彼女だけの悲しみと、僕だけの苦しみの尊厳を犯すようなものも違った。
 恥ずかしさ。
 もしかしたら、これが一番近かったかもしれない。
 母親との関係は崩壊して、まるでそんな悲劇は自分だけのものだと思い込み。世界に対して不貞腐れて、不幸なのは自分だけなのだと思い込んでいたその子どもっぽさをまだ同い歳の幼い少女に見せつけられたという恥ずかしさ。
 そしてなぜか生じたどこか説明できないような悔しさ。

 結局いくつもの感情がないまぜになって、出てきた自分のなかの言葉は驚くほど短く間が抜けていた。

──藤咲さんはすごいね。



                  ***

 ぞれから美月と陽菜と三人でフードコートの食事を食べたあと、僕たちはエスカレーターを上がったり下がったり、右に回ったり左に回ったり、大きな水槽のなかの子魚みたいに、暗い宇宙のなかで廻る惑星みたいにモール内の店を見てまわった。
 結局、自分の生活に必要な日用品を買い揃えるというのはただの名目で、姉妹のショッピングに一日付き合わされているという事実に途中から気づいていたが、なんだかんだでそれでも二人が楽しそうなら、それでいいかと僕は笑いながらため息をついた。
 よくわからないキャラクラーグッズの店で妹にちょっと不気味な雰囲気のあるキーホルダーを姉として買わされたり、逆に妹にアパレルで服を何着も試着させたり、三人で話題の漫画について書店で喋ったり、本当に他愛もなく、かけがえのない時間だった。
 退院したその日にこんなに人の多いところに連れてきて大丈夫だろうかと心配したが、美月は少しずつ日常と外の世界を取り戻していった。
 ショッピングモールに訪れたのは昼過ぎくらいだったが、あっという間に日が沈む時間になろうとしていた。
「まあ今日はこんなもんかな」
 三階のシネコンを出たところに併設されたベンチで小腹を満たすためのクレープやらタピオカミルクティーを分担で持ちながら、僕は言った。
「そうだね」
 美月は隣の陽菜からもらったミルクティーの太いストローから口から離すとそう応えた。
「陽菜はもう大丈夫?」
 美月は隣りの妹に尋ねた。
 陽菜は真剣そうな顔で両手で数えながらぶつぶつと一人で呟いていた。
「ええと、フードコートでご飯は食べたでしょ、ワガママだけどかわいい妹が勧めてくるちょっとナンセンスなキャラクターグッズもお姉ちゃん買ったでしょ、うん、彼女が試着室で出てきて、いつもと違う大胆な格好で思わず彼氏もドキドキ! もやったでしょ、あと普通に集めてる漫画の最新刊は揃えたでしょ、えーと、あとなんか忘れていることは……」
 陽菜のなかで今日の買い物の計画はいったいどういうものだったんだろう。なんとなく妹キャラも大変なんだなと深く触れないようにした。
 ちなみに陽菜がつぶやいたことは確かにすべて実行していて、美月は最新の新型女子中学生のあいだでバズってるからと、本当か嘘かわからないが、ボケナス野菜のホウレンソウくんというぬいぐるみを買わされて、いまベンチに座らせていた。
 そしてぶつぶつと呟き終えた妹キャラは最後にぽんと拳を手のひらに打ちつけた。
「あ、そうだ、最後に“アレ”やってないわ」



                    ***


──すごい?
 美月は僕からの予想外の言葉に驚いた表情を見せた。
──だって、さっき藤咲さんのピアノからは悲しさとか後悔とか、自己憐憫とかそういう響きが感じられなかった。明るくて、楽しくて、何よりも喜びに満ちていた気がする、そんな響きだった。
 自分の悲しさを誇示するような悲嘆、膨れ上がったナルシシズムのような後悔、自分に対する哀れみ。いまの自分なら一音でも白鍵を叩けば隠しきれず漏れ出してしまうようなそんな感情をこの少女は無理に押し隠すでもなく、受け入れたうえで、それを強さとして響きに変えている。それはすごいことだ。
 とてもとてもすごい。
──瀬川くんにまた褒められちゃった。
──あ、ごめん。
──なんで謝るの。
 美月はそう言って笑った。
──瀬川くんって優しいね。
 今度は僕が虚を突かれる番だった。僕は美月がいったことの意味がよくわからなかった。僕は言葉にせず、その代わりに眉根を寄せて美月に反応した。
 美月はそんな僕をみてもう一度笑った。
 笑うととてもかわいい子だな。僕は今更そんなことに気がついた。でも、その言葉を口にしたのは美月の方だった。
──それからすごいかわいい人だね。
──どういうこと……。
──瀬川くんは自分が思っている以上に、かわいくて、チャーミングで、面白い人だって気づいたほうがいいね。ピアノとかそんなの関係なくさ。
──はあ……。
 僕は会話の方向がついにわからなくなって、困惑した。
 僕は自分のことから話題を逸らそうと言った。
──お母さんはどんな人だったの?
──え、うちのママ?
 会話のボールが今度は自分に渡されて、驚いた美月が目をぱちりとさせた。
──そうだねえ、うちのママがどんな人かあ……。
 美月は目を細めると、小さな生き物を慈しむように微笑んだ。その表情はピアノを弾くときの彼女の表情を少し思わせた。
──うちのママはね、優しかったよ、すっごく。それにいろいろ細かいことをいーっぱい覚えているような人だった。それは記憶力がいいとか、几帳面だったとか必ずしもそういうことじゃなくてね。
 美月は顎に手を当てて、正確にそれを表現しようとした。
──なんていったらいいのかな。道端に咲いているふつうの人だったら見過ごしてしまうような植物にも絶対に気がつけるような人って感じかな。ママは自分が生きてきたどんな些細な景色も出来事も覚えているような人だった、そのとき感じた自分の感情も。それは多分ママの音楽家というか作曲家としての信念のようなものだったというか、そんな人だったから音楽家だったのかも。
 美月は話し続けた。
──ママがピアノについて言っていたのは、どんな些細な景色や思い出もそれはそれだけで大事で大切にされるべき価値があるものだって。逆に言えば音楽というのは、一つの曲というのは本質的には誰かが見た景色や感じた感情、つまり記憶そのものだって言っていた。ピアノはそれが他のどんな楽器よりもはっきりと出る一番本質的な楽器なんだっていうのがママの主張だった。
 僕は美月の説明を聞きながら考えた。美月の母が言うことは一奏者としても違和感はなかった。ある意味それはどのような音楽家であれ多かれ少なかれ感じていることをまっすぐ言葉にしていた。
──ママはね、それがどんなにありきたりな景色でも、それがどんなに辛くて悲しい記憶でも、忘れたりせずに大切にすべきだって言っていた。それがどんなに悲しくても、辛くても、それをその人がその運命のなかで感じることになったのは意味のあることでそれはかけがえの特別なものだからって。
 僕はさっき聴いた美月の演奏について考えていた。
 伸びやかで、そして、まっすぐなその響き。
──人は誰かを覚えている限りたとえその人がその場にいなくても、それはそばにいるということだし、忘れない限りその人はずっと生き続けることができるはず。もしかしたらありきたりで平凡に聞こえるかもしれないけど、それでもやっぱり人が本当の意味で死ぬのは誰からも忘れられたときだって、だから自分はなにもかもどんな些細なことでも覚えておきたい、だってさ。
──それがどんなに辛かったり、苦しかったり、忘れてしまいたいようなことでも?
 僕は美月に尋ねた。
 美月は自分に母親が乗り移ったかのような真剣な顔でうなづいた。
──うん、たとえそれがどれほど苦しかったり、悲しくて、忘れたいような記憶でも。
 僕は美月の言葉をきいて思った。
 それはもしかしたら、とても強くて覚悟のいる生き方なのかもしれない。
 美月はうなづいた。それからやっぱり母親を思い出すように穏やかに微笑んだ。
──そうだね。でも、ママは言っていたよ。結局人はどんなに忘れていたって、忘れてしまおうとしたって最後にはなにも忘れることはできない存在だって。



                 ***


 アレってなんだよ?
 僕と美月は、陽菜に聞いたが、陽菜はいいからついてきてと言って、ほとんどまともに答えず僕らにエスカレータに乗るように促した。
 三階から二階に降りる途中にあった子ども服売り場では、入学式前の子ども用のジャケットや色とりどりのランドセルが並べてあった。いまは男の子は黒で女の子は赤に限らないどころかそもそもランドセルで通う子は少なくなっていたりするのだろうかなんて関係ない思考が僕の頭をよぎった。
 それから二階から一階に僕らはまるで天国への階段を逆走するみたいに運ばれていった。
 一階のフロアに足元が辿り着くと、よっと、と陽菜は少し跳ねてエスカレータを降りた。
 それからアパレルショップや抹茶アイスを売っているスタンドの前を通りモールの客のあいまをすいすいと避けていく。後ろの美月が置いていかれないようにちょこまかと前を歩く自分についてきた。
「おいおい、どこに行きたいかくらい言ってくれよ」
「ごめんごめん、もう着いたよ」
 そこはちょうど吹き抜けになったモールの中心だった。その吹き抜け空間はイベントごとがなにかあるときは催事場として使われているイベントスペースだった。
 スペースはいまは何もイベントがないらしく行き交うモール客の衆目を集めてはいなかったが、中心には「どなたさまもご自由に譲り合ってお使いください」と立て札が置かれた一台の慣れ親しんだ装置が置いてあった。
「なんだストリートピアノか」
 陽菜はとびきっりの獲物を見つけてきた群れの一匹のようにどこか誇らしげに、ふふんと僕らに鼻を鳴らした。
「さてさて、ではここは退院一発目の記念すべき野良リサイタルとして藤咲美月さんに演奏をご賜り……たいところではありますが、流石に病み上がりですぐに衆目の演奏は荷が重いと思いますので、不祥私めがご披露させていただきたく思います」
「なんだ、結局お姉ちゃんにピアノを聴いて欲しかっただけか。はいはい、シスコン案件、シスコン案件」
「観客席のシスコンはお静かに願います」
「だから、シスコンの意味が違うって、シスコンはお前だろ」
 美月は僕らのコントに嬉しそうにニコニコしながら、「それじゃあお願いしますわ、天才女子中学生ピアニストさま」といった。
「ふふん」
 陽菜は姉に頼まれてますます嬉しそうに調子づいた。
「なんだ天才女子中学生ピアニストって満更でもないんだ」
 僕はせめてものヤジとばかりにいった。
「うるさい、シスコン根暗凡俗ピアニスト」
 だからお前はシスコンの意味がわかってるのか?
 しかし、コントもそこまで。陽菜は天板の開かれたピアノに数歩近づいて着席した。
 それから首をなんどか上下にゆらりと動かして予備動作をとり鍵盤に指を置く。
 それからゆっくりと春風の吹き渡る海波を引き寄せるような指先で旋律を響かせ始めた。
 買い物客の様々な色の音で溢れかえっていたモールに透明な風の音が混じる。
 ピアノとは不思議な楽器だ。
 どれだけの音が溢れてる場所でも、無数の楽器の楽団中の演奏でも必ず掻き消されず、この耳に響いてくる。
 ピアノは無数の色で混ざり合った絵の具のなかでも必ずその透明な色を失わない特別な楽器で、そしてその透明さは必ずピアニストの心の色を示さずにはいない。ピアニストは透明なその音を聴きながら、自身の音の色と常に向き合い続ける人間だ。
 ピアニストは響きを通じていつのまにか聴いている人間の心を染め上げてしまう。
 それを意識的に無意識的に行うのがピアニストだ。
 美月は僕の隣で一人のピアニストの演奏を静かに見つめている。
 それから華やかで透き通った色に惹かれた人が一人、一人とまた足を止めていく。
 天才女子中学生ピアニストか。
 僕はテレビ局がつけたであろうその軽薄な呼び名を思い出す。
 なかなかやるじゃないか。
 美月が増えてきた人だかりのなかで、この透明な演奏会を壊さないようにそっと耳元で囁きかけてきた。
「ねえ、奏、この曲、きいたことないでしょ?」
 陽菜が聴く曲はクラシックの定番でもなければ、有名なポップスというわけでもなかった。何かの現代音楽のなかの一曲だろうか。
 美月は首を振っていった。
「この曲は発表されてないの。この曲を弾けるのは世界で私と陽菜の二人だけ。この曲はね、ママがちっちゃいときに私たちのために作ってくれた曲なんだよ」
 美月は演奏を聴きながら、広いホール会場で響かせるようにピアノを黒鍵と白鍵で歌わせるピアニストを見つめた。



                    ***

──藤咲さんは……、
──ねえ、もう「美月」でいいよ。それで瀬川くんは「奏」ね。私たちはもうマブダチだから。「マブ」の「ダチ」。マブいね。

──……マブダチね……。
──あれ、嫌だった?
 僕はそんなことないよと言い直した。
──じゃあ美月はさ、お母さんのその考え方をどう思うの?
 僕は最後にそう聞いた。
 それがどんな答えなのかは美月自身のなかに、そして彼女の演奏のなかにその答えは存在しているような気はしていたけど。
──そうだなあ、演奏家としてシンプルだけどだからこそすごく力強い考え方だと思う。素敵だし、そうわたしもあれたらいいなって思う。痛みすら、ある意味ずっと自分の一部だとして大事にしておくの。でも、ちょっと怖いかなとも思う。
──怖いってどういうこと?
──だって、やっぱりときには忘れたいこともあるじゃん。それに……、
──それに?
──なんだろ? わかんない、なんとなくかな。

 美月は衒いもなく笑った。

──そっか。

 僕は美月の話をそれで全て聞き終えた。
──じゃあ、最後に奏くんの番、奏くんも一曲聴かせて! ああ、夢にまで見た瀬川奏の演奏が今ここで聴けるなんて!
──それはまた、今度ね。
──ええー、なんで、ずるい〜。
──簡単に忘れられるのも悔しいからさ。
──わたし、奏くんの演奏なら絶対忘れないよ。
 美月は今度は歯を見せてニッと笑った。
 僕も美月に向けて笑った。彼女が僕の名前を呼ぶとその響きはとても久しぶりに心地よいものとして胸に響いていることに僕は気がついた。彼女に向けた僕の笑いは自分でも驚くほどもう自然なものに変わっていた。
 兄との演奏会以来、いや、もうずっとそれ以上前からこんなふうに笑ってなかった。
 美月の前でそんなふうに笑えたことの意味を僕はまだそのときは気づいていなかった。
 まあ、それはこのあとすぐに気づくことになったんだけど。
──今度、絶対聴かせてね。
──わかったよ。
──約束だからね。

 音楽室に差し込んでいる日差しの色はもうすっかり変わっていた。
 オレンジの光が差し込む音楽室で美月がイタズラっぽく笑うこの記憶は今の僕の何を構成しているだろう。
 僕は、全てが終わった今この瞬間でそんなことを考える。
 美月はいろんな笑い方をした。
 優しく穏やかに、ニッと歯をみせたり、ときに寂しさや辛さを隠すように。
 まるでたくさんの音楽記号みたいに。
 でも美月はけして人を傷つけたりするような笑いはしなかった。
 僕は美月のそんなところも好きだった。
 そして、今になって後悔する。
 ピアノなんていくらでも弾いてやればよかった。
 望むなら何度でも。
 でも、もうそれは叶わない。
 結局僕は今日まで美月にピアノを弾いてやることは最後まで一度もなかった。
1.
 そうして春は過ぎて、僕らは高校最後の年に進級した。
 入院中でも自分がフォローしていたとはいえ、一年もの勉強のブランクは大変だったろうし、クラスの人間関係なんかもすっかり様変わりしていたろうから、自分が想像しているよりもきっと何倍も大変だったはずだが、それでも美月は弱音を吐かずに退院後の生活を危なげなくこなしていた。
 美月は持ち前の屈託のなさでもともとクラスの人気者だったし、教師の覚えもめでたい生徒だったので、自然といろんな人が美月をフォローしてくれたことも幸いだったのかもしれない。
 復帰後、教室のなかでクラスメイトに囲まれて歓迎されているのをみて、僕は安堵するとともに、美月の人を惹きつける姿に自分との違いを知らされて、苦笑いが漏れるのを感じないわけでもなかったが……。
 もっともそれも陽菜にいわせれば、「そんなのあたりまでしょ、お姉ちゃんに奏が勝てるわけないじゃん」とのことだったが……。
 反論はない。
「奏、今日、放課後空いてる?」
 それは6月の最後の金曜日だった。
 美月がお昼休み入る前に、学食を食べに行こうとする自分を引き止めて尋ねてきた。季節はとっくに春が過ぎて、涼しさはいよいよ立ち去り、暑さがやってきはじめていた。
「空いてるけど」
「よしよし、それじゃあ、今日、授業終わったらちょっと帰るの待っててくれる?」
「いつも待ってるだろ、まあいいけど、今日は補習はないのか」
「あ、うん、あるんだけど、今日は担当の先生が時間ないからいつもよりすぐお終わりそうなの」
 美月は学校から放課後に、二年の学習内容をバックアップするための補修室での補講を入れられていた。二年の出席日数が足りてないところを特別に三年に進級させるために学校側が俊明さんに出した条件だったらしい。
 俊明さんは退院後にあまり無理をさせたくなかったし、瀬川くんが勉強を教えてくれていたので、と少し抵抗したらしいが、学校側としてもなんらかの代替を行なったという実績を残しておきたいのか譲れないところだったらしく、俊明さんは結局その条件を飲んだらしい。
 もっとも美月によれば、受験生だからむしろ受験勉強のために塾にいく代わりになってちょうどよい、渡りに船だと言っていた。もちろん一年かけてやる授業内容を放課後の短い時間にやるわけだから、完全なものではなかったらしいが、それでも入院中に自分が無手勝流に教えていたものはよりよいだろう。
「わかった。じゃあ教室で待ってる」
「うん、よろしく」
 美月はそういって、教室のクラスメイトたちのもとに戻っていった。


                     ***

「瀬川ってさ、藤咲さんと付き合ってんの?」
 激辛特製麻辣担々麺セットか激甘特製味噌麻婆定食を見比べていると話しかけられた。
 僕は比較的クラス内でまだ話す方であるクラスメイトと食堂でお昼を食べようと教室を出ていた。
 短い昼休みの時間でさっさとオーダーをするために僕は積み重なったトレーを取った。
「激甘特製味噌麻婆定食をひとつ」
 え、そっち?
 僕の隣りでクラスメイトの困惑した声が聞こえた。
「辛いものは全然好きじゃないんだよ。麻婆定食一択」

 クラスメイトは自分の選択が理解できんという顔で、食堂のおばちゃんに担々麺セットをオーダーしていた。というか、今日の二択は妙に極端だな。
「あ、ていうか、誤魔化すなよ。瀬川は藤咲さんと付き合ってんの?」
 僕はどういうふうに答えようか、ふむと頬に手を当て、天井を見た。それから激甘味噌麻婆が来るまでに答えていた。
「付き合ってる?」
「なんで最後にハテナがつくんだよ」
「なんでって」
 プロコフィエフ『サルカズム』。僕はこっそり目の前のクラスメイトを心のなかでいつもそう呼んでいた。なんとなく落ち着きのない騒がしいやつなので。
「付き合ってるってどういう状態なの?」
「はあ! お前は本当に、本当に高三か? そんなんもわからねえのか! お前受験生だろ、大学落ちるぞ」
「お前は大学入試をなんだと思ってるんだ……」
『サルカズム』は両腕が変になった指揮者のようにくねくねと身悶えするような動きをしつつ、絞り出すように言った。
「いいかね、瀬川くん、健全な男子高校生と女子高生のお付き合いという奴はだね。ちゃんとお互いに好きだとお伝えしあってですね。それから、こう……、むふふなキッスをしたり、こう……なんというか、こう……対戦したりするんだよ!」
「対戦ってなんだよ」
「きゃあああ、瀬川くんのえっち! すけべ! えろえろ大魔王! もうほんとにぴゅあでぴゅあな青年なんだから! もしかして瀬川クン、そんなんじゃまだちゃんと藤咲さんに告白もしてないのでは?!」
「告白ってちゃんと好きっていうとかそういう話? 確かにしてないな」
「瀬川クン、それは問題だよ! 大問題! それはよくない! そんなんじゃキッスもできないわよ」
「いや、それはしたけど」
「ぐあー!」
『サルカズム』は大袈裟に胸をおさえて叫んだ。
 僕は目の前のこいつの名前を『サルカズム』よりさらにうるさい曲に変えようかと他にいい曲はないかと頭のなかで探した。
「お前、キスはしたのに? 付き合ってる(?)なのかよ! それはいかん! それはいかんぞ! おい、お前、ほんとに藤咲さんのこと好きなのかよ」
「? 当たり前だろ、好きに決まってるだろ」
「ぐあー!」
『サルカズム』はまた大袈裟に胸をおさえて叫んだ。リフレイン。
「もうだめだ、お前は今日麻婆を食べる資格はありません」
 いつのまにか麻婆と担々麺がやってきていた。『サルカズム』は僕の麻婆まで自分のトレーに乗せてしまった。
「コラ、返せ」
 僕たちは言い合いを続けながら、騒がしい食堂で席を見つけて座った。しかしテーブルに座っても『サルカズム』の騒がしい演奏は終わらなかった。
「とにかくちゃんと告白はしておいたほうがいいって、うん、そう倫理的にも! うん、これ、倫理の問題だから。こういうのはちゃんと言葉にして宣言する! それが倫理だから!」
 どうにもピンと来なかったが僕は言い返す言葉も思いつかず、レンゲを口に咥えたまま、『サルカズム』の方を見た。
「ははーん、お前の考えていることはわかるぞ、俺と藤咲さんは言葉にしなくてもピアノのメロディで通じ合ってるんだとかそういう感じだろ! だめだぞ! そういうのはルール違反だぞ!」
「なんのルールだよ……」
 でも、確かに僕は思い返すと美月にきちんと「好き」だとか、その他いろいろ言葉にするのを疎かにしてしまっていたのかもしれない。僕は美月との時間を思い出して今日までどんな言葉を美月に伝えたかを思い出してみた。だが、思い当たるのは美月が弾いて求められるピアノの感想とかばかりで、それ以外のことが思い当たらなかった。
「まあ、確かに、これからも一生ずっと一緒にいるなら、ちゃんと言うべきことは言ったほうがいいか」
「一生一緒にいる? おお、お前、なんか淡白そうにみえて、自覚なく激重だよな、くわばらくわばら」
「なんだよ、好きな人とは一生一緒にいたいだろ」
「ぐあー!」
 付き合っていたら昼休みの時間がなくなると思い、僕は激甘味噌麻婆を口に運んだ。
 しかし、激甘というわりにどうも甘さが足りない気がした。
 そういえばと、僕は一つ疑問に思っていたことを『サルカズム』に聞いてみた。
「しかし、なんで彼女のいないお前が、僕と美月のことをそんなにアドバイスできるんだ?」
『サルカズム』は、もはや「ぐあー」とすら叫ばず、担々麺の箸を握ったまま床に倒れた。
 どうやら、激辛の方は恐ろしいほど辛かったらしい。
 僕は頼まなくて良かったと激甘麻婆をさらに口に運んだ。
2.
 クラスメイトたちとお昼を食べきって食堂を出ると、すぐに背の低い中等部生に声をかけられた。学校で話すのは意外とないので珍しいなと思った。
「瀬川先輩、すみません、今いいですか?」
 なにもべつに学校と外で使い分けなくてもいいんじゃないかと常々思うのだが、本人曰くクラスの女子の微妙な問題もあるのだといつか言われたことがある。正直よくわからないが、どうにも自分はその辺の事情を察しきるのが昔から苦手だったので、本人に任せることにしていた。
「お前、まさかさっきの純愛ぴゅあぴゅあ発言の裏でこんな……」
「美月の妹だよ」
 陽菜はどうやら食堂のなかで自分たちを見つけて食べ終わるまで待っていたようだ。

 美月と陽菜が姉妹だということは校内では意外と知られていないらしい。
 美月とて、クラスでかなり人気があり、ましてや一年間休学していたというある意味ではセンセーショナルな話題の持ち主なので学年全体で名前を知らない生徒はいないと思う。
 だが中等部も高等部も合わせて学園全体での知名度という点では、「天才女子中学生ピアニスト」の陽菜の方があると美月は言っていた。
「お姉ちゃんは?」
「さあ、他の友達と別のところでご飯食べてるんじゃないか?」
「なるほど」
 陽菜はいまだ外向きの顔を崩さずに言った。
「ちょっと校舎裏に来てもらっていいですか?」
 


                    ***

「いつもどおり話してくれればいいのに、なんでそんな眉間に皺を寄せてるんだよ」
 クラスメイトたちには先に教室に戻ってもらって、わざわざ校舎裏にまで僕は陽菜と来ていた。陽菜は暑さをしのぐため日があたらず少し湿ったずっと影になっている地面を選んで立つと口を開いた。
「べつにいつもどおりでしょ? 話し方はまあアレかもしれないけど。どっちかというと奏が意識してるからじゃない?」
 そうなのだろうか。まあでも確かにいつもどこか怒った感じというか、眉根を寄せているのは学校の外であってもそうなのはそうか。ただやはり声の響きというか、なにかがそれでも微妙に違う印象なのは間違いないと思うのだが。
「というか、そんなことはいいの。聞きたいのはお姉ちゃんのことなんだけど」
 僕は陽菜の口から聞いた「お姉ちゃん」という言葉の響きで、彼女が自分がいつものよく知っているモードになったと感じた。さっきの食堂でやりとりしたときの「お姉ちゃん」の言葉の響きよりこちらのほうが自分には百倍いい。
「お姉ちゃん、どう?」
「どうって?」
「奏から、見てて前と変わったことはない?」
 僕は陽菜の問いかけにすぐに答えずに考えてみた。
 正直にいうと、それは結構難しい質問だと思った。
「一年ぶりの外での暮らしだぞ、そりゃ何にも変わってないっていう方がへんだろ」
「それはそうなんだけど」
 陽菜はさっきまでの勢いを少し落としながら、自信がなさそうに声のトーンを下げた。
 もちろん、自分としても陽菜の心配はわかる。
 この一年の生活は美月にとってとても大きな出来事だった。うまくいえないが、それがなにか美月にとって暗い影を落としたり、なにか将来に対して悲観的なものを残していやしないか、心配なのだろう。
 それはわかる。

「前と同じようにはいかないさ。むしろ、前と同じように見えるんだったら、それは美月がこっちを心配させないように無理してるんじゃないかって考えないといけないんじゃないか」
 美月はよく笑う。そしてとても強い。でもだからこその弱さもきっとある。優しさゆえによく笑い、強い人がもつ、そんな弱さが。そんなことはわかっている。わかりきっている。
 よく笑い、そして強い人が持つ弱さは、他人の前で笑うことをやめらず、そして弱さを見せられないことだ。美月の場合はそれが見栄や虚栄心でもなんでもなく、ただ他人を慮っての優しさだ。だから、他人は一層心配になる。
 きっといつも笑ってなくてもいいんだよ、弱さを見せてもいいんだよ、と言っても、ありがとうとやはり微笑んで、相手を安心させようとする弱さを演技でもなんでも無意識に見せようとしてしまう。
 やはりそれも優しさがゆえに。
「わかってるよ」
 陽菜は足元の陰で暗くなった地面をスニーカーで掘り返しながらもどかしそうに言った。
 そう、陽菜もそれくらいわかっているのだ。
「逆に家の方ではどうだ? それに検査もまめにいってるんだろ?」
 退院して、俊明さんがいうところのドキドキラブコメ展開の自分の居候生活は退院後三週間ほどが経ち美月の生活リズムが戻ってきたかなというところで、僕は自分の家に戻っていた。
「検査はそうだね、今のところ問題はなにひとつないらしいよ。お父さんも、なにせ他の人にはないめちゃくちゃ珍しい症例だから、二週に一回ほどでかなり頻度を多くして診てるけど、今の結果が今月の終わりまで続くようなら、一月に一回に減らして、それも大丈夫そうなら、三月に一回、半年に一回、一年に一回と変えていけるはずって言ってる」
 僕はうなづいた。
 美月の検査は自分も付き添える限り付き添っていたし、どうしても無理なときは陽菜に行ってもらったりと二人でサポートするようにしていた。それは入院期間中と変わらずあたりまえにやっていた。
 いまこうして陽菜と話しているのだって、どことなく美月のサポートチームのミーティングみたいなものだ。
「家でも、なにか具体的にどうってことはないんだけど。お姉ちゃんって受験生でもあるじゃん。だから将来ってどういうふうに考えているのかなって。お姉ちゃん、退院してまだ一度もピアノ弾いてないんだよね」
 美月の内面、感情、不安、将来への本人なりの見え方、そんなもの他人の自分たちが結局わかるはずもない。それはこれまでだってそうだったし、そんなもの病気とか関係なく誰だってわからない。でもやっぱり不安になる。
 それは僕たちが美月の足元を掴んだ死神の腕を知ってしまったからだった。どうしてもまた美月のどこかにそれをみてしまうからだった。
「お姉ちゃんってずっと音大目指してたじゃん。でももう諦めちゃったのかな。そりゃ音大目指している高校生にとって一年のブランクはめちゃくちゃでかい。でもわたしはお姉ちゃんに諦めてほしくないし、もし卒業したあとに一年でも二年でも、ううん、別にもっとかかっても全然支えるつもりだよ」
 陽菜は後ろめたいのかもしれない。
 陽菜は本当にお姉ちゃんが大好きで、ピアニストとしての目標もいつも目の前の姉だった。美月はもっと遠くを目標にしなさいといつも言っていたみたいだけど、それでも頑固に美月を目標にし続けた。
 でも、所詮、美月と陽菜の歳の差は三年だけだ。10代のピアニストにとってこれくらいの年齢の差は大きい目で見ればほとんどないようなものだし、残酷な話だけど、陽菜のピアノの実力は入院中の一年であっさりと美月を追い越してしまった。
 目標にしていた、最大の憧れだったピアニストよりも先を進んでしまった。もちろん美月が悪いわけでもないし、陽菜が悪いわけでもない。でもその事実がもしかしたら美月のピアノへの情熱を挫いてしまったのだとしたら。
「お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね」
 陽菜の声には涙声が混じっていた。
 ポツポツと初夏の校舎裏の地面に雨が溢れた。
 天才女子中学生ピアニストか。
 僕は口に出さずに呟いた。陽菜は美月の入院中にピアノを止めないにしても、少し中断しようとしたことがある。でも、それは美月が一番嫌がった。そして陽菜もそれが一番美月を傷つけることをすぐに理解った。
 だから、結局陽菜はピアノを中断しなかった。
「美月がピアノを辞めたとしても、それは俺たちが口を挟むことじゃないよ、本人の自由だ」
 陽菜は涙顔を隠さずにこちらを見上げた。だから僕は誤解がないようにすぐに天才女子中学生ピアニストをできるだけ落ち着かせるように笑いながら言い継いだ。
「でも、だからこそ、どんな選択をしようと、どんな将来を美月が選ぼうと俺たちはそれを肯定してやろうぜ」
 そうだ、結局、僕たちにできることはそれくらいしかない。
 僕たちが美月にできることは。
「それがどんな結果になろうと、どんな選択だろう、どんな将来だろうと、俺たちなりに真剣に受け止めて、そんで見守ってやろう、一生美月の側にいてやるためにさ」
 僕はこの言葉が決して傲慢なものでないことを祈った。
 僕たちが他人のためにできること。
 それが存在することを校舎の隙間から見える太陽に祈った。
 陽菜は黙って足元を見て僕の言葉を飲み込んでいるようだった。それから笑った。それがどういう意味の笑いなのかはわからなかった。
「そうだね、ありがとう、奏。わたしはたぶん、この先もピアノを辞めれないと思う。もちろんお姉ちゃんがどういうふうになってもお姉ちゃんを支えるつもりではいる。でも、たぶんだからこそお姉ちゃんのためにわたしはこれからもピアノをやめれないと思う」
 聞く人によってはある意味陽菜の言葉は傲慢に聞こえるのかもしれない。他人のためにピアノを弾くなんて。でもそうじゃないことを少なくとも僕はわかる。陽菜にとってピアノを弾くことは姉のためなのだ。それが自分のためにピアノを弾くということなのだ。陽菜にとって姉のためにピアノを弾くことが自分のためにピアノを弾くということなのだ。
 「だから、入院のときも、春先にお姉ちゃんが危なくなったときも、ありがとう。正直、わたしたちだけじゃなくて、奏がいてくれてほんとうによかったし、感謝してる。わたしたちだけだったら、もしかしたらなにかが壊れてたかもしれないってときどき怖くなる」
 
 僕は陽菜が感じた恐怖を想った。美月の心臓が止まったときに、自分が遠い海の向こうにいて、側にいないことを思い知らされた恐怖を想像した。
 それはまるで自分の中心から指先が凍りつくような、そんな感覚だった。
 それは本当に陽菜にとって恐ろしいことだったのだろう。
「どういたしまして、天才女子中学生シスコンピアニストさん、これからもよろしく」
 僕は陽菜の尊厳を守るように最後に笑って言ってやった。
「は、シスコンは奏、お前だろ?」
「え、いや……、それは普通にお前だろ……、俺と美月は兄妹じゃないんだから……」
「そういう問題じゃなくてえ」
 どういう問題だよ。
「あ、そうだ、なあ陽菜ひとつ聞きたいんだけど、美月に「好き」って言った方がいいのか? なんかクラスのやつに言ったことないって言ったら、言えって言われたんだけど、そういうもん?」
「は? 言ってないの、それ?」
 陽菜は信じられないほど下手くそな演奏を聞いたときみたいに目を丸くして言った。
「え? あ、うん、そうだけど」
「それで奏、あんた、お姉ちゃんの家に泊まって、しかもさっき一生側にいるとか言ったの?」
「あ、え、やっぱり不味かったのかな……」
 陽菜はどんな演奏ミスをしたときの音楽教師よりも恐ろしく冷たい声で僕を指導した。
「いえよ、それは。ルール違反だから、それ」
 とかくこの世のルールは難しいものだった。