紬未と公園で過ごしてから、数日が経った。
 僕の通う高校においては夏休みとは名ばかりのようで、翌週の月曜日からも、午前中には補習がびっしりと詰まっていた。

「もう~せっかくの夏休みなのに意味わかんないーーー!」

 月曜日の朝、飽きもせずに真夏の青空へ大合唱をしている蝉時雨に混じって、紬未は心底不満そうにぼやいていた。そのぼやきには同感だが、当の本人はすべての補習に参加しているわけではないらしいので説得力はほとんどない。しかも、補習欠席はもしかして肝臓の検査とかそういう理由かもしれないと気を遣ったのに、じつは寝坊だったとか言われた僕の気持ちも察してほしい。大声でより多くの不満を叫びたいのは僕のほうだ。

「まあでも、こうしてソウくんに会えるのだけはいい点だけどね」

「あーはいはい。それは結構なことで」

 しかも恥ずかしげもなくそんな言葉を耳元でささやいてくるものだから余計に勘弁してほしい。心臓に悪い。
 あとはそう。彼女が補習に出席する日は、必ずと言っていいほど例の出会った街路樹の下で待っているようになった。街路樹のところから高校まで歩いて五分もないというのに、なぜか紬未は頑として待つのだと言い張った。

「家が近いと、友達と一緒に通学するとかもないんだよ。だからこれも、私が楽しむためにしたいことなの!」

「あーはいはい。わかったって」

 もはや断ることはとっくに諦めていた。そもそもまともに話すようになってから今まで、僕の意見がなんの弊害も抵抗もなく通ったためしがない。それならよっぽど嫌なことでない限りは彼女のやりたいようにやらせるのが一番疲れなくて楽な方法だった。僅か五分程度の道のりを一緒に歩いて学校に行くくらいは、なんの問題もない。

「おはよさん、久空に森川も。相変わらず仲良いな、お前ら」

「でしょー!」

「どこがだ」

 いや、問題はあった。サッカー部の練習試合がひと段落し、補習に参加するようになった藤田から散々にからかわれるようになった。どうやら彼はこの近くに住んでおり、紬未と中学が同じらしい。僕はバスの時間の都合上、始業時刻間近に来ることがほとんどなので、同じように始業時刻間際を目指して駆け込んでくる藤田と被ることが多かった。結果、紬未が僕を待っているところで鉢合わせることが多々あり、そのたびにやれ仲が良いだの何があっただのと茶化してくるのだ。これまではそんなふうに突っかかってくることはなかったのに、まったくもってうっとおしい。
 そして補習が終わった後は、部活に行く藤田を見送ってから、宝物探しのための会議を僕のクラスでやることになっていた。

「昨日行った卯辰山だけど、どう思う? ちょうど標高は一〇〇メートルと少しだし、いい線行ってると思うんだけどなー」

「卯辰山は眺めのいい場所が多すぎるんだよな。全部探すの結構骨が折れるよ」

「んふふ、だから昨日は途中で諦めてひがし茶屋街に行ったんだよね!」

「アイスが食べたいと紬未が言い出したからな。おまけにちゃっかりいろんな店見て回ってるし」

「えーいいじゃん。観光地として有名だけど地元だと逆に行かないんだからさ。ひとりで行くのも寂しいし、こういう機会を利用して楽しんでおかないと!」

「あーはいはい」

 もっとも、言うまでもなく宝物探しは難航していた。それは主に謎解きの二つ目の場所がわからなさすぎるのと、紬未の好奇心が旺盛すぎるのが原因だ。紬未の好奇心は今に始まったことではないとしても、謎解きの二つ目についてはさすがに箇所が絞り込めないでいた。もし幼いころの僕が考えたものなのだとすれば、歯がゆいことこの上ない。
 とりあえず、宝物の地図にかいてある山の下に謎が書かれているから、最終地点は山だと仮定する。始まりの場所が犀川か浅野川とするならば、そこから徒歩や自転車で行ける圏内の山としては、昨日行った見晴らし台がある卯辰山か加賀藩主前田家の墓所が近くにある野田山くらいだろう。そして謎は「一〇〇メートルの見晴らしの後ろ」なので、安直に見晴らし台のある卯辰山に行ったのだが、山だけあって一〇〇メートルほどの高さで見晴らしの良いところはいくつもあった。結局登るのに疲れて、これまた安直に見晴らし台だけ行ってみたが、夏休みということもあってかそれなりの人がいてあまり探すことはできなかった。
 そして卯辰山から降りてみれば冷たいものが食べたい、ひがし茶屋街に行きたいという紬未の好奇心、もとい欲望にとらわれてあれよあれよという間に連行されていった。目についたカフェで美味しそうにシャーベットを頬張る紬未を、僕は呆れ半分で眺めていた。ちなみにもう半分は純粋にちょっとだけ見惚れていたのだが、シャーベットで元気を取り戻した紬未にニマニマと意地の悪い笑みを向けられたのが悔しかったので内心認めたくはない。
 シャーベットで体力を回復させたあとは、せっかくここまで来たということでひがし茶屋街を見て回った。僕自身もひがし茶屋街にはほとんど来たことがなく、地元での有名どころということもあって一度は来てみたいと思っていた。石畳が敷かれた通りの両側には茶屋建築の建物が軒を連ねており、木虫籠(きむすこ)出格子(でごうし)が僕らを出迎えてくれた。
 あちこちに点在する観光客と同様に、紬未もスマホを構えて何枚も写真を撮っていた。僕も撮ってはどうかと勧められたが、丁重に断っておいた。楽しい思い出への抵抗が僅かながら薄れてきたとはいえ、まだまだ僕の脳裏にはあの事故の光景がこびりついている。他人がスマホで写真を撮っているのを見るのでギリギリなのに、さすがに自分で撮りたいとはどうしても思えなかった。だから僕はやや不満そうにする紬未をなだめ、彼女が満足するまで写真を撮っていくのを遠巻きに眺めていた。淡い夕陽に染められ、風情豊かな雰囲気を醸し出す茶屋街は、どこか寂しそうに見えた。
 けれど。それでもやはり、あまり悪い気はしていなかった。
 紬未と一緒に過ごす時間は、いつもあっという間に過ぎていって、本当に色濃く鮮明に僕の記憶に刻まれていった。
 こんなはずではなかったと、寝る前に何度も思った。でもそれは意図的に考えてみるだけで、心の底から嫌気がさすことはついになかった。それほどに、きっと僕は毒されていた。
 今日も今日とて、補習後の蒸し暑い気温と青空を駆け抜けるアブラゼミの鳴き声を感じながら、僕は紬未を待っていた。やがて程なくして、彼女は教室に駆け込んでくる。

「やほー! ソウくん、今日も補習お疲れさまでしたー!」

「うん。お疲れさまなのはお互いさまなんだけど、声のボリュームをもっと抑えてよ。恥ずかしいから」

「えー、その恥ずかしいからって理由でわざと時間遅くしてるんだからいいじゃん。現に今教室に私たち以外人いないし」

「外にはいるんだよ。部活してるクラスメイトが」

「そこまではさすがに知りませーん。さーて、今日も張り切って探してこー!」

「あーはいはい。さようですかー」

「もう! ソウくんはいつも返事が適当すぎる!」

 暑苦しい追求に肩をすくめてから、僕はもう一度「あーはいはい」と返しておいた。するとやっぱり紬未は不満そうに頬を膨らませて、それから堪え切れなくなったように笑った。
 夏バテなんてきっと彼女の辞書には載っていない。
 肝臓の病気とか、余命なんて珍しいワードはあるのに。
 病気の気配なんて微塵も感じさせない紬未の笑顔を見つつ、僕は素直に苦笑で返しておいた。

 *

「それで? なんで僕は資料の整理なんてさせられているの?」

 宝物探しの作戦会議を早速始めようというところで、唐突に「あっ」となにかを思い出した仕草をした紬未に連れられ、僕は資料室にいた。資料室には学校の授業で使う資料集や郷土集、便覧などが所狭しと置かれている。空気のこもった独特の匂いが暑さとともに漂っており、僕の額からは幾筋もの汗が流れ落ちていた。

「いやー結構前に先生に頼まれてたのをすっかりはったりてっきりうっかり忘れちゃっててさ。ちょうど目の前にとっても優しくてカッコよくて素敵なソウくんがいたからお願いした次第でして」

「調子良すぎか。わざとらしすぎるだろ」

「まあまあ、あとでジュース奢ってあげるから」

「蔵の時もそうだけど、僕の労力安すぎない?」

 棚を挟んだ向こう側へ不満を投げかけると、高らかな笑い声が返ってきた。否定するつもりはないらしい。まったく、いつか寿司でも奢ってもらおうかな。

「それで、今日はどうしよっか? 整理してからだと遅くなるし、卯辰山のほかのところを探して回るには時間足りないよね?」

「まあ、そうだな」

 郷土集とラベル付けされた棚の資料を並べ替えながら僕は考える。僕らの高校から卯辰山に行くには、自転車かバスを使わないといけない。時刻は既に午後二時を過ぎており、整理が終わってから行くにはさすがに遅すぎる。となれば、今日はこの資料室の整理をして終わりだろうか。

「それか、野田山のほうに行ってみよっか? 一応、もうひとつの候補だし」

「いや、紬未が行きたくないなら無理しなくていいと思う。場所も場所なんだから」

 丘陵公園となっている卯辰山とは違い、野田山は墓地としての性質が強い場所だった。先週、卯辰山か野田山のどちらに探しに行くかを話し合っていた時、紬未が「野田山は墓地だしあまり行きたくない」と言っていたのだ。
 気持ちはわかる。毎日を平気な様子で明るく過ごしているとはいえ、彼女の体内には大病が静かに巣食っているのだ。余命宣告までされて死を近くに感じている彼女が、死者の眠る場所を忌避するのは仕方ないだろう。

「でもさ、野田山にはいつか行かないといけないわけじゃん。それなら、今のうちに行っておくのもいいかなとも思うんだよね」

「へえ。えらく今日は乗り気だね。先週は墓地だし行きたくないって言ってなかった?」

「ああ。だって、墓地ってやることも見るとこもないしつまんないから」

「え?」

 思わず整理する手が止まった。そしてすぐにひとつの可能性に思い当たって、僕は訊く。

「ちょっと待って。もしかして墓地に行きたくないのって、病気とか余命にまったく関係ないの?」

「へ? もちろんそうだけど」

「なんだよ」

 拍子抜けした。でもよくよく考えたら、久空紬未とはこういう人間だった。自分の浅慮に嫌気がさしそうになる。

「あ、もしかして、死期が近いから私が行きたくないって思ってると思ったの?」

 整理のために開けた棚の隙間から、ひょっこりと紬未の顔が現れた。ニマニマと嬉しそうな、からかうような笑顔が向けられている。これだから、彼女には隙を見せたくないんだ。大失態だ。

「まあね。人として、当然の配慮だと思うけど」

「うんうん、そっかそっかあ。ソウくんも私を気遣ってくれるほど気にかけてくれてるのかあ」

「うるさいな」

 僕は棚越しに頷いている彼女の憎き横顔を塞ぐべく、手元にあった郷土集を数冊棚に押し込んだ。これでようやく、彼女の顔が見えなくなる。

「ちょっとー、本入れちゃうとソウくんの顔が見えないんだけど」

 かと思えば、すぐに本が取り除かれた。反対側から本を取り出すなとツッコみたい。

「見えなくていいんだよ。さっさと整理を終わらせて帰ろう」

「えー野田山はー?」

「僕は行く気が失せた」

「りょーかいです。じゃあいつも通り無理やり連れてくね」

「おいこらやめろ」

 僕の抗議の声も虚しく、紬未は今ほど手にとった郷土集をパラパラと流し読みし始めた。まったく聞く耳はもたないということだろう。本当にどこまでも強引な。

「あ、これ!」

「え?」

 僕がため息をつきつつ、もう一度空いたスペースに本を差し込もうとしたところで、今度はしっかりとこちら側に回り込んできた紬未が僕の目の前にとあるページを広げた。

「ここ! 私行ったことある!」

 紬未が目を輝かせて見せてきたのは、僕らの高校からほど近くにある丘陵公園の写真だった。金沢一帯を見渡せる見晴らし台からの景色は遥か彼方まで広がっており、写真の季節は春なのか、ツツジや桜が満開に咲き誇っている。

 ――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!

 そこでまた、昔の僕の声が聞こえた。

 ――うん。ドキドキ、するかも。

 さらにもうひとつ。か細い女の子の声が脳裏を過ぎる。

 ――だろ? だからさ、ぜってー大人になったら一緒に見つけに来ようぜ!

 ――――ねえ、今度の日曜日にでも行こう!

「……っ」

 ずきりと頭が少し痛んだ。思わず、僕は一度まぶたを閉じる。

「え、どうしたのソウくん? 大丈夫?」

 頭痛はすぐに落ち着いた。目を開けると、そこには心配そうに僕を見つめる紬未の顔があった。

「ごめん、ちょっと寝不足で。もう大丈夫」

「ほんとに?」

「ああ。それで、この公園に行ったことがあるって?」

 改めて写真に目を落とすも、今度は特に頭痛はない。うん、きっと気のせいだ。
 僕が努めて平静に問いかけると、紬未はまだ心配そうにしながらもこくりと小さく頷いた。

「えと、うん、そうなの。この写真にある景色がね、随分前に行ったような、そんな見覚えがあるの。私の通ってた小学校の遠足とかでは行かなかったから、可能性としては高いと思う」

「なるほどね」

 家族で一緒に行った可能性も頭をよぎったが、そこにはあえて触れないでおいた。紬未の病気は生まれつきということだったから、もしかすると病気を気にしてお出かけはしないようにしていたり、治療費を稼ぐために彼女の両親は働きづめだったりするかもしれない。また気遣いがどうのとか言われそうだが、こればっかりは性分なので仕方がない。

「それじゃあここなら近いし、とりあえず整理が終わったら行ってみるか?」

「うん! って言いたいところだけど、寝不足のソウくんを連れ回すわけにはいかないので、今日はやめにしよ」

「え? 僕なら大丈夫だけど」

「だーめ。それに私も超大事な予定があったことを思い出したから! ほら、早く整理して帰ろ!」

 言うや否や、紬未はさっきまでの適当さはどこへやら目を見張るほどテキパキと整理を進め始めた。最初からその手際でやってくれれば今ごろは終わっていたんじゃないかと思う。

「まったく……ははっ」

 僕も彼女に倣って片付けを再開する。
 頭痛はやはりなく、整理が終わってから行っても大丈夫そうだが、ここは彼女の言葉に甘えておくことにした。
 本当にわかりやすい。気遣い云々なんて、言えたたちじゃないじゃないか。

「なに笑ってるの! ほらほら、ソウくんも手を動かして!」

「あーはいはい」

「また適当!」

 紬未のツッコミを、僕は笑って受け流す。
 昔の声たちも、もう聞こえてはこなかった。


 紬未とわかれて自宅に帰り、自室のベッドに倒れ込む。薄暗い見慣れた天井を見つめて、物思いにふける。
 いつもの僕なら、そんなふうにしていただろう。

「……ふう」

 額に浮かんだ汗を拭って、僕は来た道を振り返った。右に左にと蛇行した坂道は下方へと続いており、その先には茜色に染まった芝生と、金沢の街並みが広がっている。近くには人の姿はなく、樹木ばかりが生い茂った広場の中央で、僕は佇んでいた。

「やっぱ、ちょっときついな」

 けれど、あまり休憩ばかりもしていられない。なんとか暗くなる前には登り切らないといけない。僕は深呼吸を繰り返して息を整えると歩みを再開した。
 普段、体育の時間以外の運動をしないので体力は皆無だ。運動部に入っている藤田なら、僅か数十メートル程度の高さまで登ってきただけで息はあがらないだろう。時間を見つけて軽い運動でもしてみようかとさえ思ってくる。
 もっとも、今日はべつに運動不足を解消することが目的ではない。そんなことのために、僕はひとりでわざわざ丘陵公園の見晴らし台まで登ったりはしない。
 僕がここ、紬未と資料室の整理をしていた時に話していた場所に来たのは、いろいろと確かめたいことがあったからだ。
 そしてその最初の目的も、あと少しで果たされる。

「……っ、はあっ。ようやく、来れた……」

 小さな丸太でできた木製階段を昇り切り、僕はようやくひと息をついた。疲労感がすごい。
 卯辰山の公園に行った時もかなり坂道やら階段を登ったが、ここまでキツくはなかった気がする。高さは断然にあちらが高いというのに。

「まあでも、これもそういうことか」

 あの時と今とで違うこと。
 それは、紬未がいないことだ。
 卯辰山の時は、紬未が常に周りにいた。時には先頭に立って歩いて花壇に寄り道したり、時にはいつの間にか喉が渇いたとひとり飲み物を自販機で買っていたり、時には僕の隣でじつにどうでもいいことをペラペラと喋りかけたりしていた。僕はそんな彼女に呆れた視線を向け、苦笑を浮かべて文句を言い、なんの気はなしに頷いては彼女の話に耳を傾けていた。そうして気づけば、いつの間にか時間は経過し、目的地に着いている。
 やはり、と思う。
 先週の帰り道。公園でブランコに座り、身に覚えていた感覚は勘違いじゃない。
 僕は彼女との、紬未との時間を楽しんでしまっている。楽しいと、思ってしまっている。
 これが僕にとっていいことなのかは、正直今はわからない。いずれ悲しくなるなら楽しい思い出なんて最初からないほうがいいし、そのきっかけになりうる親しい人なんて極力作らないに限る。その考えは、やっぱり今も僕の中にある。
 けれど……悔しいけれど、そんな考えが僕の中で薄れつつあるのも確かだった。茹でガエルのように、僕は知らないうちに彼女の影響を受けてしまっているらしい。今も、ここに紬未がいたらどうなるだろうかと考えてしまいそうになるほどに。
 そして、もうひとつ。
 今日、紬未とわかれた後に、ひとりで宝物が埋まっているかもしれない場所へ訪れた理由は、自分の心を確かめるほかにもうひとつあった。

「ここのはず……なんだけどな」

 見晴らしの丘と書かれた看板の近くにあるベンチに腰を落ち着ける。坂道に立つ生い茂った草木の上には、雲の影が降りた金沢の街並みが広がっており、遥か彼方には日本海の水平線を臨むことができた。
 郷土集にあった見所に取り上げられるほどの、広大な景色。
 紬未が見覚えのある場所だと指していた、写真の景色。
 そして、宝物が隠されているはずの場所。宝物を、隠しに来たことがあるはずの場所。
 ……それなのに、僕の頭の中にはなにひとつとして、記憶が浮かんでこなかった。
 懐かしさはある。見覚えもある。
 おそらく僕も、ここに来たことがある。
 父が亡くなり、母が障害を患って以降、僕は登校や買い物以外で外に出ることがほとんどなかった。だから、来たことがあるとすればそれ以前だ。
 でも、なぜか。僕の頭の中は真っ白だった。

「……やっぱり、僕は」

 ゆっくりと顔を撫で上げる。
 思い当たるとすれば、僕の過去だ。
 僕は、小学校四年生の時にトラウマを負った。
 あの日以降、大好きだった写真撮影を忌み嫌い、楽しい思い出を作りたくないと思うようになった。
 どうせ、楽しい思い出を作ったところでいつかは悲しみに変わる。楽しい思い出が、悲しみを増幅してしまう。そんな思い出なんて、いらない。
 あんなに好きだったアルバムを見れなくなった。
 父や母との思い出を振り返らなくなった。
 部屋に飾っていた写真はすべてダンボールに押し込んで、デジカメとともにクローゼットの奥深くに封印した。
 楽しかった過去。笑い合っていた明るい家庭。幸せだった、もう戻らない時間。
 そんな昔を思い出すたびに、今の悲しい想いが強くなるなんて絶対に嫌だと、僕は本気で心から思った。
 だから、だろうか。
 もしかすると僕は、無意識のうちに楽しかった記憶を心の奥底に押し込めて、思い出せないようにしていたのかもしれなかった。

 ――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!

 何度も蘇ってきた僕の声。そのどれもが、紬未といる時だった。

 ――うん。ドキドキ、するかも。

 それから、先ほど資料室にいる時に脳裏をかすめた女の子の声。あの弱々しくて、か細い声の主が、幼いころの紬未だったのだろうか。

 ――だろ? だからさ、ぜってー大人になったら一緒に見つけに来ようぜ!

 ――――ねえ、今度の日曜日にでも行こう!

 そして、立て続けに聞こえた僕の声。あの時、宝物探しの記憶と事故の発端となった記憶が、混濁していた。
 確証はない。僕のおこがましい考え違いかもしれない。
 でももしそうなら……僕のトラウマが僕の中にある楽しい思い出に蓋をしているというなら、僕は、向き合わなければならない。過去の紬未との記憶を、思い出さなければいけない。紬未が自身の中にある悲しみと向き合い、乗り越え、自分らしく楽しく生きるのだと答えを見つけたのだから、僕も負けていられない。
 ……いや、違うか。
 僕は、思い出したい。
 過去の紬未との記憶を、僕は知りたい。知らないままで、忘れたままでいたくない。どうしてかはわからないけれど、とてもそう思う。
 そして思い出せたら、改めて紬未と昔のことについて話したい。幻滅させてしまうかもしれないけれど、思い出話に花を咲かせてみたい。

「そのためには、やっぱ宝物を見つけるのがいいか」

 彼女は男の子と宝物を埋めて以来、考えが変わったと言っていた。過去の僕たちはなにを埋め、どうして彼女が考え方を変えるに至ったのか。そこに、トラウマを乗り越えて思い出すためのヒントがあるような気がする。

「今ごろになって、だな」

 どうやら、宝物探しが終わりに近づいたころになってようやく意欲が高まってきたらしい。なんとも稀有な例だ。
 その時、近くにあった街灯に明かりがともった。空は随分と夜の色を濃くしており、紫紺の空が頭上に広がっている。
 そろそろ帰るか。
 さすがに今から僕ひとりで宝物を探すわけにはいかない。「一〇〇メートルの見晴らしの後ろ」、つまりは後方に茂った雑木林のどこかに埋まってはいるんだろうけど、暗くなっては探しようもない。それに、もし僕ひとりで見つけようものなら彼女から大目玉を喰らってしまうだろうから。

「ははっ」

 そんな可能性を想像して、思わず僕は笑っていた。
 彼女には本当に、笑わされてばかりだと思った。

 *

 翌日の補習後。今朝紬未と会った時に身体の調子を訊かれ、もうすっかり良くなったと返した僕は、てっきりその放課後に宝物探しへと連れ出されるものだと思っていた。

「やっほー! ソウくん、今日も黄昏てるね~」

 いつものように部活に行く藤田を見送り、ぼんやりと外の景色を眺めていた時にいつもの調子で声をかけられた。何の気は無しに振り返ると、そこには相変わらず眩しいほどの笑顔を浮かべる紬未と、彼女の背に隠れるようにして僕を観察している見慣れない女子生徒がいた。

「えっと、今日はひとりじゃないんだな」

「ああ、そう! ちょっと今日はね、ぜひともソウくんに相談に乗ってほしくて!」

「相談?」

「そう! ね、ほらっ!」

 紬未に促され、後ろに控えていた少女がおずおずと前に出てくる。身長は紬未の肩ほどで、かなり小柄だ。自信なさげな眼差しで僕を見ると、彼女は視線を横にずらしながらぺこりと頭を下げてきた。

「は、はじめまして。私は、その、紬未ちゃんの友達で、山下真奈美って言います」

 か細い声で、自己紹介をされた。ほとんど反射的に、僕も頭を下げて自己紹介をする。

「どうも。森川湊也です」

「えと、その、今日は、その……えとえと……」

「うん、なに?」

「えと…………~~~っ!」

 そこで隠れられた。しどろもどろになにかを話し始めようとしたところで、小動物のごとく山下さんは紬未の後ろに戻っていってしまった。

「あーもう。マナちゃん、隠れちゃダメだよ」

「だ、だって……」

「もう~仕方ないなー。ごめんね、ソウくん。マナちゃん、極度の人見知りなんだ」

「そ、そうなんだ」

 僕は苦笑するしかなかった。というよりもなぜ、その人見知りの友達を僕に引き合わせたのか。
 僕の心中に浮かんだ疑問をまるで読んだかのように、紬未は続けて口を開いた。

「じつはね、マナちゃん、藤田くんのことが好きなんだ」

「え」

 ヒュッ、と風切り音が出そうな勢いで、少しだけ顔をのぞかせていた山下さんが紬未の後ろに完全に隠れた。

「私も相談に乗ってたんだけど、やっぱり男子目線の意見も知りたくて。それで、ソウくんが藤田くんとよく話してるって話をしたらぜひいろいろ訊いてみたいってマナちゃんが言うものだから連れてきたの」

 この通り人見知りなんだけどね、と紬未は後に付け足す。まるで物陰から様子をうかがうリスのように、山下さんは顔だけ出してこちらを見ている。

「とまあ、いうことで! ほら、マナちゃんもいつまでも隠れてないで座る座る!」

「ほわあっ!?」

 抜けたような声をあげて、山下さんは紬未の勢いに押されるがまま僕の真横の席の椅子に座らされた。紬未は僕の前の席に座り、楽しそうにこちらを眺めている。
 どことなく既視感を覚えた。そして、この強引さに山下さんも振り回されているんだろうなと、合わせて親近感も心に生まれた。

「え……と、その……」

 山下さんは顔を真っ赤にして右に左に視線を彷徨わせる。よくよく見れば、耳まで赤くなっていた。熱中症じゃないかと心配になるほどに。人は恋をするとここまで態度や表情に出るものなのか。
 そんなややズレたことを考えているうちに、決心のついたらしい山下さんは真っ直ぐに僕を見据えてきた。可愛らしい猫のヘアピンで上げられた前髪の下に映える大きな瞳が僕を捉える。

「りゅ、龍くんとは、その、幼馴染で、昔からずっと好き……だったんだけど、なかなか言い出せなくて……。でも、もう高校二年生だから後悔したくなくて、なんとか、気持ちを伝えたいの」

「は、はあ」

「それで、その……はじめましての人にこんなこと訊くのも、ごめんなさいなんだけど……なにか、いい方法とかないですか……?」

「……」

 思考がフリーズした。
 まさか、恋愛相談とは思ってもみなかった。しかもわりと結構真面目で本気なやつだ。これまで人との関わりを極力避けてきた僕に、とてもじゃないが務まるとは思えない。
 これ、相談相手にする人選間違ってないか?
 寂しげな瞳で僕を見つめてくる初対面の女の子の視線を受けて、僕はすぐさま隣にいるその手の話に詳しそうな女の子、もとい諸悪の根源に助けを求めた。当の強引娘は僕の机に頬杖をつき、ニマニマと意地の悪い笑みを僕に向けてきている。

「私はねーやっぱり遊びに誘うのがいいと思うんだよね~」

「あ、あー。確かに、それはいいかもな」

 まったくアイデアすらない僕には同調する以外の選択肢はない。

「遊び、かあ……。私、最近龍くんとほとんど話してなくて……。どうやって誘ったらいいかな」

「そういう時は、いきなり二人でとかよりも友達も入れた何人かで行こうって提案したほうがいいよね」

「うん、確かに、そっちのほうが緊張も和らぎそうだし」

 同意だけというのも変なので、一応僕のささやかな意見、というより感想も紛れ込ませておく。事実、二人きりより協力してくれる友達が何人かいたほうがいいとは思う。

「な、なるほど……。でも私、龍くんが入ってるサッカー部にはお願いできそうな友達いなくて……だから、その」

「ああ、大丈夫。そこはきっとソウくんがひと肌脱いでくれるだろうから。ねっ!」

「え? ああ、まあ、僕にできることなら……ん?」

 ちょっと待て。この流れはもしかして。

「あ、ありがとうございます……! それと、えと、紬未ちゃんも、来てくれる?」

「もっちろーん! 私たちが全力でマナちゃんのことを応援するよ! ねっ、ソウくん!」

「あ、ああ……」

 そこでようやく気付いた。巧妙に仕組まれた、罠の可能性に。
 おそらく、これは友達の恋愛協力もさることながら、また彼女お得意の楽しい思い出を作るための作戦でもある。おおかた四人で出かけたあとに、山下さんと藤田を二人っきりにさせるとかなんとか言って二手にわかれ、僕をあちこちに引っ張り回す算段だろう。
 僕が訝しげな視線を紬未に送ると、ちょうど目が合った。てへっ、と効果音がつきそうなウインクをされる。
 どこまでもブレないな、と思った。苦笑しか出てこない。べつにそんな遠回りなことをしなくてもついていくというのに。
 ……あれ。
 僕は今、なんて?

「さっ、それで問題はどこに行くか、だね!」

 僕が戸惑いかけたところで、紬未のひときわ明るい声が聞こえた。考え込みかけていた意識が、急速に引き戻される。

「う、うん……でも、龍くんどこに行きたいんだろ……。最近話してないから、よくわかんなくて」

「んー純粋にマナちゃんが行きたいところでもいいと思うけど。あ、ソウくんは聞いてない? 藤田くんがここに行きたいって言ってたとか」

「え? 藤田がどこに行きたいか?」

 唐突に振られ、今度はべつの意味で内心戸惑う。そんなことを言われても、僕はべつに藤田と仲良くしてきたわけじゃない。どちらかといえば藤田が一方的に僕に話しかけてきていただけだ。しかもその内容の大半はどうでもいいことばかりで、僕は完全にスルーしていた。覚えているはずもない。今朝や昼の時の話もそうだし、昨日や先週、久しぶりに会った時だって何を言っていたか……

「あ……海」

 そこで、先週彼が練習試合を終えて補習に参加してきていた時に言っていた言葉を思い出した。補修を遅刻してきて、遊びなら遅刻しないとか言い訳をしてきて、その後に爽やかに笑いながらそんなことを言っていた気がする。
 ただ、さすがに女子二人を伴っての海はハードルが高い。主に僕にとって。ここはやはり山下さんの行きたいところとか別の場所がいいだろう。

「海かーーっ! いいね! めっちゃいいよーー!」

 考えをまとめて僕が発言しようとしたところで、すかさず容赦のない夏の太陽みたいに明るい声が真横から飛んできた。ぎょっとして見れば、海面を乱反射する陽光のごとく輝いた目で僕を見つめる紬未がいた。

「え、う、海……? それはちょっと恥ずかしい……それに私、泳げないからほとんど行ったことなくて……」

 対して山下さんは消極的な反応。自ら口を滑らせておきながら僕も山下さんと同様の意見だったので、それに乗っかろうと口を開く。

「行ったことないなら余計にいいよー!」

 が、それはまたしても紬未に遮られた。

「行ったことないってことは、新鮮ってことでしょ? つまり今までの幼馴染イメージを払拭するにはもってこいってこと! もっと言えば、見慣れてないマナちゃんの水着姿で藤田くんを悩殺しちゃおう!」

「水着!? 悩殺!?」

 嬉々として海を推し続ける紬未に、山下さんは赤面して戸惑い、僕は無言で頭を抱えた。いったいなにを言っているのだろう、この木登り少女は。
 このまま行くと、押しに弱い僕と、同じく押しに弱そうな山下さんでは海に決定してしまう。止めるなら今しかなく、やはり僕が適任だろう。山下さんは当事者だから断りにくいだろうし、なにより海になりかけてるのは僕が深く考える前につぶやいてしまったからだ。
 今も山下さんに海がいかに藤田の気を引くのに素晴らしいかを高説している紬未に向かって、僕はべつの場所を提案しようと口を開いた、そんな時だった。

「……わかった。私、海で頑張ってみる!」

「え?」

 まさかまさかで、僕の真向かいに座っている山下さんの口からそんな言葉が発せられたのは。
 僕はきょとんとして彼女の大きな瞳に目を向ける。目が合うと、なにやら力のこもった頷きを返された。

「おぉー! さすが私のマナちゃん! よく決心したねー!」

「は?」

 今度は真横で(はや)し立てている紬未に向かって、怪訝な視線を送る。いつの間に山下さんが紬未のものになったのだろう。目が合うと、本日二度目となる「てへっ」を返された。
 うそだろ、と思った。
 え、もしかしてこの流れは僕も同意しないといけないのか?

「よしっ、そうと決まれば早速水着を買いに行こう! テンション上がるねえー!」

「なるべく控えめなので、よろしくお願いします……」

「もちもち! あ、ソウくんもついてきてよね! 間違っても逃げないよーに!」

 違った。どうやら僕には決定権も提案権もないらしかった。

「あーはいはい」

 もうどうにでもなれと、僕は投げやり気味に頷いた。


 駅前にあるショッピングモールは、夏休みということもあって想像通り混んでいた。
 肌を圧迫してくるような地獄の暑さの中を歩いてきた身としては、冷房の効いた店内はまさに天国。僕と同じような感想を抱いたのか、入り口近くは友達や恋人を待っている人たちで埋め尽くされていた。そこを抜けるとやや空いているものの、リーズナブルなファッション雑貨やらアパレル店が立ち並ぶ二階はまた別世界。僕と同い年かやや歳上のグループが、右にも左にも遠目にももちろん近くにも跋扈(ばっこ)していた。

「はあ……」

 そう、跋扈していた。この場所こそが自分たちのいるべきところなのだと、楽しそうな会話が縦横無尽に飛び交っていた。

「はぁ……」

 逆にいえば、僕は息苦しかった。今すぐにでも帰るか、もっと上の階に行きたかった。けれど、もしここで僕が逃げようものなら、めざとい監視役にすぐさま連れ戻されるだろう。さらには逃げたことを追求されて、また悪魔的な笑みを浮かべて僕が困惑する提案をしてくるかもしれない。それだけは、避けなければならない。

「はあーあ……」

「もうーいつまでため息ついてるの? いい加減諦めなさいよー。水着はレディース階のここしか売ってないんだから」

 目のやり場と場違い感に困り果て、既に疲労困憊となった僕に、無慈悲な言葉が突きつけられた。ひどすぎる。

「あのな。何度も言うけど僕はべつにいらなくないか。藤田が好きそうな水着なんて知らないし」

「それでも男子高生の意見は聞いておきたいじゃない。私たちはもっとわからないし」

「じゃあ好きなの買えばいいだろ」

「もう、ああ言えばこう言うー。一度了承したんだからつべこべ言わない!」

 ぴしゃりと打ち切られたところで、ちょうど目的のお店に着いた。数十分前に適当な返事をした自分を呪いたい。
 到着したお店は、それはもうさらに僕の精神をすり減らす場所だった。右側にも左側にもあるのは水着ばかり。当たり前だ。ここは水着を売っているお店なんだから。

「じゃあ僕は前で待ってるから。決まったら適当に意見言うから呼びに来」

「あーもうそれは面倒だから却下。私たちの近くにいれば変な目で見られないから大丈夫! ほら、行くよ!」

 僕の最後の抵抗も虚しく、駄々をこねる子どもを(なだ)める母親に連れて行かれる心持ちで、僕は店内の奥へと足を踏み入れた。身も蓋もないことを言ってしまえば、男子高生にとって女性用の水着を売っているお店なんて下着を売っているお店となんら変わらない。僕は一体全体どんな態度でいればいいのか。誰か教えてほしい。

「え、えっと……森川くん、ごめんね。私が、意見を訊いてみたいなんて言ったから……」

「あーべつに、山下さんのせいじゃないよ。紬未は一度言い出したらきかないから」

 僕の態度を気遣って謝ってくる山下さんに僕は肩をすくめてみせた。本当に、紬未の押しの強さには困ったものだ。すると、山下さんはクスリと笑う。

「うん、わかるよ。紬未ちゃんて、ちょっと強引なところがあるよね」

「ちょっとどころじゃないよ。猪もびっくりなくらい猪突猛進気味にゴリ押ししてくるんだから」

「ふふふっ、確かに」

 さらに山下さんはクスクスと短く笑う。ここに来るまでの間で山下さんの緊張は幾分かほぐれてくれたようだった。当日のことを考えれば慣れてくれたほうがサポートはしやすいので、これだけが不幸中の幸いといったところか。

「ちょっとぉー! 二人っきりでなに話してるのー!」

 そこへ、新作水着のポップに惹かれてお店のどこぞに行方をくらませていた話題の人物が、頬を膨らませ水着を片手に紛れ込んでくる。噂をすればなんとやらだ。

「べつになんでも。紬未の押しが強いって話」

「なんだとおー! 私のどこが押しが強いって!?」

「全部だよ。というか、その手にあるのは?」

「ああ、これ? マナちゃんに似合うと思って!」

「え、ええっ!? 黄色の三角ビキニって……無理だよ」

「無理じゃない無理じゃない! ささっ、ほら! とりあえず試着してみよ!」

「そういうところだよ、紬未」

 僕の華麗なツッコミも虚しく、ブレない紬未はそのまま狼狽える山下さんを連れて試着室へと連行して行った。
 腑に落ちなかったのは、「これは藤田くんに見せる水着なんだからソウくんは見ちゃダメ! ここで待っててね」と言われたことだ。見てはいけないのはなんとなくわかる。そもそも海でもプールでもないところで異性の水着姿なんて見るわけにはいかない。それはいいのだが、ならやはり僕はべつにいなくてもいいのではないだろうか。なんのために恥ずかしい思いをしてまでレディースファッションの階を回り、水着の売られているお店に入ったのか。謎だ。
 僕が遠ざかっていく二人の背中を見送りながらそんなことを考えていると、すぐ近くからヒソヒソ声がした気がした。声のほうを見れば、大学生くらいの女性二人が僕のほうをチラチラとうかがいながら何やら話していた。そうだ。そういえば、紬未から「私たちの近くにいれば変な目で見られないから大丈夫!」と言われてたんだっけ。それはすなわち、紬未たちの近くにいなければ変な目で見られるというわけだ。なんて残酷な世界なんだろうか。
 僕が閉口して近くの柱に寄りかかり紬未たちを待っていると、ほどなくして二人は戻ってきた。それと見てわかるほどに赤面した山下さんと、どこか満足げに胸を張って歩く紬未から察するに、購入する水着は早々に決まったんだろう。結構なことだ。

「おーい。決まったならさっさと買って帰ろう」

 ようやく帰れる。滞在時間の短さのわりに積年の思いを口にするような感慨で紬未に言うと、彼女は不思議そうに小首を傾げた。

「え? 私のがまだだけど」

「は?」

 呆然とする。今言われた言葉の意味がわからず、頭の中で反芻した。
 ワタシノガマダ。
 わたしのがまだ。
 私のが、まだ?

「え、紬未も買うの?」

「当たり前でしょっ! そのためにソウくんを連れてきたんだから!」

「いや、聞いてないって!」

「あ、あはは……ほんと仲良いね、二人とも」

 苦笑する山下さんに助けを求めようとするも、「私はお邪魔だろうから先にお会計してるね」と変な気を遣われた。いや待って、お願いだから。

「ほらほら! 早く行こっ! 私、こっちの水着が気になるの!」

「いやだから聞いてな、ちょちょちょっ、引っ張るなって! だからそういうとこだぞ!」

 僕は抵抗し奮戦するも、押しに弱い人が押しの強い人に敵うはずもなく連れて行かれたのは言うまでもない。
 紬未は次から次へと候補を持ってきては僕の意見を聞いてきた。時には試着してくるとまで言われた。赤面し、慌てふためき、そんな僕の様子を意地悪くニマニマと笑ってからかわれた。
 最終的には三つに候補を絞ったものの、そこから先は乙女の秘密だとか言われて僕はお店から追い出された。ついぞ、どの水着を買ったのかは教えてくれなかった。
 ほんとなんなんだ、いったい。

 *

 ショッピングモールでの一件から数日後の日曜日。
 今日も今日とて燦々(さんさん)と照りつける太陽の下、僕は海に来ていた。

「マージでどういう風の吹き回しだよ、これは」

 自転車から降りるや、バシッとやや強めに背中を叩かれる。リュック越しなので痛くはない。もっとも、振り返った際に向けられた探るような視線とは目を合わせていられなかった。そんな僕の反応を見て、今日の相手役である藤田はさらに笑みを深める。

「なんか最近変だと思ってたんだよ。いきなし久空がクラスに乗り込んできたかと思えば、『ソウくん』呼びだしな」

「それは前も話してた通り、勉強を教えることになったからだ。不覚にもね。今日のもなんというか、成り行きで決まった感じだから」

「成り行きで? 女子二人と海に? かーっ、お前も手癖が悪くなったもんだなあ」

「誤解を招くようなことを言わないでくれる? 僕が誘ったんじゃないんだから」

 藤田には今回の一件を、紬未が山下さんと海に行くからせっかくだし藤田も誘って四人で行こうとなった、と説明していた。藤田は山下さんと幼馴染で、紬未とは中学からの友達だから不自然ではない。それに、藤田自身も海に行きたいと言っていたことを引き合いに出せば来るだろうとは思っていた。そして案の定、藤田はかなり乗り気で僕の話に賛成してくれた。まあ、今以上にいじられ倒したのは言うまでもないが。

「それにしても、久空がいるとはいえ真奈美が海に行くなんて珍しいな。あいつ、結構なカナヅチだったのに」

 二人の姿を探しながら藤田はつぶやく。紬未たちとは現地集合になっており、まだ来てないみたいだった。

「そうなんだ。幼馴染って聞いたけど」

「ああ、そう。家が同じ町内にあって、小学生のころはよく遊んでた。最近はまあ、疎遠になってるけどな」

「ふーん。じゃあ今日は久しぶりに遊ぶことになるのか」

「ああ、そうだな」

 藤田はどこか寂しげに笑った。彼のこんな表情はあまり見たことがない。
 ふいに、時折り山下さんが見せていた表情と重なって見えた。なんとか寂しさを堪えて、精一杯の笑みを作っている。そんな表情だ。
 これはきっと、藤田も山下さんのことを憎からず想っているのだろう。けれど、異性の幼馴染ということもあって疎遠になり、モヤモヤとした気持ちを伝えられずに今に至るといったところか。
 昨日紬未とも話していたが、彼女も藤田の気持ちが山下さんに向いていることは薄々わかっていたらしい。あとは当人同士の話なので、周囲は陰からサポートするしかない。全力で応援すると言っていた紬未の言葉が、ようやく腹に落ちたような感じがした。

「まっ、俺らのことはともかく、森川のほうこそどうなんだよ?」

「は? 僕?」

「そーそー。あんなにクラスのやつらから距離とってた森川が、誘われたとはいえ遊びについていくなんてさ。少なくとも嫌ってはいないってことだろ? 実際問題、森川は久空のことどう思ってんだ?」

 藤田は額に浮き出た汗を拭い、快活な笑みを浮かべる。そこには先ほどまでのからかうような含みはなく、むしろどこか嬉しそうですらあった。

「んー、どうなんだろう」

 そんな顔をされては、無下にするわけにもいかない。けれど、素直に答えようにも僕自身にもなぜなのかわからなかった。
 考えてみる。
 最初こそ紬未の強引さに辟易とし、楽しい思い出への忌避感もあって距離を置きたいと思っていた。宝物探しを手伝うことになったものの、親しくならないよう冷めた態度で、適当に接するつもりだった。
 けれど彼女は、紬未は、そうはさせてくれなかった。
 持ち前の明るさと押しの強さで僕を連れ回し、いつも無邪気な笑顔を振り撒いていた。適度な距離なんてとれるはずもなく、宝物探しとは関係ない時も一緒にいることがしばしばあった。
 そうして気づけば、僕の考えも少しずつ変わっていた。
 紬未と距離を置くつもりだったのに、いつの間にか彼女と一緒にいる時間に夢中になっていた。
 楽しい思い出なんて作るつもりはなかったのに、いつの間にか彼女と一緒に過ごす時間を楽しんでいた。
 忘れてしまっているはずの彼女との記憶を思い出したいと思うようになっていた。
 そしてついには、理由があるとはいえ一緒に水着を買いに行き、海まで来ている。しかもそれが僅か二週間足らずの出来事ときた。藤田が勘繰るのも無理はない。
 嫌っていないかと訊かれれば、確かに今は嫌っていないだろう。
 じゃあ、どう思っているかと訊かれたら……やっぱりわからない。
 一緒にいてドキドキするとか恥ずかしいとかいったことはないし、藤田や山下さんのような恋ではない。なら友達かと言われると、宝物探しや成り行きで出かけることはあれど普段から遊びに行くような関係ではない。宝物探しが終われば、それ以降は一気に関わる機会が減るに違いない。関わる理由がなくなってしまうから。
 そこまで考えて、ふいに胸の辺りに違和感が走った。
 なぜだかわからず、僕は戸惑う。

「んで? どうなんよ? やっぱり久空のこと、気になってんのか?」

 待ち切れずといった様子で、藤田は僕の肩を組んできた。熱気が僕の肌にまとわりつく。

「いや……それはないかな」

 僕は暑苦しさからすぐさま逃げて答えた。心の違和感は、すでに消えていた。

「えーマジ? 言っとくけど、久空って結構人気あるんだぞ? サッカー部でも狙ってるやつそこそこいるんだからな」

「まあ明るくて社交的だからね。僕とは違って」

「ったく、卑屈なところは変わんねーのな」

「おーーいっ! ふーたーりーとーもー!」

 僕らの話がひと段落したところで、真夏の青空を駆ける溌剌とした声が響いた。声のほうへ目を向ければ、自転車にまたがって手を振る紬未と、恥ずかしそうに苦笑いしている山下さんが遠目に見えた。

「まっ、俺らはもう高校二年生で来年は受験だ。悔いの残らないようにな」

「そのセリフ、そっくりそのまま返すよ」

「お、言うなあ。やっぱり変わったよ、森川は。いい意味でな」

 もう一度彼は僕の背中を軽く叩いた。まるで元気づけるような、仄かな強さだった。
 僕には出ない大声で返事をする藤田に次いで、僕も小さく手を振り返す。
 まったく、なにを言ってるんだか。
 遥か上空で、名前も知らない白い鳥がひと鳴きしていた。


 紬未や山下さんが合流すると、早速僕らは海水浴場へ足を踏み入れた。

「わーーっ! 海だーーー!」

 青と白のボーダーTシャツにショートデニムといういかにも夏らしい格好の後ろ姿が、海辺にパタパタと駆けていく。今日は少し波が高いのに。あれだとすぐびしょ濡れになるんじゃないだろうか。

「ちょ、ちょっと紬未ちゃん。まだ水着じゃないよ」

「むー、じゃあ早く着替えにいこっ!」

「わわっ」

 思うだけの僕とは違い、しっかりと静止の声をかけた山下さんはすぐさま紬未に更衣室へと連れ去られていった。なんともご愁傷様だ。

「おーやっぱりいいねえ、夏の海は。目の保養になる」

「なにいってんだ」

 二人が更衣室に行っている間に、じゃんけんに負けた僕らはテント張りをすることになっている。夏休みでしかも日曜日ということもあり、海水浴場はそれなりに混み合っていた。この暑苦しいさなか、さっさと場所を決めて準備をしてしまいたいんだが。
 まるで手伝おうとしない藤田を急かしつつ、僕は近くにあった手頃な場所にレジャーシートと簡易テントを下ろした。しかし彼は止まるところを知らないらしく、また僕の肩を組んでくる。かと思えば、海水浴を満喫しているグループのひとつを指差した。

「それにほら見ろよ、森川。あそこ」

 彼の指の先には、少し離れたところでビーチチェアに寝転ぶ大学生と思しき集団がいた。おそらくサークルかなにかの集まりだろう。……だから?

「え、大学生が、なに?」

「一番奥の女子大生だよ、すごくね?」

 アホな言葉が飛んできた。

「なにがだよ」

「またまたぁ〜わかってるくせに〜〜ってぇっ!?」

「ちょっと二人ともっ!」

 僕が彼の肩口から抜け出そうとしたところで、鋭い声とともに軽い衝撃が後頭部に飛んできた。悲鳴をあげた藤田に続き、僕も後ろ頭をおさえる。

「ってて、なんで僕まで」

「なんでもなにも、ソウくんも見てたでしょ! サイテー!」

「龍くんに森川くんも……だ、ダメだよ……!」

 振り返れば、鋭い目つきでこちらを睨む紬未と、気まずそうに視線を泳がす山下さんがいた。もう着替えてきたのか。

「ったく、俺たちは男のロマンをだなあ…………あ」

 僕と同じように二人を見て、不服そうに持論を展開しようとしていた藤田が固まった。その反応に、にんまりと紬未の笑みが深くなる。

「ふっふっふ~。どうどう? 小学生以来に見たマナちゃんの水着はっ!」

「わわっ!」

 山下さんは紬未によって軽く背中を押され、よろめきつつ藤田の前へ躍り出た。ショッピングモールで買った黄色の水着が、夏の陽光を受けて海に映える。ショッピングモールで見た時は普通の水着という感じがしたが、こうした海辺で見るとじつに夏らしさが引き立っていた。

「……」

「……」

「……」

「……」

 引き立っている、のはいいのだが、この沈黙はどうしたものか。
 山下さんはもちろんのこと、普段から気さくに女子とも話している藤田も未だに固まっている。二人の顔は、日焼けとはまたべつの意味で、とても真っ赤だった。

「……えと、龍くん。なんか言ってよ。恥ずかしいよ……」

「あ、ああ、わり。えと、すげえ似合ってるぞ! 馬子にも衣装って感じで!」

「それは、褒めてるの?」

 しばらくして、先に正気を取り戻した山下さんが話しかけ、それに藤田が答えていた。自分たちの世界に入りかけている二人から、僕はそっと距離をとる。

「なんか、いい感じだね」

 僕のすぐ隣に、紬未が並んだ。どうやら僕と同じことを思っているらしい。

「ああ、そうだな。とりあえず、第一段階は成功とみていいのかな」

「いいでしょ。ていうか、どう見たって好き合ってるじゃん。もう告白すればいいのに」

「同感だけど、そんなことをこの距離でいうのもどうかと思うけど」

「大丈夫大丈夫、聞こえてないって」

 クスリと紬未が笑う。確かに、これだけ話していても二人はまるで気にする気配もなく歓談を続けている。最初のころに垣間見えた久しぶりゆえの気まずさは、もうすっかりなくなっているようだった。

「ねっ、それよりも。どう? 私のほうは?」

「え!?」

 微笑ましい気持ちになりながら藤田たちを眺めていると、ふいに耳元へささやかれた。僕は驚き、思わず横へ距離をとる。
 すぐ真横には、んふふふと妖艶とも小悪魔ともつかない声をこぼして笑う紬未が上目遣いに僕を見ていた。かと思えば、くるりとその場で一回りする。

「感想、聞かせてよ。どうかな、私の水着は?」

 彼女の動きに合わせて、真夏の砂浜に水色のフレアスカートが翻った。胸元につけられたフリルも風をはらみ、白い肌が微かに顔をのぞかせる。たったそれだけの動作で周囲の気温が五度ほど上がり、心臓が早鐘を打ち出すのは免疫がないからだろうか。
 いや、免疫というならあるはずだった。だってこの水着は、ショッピングモールで既に見ているんだから。
 ラスト三着に絞り込んだうちの一番最後。彼女が悩みに悩んでにらめっこを繰り返していた、ワンピースタイプの水着だった。

「……結局、その水着にしたんだ」

 これ以上の沈黙はいけないと、どうにか言葉を絞り出す。でも、どうしてか。どうしてショッピングモールの試着室前で見た彼女の姿と、浜辺で見る彼女の姿の印象がこうも違うのか。あの時も気恥ずかしさはあったけれど、なんだかレベルが段違いだ。言葉を選ばずに心の中だけでとどめておくなら、とても可愛いと思ってしまった。

「えー感想それだけー?」

 くるりくるりと紬未は三度その場で回ってみせる。どうも今の感想だけでは不服らしい。かといって、素直に思ったことを言うのもからかわれる未来しか見えないので言いたくない。となれば口にする他の感想はひとつだ。

「……に、似合ってるよ。とても」

「ふふふっ! ありがと!」

 無難な感想。なんなら藤田の言葉を拝借している。けれど、詰まらせながらどうにか述べたそんな言葉に、紬未は満足してくれたようだった。くそう、なんだこれは。

「おーおー、お熱いこって」

「あ、えと……邪魔しちゃ悪いよ、龍くん」

 そこへ、大仰な口笛とともに聞こえてきた声に、僕はハッと我に返った。

「え、二人とも、いつの間に……」

「俺らに気づかないほど久空に見惚れてたのかよ、このこの~」

「紬未ちゃん、ごめんね。せっかくいい感じだったのに……」

「んーん! 私は大満足だからいーの! ほらっ、今度こそあそぼ!」

 本気でうざいくらいに絡んでくる藤田の相手をしているうちに、紬未たちはじゃれ合いながら波打ち際へ駆けていく。まさに青春、といった絵面だった。
 それから僕たちは、思い思いに海水浴を満喫した。
 潮騒に紛れて、紬未と山下さんは海水を掛け合いはしゃいでいた。途中、大学生らしき男二人にナンパされていたが、藤田が助けに入る間もなく「あそこに彼氏がいるので無理でーす!」と叫ぶ紬未に撃退されていた。色黒の大学生二人に睨まれ、僕は身が縮こまる思いだった。
 その後藤田はいきなり「芸術作品を作ろうぜ!」と息巻き、テントの下で火照った身体やら顔やらを冷ましていた僕を引きずって磯遊びを始めた。途中からは紬未たちも混ざり、四人でそこそこ大がかりな洋風の城を作り上げた。SNSにあげるのだと藤田たちは写真を撮っていた。あとで送ると言ってくれた藤田に、僕は適当に頷き返しておいた。
 そうこうしているうちにいつの間にかお昼は過ぎており、僕らは近くにあった海の家で焼きそばを買って食べた。僕が家で作って食べる焼きそばとそう変わらない、むしろやや質素な具材だったのになぜかとても美味しく感じられた。僕だけかと思いきや、みんな同じみたいだった。紬未に至ってはおかわりをしていた。
 もちろん、当初の予定も忘れてはいない。昼食後、テントで休憩している藤田と山下さんから僕と紬未はそっと離れた。

「上手く離れられたね! どうする? 遠目から見る?」

「のぞき見なんて趣味が悪いよ」

「失礼な。これはのぞき見じゃなくて見守りだよっ。大事な大事な友達の恋の行く末を私たちは見届けなければいけないの! ね? だからさ、ほらあそこの岩陰なんか隠れ場所としてちょうどいいと思わない? ね? ね?」

「あーはいはい。隠れ場所とか言ってる時点で本音駄々洩れだから。ほら、いくよ」

「えーけち。じゃあ我慢する代わりにかき氷奢ってよね! イチゴ味だから!」

「あーはいはい」

 いつもの宝物探しとはまったく違う場所で、まったく違う会話をしているのに、僕らの間に漂う空気はいつも通りだった。やっぱり、僕と紬未の間にあるのは藤田たちみたいな関係性ではない。
 先ほど焼きそばを買った海の家で、今度はかき氷をふたつ買う。ご要望通り紬未はイチゴ、僕はブルーハワイを購入した。

「んーーっ! おいしー! やっぱりかき氷といえばイチゴだよね!」

 もっとも色と香りが違うだけでかき氷の味はすべて同じらしいので、どれを買おうと大差はない。もちろん、嬉々としてかき氷を頬張る無邪気な彼女に、そんな無粋なことは言わないけれど。

「紬未が楽しそうでなによりだよ」

 代わりに小さく肩をすくめて、僕はブルーハワイのかき氷を口に運ぶ。ソーダみたいな香りが口から鼻に駆け抜け、冷たさと甘さが火照った身体に染み渡っていく。美味しい。これがイチゴとまったく同じ味だなんてわかってても信じられない。

「私はいつも、いつでも楽しいよ。ソウくんも楽しんでる?」

「まあ、そうだな。それなりには」

「ふふふっ、そっか」

 まるで、僕の考え方みたいだと思った。
 夏休み前の僕と、今の僕。どちらも僕だけれど、考え方はまるで違う。夏休み前の僕が今の僕を見たら、吃驚(きっきょう)すること間違いなしだろう。不思議なものだ。

「ねぇ、二人は上手くいってるかな?」

「んー好き合ってるのは確かだから、大丈夫じゃないかな」

「だよね。もしかして告白して付き合ってたりして。そしたら私たちは二人のキューピッドだね! きゃー」

「ほんと紬未が楽しそうでなによりだよ」

 僕らは海の家の近くにあるベンチに腰掛け、シャリシャリとかき氷を食べた。いつの間にか陽はかなり低くなっており、人も随分と減ってきていた。

「でもね、私がこんなにも楽しいのはソウくんが一緒にいてくれるから。ソウくんのおかげなんだよ」

「へ? どゆこと?」

「そのままの意味! 宝物探しも勉強も海に来ることも、とっても楽しい思い出になってる。だから、今さらだけどありがとね」

「なにいきなり。今から雨でも降る?」

「ひどっ。もうー、ほんと相変わらずだなあ。ふふっ、ほんと、やっぱり思い出は希望の種だ」

 やがて紙コップの底に残った氷のかけらを僕は喉に滑らせた。やや遅れて、紬未も最後のひと口を食べ終える。

「それ、たまに言ってるけど、どういう意味なの? どこかで聞いたことがあるような気もするんだけど」

「んーー、えーー? 知りたい? どうしよっかなあーー」

「いや、教えたくないならべつにいいけど」

「もうーそうやってすぐ拗ねないの。いつか教えてあげるから」

「それでも『いつか』なんだ。まあ期待しないで待ってるよ」

 空になった紙コップをベンチに置いて、僕らはぼんやりと波間を眺めていた。紬未はまだ楽しそうに、足を前に後ろに振っている。
 穏やかな時間だった。帰りたくないな、と無意識に思ってしまうくらいには、充実していた。

「大丈夫。ちゃんと教えるよ。少なくとも、私が死ぬ前には」

「…………え?」

 唐突に、波音が止んだ。いきなり飛んできた言葉に、僕は驚いて紬未を見る。

「ん? どうしたの?」

 しかし紬未は、それまでとまったく同じ和やかな会話をするみたいな調子で訊いてきた。それが余計に、僕の戸惑いを大きくする。
 正直、僕は忘れかけていた。
 こんなにも明るくて元気にはしゃぐ彼女の身体に、大病が潜んでいることを。
 彼女の余命が、もういくばくしかないことを。

「いや、だって、そんな……なんで、急に?」

「えー急じゃないよー。みんなそうでしょ? 死ぬ前にやりたいことをやる、楽しいことをする、秘密を教える約束をする。普通だよ」

 僕はどうにか言葉を絞り出したのに、紬未はなんでもないことのように答える。いや、確かに死んだ後の世界なんてものはないのだから、死ぬ前にやりたいことやできることをするのはそうだ。でも、その「死ぬ前」という言葉の意味は、僕と彼女とでは違う。

「人間いつ死ぬかわからないんだし、今を全力で生きるのは当たり前でしょ? 私も、ソウくんも」

 にへら、と紬未は笑った。
 いつも通りの、屈託のない笑顔だった。
 西陽の光を受けて、紬未の笑顔は輝いていた。
 そこで、僕は気づいた。
 気づきたくなかった。
 だから、僕は嫌だったんだ。
 紬未と一緒にいることで、こんな気持ちになってしまうんじゃないかと思ったから。
 どれだけ距離を置いても、どれだけ冷たく接しても、すべてを覆されそうな気がしていたから。
 僕は紬未に、死んでほしくないと思った。
 昔一緒に宝物を埋めたのなら、その時のことを思い出したいと思った。
 これからも楽しい思い出を作っていきたいと思った。
 一緒に笑ってみたいと、思った。
 僕は紬未のことを、好きかもしれないと思った。

「…………それなら、言葉の意味だって今教えてほしいけど」

 けれど、もちろん自分の気持ちなんて言えるはずもなくて。僕も相変わらずぶっきらぼうに、憎まれ口をたたいていた。

「おおー確かに。こりゃ一本取られたね」

 僕の気持ちに気づくことなく、紬未はまた笑う。真夏の太陽に負けないくらい眩しかった。

「おーい! やっと見つけた!」

「紬未ちゃんに、森川くんもー。ここにいたんだ」

 そこへ僕らの名前を呼ぶ声がした。僕たちは揃って、声のほうを見る。

「あっ! 見て、ソウくん」

「ああ、見た。成功したみたいだな」

 二人の繋がれた手を見て、僕らは顔を見合わせて小さく笑った。それから紬未はベンチから跳び降りると、同じくらい大きな声で彼らの名前を呼ぶ。
 その声には嬉しさが混じっていた。
 もちろん僕も、嬉しかった。
 でもそれだけじゃなかった。
 僕は、羨ましかった。
 遠慮なく気持ちを通じ合わせて、明るい未来を夢見ている二人が、羨ましかった。

「ちょっとちょっと、なになになに〜〜! 二人とも手繋いじゃってーーー!」

「白々しいぞ久空」

「つ、紬未ちゃん、恥ずかしいよ……」

 茜色に変わっていく空の下でも、藤田と山下さんの顔はそれとわかるほどに赤くて、幸せそうだった。

「おめでとう、二人とも」

 だから僕も、最近覚えた笑顔で二人に祝福の言葉を送った。
 藤田は自慢げに親指を立てて、山下さんは俯きがちにお礼を言っていた。
 まるで、僕らとは正反対の姿を見ているみたいで、僕は上手く笑えているかわからなかった。
 それから僕たちは後片付けをすませて、各々の自転車に乗って帰路についた。
 明日から再開する宝物探しで、僕はどんな顔をすればいいのだろうか。どんな気持ちで、これから紬未と接していけばいいのだろうか。
 まだ生ぬるい八月の風を頬に受けながら、僕はそんなことばかりを考えていた。
 家に帰ってからも、考えていた。夜ご飯を食べて、夏休みの宿題をそれなりに終わらせて、寝る直前になっても、思考は常にぐるぐると同じところを回っていた。
 けれど、そこで僕はようやく知ることとなった。思い知ることになった。
 僕と紬未の関係は、どうしようもなく終わりが見えていることに。

『ごめん! しばらく入院することになった笑』

 翌日の補習が終わった直後。正午を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、マナーモードにしていた僕のスマホが振動した。
 いつかの日に見た猫のスタンプとともに送られてきたメッセージの中でも、彼女は笑っていた。
 僕は、ぜんぜん笑えなかった。