今日も、アブラゼミが夏の朝空に向けて大合唱を奏でていた。
既に道路わきに設置された気温計は三十三度を超えており、朝の天気予報で言っていた本日の予想最高気温は三十五度だという予報は当たっていそうだと確信する。いや、逆か。これからさらに太陽はその厳かな高度を上げていき、道行く人々を見下ろしながら容赦ない陽光を浴びせてくるだろう。となれば、予想最高気温三十五度なんてものは軽々と超えてしまうに違いない。やはりいつものごとく、今日の天気予報は外れそうだ。
頬から流れ落ちる汗を拭い、すでに半分沸いた頭で心底どうでもいいことを考えながら、僕は傾斜のやや急な坂を登っていく。体力のほとんどを使い切って登ったあとはこれ見よがしに誘惑してくるコンビニの横を抜けて住宅街に入り、日陰を見つけてしばらく歩けば高校に着く。高校一年生の時から既に一年以上使っている通学路だが、この夏の期間は特にしんどい。
少しでもそんな暑さやしんどさから意識を逸らそうと、僕はぼんやりとした頭で昨日のことを思い返していた。
結局、僕はあの失礼で強引で頑固で底抜けに明るい久空さんからの頼みを断った。正確には、また誘いに行くという捨て台詞を残させて、その日は勘弁してもらえた。つまるところ、延長戦に持ち込まれたわけだ。
「ほんとなんなんだよ、あいつ」
無意識に文句が口をついて出る。本当に連絡先を奪われなくて良かったと思った。もし手に入れられようものなら即座に延長戦の火ぶたが切って落とされ、僕は体力と気力負けを喫していたかもしれない。いくら押しに弱いとはいえ、そこばかりは絶対に死守しないといけない。
そしてなによりの疑問は、なぜ宝物探しをする相手に僕を選んだのか、だ。
僕は過去の事故のこともあって、他の人となるべく関わりたくない。というか親しくなって楽しい思い出を作りたくない。楽しい思い出をつくるとあの日の出来事がフラッシュバックして、いつかそうした関係も壊れてしまうんじゃないかという恐怖に襲われる。動悸とかめまいといった症状はないにしろ、僕にとって少なからずあの日の出来事はトラウマになっている。
そんな個人的事情もあって、説明はしていないにせよ僕は断固として久空さんの申し出を断っているというのに、なぜあそこまで食い下がってくるのだろうか。普通は何度か断られたら諦めるものじゃないだろうか。
彼女は気に入っているからと言っていたが、なにをどう考えても奇妙すぎる。僅か数時間しか過ごしていない僕のどこに気に入る要素があったのか。木から落ちてきたところを心配したから? いや、普通誰だって人が木の上から落ちてきたら心配するだろう。人として当たり前の気遣いだ。
なら、宝物の地図探しをしっかり手伝ってくれたから? 一番可能性としてはありうる。彼女の身の回りにはそういうことに興味のありそうな人がおらず、頼める人がいなかった。そこへたまたま知り合った同じ高校の同学年の人に頼み込むと手伝ってくれることになり、紆余曲折があるにしろ目的のものが見つかるに至った。久空さんにとってみれば自分の周囲にはいないタイプの人なんだろう。もう少し話してみたいと思った。なるほど、これだな。
「原因は僕の押しの弱さじゃないか……」
思わず天を仰いだ。夏休み二日目の朝は、昨日と同じくきれいに晴れ渡っている。
ただそうであるならば、その原因を反省して次に活かすまでだ。つまりは、引き続きなにがなんでも彼女のお願いは断る。断り続ける。流れや押しに流されない。下着を見たのがどうのと言われても動揺しない。これに尽きる。
あとはそう。なぜこの高校二年生の夏休みに、宝物の地図探しや宝物探しをしようと思ったのか、もわからない。彼女自身も子どもじみたものだと言っていたし、自覚はあるんだろう。普通なら、そんな小さいころに作った宝物の地図なんて忘れているか失くしているか捨ててしまうかのどれかだ。それを見つけ出して、しかも現地まで探しに行こうとするなんて、相当大事なものでも埋めたんだろうか。そのことを、思い出しでもしたのだろうか。
あるいは、とても楽しい思い出で、夢にでもみて懐かしさのあまり行動に移したのだろうか。
「…………ふう」
まあ、正直その理由なんてどうでもいい。
だって僕は、彼女の手伝いはもうしないと決めたのだから。
思考の沼から上がろうとした時、ちょうど僕は件の歩道を通っていた。少し先に立っているのは、昨日久空さんが落ちてきた街路樹。常緑樹であるその木は、季節問わずいつも新緑の葉をつけている。今日も今日とて、生温かい南風に揺らされて微かな葉擦れの音を鳴らしていた。
思えば、昨日は本当にびっくりした。まさかこの木の上から、隣のクラスの女子生徒が降ってくるなんて想像もしな……
「え?」
変な感慨に浸ろうとしていたその時、がさりと木の枝が揺れた。かと思えば、白と黒の影がふわりと上から降ってきた。
「あれ、誰かと思えばソウくんじゃん」
白は女子の制服のブラウス、黒もとい紺色は女子の制服のスカート。すなわち常緑樹の上から降ってきたのは制服姿の女子生徒。朝から、というか一日を通して木の上に登ろうとするアクティブで非常識な高校生なんて、きっとこの県内を探しても一人しかいない。
「久空、さん……」
僕がため息とともにその名前を呼ぶと、目の前で髪をなびかせている少女は嬉しそうに相好を崩した。
「おはよ、ソウくん。昨日ぶりだね」
「ああ、ほんとに。というか、なに。なんでまた木の上から? もしかして待ち伏せしてたの? わざわざこんな朝に? 木の上で?」
次から次へと疑問が口から飛び出る。それはもう反射的に。僕の続けざまに放った質問攻めに、さすがの久空さんも驚いたように目を見開いた。
「ええ、ソウくん。その程度の驚きなんだ! これは多かれ少なかれ私がいることを予想してくれてたのかな? そうならちょっと嬉しい!」
違った。まったくべつの方向からの返答をされた。さすがの僕も辟易として肩を落とす。
「あのな。そんなわけないだろ。ただ単に少しばかり耐性がついただけだ。というか、質問に答えろ」
「もう~相変わらずせっかちなんだから。残念ながら、私がここにいたのは君を待ってたわけじゃなくて、ちょっと探し物をしてたからだよ。残念ながらね」
「べつに残念じゃないけど。てか、探し物? またなにか失くしたのか?」
「あはは、まあそんなところで」
誤魔化すように後ろ頭をかく彼女に、僕はまた小さくため息をついた。呆れてものもいえない。どこまでも探し物が好きな少女だ。
「ちなみにダメ元で訊くんだけどさ、この辺りでなんか紙切れとか見てないよね?」
「紙切れ? 見てないけど、なにが書いてあるんだ? プリントかなにか?」
「んーん! 見てないならいいんだ。ありがとね!」
それだけ訊くと、意外にもその探し物好きな少女は小走りで学校のほうへ走り去っていった。もっとあれやこれやと昨日の続きやら無駄話やらの攻撃に備えていただけに、なんだか肩透かしをくらったような気分だ。
そこでふと思い当たる。これはもしかしてあれか。押してダメなら引いてみろ、というやつか。
もしそうなら、まんまと僕は彼女の術中に陥っていることになる。危ない危ない。
僕は再度気を引き締め直すと、彼女のあとに続いて高校へ向かおうと一歩踏み出した。
本当に、何気なくだった。
何気なく僕は、昨日彼女が尻もちをついていた生垣へと視線を移していた。
そこは僅かに角の枝が折れているだけで、思いのほか目立たなくなっていた。きっと当事者でなければわからないほどに、普通だった。
そんな緑色が生い茂る隙間に、ちらりと白いものが見えた。その色ゆえにドキリとしたのはほんの一瞬で、すぐにそれは一枚の紙片であることがわかった。木の根と生垣の隙間に、隠れるようにしてそれはぴらぴらと揺れていた。
もしかして、これが彼女の探していた失くしもの?
丁寧に、僕はそれを拾い上げる。誤って枝なんかに引っかけて彼女に攻める隙を見せようものなら本末転倒だ。
抵抗もなくスッと僕の手元に来たその一枚の紙片を、僕は何の気はなしに開いて、驚愕した。
『遺書』
罫線しかない簡素で真っ白な便箋の一行目は、そんな言葉で始まっていた。
*
「はい、ここはですねー。未然連用終止連体仮定命令の四つ目、連体形ですねー」
チョークの音を規則的に鳴らしながら、いやに声の高い古典の男性教師は解説を述べていた。開け放たれた窓からは時おり南風が教室に吹き込み、ぱらぱらと手元のノートを勝手にめくっていく。
みんなが必死に元のページを探しているさなか、僕はぼんやりと窓の外を流れるうろこ雲を眺めていた。くるりと手元で回すシャーペンは未だに、そのノートに一文字も黒鉛を落としていない。
くるりくるりとシャーペンの感触を確かめるように回すたびに、僕の頭の中では彼女の顔がちらついていた。
『遺書
これを読んでいる時、きっと私はもうこの世にはいないでしょう。
先天性の肝臓疾患があると判明してから約十年。私は必死にこの病気と闘ってきました。
二十歳まで生きられないかもしれないと言われ、高校一年生の秋には病状が悪化して余命が二年と宣告されて以来、泣いてしまうこともたくさんありましたが、どうにかここまで生きることができました。それはひとえに、家族や友達、私を支えてくれたみんなのおかげです。
本当に、ありがとう――』
今朝。僕は生垣の影で一枚の便箋を拾った。
それは「遺書」というワードから始まり、「肝臓疾患」、「余命が二年」など、およそ僕の日常生活には縁のない言葉がたくさん綴られていた。所々には文字が歪み滲んだような跡もあり、書き手の押し殺すような悲しみがひしひしと伝わってきた。
ただ、僕の心を最も大きく揺れ動かしたのは、文末にあった名前だった。
『久空紬未』
最初は、見間違いかと思った。
けれど、何度見返しても文字が変わることはなかった。
次は、同姓同名である可能性を考えた。
けれど、僕の十七年間という人生において、「久空」という名字や「紬未」という名前に出会ったのはたった一度きりだった。
最後は、悪戯かもしれないと推測した。
けれど、昨日の必死に頼み込んでくる姿勢や、この年齢になって子どものころの宝物の地図を探し出して宝物を見つけにいこうとする行動、そして今朝の探し物をしている様子を顧みると、とても悪戯だとは思えなかった。そればかりか、それらすべての行動が如実に、遺書に書かれている内容の裏付けをしているようで、妙に納得してしまっている自分がいた。
つまりは、僕が昨日会った木の上から落下してきた少女――久空紬未は、肝臓の病気により余命二年と宣告されている。
これは、紛れもない事実のようだった。
「ふう……」
まあ、だからなんだというのか。
僕はべつに彼女と友達でもなければ恋人でもない。昨日たまたま数時間をともに過ごした程度の仲で、ただ隣のクラスにいる同学年の生徒というだけだ。さらには、僕はこれ以上彼女に関わる意志も理由もない。
加えていうならば、この遺書によってさらに僕は彼女から距離を置きたくなった。遺書の内容に同情し、残り短い時間をせめて彼女のやりたいようにさせてやりたいという思いはないわけではない。けれど、そこに僕という存在を巻き込まないでほしかった。
なぜなら、僕は悲しみに変わる楽しい思い出なんて作りたくないから。
余命僅かな彼女は、近い将来必ず死を迎える。少なくとも僕よりは先にあの世へ旅立ってしまう可能性が高い。
そんな彼女と一緒に宝物探しなんてしたらどうなるか。
人懐っこくて、明るくよく笑う無邪気な彼女と過ごして、まったく楽しいと思えない思い出ばかりが増えるだろうか。一分一秒一瞬たりとも、楽しいと思わないだろうか。
正直、自信がない。彼女の笑顔にほだされて、多少なりとも楽しいと思ってしまえば、それは彼女が亡くなった時に悲しみへと変わる。楽しかったな、なんて微笑をたたえて思い出せるのは時間が解決してくれた遥か先の話で、近い将来には必ず悲しくなる瞬間が来る。そしてその時には、まず間違いなく僕の過去もフラッシュバックしてきて、より悪化する可能性だってある。
いつか失い、悲しみとともに思い出すことが約束されている楽しい思い出なんて、今の僕にとっては天敵以外のなにものでもない。もっとも忌み嫌うべき最悪の代物だ。
つまるところ、彼女と縁を切るなら今のうちだ。
幸いにも、僕はまだ彼女と深く関わっていない。僕がこの遺書を見てしまったことを彼女は知らないし、宝物探しだって拒否している最中だ。押しに弱い僕が、彼女に押し切られてしまう前にこの遺書の内容を知れたことは、罪悪感こそあれ幸運だった。
遺書、元の場所に戻しとかないとな。
見つけた当初、心に少なくない衝撃を受けた僕は、唐突に頭上に鳴り響いた予鈴に驚くばかりか、焦るあまりその遺書を持ってきてしまっていた。これを早々に元の場所に戻して、素知らぬ顔で彼女のお願いを容赦なく断り続ければ、いずれ彼女は諦めるだろう。良心は痛むけれど、こればっかりは仕方ない。
僕が次の行動指針を決めたところで、本日最後の補習終了を告げるチャイムが教室内に響き渡った。夏期補習中は授業後のホームルームもないのでそのまま解散だ。
僕は結局なにも板書することなくほとんど真っ白で終わったノートや課題の問題集を鞄に突っ込むと、補習後の解放感に浸っているクラスメイトたちの間をすり抜け、一目散に生徒玄関を目指した。
おそらく、久空さんはもう一度この遺書を探しにあの街路樹の元へ行くはずだ。さすがに自分の病気やら余命やらが書かれた紙を簡単に諦めることはしないだろう。となれば、彼女が再度探しに来るまでにこの遺書を戻しておかないといけない。
僕は四つ折りにされた彼女の遺書がポケットにあることを確かめつつ、急いで靴を履き替えて外に出た。幸いにもまだ他の生徒の姿はなく、僕が元の場所に戻すところを見られる心配もなさそうだった。
とはいえ余裕はない。僕は足早に校門を抜け、暑く焼けた歩道の上を歩いていく。
ごめん、久空さん。
偶然とはいえ、勝手に中身を見てしまったこと。
余命わずかであることを知ったにもかかわらず、自分の気持ちを優先して彼女のお願いをきいてあげられないこと。
心の中に漂う罪悪感を少しでも軽くしようと謝罪の言葉を口の中で転がし、僕はようやく辿り着いた件の街路樹の根本に遺書を差し込んだ。
「あーあ。まさかソウくんだったとはねー」
突然、澄んだ声が僕の耳を衝いた。今一番、聞きたくない声だった。
心臓が飛び出るんじゃないかというくらい驚いて、僕は反射的に木の上のほうを見上げた。
「いやいやいや。さすがにいつも木の上にいるわけないでしょ」
どこか小馬鹿にするような口調で発せられた声は、上方ではなく後方から聞こえてきた。振り返れば、隣の街路樹に久空さんが寄りかかっていた。
「なんで、ここに?」
「なんでって、補習サボってそれを探してたからに決まってるじゃん」
くつくつとこらえるように笑う彼女は、小さく勢いをつけて街路樹の影から跳び出した。
「それでその紙切れ、いつ拾ったの?」
「……今朝」
「中身は? 読んじゃった?」
「…………」
もう逃れられないと悟った僕は、観念してこくりと頷いた。すると彼女は、それとわかるほどに眉を下げて、今度は困ったような笑みを浮かべた。
「……そっかあー。じゃあ、私の病気とか余命のこと、知っちゃったんだね」
彼女は僕の手から遺書を抜き取ると、昨日までと打って変わって静かな声を口から漏らした。
僕は、なにも返せなかった。
それから僕は、久空さんに促されるがまま坂を下っていた。
前を歩いているのは彼女で、僕は後ろ。しばらくの沈黙のあと、「ついてきて」と言われたっきり、僕たちの間に会話はなかった。僕もなにを話せばいいのかわからなかったし、さすがに逃げることもはばかられたので、大人しく無言でその背中を追うことしかできなかった。
やがて辿り着いたのは、誰もが知るファストフード店だった。店内に入るや、彼女は窓際の一番奥にある目立たない席を指差し、「先に座ってて」と僕の顔を見ることなく言った。僕は素直にそのボックス席に座ると、これからどう謝ろうかとようやく作戦を練り始めた。けれど、注文は思った以上にスムーズに進んだらしく、その作戦が形を帯びる前に久空さんはトレーを持って僕の向かい側の席に腰を落ち着けた。
「え」
そこでやっと、僕は声を発した。とりあえず開口一番にとにかく謝ろうと思っていた意志とは関係なく、その声は僕の口から漏れ出した。
なぜなら、目の前のテーブルに置かれたトレーの上には、それはそれは多くのハンバーガーやらポテトやらジュースやらが陳列していたからだ。
「好きなの食べていいよ。私の奢り」
「え、いや、なんで?」
「だってお昼ご飯、まだ食べてないでしょ?」
そういう意味じゃない。そう思ったが、じつに不健康そうな香ばしい匂いが僕の鼻から口、そして食道から胃のほうへと降りてきて、情けなくもお腹がぐうと音を立てた。僕は急激に熱くなった頬を誤魔化すべく、一番近くにあったチーズバーガーを手にとり口へと運んだ。結局、僕はチーズバーガーとフライドポテトのミドルサイズ、そしてコーラをご馳走になった。余命わずからしい彼女はテリヤキバーガーにチキンバーガー、ナゲット、フライドポテトのラージサイズを食べ尽くし、メロンソーダをチビチビと飲んでいた。ジュースを除いたそれらすべてを胃の中に収めるまで、僕と久空さんの間に会話はなかった。
そうして空になった包み紙を丸め終えると、満を持して彼女は口を開いた。
「うにゃーーーーーっ! なんで私が生きてるうちに遺書を読んじゃうのーーーーーーーっ!」
それはもう僕の肩が跳ね上がるような勢いで彼女は叫ぶと、そのままテーブルの空いたスペースに突っ伏して悶えだした。
「なんでなんでなんでなんでーーー! これを読んでいる時、私はもうこの世にいないでしょう……いるじゃんね、アホーーーっ! もうなに言ってるの私、ほんと最悪なんだけどもう~~~~~っ!」
「お、落ち着いて、久空さん」
幸いにも、僕らが食べ始めたころから店内は混み始めており、今ではかなり騒がしい状態となっていたので店員さんや他のお客さんに不審がられることはなかった。
一方で、完全にシリアスな雰囲気になっていた僕の胸中は、不審を通り越してもはや大混乱と大困惑だった。
「落ち着いていられるかこれがーっ! まだ読まれたのが私のクラスメイトとか友達じゃなくて良かったけども~~~! それでもこれは私が生きてるうちに他人に読まれることは想定してないのーー! 下着なんかより恥ずかしいのーーー!」
「わ、わかった、わかったから」
ふうふうと鼻息荒く肩を上下させる久空さんをなだめ、僕は傍らにあったメロンソーダを勧める。すると彼女はそれを一気に飲み干してしまったので、僕は彼女のご所望通り追加でウーロン茶をふたつ買ってきた。彼女は一杯目のウーロン茶を瞬く間に喉に滑らせ、二杯目のウーロン茶をふた口飲んでようやく落ち着いた。
「お騒がせいたしました」
「いや、とんでもございません」
恥ずかしさをリセットすべく恭しくお互いに頭を下げたところで、彼女はひとつ息をついた。
「まあ、その、遺書に書いたとおりなんだ。私は肝臓に病気を抱えてる。生まれた時から、ね。んで、それが去年の秋に悪化しちゃってることがわかって、私は十八歳までには死んじゃうでしょうってことになった。ちなみに今日みたいな食事はほんとは厳禁だから、内緒にしてねっ」
「サラッと危ないことを言うな。大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫。今日以外は守ってるから大丈夫だよ。今日だけは、特別」
そう言うと、久空さんは半分ほどになったウーロン茶を口に運んだ。特別、という言い方がいやに耳に残った。
「まあそんなわけで、見た目は至って元気な私ですが、近い将来死んじゃうわけです。ということで、再度お願い。宝物探しを、手伝ってくれないかな?」
手にウーロン茶の入ったカップを持ったまま、久空さんは僕に頼んできた。その言い方は昨日までとは違って真剣そのもので、思わず僕は口をつぐみそうになる。
けれど、やはり僕の考えは変わらない。
「……悪いけど、それでも僕は手伝えない。本当に、申し訳ないけど」
「おーおー、また振られちゃった。これはショックだなあー」
「ごめん」
再度僕が頭を下げると、彼女はウーロン茶のカップをテーブルに置いた。
「まあもうちょっと話を聞いてよ。べつに私は、心残りを消化したくてこの宝物探しの手伝いをお願いしてるわけじゃないから」
「え?」
僕が戸惑いの表情で久空さんを見ると、彼女はゆったりと背もたれに体重を預けて言葉を続ける。
「もちろん、少しはその気持ちもあるけどね。でも一番は、最高に楽しい夏休みにしたいから。そのために、私はこの宝物を見つけに行きたいの。みんなとなんら変わらない、ただ楽しい思い出を作りたいんだ」
「楽しい、思い出……」
嫌な言葉に、僕の心がざわざわと蠢き立った。
だけど同時に、ひとつの疑問符も浮かんだ。僕の心を覆い尽くそうとしている黒い感情を追い出すように、僕はその疑問符に飛びついた。
「失礼を承知で、ひとつ訊きたいんだけどさ」
「うん、なに?」
「そんなに楽しい思い出を増やしても、虚しくなるだけじゃないの? あとで思い出して、悲しくなるだけじゃないの? 自分だけじゃない。親とか友達とかも、楽しい思い出が増えれば増えるほど、君が死んだ後に悲しくなるんじゃないの? それでも君は、楽しい思い出を作りたいの?」
矢継ぎ早に投げかけた質問を、久空さんは難しそうな顔をして聞いていた。我ながら意地悪で無礼千万な質問だと思ったけれど、一度口にしてしまうと止まらなかった。
久空さんはしばらく何事か考えていたようだったけれど、やがておもむろに口を開いて言った。
「訊きたいこと、ぜんぜんひとつじゃないじゃん! 四つじゃん!」
「それはごめんだけど、誤魔化さないでよ」
「はいはーい。まあでも、簡単な話だよ。そのとおりだと思うよ。そしてそのうえで私は、楽しい思い出を作りたいの。思い出は、希望の種だから」
「は?」
どこかで聞いたような金言っぽい言葉とともに、彼女は笑みを深めた。困惑と苛立ちが綯い交ぜになって、僕は自然眉をひそめる。
「答えが気になるなら、私と一緒に宝物探しをしてみない?」
言うや否や、彼女はどこから取り出したのか、A3サイズ程度の大きさの一枚紙をテーブルに広げた。色褪せ具合からして、昨日見つけた彼女の言う宝物の地図だとわかった。
その地図に視線を落として、僕は思わず目を見張った。
「これはね、小学校三年生の時だったかな。一日だけ一緒に遊んだ男の子と一緒に作ったものなの。その子と一緒に宝物を埋めて、大人になったら掘り起こしに行こうねって約束したんだ」
「……そうなんだ」
まず目を引くのは紙の左上半分で、そこはなぜか破り取られたようになくなっていた。そして次に、下方に太く真横に伸びている水色の線だ。流れのような曲線も引かれているから、これは川だろう。そしてその上には山があり、中腹あたりには丸印が付けられている。余白には様々な色鉛筆で家々や田んぼ、公園のような絵が描かれており、筆致の異なる落書きらしきものも複数見てとれた。
そう。これは、初めて見るはずの地図。
彼女が小学生の時に作った、お手製の宝物の地図。
それなのに、目の前の地図には強烈な既視感があった。
「……一応訊くんだけど、その一緒に作った男の子は?」
「それっきり、だよ。名前は聞かなかったんだけど私と同い年くらいの男の子で、とっても笑顔が素敵だったなあ」
「……なるほどね」
僕は昨日、初めてまともに彼女と喋ったはずだ。少なくとも、今の僕の中には久空さんのような女の子と喋った記憶はない。あるのは誰かと宝物を隠した記憶と、今目の前に広げられた宝物の地図への既視感のみ。
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
また、いつかの声が頭の中に響く。きっとこれは、僕の声だ。顔の見えない誰かに向かって、満面の笑みを浮かべて話しかけている記憶。
それがいつのことなのかは思い出せない。思い出せないくらい昔のことなんだろう。
でもそうなると、まるで映画や小説みたいな可能性がひとつ思い当たる。
彼女と一緒に宝物の地図を作った男の子というのが、僕である可能性だ。
もちろん、確信はまるでない。子どものころに宝物を埋めたり宝物の地図を作ったりというのは、さして珍しいことでもない。夢で見たのか、あるいはべつの遊びをしていたのか。そんな記憶たちが混ざりに混ざっている可能性だって決して低くはない。だけど。
「ねっ、どう? 私も記憶が曖昧でさ、手伝ってくれる人がいると助かるんだよね。それにこんな身体だし、その事情を知ってくれてる人がついててくれると安心なんだけどなあ~」
「随分と卑怯な言い訳をするね」
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
また、声が蘇る。
それと同時に、少しだけずきりと頭が痛んだ。脳裏に浮かんだ父の笑顔と、血まみれで横たわるその後ろ姿に、僕は小さく首を振って掻き消す。
「え。これでもダメなの?」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
「えっ! じゃあいいのっ!」
一連の僕の所作で、彼女はくるくるくると表情をせわしなく変える。なんとも忙しい人だなと思う。でも、まあ、確かに。
彼女の言うとおり、気になるなら一緒に宝物探しをしてみるのも、ひとつか。
「…………はあ、わかったよ。手伝うよ。でも、無理は禁物だからね」
「やったーーーーーーっ! わーいっ! ありがとう、ソウくんっ!」
「そこまで喜ぶ?」
一応店の中だというのにそのことを忘れてしまったかのような喜びように、僕は堪え切れず苦笑を浮かべた。
「あ、それと! 私のこと、名字じゃなくて名前で呼んでよ! 名字にさん付けで呼ばれるのなんかやだ」
「え、僕もやだ」
「ダメでーす。これは私の遺書を勝手に読んで持っていった罰だから、ソウくんに拒否権はありませーん!」
にひひひっと意地悪な笑い声を彼女はこぼす。宝物を探す口実じゃなくて、ここにその負い目を持ってくるあたり、彼女はかなりの策士らしい。
宝物探しの手伝いを承諾する返事よりも長い沈黙のあと、僕は観念して首を垂れた。
「…………………はあ、わかったよ」
「んふふ、じゃあ呼んで?」
「なにを」
「なーまーえ」
「……つ、紬未」
「ぷぷーっ! 緊張しすぎでしょっ! あははははっ!」
「うっさいな」
どこまでも意地悪で悪戯好きで性根の曲がった悪魔の笑顔に、僕はため息をこぼした。
でも不思議と、嫌な感じではなかった。
紬未は、やけに嬉しそうに長く笑っていた。
*
紬未にこれでもかといじられたあと、彼女の提案で僕たちは先ほどまでいたファストフード店から近くにある有名チェーン店のカフェに場所を変えた。その理由は至って単純。
「わあああっ! これが新作のストロベリーケーキ! すっごく可愛い!」
「可愛い? 美味しそうじゃなくて?」
「美味しそうはもちろんあるけど、なにより可愛い!」
注文した品物を持って席につくや、紬未は上機嫌に叫んでスマホのカメラでパシャパシャと写真を撮り始めた。だから僕は早々に目を逸らして、今度は自分で購入したブラックコーヒーを口に運ぶ。
「あれ、ソウくんはデザート食べないの?」
「うん、僕はハンバーガーで充分。むしろあんなに食べておいてよく入るな。しかもたぶん、それもあんまり食べちゃダメなやつだろ」
「へへへーあたりー」
にへらと彼女は口の端をゆがめて、切り分けたケーキをぱくりと頬張った。ひとくちにしては大きいなと思った通り、彼女はハムスターみたいに頬を膨らませて咀嚼している。
「んふふふ~おいひい~」
「それはなによりだな」
幸せそうな表情でモグモグと口を動かしている彼女を尻目に、僕はもうひとくちコーヒーを飲む。ほろ苦い深みのある香りが、口から鼻にかけてすうっと抜けていった。
本当は止めるべきなんだろう。けれど、この表情を見ているとむしろ彼女にとっては遠慮せず食べたほうが総合的な幸福度合いは高いと思った。残り僅かな余命をこれ以上縮めないために、残り僅かな時間すらも我慢で埋め尽くすことは、きっと彼女の本意ではない。なら僕としては、なにも言わないし関わらない。その一点に尽きる。
僕が無言でいるのをいいことに、紬未はそれからあっという間にストロベリーケーキを平らげた。驚くべき早業、もとい大食い。いったいその細い身体のどこに収まっているのだろうか。
「あー美味しかった! ということで早速、始めてまいりましょうか」
「始める? なにを?」
「作戦会議だよ! 宝物探しの!」
僕がべつの思考に気を取られて聞き返すと、途端に紬未は再び頬を膨らませ始めた。まるで風船みたいだ。
「もしかして早くも忘れてたんじゃないでしょうねー?」
「忘れてもいいの?」
「ダメに決まってるでしょ!」
やはり、逃れることはできないらしい。もっとも、僕は彼女が楽しい思い出をそうまでして作ろうとしている真意を知りたい。矢継ぎ早に投げかけた質問の回答を得られるまでは、彼女の手伝いをしつつなるべく冷めた眼差しで彼女を見守り、無味乾燥とした記憶を生成していこうと思っている。
「さっ、ほら。一緒に考えよ。宝物が埋まってる場所」
そして、もうひとつ。
再び広げられたくすんだ色の紙を見て思う。
このどこかで見た記憶のあるボロボロの宝物の地図は、果たして僕も一緒に描いたものなのかどうか。もしこれが、僕が忘れてしまった楽しい思い出のひとつなのだとすれば、その時、僕は……。
「…………」
「……どう? わかりそう?」
「へ?」
「あれ、埋まってる場所を考えてくれたんじゃないの?」
「いや、まったく」
「こらあー!」
これまたどこから取り出したのか、一枚のプリントを丸めて彼女はペシリと僕の頭をはたいてきた。なんて理不尽な。
「あのな、まだ地図を見せられただけなんだけど。え、この丸印の場所がどこかってこと?」
「そうそう」
「わかるわけないだろ。川に家に山に落書きしか書いてないのに」
「落書きじゃないですー。よく見てくださーい。昔の私とその男の子が書いた謎解きです~」
「謎解き?」
言われて再度よく見てみれば、確かに歪な文字でなにか書かれている。一番読めそうなのは川の絵が描かれている付近にある文だ。
「えーっと……『始まりは、小石のじゅうたんがあるところ』?」
「そうそう! よくできました!」
「なめんな」
今度はあやすように丸めたプリントで頭を撫でてくる紬未。なんともうっとおしい。
「いい加減やめろ。てか、なんだよその紙?」
「え、これ? 私の遺書だけど」
プリントじゃなかった。さっきまで僕が読んでいた遺書だった。
「そんなもんでたたくな、なでるな」
「じゃあ、これの後ろに話し合いの内容メモしていこうよ。それで、わかる? 『小石のじゅうたんがあるところ』がどこか」
「待て待て。メモもするな」
僕の言葉を無視して、紬未は早速遺書の後ろになにやら書き始めた。どうやら、今の彼女にとってその遺書は裏紙としての機能しかないらしい。
どこまでもマイペースな彼女に、僕は呆れつつも言葉を続ける。
「んで、『小石のじゅうたん』だろ。普通に考えたら河原じゃないか?」
「まあ、そうなるよねえ。でもどこの河原なんだろ」
「それは知らん」
僕らの住む金沢市だけでも川はいくつも流れている。石川県内となればなおさらだ。それだけで場所を絞り込むなんて土台無理な話だ。
「まあ、順当に考えるなら住んでいるところの近くとかじゃないのか。そもそも、その男の子とどこで遊んだとかは覚えてないのか?」
「んー残念ながら、遊んだ記憶はぼんやりあるんだけどそれがどこなのかはさっぱり。私の住んでるところの近くでそこそこ大きな川なら浅野川とか犀川になるけど」
「じゃあ、とりあえずそのどちらかという仮説を立ててみるしかないんじゃないか」
彼女の遺書の裏面に書かれた話し合いのまとめを眺めながら、僕はやっつけ気味に言った。こういう時は星の数ほどある可能性を考えるよりは、いくつか出てきた可能性を仮置きして思考を進めるに限る。
「確かに、そのほうがずっとあれこれ考えてるよりいいかも。それにしてもさっすがソウくん、成績優秀者なだけはあるね!」
「成績は関係ない」
横道に逸れかけた話題に、僕はぴしゃりと言い放った。彼女の頬がまた不満そうに膨らむ。
「もう~。こういう何気ない話も、仲良くなるためには必要なんだよ」
「べつに僕は君と仲良くしたいわけじゃないから」
「私が仲良くしたいの!」
「それは、楽しい思い出づくりのため?」
「それもあるし、あとはただ純粋に私がそう思ったから!」
膨れた頬をしぼませ、彼女はにへらと口の端を緩ませた。噓偽りなんて微塵もなさそうな、どこまでも純真無垢な笑顔だった。この笑顔にほだされた人はきっと多いんだろうな、と思った。
そんなことを考えていると、今度は彼女の笑顔がひときわ大きく咲き始めた。太陽を一心に見つめる向日葵のように、その笑顔は眩しさを増していく。
「……訊きたくないけどあえて訊こう。いったい、何を思いついたの?」
「んふふふ、えとねー。ソウくんと仲良くしつつ、楽しい思い出を作りつつ、宝探しも捗ること~」
「え」
嫌な予感がした。そこで彼女は勢いよく立ち上がると、鞄と伝票を引っ掴んで歩き出す。
「ほらっ、行こっ!」
「あ、おい!」
本当に、彼女はどこまでもマイペースすぎる。
意気揚々と会計を済ませ、これは宝探しのお礼も兼ねてるから僕には一銭も払わせないと宣言した彼女に連れられること三十分。僕らはじつに夏休みらしい場所に辿り着いた。
「あははははっ! つめたーい!」
紬未は黄色い歓声をあげてパシャパシャと水音を立てる。制服が濡れるのもいとわず、かといって靴は濡らしたくないようで川縁に脱ぎ散らかし、彼女ははしゃぎ回っていた。
「なるほどね。実際に現地まで行こうってことか」
ごつごつとした丸石の感触を足裏に感じつつ、僕は小さく肩をすくめた。
炎天下の中、長い時間をかけて連れてこられたのは犀川の河原だった。犀川は金沢市を流れるそこそこ大きな二級河川だ。川沿いのほとんどは堤防やらフェンスやらで覆われているが、僕らの通う高校から程近いところに犀川に隣接する緑地公園があり、そこには小さな河原がある。水深はせいぜい足首程度なので、僕も小さいころは両親と一緒にたまに遊びに来ては今の彼女のようにはしゃいでいたっけ。
「なにしてるのー? ソウくんも入ろうよ!」
「いや、僕はいいよ」
思い出に浸りかけていた思考を掻き消すのと、川に入る意志がないのを伝えるために、僕はゆっくりと頭を振る。さすがにこの年齢にもなると、無邪気に遊び回る幼心はない。
「そんなこと言わないでさ、ほーら! 早く早く!」
「ちょ、ちょっと!」
もっとも、幼心を卒業したのはここでは僕だけのようだった。目の前で太陽に張り合うみたいな笑顔を振り撒いている紬未の表情は、高校生というよりはどちらかといえば小学生に近い。そんな年齢退行している彼女に引っ張られ、僕は危うく靴のまま川へ片足を突っ込みそうになる。
「ほらほら~。靴を脱がないと、今度は濡れちゃうよ?」
「自分は濡らしたくないくせに他人にはお構いなしとは悪魔か」
「悪魔じゃありませーん。悪魔に余命を大幅に削られた薄幸の美少女ですー」
「ツッコみたいけどツッコみにくい冗談を言わないでほしい」
けれど、このままでは僕のスニーカーが大雨の時みたくびしょ濡れ浸水しそうなのは明白だ。仕方なしに靴下とともに脱ぎ、川縁にある大きな石の上に揃えて置いた。念のためスマホなんかもポケットから出し、鞄にしまって近くに置いておいた。
「よしよし、これで思う存分はしゃげるね!」
「はしゃがないけどね。僕の場合はリスクヘッジだから」
「リスクヘッド? それはどんな頭?」
「君みたいなくるくるぱーのことだよ」
ここで早速、僕の危機管理が功を奏した。目の前を小さな水飛沫が舞い、カッターシャツに水の濡れた跡が点々とついた。
「おい! いきなりなにする!」
「熱中症対策ですー! 決してくるくるぱーって言われた仕返しとかじゃありませんー! あと私のことは名前で呼ぶようにぃー! ほうら、もう一丁~~!」
「うわっぷ、冷たいって!」
そこから先は地獄だった。みっともなくはしゃぐ気のない僕は、一方的に水をかけられまくった。這う這うの体で川から上がろうとすれば彼女に腕を掴まれ、二人してバランスを崩してさらにびしょ濡れになった。川で遊ぶ時は危ないからルールを守ってほしいと抗議すれば、尻もちをついたまま水をかけられた。なんて理不尽な。さすがにこのままでは家に帰れないので、服を乾かそうと提案したらようやく川から上がることを許された。
「あははははっ、いやー満足満足!」
「僕はとっても不満足なんだが」
彼女から手渡されたタオルで服を拭きつつ、僕は心情を述べる。けれど彼女はさして気にした様子もなく、僕と同じようにタオルで髪を拭いていた。
「でも楽しかったでしょ?」
「誰が」
「え~素直じゃないな~」
くつくつと小悪魔っぽく笑う彼女の頭には、確かに角が生えていた。角というよりは、アホ毛に近いか。
「まあ、どうでもいいけど。それより、宝物探しの始まりの場所は、ここで合ってるの?」
「にへへ、わかんない」
「なんだよ、それ」
ぜんぜん捗ってないじゃないかと不満をこぼせば、紬未はまた楽しそうに笑った。本当に彼女はよく笑う。体内に爆弾を抱えていて、余命があと僅かなんて何かの冗談とすら思えてくる。
「まあ、それは残りの謎解きも解いていくうちにわかるんじゃないかな」
「残りの謎解き?」
「うん。時間が経ちすぎてかすれてたけど、山の絵の下にも謎が書かれてたんだ」
そう言うと、彼女はタオルと入れ替わりに例の地図を出してきた。僕は彼女になにやらいちゃもんを言われぬように、少しだけ距離を置いた位置からのぞき込む。
そして確かに山の絵の下には、薄い文字でなにかが書かれていた。
「えーっと……『終わりは、一〇〇メートルの見晴らしの後ろ』?」
また回りくどい。普通にストレートに場所の名前を書いておけばいいのに。
「ちなみに、その山の謎は男の子が考えて、河原の謎は私が考えたんだよ」
「あ、そうなんだ」
となると、もしその男の子が僕なのだとすれば、これは小学生の僕が考えたことになる。なんの記憶もないのだが、もしかしたら回りくどいのは僕のせいかもしれないのか。
「って待て。それなら『小石のじゅうたん』が河原ってことはすぐわかっただろ」
「え? うん、それはそうだけど」
「ならどうしてさっき『小石のじゅうたん』がどこかって僕に訊いたんだ?」
「え~そんなの決まってるじゃん。こういう謎解きを考えることも含めて、楽しいからでしょ!」
あっけらかんと彼女は言い切った。頭が痛くなってくる。本当に、彼女はどこまでも純粋に今という時間を楽しんでいきたいらしい。
「……ちなみに、本当はどこの川かわかってて、自分が埋めた宝物もどこにあるか知ってるってことはないよな?」
「あーうん。それは本当にない。マジでわかんない。だから一緒に寝込むくらい考えて」
「図々しいな、ほんとに」
僕が呆れてジト目を向けると、紬未はまたまたケタケタと笑い転げる。
そんな紬未を横目に、僕は一抹の懐かしさを感じていた。
*
これから退屈な用事を済ませに行くのだという紬未とわかれたあと、僕はようやく帰宅した。自室に入るや、勢いよく身体をベッドに投げ出す。
「ふうー……」
薄暗い天井に向かって息を吐き出すと、少しだけ胸のあたりが軽くなる。その感覚につられて、僕はもう一度息を吐き出した。
本当に、今日は疲れた。朝からじつにこれでもかと盛り沢山な一日だった。
登校途中で彼女の遺書を拾ったかと思えば、帰りに戻すところを目撃され、そのままファストフード店に連行された。そしてそこで彼女の食いしん坊っぷりを目の当たりにしたかと思えば、僕の質問を逆手にとられて宝物探しの協力をすることになった。しかもその時に見せられた宝物の地図は見覚えがあり、もしかすると彼女のいう男の子は自分かもしれないときた。かと思えば、作戦会議途中の思いつきのままに今度は河原へとしょっ引かれ、そこで水の掛け合い、挙句にはびしょ濡れになった。もう服はとっくに乾いているが、早々にシャワーを浴びたほうがいいか。
重い身体を引きずってシャワーを浴びている最中も、僕の頭の中は今日のことや紬未のことでいっぱいだった。
まず、彼女は僕イコール昔一緒に地図を作った男の子だとはとらえていないようだった。何度か意図的に男の子のことを訊いても普通に答えてきたし、僕に何かを隠しているようなふうもなかった。つまり、ただ偶然に僕が手伝うことになったか、あるいは単に僕の記憶が入り混じったがゆえの勘違いということだ。僕自身としても、幼いころに彼女と過ごしたという明確な記憶はない。彼女の様子とも合わせれば、後者のほうが可能性としては高いかもしれない。
けれど。時おり心に懐かしさが込み上げるのも、また事実だった。
本当に、紬未はいつも朗らかに、楽しそうに笑っている。あんなによく笑う女の子と一緒に過ごしたのなら、覚えていそうなものだけど。あいにく、僕の心にあるのは曖昧な、どこか懐かしいと薄っすら感じる程度の感覚のみだ。
「まあ、どっちでもいいか」
僕はべつに彼女と楽しい思い出を作りたいわけじゃない。子どものころに埋めたとかいう宝物にも興味はないし、仮に昔楽しく遊んでいたのであればそんな記憶は忘れたままでいい。いつか悲しく感じてしまう思い出なんて、無理に思い出す必要はない。僕の問いかけに対する彼女なりの答えを知れれば、あとはもうなんでもいい。
濡れた髪を乾かしながら、昼間のやりとりを反芻する。
あの時僕は、勢い余って次々と訊いてしまっていた。彼女には申し訳ないことをしたと思うけれど、どうしても気になったから。
余命僅かながら、心残りの消化というよりただ純粋に楽しいことがしたいと、彼女は言っていた。意味がわからなかった。だから僕は、投げかけていた。
――そんなに楽しい思い出を増やしても、虚しくなるだけじゃないの?
――あとで思い出して、悲しくなるだけじゃないの?
――自分だけじゃない。親とか友達とかも、楽しい思い出が増えれば増えるほど、君が死んだ後に悲しくなるんじゃないの?
――それでも君は、楽しい思い出を作りたいの?
今思い出しても、デリカシーの欠片もない酷い質問だ。それなのに彼女は、怒りや悲しみの表情をひとつも見せることなく、むしろ笑って答えていた。
――まあでも、簡単な話だよ。そのとおりだと思うよ。そしてそのうえで私は、楽しい思い出を作りたいの。思い出は、希望の種だから。
どうやら彼女は、わかっているらしかった。僕と同じ疑問に、一度は辿り着いているようだった。そしてそのうえで、楽しいことをしたいらしい。楽しい思い出を作りたいらしい。
いったいなにをどう考えたらそんな思考に行きつくのか、知りたいと思った。
今の僕には導き出せない答えを、紬未は持っている。
――答えが気になるなら、私と一緒に宝物探しをしてみない?
深く、朗らかに笑う紬未の表情がチラつく。
そうだ。だから僕は、彼女の挑発に乗った。
彼女なりの答えを知りたくて、どうしてその答えに辿り着いたのか知りたいだけで。
だから僕は、彼女の手伝いをすることにした。
ただ、それだけだ。
「……勉強でもするか」
ちょうど髪を乾かし終わったところで、僕の思考の整理も終了した。これ以上は不毛だ。夕ご飯を作るにはまだ少し早いし、一時間だけ勉強でもして気持ちを切り替えよう。彼女の手伝いをしていたせいで、予定よりも夏休みの課題は遅れているのだから。
そう結論付けて、僕は自室へ向かおうと脱衣所を出た。
「ただいまー」
そこへ、疲れた母の声が聞こえてきた。普段よりも早い帰宅に、僕は急いで玄関へ向かう。
「おかえり、母さん。荷物持つよ」
「あら、ありがと。今日は仕事が早く終わってね。たまにはお母さんがご飯作るわよ」
「そうなんだ。でも大丈夫だよ、もうほとんどできてるから。母さんは疲れてるだろうし、お風呂でも入ってきてよ」
どこか残念そうに顔をゆがめる母に笑いかけて、僕はリビングへと向かう。母の荷物をソファへ下ろしてから、すぐにキッチンに入った。手が不自由な母でも食べやすいだろうということで、今日の献立はカレーにした。
「ねえ、湊也。無理してない?」
ふいにかけられた言葉に、冷蔵庫から野菜を出す手が止まる。でも、すぐに僕は口を開く。
「大丈夫、してないよ。もう随分と時間も経ってるんだから」
「ならいいんだけど」
どこか煮え切らない様子の母だったが、それ以上はなにか口にすることなく浴室へと向かった。僕はまな板の上に並べられた野菜を見つつ、小さく息をつく。
無理は、していない。事故から既に七年も経過しているのだ。
確かにあの事故がきっかけでカメラは苦手になり、楽しい思い出を作ることに抵抗を覚えるようにはなった。けれど、べつに生きることに支障をきたすわけではない。僕は僕なりに、今の人生でいいと思っている。そう、今の人生で……。
母がお風呂からあがってきたころに、ちょうどカレーがいい具合に煮立ってきた。カレーは母の大好物ということもあり、見るからに顔はほころんでいた。二人で久しぶりの夕食をともにし、勉強の話やちょうどテレビでやっていたバラエティー番組の話で家族の時間を過ごした。それから部屋の片づけをするという母とわかれ、僕は自室へと戻った。
「ふうー……」
帰宅した時よりさらに暗闇が深くなった部屋で、僕は肺に溜まった空気を吐き出す。
今度こそ、勉強でもしよう。
心の中でつぶやいてから、僕は机に向かうべく部屋の明かりをつけた。
「え?」
ちょうどそこへ、狙ったかのようなタイミングでベッドの上に置いていたスマホが振動した。今しがた心に決めた勉強への意志を邪魔せんがごとくのタイミングだった。嫌な予感がしつつも、気づいてしまった以上は見ないわけにもいかず、僕はおもむろにスマホを手にとった。
『やほー』
『元気? 私は元気!』
『明日の午後なんだけど勉強教えてよ! ついでに二つ目の謎についても考えよ!』
最初のと合わせて三つの通知が、スマホの画面に表示されていた。
そこではたと思い当たる。そういえば、帰りがけにほとんど無理やりに連絡先を交換させられたんだっけか。
にんまりと嬉しそうに微笑む紬未の顔が浮かんだ。補習後のみならず、どうやら彼女は帰宅してからも茶々を入れてくるつもりらしい。けれど、このまま彼女の思惑通りになるのはなんだか癪だった。やや迷ってから、僕は滅多に開かないアプリを起動しメッセージを送信する。
『僕は勉強まで手伝うとは言ってないけど』
送るや否や、すぐに既読がついた。この時間に勉強すればいいのに。
『いいじゃん! 謎解きのついでにお願い!』
『友達と勉強したらどう?』
『みんな部活やら塾やらで忙しいんだって』
『じゃあ諦めよう』
『やだ。ということで、よろしく!』
ついには僕の返事なんてお構いなしに結論を押しつけてきた。本当に、どこまでもブレないな。
僕は呆れてひとり肩をすくめてから、『わかったよ』と返信した。どうせここで無理に断っても、あの手この手で僕を巻き込んでくるのだろう。それにもしかしたら、彼女のいう「答え」を知る機会になるかもしれない。
彼女から『おニャしゃす!』と吹き出しのついた猫のスタンプが送られてきたのを確認してから、ようやく僕は机についた。
なぜか、その夜はかなり勉強が捗った。
*
翌日の朝。
やや身構えていた登校時は紬未と会うことはなく、拍子抜けにも彼女と出会う前と同じように平和な形で補習は始まった。
毎日変わり映えもなく、古典、数学、英語、現代文と主要な科目の補習を受けていく。各学年の全生徒を対象に任意参加で行われている補習だが、一応進学校ということもあってほとんどの生徒が出席している。かくいう今日も、いつもと同じく九割近いクラスメイトが席についていた。
「ということで、はい、今日の現文は終わりだ。今日やった範囲は頻出事項だからな。各自、しっかりと復習しておくように」
チャイムとともに野太い声が本日最後の補習の終了を告げた。これで、今週の補習はすべて終わりということになる。あとは家に帰って課題をこなしていけばいい。もっとも、今日もまた素直に帰ることはできないのだが。
「勉強に宝物探し、ね」
これからのことを想像して、自然と声がこぼれる。今朝コンビニで適当に買ったサンドイッチを食べてから、どこかで合流すればいいだろうか。人がどんどんと減っていく教室でぼんやりと窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、ポンと軽く肩を叩かれた。
「よっす、森川。今日も相変わらず黄昏れてんなー」
振り返れば、ここ最近見なかった顔があった。九割近いクラスメイトが受けている補習に、初日からただの一度も来なかった残りの一割にあたるクラスメイト、藤田龍だ。基本的にインドアな僕とは違い、藤田の顔はこんがりと日に焼けている。おそらくこの暑苦しい炎天下の中を、持ち前の運動神経を活かしてサッカー部の活動に勤しんでいるからだろう。ご苦労なことだ。
「べつに、ただの考え事。それより、今日いたっけ?」
「いんや、寝坊して四限目から来たんだよ。昨日で他校との練習試合終わって、今日こそは補習行こうと思ってたんだがなー。疲れすぎて無理ゲーだったわ。遊びの用事だったら絶対寝坊しねーんだけどな」
補習より海とか行ってめっちゃ泳ぎてーよな、と彼は続けて快活な笑顔を浮かべる。スポーツマンらしい爽やかな短髪が風で揺れ、白い歯が日に輝いた。彼が女子にモテるのも頷ける。
なんの縁か、藤田とは高校一年生の時からの付き合いだ。僕のなにがそんなにお気に召したのか、彼はことあるごとに僕に話しかけてくる。その内容は、勉強のことであったり、昨日観たテレビの話だったり、部活のことだったりとじつにどうでもいいことばかりだった。彼は僕を遊びに誘うわけでもなにかを無理強いするわけでもなく、ただ時おり絡んできては適当な話をして去っていくだけだ。だから僕も、取り立てて敬遠することはしていなかった。
今日もおそらくそうだろうと予想しながら、僕は机の横にかけてあったコンビニの袋からサンドイッチを取り出した。
「あ、そーだ。今週の補習の板書、見せてくれよ。一応はさらっとかないと、よっちゃんとか遠慮なく補習の範囲から試験問題出してきそうだし」
僕の前の席に座り、焼きそばパンを頬張りながら彼は手を差し出してきた。ちなみに、よっちゃんというのは先ほど前で野太い声を発していた現文の先生だ。
「いいけど。ただ僕は自分がわかるようにしか書いてないよ」
「とかなんとか言って森川のノートはわかりやすいんだよな~。お、あざす」
彼にノート一式を手渡すと、その場でパラパラと中身を見出した。いくつかのページはスマホで写真を撮り、「やっぱ森川のノートは別格だわー」と調子のいいことを言っていた。僕はそんな彼に何を言うでもなく、二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。
「あれ」
ちょうどそこで、彼は不思議そうな声をあげた。
「なに」
間違いでもあったのかと思って目を戻せば、そこには昨日の日付だけが書かれたほとんど真っ白なページがあった。
「昨日、現文なかった感じ? プリント配られたとか?」
「あ、いや……」
そういえば昨日は、紬未の遺書を拾ってしまって補習に集中できなかったんだった。返事に窮していると、彼は何かを感じ取ったのか、他の科目も同様の有様であることを目にしてニヤリと笑う。
「珍しいな、森川。もしかして、恋にでも落ちたか?」
「は?」
「いや、森川のことだから全授業居眠りってことはないだろ。最初のところはちょこっと書いてあるから出席はしてたんだろうし。ならこれは授業に集中できなくて何か考え事をしてたら授業がいつの間にか終わってましたってパターンだ」
鋭い。後半の推測なんか、まさにそのままだ。まあ前半はてんで見当違いの推測だが。
得意顔で推理を披露する彼に僕はやれやれと首を振ってから、適当な言い訳をするべく口を開いた。その時だった。
「やっほー! ソウくん!」
ほとんどクラスメイトがいなくなった教室に、明るい声が飛び込んできた。残って昼食を食べていた数人のクラスメイトは何事かと振り返る。けれど、当の本人はまるで気にした様子も他クラスに来て緊張している様子もなく、一直線に僕のほう目掛けて歩いてきた。
最悪だ。
僕は心の中で頭を抱えた。
「え、久空? なんで?」
「あれ、藤田くんじゃん。えーもしかして二人でお昼食べてる? 私もいれてよー」
どうやら二人は面識があるらしい。紬未は近くに来ると、机をひとつ僕の机にくっつけお弁当を広げた。彼女の肝臓を気遣ってか、その中身は随分と健康的なもので占められている。って、そんな現実逃避をしている場合じゃない。
僕がおそるおそる藤田のほうへ視線を向けると、案の定困惑に口元がひくついていた。
「え、え? だからなんで久空が? 森川と仲良かったっけ?」
「んふふふーどうだろーねー?」
藤田の問いに、紬未は悪戯っぽい笑みを僕に向けてくる。マジで勘弁してほしいんだが。
「仲良くないって。ちょっといろいろあって、このあと勉強教えることになってるだけ」
「ああ、もしかしてこのノート見られたとか? わかりやすいもんなー森川のノート」
「そうそう、そんな感じ」
僕の言葉を都合よく解釈してくれたようで、藤田の表情に浮かんでいた困惑の色が小さくなっていく。僕が胸を撫で下ろしかけたところへ、肩に軽い衝撃があった。
「パーンチ。ひどいよソウくん! 仲良くないなんて! 私はこんなに仲良くなりたいって思ってるのに!」
「いきなりなに言ってんの?」
「そのままの意味ですー! ソウくんは私と仲良くなりたくないの?」
「なりたくない」
「ひどっ。傷ついた。あーあ、これは後でジュース奢りだなあー」
「奢らないし、話がややこしくなるからちょっと黙っててほしいんだけど」
「いや、やっぱりお前らなんかあるだろ……あ」
そこで、藤田はなにかに気づいたようにポンと手をたたいた。嫌な予感に、僕は思わず「なにか?」と尋ねる。すると藤田は、紬未に見えないよう僕の補習ノートのほぼ白紙のページを見せてきた。
「昨日のこれの原因、だろ?」
ささやき声で、視線だけで紬未を差しながら、訊いてきた。
そこから先は不覚だった。彼の意図とは違うにせよ、一応は図星だった指摘に、僕は一瞬言葉に詰まってしまった。それだけで、彼は急に核心に迫ったとばかりに口元をほころばせる。
「やっぱりそうかー。ふーん。なるほどなるほどー」
「いや、待て。違うぞ。なにを勘違いしてる」
「いいっていいって。いやーでも普段誰とも関わろうとしない森川がねー。そうかそうかー」
「違うって。やめろ、その顔」
「ちょっとー二人してなにひそひそ話してるの!」
ベシッとなにかで頭をはたかれ、僕らの秘密の会話は中断した。紬未を見れば、その手にはぐるぐる巻きにされた僕の補習ノートが握られていた。
「なに勝手に他人のノートを武器にしてるんだよ」
「武器にされたくなかったらなに話してたか教えてよー」
「森川、ここはもう教えちゃうか?」
「絶対要らないこと言うだろうから、藤田も黙っててほしいんだけど」
僕が指摘しては紬未との押収が始まり、そしてまた藤田に生温かい眼で見られる。そんなことが、昼食中に幾度となく繰り返された。
いつもなら過去の出来事が脳裏をよぎり、僕は無理やりにでも一歩引いていたやりとりだった。
けれど、その時の僕にはまるで余裕はなく、なされるがままに翻弄されていた。
そうして。教室にいるのが僕らだけだと気がついたのは、随分とあとになってからだった。
*
「いやー楽しかったね!」
未だ陽の高い青空の下、バス停まで向かう道中で、紬未は笑いかけてきた。僕はそんな晴々とした彼女の横顔に怪訝な視線を向ける。
「それは紬未と藤田だけで、僕はだいぶ疲れたよ。もう勘弁してほしい」
結局昼食のあと、何の因果か紬未だけでなく藤田も交えて三時間程度勉強していた。普通、三時間も勉強すれば補習の復習くらいは終わる。それなのに、実際は予定の半分も進まなかった。まったく、何のための勉強なのか。
「でも、ソウくんの教え方すっごく良かったよ! おかげで夏休み明けのテストはぐーんと良い点数がとれそう!」
「あれだけの勉強でそんな簡単にとれるものでもないと思うけど」
「もちろん自分で勉強もするよ。でもその時に、ああここソウくんが教えてくれたとこだーって思い出せるの。それだけで、やる気も理解度も段違いなのです」
にへへ、と紬未は嬉しそうに笑う。
本当に、どこまでもマイペースな女の子だ。今日は藤田がいたこともあって勉強だけで終わり、謎解きについては後日に延期ということになった。彼女には時間がないはずなのに、なんとものんびりしているものだ。
それに、彼女は大病を患っている。余命いくばくもないというのに、どうして勉強なんてするんだろうか。大学進学とか将来の夢とか、自分の未来に繋げるための勉強なんて、しても虚しくなるだけじゃないのか。
「あ、さてはソウくん、まーた変なこと考えてるでしょ?」
「え?」
突然の指摘に、僕は口籠った。それを肯定と受け取ったのか、紬未は言葉を続ける。
「ね、なに考えてたの?」
「いや、その……余命宣告されてるのに、なんで勉強してるのかなって」
「ああ!」
ためらいがちに訊いた僕の言葉に、紬未は得心したように手を叩いた。
「だって、急に成績が落ちたら友達とかから心配されそうじゃん? 私は楽しく毎日を過ごしたいから、そんな余計な心配はかけないようにしたいんだ」
「な、なるほど」
意外なほど真面目な返答に僕はたじろぐ。楽観的なように見えて、案外いろいろと考えているらしい。
ただやはり、「どうしてそこまでして?」と思わずにはいられなかった。
そこまでして楽しい毎日を過ごしても、結局最後は悲しくなるんじゃないだろうか。もっと楽しい毎日を過ごしたかったとか、もっと生きていたかったなんて執着が増えてしまうんじゃないだろうか。楽しい日々を過ごせば過ごすほど、楽しい思い出を作れば作るほどそんな反動も大きくなってしまうんじゃないだろうか。それならいっそのこと、楽しい思い出なんて増やさないほうがいいんじゃないだろうか。
……ああ、ダメだ。
僕は卑屈になっていた気持ちを切り替えるべく、小さく首を横に振った。やはりどうも僕は、この手の話になると考えすぎてしまうらしい。
チラリと脳裏に過ってしまったいつかの記憶もまとめて掻き消し、僕は再び前を見る。すると、そこへ紬未がひょっこりと顔をのぞきこんできた。
「ねっ、ちょっと寄り道していかない?」
「寄り道?」
「うん、喉乾いちゃって」
彼女が指さすほうへ目を向けると、公園の入り口付近に自動販売機があった。ちょうど僕もいろいろと腹の底に飲み込みたいところだったので承諾した。
「おーいろいろあるねー。ね、ソウくんはなに飲む? 勉強教えてくれたお礼に奢ってあげるよ」
「あれ、てっきり僕は奢らされるものだと思ってたのに」
「もうー、お昼ご飯の時のこと言ってるの? 冗談に決まってるじゃーん」
ニヒヒとなにやら企んでそうな顔で彼女は笑う。じつに悪戯っぽく、そしてどこか子どもっぽい。そんな笑顔だった。
なんだか見慣れてしまったなと、唐突に思った。そんな自分の感情に驚いて、僕は慌てて彼女から視線を逸らした。
「えと、奢ってくれるんだっけ。じゃあ、お茶で」
「おっけー。私もそれにしよー」
僕が適当に選んだ飲み物を、紬未は二本購入した。そしてそのうちの一本を彼女は僕に手渡してきた。
それから僕らは近くにあった適当な東屋の中に入り、ベンチに腰掛けた。僕がひと息ついている間に、彼女はいち早くペットボトルの封を開いてお茶を喉に滑らせた。
「ぷはぁ、生き返ったーー」
じつに美味しそうに、紬未は五分の一程度を一気に飲んだ。そんな彼女の様子を横目に、僕もひと口お茶を口に含む。
確かに美味しい。夏の熱さで火照った身体に沁み渡っていく。
けれど。どうも彼女の飲んでいるお茶とはべつのものなんじゃないかと思えてならなかった。
「それにしても、やっぱり小学生とか多いねー。夏休みって感じだなあ」
もうひと口お茶を飲んでから、僕は彼女のつぶやきに頷きを返す。
「そうだね。この前行った犀川沿いの公園は、意外といなかったけど」
「あはは、確かに。この辺りは住宅街が多いからなのかな。私も昔はよく遊んだなあ」
「この公園で?」
「そうそう、友達とね。あ、そういえば噂の宝物を一緒に埋めた男の子とも前を通ったっけ」
「前を?」
急に話題に挙がった「件の男の子」に、僕は思わず訊き返した。
「うん、宝物を埋めに行く途中だったかな。あんまりよくは覚えてないんだけど。確か通った気がするし、一緒に遊ぼうって約束もした気がする」
どこか懐かしむような視線を、紬未は公園の砂浜で遊ぶ子どもたちに向けていた。なんとなく、僕も同じほうを見る。
「まあ結局、遊べなかったんだけどね。それでも、そんな約束をした当時の私は嬉しかったと思うし、こうしてその時を思い出せてる今の私も懐かしくて嬉しいし、これもいい思い出だよ」
「ふうん」
僕は素っ気なく相槌を打ってから、ペットボトルのお茶を勢いよく喉に流し込んだ。
「ねっ、今から一緒に遊ぼっか?」
「……っ、は?」
いきなり、唐突な提案が飛んできた。思わずむせそうになるも、すんでのところでこらえた。
「小学生の子たちに混ざってさ。どう?」
「絶対に嫌だ」
「えーけち」
「けちというか不審者になるよ、このご時世にそんなことをしたら」
本当に、なにを考えているんだろうか。今の提案は僕じゃなくても拒否するだろうに。
理解不能とばかりに紬未を見やれば、またどこかで見たように唇の端を吊り上げている彼女がそこにいた。
「じゃあ、ふたりで遊ぶならいいってことだ」
「は?」
「ほらほら、こっちきて!」
紬未は立ち上がるや、僕の腕を引っ張って東屋から連れ出した。転びそうになりつつも手を引かれてやってきたのは、公園の隅に忘れ去られたように置いてあるブランコだった。
「はいっ、ということで、ほら! 一緒にやろ!」
「いや、あのな」
「うんうん、わかったから。とりあえず横に座って座って」
不満を垂れる隙もなく、紬未は半ば強引に僕をブランコの右側に座らせた。そして彼女は左側に座ると、すぐに勢いをつけて漕ぎ始めた。
「あははっ、これこれ! 懐かしい~!」
紬未の動きに合わせて、ブランコの鎖が悲鳴をあげる。キイッ、キイッと軋むリズムに合わせて、彼女のはしゃぎ声も夏空に溶けていく。そこで初めて、太陽が随分と低い位置で僕らを見つめていることに気づいた。
そういえば、さっきもそうだった。教室で一緒に勉強していた時も、僕は他のクラスメイトがいなくなっていることにまったく気づかなかった。
僕も、夢中になっていた……?
「ねぇーー! ソウくんも漕ぎなよーーー!」
そこへ、思考の隙間を縫うように頭上から声が降ってきた。声のほうへ視線を向ければ、夏の日差しに負けないくらい弾けた笑顔が、前に後ろに揺れていた。
「僕はいいよ」
「えーなんで」
「なんででも」
いつものように素っ気なく返すも、相変わらず紬未はいつも通り上擦った声で僕の名前を呼ぶ。
「ソウくんってほんと頑固だーーー!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すよ」
視線を前に戻す。軋んだ鎖の音は絶えず聞こえているけれど、最初は悲鳴だと思っていたその音がなんだか喜んでいるように聞こえてきた。ずっと忘れられて、漕がれていなかったブランコが、久しぶりに乗り手を喜ばせようとはしゃいでいる。そんな音に聞こえてきた。
「ねえー、ソウくんさー」
「なんだよ」
なぜかイライラとしてきて、僕は語気を強めて訊き返す。
「どうして、そんなに人を避けるのー?」
胸のあたりが、キュッと締め付けられた。どこも異常はないはずなのに、次第にズキズキと痛みが増してくる。そしてすぐに、それは痛みではなくて僕の心臓の音なのだと認識する。
「……べつに、避けてないけど」
やや間があって、僕はやっとそれだけを言った。なんとも説得力のない言葉だった。
「ふうんー?」
もっとも、訊いてきた当の本人は関心とも無関心ともつかない抑揚で相槌を返してくる。その反応に僕はさらに苛立たしさが増してきて、口を開く。
「なんでそんなふうに思ったの?」
「えーなんとなく? それに昼の時に藤田くんも似たようなこと言ってたから」
「なんとなくでそんなこと考えないと思うけど。それに藤田の言っていることも適当だよ。今の僕はこうして君と一緒にいるし、昼だって見た通り藤田と昼食を食べてた。だから、べつに人を避けているわけじゃない」
いやに饒舌に語った僕の言い訳を、紬未はブランコを漕ぎながら黙って聞いていた。それから今度は彼女のほうに沈黙が下り、ブランコの鎖の音が十回くらい繰り返されてからようやく彼女は言った。
「避けてないならいいんだけどー。なんていうか、今のソウくんは昔の私に似てるとこあるんだよね」
「え?」
ギシッとひときわ大きく鎖が音を立てた。
「肝臓の別名って、知ってる? 物言わぬ臓器、沈黙の臓器って言われてるんだよ。本当にその名の通りで、見ての通りこんなに死期が近づいててもほとんど身体に異常はないんだ。栄養の吸収力が弱いからか、食欲過剰であるくらいなの。昔は今以上に何事もなくてね、それが、余計に怖かった」
空は、茜色に変わっていた。蝉の鳴き声も、どこか遠い。
「だから昔の私は、自分が早くに死んじゃうってことがわかってから、ずっと泣いてばかりだった。痛みも苦しみもないのに、私の中には死に繋がる病が潜んでいる。まるで、音も気配もなく死神が私に近づいてきて、ある日突然その大鎌で私の命を刈り取ってしまう。そんな怖い夢ばかりを見ていてね、いつしか誰とも仲良くしたくないって思うようになったの」
鎖の音が彼女の呼吸に合わせて響く。また、それは悲しそうな音色に戻っていた。
「絶対に大丈夫ってずっと言ってくれてたお父さんやお母さんに反発した。たくさん泣かせたし、たくさん八つ当たりをした。学校でも誰とも話さなかった。無視し続けたし、ずっと下ばかり向いてた。周囲の子たちからは暗くて自分勝手な子どもだって思われてた。でも私はそれでいいと思ってたし、そうあるべきだと思ってた。この前ソウくんが言ってくれたように、どうせ友達ができたってすぐにお別れするんだから、後で悲しくなるような、執着しちゃうような大切なものなんて作りたくなかったから」
クスリと彼女が笑った気がした。でも、彼女の顔を見ても、笑っていなかった。
「そんなふうに荒んだ毎日を送っていた時に、私は彼に出会って、一緒に宝物を埋めた」
「え」
吐息みたいな掠れ声が、僕の口から漏れた。当然、彼女は気づいていない。
「その時から、私は思うようになったの。楽しい毎日を送ってやろうって。病気なんて関係ない。私は私らしくやりたいようにやって、最期のその時までずっと笑っていようって。思い出を胸に、ずっと未来を見ていようって。思い出は、希望の種なんだって」
また、彼女が笑う声が聞こえた。もう一度彼女のほうを見ると、今度は楽しそうに笑っていた。
「もちろん、ソウくんがそこまで人を敬遠しているとは思ってないよ。ただ、なんでかな。時々ソウくんの表情が幼い頃に鏡で見た私の表情と似てて、とても辛そうに見えたんだよね。ということで、たまには私のほうから失礼な質問をさせていただきまし、たっ!」
そこで、あろうことか彼女は勢いよくブランコの上から前へと跳んだ。寂し気に公園を照らしていた夕陽を横切り、少し離れたところにある砂地へと着地する。じつに見事な、見惚れるほどの大ジャンプだった。
「へへへ、上手くいったー! ソウくんもやってみる?」
「いや、僕は」
夕焼けを背景に、にへらと笑う紬未がとても眩しかった。鎖を握る掌には、汗がにじんでいる。
「まあ、これは結構コツがいるからねー。練習してからでいいよ」
「しないけど」
「あはははっ!」
朗らかな、高い笑い声が茜色の夏空に飛び立っていく。それはとても心地よく、僕の耳に馴染んでいく。
「ねぇ、ソウくん」
「え、なに?」
「楽しいときは、楽しいでいいんだよ」
息を呑む。
風が舞った。吹き荒ぶ風は彼女の髪をなびかせ、僕の全身を震わせた。
まいったな。
僕は心中で、苦笑せざるを得なかった。
僕の予想は、不運にも当たっていた。
だから僕は、彼女に近づきたくなかったのだ。
冷めた眼差しで宝物探しの行く末を見守り、適当に過ごしていくつもりだったのに。たった一日で、こんな気持ちになるんだから。
ああ、そうか。
昨日も今日も、昼も今も。
不覚にも僕は、楽しかったのか。
楽しんで、しまっていたのか。
「…………紬未ほど楽しんでいる人は、稀だと思うけど」
自覚するのがなんだか悔しくて。そして、怖くて。
いくばくかの沈黙のあと、僕はやっとそれだけを返した。
脳裏には、相変わらず嫌な記憶がこびりついている。けれど。
「わーーーーーっ! やっと私の名前をソウくんから呼んでくれたーーーー! 感激ーーっ!」
跳ね回って喜ぶ紬未の声に、それも掻き消されていって。
「え? 呼んでただろ、昨日から」
「呼ばれてないですー! 最初の一回だけですー! 心の中で呼んでたとしてもそれは聞こえてないのでノーカンですー!」
「数えてたのかよ」
むくれて僕に詰め寄ってくる紬未の表情に、僕は思わず笑っていた。
一日が終わろうとしている夕暮れの中で、僕らはひとしきり笑い合っていた。
既に道路わきに設置された気温計は三十三度を超えており、朝の天気予報で言っていた本日の予想最高気温は三十五度だという予報は当たっていそうだと確信する。いや、逆か。これからさらに太陽はその厳かな高度を上げていき、道行く人々を見下ろしながら容赦ない陽光を浴びせてくるだろう。となれば、予想最高気温三十五度なんてものは軽々と超えてしまうに違いない。やはりいつものごとく、今日の天気予報は外れそうだ。
頬から流れ落ちる汗を拭い、すでに半分沸いた頭で心底どうでもいいことを考えながら、僕は傾斜のやや急な坂を登っていく。体力のほとんどを使い切って登ったあとはこれ見よがしに誘惑してくるコンビニの横を抜けて住宅街に入り、日陰を見つけてしばらく歩けば高校に着く。高校一年生の時から既に一年以上使っている通学路だが、この夏の期間は特にしんどい。
少しでもそんな暑さやしんどさから意識を逸らそうと、僕はぼんやりとした頭で昨日のことを思い返していた。
結局、僕はあの失礼で強引で頑固で底抜けに明るい久空さんからの頼みを断った。正確には、また誘いに行くという捨て台詞を残させて、その日は勘弁してもらえた。つまるところ、延長戦に持ち込まれたわけだ。
「ほんとなんなんだよ、あいつ」
無意識に文句が口をついて出る。本当に連絡先を奪われなくて良かったと思った。もし手に入れられようものなら即座に延長戦の火ぶたが切って落とされ、僕は体力と気力負けを喫していたかもしれない。いくら押しに弱いとはいえ、そこばかりは絶対に死守しないといけない。
そしてなによりの疑問は、なぜ宝物探しをする相手に僕を選んだのか、だ。
僕は過去の事故のこともあって、他の人となるべく関わりたくない。というか親しくなって楽しい思い出を作りたくない。楽しい思い出をつくるとあの日の出来事がフラッシュバックして、いつかそうした関係も壊れてしまうんじゃないかという恐怖に襲われる。動悸とかめまいといった症状はないにしろ、僕にとって少なからずあの日の出来事はトラウマになっている。
そんな個人的事情もあって、説明はしていないにせよ僕は断固として久空さんの申し出を断っているというのに、なぜあそこまで食い下がってくるのだろうか。普通は何度か断られたら諦めるものじゃないだろうか。
彼女は気に入っているからと言っていたが、なにをどう考えても奇妙すぎる。僅か数時間しか過ごしていない僕のどこに気に入る要素があったのか。木から落ちてきたところを心配したから? いや、普通誰だって人が木の上から落ちてきたら心配するだろう。人として当たり前の気遣いだ。
なら、宝物の地図探しをしっかり手伝ってくれたから? 一番可能性としてはありうる。彼女の身の回りにはそういうことに興味のありそうな人がおらず、頼める人がいなかった。そこへたまたま知り合った同じ高校の同学年の人に頼み込むと手伝ってくれることになり、紆余曲折があるにしろ目的のものが見つかるに至った。久空さんにとってみれば自分の周囲にはいないタイプの人なんだろう。もう少し話してみたいと思った。なるほど、これだな。
「原因は僕の押しの弱さじゃないか……」
思わず天を仰いだ。夏休み二日目の朝は、昨日と同じくきれいに晴れ渡っている。
ただそうであるならば、その原因を反省して次に活かすまでだ。つまりは、引き続きなにがなんでも彼女のお願いは断る。断り続ける。流れや押しに流されない。下着を見たのがどうのと言われても動揺しない。これに尽きる。
あとはそう。なぜこの高校二年生の夏休みに、宝物の地図探しや宝物探しをしようと思ったのか、もわからない。彼女自身も子どもじみたものだと言っていたし、自覚はあるんだろう。普通なら、そんな小さいころに作った宝物の地図なんて忘れているか失くしているか捨ててしまうかのどれかだ。それを見つけ出して、しかも現地まで探しに行こうとするなんて、相当大事なものでも埋めたんだろうか。そのことを、思い出しでもしたのだろうか。
あるいは、とても楽しい思い出で、夢にでもみて懐かしさのあまり行動に移したのだろうか。
「…………ふう」
まあ、正直その理由なんてどうでもいい。
だって僕は、彼女の手伝いはもうしないと決めたのだから。
思考の沼から上がろうとした時、ちょうど僕は件の歩道を通っていた。少し先に立っているのは、昨日久空さんが落ちてきた街路樹。常緑樹であるその木は、季節問わずいつも新緑の葉をつけている。今日も今日とて、生温かい南風に揺らされて微かな葉擦れの音を鳴らしていた。
思えば、昨日は本当にびっくりした。まさかこの木の上から、隣のクラスの女子生徒が降ってくるなんて想像もしな……
「え?」
変な感慨に浸ろうとしていたその時、がさりと木の枝が揺れた。かと思えば、白と黒の影がふわりと上から降ってきた。
「あれ、誰かと思えばソウくんじゃん」
白は女子の制服のブラウス、黒もとい紺色は女子の制服のスカート。すなわち常緑樹の上から降ってきたのは制服姿の女子生徒。朝から、というか一日を通して木の上に登ろうとするアクティブで非常識な高校生なんて、きっとこの県内を探しても一人しかいない。
「久空、さん……」
僕がため息とともにその名前を呼ぶと、目の前で髪をなびかせている少女は嬉しそうに相好を崩した。
「おはよ、ソウくん。昨日ぶりだね」
「ああ、ほんとに。というか、なに。なんでまた木の上から? もしかして待ち伏せしてたの? わざわざこんな朝に? 木の上で?」
次から次へと疑問が口から飛び出る。それはもう反射的に。僕の続けざまに放った質問攻めに、さすがの久空さんも驚いたように目を見開いた。
「ええ、ソウくん。その程度の驚きなんだ! これは多かれ少なかれ私がいることを予想してくれてたのかな? そうならちょっと嬉しい!」
違った。まったくべつの方向からの返答をされた。さすがの僕も辟易として肩を落とす。
「あのな。そんなわけないだろ。ただ単に少しばかり耐性がついただけだ。というか、質問に答えろ」
「もう~相変わらずせっかちなんだから。残念ながら、私がここにいたのは君を待ってたわけじゃなくて、ちょっと探し物をしてたからだよ。残念ながらね」
「べつに残念じゃないけど。てか、探し物? またなにか失くしたのか?」
「あはは、まあそんなところで」
誤魔化すように後ろ頭をかく彼女に、僕はまた小さくため息をついた。呆れてものもいえない。どこまでも探し物が好きな少女だ。
「ちなみにダメ元で訊くんだけどさ、この辺りでなんか紙切れとか見てないよね?」
「紙切れ? 見てないけど、なにが書いてあるんだ? プリントかなにか?」
「んーん! 見てないならいいんだ。ありがとね!」
それだけ訊くと、意外にもその探し物好きな少女は小走りで学校のほうへ走り去っていった。もっとあれやこれやと昨日の続きやら無駄話やらの攻撃に備えていただけに、なんだか肩透かしをくらったような気分だ。
そこでふと思い当たる。これはもしかしてあれか。押してダメなら引いてみろ、というやつか。
もしそうなら、まんまと僕は彼女の術中に陥っていることになる。危ない危ない。
僕は再度気を引き締め直すと、彼女のあとに続いて高校へ向かおうと一歩踏み出した。
本当に、何気なくだった。
何気なく僕は、昨日彼女が尻もちをついていた生垣へと視線を移していた。
そこは僅かに角の枝が折れているだけで、思いのほか目立たなくなっていた。きっと当事者でなければわからないほどに、普通だった。
そんな緑色が生い茂る隙間に、ちらりと白いものが見えた。その色ゆえにドキリとしたのはほんの一瞬で、すぐにそれは一枚の紙片であることがわかった。木の根と生垣の隙間に、隠れるようにしてそれはぴらぴらと揺れていた。
もしかして、これが彼女の探していた失くしもの?
丁寧に、僕はそれを拾い上げる。誤って枝なんかに引っかけて彼女に攻める隙を見せようものなら本末転倒だ。
抵抗もなくスッと僕の手元に来たその一枚の紙片を、僕は何の気はなしに開いて、驚愕した。
『遺書』
罫線しかない簡素で真っ白な便箋の一行目は、そんな言葉で始まっていた。
*
「はい、ここはですねー。未然連用終止連体仮定命令の四つ目、連体形ですねー」
チョークの音を規則的に鳴らしながら、いやに声の高い古典の男性教師は解説を述べていた。開け放たれた窓からは時おり南風が教室に吹き込み、ぱらぱらと手元のノートを勝手にめくっていく。
みんなが必死に元のページを探しているさなか、僕はぼんやりと窓の外を流れるうろこ雲を眺めていた。くるりと手元で回すシャーペンは未だに、そのノートに一文字も黒鉛を落としていない。
くるりくるりとシャーペンの感触を確かめるように回すたびに、僕の頭の中では彼女の顔がちらついていた。
『遺書
これを読んでいる時、きっと私はもうこの世にはいないでしょう。
先天性の肝臓疾患があると判明してから約十年。私は必死にこの病気と闘ってきました。
二十歳まで生きられないかもしれないと言われ、高校一年生の秋には病状が悪化して余命が二年と宣告されて以来、泣いてしまうこともたくさんありましたが、どうにかここまで生きることができました。それはひとえに、家族や友達、私を支えてくれたみんなのおかげです。
本当に、ありがとう――』
今朝。僕は生垣の影で一枚の便箋を拾った。
それは「遺書」というワードから始まり、「肝臓疾患」、「余命が二年」など、およそ僕の日常生活には縁のない言葉がたくさん綴られていた。所々には文字が歪み滲んだような跡もあり、書き手の押し殺すような悲しみがひしひしと伝わってきた。
ただ、僕の心を最も大きく揺れ動かしたのは、文末にあった名前だった。
『久空紬未』
最初は、見間違いかと思った。
けれど、何度見返しても文字が変わることはなかった。
次は、同姓同名である可能性を考えた。
けれど、僕の十七年間という人生において、「久空」という名字や「紬未」という名前に出会ったのはたった一度きりだった。
最後は、悪戯かもしれないと推測した。
けれど、昨日の必死に頼み込んでくる姿勢や、この年齢になって子どものころの宝物の地図を探し出して宝物を見つけにいこうとする行動、そして今朝の探し物をしている様子を顧みると、とても悪戯だとは思えなかった。そればかりか、それらすべての行動が如実に、遺書に書かれている内容の裏付けをしているようで、妙に納得してしまっている自分がいた。
つまりは、僕が昨日会った木の上から落下してきた少女――久空紬未は、肝臓の病気により余命二年と宣告されている。
これは、紛れもない事実のようだった。
「ふう……」
まあ、だからなんだというのか。
僕はべつに彼女と友達でもなければ恋人でもない。昨日たまたま数時間をともに過ごした程度の仲で、ただ隣のクラスにいる同学年の生徒というだけだ。さらには、僕はこれ以上彼女に関わる意志も理由もない。
加えていうならば、この遺書によってさらに僕は彼女から距離を置きたくなった。遺書の内容に同情し、残り短い時間をせめて彼女のやりたいようにさせてやりたいという思いはないわけではない。けれど、そこに僕という存在を巻き込まないでほしかった。
なぜなら、僕は悲しみに変わる楽しい思い出なんて作りたくないから。
余命僅かな彼女は、近い将来必ず死を迎える。少なくとも僕よりは先にあの世へ旅立ってしまう可能性が高い。
そんな彼女と一緒に宝物探しなんてしたらどうなるか。
人懐っこくて、明るくよく笑う無邪気な彼女と過ごして、まったく楽しいと思えない思い出ばかりが増えるだろうか。一分一秒一瞬たりとも、楽しいと思わないだろうか。
正直、自信がない。彼女の笑顔にほだされて、多少なりとも楽しいと思ってしまえば、それは彼女が亡くなった時に悲しみへと変わる。楽しかったな、なんて微笑をたたえて思い出せるのは時間が解決してくれた遥か先の話で、近い将来には必ず悲しくなる瞬間が来る。そしてその時には、まず間違いなく僕の過去もフラッシュバックしてきて、より悪化する可能性だってある。
いつか失い、悲しみとともに思い出すことが約束されている楽しい思い出なんて、今の僕にとっては天敵以外のなにものでもない。もっとも忌み嫌うべき最悪の代物だ。
つまるところ、彼女と縁を切るなら今のうちだ。
幸いにも、僕はまだ彼女と深く関わっていない。僕がこの遺書を見てしまったことを彼女は知らないし、宝物探しだって拒否している最中だ。押しに弱い僕が、彼女に押し切られてしまう前にこの遺書の内容を知れたことは、罪悪感こそあれ幸運だった。
遺書、元の場所に戻しとかないとな。
見つけた当初、心に少なくない衝撃を受けた僕は、唐突に頭上に鳴り響いた予鈴に驚くばかりか、焦るあまりその遺書を持ってきてしまっていた。これを早々に元の場所に戻して、素知らぬ顔で彼女のお願いを容赦なく断り続ければ、いずれ彼女は諦めるだろう。良心は痛むけれど、こればっかりは仕方ない。
僕が次の行動指針を決めたところで、本日最後の補習終了を告げるチャイムが教室内に響き渡った。夏期補習中は授業後のホームルームもないのでそのまま解散だ。
僕は結局なにも板書することなくほとんど真っ白で終わったノートや課題の問題集を鞄に突っ込むと、補習後の解放感に浸っているクラスメイトたちの間をすり抜け、一目散に生徒玄関を目指した。
おそらく、久空さんはもう一度この遺書を探しにあの街路樹の元へ行くはずだ。さすがに自分の病気やら余命やらが書かれた紙を簡単に諦めることはしないだろう。となれば、彼女が再度探しに来るまでにこの遺書を戻しておかないといけない。
僕は四つ折りにされた彼女の遺書がポケットにあることを確かめつつ、急いで靴を履き替えて外に出た。幸いにもまだ他の生徒の姿はなく、僕が元の場所に戻すところを見られる心配もなさそうだった。
とはいえ余裕はない。僕は足早に校門を抜け、暑く焼けた歩道の上を歩いていく。
ごめん、久空さん。
偶然とはいえ、勝手に中身を見てしまったこと。
余命わずかであることを知ったにもかかわらず、自分の気持ちを優先して彼女のお願いをきいてあげられないこと。
心の中に漂う罪悪感を少しでも軽くしようと謝罪の言葉を口の中で転がし、僕はようやく辿り着いた件の街路樹の根本に遺書を差し込んだ。
「あーあ。まさかソウくんだったとはねー」
突然、澄んだ声が僕の耳を衝いた。今一番、聞きたくない声だった。
心臓が飛び出るんじゃないかというくらい驚いて、僕は反射的に木の上のほうを見上げた。
「いやいやいや。さすがにいつも木の上にいるわけないでしょ」
どこか小馬鹿にするような口調で発せられた声は、上方ではなく後方から聞こえてきた。振り返れば、隣の街路樹に久空さんが寄りかかっていた。
「なんで、ここに?」
「なんでって、補習サボってそれを探してたからに決まってるじゃん」
くつくつとこらえるように笑う彼女は、小さく勢いをつけて街路樹の影から跳び出した。
「それでその紙切れ、いつ拾ったの?」
「……今朝」
「中身は? 読んじゃった?」
「…………」
もう逃れられないと悟った僕は、観念してこくりと頷いた。すると彼女は、それとわかるほどに眉を下げて、今度は困ったような笑みを浮かべた。
「……そっかあー。じゃあ、私の病気とか余命のこと、知っちゃったんだね」
彼女は僕の手から遺書を抜き取ると、昨日までと打って変わって静かな声を口から漏らした。
僕は、なにも返せなかった。
それから僕は、久空さんに促されるがまま坂を下っていた。
前を歩いているのは彼女で、僕は後ろ。しばらくの沈黙のあと、「ついてきて」と言われたっきり、僕たちの間に会話はなかった。僕もなにを話せばいいのかわからなかったし、さすがに逃げることもはばかられたので、大人しく無言でその背中を追うことしかできなかった。
やがて辿り着いたのは、誰もが知るファストフード店だった。店内に入るや、彼女は窓際の一番奥にある目立たない席を指差し、「先に座ってて」と僕の顔を見ることなく言った。僕は素直にそのボックス席に座ると、これからどう謝ろうかとようやく作戦を練り始めた。けれど、注文は思った以上にスムーズに進んだらしく、その作戦が形を帯びる前に久空さんはトレーを持って僕の向かい側の席に腰を落ち着けた。
「え」
そこでやっと、僕は声を発した。とりあえず開口一番にとにかく謝ろうと思っていた意志とは関係なく、その声は僕の口から漏れ出した。
なぜなら、目の前のテーブルに置かれたトレーの上には、それはそれは多くのハンバーガーやらポテトやらジュースやらが陳列していたからだ。
「好きなの食べていいよ。私の奢り」
「え、いや、なんで?」
「だってお昼ご飯、まだ食べてないでしょ?」
そういう意味じゃない。そう思ったが、じつに不健康そうな香ばしい匂いが僕の鼻から口、そして食道から胃のほうへと降りてきて、情けなくもお腹がぐうと音を立てた。僕は急激に熱くなった頬を誤魔化すべく、一番近くにあったチーズバーガーを手にとり口へと運んだ。結局、僕はチーズバーガーとフライドポテトのミドルサイズ、そしてコーラをご馳走になった。余命わずからしい彼女はテリヤキバーガーにチキンバーガー、ナゲット、フライドポテトのラージサイズを食べ尽くし、メロンソーダをチビチビと飲んでいた。ジュースを除いたそれらすべてを胃の中に収めるまで、僕と久空さんの間に会話はなかった。
そうして空になった包み紙を丸め終えると、満を持して彼女は口を開いた。
「うにゃーーーーーっ! なんで私が生きてるうちに遺書を読んじゃうのーーーーーーーっ!」
それはもう僕の肩が跳ね上がるような勢いで彼女は叫ぶと、そのままテーブルの空いたスペースに突っ伏して悶えだした。
「なんでなんでなんでなんでーーー! これを読んでいる時、私はもうこの世にいないでしょう……いるじゃんね、アホーーーっ! もうなに言ってるの私、ほんと最悪なんだけどもう~~~~~っ!」
「お、落ち着いて、久空さん」
幸いにも、僕らが食べ始めたころから店内は混み始めており、今ではかなり騒がしい状態となっていたので店員さんや他のお客さんに不審がられることはなかった。
一方で、完全にシリアスな雰囲気になっていた僕の胸中は、不審を通り越してもはや大混乱と大困惑だった。
「落ち着いていられるかこれがーっ! まだ読まれたのが私のクラスメイトとか友達じゃなくて良かったけども~~~! それでもこれは私が生きてるうちに他人に読まれることは想定してないのーー! 下着なんかより恥ずかしいのーーー!」
「わ、わかった、わかったから」
ふうふうと鼻息荒く肩を上下させる久空さんをなだめ、僕は傍らにあったメロンソーダを勧める。すると彼女はそれを一気に飲み干してしまったので、僕は彼女のご所望通り追加でウーロン茶をふたつ買ってきた。彼女は一杯目のウーロン茶を瞬く間に喉に滑らせ、二杯目のウーロン茶をふた口飲んでようやく落ち着いた。
「お騒がせいたしました」
「いや、とんでもございません」
恥ずかしさをリセットすべく恭しくお互いに頭を下げたところで、彼女はひとつ息をついた。
「まあ、その、遺書に書いたとおりなんだ。私は肝臓に病気を抱えてる。生まれた時から、ね。んで、それが去年の秋に悪化しちゃってることがわかって、私は十八歳までには死んじゃうでしょうってことになった。ちなみに今日みたいな食事はほんとは厳禁だから、内緒にしてねっ」
「サラッと危ないことを言うな。大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫。今日以外は守ってるから大丈夫だよ。今日だけは、特別」
そう言うと、久空さんは半分ほどになったウーロン茶を口に運んだ。特別、という言い方がいやに耳に残った。
「まあそんなわけで、見た目は至って元気な私ですが、近い将来死んじゃうわけです。ということで、再度お願い。宝物探しを、手伝ってくれないかな?」
手にウーロン茶の入ったカップを持ったまま、久空さんは僕に頼んできた。その言い方は昨日までとは違って真剣そのもので、思わず僕は口をつぐみそうになる。
けれど、やはり僕の考えは変わらない。
「……悪いけど、それでも僕は手伝えない。本当に、申し訳ないけど」
「おーおー、また振られちゃった。これはショックだなあー」
「ごめん」
再度僕が頭を下げると、彼女はウーロン茶のカップをテーブルに置いた。
「まあもうちょっと話を聞いてよ。べつに私は、心残りを消化したくてこの宝物探しの手伝いをお願いしてるわけじゃないから」
「え?」
僕が戸惑いの表情で久空さんを見ると、彼女はゆったりと背もたれに体重を預けて言葉を続ける。
「もちろん、少しはその気持ちもあるけどね。でも一番は、最高に楽しい夏休みにしたいから。そのために、私はこの宝物を見つけに行きたいの。みんなとなんら変わらない、ただ楽しい思い出を作りたいんだ」
「楽しい、思い出……」
嫌な言葉に、僕の心がざわざわと蠢き立った。
だけど同時に、ひとつの疑問符も浮かんだ。僕の心を覆い尽くそうとしている黒い感情を追い出すように、僕はその疑問符に飛びついた。
「失礼を承知で、ひとつ訊きたいんだけどさ」
「うん、なに?」
「そんなに楽しい思い出を増やしても、虚しくなるだけじゃないの? あとで思い出して、悲しくなるだけじゃないの? 自分だけじゃない。親とか友達とかも、楽しい思い出が増えれば増えるほど、君が死んだ後に悲しくなるんじゃないの? それでも君は、楽しい思い出を作りたいの?」
矢継ぎ早に投げかけた質問を、久空さんは難しそうな顔をして聞いていた。我ながら意地悪で無礼千万な質問だと思ったけれど、一度口にしてしまうと止まらなかった。
久空さんはしばらく何事か考えていたようだったけれど、やがておもむろに口を開いて言った。
「訊きたいこと、ぜんぜんひとつじゃないじゃん! 四つじゃん!」
「それはごめんだけど、誤魔化さないでよ」
「はいはーい。まあでも、簡単な話だよ。そのとおりだと思うよ。そしてそのうえで私は、楽しい思い出を作りたいの。思い出は、希望の種だから」
「は?」
どこかで聞いたような金言っぽい言葉とともに、彼女は笑みを深めた。困惑と苛立ちが綯い交ぜになって、僕は自然眉をひそめる。
「答えが気になるなら、私と一緒に宝物探しをしてみない?」
言うや否や、彼女はどこから取り出したのか、A3サイズ程度の大きさの一枚紙をテーブルに広げた。色褪せ具合からして、昨日見つけた彼女の言う宝物の地図だとわかった。
その地図に視線を落として、僕は思わず目を見張った。
「これはね、小学校三年生の時だったかな。一日だけ一緒に遊んだ男の子と一緒に作ったものなの。その子と一緒に宝物を埋めて、大人になったら掘り起こしに行こうねって約束したんだ」
「……そうなんだ」
まず目を引くのは紙の左上半分で、そこはなぜか破り取られたようになくなっていた。そして次に、下方に太く真横に伸びている水色の線だ。流れのような曲線も引かれているから、これは川だろう。そしてその上には山があり、中腹あたりには丸印が付けられている。余白には様々な色鉛筆で家々や田んぼ、公園のような絵が描かれており、筆致の異なる落書きらしきものも複数見てとれた。
そう。これは、初めて見るはずの地図。
彼女が小学生の時に作った、お手製の宝物の地図。
それなのに、目の前の地図には強烈な既視感があった。
「……一応訊くんだけど、その一緒に作った男の子は?」
「それっきり、だよ。名前は聞かなかったんだけど私と同い年くらいの男の子で、とっても笑顔が素敵だったなあ」
「……なるほどね」
僕は昨日、初めてまともに彼女と喋ったはずだ。少なくとも、今の僕の中には久空さんのような女の子と喋った記憶はない。あるのは誰かと宝物を隠した記憶と、今目の前に広げられた宝物の地図への既視感のみ。
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
また、いつかの声が頭の中に響く。きっとこれは、僕の声だ。顔の見えない誰かに向かって、満面の笑みを浮かべて話しかけている記憶。
それがいつのことなのかは思い出せない。思い出せないくらい昔のことなんだろう。
でもそうなると、まるで映画や小説みたいな可能性がひとつ思い当たる。
彼女と一緒に宝物の地図を作った男の子というのが、僕である可能性だ。
もちろん、確信はまるでない。子どものころに宝物を埋めたり宝物の地図を作ったりというのは、さして珍しいことでもない。夢で見たのか、あるいはべつの遊びをしていたのか。そんな記憶たちが混ざりに混ざっている可能性だって決して低くはない。だけど。
「ねっ、どう? 私も記憶が曖昧でさ、手伝ってくれる人がいると助かるんだよね。それにこんな身体だし、その事情を知ってくれてる人がついててくれると安心なんだけどなあ~」
「随分と卑怯な言い訳をするね」
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
また、声が蘇る。
それと同時に、少しだけずきりと頭が痛んだ。脳裏に浮かんだ父の笑顔と、血まみれで横たわるその後ろ姿に、僕は小さく首を振って掻き消す。
「え。これでもダメなの?」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
「えっ! じゃあいいのっ!」
一連の僕の所作で、彼女はくるくるくると表情をせわしなく変える。なんとも忙しい人だなと思う。でも、まあ、確かに。
彼女の言うとおり、気になるなら一緒に宝物探しをしてみるのも、ひとつか。
「…………はあ、わかったよ。手伝うよ。でも、無理は禁物だからね」
「やったーーーーーーっ! わーいっ! ありがとう、ソウくんっ!」
「そこまで喜ぶ?」
一応店の中だというのにそのことを忘れてしまったかのような喜びように、僕は堪え切れず苦笑を浮かべた。
「あ、それと! 私のこと、名字じゃなくて名前で呼んでよ! 名字にさん付けで呼ばれるのなんかやだ」
「え、僕もやだ」
「ダメでーす。これは私の遺書を勝手に読んで持っていった罰だから、ソウくんに拒否権はありませーん!」
にひひひっと意地悪な笑い声を彼女はこぼす。宝物を探す口実じゃなくて、ここにその負い目を持ってくるあたり、彼女はかなりの策士らしい。
宝物探しの手伝いを承諾する返事よりも長い沈黙のあと、僕は観念して首を垂れた。
「…………………はあ、わかったよ」
「んふふ、じゃあ呼んで?」
「なにを」
「なーまーえ」
「……つ、紬未」
「ぷぷーっ! 緊張しすぎでしょっ! あははははっ!」
「うっさいな」
どこまでも意地悪で悪戯好きで性根の曲がった悪魔の笑顔に、僕はため息をこぼした。
でも不思議と、嫌な感じではなかった。
紬未は、やけに嬉しそうに長く笑っていた。
*
紬未にこれでもかといじられたあと、彼女の提案で僕たちは先ほどまでいたファストフード店から近くにある有名チェーン店のカフェに場所を変えた。その理由は至って単純。
「わあああっ! これが新作のストロベリーケーキ! すっごく可愛い!」
「可愛い? 美味しそうじゃなくて?」
「美味しそうはもちろんあるけど、なにより可愛い!」
注文した品物を持って席につくや、紬未は上機嫌に叫んでスマホのカメラでパシャパシャと写真を撮り始めた。だから僕は早々に目を逸らして、今度は自分で購入したブラックコーヒーを口に運ぶ。
「あれ、ソウくんはデザート食べないの?」
「うん、僕はハンバーガーで充分。むしろあんなに食べておいてよく入るな。しかもたぶん、それもあんまり食べちゃダメなやつだろ」
「へへへーあたりー」
にへらと彼女は口の端をゆがめて、切り分けたケーキをぱくりと頬張った。ひとくちにしては大きいなと思った通り、彼女はハムスターみたいに頬を膨らませて咀嚼している。
「んふふふ~おいひい~」
「それはなによりだな」
幸せそうな表情でモグモグと口を動かしている彼女を尻目に、僕はもうひとくちコーヒーを飲む。ほろ苦い深みのある香りが、口から鼻にかけてすうっと抜けていった。
本当は止めるべきなんだろう。けれど、この表情を見ているとむしろ彼女にとっては遠慮せず食べたほうが総合的な幸福度合いは高いと思った。残り僅かな余命をこれ以上縮めないために、残り僅かな時間すらも我慢で埋め尽くすことは、きっと彼女の本意ではない。なら僕としては、なにも言わないし関わらない。その一点に尽きる。
僕が無言でいるのをいいことに、紬未はそれからあっという間にストロベリーケーキを平らげた。驚くべき早業、もとい大食い。いったいその細い身体のどこに収まっているのだろうか。
「あー美味しかった! ということで早速、始めてまいりましょうか」
「始める? なにを?」
「作戦会議だよ! 宝物探しの!」
僕がべつの思考に気を取られて聞き返すと、途端に紬未は再び頬を膨らませ始めた。まるで風船みたいだ。
「もしかして早くも忘れてたんじゃないでしょうねー?」
「忘れてもいいの?」
「ダメに決まってるでしょ!」
やはり、逃れることはできないらしい。もっとも、僕は彼女が楽しい思い出をそうまでして作ろうとしている真意を知りたい。矢継ぎ早に投げかけた質問の回答を得られるまでは、彼女の手伝いをしつつなるべく冷めた眼差しで彼女を見守り、無味乾燥とした記憶を生成していこうと思っている。
「さっ、ほら。一緒に考えよ。宝物が埋まってる場所」
そして、もうひとつ。
再び広げられたくすんだ色の紙を見て思う。
このどこかで見た記憶のあるボロボロの宝物の地図は、果たして僕も一緒に描いたものなのかどうか。もしこれが、僕が忘れてしまった楽しい思い出のひとつなのだとすれば、その時、僕は……。
「…………」
「……どう? わかりそう?」
「へ?」
「あれ、埋まってる場所を考えてくれたんじゃないの?」
「いや、まったく」
「こらあー!」
これまたどこから取り出したのか、一枚のプリントを丸めて彼女はペシリと僕の頭をはたいてきた。なんて理不尽な。
「あのな、まだ地図を見せられただけなんだけど。え、この丸印の場所がどこかってこと?」
「そうそう」
「わかるわけないだろ。川に家に山に落書きしか書いてないのに」
「落書きじゃないですー。よく見てくださーい。昔の私とその男の子が書いた謎解きです~」
「謎解き?」
言われて再度よく見てみれば、確かに歪な文字でなにか書かれている。一番読めそうなのは川の絵が描かれている付近にある文だ。
「えーっと……『始まりは、小石のじゅうたんがあるところ』?」
「そうそう! よくできました!」
「なめんな」
今度はあやすように丸めたプリントで頭を撫でてくる紬未。なんともうっとおしい。
「いい加減やめろ。てか、なんだよその紙?」
「え、これ? 私の遺書だけど」
プリントじゃなかった。さっきまで僕が読んでいた遺書だった。
「そんなもんでたたくな、なでるな」
「じゃあ、これの後ろに話し合いの内容メモしていこうよ。それで、わかる? 『小石のじゅうたんがあるところ』がどこか」
「待て待て。メモもするな」
僕の言葉を無視して、紬未は早速遺書の後ろになにやら書き始めた。どうやら、今の彼女にとってその遺書は裏紙としての機能しかないらしい。
どこまでもマイペースな彼女に、僕は呆れつつも言葉を続ける。
「んで、『小石のじゅうたん』だろ。普通に考えたら河原じゃないか?」
「まあ、そうなるよねえ。でもどこの河原なんだろ」
「それは知らん」
僕らの住む金沢市だけでも川はいくつも流れている。石川県内となればなおさらだ。それだけで場所を絞り込むなんて土台無理な話だ。
「まあ、順当に考えるなら住んでいるところの近くとかじゃないのか。そもそも、その男の子とどこで遊んだとかは覚えてないのか?」
「んー残念ながら、遊んだ記憶はぼんやりあるんだけどそれがどこなのかはさっぱり。私の住んでるところの近くでそこそこ大きな川なら浅野川とか犀川になるけど」
「じゃあ、とりあえずそのどちらかという仮説を立ててみるしかないんじゃないか」
彼女の遺書の裏面に書かれた話し合いのまとめを眺めながら、僕はやっつけ気味に言った。こういう時は星の数ほどある可能性を考えるよりは、いくつか出てきた可能性を仮置きして思考を進めるに限る。
「確かに、そのほうがずっとあれこれ考えてるよりいいかも。それにしてもさっすがソウくん、成績優秀者なだけはあるね!」
「成績は関係ない」
横道に逸れかけた話題に、僕はぴしゃりと言い放った。彼女の頬がまた不満そうに膨らむ。
「もう~。こういう何気ない話も、仲良くなるためには必要なんだよ」
「べつに僕は君と仲良くしたいわけじゃないから」
「私が仲良くしたいの!」
「それは、楽しい思い出づくりのため?」
「それもあるし、あとはただ純粋に私がそう思ったから!」
膨れた頬をしぼませ、彼女はにへらと口の端を緩ませた。噓偽りなんて微塵もなさそうな、どこまでも純真無垢な笑顔だった。この笑顔にほだされた人はきっと多いんだろうな、と思った。
そんなことを考えていると、今度は彼女の笑顔がひときわ大きく咲き始めた。太陽を一心に見つめる向日葵のように、その笑顔は眩しさを増していく。
「……訊きたくないけどあえて訊こう。いったい、何を思いついたの?」
「んふふふ、えとねー。ソウくんと仲良くしつつ、楽しい思い出を作りつつ、宝探しも捗ること~」
「え」
嫌な予感がした。そこで彼女は勢いよく立ち上がると、鞄と伝票を引っ掴んで歩き出す。
「ほらっ、行こっ!」
「あ、おい!」
本当に、彼女はどこまでもマイペースすぎる。
意気揚々と会計を済ませ、これは宝探しのお礼も兼ねてるから僕には一銭も払わせないと宣言した彼女に連れられること三十分。僕らはじつに夏休みらしい場所に辿り着いた。
「あははははっ! つめたーい!」
紬未は黄色い歓声をあげてパシャパシャと水音を立てる。制服が濡れるのもいとわず、かといって靴は濡らしたくないようで川縁に脱ぎ散らかし、彼女ははしゃぎ回っていた。
「なるほどね。実際に現地まで行こうってことか」
ごつごつとした丸石の感触を足裏に感じつつ、僕は小さく肩をすくめた。
炎天下の中、長い時間をかけて連れてこられたのは犀川の河原だった。犀川は金沢市を流れるそこそこ大きな二級河川だ。川沿いのほとんどは堤防やらフェンスやらで覆われているが、僕らの通う高校から程近いところに犀川に隣接する緑地公園があり、そこには小さな河原がある。水深はせいぜい足首程度なので、僕も小さいころは両親と一緒にたまに遊びに来ては今の彼女のようにはしゃいでいたっけ。
「なにしてるのー? ソウくんも入ろうよ!」
「いや、僕はいいよ」
思い出に浸りかけていた思考を掻き消すのと、川に入る意志がないのを伝えるために、僕はゆっくりと頭を振る。さすがにこの年齢にもなると、無邪気に遊び回る幼心はない。
「そんなこと言わないでさ、ほーら! 早く早く!」
「ちょ、ちょっと!」
もっとも、幼心を卒業したのはここでは僕だけのようだった。目の前で太陽に張り合うみたいな笑顔を振り撒いている紬未の表情は、高校生というよりはどちらかといえば小学生に近い。そんな年齢退行している彼女に引っ張られ、僕は危うく靴のまま川へ片足を突っ込みそうになる。
「ほらほら~。靴を脱がないと、今度は濡れちゃうよ?」
「自分は濡らしたくないくせに他人にはお構いなしとは悪魔か」
「悪魔じゃありませーん。悪魔に余命を大幅に削られた薄幸の美少女ですー」
「ツッコみたいけどツッコみにくい冗談を言わないでほしい」
けれど、このままでは僕のスニーカーが大雨の時みたくびしょ濡れ浸水しそうなのは明白だ。仕方なしに靴下とともに脱ぎ、川縁にある大きな石の上に揃えて置いた。念のためスマホなんかもポケットから出し、鞄にしまって近くに置いておいた。
「よしよし、これで思う存分はしゃげるね!」
「はしゃがないけどね。僕の場合はリスクヘッジだから」
「リスクヘッド? それはどんな頭?」
「君みたいなくるくるぱーのことだよ」
ここで早速、僕の危機管理が功を奏した。目の前を小さな水飛沫が舞い、カッターシャツに水の濡れた跡が点々とついた。
「おい! いきなりなにする!」
「熱中症対策ですー! 決してくるくるぱーって言われた仕返しとかじゃありませんー! あと私のことは名前で呼ぶようにぃー! ほうら、もう一丁~~!」
「うわっぷ、冷たいって!」
そこから先は地獄だった。みっともなくはしゃぐ気のない僕は、一方的に水をかけられまくった。這う這うの体で川から上がろうとすれば彼女に腕を掴まれ、二人してバランスを崩してさらにびしょ濡れになった。川で遊ぶ時は危ないからルールを守ってほしいと抗議すれば、尻もちをついたまま水をかけられた。なんて理不尽な。さすがにこのままでは家に帰れないので、服を乾かそうと提案したらようやく川から上がることを許された。
「あははははっ、いやー満足満足!」
「僕はとっても不満足なんだが」
彼女から手渡されたタオルで服を拭きつつ、僕は心情を述べる。けれど彼女はさして気にした様子もなく、僕と同じようにタオルで髪を拭いていた。
「でも楽しかったでしょ?」
「誰が」
「え~素直じゃないな~」
くつくつと小悪魔っぽく笑う彼女の頭には、確かに角が生えていた。角というよりは、アホ毛に近いか。
「まあ、どうでもいいけど。それより、宝物探しの始まりの場所は、ここで合ってるの?」
「にへへ、わかんない」
「なんだよ、それ」
ぜんぜん捗ってないじゃないかと不満をこぼせば、紬未はまた楽しそうに笑った。本当に彼女はよく笑う。体内に爆弾を抱えていて、余命があと僅かなんて何かの冗談とすら思えてくる。
「まあ、それは残りの謎解きも解いていくうちにわかるんじゃないかな」
「残りの謎解き?」
「うん。時間が経ちすぎてかすれてたけど、山の絵の下にも謎が書かれてたんだ」
そう言うと、彼女はタオルと入れ替わりに例の地図を出してきた。僕は彼女になにやらいちゃもんを言われぬように、少しだけ距離を置いた位置からのぞき込む。
そして確かに山の絵の下には、薄い文字でなにかが書かれていた。
「えーっと……『終わりは、一〇〇メートルの見晴らしの後ろ』?」
また回りくどい。普通にストレートに場所の名前を書いておけばいいのに。
「ちなみに、その山の謎は男の子が考えて、河原の謎は私が考えたんだよ」
「あ、そうなんだ」
となると、もしその男の子が僕なのだとすれば、これは小学生の僕が考えたことになる。なんの記憶もないのだが、もしかしたら回りくどいのは僕のせいかもしれないのか。
「って待て。それなら『小石のじゅうたん』が河原ってことはすぐわかっただろ」
「え? うん、それはそうだけど」
「ならどうしてさっき『小石のじゅうたん』がどこかって僕に訊いたんだ?」
「え~そんなの決まってるじゃん。こういう謎解きを考えることも含めて、楽しいからでしょ!」
あっけらかんと彼女は言い切った。頭が痛くなってくる。本当に、彼女はどこまでも純粋に今という時間を楽しんでいきたいらしい。
「……ちなみに、本当はどこの川かわかってて、自分が埋めた宝物もどこにあるか知ってるってことはないよな?」
「あーうん。それは本当にない。マジでわかんない。だから一緒に寝込むくらい考えて」
「図々しいな、ほんとに」
僕が呆れてジト目を向けると、紬未はまたまたケタケタと笑い転げる。
そんな紬未を横目に、僕は一抹の懐かしさを感じていた。
*
これから退屈な用事を済ませに行くのだという紬未とわかれたあと、僕はようやく帰宅した。自室に入るや、勢いよく身体をベッドに投げ出す。
「ふうー……」
薄暗い天井に向かって息を吐き出すと、少しだけ胸のあたりが軽くなる。その感覚につられて、僕はもう一度息を吐き出した。
本当に、今日は疲れた。朝からじつにこれでもかと盛り沢山な一日だった。
登校途中で彼女の遺書を拾ったかと思えば、帰りに戻すところを目撃され、そのままファストフード店に連行された。そしてそこで彼女の食いしん坊っぷりを目の当たりにしたかと思えば、僕の質問を逆手にとられて宝物探しの協力をすることになった。しかもその時に見せられた宝物の地図は見覚えがあり、もしかすると彼女のいう男の子は自分かもしれないときた。かと思えば、作戦会議途中の思いつきのままに今度は河原へとしょっ引かれ、そこで水の掛け合い、挙句にはびしょ濡れになった。もう服はとっくに乾いているが、早々にシャワーを浴びたほうがいいか。
重い身体を引きずってシャワーを浴びている最中も、僕の頭の中は今日のことや紬未のことでいっぱいだった。
まず、彼女は僕イコール昔一緒に地図を作った男の子だとはとらえていないようだった。何度か意図的に男の子のことを訊いても普通に答えてきたし、僕に何かを隠しているようなふうもなかった。つまり、ただ偶然に僕が手伝うことになったか、あるいは単に僕の記憶が入り混じったがゆえの勘違いということだ。僕自身としても、幼いころに彼女と過ごしたという明確な記憶はない。彼女の様子とも合わせれば、後者のほうが可能性としては高いかもしれない。
けれど。時おり心に懐かしさが込み上げるのも、また事実だった。
本当に、紬未はいつも朗らかに、楽しそうに笑っている。あんなによく笑う女の子と一緒に過ごしたのなら、覚えていそうなものだけど。あいにく、僕の心にあるのは曖昧な、どこか懐かしいと薄っすら感じる程度の感覚のみだ。
「まあ、どっちでもいいか」
僕はべつに彼女と楽しい思い出を作りたいわけじゃない。子どものころに埋めたとかいう宝物にも興味はないし、仮に昔楽しく遊んでいたのであればそんな記憶は忘れたままでいい。いつか悲しく感じてしまう思い出なんて、無理に思い出す必要はない。僕の問いかけに対する彼女なりの答えを知れれば、あとはもうなんでもいい。
濡れた髪を乾かしながら、昼間のやりとりを反芻する。
あの時僕は、勢い余って次々と訊いてしまっていた。彼女には申し訳ないことをしたと思うけれど、どうしても気になったから。
余命僅かながら、心残りの消化というよりただ純粋に楽しいことがしたいと、彼女は言っていた。意味がわからなかった。だから僕は、投げかけていた。
――そんなに楽しい思い出を増やしても、虚しくなるだけじゃないの?
――あとで思い出して、悲しくなるだけじゃないの?
――自分だけじゃない。親とか友達とかも、楽しい思い出が増えれば増えるほど、君が死んだ後に悲しくなるんじゃないの?
――それでも君は、楽しい思い出を作りたいの?
今思い出しても、デリカシーの欠片もない酷い質問だ。それなのに彼女は、怒りや悲しみの表情をひとつも見せることなく、むしろ笑って答えていた。
――まあでも、簡単な話だよ。そのとおりだと思うよ。そしてそのうえで私は、楽しい思い出を作りたいの。思い出は、希望の種だから。
どうやら彼女は、わかっているらしかった。僕と同じ疑問に、一度は辿り着いているようだった。そしてそのうえで、楽しいことをしたいらしい。楽しい思い出を作りたいらしい。
いったいなにをどう考えたらそんな思考に行きつくのか、知りたいと思った。
今の僕には導き出せない答えを、紬未は持っている。
――答えが気になるなら、私と一緒に宝物探しをしてみない?
深く、朗らかに笑う紬未の表情がチラつく。
そうだ。だから僕は、彼女の挑発に乗った。
彼女なりの答えを知りたくて、どうしてその答えに辿り着いたのか知りたいだけで。
だから僕は、彼女の手伝いをすることにした。
ただ、それだけだ。
「……勉強でもするか」
ちょうど髪を乾かし終わったところで、僕の思考の整理も終了した。これ以上は不毛だ。夕ご飯を作るにはまだ少し早いし、一時間だけ勉強でもして気持ちを切り替えよう。彼女の手伝いをしていたせいで、予定よりも夏休みの課題は遅れているのだから。
そう結論付けて、僕は自室へ向かおうと脱衣所を出た。
「ただいまー」
そこへ、疲れた母の声が聞こえてきた。普段よりも早い帰宅に、僕は急いで玄関へ向かう。
「おかえり、母さん。荷物持つよ」
「あら、ありがと。今日は仕事が早く終わってね。たまにはお母さんがご飯作るわよ」
「そうなんだ。でも大丈夫だよ、もうほとんどできてるから。母さんは疲れてるだろうし、お風呂でも入ってきてよ」
どこか残念そうに顔をゆがめる母に笑いかけて、僕はリビングへと向かう。母の荷物をソファへ下ろしてから、すぐにキッチンに入った。手が不自由な母でも食べやすいだろうということで、今日の献立はカレーにした。
「ねえ、湊也。無理してない?」
ふいにかけられた言葉に、冷蔵庫から野菜を出す手が止まる。でも、すぐに僕は口を開く。
「大丈夫、してないよ。もう随分と時間も経ってるんだから」
「ならいいんだけど」
どこか煮え切らない様子の母だったが、それ以上はなにか口にすることなく浴室へと向かった。僕はまな板の上に並べられた野菜を見つつ、小さく息をつく。
無理は、していない。事故から既に七年も経過しているのだ。
確かにあの事故がきっかけでカメラは苦手になり、楽しい思い出を作ることに抵抗を覚えるようにはなった。けれど、べつに生きることに支障をきたすわけではない。僕は僕なりに、今の人生でいいと思っている。そう、今の人生で……。
母がお風呂からあがってきたころに、ちょうどカレーがいい具合に煮立ってきた。カレーは母の大好物ということもあり、見るからに顔はほころんでいた。二人で久しぶりの夕食をともにし、勉強の話やちょうどテレビでやっていたバラエティー番組の話で家族の時間を過ごした。それから部屋の片づけをするという母とわかれ、僕は自室へと戻った。
「ふうー……」
帰宅した時よりさらに暗闇が深くなった部屋で、僕は肺に溜まった空気を吐き出す。
今度こそ、勉強でもしよう。
心の中でつぶやいてから、僕は机に向かうべく部屋の明かりをつけた。
「え?」
ちょうどそこへ、狙ったかのようなタイミングでベッドの上に置いていたスマホが振動した。今しがた心に決めた勉強への意志を邪魔せんがごとくのタイミングだった。嫌な予感がしつつも、気づいてしまった以上は見ないわけにもいかず、僕はおもむろにスマホを手にとった。
『やほー』
『元気? 私は元気!』
『明日の午後なんだけど勉強教えてよ! ついでに二つ目の謎についても考えよ!』
最初のと合わせて三つの通知が、スマホの画面に表示されていた。
そこではたと思い当たる。そういえば、帰りがけにほとんど無理やりに連絡先を交換させられたんだっけか。
にんまりと嬉しそうに微笑む紬未の顔が浮かんだ。補習後のみならず、どうやら彼女は帰宅してからも茶々を入れてくるつもりらしい。けれど、このまま彼女の思惑通りになるのはなんだか癪だった。やや迷ってから、僕は滅多に開かないアプリを起動しメッセージを送信する。
『僕は勉強まで手伝うとは言ってないけど』
送るや否や、すぐに既読がついた。この時間に勉強すればいいのに。
『いいじゃん! 謎解きのついでにお願い!』
『友達と勉強したらどう?』
『みんな部活やら塾やらで忙しいんだって』
『じゃあ諦めよう』
『やだ。ということで、よろしく!』
ついには僕の返事なんてお構いなしに結論を押しつけてきた。本当に、どこまでもブレないな。
僕は呆れてひとり肩をすくめてから、『わかったよ』と返信した。どうせここで無理に断っても、あの手この手で僕を巻き込んでくるのだろう。それにもしかしたら、彼女のいう「答え」を知る機会になるかもしれない。
彼女から『おニャしゃす!』と吹き出しのついた猫のスタンプが送られてきたのを確認してから、ようやく僕は机についた。
なぜか、その夜はかなり勉強が捗った。
*
翌日の朝。
やや身構えていた登校時は紬未と会うことはなく、拍子抜けにも彼女と出会う前と同じように平和な形で補習は始まった。
毎日変わり映えもなく、古典、数学、英語、現代文と主要な科目の補習を受けていく。各学年の全生徒を対象に任意参加で行われている補習だが、一応進学校ということもあってほとんどの生徒が出席している。かくいう今日も、いつもと同じく九割近いクラスメイトが席についていた。
「ということで、はい、今日の現文は終わりだ。今日やった範囲は頻出事項だからな。各自、しっかりと復習しておくように」
チャイムとともに野太い声が本日最後の補習の終了を告げた。これで、今週の補習はすべて終わりということになる。あとは家に帰って課題をこなしていけばいい。もっとも、今日もまた素直に帰ることはできないのだが。
「勉強に宝物探し、ね」
これからのことを想像して、自然と声がこぼれる。今朝コンビニで適当に買ったサンドイッチを食べてから、どこかで合流すればいいだろうか。人がどんどんと減っていく教室でぼんやりと窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、ポンと軽く肩を叩かれた。
「よっす、森川。今日も相変わらず黄昏れてんなー」
振り返れば、ここ最近見なかった顔があった。九割近いクラスメイトが受けている補習に、初日からただの一度も来なかった残りの一割にあたるクラスメイト、藤田龍だ。基本的にインドアな僕とは違い、藤田の顔はこんがりと日に焼けている。おそらくこの暑苦しい炎天下の中を、持ち前の運動神経を活かしてサッカー部の活動に勤しんでいるからだろう。ご苦労なことだ。
「べつに、ただの考え事。それより、今日いたっけ?」
「いんや、寝坊して四限目から来たんだよ。昨日で他校との練習試合終わって、今日こそは補習行こうと思ってたんだがなー。疲れすぎて無理ゲーだったわ。遊びの用事だったら絶対寝坊しねーんだけどな」
補習より海とか行ってめっちゃ泳ぎてーよな、と彼は続けて快活な笑顔を浮かべる。スポーツマンらしい爽やかな短髪が風で揺れ、白い歯が日に輝いた。彼が女子にモテるのも頷ける。
なんの縁か、藤田とは高校一年生の時からの付き合いだ。僕のなにがそんなにお気に召したのか、彼はことあるごとに僕に話しかけてくる。その内容は、勉強のことであったり、昨日観たテレビの話だったり、部活のことだったりとじつにどうでもいいことばかりだった。彼は僕を遊びに誘うわけでもなにかを無理強いするわけでもなく、ただ時おり絡んできては適当な話をして去っていくだけだ。だから僕も、取り立てて敬遠することはしていなかった。
今日もおそらくそうだろうと予想しながら、僕は机の横にかけてあったコンビニの袋からサンドイッチを取り出した。
「あ、そーだ。今週の補習の板書、見せてくれよ。一応はさらっとかないと、よっちゃんとか遠慮なく補習の範囲から試験問題出してきそうだし」
僕の前の席に座り、焼きそばパンを頬張りながら彼は手を差し出してきた。ちなみに、よっちゃんというのは先ほど前で野太い声を発していた現文の先生だ。
「いいけど。ただ僕は自分がわかるようにしか書いてないよ」
「とかなんとか言って森川のノートはわかりやすいんだよな~。お、あざす」
彼にノート一式を手渡すと、その場でパラパラと中身を見出した。いくつかのページはスマホで写真を撮り、「やっぱ森川のノートは別格だわー」と調子のいいことを言っていた。僕はそんな彼に何を言うでもなく、二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。
「あれ」
ちょうどそこで、彼は不思議そうな声をあげた。
「なに」
間違いでもあったのかと思って目を戻せば、そこには昨日の日付だけが書かれたほとんど真っ白なページがあった。
「昨日、現文なかった感じ? プリント配られたとか?」
「あ、いや……」
そういえば昨日は、紬未の遺書を拾ってしまって補習に集中できなかったんだった。返事に窮していると、彼は何かを感じ取ったのか、他の科目も同様の有様であることを目にしてニヤリと笑う。
「珍しいな、森川。もしかして、恋にでも落ちたか?」
「は?」
「いや、森川のことだから全授業居眠りってことはないだろ。最初のところはちょこっと書いてあるから出席はしてたんだろうし。ならこれは授業に集中できなくて何か考え事をしてたら授業がいつの間にか終わってましたってパターンだ」
鋭い。後半の推測なんか、まさにそのままだ。まあ前半はてんで見当違いの推測だが。
得意顔で推理を披露する彼に僕はやれやれと首を振ってから、適当な言い訳をするべく口を開いた。その時だった。
「やっほー! ソウくん!」
ほとんどクラスメイトがいなくなった教室に、明るい声が飛び込んできた。残って昼食を食べていた数人のクラスメイトは何事かと振り返る。けれど、当の本人はまるで気にした様子も他クラスに来て緊張している様子もなく、一直線に僕のほう目掛けて歩いてきた。
最悪だ。
僕は心の中で頭を抱えた。
「え、久空? なんで?」
「あれ、藤田くんじゃん。えーもしかして二人でお昼食べてる? 私もいれてよー」
どうやら二人は面識があるらしい。紬未は近くに来ると、机をひとつ僕の机にくっつけお弁当を広げた。彼女の肝臓を気遣ってか、その中身は随分と健康的なもので占められている。って、そんな現実逃避をしている場合じゃない。
僕がおそるおそる藤田のほうへ視線を向けると、案の定困惑に口元がひくついていた。
「え、え? だからなんで久空が? 森川と仲良かったっけ?」
「んふふふーどうだろーねー?」
藤田の問いに、紬未は悪戯っぽい笑みを僕に向けてくる。マジで勘弁してほしいんだが。
「仲良くないって。ちょっといろいろあって、このあと勉強教えることになってるだけ」
「ああ、もしかしてこのノート見られたとか? わかりやすいもんなー森川のノート」
「そうそう、そんな感じ」
僕の言葉を都合よく解釈してくれたようで、藤田の表情に浮かんでいた困惑の色が小さくなっていく。僕が胸を撫で下ろしかけたところへ、肩に軽い衝撃があった。
「パーンチ。ひどいよソウくん! 仲良くないなんて! 私はこんなに仲良くなりたいって思ってるのに!」
「いきなりなに言ってんの?」
「そのままの意味ですー! ソウくんは私と仲良くなりたくないの?」
「なりたくない」
「ひどっ。傷ついた。あーあ、これは後でジュース奢りだなあー」
「奢らないし、話がややこしくなるからちょっと黙っててほしいんだけど」
「いや、やっぱりお前らなんかあるだろ……あ」
そこで、藤田はなにかに気づいたようにポンと手をたたいた。嫌な予感に、僕は思わず「なにか?」と尋ねる。すると藤田は、紬未に見えないよう僕の補習ノートのほぼ白紙のページを見せてきた。
「昨日のこれの原因、だろ?」
ささやき声で、視線だけで紬未を差しながら、訊いてきた。
そこから先は不覚だった。彼の意図とは違うにせよ、一応は図星だった指摘に、僕は一瞬言葉に詰まってしまった。それだけで、彼は急に核心に迫ったとばかりに口元をほころばせる。
「やっぱりそうかー。ふーん。なるほどなるほどー」
「いや、待て。違うぞ。なにを勘違いしてる」
「いいっていいって。いやーでも普段誰とも関わろうとしない森川がねー。そうかそうかー」
「違うって。やめろ、その顔」
「ちょっとー二人してなにひそひそ話してるの!」
ベシッとなにかで頭をはたかれ、僕らの秘密の会話は中断した。紬未を見れば、その手にはぐるぐる巻きにされた僕の補習ノートが握られていた。
「なに勝手に他人のノートを武器にしてるんだよ」
「武器にされたくなかったらなに話してたか教えてよー」
「森川、ここはもう教えちゃうか?」
「絶対要らないこと言うだろうから、藤田も黙っててほしいんだけど」
僕が指摘しては紬未との押収が始まり、そしてまた藤田に生温かい眼で見られる。そんなことが、昼食中に幾度となく繰り返された。
いつもなら過去の出来事が脳裏をよぎり、僕は無理やりにでも一歩引いていたやりとりだった。
けれど、その時の僕にはまるで余裕はなく、なされるがままに翻弄されていた。
そうして。教室にいるのが僕らだけだと気がついたのは、随分とあとになってからだった。
*
「いやー楽しかったね!」
未だ陽の高い青空の下、バス停まで向かう道中で、紬未は笑いかけてきた。僕はそんな晴々とした彼女の横顔に怪訝な視線を向ける。
「それは紬未と藤田だけで、僕はだいぶ疲れたよ。もう勘弁してほしい」
結局昼食のあと、何の因果か紬未だけでなく藤田も交えて三時間程度勉強していた。普通、三時間も勉強すれば補習の復習くらいは終わる。それなのに、実際は予定の半分も進まなかった。まったく、何のための勉強なのか。
「でも、ソウくんの教え方すっごく良かったよ! おかげで夏休み明けのテストはぐーんと良い点数がとれそう!」
「あれだけの勉強でそんな簡単にとれるものでもないと思うけど」
「もちろん自分で勉強もするよ。でもその時に、ああここソウくんが教えてくれたとこだーって思い出せるの。それだけで、やる気も理解度も段違いなのです」
にへへ、と紬未は嬉しそうに笑う。
本当に、どこまでもマイペースな女の子だ。今日は藤田がいたこともあって勉強だけで終わり、謎解きについては後日に延期ということになった。彼女には時間がないはずなのに、なんとものんびりしているものだ。
それに、彼女は大病を患っている。余命いくばくもないというのに、どうして勉強なんてするんだろうか。大学進学とか将来の夢とか、自分の未来に繋げるための勉強なんて、しても虚しくなるだけじゃないのか。
「あ、さてはソウくん、まーた変なこと考えてるでしょ?」
「え?」
突然の指摘に、僕は口籠った。それを肯定と受け取ったのか、紬未は言葉を続ける。
「ね、なに考えてたの?」
「いや、その……余命宣告されてるのに、なんで勉強してるのかなって」
「ああ!」
ためらいがちに訊いた僕の言葉に、紬未は得心したように手を叩いた。
「だって、急に成績が落ちたら友達とかから心配されそうじゃん? 私は楽しく毎日を過ごしたいから、そんな余計な心配はかけないようにしたいんだ」
「な、なるほど」
意外なほど真面目な返答に僕はたじろぐ。楽観的なように見えて、案外いろいろと考えているらしい。
ただやはり、「どうしてそこまでして?」と思わずにはいられなかった。
そこまでして楽しい毎日を過ごしても、結局最後は悲しくなるんじゃないだろうか。もっと楽しい毎日を過ごしたかったとか、もっと生きていたかったなんて執着が増えてしまうんじゃないだろうか。楽しい日々を過ごせば過ごすほど、楽しい思い出を作れば作るほどそんな反動も大きくなってしまうんじゃないだろうか。それならいっそのこと、楽しい思い出なんて増やさないほうがいいんじゃないだろうか。
……ああ、ダメだ。
僕は卑屈になっていた気持ちを切り替えるべく、小さく首を横に振った。やはりどうも僕は、この手の話になると考えすぎてしまうらしい。
チラリと脳裏に過ってしまったいつかの記憶もまとめて掻き消し、僕は再び前を見る。すると、そこへ紬未がひょっこりと顔をのぞきこんできた。
「ねっ、ちょっと寄り道していかない?」
「寄り道?」
「うん、喉乾いちゃって」
彼女が指さすほうへ目を向けると、公園の入り口付近に自動販売機があった。ちょうど僕もいろいろと腹の底に飲み込みたいところだったので承諾した。
「おーいろいろあるねー。ね、ソウくんはなに飲む? 勉強教えてくれたお礼に奢ってあげるよ」
「あれ、てっきり僕は奢らされるものだと思ってたのに」
「もうー、お昼ご飯の時のこと言ってるの? 冗談に決まってるじゃーん」
ニヒヒとなにやら企んでそうな顔で彼女は笑う。じつに悪戯っぽく、そしてどこか子どもっぽい。そんな笑顔だった。
なんだか見慣れてしまったなと、唐突に思った。そんな自分の感情に驚いて、僕は慌てて彼女から視線を逸らした。
「えと、奢ってくれるんだっけ。じゃあ、お茶で」
「おっけー。私もそれにしよー」
僕が適当に選んだ飲み物を、紬未は二本購入した。そしてそのうちの一本を彼女は僕に手渡してきた。
それから僕らは近くにあった適当な東屋の中に入り、ベンチに腰掛けた。僕がひと息ついている間に、彼女はいち早くペットボトルの封を開いてお茶を喉に滑らせた。
「ぷはぁ、生き返ったーー」
じつに美味しそうに、紬未は五分の一程度を一気に飲んだ。そんな彼女の様子を横目に、僕もひと口お茶を口に含む。
確かに美味しい。夏の熱さで火照った身体に沁み渡っていく。
けれど。どうも彼女の飲んでいるお茶とはべつのものなんじゃないかと思えてならなかった。
「それにしても、やっぱり小学生とか多いねー。夏休みって感じだなあ」
もうひと口お茶を飲んでから、僕は彼女のつぶやきに頷きを返す。
「そうだね。この前行った犀川沿いの公園は、意外といなかったけど」
「あはは、確かに。この辺りは住宅街が多いからなのかな。私も昔はよく遊んだなあ」
「この公園で?」
「そうそう、友達とね。あ、そういえば噂の宝物を一緒に埋めた男の子とも前を通ったっけ」
「前を?」
急に話題に挙がった「件の男の子」に、僕は思わず訊き返した。
「うん、宝物を埋めに行く途中だったかな。あんまりよくは覚えてないんだけど。確か通った気がするし、一緒に遊ぼうって約束もした気がする」
どこか懐かしむような視線を、紬未は公園の砂浜で遊ぶ子どもたちに向けていた。なんとなく、僕も同じほうを見る。
「まあ結局、遊べなかったんだけどね。それでも、そんな約束をした当時の私は嬉しかったと思うし、こうしてその時を思い出せてる今の私も懐かしくて嬉しいし、これもいい思い出だよ」
「ふうん」
僕は素っ気なく相槌を打ってから、ペットボトルのお茶を勢いよく喉に流し込んだ。
「ねっ、今から一緒に遊ぼっか?」
「……っ、は?」
いきなり、唐突な提案が飛んできた。思わずむせそうになるも、すんでのところでこらえた。
「小学生の子たちに混ざってさ。どう?」
「絶対に嫌だ」
「えーけち」
「けちというか不審者になるよ、このご時世にそんなことをしたら」
本当に、なにを考えているんだろうか。今の提案は僕じゃなくても拒否するだろうに。
理解不能とばかりに紬未を見やれば、またどこかで見たように唇の端を吊り上げている彼女がそこにいた。
「じゃあ、ふたりで遊ぶならいいってことだ」
「は?」
「ほらほら、こっちきて!」
紬未は立ち上がるや、僕の腕を引っ張って東屋から連れ出した。転びそうになりつつも手を引かれてやってきたのは、公園の隅に忘れ去られたように置いてあるブランコだった。
「はいっ、ということで、ほら! 一緒にやろ!」
「いや、あのな」
「うんうん、わかったから。とりあえず横に座って座って」
不満を垂れる隙もなく、紬未は半ば強引に僕をブランコの右側に座らせた。そして彼女は左側に座ると、すぐに勢いをつけて漕ぎ始めた。
「あははっ、これこれ! 懐かしい~!」
紬未の動きに合わせて、ブランコの鎖が悲鳴をあげる。キイッ、キイッと軋むリズムに合わせて、彼女のはしゃぎ声も夏空に溶けていく。そこで初めて、太陽が随分と低い位置で僕らを見つめていることに気づいた。
そういえば、さっきもそうだった。教室で一緒に勉強していた時も、僕は他のクラスメイトがいなくなっていることにまったく気づかなかった。
僕も、夢中になっていた……?
「ねぇーー! ソウくんも漕ぎなよーーー!」
そこへ、思考の隙間を縫うように頭上から声が降ってきた。声のほうへ視線を向ければ、夏の日差しに負けないくらい弾けた笑顔が、前に後ろに揺れていた。
「僕はいいよ」
「えーなんで」
「なんででも」
いつものように素っ気なく返すも、相変わらず紬未はいつも通り上擦った声で僕の名前を呼ぶ。
「ソウくんってほんと頑固だーーー!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すよ」
視線を前に戻す。軋んだ鎖の音は絶えず聞こえているけれど、最初は悲鳴だと思っていたその音がなんだか喜んでいるように聞こえてきた。ずっと忘れられて、漕がれていなかったブランコが、久しぶりに乗り手を喜ばせようとはしゃいでいる。そんな音に聞こえてきた。
「ねえー、ソウくんさー」
「なんだよ」
なぜかイライラとしてきて、僕は語気を強めて訊き返す。
「どうして、そんなに人を避けるのー?」
胸のあたりが、キュッと締め付けられた。どこも異常はないはずなのに、次第にズキズキと痛みが増してくる。そしてすぐに、それは痛みではなくて僕の心臓の音なのだと認識する。
「……べつに、避けてないけど」
やや間があって、僕はやっとそれだけを言った。なんとも説得力のない言葉だった。
「ふうんー?」
もっとも、訊いてきた当の本人は関心とも無関心ともつかない抑揚で相槌を返してくる。その反応に僕はさらに苛立たしさが増してきて、口を開く。
「なんでそんなふうに思ったの?」
「えーなんとなく? それに昼の時に藤田くんも似たようなこと言ってたから」
「なんとなくでそんなこと考えないと思うけど。それに藤田の言っていることも適当だよ。今の僕はこうして君と一緒にいるし、昼だって見た通り藤田と昼食を食べてた。だから、べつに人を避けているわけじゃない」
いやに饒舌に語った僕の言い訳を、紬未はブランコを漕ぎながら黙って聞いていた。それから今度は彼女のほうに沈黙が下り、ブランコの鎖の音が十回くらい繰り返されてからようやく彼女は言った。
「避けてないならいいんだけどー。なんていうか、今のソウくんは昔の私に似てるとこあるんだよね」
「え?」
ギシッとひときわ大きく鎖が音を立てた。
「肝臓の別名って、知ってる? 物言わぬ臓器、沈黙の臓器って言われてるんだよ。本当にその名の通りで、見ての通りこんなに死期が近づいててもほとんど身体に異常はないんだ。栄養の吸収力が弱いからか、食欲過剰であるくらいなの。昔は今以上に何事もなくてね、それが、余計に怖かった」
空は、茜色に変わっていた。蝉の鳴き声も、どこか遠い。
「だから昔の私は、自分が早くに死んじゃうってことがわかってから、ずっと泣いてばかりだった。痛みも苦しみもないのに、私の中には死に繋がる病が潜んでいる。まるで、音も気配もなく死神が私に近づいてきて、ある日突然その大鎌で私の命を刈り取ってしまう。そんな怖い夢ばかりを見ていてね、いつしか誰とも仲良くしたくないって思うようになったの」
鎖の音が彼女の呼吸に合わせて響く。また、それは悲しそうな音色に戻っていた。
「絶対に大丈夫ってずっと言ってくれてたお父さんやお母さんに反発した。たくさん泣かせたし、たくさん八つ当たりをした。学校でも誰とも話さなかった。無視し続けたし、ずっと下ばかり向いてた。周囲の子たちからは暗くて自分勝手な子どもだって思われてた。でも私はそれでいいと思ってたし、そうあるべきだと思ってた。この前ソウくんが言ってくれたように、どうせ友達ができたってすぐにお別れするんだから、後で悲しくなるような、執着しちゃうような大切なものなんて作りたくなかったから」
クスリと彼女が笑った気がした。でも、彼女の顔を見ても、笑っていなかった。
「そんなふうに荒んだ毎日を送っていた時に、私は彼に出会って、一緒に宝物を埋めた」
「え」
吐息みたいな掠れ声が、僕の口から漏れた。当然、彼女は気づいていない。
「その時から、私は思うようになったの。楽しい毎日を送ってやろうって。病気なんて関係ない。私は私らしくやりたいようにやって、最期のその時までずっと笑っていようって。思い出を胸に、ずっと未来を見ていようって。思い出は、希望の種なんだって」
また、彼女が笑う声が聞こえた。もう一度彼女のほうを見ると、今度は楽しそうに笑っていた。
「もちろん、ソウくんがそこまで人を敬遠しているとは思ってないよ。ただ、なんでかな。時々ソウくんの表情が幼い頃に鏡で見た私の表情と似てて、とても辛そうに見えたんだよね。ということで、たまには私のほうから失礼な質問をさせていただきまし、たっ!」
そこで、あろうことか彼女は勢いよくブランコの上から前へと跳んだ。寂し気に公園を照らしていた夕陽を横切り、少し離れたところにある砂地へと着地する。じつに見事な、見惚れるほどの大ジャンプだった。
「へへへ、上手くいったー! ソウくんもやってみる?」
「いや、僕は」
夕焼けを背景に、にへらと笑う紬未がとても眩しかった。鎖を握る掌には、汗がにじんでいる。
「まあ、これは結構コツがいるからねー。練習してからでいいよ」
「しないけど」
「あはははっ!」
朗らかな、高い笑い声が茜色の夏空に飛び立っていく。それはとても心地よく、僕の耳に馴染んでいく。
「ねぇ、ソウくん」
「え、なに?」
「楽しいときは、楽しいでいいんだよ」
息を呑む。
風が舞った。吹き荒ぶ風は彼女の髪をなびかせ、僕の全身を震わせた。
まいったな。
僕は心中で、苦笑せざるを得なかった。
僕の予想は、不運にも当たっていた。
だから僕は、彼女に近づきたくなかったのだ。
冷めた眼差しで宝物探しの行く末を見守り、適当に過ごしていくつもりだったのに。たった一日で、こんな気持ちになるんだから。
ああ、そうか。
昨日も今日も、昼も今も。
不覚にも僕は、楽しかったのか。
楽しんで、しまっていたのか。
「…………紬未ほど楽しんでいる人は、稀だと思うけど」
自覚するのがなんだか悔しくて。そして、怖くて。
いくばくかの沈黙のあと、僕はやっとそれだけを返した。
脳裏には、相変わらず嫌な記憶がこびりついている。けれど。
「わーーーーーっ! やっと私の名前をソウくんから呼んでくれたーーーー! 感激ーーっ!」
跳ね回って喜ぶ紬未の声に、それも掻き消されていって。
「え? 呼んでただろ、昨日から」
「呼ばれてないですー! 最初の一回だけですー! 心の中で呼んでたとしてもそれは聞こえてないのでノーカンですー!」
「数えてたのかよ」
むくれて僕に詰め寄ってくる紬未の表情に、僕は思わず笑っていた。
一日が終わろうとしている夕暮れの中で、僕らはひとしきり笑い合っていた。