――思い出は、希望の種なんだよ!
あの日から、何度も口の中で転がし、反芻してきた言葉が聞こえた。
私の声ではない。これは、彼の声?
――き、ぼう?
白くぼんやりしていた視界が、ゆっくりと鮮明になっていく。
澄み渡る青空に、夏らしく立ち昇っている白い入道雲。煌めく陽光に目を細めて、私はその声のほうへと向き直った。
――そう! 今日はたくさん笑っただろ? だったらもっと笑える日だって来るんだ!
真夏の太陽に負けないほどの眩しい笑顔を浮かべて、すぐ隣でしゃがみ込んでいる彼は言った。
――でも、今日が一番楽しい日だったら……
対して、私は暗い顔をして俯く。視線の先には、大きな木の根っこと、風で揺れ動く枝葉の影。そして、今しがたまでシャベルで掘っていた穴が口を開けている。
私の暗くてじめっとした感情を、この穴の中に入れて塞いでしまいたい。
今の私がそんなふうに思った矢先、頬を温かいものが包み込んだ。
――それはこれからのお前次第! まあ俺は、一度笑えたならこれから先、何度だって笑えると思うけどね!
私の頬に添えられたのは、小さな彼の手。男らしさとは程遠い、今の私と変わらないくらい柔らかな手。
快活に口元を綻ばせて、彼は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
彼の手に挟まれた私の頬が熱くなる。
熱くなっているはずなのに、その温度感は現実のものとはかなり違う。
それを意識した途端、再び視界が白く染まり始めた。
――また、笑えるかな?
彼の手に自分の手をかぶせて、私は尋ねる。
――笑えるよ! 大丈夫だって!
彼はさらに笑顔を深めて答える。
その自信満々な言葉は、まるで魔法のようで。あれほど沈み込んでいた私の心に温もりが蘇っていく。
――また、会えるかな?
どんどんと白く、曖昧になっていく世界の中で、また私は尋ねる。
――会えるよ! そのために、これを埋めてるんだろ?
すると彼は、私の頬から手を離して、地面に突き立てたシャベルを持ち上げた。つられて目を向ければ、すぐそばには銀色の缶箱が置かれている。
ああ、懐かしいな。
今の私がそう思えば、また世界の色が曖昧になる。
――ぜったい、だからね
――ああ! ほら、ゆびきりしようぜ。
あの夏の気配がほとんどなくなったその場所で、私と彼はゆびきりを交わした。お馴染みの歌を口ずさむ私たちは、とても楽し気だった。
――約束、したからね
――ああ、約束だ!
そこで、目が覚めた。
おもむろに目を開けると、視界いっぱいに広がったのは白い世界でも突き抜けた青空でもない。月明かりに照らされた、薄暗い見慣れた天井だった。
「ん……何時?」
ベッドからのそのそと身体を起こして枕元に置いたスマホを見ると、まだ朝の四時だった。しまった。早く起き過ぎた。
もうひと眠りしようと、私は接触冷感のマットが敷かれたベッドへ倒れ込む。やや蒸し暑い夏の夜には、このひんやりとした感触が必要不可欠だ。
けれど、今の私にとってはあの温もりが恋しかった。
そっと自分の頬へと手を伸ばす。そこにあるのは、やや火照ったいつもの感触ばかり。
夢の中で私を包んでくれた彼の温もりは、ない。
もう一度、私はスマホの画面に目を向けた。
四時五分を示す数字の上には、夏休み初日となる日付が表示されている。
「……よし」
私は小さく気合の声を口にすると、今度こそまぶたを閉じた。
今日から私の通う高校では夏休みだ。
この最後の夏休みで、私は勝負をつける。
幼い彼の無邪気な顔が脳裏に浮かぶ。そしてすぐに、今の彼の無愛想な横顔がそれを上書きしてくる。
「……森川、湊也くん」
恋しい人の名前をそっと口にしてから、私は眠る。
もう一度、夢の中で彼と出会えますようにと祈りながら。
残り僅かな私の命で、彼を笑顔にできますようにと、願いながら――。
「きゃああああ!」
快晴の青空の下、蝉時雨が響き渡る夏休み初日。午前中にあった全生徒が対象の夏期補習を終えて下校していた僕の午後は、女の金切り声から始まった。
「え、ええ?」
咄嗟に身構え、僕は周囲の様子をうかがう。
僕がいるのは高校近くの歩道。車道に面しているとはいえ車通りは少なく、今も車は一台も通っていないから交通事故はなさそうだ。
となると考えられるのは、不審者かひったくり。けれど、遠目に見る限りでは他の生徒や通行人は普段通りで、なにか事件に巻き込まれているようでもない。
ならば、どこから女性の悲鳴が? さすがにこの蒸し暑い真っ昼間から心霊現象なわけはないだろうし……。
そこで僕は、考えるのを中断した。なんにせよ、穏やかな内容ではないことは間違いない。厄介事の気配を察知した僕は、早々にその場から立ち去ろうと一歩を踏み出した、その時だった。
「きゃあっ」
再び短い悲鳴が聞こえ、木の枝が折れる音や荒々しい葉擦れの音とともに、それはすぐ真横の茂みに降ってきた。漫画なんかであればドシーンと大きな効果音もついでにつきそうなほどアクロバティックに、それは木の上から降ってきたのだ。
「いったたた」
声が聞こえて、僕は思わず閉じてしまった目をおそるおそる開けた。
そこには、僕の通う高校の制服を身にまとったひとりの女子生徒がいた。幸いにも木の真下にあった植え込みがクッションになったようで、僕が想定していた最悪の状態にはなっていなかった。
「え、っと……大丈夫、ですか?」
すぐ真横ということもあり、なにもせずスルーするのもどうかと思った僕は彼女に声をかけた。肩ほどまである長い黒髪に、黒曜石のような深く澄んだ大きな瞳。真っ直ぐに降りた綺麗な鼻筋や白い肌も印象的で、率直に可愛い子だなと思った。ただその顔には見覚えがなく、もしかしたら上級生かもしれない。なんとなく丁寧語で尋ねた僕に、目の前で尻もちをついている彼女は苦笑いを返してきた。
「あ、あははっ。ありがと、大丈夫。ごめんね、驚かせちゃって。木の上にいた猫を助けようとしたら落ちちゃって」
「木の上の、猫?」
言われて見上げると、確かにそこそこの高さの枝に茶色い毛並みの猫が乗っていた。よくある登ったはいいが下りられなくなったパターンだろうか。
「あ」
と思った矢先、その猫はシュタッと華麗な身のこなしで地面に降り立つと、そのままどこへともなく駆け去ってしまった。僕と彼女は、呆然としてその後ろ姿を見送る。
「大丈夫そう、でしたね」
「うん、大丈夫そうだったね」
どうやら猫はただ枝の上でくつろいでいただけらしい。なんだか拍子抜けだ。
「それはそうと、本当に怪我はないですよね?」
猫が見えなくなると、僕は未だに地面に座ったままの彼女のほうへ視線を移した。あの高さから落ちたのだから、道路との境にある小さな生垣がクッションになったとはいえそれなりの衝撃だったはずだ。打撲はもちろん、骨折だってしていてもおかしくない。
「うん! 大丈夫! ちょっとお尻が痛いけど、それ以外は至って普通……あ」
怪我がないことを見せるためか、朗らかな笑みを浮かべて立ち上がろうとしていた彼女は、なぜか唐突に動きを止めた。
「ん? やっぱりどこかひねったりとか、怪我を……あ」
気遣う言葉を口にしてから、僕も気づいてしまった。
自分の視線の先を、彼女の視線に合わせたのがいけなかった。
今の彼女は木の上から落下してきた時の姿勢のままで。
彼女の服装は高校の制服姿だから下はスカートをはいていて。
いやもう端的にいえば、下着が見えた。
僕の声に反応してか、あるいはフリーズした脳が機能を取り戻したのか。彼女は慌てて膝元を押さえると、顔を真っ赤にして僕のほうへ鋭い視線を向けてきた。
「見た?」
落ち着け。こういう時は、クールに冷静に、なにも見てないことを態度で示すのが大切……
「い、いや、僕はべつになにも見てないですけど」
「見てるじゃん! 本当に見てない人は『なにを?』って訊くんですー! あと態度に出過ぎ!」
無理だった。そりゃそうだ。僕の両親はうそをつくのが下手で、僕もその遺伝子を受け継いでいるんだから。
「ふ、不可抗力だ!」
「でも見たのにはかわりないでしょ!」
やいのやいのと僕らは学校近くの歩道で問答を繰り広げた。ほとんど勢いで僕の口調から丁寧語はとれていて、道行く人からはなにやら訝し気な視線やら興味津々な視線やら生温かい視線やらを感じた。なんとも居心地の悪いことこの上ない。
そうこうしているうちに遠くからチャイムが鳴った。方角からして僕の高校のもので、補習の完全下校時刻を告げるチャイムだろう。そろそろ行かないと乗る予定のバスに間に合わなくなる。僕はわざとらしくスマホで時間を確認してから鞄を担ぎ直した。
「ったく、それだけ叫ぶ元気があるならほんとに大丈夫そうだな」
「心は大丈夫じゃないけどね!」
「はいはい、ごめんて。悪いけどもう時間だし、そろそろ行くわ」
夏休み初日からなんてことに巻き込まれるんだ。こっちは心配して気遣ったというのに。
心の中で愚痴りながら僕が歩き出そうとした時、ふいにグイっと腕を掴まれた。
「……まだなにか? バスに遅れるんだけど」
僕の腕を掴んでいるのはもちろん彼女。さっきは気づかなかったが、制服の襟元に付けられているクラスバッジの色からして同学年のようだ。そんな同い年の彼女は、まだ頬を赤に染めつつ口を開いた。
「私の下着を見た罰、というか責任をとって、手伝ってほしいことがあります」
「はあ?」
耳を疑う。何を言ってるんだ、この女は。
わざとらしく睨んでみるも、彼女はまるで臆する様子もなく言葉を続けた。
「いいからっ。来て! 補習は終わったんだから少しくらいいいでしょ!」
その顔からは、先ほどまでの怒りや羞恥心は消えていた。
むしろ何か楽しいことを思いついた子どもみたいな表情をしていた。
あ、これは面倒なことに巻き込まれるやつだ。
そんな予感を心に抱きながらも、押しに弱い僕は彼女に引かれるがまま住宅街のほうへと足の向きを変えた。
*
彼女に連れられてやってきたのは、住宅街の端のほうにある古い平屋の家だった。昔ながらの日本家屋で、庭先の松の木には季節外れの雪吊りがしてある。敷地はそれなりに広く、塀で囲まれた隅には大きな蔵があった。
「ちょっとここで待ってて。鍵借りてくるから。あ、逃げないでよね」
「逃げないよ、ここまで来て」
道中は何度か逃走しようかと思ったが、目ざとい彼女の妨害でことごとく失敗した。挙句には、「一緒に来てくれないと下着を見られたことを友達に相談する」とまで言われたので、ここは大人しく従うことにした。不可抗力なので大事にはならないにせよ、変な噂が立てられても困る。
彼女は家の中へ入ると、しばらくしてタオルとペットボトルのお茶を二つずつ、そして古ぼけた鍵と変な形の木の棒を手に戻ってきた。
「はい、これ! 水分補給しないと熱中症になっちゃうよ」
「え? あ、ありがと」
まさかそんな気遣いをされると思っていなかった僕は、ややどもりがちにタオルとペットボトルを受け取った。冷蔵庫で冷やされていたのか、ペットボトルはとても冷たく、僕は促されるままお茶を喉に滑らせる。
「ぷはっ、ふう。いやー、暑いなか飲む冷たい麦茶ってほんと格別だよね」
同じようにペットボトルの中身をあおった彼女は、じつに無邪気な笑顔を向けてきた。同感だった僕は、頷く代わりにもうひと口お茶を口に含む。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。私は二年五組の久空紬未。久しい空で久空、糸偏に由来の由を組み合わせた紬と、未来の未で紬未ね!」
「わかりにくいな」
「あははっ、よく言われる! こういう漢字だよ」
そう言うと彼女はスマホで自分の名前を打つと僕に見せてきた。普通に見せればいいのに、隣に並ぶようにして見せてきたので彼女の甘い香りが鼻先をくすぐった。不可抗力であるのは言うまでもない。
「それで君は?」
「僕は二年四組の森川湊也。森林の森に、三本線の川で森川、さんずいに奏でる也で湊也」
「わかりにくいね」
「僕もよく言われる」
彼女に倣って僕もスマホに自分の名前を打ち、画面を見せた。もちろん、僕は正面から普通に差し出す形で。
「おーなるほど。湊也くんね。よろしく、ソウくん!」
「……なんでいきなりあだ名呼びなの」
「そのほうが親近感出るかなって。ソウくんも私のことは紬未でもつぐつぐでも好きに呼んでね!」
「うん、そうするよ。久空さん」
「なんで一番距離を感じる呼び方なの!」
久空さんの抗議に僕は特に答えることなく、もらったペットボトルのお茶を口に運んだ。そもそも僕のような友達と呼べる存在が少ない人にとって、同い年の異性を名前呼び、ましてやあだ名呼びをする習慣はない。なら選べる選択肢はただひとつだ。
「それで、久空さん。僕をこんなところに拉致してきて何を手伝わせるつもりなの?」
「えーもう本題に入るの?」
「僕だって暇じゃないんだから。明日の補習の予習とか、夏休みの宿題だってあるし」
「補習は任意参加なんだから予習は適当でダイジョーブ。夏休みだって今日が初日なんだからまだまだ時間はあるあるある!」
「最終日に終わらないって嘆くフラグだろ、それは。何事も早いに越したことはない」
この晴れ渡った夏空に負けず劣らずの能天気な物言いに、僕は苦笑で返した。なんとも羨ましい限りだ。
「もうーせっかちなんだから。それで手伝う内容だよね。ちょっとこっちに来て」
口先を尖らせながら渋々といった様子で彼女は僕の先を歩き、入ってすぐ右奥の塀の近くにある蔵の前で止まった。
「これは?」
「これはね、私のおじいちゃんが所有する蔵なんだ。なんでも江戸時代からあるんだって」
「江戸時代、それはすごいね」
ひと昔前の小説が好きな僕としては、木の上から降ってきた変な少女よりも趣ある土蔵のほうが興味がわいた。外観としては、石垣の上に焦げ茶色の板張りがなされており、その上には漆喰で仕上げられた白い土壁がそびえ立っている。石階段を昇った先にある庇の下には頑丈そうな土戸が構えられていた。
「さっ、ということでほら、早速出番だよ」
「出番?」
「うん。正面の扉、重すぎて私じゃ開かないから開けてよ」
興味わく蔵から興味のない久空さんへと視線を向けてみれば、想像以上に楽しそうな笑みを浮かべていた。なんとなく嫌な予感が背筋によぎる。
「開けたら恐ろしい怪物が姿を現す、とかないよね?」
「あはははっ! あるわけないじゃん! 小説の読みすぎだよ!」
けたけたとあけすけに笑われ、やっぱり僕の予感は正しかったと内心頭を抱えながら、僕は足早に石階段を昇り、土戸に手をかけた。それは確かに思った以上に重く、両手と全体重をかけてどうにか開くことができた。
「え」
達成感に包まれたのも束の間、僕の口からは呆然とした声がもれた。なぜなら重い土壁の後ろには、これまた頑丈そうな木製の扉が行く手を塞いでいたのだから。
「二重扉らしいよ。最初の扉は空襲とか火災とかがあった時に閉めて、蔵を守るんだって」
「今は空襲も火災もないのに、なんで閉めてあったの?」
「ん~ソウくんが頑張って開けてくれるところを見たかったから?」
僕が苛立たし気に階段を下りようとすると、慌てて彼女は僕を押しとどめてきた。「うそうそ、泥棒よけにいつも閉めてるんだって!」と弁明しなければ本気で帰っていたところだ。
「それで? このごつい扉も力づくで開ければいいの?」
「あー待って待って。その扉には鍵が二つついてるから、これで開けるんだよ」
そう言って手渡されたのは、先ほど彼女が家の中から持ってきた古ぼけた鍵と、変な形の木の棒だった。先端が少し折れ曲がっていて、その下ほどになにやら横線が一本引いてある。
「こっちの鍵はなんとなくわかるけど、この変な棒はなに?」
「その棒はね、下の方にある小さな丸い穴に入れて鍵を開けるんだよ。横線のところまで入れたら、クルって時計回りに回して、手応えがあったらその棒を入れたまま扉を引くんだよ」
「え、それで鍵が開くの?」
「うん、そうみたい。猿落としっていう昔の鍵なんだって」
「へえー」
猿落とし。さっき彼女が木から落ちてきたのとかけているんだろうか。猿も木から落ちるということわざもあるし。
「なんか変なこと考えてる?」
「い、いや。なんでも。じゃあ、開けるぞ」
つくづく洞察力がある彼女に背を向けて、僕は二つの鍵を使って扉を開けた。
むわりと、蒸し暑い空気が外へ飛び出した。ややかび臭いにおいや湿ったほこりのにおいをはらませて、それは容赦なく僕の身体を通過し、晴れ晴れとした夏の大気に混ざっていく。
そうして嗅覚で土蔵を味わっていると、次第に暗闇に目が慣れてきた。
「うわあ……」
感嘆の息が漏れた。そこには、所狭しと木箱やら人形やら書物やらが床を覆い、壁にある棚を埋め尽くしていた。二階程度の高さにある小窓から微かに漏れる陽の光だけでは、とても見切れないほどの量だ。
「ほい、電気」
やがて、のんきな声とともに近代技術の粋が込められた人工の光が室内を照らす。すると、蔵の隅のほうで息をひそめていた古物までもが顔をのぞかせた。その数、ざっと見渡しても三百ほどはあるだろうか。
「すごいな、これ」
「ふふっ、でしょ。私も初めて見た時はテンション上がったもん」
「それで、べつにこれを僕に見せたかっただけじゃないでしょ?」
すぐ横からひょっこりと顔を出している久空さんに目を向ければ、「そりゃあもちろん」と満足げに頷かれた。
「ここのどこかにね、私の宝物が埋まってるの」
「宝物?」
「うん。あ、宝物そのものというか、宝物の場所を示した地図、といったほうがいいかな」
僕はますます首を傾げた。どういうことだろうか。
「それはなに、昔から受け継がれてきたもの、とかそういうもの?」
「ううん。私がね、小さいころに作った手書きの地図なんだ。ここ、昔から蔵にあったものだけじゃなくて、物置にもなっていてね。私の小学生のころの教科書とか、それこそ昔遊んだおもちゃとかも置いてあるんだ。それで、その時に一緒にしまっちゃったみたいなの。大切な宝物の地図が」
「なるほど」
これはつまり、この蔵の中身を軽く整理しつつ、彼女の失くし物もとい探し物を一緒に見つけてほしいということか。
「……え? この中から?」
「うん、この中から!」
その大変さに気づいて思わず訊くも、彼女は真夏の太陽に負けない笑顔で頷き返してきた。なんてことだ。
「待って、どんだけ時間かかると思ってんの。今日中に見つかるかもあやしいんじゃ」
「まあ、そうなったら明日もよろしくということで」
「いや、あのさ。いくらなんでも図々しすぎないか」
「お茶飲んだでしょー、半分以上」
「え、これもしかして報酬?」
まるで詐欺じゃないか。というか、この五〇〇ミリペットボトルのお茶で僕という労働力を駆り出そうと思ったのか。低賃金すぎないか。
「まあまあ、とりあえず今日だけでも手伝ってよ。私も少し前から探してて、左中ほどのところは捜索済みだから残りのところで手分けして探したいんだよね。あ、奥のところは昔の物しかないから探さなくて大丈夫だからね!」
「はあ、もうわかったよ」
やっつけ気味に僕は了承した。どうせ今の僕には拒否権なんてない。今日だけ適当に探して、あとは知らぬ存ぜぬを決め込めばいい。
「じゃあ私は比較的きれいな左手前のところを探すから、ソウくんは右中ほどのところをお願いね!」
「それ、絶対なんかあるだろ」
「だってその辺り、怖いお面とかたくさんあるんだもん。あと虫が多い」
「最悪すぎる」
ため息をつきつつも、僕は早く終わらせるべく鞄をわきに置くと、ほこりっぽい蔵の中へ足を踏み入れた。
案の定、入り口付近に比べて奥のほうはよりほこりっぽさと湿気とかび臭さが充満していた。彼女が探したという左奥は確かに整頓されており、その努力の一端がうかがえた。もっとも、この努力のせいで僕に嫌な場所が回ってきたのには違いないが。
「どう~? 見つかった~?」
「いや、早すぎるだろ」
まだ探し始めて五分どころか一分も経ってない。というか探し始めてすらない。
せっかちなのはどっちだと、先ほどの彼女の言葉を思い出しながら僕は軽く辺りを見回した。
入り口からではわからなかったが、確かに蔵の中には時代様々、ジャンル様々なものが陳列していた。ベビーベッドと思しき小さな柵のついた荷台やほこりの少ないダンボールが積まれたところもあれば、僕らの住む金沢らしい金箔を用いた蒔絵が施された漆器や額に入れられた加賀繡、能登の輪島塗や九谷焼の茶碗なんかが棚に飾ってある。さすがにあのエリアには立ち入りたくない。
彼女から手渡されたタオルを首にかけ、手始めに僕は足元にあったダンボールを開いていくことにした。蓋を開けば日に焼けた自由帳が出てきたので、パラパラとめくってみる。
「これは、漢字の練習ノートか。小学三年生」
「え、ちょっ」
「あ、絵描き帳も出てきたな。花の絵ばっかり描いてある」
「ちょいちょいちょい! 何勝手に見てんの!」
小さな叫び声とともに後ろからノートをひったくられた。
「だって、こういうところにその宝物の地図が挟まってるかもしれないだろ。しっかり確認しないと」
「ないよっ! 地図は小さな銀色の缶箱に入れたんだから!」
「それを早く言わんかい」
重要な情報を後出しされ、僕はやれやれとため息をついてみせた。まあ、ノートをめくったのは単なる嫌がらせの意味もあるが。
ぶつくさと文句をこぼしつつ自分の持ち場へと戻っていく彼女を尻目に見送り、僕は改めて違うダンボールを手にとった。
「えーっと、缶箱、缶箱……」
蔵の中は風が通らないため蒸し暑く、早くも嫌気がさしてきたところへ、それは目に飛び込んできた。
「……カメラ」
「え? なにか言った?」
「べつに、なにも」
僕はそれ以上そのダンボールの中を探すことなく、先ほどの自由帳が入っていたダンボールの上に積んでおいた。
油断、してたな。
あの時誓った、自分の中の約束事。
なるべく人との関わりは避けて、思い出は作らないと決めたはずなのに。
さっさと終わらせて、金輪際彼女とも関わらないようにしよう。
僕は次のダンボールをやや乱雑に空けながら、昔の誓い言を再び心に刻み込んだ。
*
僕は昔、カメラマンになりたかった。
理由は至極単純で、綺麗な景色や笑い合う両親を撮るのが楽しかったからだ。
「ねーねー! 見て~!」
「おおっ、すごいな。綺麗に撮れてるじゃないか、湊也」
「ほんとねー。ねえ、湊也。今度は三人で撮ろっか」
僕の両親は仲が良く、休日にはいつもいろんなところに連れて行ってくれた。動物園や水族館、遊園地といったテーマパークから、海や山や川、公園など自然の多いところまで、じつにたくさんの場所を三人で訪れ、はしゃぎ、心の底から笑い合っていた。
そのたびに僕は両親から買い与えられた小さなデジカメを首から下げ、見上げるほどのキリンやゾウをフレームに収め、自由に泳ぎまわる回遊魚たちにデジカメを向け、ベンチに座って仲良さそうに談笑する両親の笑顔を写真として保存した。二人は僕が笑顔であちこちにデジカメを向ける様子を遠くから見守り、必ず僕が撮った写真を褒めてくれた。
そして楽しい時間は、家に帰ってからも続いた。
「おーこの写真もいいなあ。なあ、湊也。どっちの写真を現像する?」
「えー決めれないよー。ねねっ、お母さんが決めて!」
「お母さんが決めていいの? じゃあ両方で」
「おいおいさっきからそればっかりじゃないか。アルバムに入り切らないよ」
夕食後、僕たちはその日撮った写真をパソコンに入れ、三人で見返しながらアルバムに入れる写真を選ぶのがお約束となっていた。家電量販店に勤めていた父がイチオシするパソコンの画面を三人で眺め、父のお気に入りだったプリンターで印刷する。そしてデザイナーだった母と一緒に描いたイラストや模様で飾り付けたアルバムに写真を貼り付けていく。家族三人で思い出のアルバムを作り上げ、ふとした時に見返す時間が、なにより楽しかった。
あの日も、そうだった。
「ねえ、お父さん! ここどこだっけ!」
「あー何年か前に行った山の上にある公園だな。いやー懐かしいなあ」
「ほんとね。ちょうどあのころからだったかな、湊也にデジカメをプレゼントしたの」
「え~あんま覚えてないんだけど」
「はっはっはっ、湊也はまだ小さかったからな。覚えてなくても無理はないさ」
「お父さんとお母さんだけ覚えててズルい! ねえ、今度の日曜日にでも行こう!」
本当に何気なく、無邪気に、素直に、僕はおねだりをしていた。
父も母もそんな僕に優しげな笑顔を向けてくれ、二つ返事で頷いてくれた。「そうと決まればデジカメの充電しないとな~!」と力拳を作って笑う父と、「そうね~私も張り切ってお弁当作らないと!」と鼻歌まじりに笑顔を浮かべる母の表情を覚えている。当時小学四年生だった僕は「よっしゃー!」と叫び、テンションがうなぎのぼりになっていた。
本当に、いつもの夕食後の時間だった。
そしてそれは、僕がカメラマンの夢を諦めるきっかけになった日の朝も同様だった。
「湊也、忘れ物ない? デジカメ持った?」
「うん、持った! ほら、早く行こ!」
「はははっ、わかったわかった。それじゃあ、行くか!」
あの日は、よく晴れた日だった。前日まで降り続いていた雨は上がり、アブラゼミの鳴き声が姦しく響いていた。
そんな夏空の下へ、父が運転する車に乗って僕たちは出かけた。
いつものように僕は助手席後ろの後部座席に座り、窓の外から流れゆく景色を眺めてはカメラを向けていた。もちろんピントが合うはずもなく、満足のいく写真は撮れなかったのだけど、「いい景色でもあったのかー?」「シートベルトはしっかりしてね」と二人が笑いながら話しかけてくれるのが嬉しくて、飽きもせずにぼんやりと窓の外へ視線を留めていた。
外の風を感じたくて少しばかり窓を開け、遠く見える山の稜線を見つめては今日はどんな写真を撮ろうかなと考えていた、そんな時だった。
「きゃああっ!」
すぐ前から、悲鳴が聞こえた。僕は驚いて視線を前に向けると、大きく車体が左に揺れた。
「くっ、掴まれ!」
焦ったような父の声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には甲高い衝突音と首がもげるかと思うほどの衝撃が全身を貫いた。
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
僕と母、二つの悲鳴が車内に響いた。衝撃が収まるまで助手席のシートにしがみつき、目を閉じること僅か数十秒。全身を震わせていた衝撃が止み、車は停止した。
「……ってて」
僕はゆっくりと首を持ち上げ、両親がいるはずの前を見て、戦慄した。
「あ、あああ……」
まず目についたのは、血まみれのつぶれたエアバック。
その上には、同じ鮮血の色に頭を染めた、父の後ろ姿が横たわっていた。
「お、おとう、さん……?」
手を伸ばし、その腕を強引にゆするもピクリとも動かない。僕は金具が歪んで外れないシートベルトの下から身体を滑らせて抜け出すと、激しく父の肩を揺さぶった。
「お父さんっ! 起きて! ねえ! お父さんっ!」
なおも沈黙を貫く父に、僕はハッとしてすぐ隣を見た。
「お母さんっ! ねえ起きてよ……っ! おがあさんっっ!」
同じようにエアバックの上で目を閉じ、横たえる母に僕はすがりついて名前を呼んだ。震える声で、乾いた喉を酷使しながら。それでも、父と同じく母も何も言わなかった。
あれほどまで僕の心を温かくしてくれた声は、完全に聞こえなくなっていた。
「ねえっ! ねえってば! おぎでよっ! おどうさんっ、おがああさんっっ!」
しゃくり上げ、大泣きしていた僕は、それから間もなくして到着した救急隊員によって救助された。ほぼ時を同じくして血まみれの父や母も救急車に乗せられ、市内にある中央病院へと搬送された。
そこから先は、あっという間だった。
事故の原因は相手側の前方不注意。
父は全身を強く打ち、内臓破裂と出血多量で即死だった。
母は一命こそとりとめたものの、靭帯断裂と神経損傷で満足に利き手を動かすことができなくなった。
僕は、単なる軽度の打撲だけだった。
呆然としているうちに父の葬儀は終わり、母は天職だと言っていたデザイナーの仕事を辞め、市内にある大手企業で正社員として働くこととなった。あれほどまでに笑い声に溢れていた日常は一瞬にして冷え切り、何かを忘れるように夜遅くまで働く母とはほとんど顔を合わさなくなった。
ただひとつ、『夕ご飯です。温かくして食べてね』と添えられたメモの下に描かれた歪んだ落書きと、それに対する僕からの返信だけが、数少ない家族のコミュニケーションになっていた。
犬の落書きには、『ご飯美味しかったよ』と。
猫の落書きには、『またハンバーグが食べたいな』と。
鳥の落書きには、『今度は僕がご飯を作るね』と。
今までなら難なく口頭でしていたやりとりすらも、できなくなっていた。
あれから、約七年。
あの日以来、僕は一度も両親から買ってもらったデジカメを起動していない。
そもそも、母が苦労して稼いだお金で買ってもらったスマホにも、写真は一枚も入っていない。
カメラを向けようとすると、あの日のことがフラッシュバックしてくるようになった。
あの日、あの事故は、僕の一言が原因で起こってしまった。
もしあの時、僕が無邪気に「今度の日曜日にでも行こう!」なんて言わなければ、あんな前方不注意車とかち合うこともなかった。
写真を撮ることに夢中にならなければ、アルバムを見返すこともなく、事故に遭うこともなかった。
父が死ぬことも、母に後遺症が残ることもなかった。
笑い声に溢れていた家庭を壊すきっかけを作ったのは、僕だ。
そう思うと、僕は写真を撮ることが怖くなってしまった。
楽しい思い出を作ることすらも怖くなって、自然、人と関わる機会は減っていった。
所詮、誰かと楽しい思い出を作ったところで、いつかは悲しみに変わってしまう。
そうなるくらいなら、はじめから楽しい思い出なんてなくていい。
楽しい思い出に繋がる友達や恋人といった大切な人は作らず、ひとりで平凡な人生を送っていく。
いや、平凡よりも少し下。常にマイナス二〇パーセントの人生といったところか。
浮き沈みなんていらない。楽しくなければ、悲しくなることもきっとないから。
そうして僕は、密かに心に誓った。
人との関わりは最低限、敵も味方も作らず静かに生きていこうと。
楽しくなるような、心が温かくなるような思い出は作らずに生きていこうと。
そう、心に決めていた。
そう心に決めていたのに、どうやら想定外の事態が起こった時は、人というやつは正常な判断ができなくなるらしい。
突然下校中にすぐ真横の木の上から女の子が降ってきて、下着を見ただの責任をとれだの理由を付けられて押し切られたかと思えば、古びた土蔵で宝物の地図探しを手伝わされている。どこのラブコメだと思った。
けれど、ここはラブコメの世界ではない。つまるところ、この手伝いが終われば僕と彼女の関係は赤の他人、あるいは隣のクラスにいる知り合いになる。それ以上でも、それ以下でもない。それでいいと思ってるし、そうでなければならない。僕はもう、そんな思い出に繋がりそうな人とは関わりたくないのだから。
「……にしても、ぜんぜん見つからないな」
額から頬、そしてあごの先へと流れ落ちていく汗を拭いつつ、僕は今しがた確認し終えたダンボールを奥へ追いやった。これで一応、僕が担当していた右中ほどにある物置き場はひととおり見終えたことになる。
結局、僕が確認した十数個にも及ぶダンボールや木箱にはそれらしい缶の箱は見当たらなかった。となると、残るは久空さんが確認している左手前の場所か、彼女も僕も確認していない右手前の場所、あるいは土壁を覆い尽くすようにして並ぶ棚のどこかにしまわれているとみて間違いない。
手伝いはこんなところか。
ポケットに入れていたスマホの画面を点けると、ちょうど時刻は午後四時を指していた。さすがにそろそろ帰らないと家事やら宿題やらに支障をきたしてしまう。
これで彼女への義理……はないな。あらぬ責任は果たしたということで、僕を半ば脅して拉致してきた当人に声をかけるべく蔵の中を見渡したところで、違和感を覚えた。
「え……いない?」
ついさっきまで少し離れた壁際であれこれ探していたようだった制服姿は、忽然となくなっていた。まさか、僕ひとりに捜索を押し付けて帰ったか、涼みに行ったのか?
ありえない。
僕の中でもともと低かった彼女への評価がさらに下がる。
けれど、それはそれで僥倖でもある。そんな薄情な人間であれば、必然的に相性は合わないし、楽しい思い出を作る相手になりえる可能性すらもないから。
まあ逆に良かったかと変な安心感を覚えつつ、この隙に僕もお暇しようかと思った、その時だった。
「きゃあああ!」
どこかで聞いたような悲鳴が、どこかで聞いたような角度から、降ってきた。
「うそだろっ!?」
その可能性にはたと思い至り、僕がちょうど上を見上げたところで、けして小さくはない衝撃が僕の腹部を直撃した。
「ぐえっ」
「ふぎゃ」
情けない声をあげて、僕らはほこり舞う地面へと倒れ伏した。濛々と薄茶色い粒子が大気を舞い、小窓と入り口から差し込む斜陽に照らされてキラキラと輝いた。
本来なら突然降って湧いた出来事に混乱するところだが、図らずも僕は事態をすぐに飲み込むことができた。というのもつい最近、まさに数時間前に似たような現場に遭遇したばかりだから。
「……ったく。ねえ、大丈夫?」
僕は内心で呆れかえりつつも、未だ僕の胸部から腹部にかけて乗っかっている事の元凶に向けて訊いた。すると、おもむろに久空さんは僕の上で起き上がり、殊勝にもペコリと頭を下げた。
「……はい、おかげさまでなんとか。ソウくんは怪我はない?」
「僕も大丈夫だけど。あのさ、一日に何度落下すれば気が済むんだよ。危ないだろうが」
「はい。返す言葉もございません」
本当に、どこまでも素直に彼女は頭を下げてきた。さっきまでの勢いはどこへやら、急にしぼんだ彼女の態度にこそ僕はやや困惑した。僕の腹部の上でしょんぼりと首を垂れるその様子は、さながら飼い主に怒られて意気消沈した子犬のようで。その落胆ぶりに、もしかしてどこか怪我をしているのではと心配になる。
「どうしたんだ? やっぱりどこか怪我でもしたんじゃ……」
「いや、あのね。あれ見てよ」
彼女が指差すほうへ視線を向けると、ちょうど二段目の棚のところに銀色の缶箱が半分ほど飛び出た状態で乗っかっていた。
「もしかして、あれが?」
「うん、たぶん。もうちょっとで取れそうだったのに、落っこちちゃって。悔しいな~って」
「なるほどね……ってか、いつまで乗ってる! 早く降りろ!」
僕の心配をよそに、当の元凶はただ自分の力が及ばなかったことを嘆いているだけらしかった。しかも僕を下敷きにしたままで。なんだそれは。
僕が叫ぶと、久空さんははじかれたように飛び退いた。さらにあろうことか、苦笑を浮かべつつもう一度頭を下げて、「あの缶箱を取ってはいただけませんでしょうか」と慇懃無礼に頼み込んできた。なんとも調子のいい。
かといって、あれを取らなければいつまで経っても僕の身柄が解放されないので、取らないという選択肢はなかった。渋々立ち上がった僕は、彼女が乗っていた梯子に乗っていとも簡単に缶箱をとってみせた。
「わあ、ありがとう! さっすがソウくんっ!」
「いちいち調子がいいよね、久空さんは」
どこまでが計算か。きっと教室でも僕と違ってみんなから好かれているのであろう笑顔を惜しみなく向けてくれた彼女に、僕は苦笑とともに棚から取った成果物を手渡した。
「きっとこれだと思うんだけど……」
僕から缶箱を受け取った久空さんは、なぜか僕に見えないように背を向けると力を振り絞ってすっかり固くなった蓋を開けた。ガコンッ、と高い音が土蔵内に響き、銀色の表面が陽光を反射させる。
「あ、あった! これだよ、これっ!」
「そうか、見つかったんだ。良かったね」
どうやらようやく僕もお役御免らしい。ふう、と小さくひと息をついた僕に、久空さんは振り返ってにやりと口の端を吊り上げた。
「見たい? 宝物の地図」
イラっとした。
と同時に納得もした。なるほど。これがしたかったから、開ける時に僕が見えないようにしたのか。
もっとも、僕はそんな子どもじみたものに興味はなかったので、大仰にまたひとつため息をついてから素っ気なく答える。
「べつに」
「え~そんな強がらなくていいのに~。ほんとは見たいんでしょ?」
「いやまったく」
「強情だなあ。本音は?」
「早く帰りたい」
「なんでよ!」
本日二回目となる押し問答が繰り広げられた。この様子を見るに、どうしても僕に宝物の地図とやらを見てほしいらしい。けれど、それを見てしまったが最後、またなにかとてつもなく面倒なことを言われる予感がしてならなかった。
彼女の背後に見える蔵の入り口から、随分と傾いた太陽がこちらを眺めている。もう一時間かそこらで日没だろう。いい加減に帰らないと、本当にいろんなことに支障をきたしそうだ。
ついには強引に見せようとしてくる彼女に向かって、僕は仕方なく口を開いた。
「ちなみになんだけどさ、まだなにか僕に手伝ってほしいことがあるんじゃないの?」
「ドキッ」
わざとらしい効果音が彼女の口から漏れた。なんて白々しい。
「僕と一緒で久空さんもわかりやすいんだよ。おおかた、その地図の場所にある宝物とやらを一緒に探してほしいとかでしょ」
「ドキドキッ!」
効果音に似合わず、彼女の瞳は爛々と輝き始めた。
言うまでもなくそこにあるのは期待。胸の前で大事そうに抱かれた宝物の地図のしわも深くなっており、どうやら僕が想定していた一番嫌な予感は当たっているらしい。
「申し訳ないんだけど、僕が協力できるのはここまで。あとは友達とかと頑張ってよ」
「えーーーーーっ! なんでーーーーーーーっ!」
今日一大きい叫び声が蔵の中にこだました。耳奥でキーンと耳鳴りが響き、思わず僕は顔をしかめる。
「うるさいよ。てか当然だろ」
「なんで! 一緒にほこりまみれの蔵から地図を探し出した仲じゃん!」
「君が半ば強引に連れてきて手伝わせただけだろ」
「うっ。そ、それはそうかもしれないけど……」
宝石のように輝いていた瞳が一転、微かに潤み始めた。よろよろと僕のほうへ近づいてきたかと思うと、右の指先で小さく僕のカッターシャツの袖口を掴む。これも計算だろうか。
「そんなふうにせがんでも無理なものは無理だからな。さすがに付き合いきれない」
「ど、どうしても……?」
「どうしても。なにがなんでも無理だ」
やや心は痛んだが、僕はピシャリと言い切った。比較的押しに弱く流されやすい僕でも、絶対に譲ってはならない線引きはわきまえているつもりだ。こういう時は曖昧にせず、しっかりと断らなければならない。そうでないと、きっと後戻りできなくなるから。
すると彼女は物哀し気な表情から一転、不満全開といった様子で頬を膨らませた。
「けち! いいじゃん、最後の高二の夏休みなんだから! これまでにない楽しい思い出を作ったって!」
「最後の高二の夏休みだから有意義に過ごしたいんだよ」
楽しい思い出、というフレーズにちくりと胸のあたりが痛む。いや、きっと気のせいだ。
「有意義ってなにするの? もしかして恋人とデートとか?」
「そうそうデート。だから久空さんとは宝探しデートできないんだ。ごめんね」
「うそくさい!」
失礼極まりない言葉が飛んできた。ここに連れてきた時とは違って自分の要求が通らなくなってきたので遠慮もなくなってきたようだ。いや、最初から無遠慮だったか。
けれど、ここまで食い下がられると僕の心の中にもひとつの疑問が出てくる。
「あのさ、なにも今日初めて話した僕じゃなくてもいいだろ。久空さんならきっと友達も多いだろうし、こういう宝探しみたいなの好きな人とかいるんじゃないか?」
自分でいうのもなんだが、僕は比較的面白くない部類の人間だと思う。申し訳程度にくだらない話をしたり、必要最低限のコミュニケーションくらいはしたりするけれど、久空さんのように底抜けに明るくもなければ感情表現が得意なわけでもない。リアクションは微妙だし、楽しい思い出を作りたくないという信条もあって今みたいに付き合いも悪い。まあ、今日初めて話した人から幼いころに隠した宝物探しを手伝ってと言われても付き合う人は少ないだろうけど。
けれど、そんな自己評価を下している僕にとって、ここまで粘られるのはいささか不可解だった。
そんな僕の心境を知ってか知らずか、僕の問いかけに彼女は不思議そうに首を傾げる。
「え? そんなの決まってるでしょ。私が、ソウくんのことを気に入ってるからだよ」
「は? 気に入ってる?」
聞き間違いかと思った。ほとんど反射的にオウム返しするも、彼女は聞き間違いじゃないことを強調するかのごとく大きく頷く。
「うん、そう。今日一日、というか半日一緒にいて思ったんだ。ソウくんと、もっと話してみたいなって。あ、好きとかそういうんじゃないからね。勘違いしないでよね」
「しないよ。するわけないだろ、バカ」
「あー! バカって言った! すっごく傷ついたから探すの手伝ってよね!」
「いや、無理やりすぎるだろ」
安直すぎる責任のなすりつけにツッコミを入れつつ、僕は内心で驚いていた。ほんの少し話した程度で普通そこまで思えるだろうか。彼女は天然の人たらしなんだろうか。
「まあそれに、こんな子どもじみたことに付き合ってくれそうな友達は思い浮かばないんだよね、正直。みんなやっぱり夏休みはプールとかバーベキューとかアミューズメントパークとかで遊びたいみたいだし」
次いで、至極真っ当な理由が彼女の口から飛び出してきた。僕はやはり苦笑する。
「なるほどね。でもそうなら、その理由は僕にだって言えることだと思うけど」
「んーん、それは違うかなー。だって、なんだかんだ言ってソウくんはこの宝物の地図探しは手伝ってくれたじゃん。そういうこと、ほんとは好きなんじゃないの?」
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
ふいに、いつかの思い出が脳裏をよぎった。僕は慌てて思考を掻き消す。
「まさか。さっきも言ったけど、ここに来たのは成り行きだよ。久空さんの友達と同じで、僕も高二の夏休みは他のことに時間を使いたい」
「もう~強情だなあ」
「どっちが」
そこへ、午後五時を知らせるメロディが防災無線から流れ始めた。まだ夏真っ盛りということもあって空の色は明るいが、既に夕方という時間帯に入っていることには変わりはない。
「ありゃ、もうこんな時間か。今日のところは引き下がるけど、またお願いしに行くからね! あ、連絡先も交換しとく? 気が変わったら連絡してよ」
「変わらないから遠慮しとく。お願いも迷惑だし来ないで」
「あははははっ!」
僕の容赦ない拒絶もどこ吹く風。久空さんは華麗な足取りで僕から距離をとると、無邪気な笑顔を向けてきた。
誰からも好かれそうな、人懐っこい笑顔だった。
そこで初めて、つい今の今までカッターシャツの袖口を掴まれていたことに僕は気がついた。
今日も、アブラゼミが夏の朝空に向けて大合唱を奏でていた。
既に道路わきに設置された気温計は三十三度を超えており、朝の天気予報で言っていた本日の予想最高気温は三十五度だという予報は当たっていそうだと確信する。いや、逆か。これからさらに太陽はその厳かな高度を上げていき、道行く人々を見下ろしながら容赦ない陽光を浴びせてくるだろう。となれば、予想最高気温三十五度なんてものは軽々と超えてしまうに違いない。やはりいつものごとく、今日の天気予報は外れそうだ。
頬から流れ落ちる汗を拭い、すでに半分沸いた頭で心底どうでもいいことを考えながら、僕は傾斜のやや急な坂を登っていく。体力のほとんどを使い切って登ったあとはこれ見よがしに誘惑してくるコンビニの横を抜けて住宅街に入り、日陰を見つけてしばらく歩けば高校に着く。高校一年生の時から既に一年以上使っている通学路だが、この夏の期間は特にしんどい。
少しでもそんな暑さやしんどさから意識を逸らそうと、僕はぼんやりとした頭で昨日のことを思い返していた。
結局、僕はあの失礼で強引で頑固で底抜けに明るい久空さんからの頼みを断った。正確には、また誘いに行くという捨て台詞を残させて、その日は勘弁してもらえた。つまるところ、延長戦に持ち込まれたわけだ。
「ほんとなんなんだよ、あいつ」
無意識に文句が口をついて出る。本当に連絡先を奪われなくて良かったと思った。もし手に入れられようものなら即座に延長戦の火ぶたが切って落とされ、僕は体力と気力負けを喫していたかもしれない。いくら押しに弱いとはいえ、そこばかりは絶対に死守しないといけない。
そしてなによりの疑問は、なぜ宝物探しをする相手に僕を選んだのか、だ。
僕は過去の事故のこともあって、他の人となるべく関わりたくない。というか親しくなって楽しい思い出を作りたくない。楽しい思い出をつくるとあの日の出来事がフラッシュバックして、いつかそうした関係も壊れてしまうんじゃないかという恐怖に襲われる。動悸とかめまいといった症状はないにしろ、僕にとって少なからずあの日の出来事はトラウマになっている。
そんな個人的事情もあって、説明はしていないにせよ僕は断固として久空さんの申し出を断っているというのに、なぜあそこまで食い下がってくるのだろうか。普通は何度か断られたら諦めるものじゃないだろうか。
彼女は気に入っているからと言っていたが、なにをどう考えても奇妙すぎる。僅か数時間しか過ごしていない僕のどこに気に入る要素があったのか。木から落ちてきたところを心配したから? いや、普通誰だって人が木の上から落ちてきたら心配するだろう。人として当たり前の気遣いだ。
なら、宝物の地図探しをしっかり手伝ってくれたから? 一番可能性としてはありうる。彼女の身の回りにはそういうことに興味のありそうな人がおらず、頼める人がいなかった。そこへたまたま知り合った同じ高校の同学年の人に頼み込むと手伝ってくれることになり、紆余曲折があるにしろ目的のものが見つかるに至った。久空さんにとってみれば自分の周囲にはいないタイプの人なんだろう。もう少し話してみたいと思った。なるほど、これだな。
「原因は僕の押しの弱さじゃないか……」
思わず天を仰いだ。夏休み二日目の朝は、昨日と同じくきれいに晴れ渡っている。
ただそうであるならば、その原因を反省して次に活かすまでだ。つまりは、引き続きなにがなんでも彼女のお願いは断る。断り続ける。流れや押しに流されない。下着を見たのがどうのと言われても動揺しない。これに尽きる。
あとはそう。なぜこの高校二年生の夏休みに、宝物の地図探しや宝物探しをしようと思ったのか、もわからない。彼女自身も子どもじみたものだと言っていたし、自覚はあるんだろう。普通なら、そんな小さいころに作った宝物の地図なんて忘れているか失くしているか捨ててしまうかのどれかだ。それを見つけ出して、しかも現地まで探しに行こうとするなんて、相当大事なものでも埋めたんだろうか。そのことを、思い出しでもしたのだろうか。
あるいは、とても楽しい思い出で、夢にでもみて懐かしさのあまり行動に移したのだろうか。
「…………ふう」
まあ、正直その理由なんてどうでもいい。
だって僕は、彼女の手伝いはもうしないと決めたのだから。
思考の沼から上がろうとした時、ちょうど僕は件の歩道を通っていた。少し先に立っているのは、昨日久空さんが落ちてきた街路樹。常緑樹であるその木は、季節問わずいつも新緑の葉をつけている。今日も今日とて、生温かい南風に揺らされて微かな葉擦れの音を鳴らしていた。
思えば、昨日は本当にびっくりした。まさかこの木の上から、隣のクラスの女子生徒が降ってくるなんて想像もしな……
「え?」
変な感慨に浸ろうとしていたその時、がさりと木の枝が揺れた。かと思えば、白と黒の影がふわりと上から降ってきた。
「あれ、誰かと思えばソウくんじゃん」
白は女子の制服のブラウス、黒もとい紺色は女子の制服のスカート。すなわち常緑樹の上から降ってきたのは制服姿の女子生徒。朝から、というか一日を通して木の上に登ろうとするアクティブで非常識な高校生なんて、きっとこの県内を探しても一人しかいない。
「久空、さん……」
僕がため息とともにその名前を呼ぶと、目の前で髪をなびかせている少女は嬉しそうに相好を崩した。
「おはよ、ソウくん。昨日ぶりだね」
「ああ、ほんとに。というか、なに。なんでまた木の上から? もしかして待ち伏せしてたの? わざわざこんな朝に? 木の上で?」
次から次へと疑問が口から飛び出る。それはもう反射的に。僕の続けざまに放った質問攻めに、さすがの久空さんも驚いたように目を見開いた。
「ええ、ソウくん。その程度の驚きなんだ! これは多かれ少なかれ私がいることを予想してくれてたのかな? そうならちょっと嬉しい!」
違った。まったくべつの方向からの返答をされた。さすがの僕も辟易として肩を落とす。
「あのな。そんなわけないだろ。ただ単に少しばかり耐性がついただけだ。というか、質問に答えろ」
「もう~相変わらずせっかちなんだから。残念ながら、私がここにいたのは君を待ってたわけじゃなくて、ちょっと探し物をしてたからだよ。残念ながらね」
「べつに残念じゃないけど。てか、探し物? またなにか失くしたのか?」
「あはは、まあそんなところで」
誤魔化すように後ろ頭をかく彼女に、僕はまた小さくため息をついた。呆れてものもいえない。どこまでも探し物が好きな少女だ。
「ちなみにダメ元で訊くんだけどさ、この辺りでなんか紙切れとか見てないよね?」
「紙切れ? 見てないけど、なにが書いてあるんだ? プリントかなにか?」
「んーん! 見てないならいいんだ。ありがとね!」
それだけ訊くと、意外にもその探し物好きな少女は小走りで学校のほうへ走り去っていった。もっとあれやこれやと昨日の続きやら無駄話やらの攻撃に備えていただけに、なんだか肩透かしをくらったような気分だ。
そこでふと思い当たる。これはもしかしてあれか。押してダメなら引いてみろ、というやつか。
もしそうなら、まんまと僕は彼女の術中に陥っていることになる。危ない危ない。
僕は再度気を引き締め直すと、彼女のあとに続いて高校へ向かおうと一歩踏み出した。
本当に、何気なくだった。
何気なく僕は、昨日彼女が尻もちをついていた生垣へと視線を移していた。
そこは僅かに角の枝が折れているだけで、思いのほか目立たなくなっていた。きっと当事者でなければわからないほどに、普通だった。
そんな緑色が生い茂る隙間に、ちらりと白いものが見えた。その色ゆえにドキリとしたのはほんの一瞬で、すぐにそれは一枚の紙片であることがわかった。木の根と生垣の隙間に、隠れるようにしてそれはぴらぴらと揺れていた。
もしかして、これが彼女の探していた失くしもの?
丁寧に、僕はそれを拾い上げる。誤って枝なんかに引っかけて彼女に攻める隙を見せようものなら本末転倒だ。
抵抗もなくスッと僕の手元に来たその一枚の紙片を、僕は何の気はなしに開いて、驚愕した。
『遺書』
罫線しかない簡素で真っ白な便箋の一行目は、そんな言葉で始まっていた。
*
「はい、ここはですねー。未然連用終止連体仮定命令の四つ目、連体形ですねー」
チョークの音を規則的に鳴らしながら、いやに声の高い古典の男性教師は解説を述べていた。開け放たれた窓からは時おり南風が教室に吹き込み、ぱらぱらと手元のノートを勝手にめくっていく。
みんなが必死に元のページを探しているさなか、僕はぼんやりと窓の外を流れるうろこ雲を眺めていた。くるりと手元で回すシャーペンは未だに、そのノートに一文字も黒鉛を落としていない。
くるりくるりとシャーペンの感触を確かめるように回すたびに、僕の頭の中では彼女の顔がちらついていた。
『遺書
これを読んでいる時、きっと私はもうこの世にはいないでしょう。
先天性の肝臓疾患があると判明してから約十年。私は必死にこの病気と闘ってきました。
二十歳まで生きられないかもしれないと言われ、高校一年生の秋には病状が悪化して余命が二年と宣告されて以来、泣いてしまうこともたくさんありましたが、どうにかここまで生きることができました。それはひとえに、家族や友達、私を支えてくれたみんなのおかげです。
本当に、ありがとう――』
今朝。僕は生垣の影で一枚の便箋を拾った。
それは「遺書」というワードから始まり、「肝臓疾患」、「余命が二年」など、およそ僕の日常生活には縁のない言葉がたくさん綴られていた。所々には文字が歪み滲んだような跡もあり、書き手の押し殺すような悲しみがひしひしと伝わってきた。
ただ、僕の心を最も大きく揺れ動かしたのは、文末にあった名前だった。
『久空紬未』
最初は、見間違いかと思った。
けれど、何度見返しても文字が変わることはなかった。
次は、同姓同名である可能性を考えた。
けれど、僕の十七年間という人生において、「久空」という名字や「紬未」という名前に出会ったのはたった一度きりだった。
最後は、悪戯かもしれないと推測した。
けれど、昨日の必死に頼み込んでくる姿勢や、この年齢になって子どものころの宝物の地図を探し出して宝物を見つけにいこうとする行動、そして今朝の探し物をしている様子を顧みると、とても悪戯だとは思えなかった。そればかりか、それらすべての行動が如実に、遺書に書かれている内容の裏付けをしているようで、妙に納得してしまっている自分がいた。
つまりは、僕が昨日会った木の上から落下してきた少女――久空紬未は、肝臓の病気により余命二年と宣告されている。
これは、紛れもない事実のようだった。
「ふう……」
まあ、だからなんだというのか。
僕はべつに彼女と友達でもなければ恋人でもない。昨日たまたま数時間をともに過ごした程度の仲で、ただ隣のクラスにいる同学年の生徒というだけだ。さらには、僕はこれ以上彼女に関わる意志も理由もない。
加えていうならば、この遺書によってさらに僕は彼女から距離を置きたくなった。遺書の内容に同情し、残り短い時間をせめて彼女のやりたいようにさせてやりたいという思いはないわけではない。けれど、そこに僕という存在を巻き込まないでほしかった。
なぜなら、僕は悲しみに変わる楽しい思い出なんて作りたくないから。
余命僅かな彼女は、近い将来必ず死を迎える。少なくとも僕よりは先にあの世へ旅立ってしまう可能性が高い。
そんな彼女と一緒に宝物探しなんてしたらどうなるか。
人懐っこくて、明るくよく笑う無邪気な彼女と過ごして、まったく楽しいと思えない思い出ばかりが増えるだろうか。一分一秒一瞬たりとも、楽しいと思わないだろうか。
正直、自信がない。彼女の笑顔にほだされて、多少なりとも楽しいと思ってしまえば、それは彼女が亡くなった時に悲しみへと変わる。楽しかったな、なんて微笑をたたえて思い出せるのは時間が解決してくれた遥か先の話で、近い将来には必ず悲しくなる瞬間が来る。そしてその時には、まず間違いなく僕の過去もフラッシュバックしてきて、より悪化する可能性だってある。
いつか失い、悲しみとともに思い出すことが約束されている楽しい思い出なんて、今の僕にとっては天敵以外のなにものでもない。もっとも忌み嫌うべき最悪の代物だ。
つまるところ、彼女と縁を切るなら今のうちだ。
幸いにも、僕はまだ彼女と深く関わっていない。僕がこの遺書を見てしまったことを彼女は知らないし、宝物探しだって拒否している最中だ。押しに弱い僕が、彼女に押し切られてしまう前にこの遺書の内容を知れたことは、罪悪感こそあれ幸運だった。
遺書、元の場所に戻しとかないとな。
見つけた当初、心に少なくない衝撃を受けた僕は、唐突に頭上に鳴り響いた予鈴に驚くばかりか、焦るあまりその遺書を持ってきてしまっていた。これを早々に元の場所に戻して、素知らぬ顔で彼女のお願いを容赦なく断り続ければ、いずれ彼女は諦めるだろう。良心は痛むけれど、こればっかりは仕方ない。
僕が次の行動指針を決めたところで、本日最後の補習終了を告げるチャイムが教室内に響き渡った。夏期補習中は授業後のホームルームもないのでそのまま解散だ。
僕は結局なにも板書することなくほとんど真っ白で終わったノートや課題の問題集を鞄に突っ込むと、補習後の解放感に浸っているクラスメイトたちの間をすり抜け、一目散に生徒玄関を目指した。
おそらく、久空さんはもう一度この遺書を探しにあの街路樹の元へ行くはずだ。さすがに自分の病気やら余命やらが書かれた紙を簡単に諦めることはしないだろう。となれば、彼女が再度探しに来るまでにこの遺書を戻しておかないといけない。
僕は四つ折りにされた彼女の遺書がポケットにあることを確かめつつ、急いで靴を履き替えて外に出た。幸いにもまだ他の生徒の姿はなく、僕が元の場所に戻すところを見られる心配もなさそうだった。
とはいえ余裕はない。僕は足早に校門を抜け、暑く焼けた歩道の上を歩いていく。
ごめん、久空さん。
偶然とはいえ、勝手に中身を見てしまったこと。
余命わずかであることを知ったにもかかわらず、自分の気持ちを優先して彼女のお願いをきいてあげられないこと。
心の中に漂う罪悪感を少しでも軽くしようと謝罪の言葉を口の中で転がし、僕はようやく辿り着いた件の街路樹の根本に遺書を差し込んだ。
「あーあ。まさかソウくんだったとはねー」
突然、澄んだ声が僕の耳を衝いた。今一番、聞きたくない声だった。
心臓が飛び出るんじゃないかというくらい驚いて、僕は反射的に木の上のほうを見上げた。
「いやいやいや。さすがにいつも木の上にいるわけないでしょ」
どこか小馬鹿にするような口調で発せられた声は、上方ではなく後方から聞こえてきた。振り返れば、隣の街路樹に久空さんが寄りかかっていた。
「なんで、ここに?」
「なんでって、補習サボってそれを探してたからに決まってるじゃん」
くつくつとこらえるように笑う彼女は、小さく勢いをつけて街路樹の影から跳び出した。
「それでその紙切れ、いつ拾ったの?」
「……今朝」
「中身は? 読んじゃった?」
「…………」
もう逃れられないと悟った僕は、観念してこくりと頷いた。すると彼女は、それとわかるほどに眉を下げて、今度は困ったような笑みを浮かべた。
「……そっかあー。じゃあ、私の病気とか余命のこと、知っちゃったんだね」
彼女は僕の手から遺書を抜き取ると、昨日までと打って変わって静かな声を口から漏らした。
僕は、なにも返せなかった。
それから僕は、久空さんに促されるがまま坂を下っていた。
前を歩いているのは彼女で、僕は後ろ。しばらくの沈黙のあと、「ついてきて」と言われたっきり、僕たちの間に会話はなかった。僕もなにを話せばいいのかわからなかったし、さすがに逃げることもはばかられたので、大人しく無言でその背中を追うことしかできなかった。
やがて辿り着いたのは、誰もが知るファストフード店だった。店内に入るや、彼女は窓際の一番奥にある目立たない席を指差し、「先に座ってて」と僕の顔を見ることなく言った。僕は素直にそのボックス席に座ると、これからどう謝ろうかとようやく作戦を練り始めた。けれど、注文は思った以上にスムーズに進んだらしく、その作戦が形を帯びる前に久空さんはトレーを持って僕の向かい側の席に腰を落ち着けた。
「え」
そこでやっと、僕は声を発した。とりあえず開口一番にとにかく謝ろうと思っていた意志とは関係なく、その声は僕の口から漏れ出した。
なぜなら、目の前のテーブルに置かれたトレーの上には、それはそれは多くのハンバーガーやらポテトやらジュースやらが陳列していたからだ。
「好きなの食べていいよ。私の奢り」
「え、いや、なんで?」
「だってお昼ご飯、まだ食べてないでしょ?」
そういう意味じゃない。そう思ったが、じつに不健康そうな香ばしい匂いが僕の鼻から口、そして食道から胃のほうへと降りてきて、情けなくもお腹がぐうと音を立てた。僕は急激に熱くなった頬を誤魔化すべく、一番近くにあったチーズバーガーを手にとり口へと運んだ。結局、僕はチーズバーガーとフライドポテトのミドルサイズ、そしてコーラをご馳走になった。余命わずからしい彼女はテリヤキバーガーにチキンバーガー、ナゲット、フライドポテトのラージサイズを食べ尽くし、メロンソーダをチビチビと飲んでいた。ジュースを除いたそれらすべてを胃の中に収めるまで、僕と久空さんの間に会話はなかった。
そうして空になった包み紙を丸め終えると、満を持して彼女は口を開いた。
「うにゃーーーーーっ! なんで私が生きてるうちに遺書を読んじゃうのーーーーーーーっ!」
それはもう僕の肩が跳ね上がるような勢いで彼女は叫ぶと、そのままテーブルの空いたスペースに突っ伏して悶えだした。
「なんでなんでなんでなんでーーー! これを読んでいる時、私はもうこの世にいないでしょう……いるじゃんね、アホーーーっ! もうなに言ってるの私、ほんと最悪なんだけどもう~~~~~っ!」
「お、落ち着いて、久空さん」
幸いにも、僕らが食べ始めたころから店内は混み始めており、今ではかなり騒がしい状態となっていたので店員さんや他のお客さんに不審がられることはなかった。
一方で、完全にシリアスな雰囲気になっていた僕の胸中は、不審を通り越してもはや大混乱と大困惑だった。
「落ち着いていられるかこれがーっ! まだ読まれたのが私のクラスメイトとか友達じゃなくて良かったけども~~~! それでもこれは私が生きてるうちに他人に読まれることは想定してないのーー! 下着なんかより恥ずかしいのーーー!」
「わ、わかった、わかったから」
ふうふうと鼻息荒く肩を上下させる久空さんをなだめ、僕は傍らにあったメロンソーダを勧める。すると彼女はそれを一気に飲み干してしまったので、僕は彼女のご所望通り追加でウーロン茶をふたつ買ってきた。彼女は一杯目のウーロン茶を瞬く間に喉に滑らせ、二杯目のウーロン茶をふた口飲んでようやく落ち着いた。
「お騒がせいたしました」
「いや、とんでもございません」
恥ずかしさをリセットすべく恭しくお互いに頭を下げたところで、彼女はひとつ息をついた。
「まあ、その、遺書に書いたとおりなんだ。私は肝臓に病気を抱えてる。生まれた時から、ね。んで、それが去年の秋に悪化しちゃってることがわかって、私は十八歳までには死んじゃうでしょうってことになった。ちなみに今日みたいな食事はほんとは厳禁だから、内緒にしてねっ」
「サラッと危ないことを言うな。大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫。今日以外は守ってるから大丈夫だよ。今日だけは、特別」
そう言うと、久空さんは半分ほどになったウーロン茶を口に運んだ。特別、という言い方がいやに耳に残った。
「まあそんなわけで、見た目は至って元気な私ですが、近い将来死んじゃうわけです。ということで、再度お願い。宝物探しを、手伝ってくれないかな?」
手にウーロン茶の入ったカップを持ったまま、久空さんは僕に頼んできた。その言い方は昨日までとは違って真剣そのもので、思わず僕は口をつぐみそうになる。
けれど、やはり僕の考えは変わらない。
「……悪いけど、それでも僕は手伝えない。本当に、申し訳ないけど」
「おーおー、また振られちゃった。これはショックだなあー」
「ごめん」
再度僕が頭を下げると、彼女はウーロン茶のカップをテーブルに置いた。
「まあもうちょっと話を聞いてよ。べつに私は、心残りを消化したくてこの宝物探しの手伝いをお願いしてるわけじゃないから」
「え?」
僕が戸惑いの表情で久空さんを見ると、彼女はゆったりと背もたれに体重を預けて言葉を続ける。
「もちろん、少しはその気持ちもあるけどね。でも一番は、最高に楽しい夏休みにしたいから。そのために、私はこの宝物を見つけに行きたいの。みんなとなんら変わらない、ただ楽しい思い出を作りたいんだ」
「楽しい、思い出……」
嫌な言葉に、僕の心がざわざわと蠢き立った。
だけど同時に、ひとつの疑問符も浮かんだ。僕の心を覆い尽くそうとしている黒い感情を追い出すように、僕はその疑問符に飛びついた。
「失礼を承知で、ひとつ訊きたいんだけどさ」
「うん、なに?」
「そんなに楽しい思い出を増やしても、虚しくなるだけじゃないの? あとで思い出して、悲しくなるだけじゃないの? 自分だけじゃない。親とか友達とかも、楽しい思い出が増えれば増えるほど、君が死んだ後に悲しくなるんじゃないの? それでも君は、楽しい思い出を作りたいの?」
矢継ぎ早に投げかけた質問を、久空さんは難しそうな顔をして聞いていた。我ながら意地悪で無礼千万な質問だと思ったけれど、一度口にしてしまうと止まらなかった。
久空さんはしばらく何事か考えていたようだったけれど、やがておもむろに口を開いて言った。
「訊きたいこと、ぜんぜんひとつじゃないじゃん! 四つじゃん!」
「それはごめんだけど、誤魔化さないでよ」
「はいはーい。まあでも、簡単な話だよ。そのとおりだと思うよ。そしてそのうえで私は、楽しい思い出を作りたいの。思い出は、希望の種だから」
「は?」
どこかで聞いたような金言っぽい言葉とともに、彼女は笑みを深めた。困惑と苛立ちが綯い交ぜになって、僕は自然眉をひそめる。
「答えが気になるなら、私と一緒に宝物探しをしてみない?」
言うや否や、彼女はどこから取り出したのか、A3サイズ程度の大きさの一枚紙をテーブルに広げた。色褪せ具合からして、昨日見つけた彼女の言う宝物の地図だとわかった。
その地図に視線を落として、僕は思わず目を見張った。
「これはね、小学校三年生の時だったかな。一日だけ一緒に遊んだ男の子と一緒に作ったものなの。その子と一緒に宝物を埋めて、大人になったら掘り起こしに行こうねって約束したんだ」
「……そうなんだ」
まず目を引くのは紙の左上半分で、そこはなぜか破り取られたようになくなっていた。そして次に、下方に太く真横に伸びている水色の線だ。流れのような曲線も引かれているから、これは川だろう。そしてその上には山があり、中腹あたりには丸印が付けられている。余白には様々な色鉛筆で家々や田んぼ、公園のような絵が描かれており、筆致の異なる落書きらしきものも複数見てとれた。
そう。これは、初めて見るはずの地図。
彼女が小学生の時に作った、お手製の宝物の地図。
それなのに、目の前の地図には強烈な既視感があった。
「……一応訊くんだけど、その一緒に作った男の子は?」
「それっきり、だよ。名前は聞かなかったんだけど私と同い年くらいの男の子で、とっても笑顔が素敵だったなあ」
「……なるほどね」
僕は昨日、初めてまともに彼女と喋ったはずだ。少なくとも、今の僕の中には久空さんのような女の子と喋った記憶はない。あるのは誰かと宝物を隠した記憶と、今目の前に広げられた宝物の地図への既視感のみ。
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
また、いつかの声が頭の中に響く。きっとこれは、僕の声だ。顔の見えない誰かに向かって、満面の笑みを浮かべて話しかけている記憶。
それがいつのことなのかは思い出せない。思い出せないくらい昔のことなんだろう。
でもそうなると、まるで映画や小説みたいな可能性がひとつ思い当たる。
彼女と一緒に宝物の地図を作った男の子というのが、僕である可能性だ。
もちろん、確信はまるでない。子どものころに宝物を埋めたり宝物の地図を作ったりというのは、さして珍しいことでもない。夢で見たのか、あるいはべつの遊びをしていたのか。そんな記憶たちが混ざりに混ざっている可能性だって決して低くはない。だけど。
「ねっ、どう? 私も記憶が曖昧でさ、手伝ってくれる人がいると助かるんだよね。それにこんな身体だし、その事情を知ってくれてる人がついててくれると安心なんだけどなあ~」
「随分と卑怯な言い訳をするね」
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
また、声が蘇る。
それと同時に、少しだけずきりと頭が痛んだ。脳裏に浮かんだ父の笑顔と、血まみれで横たわるその後ろ姿に、僕は小さく首を振って掻き消す。
「え。これでもダメなの?」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
「えっ! じゃあいいのっ!」
一連の僕の所作で、彼女はくるくるくると表情をせわしなく変える。なんとも忙しい人だなと思う。でも、まあ、確かに。
彼女の言うとおり、気になるなら一緒に宝物探しをしてみるのも、ひとつか。
「…………はあ、わかったよ。手伝うよ。でも、無理は禁物だからね」
「やったーーーーーーっ! わーいっ! ありがとう、ソウくんっ!」
「そこまで喜ぶ?」
一応店の中だというのにそのことを忘れてしまったかのような喜びように、僕は堪え切れず苦笑を浮かべた。
「あ、それと! 私のこと、名字じゃなくて名前で呼んでよ! 名字にさん付けで呼ばれるのなんかやだ」
「え、僕もやだ」
「ダメでーす。これは私の遺書を勝手に読んで持っていった罰だから、ソウくんに拒否権はありませーん!」
にひひひっと意地悪な笑い声を彼女はこぼす。宝物を探す口実じゃなくて、ここにその負い目を持ってくるあたり、彼女はかなりの策士らしい。
宝物探しの手伝いを承諾する返事よりも長い沈黙のあと、僕は観念して首を垂れた。
「…………………はあ、わかったよ」
「んふふ、じゃあ呼んで?」
「なにを」
「なーまーえ」
「……つ、紬未」
「ぷぷーっ! 緊張しすぎでしょっ! あははははっ!」
「うっさいな」
どこまでも意地悪で悪戯好きで性根の曲がった悪魔の笑顔に、僕はため息をこぼした。
でも不思議と、嫌な感じではなかった。
紬未は、やけに嬉しそうに長く笑っていた。
*
紬未にこれでもかといじられたあと、彼女の提案で僕たちは先ほどまでいたファストフード店から近くにある有名チェーン店のカフェに場所を変えた。その理由は至って単純。
「わあああっ! これが新作のストロベリーケーキ! すっごく可愛い!」
「可愛い? 美味しそうじゃなくて?」
「美味しそうはもちろんあるけど、なにより可愛い!」
注文した品物を持って席につくや、紬未は上機嫌に叫んでスマホのカメラでパシャパシャと写真を撮り始めた。だから僕は早々に目を逸らして、今度は自分で購入したブラックコーヒーを口に運ぶ。
「あれ、ソウくんはデザート食べないの?」
「うん、僕はハンバーガーで充分。むしろあんなに食べておいてよく入るな。しかもたぶん、それもあんまり食べちゃダメなやつだろ」
「へへへーあたりー」
にへらと彼女は口の端をゆがめて、切り分けたケーキをぱくりと頬張った。ひとくちにしては大きいなと思った通り、彼女はハムスターみたいに頬を膨らませて咀嚼している。
「んふふふ~おいひい~」
「それはなによりだな」
幸せそうな表情でモグモグと口を動かしている彼女を尻目に、僕はもうひとくちコーヒーを飲む。ほろ苦い深みのある香りが、口から鼻にかけてすうっと抜けていった。
本当は止めるべきなんだろう。けれど、この表情を見ているとむしろ彼女にとっては遠慮せず食べたほうが総合的な幸福度合いは高いと思った。残り僅かな余命をこれ以上縮めないために、残り僅かな時間すらも我慢で埋め尽くすことは、きっと彼女の本意ではない。なら僕としては、なにも言わないし関わらない。その一点に尽きる。
僕が無言でいるのをいいことに、紬未はそれからあっという間にストロベリーケーキを平らげた。驚くべき早業、もとい大食い。いったいその細い身体のどこに収まっているのだろうか。
「あー美味しかった! ということで早速、始めてまいりましょうか」
「始める? なにを?」
「作戦会議だよ! 宝物探しの!」
僕がべつの思考に気を取られて聞き返すと、途端に紬未は再び頬を膨らませ始めた。まるで風船みたいだ。
「もしかして早くも忘れてたんじゃないでしょうねー?」
「忘れてもいいの?」
「ダメに決まってるでしょ!」
やはり、逃れることはできないらしい。もっとも、僕は彼女が楽しい思い出をそうまでして作ろうとしている真意を知りたい。矢継ぎ早に投げかけた質問の回答を得られるまでは、彼女の手伝いをしつつなるべく冷めた眼差しで彼女を見守り、無味乾燥とした記憶を生成していこうと思っている。
「さっ、ほら。一緒に考えよ。宝物が埋まってる場所」
そして、もうひとつ。
再び広げられたくすんだ色の紙を見て思う。
このどこかで見た記憶のあるボロボロの宝物の地図は、果たして僕も一緒に描いたものなのかどうか。もしこれが、僕が忘れてしまった楽しい思い出のひとつなのだとすれば、その時、僕は……。
「…………」
「……どう? わかりそう?」
「へ?」
「あれ、埋まってる場所を考えてくれたんじゃないの?」
「いや、まったく」
「こらあー!」
これまたどこから取り出したのか、一枚のプリントを丸めて彼女はペシリと僕の頭をはたいてきた。なんて理不尽な。
「あのな、まだ地図を見せられただけなんだけど。え、この丸印の場所がどこかってこと?」
「そうそう」
「わかるわけないだろ。川に家に山に落書きしか書いてないのに」
「落書きじゃないですー。よく見てくださーい。昔の私とその男の子が書いた謎解きです~」
「謎解き?」
言われて再度よく見てみれば、確かに歪な文字でなにか書かれている。一番読めそうなのは川の絵が描かれている付近にある文だ。
「えーっと……『始まりは、小石のじゅうたんがあるところ』?」
「そうそう! よくできました!」
「なめんな」
今度はあやすように丸めたプリントで頭を撫でてくる紬未。なんともうっとおしい。
「いい加減やめろ。てか、なんだよその紙?」
「え、これ? 私の遺書だけど」
プリントじゃなかった。さっきまで僕が読んでいた遺書だった。
「そんなもんでたたくな、なでるな」
「じゃあ、これの後ろに話し合いの内容メモしていこうよ。それで、わかる? 『小石のじゅうたんがあるところ』がどこか」
「待て待て。メモもするな」
僕の言葉を無視して、紬未は早速遺書の後ろになにやら書き始めた。どうやら、今の彼女にとってその遺書は裏紙としての機能しかないらしい。
どこまでもマイペースな彼女に、僕は呆れつつも言葉を続ける。
「んで、『小石のじゅうたん』だろ。普通に考えたら河原じゃないか?」
「まあ、そうなるよねえ。でもどこの河原なんだろ」
「それは知らん」
僕らの住む金沢市だけでも川はいくつも流れている。石川県内となればなおさらだ。それだけで場所を絞り込むなんて土台無理な話だ。
「まあ、順当に考えるなら住んでいるところの近くとかじゃないのか。そもそも、その男の子とどこで遊んだとかは覚えてないのか?」
「んー残念ながら、遊んだ記憶はぼんやりあるんだけどそれがどこなのかはさっぱり。私の住んでるところの近くでそこそこ大きな川なら浅野川とか犀川になるけど」
「じゃあ、とりあえずそのどちらかという仮説を立ててみるしかないんじゃないか」
彼女の遺書の裏面に書かれた話し合いのまとめを眺めながら、僕はやっつけ気味に言った。こういう時は星の数ほどある可能性を考えるよりは、いくつか出てきた可能性を仮置きして思考を進めるに限る。
「確かに、そのほうがずっとあれこれ考えてるよりいいかも。それにしてもさっすがソウくん、成績優秀者なだけはあるね!」
「成績は関係ない」
横道に逸れかけた話題に、僕はぴしゃりと言い放った。彼女の頬がまた不満そうに膨らむ。
「もう~。こういう何気ない話も、仲良くなるためには必要なんだよ」
「べつに僕は君と仲良くしたいわけじゃないから」
「私が仲良くしたいの!」
「それは、楽しい思い出づくりのため?」
「それもあるし、あとはただ純粋に私がそう思ったから!」
膨れた頬をしぼませ、彼女はにへらと口の端を緩ませた。噓偽りなんて微塵もなさそうな、どこまでも純真無垢な笑顔だった。この笑顔にほだされた人はきっと多いんだろうな、と思った。
そんなことを考えていると、今度は彼女の笑顔がひときわ大きく咲き始めた。太陽を一心に見つめる向日葵のように、その笑顔は眩しさを増していく。
「……訊きたくないけどあえて訊こう。いったい、何を思いついたの?」
「んふふふ、えとねー。ソウくんと仲良くしつつ、楽しい思い出を作りつつ、宝探しも捗ること~」
「え」
嫌な予感がした。そこで彼女は勢いよく立ち上がると、鞄と伝票を引っ掴んで歩き出す。
「ほらっ、行こっ!」
「あ、おい!」
本当に、彼女はどこまでもマイペースすぎる。
意気揚々と会計を済ませ、これは宝探しのお礼も兼ねてるから僕には一銭も払わせないと宣言した彼女に連れられること三十分。僕らはじつに夏休みらしい場所に辿り着いた。
「あははははっ! つめたーい!」
紬未は黄色い歓声をあげてパシャパシャと水音を立てる。制服が濡れるのもいとわず、かといって靴は濡らしたくないようで川縁に脱ぎ散らかし、彼女ははしゃぎ回っていた。
「なるほどね。実際に現地まで行こうってことか」
ごつごつとした丸石の感触を足裏に感じつつ、僕は小さく肩をすくめた。
炎天下の中、長い時間をかけて連れてこられたのは犀川の河原だった。犀川は金沢市を流れるそこそこ大きな二級河川だ。川沿いのほとんどは堤防やらフェンスやらで覆われているが、僕らの通う高校から程近いところに犀川に隣接する緑地公園があり、そこには小さな河原がある。水深はせいぜい足首程度なので、僕も小さいころは両親と一緒にたまに遊びに来ては今の彼女のようにはしゃいでいたっけ。
「なにしてるのー? ソウくんも入ろうよ!」
「いや、僕はいいよ」
思い出に浸りかけていた思考を掻き消すのと、川に入る意志がないのを伝えるために、僕はゆっくりと頭を振る。さすがにこの年齢にもなると、無邪気に遊び回る幼心はない。
「そんなこと言わないでさ、ほーら! 早く早く!」
「ちょ、ちょっと!」
もっとも、幼心を卒業したのはここでは僕だけのようだった。目の前で太陽に張り合うみたいな笑顔を振り撒いている紬未の表情は、高校生というよりはどちらかといえば小学生に近い。そんな年齢退行している彼女に引っ張られ、僕は危うく靴のまま川へ片足を突っ込みそうになる。
「ほらほら~。靴を脱がないと、今度は濡れちゃうよ?」
「自分は濡らしたくないくせに他人にはお構いなしとは悪魔か」
「悪魔じゃありませーん。悪魔に余命を大幅に削られた薄幸の美少女ですー」
「ツッコみたいけどツッコみにくい冗談を言わないでほしい」
けれど、このままでは僕のスニーカーが大雨の時みたくびしょ濡れ浸水しそうなのは明白だ。仕方なしに靴下とともに脱ぎ、川縁にある大きな石の上に揃えて置いた。念のためスマホなんかもポケットから出し、鞄にしまって近くに置いておいた。
「よしよし、これで思う存分はしゃげるね!」
「はしゃがないけどね。僕の場合はリスクヘッジだから」
「リスクヘッド? それはどんな頭?」
「君みたいなくるくるぱーのことだよ」
ここで早速、僕の危機管理が功を奏した。目の前を小さな水飛沫が舞い、カッターシャツに水の濡れた跡が点々とついた。
「おい! いきなりなにする!」
「熱中症対策ですー! 決してくるくるぱーって言われた仕返しとかじゃありませんー! あと私のことは名前で呼ぶようにぃー! ほうら、もう一丁~~!」
「うわっぷ、冷たいって!」
そこから先は地獄だった。みっともなくはしゃぐ気のない僕は、一方的に水をかけられまくった。這う這うの体で川から上がろうとすれば彼女に腕を掴まれ、二人してバランスを崩してさらにびしょ濡れになった。川で遊ぶ時は危ないからルールを守ってほしいと抗議すれば、尻もちをついたまま水をかけられた。なんて理不尽な。さすがにこのままでは家に帰れないので、服を乾かそうと提案したらようやく川から上がることを許された。
「あははははっ、いやー満足満足!」
「僕はとっても不満足なんだが」
彼女から手渡されたタオルで服を拭きつつ、僕は心情を述べる。けれど彼女はさして気にした様子もなく、僕と同じようにタオルで髪を拭いていた。
「でも楽しかったでしょ?」
「誰が」
「え~素直じゃないな~」
くつくつと小悪魔っぽく笑う彼女の頭には、確かに角が生えていた。角というよりは、アホ毛に近いか。
「まあ、どうでもいいけど。それより、宝物探しの始まりの場所は、ここで合ってるの?」
「にへへ、わかんない」
「なんだよ、それ」
ぜんぜん捗ってないじゃないかと不満をこぼせば、紬未はまた楽しそうに笑った。本当に彼女はよく笑う。体内に爆弾を抱えていて、余命があと僅かなんて何かの冗談とすら思えてくる。
「まあ、それは残りの謎解きも解いていくうちにわかるんじゃないかな」
「残りの謎解き?」
「うん。時間が経ちすぎてかすれてたけど、山の絵の下にも謎が書かれてたんだ」
そう言うと、彼女はタオルと入れ替わりに例の地図を出してきた。僕は彼女になにやらいちゃもんを言われぬように、少しだけ距離を置いた位置からのぞき込む。
そして確かに山の絵の下には、薄い文字でなにかが書かれていた。
「えーっと……『終わりは、一〇〇メートルの見晴らしの後ろ』?」
また回りくどい。普通にストレートに場所の名前を書いておけばいいのに。
「ちなみに、その山の謎は男の子が考えて、河原の謎は私が考えたんだよ」
「あ、そうなんだ」
となると、もしその男の子が僕なのだとすれば、これは小学生の僕が考えたことになる。なんの記憶もないのだが、もしかしたら回りくどいのは僕のせいかもしれないのか。
「って待て。それなら『小石のじゅうたん』が河原ってことはすぐわかっただろ」
「え? うん、それはそうだけど」
「ならどうしてさっき『小石のじゅうたん』がどこかって僕に訊いたんだ?」
「え~そんなの決まってるじゃん。こういう謎解きを考えることも含めて、楽しいからでしょ!」
あっけらかんと彼女は言い切った。頭が痛くなってくる。本当に、彼女はどこまでも純粋に今という時間を楽しんでいきたいらしい。
「……ちなみに、本当はどこの川かわかってて、自分が埋めた宝物もどこにあるか知ってるってことはないよな?」
「あーうん。それは本当にない。マジでわかんない。だから一緒に寝込むくらい考えて」
「図々しいな、ほんとに」
僕が呆れてジト目を向けると、紬未はまたまたケタケタと笑い転げる。
そんな紬未を横目に、僕は一抹の懐かしさを感じていた。
*
これから退屈な用事を済ませに行くのだという紬未とわかれたあと、僕はようやく帰宅した。自室に入るや、勢いよく身体をベッドに投げ出す。
「ふうー……」
薄暗い天井に向かって息を吐き出すと、少しだけ胸のあたりが軽くなる。その感覚につられて、僕はもう一度息を吐き出した。
本当に、今日は疲れた。朝からじつにこれでもかと盛り沢山な一日だった。
登校途中で彼女の遺書を拾ったかと思えば、帰りに戻すところを目撃され、そのままファストフード店に連行された。そしてそこで彼女の食いしん坊っぷりを目の当たりにしたかと思えば、僕の質問を逆手にとられて宝物探しの協力をすることになった。しかもその時に見せられた宝物の地図は見覚えがあり、もしかすると彼女のいう男の子は自分かもしれないときた。かと思えば、作戦会議途中の思いつきのままに今度は河原へとしょっ引かれ、そこで水の掛け合い、挙句にはびしょ濡れになった。もう服はとっくに乾いているが、早々にシャワーを浴びたほうがいいか。
重い身体を引きずってシャワーを浴びている最中も、僕の頭の中は今日のことや紬未のことでいっぱいだった。
まず、彼女は僕イコール昔一緒に地図を作った男の子だとはとらえていないようだった。何度か意図的に男の子のことを訊いても普通に答えてきたし、僕に何かを隠しているようなふうもなかった。つまり、ただ偶然に僕が手伝うことになったか、あるいは単に僕の記憶が入り混じったがゆえの勘違いということだ。僕自身としても、幼いころに彼女と過ごしたという明確な記憶はない。彼女の様子とも合わせれば、後者のほうが可能性としては高いかもしれない。
けれど。時おり心に懐かしさが込み上げるのも、また事実だった。
本当に、紬未はいつも朗らかに、楽しそうに笑っている。あんなによく笑う女の子と一緒に過ごしたのなら、覚えていそうなものだけど。あいにく、僕の心にあるのは曖昧な、どこか懐かしいと薄っすら感じる程度の感覚のみだ。
「まあ、どっちでもいいか」
僕はべつに彼女と楽しい思い出を作りたいわけじゃない。子どものころに埋めたとかいう宝物にも興味はないし、仮に昔楽しく遊んでいたのであればそんな記憶は忘れたままでいい。いつか悲しく感じてしまう思い出なんて、無理に思い出す必要はない。僕の問いかけに対する彼女なりの答えを知れれば、あとはもうなんでもいい。
濡れた髪を乾かしながら、昼間のやりとりを反芻する。
あの時僕は、勢い余って次々と訊いてしまっていた。彼女には申し訳ないことをしたと思うけれど、どうしても気になったから。
余命僅かながら、心残りの消化というよりただ純粋に楽しいことがしたいと、彼女は言っていた。意味がわからなかった。だから僕は、投げかけていた。
――そんなに楽しい思い出を増やしても、虚しくなるだけじゃないの?
――あとで思い出して、悲しくなるだけじゃないの?
――自分だけじゃない。親とか友達とかも、楽しい思い出が増えれば増えるほど、君が死んだ後に悲しくなるんじゃないの?
――それでも君は、楽しい思い出を作りたいの?
今思い出しても、デリカシーの欠片もない酷い質問だ。それなのに彼女は、怒りや悲しみの表情をひとつも見せることなく、むしろ笑って答えていた。
――まあでも、簡単な話だよ。そのとおりだと思うよ。そしてそのうえで私は、楽しい思い出を作りたいの。思い出は、希望の種だから。
どうやら彼女は、わかっているらしかった。僕と同じ疑問に、一度は辿り着いているようだった。そしてそのうえで、楽しいことをしたいらしい。楽しい思い出を作りたいらしい。
いったいなにをどう考えたらそんな思考に行きつくのか、知りたいと思った。
今の僕には導き出せない答えを、紬未は持っている。
――答えが気になるなら、私と一緒に宝物探しをしてみない?
深く、朗らかに笑う紬未の表情がチラつく。
そうだ。だから僕は、彼女の挑発に乗った。
彼女なりの答えを知りたくて、どうしてその答えに辿り着いたのか知りたいだけで。
だから僕は、彼女の手伝いをすることにした。
ただ、それだけだ。
「……勉強でもするか」
ちょうど髪を乾かし終わったところで、僕の思考の整理も終了した。これ以上は不毛だ。夕ご飯を作るにはまだ少し早いし、一時間だけ勉強でもして気持ちを切り替えよう。彼女の手伝いをしていたせいで、予定よりも夏休みの課題は遅れているのだから。
そう結論付けて、僕は自室へ向かおうと脱衣所を出た。
「ただいまー」
そこへ、疲れた母の声が聞こえてきた。普段よりも早い帰宅に、僕は急いで玄関へ向かう。
「おかえり、母さん。荷物持つよ」
「あら、ありがと。今日は仕事が早く終わってね。たまにはお母さんがご飯作るわよ」
「そうなんだ。でも大丈夫だよ、もうほとんどできてるから。母さんは疲れてるだろうし、お風呂でも入ってきてよ」
どこか残念そうに顔をゆがめる母に笑いかけて、僕はリビングへと向かう。母の荷物をソファへ下ろしてから、すぐにキッチンに入った。手が不自由な母でも食べやすいだろうということで、今日の献立はカレーにした。
「ねえ、湊也。無理してない?」
ふいにかけられた言葉に、冷蔵庫から野菜を出す手が止まる。でも、すぐに僕は口を開く。
「大丈夫、してないよ。もう随分と時間も経ってるんだから」
「ならいいんだけど」
どこか煮え切らない様子の母だったが、それ以上はなにか口にすることなく浴室へと向かった。僕はまな板の上に並べられた野菜を見つつ、小さく息をつく。
無理は、していない。事故から既に七年も経過しているのだ。
確かにあの事故がきっかけでカメラは苦手になり、楽しい思い出を作ることに抵抗を覚えるようにはなった。けれど、べつに生きることに支障をきたすわけではない。僕は僕なりに、今の人生でいいと思っている。そう、今の人生で……。
母がお風呂からあがってきたころに、ちょうどカレーがいい具合に煮立ってきた。カレーは母の大好物ということもあり、見るからに顔はほころんでいた。二人で久しぶりの夕食をともにし、勉強の話やちょうどテレビでやっていたバラエティー番組の話で家族の時間を過ごした。それから部屋の片づけをするという母とわかれ、僕は自室へと戻った。
「ふうー……」
帰宅した時よりさらに暗闇が深くなった部屋で、僕は肺に溜まった空気を吐き出す。
今度こそ、勉強でもしよう。
心の中でつぶやいてから、僕は机に向かうべく部屋の明かりをつけた。
「え?」
ちょうどそこへ、狙ったかのようなタイミングでベッドの上に置いていたスマホが振動した。今しがた心に決めた勉強への意志を邪魔せんがごとくのタイミングだった。嫌な予感がしつつも、気づいてしまった以上は見ないわけにもいかず、僕はおもむろにスマホを手にとった。
『やほー』
『元気? 私は元気!』
『明日の午後なんだけど勉強教えてよ! ついでに二つ目の謎についても考えよ!』
最初のと合わせて三つの通知が、スマホの画面に表示されていた。
そこではたと思い当たる。そういえば、帰りがけにほとんど無理やりに連絡先を交換させられたんだっけか。
にんまりと嬉しそうに微笑む紬未の顔が浮かんだ。補習後のみならず、どうやら彼女は帰宅してからも茶々を入れてくるつもりらしい。けれど、このまま彼女の思惑通りになるのはなんだか癪だった。やや迷ってから、僕は滅多に開かないアプリを起動しメッセージを送信する。
『僕は勉強まで手伝うとは言ってないけど』
送るや否や、すぐに既読がついた。この時間に勉強すればいいのに。
『いいじゃん! 謎解きのついでにお願い!』
『友達と勉強したらどう?』
『みんな部活やら塾やらで忙しいんだって』
『じゃあ諦めよう』
『やだ。ということで、よろしく!』
ついには僕の返事なんてお構いなしに結論を押しつけてきた。本当に、どこまでもブレないな。
僕は呆れてひとり肩をすくめてから、『わかったよ』と返信した。どうせここで無理に断っても、あの手この手で僕を巻き込んでくるのだろう。それにもしかしたら、彼女のいう「答え」を知る機会になるかもしれない。
彼女から『おニャしゃす!』と吹き出しのついた猫のスタンプが送られてきたのを確認してから、ようやく僕は机についた。
なぜか、その夜はかなり勉強が捗った。
*
翌日の朝。
やや身構えていた登校時は紬未と会うことはなく、拍子抜けにも彼女と出会う前と同じように平和な形で補習は始まった。
毎日変わり映えもなく、古典、数学、英語、現代文と主要な科目の補習を受けていく。各学年の全生徒を対象に任意参加で行われている補習だが、一応進学校ということもあってほとんどの生徒が出席している。かくいう今日も、いつもと同じく九割近いクラスメイトが席についていた。
「ということで、はい、今日の現文は終わりだ。今日やった範囲は頻出事項だからな。各自、しっかりと復習しておくように」
チャイムとともに野太い声が本日最後の補習の終了を告げた。これで、今週の補習はすべて終わりということになる。あとは家に帰って課題をこなしていけばいい。もっとも、今日もまた素直に帰ることはできないのだが。
「勉強に宝物探し、ね」
これからのことを想像して、自然と声がこぼれる。今朝コンビニで適当に買ったサンドイッチを食べてから、どこかで合流すればいいだろうか。人がどんどんと減っていく教室でぼんやりと窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、ポンと軽く肩を叩かれた。
「よっす、森川。今日も相変わらず黄昏れてんなー」
振り返れば、ここ最近見なかった顔があった。九割近いクラスメイトが受けている補習に、初日からただの一度も来なかった残りの一割にあたるクラスメイト、藤田龍だ。基本的にインドアな僕とは違い、藤田の顔はこんがりと日に焼けている。おそらくこの暑苦しい炎天下の中を、持ち前の運動神経を活かしてサッカー部の活動に勤しんでいるからだろう。ご苦労なことだ。
「べつに、ただの考え事。それより、今日いたっけ?」
「いんや、寝坊して四限目から来たんだよ。昨日で他校との練習試合終わって、今日こそは補習行こうと思ってたんだがなー。疲れすぎて無理ゲーだったわ。遊びの用事だったら絶対寝坊しねーんだけどな」
補習より海とか行ってめっちゃ泳ぎてーよな、と彼は続けて快活な笑顔を浮かべる。スポーツマンらしい爽やかな短髪が風で揺れ、白い歯が日に輝いた。彼が女子にモテるのも頷ける。
なんの縁か、藤田とは高校一年生の時からの付き合いだ。僕のなにがそんなにお気に召したのか、彼はことあるごとに僕に話しかけてくる。その内容は、勉強のことであったり、昨日観たテレビの話だったり、部活のことだったりとじつにどうでもいいことばかりだった。彼は僕を遊びに誘うわけでもなにかを無理強いするわけでもなく、ただ時おり絡んできては適当な話をして去っていくだけだ。だから僕も、取り立てて敬遠することはしていなかった。
今日もおそらくそうだろうと予想しながら、僕は机の横にかけてあったコンビニの袋からサンドイッチを取り出した。
「あ、そーだ。今週の補習の板書、見せてくれよ。一応はさらっとかないと、よっちゃんとか遠慮なく補習の範囲から試験問題出してきそうだし」
僕の前の席に座り、焼きそばパンを頬張りながら彼は手を差し出してきた。ちなみに、よっちゃんというのは先ほど前で野太い声を発していた現文の先生だ。
「いいけど。ただ僕は自分がわかるようにしか書いてないよ」
「とかなんとか言って森川のノートはわかりやすいんだよな~。お、あざす」
彼にノート一式を手渡すと、その場でパラパラと中身を見出した。いくつかのページはスマホで写真を撮り、「やっぱ森川のノートは別格だわー」と調子のいいことを言っていた。僕はそんな彼に何を言うでもなく、二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。
「あれ」
ちょうどそこで、彼は不思議そうな声をあげた。
「なに」
間違いでもあったのかと思って目を戻せば、そこには昨日の日付だけが書かれたほとんど真っ白なページがあった。
「昨日、現文なかった感じ? プリント配られたとか?」
「あ、いや……」
そういえば昨日は、紬未の遺書を拾ってしまって補習に集中できなかったんだった。返事に窮していると、彼は何かを感じ取ったのか、他の科目も同様の有様であることを目にしてニヤリと笑う。
「珍しいな、森川。もしかして、恋にでも落ちたか?」
「は?」
「いや、森川のことだから全授業居眠りってことはないだろ。最初のところはちょこっと書いてあるから出席はしてたんだろうし。ならこれは授業に集中できなくて何か考え事をしてたら授業がいつの間にか終わってましたってパターンだ」
鋭い。後半の推測なんか、まさにそのままだ。まあ前半はてんで見当違いの推測だが。
得意顔で推理を披露する彼に僕はやれやれと首を振ってから、適当な言い訳をするべく口を開いた。その時だった。
「やっほー! ソウくん!」
ほとんどクラスメイトがいなくなった教室に、明るい声が飛び込んできた。残って昼食を食べていた数人のクラスメイトは何事かと振り返る。けれど、当の本人はまるで気にした様子も他クラスに来て緊張している様子もなく、一直線に僕のほう目掛けて歩いてきた。
最悪だ。
僕は心の中で頭を抱えた。
「え、久空? なんで?」
「あれ、藤田くんじゃん。えーもしかして二人でお昼食べてる? 私もいれてよー」
どうやら二人は面識があるらしい。紬未は近くに来ると、机をひとつ僕の机にくっつけお弁当を広げた。彼女の肝臓を気遣ってか、その中身は随分と健康的なもので占められている。って、そんな現実逃避をしている場合じゃない。
僕がおそるおそる藤田のほうへ視線を向けると、案の定困惑に口元がひくついていた。
「え、え? だからなんで久空が? 森川と仲良かったっけ?」
「んふふふーどうだろーねー?」
藤田の問いに、紬未は悪戯っぽい笑みを僕に向けてくる。マジで勘弁してほしいんだが。
「仲良くないって。ちょっといろいろあって、このあと勉強教えることになってるだけ」
「ああ、もしかしてこのノート見られたとか? わかりやすいもんなー森川のノート」
「そうそう、そんな感じ」
僕の言葉を都合よく解釈してくれたようで、藤田の表情に浮かんでいた困惑の色が小さくなっていく。僕が胸を撫で下ろしかけたところへ、肩に軽い衝撃があった。
「パーンチ。ひどいよソウくん! 仲良くないなんて! 私はこんなに仲良くなりたいって思ってるのに!」
「いきなりなに言ってんの?」
「そのままの意味ですー! ソウくんは私と仲良くなりたくないの?」
「なりたくない」
「ひどっ。傷ついた。あーあ、これは後でジュース奢りだなあー」
「奢らないし、話がややこしくなるからちょっと黙っててほしいんだけど」
「いや、やっぱりお前らなんかあるだろ……あ」
そこで、藤田はなにかに気づいたようにポンと手をたたいた。嫌な予感に、僕は思わず「なにか?」と尋ねる。すると藤田は、紬未に見えないよう僕の補習ノートのほぼ白紙のページを見せてきた。
「昨日のこれの原因、だろ?」
ささやき声で、視線だけで紬未を差しながら、訊いてきた。
そこから先は不覚だった。彼の意図とは違うにせよ、一応は図星だった指摘に、僕は一瞬言葉に詰まってしまった。それだけで、彼は急に核心に迫ったとばかりに口元をほころばせる。
「やっぱりそうかー。ふーん。なるほどなるほどー」
「いや、待て。違うぞ。なにを勘違いしてる」
「いいっていいって。いやーでも普段誰とも関わろうとしない森川がねー。そうかそうかー」
「違うって。やめろ、その顔」
「ちょっとー二人してなにひそひそ話してるの!」
ベシッとなにかで頭をはたかれ、僕らの秘密の会話は中断した。紬未を見れば、その手にはぐるぐる巻きにされた僕の補習ノートが握られていた。
「なに勝手に他人のノートを武器にしてるんだよ」
「武器にされたくなかったらなに話してたか教えてよー」
「森川、ここはもう教えちゃうか?」
「絶対要らないこと言うだろうから、藤田も黙っててほしいんだけど」
僕が指摘しては紬未との押収が始まり、そしてまた藤田に生温かい眼で見られる。そんなことが、昼食中に幾度となく繰り返された。
いつもなら過去の出来事が脳裏をよぎり、僕は無理やりにでも一歩引いていたやりとりだった。
けれど、その時の僕にはまるで余裕はなく、なされるがままに翻弄されていた。
そうして。教室にいるのが僕らだけだと気がついたのは、随分とあとになってからだった。
*
「いやー楽しかったね!」
未だ陽の高い青空の下、バス停まで向かう道中で、紬未は笑いかけてきた。僕はそんな晴々とした彼女の横顔に怪訝な視線を向ける。
「それは紬未と藤田だけで、僕はだいぶ疲れたよ。もう勘弁してほしい」
結局昼食のあと、何の因果か紬未だけでなく藤田も交えて三時間程度勉強していた。普通、三時間も勉強すれば補習の復習くらいは終わる。それなのに、実際は予定の半分も進まなかった。まったく、何のための勉強なのか。
「でも、ソウくんの教え方すっごく良かったよ! おかげで夏休み明けのテストはぐーんと良い点数がとれそう!」
「あれだけの勉強でそんな簡単にとれるものでもないと思うけど」
「もちろん自分で勉強もするよ。でもその時に、ああここソウくんが教えてくれたとこだーって思い出せるの。それだけで、やる気も理解度も段違いなのです」
にへへ、と紬未は嬉しそうに笑う。
本当に、どこまでもマイペースな女の子だ。今日は藤田がいたこともあって勉強だけで終わり、謎解きについては後日に延期ということになった。彼女には時間がないはずなのに、なんとものんびりしているものだ。
それに、彼女は大病を患っている。余命いくばくもないというのに、どうして勉強なんてするんだろうか。大学進学とか将来の夢とか、自分の未来に繋げるための勉強なんて、しても虚しくなるだけじゃないのか。
「あ、さてはソウくん、まーた変なこと考えてるでしょ?」
「え?」
突然の指摘に、僕は口籠った。それを肯定と受け取ったのか、紬未は言葉を続ける。
「ね、なに考えてたの?」
「いや、その……余命宣告されてるのに、なんで勉強してるのかなって」
「ああ!」
ためらいがちに訊いた僕の言葉に、紬未は得心したように手を叩いた。
「だって、急に成績が落ちたら友達とかから心配されそうじゃん? 私は楽しく毎日を過ごしたいから、そんな余計な心配はかけないようにしたいんだ」
「な、なるほど」
意外なほど真面目な返答に僕はたじろぐ。楽観的なように見えて、案外いろいろと考えているらしい。
ただやはり、「どうしてそこまでして?」と思わずにはいられなかった。
そこまでして楽しい毎日を過ごしても、結局最後は悲しくなるんじゃないだろうか。もっと楽しい毎日を過ごしたかったとか、もっと生きていたかったなんて執着が増えてしまうんじゃないだろうか。楽しい日々を過ごせば過ごすほど、楽しい思い出を作れば作るほどそんな反動も大きくなってしまうんじゃないだろうか。それならいっそのこと、楽しい思い出なんて増やさないほうがいいんじゃないだろうか。
……ああ、ダメだ。
僕は卑屈になっていた気持ちを切り替えるべく、小さく首を横に振った。やはりどうも僕は、この手の話になると考えすぎてしまうらしい。
チラリと脳裏に過ってしまったいつかの記憶もまとめて掻き消し、僕は再び前を見る。すると、そこへ紬未がひょっこりと顔をのぞきこんできた。
「ねっ、ちょっと寄り道していかない?」
「寄り道?」
「うん、喉乾いちゃって」
彼女が指さすほうへ目を向けると、公園の入り口付近に自動販売機があった。ちょうど僕もいろいろと腹の底に飲み込みたいところだったので承諾した。
「おーいろいろあるねー。ね、ソウくんはなに飲む? 勉強教えてくれたお礼に奢ってあげるよ」
「あれ、てっきり僕は奢らされるものだと思ってたのに」
「もうー、お昼ご飯の時のこと言ってるの? 冗談に決まってるじゃーん」
ニヒヒとなにやら企んでそうな顔で彼女は笑う。じつに悪戯っぽく、そしてどこか子どもっぽい。そんな笑顔だった。
なんだか見慣れてしまったなと、唐突に思った。そんな自分の感情に驚いて、僕は慌てて彼女から視線を逸らした。
「えと、奢ってくれるんだっけ。じゃあ、お茶で」
「おっけー。私もそれにしよー」
僕が適当に選んだ飲み物を、紬未は二本購入した。そしてそのうちの一本を彼女は僕に手渡してきた。
それから僕らは近くにあった適当な東屋の中に入り、ベンチに腰掛けた。僕がひと息ついている間に、彼女はいち早くペットボトルの封を開いてお茶を喉に滑らせた。
「ぷはぁ、生き返ったーー」
じつに美味しそうに、紬未は五分の一程度を一気に飲んだ。そんな彼女の様子を横目に、僕もひと口お茶を口に含む。
確かに美味しい。夏の熱さで火照った身体に沁み渡っていく。
けれど。どうも彼女の飲んでいるお茶とはべつのものなんじゃないかと思えてならなかった。
「それにしても、やっぱり小学生とか多いねー。夏休みって感じだなあ」
もうひと口お茶を飲んでから、僕は彼女のつぶやきに頷きを返す。
「そうだね。この前行った犀川沿いの公園は、意外といなかったけど」
「あはは、確かに。この辺りは住宅街が多いからなのかな。私も昔はよく遊んだなあ」
「この公園で?」
「そうそう、友達とね。あ、そういえば噂の宝物を一緒に埋めた男の子とも前を通ったっけ」
「前を?」
急に話題に挙がった「件の男の子」に、僕は思わず訊き返した。
「うん、宝物を埋めに行く途中だったかな。あんまりよくは覚えてないんだけど。確か通った気がするし、一緒に遊ぼうって約束もした気がする」
どこか懐かしむような視線を、紬未は公園の砂浜で遊ぶ子どもたちに向けていた。なんとなく、僕も同じほうを見る。
「まあ結局、遊べなかったんだけどね。それでも、そんな約束をした当時の私は嬉しかったと思うし、こうしてその時を思い出せてる今の私も懐かしくて嬉しいし、これもいい思い出だよ」
「ふうん」
僕は素っ気なく相槌を打ってから、ペットボトルのお茶を勢いよく喉に流し込んだ。
「ねっ、今から一緒に遊ぼっか?」
「……っ、は?」
いきなり、唐突な提案が飛んできた。思わずむせそうになるも、すんでのところでこらえた。
「小学生の子たちに混ざってさ。どう?」
「絶対に嫌だ」
「えーけち」
「けちというか不審者になるよ、このご時世にそんなことをしたら」
本当に、なにを考えているんだろうか。今の提案は僕じゃなくても拒否するだろうに。
理解不能とばかりに紬未を見やれば、またどこかで見たように唇の端を吊り上げている彼女がそこにいた。
「じゃあ、ふたりで遊ぶならいいってことだ」
「は?」
「ほらほら、こっちきて!」
紬未は立ち上がるや、僕の腕を引っ張って東屋から連れ出した。転びそうになりつつも手を引かれてやってきたのは、公園の隅に忘れ去られたように置いてあるブランコだった。
「はいっ、ということで、ほら! 一緒にやろ!」
「いや、あのな」
「うんうん、わかったから。とりあえず横に座って座って」
不満を垂れる隙もなく、紬未は半ば強引に僕をブランコの右側に座らせた。そして彼女は左側に座ると、すぐに勢いをつけて漕ぎ始めた。
「あははっ、これこれ! 懐かしい~!」
紬未の動きに合わせて、ブランコの鎖が悲鳴をあげる。キイッ、キイッと軋むリズムに合わせて、彼女のはしゃぎ声も夏空に溶けていく。そこで初めて、太陽が随分と低い位置で僕らを見つめていることに気づいた。
そういえば、さっきもそうだった。教室で一緒に勉強していた時も、僕は他のクラスメイトがいなくなっていることにまったく気づかなかった。
僕も、夢中になっていた……?
「ねぇーー! ソウくんも漕ぎなよーーー!」
そこへ、思考の隙間を縫うように頭上から声が降ってきた。声のほうへ視線を向ければ、夏の日差しに負けないくらい弾けた笑顔が、前に後ろに揺れていた。
「僕はいいよ」
「えーなんで」
「なんででも」
いつものように素っ気なく返すも、相変わらず紬未はいつも通り上擦った声で僕の名前を呼ぶ。
「ソウくんってほんと頑固だーーー!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すよ」
視線を前に戻す。軋んだ鎖の音は絶えず聞こえているけれど、最初は悲鳴だと思っていたその音がなんだか喜んでいるように聞こえてきた。ずっと忘れられて、漕がれていなかったブランコが、久しぶりに乗り手を喜ばせようとはしゃいでいる。そんな音に聞こえてきた。
「ねえー、ソウくんさー」
「なんだよ」
なぜかイライラとしてきて、僕は語気を強めて訊き返す。
「どうして、そんなに人を避けるのー?」
胸のあたりが、キュッと締め付けられた。どこも異常はないはずなのに、次第にズキズキと痛みが増してくる。そしてすぐに、それは痛みではなくて僕の心臓の音なのだと認識する。
「……べつに、避けてないけど」
やや間があって、僕はやっとそれだけを言った。なんとも説得力のない言葉だった。
「ふうんー?」
もっとも、訊いてきた当の本人は関心とも無関心ともつかない抑揚で相槌を返してくる。その反応に僕はさらに苛立たしさが増してきて、口を開く。
「なんでそんなふうに思ったの?」
「えーなんとなく? それに昼の時に藤田くんも似たようなこと言ってたから」
「なんとなくでそんなこと考えないと思うけど。それに藤田の言っていることも適当だよ。今の僕はこうして君と一緒にいるし、昼だって見た通り藤田と昼食を食べてた。だから、べつに人を避けているわけじゃない」
いやに饒舌に語った僕の言い訳を、紬未はブランコを漕ぎながら黙って聞いていた。それから今度は彼女のほうに沈黙が下り、ブランコの鎖の音が十回くらい繰り返されてからようやく彼女は言った。
「避けてないならいいんだけどー。なんていうか、今のソウくんは昔の私に似てるとこあるんだよね」
「え?」
ギシッとひときわ大きく鎖が音を立てた。
「肝臓の別名って、知ってる? 物言わぬ臓器、沈黙の臓器って言われてるんだよ。本当にその名の通りで、見ての通りこんなに死期が近づいててもほとんど身体に異常はないんだ。栄養の吸収力が弱いからか、食欲過剰であるくらいなの。昔は今以上に何事もなくてね、それが、余計に怖かった」
空は、茜色に変わっていた。蝉の鳴き声も、どこか遠い。
「だから昔の私は、自分が早くに死んじゃうってことがわかってから、ずっと泣いてばかりだった。痛みも苦しみもないのに、私の中には死に繋がる病が潜んでいる。まるで、音も気配もなく死神が私に近づいてきて、ある日突然その大鎌で私の命を刈り取ってしまう。そんな怖い夢ばかりを見ていてね、いつしか誰とも仲良くしたくないって思うようになったの」
鎖の音が彼女の呼吸に合わせて響く。また、それは悲しそうな音色に戻っていた。
「絶対に大丈夫ってずっと言ってくれてたお父さんやお母さんに反発した。たくさん泣かせたし、たくさん八つ当たりをした。学校でも誰とも話さなかった。無視し続けたし、ずっと下ばかり向いてた。周囲の子たちからは暗くて自分勝手な子どもだって思われてた。でも私はそれでいいと思ってたし、そうあるべきだと思ってた。この前ソウくんが言ってくれたように、どうせ友達ができたってすぐにお別れするんだから、後で悲しくなるような、執着しちゃうような大切なものなんて作りたくなかったから」
クスリと彼女が笑った気がした。でも、彼女の顔を見ても、笑っていなかった。
「そんなふうに荒んだ毎日を送っていた時に、私は彼に出会って、一緒に宝物を埋めた」
「え」
吐息みたいな掠れ声が、僕の口から漏れた。当然、彼女は気づいていない。
「その時から、私は思うようになったの。楽しい毎日を送ってやろうって。病気なんて関係ない。私は私らしくやりたいようにやって、最期のその時までずっと笑っていようって。思い出を胸に、ずっと未来を見ていようって。思い出は、希望の種なんだって」
また、彼女が笑う声が聞こえた。もう一度彼女のほうを見ると、今度は楽しそうに笑っていた。
「もちろん、ソウくんがそこまで人を敬遠しているとは思ってないよ。ただ、なんでかな。時々ソウくんの表情が幼い頃に鏡で見た私の表情と似てて、とても辛そうに見えたんだよね。ということで、たまには私のほうから失礼な質問をさせていただきまし、たっ!」
そこで、あろうことか彼女は勢いよくブランコの上から前へと跳んだ。寂し気に公園を照らしていた夕陽を横切り、少し離れたところにある砂地へと着地する。じつに見事な、見惚れるほどの大ジャンプだった。
「へへへ、上手くいったー! ソウくんもやってみる?」
「いや、僕は」
夕焼けを背景に、にへらと笑う紬未がとても眩しかった。鎖を握る掌には、汗がにじんでいる。
「まあ、これは結構コツがいるからねー。練習してからでいいよ」
「しないけど」
「あはははっ!」
朗らかな、高い笑い声が茜色の夏空に飛び立っていく。それはとても心地よく、僕の耳に馴染んでいく。
「ねぇ、ソウくん」
「え、なに?」
「楽しいときは、楽しいでいいんだよ」
息を呑む。
風が舞った。吹き荒ぶ風は彼女の髪をなびかせ、僕の全身を震わせた。
まいったな。
僕は心中で、苦笑せざるを得なかった。
僕の予想は、不運にも当たっていた。
だから僕は、彼女に近づきたくなかったのだ。
冷めた眼差しで宝物探しの行く末を見守り、適当に過ごしていくつもりだったのに。たった一日で、こんな気持ちになるんだから。
ああ、そうか。
昨日も今日も、昼も今も。
不覚にも僕は、楽しかったのか。
楽しんで、しまっていたのか。
「…………紬未ほど楽しんでいる人は、稀だと思うけど」
自覚するのがなんだか悔しくて。そして、怖くて。
いくばくかの沈黙のあと、僕はやっとそれだけを返した。
脳裏には、相変わらず嫌な記憶がこびりついている。けれど。
「わーーーーーっ! やっと私の名前をソウくんから呼んでくれたーーーー! 感激ーーっ!」
跳ね回って喜ぶ紬未の声に、それも掻き消されていって。
「え? 呼んでただろ、昨日から」
「呼ばれてないですー! 最初の一回だけですー! 心の中で呼んでたとしてもそれは聞こえてないのでノーカンですー!」
「数えてたのかよ」
むくれて僕に詰め寄ってくる紬未の表情に、僕は思わず笑っていた。
一日が終わろうとしている夕暮れの中で、僕らはひとしきり笑い合っていた。
紬未と公園で過ごしてから、数日が経った。
僕の通う高校においては夏休みとは名ばかりのようで、翌週の月曜日からも、午前中には補習がびっしりと詰まっていた。
「もう~せっかくの夏休みなのに意味わかんないーーー!」
月曜日の朝、飽きもせずに真夏の青空へ大合唱をしている蝉時雨に混じって、紬未は心底不満そうにぼやいていた。そのぼやきには同感だが、当の本人はすべての補習に参加しているわけではないらしいので説得力はほとんどない。しかも、補習欠席はもしかして肝臓の検査とかそういう理由かもしれないと気を遣ったのに、じつは寝坊だったとか言われた僕の気持ちも察してほしい。大声でより多くの不満を叫びたいのは僕のほうだ。
「まあでも、こうしてソウくんに会えるのだけはいい点だけどね」
「あーはいはい。それは結構なことで」
しかも恥ずかしげもなくそんな言葉を耳元でささやいてくるものだから余計に勘弁してほしい。心臓に悪い。
あとはそう。彼女が補習に出席する日は、必ずと言っていいほど例の出会った街路樹の下で待っているようになった。街路樹のところから高校まで歩いて五分もないというのに、なぜか紬未は頑として待つのだと言い張った。
「家が近いと、友達と一緒に通学するとかもないんだよ。だからこれも、私が楽しむためにしたいことなの!」
「あーはいはい。わかったって」
もはや断ることはとっくに諦めていた。そもそもまともに話すようになってから今まで、僕の意見がなんの弊害も抵抗もなく通ったためしがない。それならよっぽど嫌なことでない限りは彼女のやりたいようにやらせるのが一番疲れなくて楽な方法だった。僅か五分程度の道のりを一緒に歩いて学校に行くくらいは、なんの問題もない。
「おはよさん、久空に森川も。相変わらず仲良いな、お前ら」
「でしょー!」
「どこがだ」
いや、問題はあった。サッカー部の練習試合がひと段落し、補習に参加するようになった藤田から散々にからかわれるようになった。どうやら彼はこの近くに住んでおり、紬未と中学が同じらしい。僕はバスの時間の都合上、始業時刻間近に来ることがほとんどなので、同じように始業時刻間際を目指して駆け込んでくる藤田と被ることが多かった。結果、紬未が僕を待っているところで鉢合わせることが多々あり、そのたびにやれ仲が良いだの何があっただのと茶化してくるのだ。これまではそんなふうに突っかかってくることはなかったのに、まったくもってうっとおしい。
そして補習が終わった後は、部活に行く藤田を見送ってから、宝物探しのための会議を僕のクラスでやることになっていた。
「昨日行った卯辰山だけど、どう思う? ちょうど標高は一〇〇メートルと少しだし、いい線行ってると思うんだけどなー」
「卯辰山は眺めのいい場所が多すぎるんだよな。全部探すの結構骨が折れるよ」
「んふふ、だから昨日は途中で諦めてひがし茶屋街に行ったんだよね!」
「アイスが食べたいと紬未が言い出したからな。おまけにちゃっかりいろんな店見て回ってるし」
「えーいいじゃん。観光地として有名だけど地元だと逆に行かないんだからさ。ひとりで行くのも寂しいし、こういう機会を利用して楽しんでおかないと!」
「あーはいはい」
もっとも、言うまでもなく宝物探しは難航していた。それは主に謎解きの二つ目の場所がわからなさすぎるのと、紬未の好奇心が旺盛すぎるのが原因だ。紬未の好奇心は今に始まったことではないとしても、謎解きの二つ目についてはさすがに箇所が絞り込めないでいた。もし幼いころの僕が考えたものなのだとすれば、歯がゆいことこの上ない。
とりあえず、宝物の地図にかいてある山の下に謎が書かれているから、最終地点は山だと仮定する。始まりの場所が犀川か浅野川とするならば、そこから徒歩や自転車で行ける圏内の山としては、昨日行った見晴らし台がある卯辰山か加賀藩主前田家の墓所が近くにある野田山くらいだろう。そして謎は「一〇〇メートルの見晴らしの後ろ」なので、安直に見晴らし台のある卯辰山に行ったのだが、山だけあって一〇〇メートルほどの高さで見晴らしの良いところはいくつもあった。結局登るのに疲れて、これまた安直に見晴らし台だけ行ってみたが、夏休みということもあってかそれなりの人がいてあまり探すことはできなかった。
そして卯辰山から降りてみれば冷たいものが食べたい、ひがし茶屋街に行きたいという紬未の好奇心、もとい欲望にとらわれてあれよあれよという間に連行されていった。目についたカフェで美味しそうにシャーベットを頬張る紬未を、僕は呆れ半分で眺めていた。ちなみにもう半分は純粋にちょっとだけ見惚れていたのだが、シャーベットで元気を取り戻した紬未にニマニマと意地の悪い笑みを向けられたのが悔しかったので内心認めたくはない。
シャーベットで体力を回復させたあとは、せっかくここまで来たということでひがし茶屋街を見て回った。僕自身もひがし茶屋街にはほとんど来たことがなく、地元での有名どころということもあって一度は来てみたいと思っていた。石畳が敷かれた通りの両側には茶屋建築の建物が軒を連ねており、木虫籠の出格子が僕らを出迎えてくれた。
あちこちに点在する観光客と同様に、紬未もスマホを構えて何枚も写真を撮っていた。僕も撮ってはどうかと勧められたが、丁重に断っておいた。楽しい思い出への抵抗が僅かながら薄れてきたとはいえ、まだまだ僕の脳裏にはあの事故の光景がこびりついている。他人がスマホで写真を撮っているのを見るのでギリギリなのに、さすがに自分で撮りたいとはどうしても思えなかった。だから僕はやや不満そうにする紬未をなだめ、彼女が満足するまで写真を撮っていくのを遠巻きに眺めていた。淡い夕陽に染められ、風情豊かな雰囲気を醸し出す茶屋街は、どこか寂しそうに見えた。
けれど。それでもやはり、あまり悪い気はしていなかった。
紬未と一緒に過ごす時間は、いつもあっという間に過ぎていって、本当に色濃く鮮明に僕の記憶に刻まれていった。
こんなはずではなかったと、寝る前に何度も思った。でもそれは意図的に考えてみるだけで、心の底から嫌気がさすことはついになかった。それほどに、きっと僕は毒されていた。
今日も今日とて、補習後の蒸し暑い気温と青空を駆け抜けるアブラゼミの鳴き声を感じながら、僕は紬未を待っていた。やがて程なくして、彼女は教室に駆け込んでくる。
「やほー! ソウくん、今日も補習お疲れさまでしたー!」
「うん。お疲れさまなのはお互いさまなんだけど、声のボリュームをもっと抑えてよ。恥ずかしいから」
「えー、その恥ずかしいからって理由でわざと時間遅くしてるんだからいいじゃん。現に今教室に私たち以外人いないし」
「外にはいるんだよ。部活してるクラスメイトが」
「そこまではさすがに知りませーん。さーて、今日も張り切って探してこー!」
「あーはいはい。さようですかー」
「もう! ソウくんはいつも返事が適当すぎる!」
暑苦しい追求に肩をすくめてから、僕はもう一度「あーはいはい」と返しておいた。するとやっぱり紬未は不満そうに頬を膨らませて、それから堪え切れなくなったように笑った。
夏バテなんてきっと彼女の辞書には載っていない。
肝臓の病気とか、余命なんて珍しいワードはあるのに。
病気の気配なんて微塵も感じさせない紬未の笑顔を見つつ、僕は素直に苦笑で返しておいた。
*
「それで? なんで僕は資料の整理なんてさせられているの?」
宝物探しの作戦会議を早速始めようというところで、唐突に「あっ」となにかを思い出した仕草をした紬未に連れられ、僕は資料室にいた。資料室には学校の授業で使う資料集や郷土集、便覧などが所狭しと置かれている。空気のこもった独特の匂いが暑さとともに漂っており、僕の額からは幾筋もの汗が流れ落ちていた。
「いやー結構前に先生に頼まれてたのをすっかりはったりてっきりうっかり忘れちゃっててさ。ちょうど目の前にとっても優しくてカッコよくて素敵なソウくんがいたからお願いした次第でして」
「調子良すぎか。わざとらしすぎるだろ」
「まあまあ、あとでジュース奢ってあげるから」
「蔵の時もそうだけど、僕の労力安すぎない?」
棚を挟んだ向こう側へ不満を投げかけると、高らかな笑い声が返ってきた。否定するつもりはないらしい。まったく、いつか寿司でも奢ってもらおうかな。
「それで、今日はどうしよっか? 整理してからだと遅くなるし、卯辰山のほかのところを探して回るには時間足りないよね?」
「まあ、そうだな」
郷土集とラベル付けされた棚の資料を並べ替えながら僕は考える。僕らの高校から卯辰山に行くには、自転車かバスを使わないといけない。時刻は既に午後二時を過ぎており、整理が終わってから行くにはさすがに遅すぎる。となれば、今日はこの資料室の整理をして終わりだろうか。
「それか、野田山のほうに行ってみよっか? 一応、もうひとつの候補だし」
「いや、紬未が行きたくないなら無理しなくていいと思う。場所も場所なんだから」
丘陵公園となっている卯辰山とは違い、野田山は墓地としての性質が強い場所だった。先週、卯辰山か野田山のどちらに探しに行くかを話し合っていた時、紬未が「野田山は墓地だしあまり行きたくない」と言っていたのだ。
気持ちはわかる。毎日を平気な様子で明るく過ごしているとはいえ、彼女の体内には大病が静かに巣食っているのだ。余命宣告までされて死を近くに感じている彼女が、死者の眠る場所を忌避するのは仕方ないだろう。
「でもさ、野田山にはいつか行かないといけないわけじゃん。それなら、今のうちに行っておくのもいいかなとも思うんだよね」
「へえ。えらく今日は乗り気だね。先週は墓地だし行きたくないって言ってなかった?」
「ああ。だって、墓地ってやることも見るとこもないしつまんないから」
「え?」
思わず整理する手が止まった。そしてすぐにひとつの可能性に思い当たって、僕は訊く。
「ちょっと待って。もしかして墓地に行きたくないのって、病気とか余命にまったく関係ないの?」
「へ? もちろんそうだけど」
「なんだよ」
拍子抜けした。でもよくよく考えたら、久空紬未とはこういう人間だった。自分の浅慮に嫌気がさしそうになる。
「あ、もしかして、死期が近いから私が行きたくないって思ってると思ったの?」
整理のために開けた棚の隙間から、ひょっこりと紬未の顔が現れた。ニマニマと嬉しそうな、からかうような笑顔が向けられている。これだから、彼女には隙を見せたくないんだ。大失態だ。
「まあね。人として、当然の配慮だと思うけど」
「うんうん、そっかそっかあ。ソウくんも私を気遣ってくれるほど気にかけてくれてるのかあ」
「うるさいな」
僕は棚越しに頷いている彼女の憎き横顔を塞ぐべく、手元にあった郷土集を数冊棚に押し込んだ。これでようやく、彼女の顔が見えなくなる。
「ちょっとー、本入れちゃうとソウくんの顔が見えないんだけど」
かと思えば、すぐに本が取り除かれた。反対側から本を取り出すなとツッコみたい。
「見えなくていいんだよ。さっさと整理を終わらせて帰ろう」
「えー野田山はー?」
「僕は行く気が失せた」
「りょーかいです。じゃあいつも通り無理やり連れてくね」
「おいこらやめろ」
僕の抗議の声も虚しく、紬未は今ほど手にとった郷土集をパラパラと流し読みし始めた。まったく聞く耳はもたないということだろう。本当にどこまでも強引な。
「あ、これ!」
「え?」
僕がため息をつきつつ、もう一度空いたスペースに本を差し込もうとしたところで、今度はしっかりとこちら側に回り込んできた紬未が僕の目の前にとあるページを広げた。
「ここ! 私行ったことある!」
紬未が目を輝かせて見せてきたのは、僕らの高校からほど近くにある丘陵公園の写真だった。金沢一帯を見渡せる見晴らし台からの景色は遥か彼方まで広がっており、写真の季節は春なのか、ツツジや桜が満開に咲き誇っている。
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
そこでまた、昔の僕の声が聞こえた。
――うん。ドキドキ、するかも。
さらにもうひとつ。か細い女の子の声が脳裏を過ぎる。
――だろ? だからさ、ぜってー大人になったら一緒に見つけに来ようぜ!
――――ねえ、今度の日曜日にでも行こう!
「……っ」
ずきりと頭が少し痛んだ。思わず、僕は一度まぶたを閉じる。
「え、どうしたのソウくん? 大丈夫?」
頭痛はすぐに落ち着いた。目を開けると、そこには心配そうに僕を見つめる紬未の顔があった。
「ごめん、ちょっと寝不足で。もう大丈夫」
「ほんとに?」
「ああ。それで、この公園に行ったことがあるって?」
改めて写真に目を落とすも、今度は特に頭痛はない。うん、きっと気のせいだ。
僕が努めて平静に問いかけると、紬未はまだ心配そうにしながらもこくりと小さく頷いた。
「えと、うん、そうなの。この写真にある景色がね、随分前に行ったような、そんな見覚えがあるの。私の通ってた小学校の遠足とかでは行かなかったから、可能性としては高いと思う」
「なるほどね」
家族で一緒に行った可能性も頭をよぎったが、そこにはあえて触れないでおいた。紬未の病気は生まれつきということだったから、もしかすると病気を気にしてお出かけはしないようにしていたり、治療費を稼ぐために彼女の両親は働きづめだったりするかもしれない。また気遣いがどうのとか言われそうだが、こればっかりは性分なので仕方がない。
「それじゃあここなら近いし、とりあえず整理が終わったら行ってみるか?」
「うん! って言いたいところだけど、寝不足のソウくんを連れ回すわけにはいかないので、今日はやめにしよ」
「え? 僕なら大丈夫だけど」
「だーめ。それに私も超大事な予定があったことを思い出したから! ほら、早く整理して帰ろ!」
言うや否や、紬未はさっきまでの適当さはどこへやら目を見張るほどテキパキと整理を進め始めた。最初からその手際でやってくれれば今ごろは終わっていたんじゃないかと思う。
「まったく……ははっ」
僕も彼女に倣って片付けを再開する。
頭痛はやはりなく、整理が終わってから行っても大丈夫そうだが、ここは彼女の言葉に甘えておくことにした。
本当にわかりやすい。気遣い云々なんて、言えたたちじゃないじゃないか。
「なに笑ってるの! ほらほら、ソウくんも手を動かして!」
「あーはいはい」
「また適当!」
紬未のツッコミを、僕は笑って受け流す。
昔の声たちも、もう聞こえてはこなかった。
紬未とわかれて自宅に帰り、自室のベッドに倒れ込む。薄暗い見慣れた天井を見つめて、物思いにふける。
いつもの僕なら、そんなふうにしていただろう。
「……ふう」
額に浮かんだ汗を拭って、僕は来た道を振り返った。右に左にと蛇行した坂道は下方へと続いており、その先には茜色に染まった芝生と、金沢の街並みが広がっている。近くには人の姿はなく、樹木ばかりが生い茂った広場の中央で、僕は佇んでいた。
「やっぱ、ちょっときついな」
けれど、あまり休憩ばかりもしていられない。なんとか暗くなる前には登り切らないといけない。僕は深呼吸を繰り返して息を整えると歩みを再開した。
普段、体育の時間以外の運動をしないので体力は皆無だ。運動部に入っている藤田なら、僅か数十メートル程度の高さまで登ってきただけで息はあがらないだろう。時間を見つけて軽い運動でもしてみようかとさえ思ってくる。
もっとも、今日はべつに運動不足を解消することが目的ではない。そんなことのために、僕はひとりでわざわざ丘陵公園の見晴らし台まで登ったりはしない。
僕がここ、紬未と資料室の整理をしていた時に話していた場所に来たのは、いろいろと確かめたいことがあったからだ。
そしてその最初の目的も、あと少しで果たされる。
「……っ、はあっ。ようやく、来れた……」
小さな丸太でできた木製階段を昇り切り、僕はようやくひと息をついた。疲労感がすごい。
卯辰山の公園に行った時もかなり坂道やら階段を登ったが、ここまでキツくはなかった気がする。高さは断然にあちらが高いというのに。
「まあでも、これもそういうことか」
あの時と今とで違うこと。
それは、紬未がいないことだ。
卯辰山の時は、紬未が常に周りにいた。時には先頭に立って歩いて花壇に寄り道したり、時にはいつの間にか喉が渇いたとひとり飲み物を自販機で買っていたり、時には僕の隣でじつにどうでもいいことをペラペラと喋りかけたりしていた。僕はそんな彼女に呆れた視線を向け、苦笑を浮かべて文句を言い、なんの気はなしに頷いては彼女の話に耳を傾けていた。そうして気づけば、いつの間にか時間は経過し、目的地に着いている。
やはり、と思う。
先週の帰り道。公園でブランコに座り、身に覚えていた感覚は勘違いじゃない。
僕は彼女との、紬未との時間を楽しんでしまっている。楽しいと、思ってしまっている。
これが僕にとっていいことなのかは、正直今はわからない。いずれ悲しくなるなら楽しい思い出なんて最初からないほうがいいし、そのきっかけになりうる親しい人なんて極力作らないに限る。その考えは、やっぱり今も僕の中にある。
けれど……悔しいけれど、そんな考えが僕の中で薄れつつあるのも確かだった。茹でガエルのように、僕は知らないうちに彼女の影響を受けてしまっているらしい。今も、ここに紬未がいたらどうなるだろうかと考えてしまいそうになるほどに。
そして、もうひとつ。
今日、紬未とわかれた後に、ひとりで宝物が埋まっているかもしれない場所へ訪れた理由は、自分の心を確かめるほかにもうひとつあった。
「ここのはず……なんだけどな」
見晴らしの丘と書かれた看板の近くにあるベンチに腰を落ち着ける。坂道に立つ生い茂った草木の上には、雲の影が降りた金沢の街並みが広がっており、遥か彼方には日本海の水平線を臨むことができた。
郷土集にあった見所に取り上げられるほどの、広大な景色。
紬未が見覚えのある場所だと指していた、写真の景色。
そして、宝物が隠されているはずの場所。宝物を、隠しに来たことがあるはずの場所。
……それなのに、僕の頭の中にはなにひとつとして、記憶が浮かんでこなかった。
懐かしさはある。見覚えもある。
おそらく僕も、ここに来たことがある。
父が亡くなり、母が障害を患って以降、僕は登校や買い物以外で外に出ることがほとんどなかった。だから、来たことがあるとすればそれ以前だ。
でも、なぜか。僕の頭の中は真っ白だった。
「……やっぱり、僕は」
ゆっくりと顔を撫で上げる。
思い当たるとすれば、僕の過去だ。
僕は、小学校四年生の時にトラウマを負った。
あの日以降、大好きだった写真撮影を忌み嫌い、楽しい思い出を作りたくないと思うようになった。
どうせ、楽しい思い出を作ったところでいつかは悲しみに変わる。楽しい思い出が、悲しみを増幅してしまう。そんな思い出なんて、いらない。
あんなに好きだったアルバムを見れなくなった。
父や母との思い出を振り返らなくなった。
部屋に飾っていた写真はすべてダンボールに押し込んで、デジカメとともにクローゼットの奥深くに封印した。
楽しかった過去。笑い合っていた明るい家庭。幸せだった、もう戻らない時間。
そんな昔を思い出すたびに、今の悲しい想いが強くなるなんて絶対に嫌だと、僕は本気で心から思った。
だから、だろうか。
もしかすると僕は、無意識のうちに楽しかった記憶を心の奥底に押し込めて、思い出せないようにしていたのかもしれなかった。
――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!
何度も蘇ってきた僕の声。そのどれもが、紬未といる時だった。
――うん。ドキドキ、するかも。
それから、先ほど資料室にいる時に脳裏をかすめた女の子の声。あの弱々しくて、か細い声の主が、幼いころの紬未だったのだろうか。
――だろ? だからさ、ぜってー大人になったら一緒に見つけに来ようぜ!
――――ねえ、今度の日曜日にでも行こう!
そして、立て続けに聞こえた僕の声。あの時、宝物探しの記憶と事故の発端となった記憶が、混濁していた。
確証はない。僕のおこがましい考え違いかもしれない。
でももしそうなら……僕のトラウマが僕の中にある楽しい思い出に蓋をしているというなら、僕は、向き合わなければならない。過去の紬未との記憶を、思い出さなければいけない。紬未が自身の中にある悲しみと向き合い、乗り越え、自分らしく楽しく生きるのだと答えを見つけたのだから、僕も負けていられない。
……いや、違うか。
僕は、思い出したい。
過去の紬未との記憶を、僕は知りたい。知らないままで、忘れたままでいたくない。どうしてかはわからないけれど、とてもそう思う。
そして思い出せたら、改めて紬未と昔のことについて話したい。幻滅させてしまうかもしれないけれど、思い出話に花を咲かせてみたい。
「そのためには、やっぱ宝物を見つけるのがいいか」
彼女は男の子と宝物を埋めて以来、考えが変わったと言っていた。過去の僕たちはなにを埋め、どうして彼女が考え方を変えるに至ったのか。そこに、トラウマを乗り越えて思い出すためのヒントがあるような気がする。
「今ごろになって、だな」
どうやら、宝物探しが終わりに近づいたころになってようやく意欲が高まってきたらしい。なんとも稀有な例だ。
その時、近くにあった街灯に明かりがともった。空は随分と夜の色を濃くしており、紫紺の空が頭上に広がっている。
そろそろ帰るか。
さすがに今から僕ひとりで宝物を探すわけにはいかない。「一〇〇メートルの見晴らしの後ろ」、つまりは後方に茂った雑木林のどこかに埋まってはいるんだろうけど、暗くなっては探しようもない。それに、もし僕ひとりで見つけようものなら彼女から大目玉を喰らってしまうだろうから。
「ははっ」
そんな可能性を想像して、思わず僕は笑っていた。
彼女には本当に、笑わされてばかりだと思った。
*
翌日の補習後。今朝紬未と会った時に身体の調子を訊かれ、もうすっかり良くなったと返した僕は、てっきりその放課後に宝物探しへと連れ出されるものだと思っていた。
「やっほー! ソウくん、今日も黄昏てるね~」
いつものように部活に行く藤田を見送り、ぼんやりと外の景色を眺めていた時にいつもの調子で声をかけられた。何の気は無しに振り返ると、そこには相変わらず眩しいほどの笑顔を浮かべる紬未と、彼女の背に隠れるようにして僕を観察している見慣れない女子生徒がいた。
「えっと、今日はひとりじゃないんだな」
「ああ、そう! ちょっと今日はね、ぜひともソウくんに相談に乗ってほしくて!」
「相談?」
「そう! ね、ほらっ!」
紬未に促され、後ろに控えていた少女がおずおずと前に出てくる。身長は紬未の肩ほどで、かなり小柄だ。自信なさげな眼差しで僕を見ると、彼女は視線を横にずらしながらぺこりと頭を下げてきた。
「は、はじめまして。私は、その、紬未ちゃんの友達で、山下真奈美って言います」
か細い声で、自己紹介をされた。ほとんど反射的に、僕も頭を下げて自己紹介をする。
「どうも。森川湊也です」
「えと、その、今日は、その……えとえと……」
「うん、なに?」
「えと…………~~~っ!」
そこで隠れられた。しどろもどろになにかを話し始めようとしたところで、小動物のごとく山下さんは紬未の後ろに戻っていってしまった。
「あーもう。マナちゃん、隠れちゃダメだよ」
「だ、だって……」
「もう~仕方ないなー。ごめんね、ソウくん。マナちゃん、極度の人見知りなんだ」
「そ、そうなんだ」
僕は苦笑するしかなかった。というよりもなぜ、その人見知りの友達を僕に引き合わせたのか。
僕の心中に浮かんだ疑問をまるで読んだかのように、紬未は続けて口を開いた。
「じつはね、マナちゃん、藤田くんのことが好きなんだ」
「え」
ヒュッ、と風切り音が出そうな勢いで、少しだけ顔をのぞかせていた山下さんが紬未の後ろに完全に隠れた。
「私も相談に乗ってたんだけど、やっぱり男子目線の意見も知りたくて。それで、ソウくんが藤田くんとよく話してるって話をしたらぜひいろいろ訊いてみたいってマナちゃんが言うものだから連れてきたの」
この通り人見知りなんだけどね、と紬未は後に付け足す。まるで物陰から様子をうかがうリスのように、山下さんは顔だけ出してこちらを見ている。
「とまあ、いうことで! ほら、マナちゃんもいつまでも隠れてないで座る座る!」
「ほわあっ!?」
抜けたような声をあげて、山下さんは紬未の勢いに押されるがまま僕の真横の席の椅子に座らされた。紬未は僕の前の席に座り、楽しそうにこちらを眺めている。
どことなく既視感を覚えた。そして、この強引さに山下さんも振り回されているんだろうなと、合わせて親近感も心に生まれた。
「え……と、その……」
山下さんは顔を真っ赤にして右に左に視線を彷徨わせる。よくよく見れば、耳まで赤くなっていた。熱中症じゃないかと心配になるほどに。人は恋をするとここまで態度や表情に出るものなのか。
そんなややズレたことを考えているうちに、決心のついたらしい山下さんは真っ直ぐに僕を見据えてきた。可愛らしい猫のヘアピンで上げられた前髪の下に映える大きな瞳が僕を捉える。
「りゅ、龍くんとは、その、幼馴染で、昔からずっと好き……だったんだけど、なかなか言い出せなくて……。でも、もう高校二年生だから後悔したくなくて、なんとか、気持ちを伝えたいの」
「は、はあ」
「それで、その……はじめましての人にこんなこと訊くのも、ごめんなさいなんだけど……なにか、いい方法とかないですか……?」
「……」
思考がフリーズした。
まさか、恋愛相談とは思ってもみなかった。しかもわりと結構真面目で本気なやつだ。これまで人との関わりを極力避けてきた僕に、とてもじゃないが務まるとは思えない。
これ、相談相手にする人選間違ってないか?
寂しげな瞳で僕を見つめてくる初対面の女の子の視線を受けて、僕はすぐさま隣にいるその手の話に詳しそうな女の子、もとい諸悪の根源に助けを求めた。当の強引娘は僕の机に頬杖をつき、ニマニマと意地の悪い笑みを僕に向けてきている。
「私はねーやっぱり遊びに誘うのがいいと思うんだよね~」
「あ、あー。確かに、それはいいかもな」
まったくアイデアすらない僕には同調する以外の選択肢はない。
「遊び、かあ……。私、最近龍くんとほとんど話してなくて……。どうやって誘ったらいいかな」
「そういう時は、いきなり二人でとかよりも友達も入れた何人かで行こうって提案したほうがいいよね」
「うん、確かに、そっちのほうが緊張も和らぎそうだし」
同意だけというのも変なので、一応僕のささやかな意見、というより感想も紛れ込ませておく。事実、二人きりより協力してくれる友達が何人かいたほうがいいとは思う。
「な、なるほど……。でも私、龍くんが入ってるサッカー部にはお願いできそうな友達いなくて……だから、その」
「ああ、大丈夫。そこはきっとソウくんがひと肌脱いでくれるだろうから。ねっ!」
「え? ああ、まあ、僕にできることなら……ん?」
ちょっと待て。この流れはもしかして。
「あ、ありがとうございます……! それと、えと、紬未ちゃんも、来てくれる?」
「もっちろーん! 私たちが全力でマナちゃんのことを応援するよ! ねっ、ソウくん!」
「あ、ああ……」
そこでようやく気付いた。巧妙に仕組まれた、罠の可能性に。
おそらく、これは友達の恋愛協力もさることながら、また彼女お得意の楽しい思い出を作るための作戦でもある。おおかた四人で出かけたあとに、山下さんと藤田を二人っきりにさせるとかなんとか言って二手にわかれ、僕をあちこちに引っ張り回す算段だろう。
僕が訝しげな視線を紬未に送ると、ちょうど目が合った。てへっ、と効果音がつきそうなウインクをされる。
どこまでもブレないな、と思った。苦笑しか出てこない。べつにそんな遠回りなことをしなくてもついていくというのに。
……あれ。
僕は今、なんて?
「さっ、それで問題はどこに行くか、だね!」
僕が戸惑いかけたところで、紬未のひときわ明るい声が聞こえた。考え込みかけていた意識が、急速に引き戻される。
「う、うん……でも、龍くんどこに行きたいんだろ……。最近話してないから、よくわかんなくて」
「んー純粋にマナちゃんが行きたいところでもいいと思うけど。あ、ソウくんは聞いてない? 藤田くんがここに行きたいって言ってたとか」
「え? 藤田がどこに行きたいか?」
唐突に振られ、今度はべつの意味で内心戸惑う。そんなことを言われても、僕はべつに藤田と仲良くしてきたわけじゃない。どちらかといえば藤田が一方的に僕に話しかけてきていただけだ。しかもその内容の大半はどうでもいいことばかりで、僕は完全にスルーしていた。覚えているはずもない。今朝や昼の時の話もそうだし、昨日や先週、久しぶりに会った時だって何を言っていたか……
「あ……海」
そこで、先週彼が練習試合を終えて補習に参加してきていた時に言っていた言葉を思い出した。補修を遅刻してきて、遊びなら遅刻しないとか言い訳をしてきて、その後に爽やかに笑いながらそんなことを言っていた気がする。
ただ、さすがに女子二人を伴っての海はハードルが高い。主に僕にとって。ここはやはり山下さんの行きたいところとか別の場所がいいだろう。
「海かーーっ! いいね! めっちゃいいよーー!」
考えをまとめて僕が発言しようとしたところで、すかさず容赦のない夏の太陽みたいに明るい声が真横から飛んできた。ぎょっとして見れば、海面を乱反射する陽光のごとく輝いた目で僕を見つめる紬未がいた。
「え、う、海……? それはちょっと恥ずかしい……それに私、泳げないからほとんど行ったことなくて……」
対して山下さんは消極的な反応。自ら口を滑らせておきながら僕も山下さんと同様の意見だったので、それに乗っかろうと口を開く。
「行ったことないなら余計にいいよー!」
が、それはまたしても紬未に遮られた。
「行ったことないってことは、新鮮ってことでしょ? つまり今までの幼馴染イメージを払拭するにはもってこいってこと! もっと言えば、見慣れてないマナちゃんの水着姿で藤田くんを悩殺しちゃおう!」
「水着!? 悩殺!?」
嬉々として海を推し続ける紬未に、山下さんは赤面して戸惑い、僕は無言で頭を抱えた。いったいなにを言っているのだろう、この木登り少女は。
このまま行くと、押しに弱い僕と、同じく押しに弱そうな山下さんでは海に決定してしまう。止めるなら今しかなく、やはり僕が適任だろう。山下さんは当事者だから断りにくいだろうし、なにより海になりかけてるのは僕が深く考える前につぶやいてしまったからだ。
今も山下さんに海がいかに藤田の気を引くのに素晴らしいかを高説している紬未に向かって、僕はべつの場所を提案しようと口を開いた、そんな時だった。
「……わかった。私、海で頑張ってみる!」
「え?」
まさかまさかで、僕の真向かいに座っている山下さんの口からそんな言葉が発せられたのは。
僕はきょとんとして彼女の大きな瞳に目を向ける。目が合うと、なにやら力のこもった頷きを返された。
「おぉー! さすが私のマナちゃん! よく決心したねー!」
「は?」
今度は真横で囃し立てている紬未に向かって、怪訝な視線を送る。いつの間に山下さんが紬未のものになったのだろう。目が合うと、本日二度目となる「てへっ」を返された。
うそだろ、と思った。
え、もしかしてこの流れは僕も同意しないといけないのか?
「よしっ、そうと決まれば早速水着を買いに行こう! テンション上がるねえー!」
「なるべく控えめなので、よろしくお願いします……」
「もちもち! あ、ソウくんもついてきてよね! 間違っても逃げないよーに!」
違った。どうやら僕には決定権も提案権もないらしかった。
「あーはいはい」
もうどうにでもなれと、僕は投げやり気味に頷いた。
駅前にあるショッピングモールは、夏休みということもあって想像通り混んでいた。
肌を圧迫してくるような地獄の暑さの中を歩いてきた身としては、冷房の効いた店内はまさに天国。僕と同じような感想を抱いたのか、入り口近くは友達や恋人を待っている人たちで埋め尽くされていた。そこを抜けるとやや空いているものの、リーズナブルなファッション雑貨やらアパレル店が立ち並ぶ二階はまた別世界。僕と同い年かやや歳上のグループが、右にも左にも遠目にももちろん近くにも跋扈していた。
「はあ……」
そう、跋扈していた。この場所こそが自分たちのいるべきところなのだと、楽しそうな会話が縦横無尽に飛び交っていた。
「はぁ……」
逆にいえば、僕は息苦しかった。今すぐにでも帰るか、もっと上の階に行きたかった。けれど、もしここで僕が逃げようものなら、めざとい監視役にすぐさま連れ戻されるだろう。さらには逃げたことを追求されて、また悪魔的な笑みを浮かべて僕が困惑する提案をしてくるかもしれない。それだけは、避けなければならない。
「はあーあ……」
「もうーいつまでため息ついてるの? いい加減諦めなさいよー。水着はレディース階のここしか売ってないんだから」
目のやり場と場違い感に困り果て、既に疲労困憊となった僕に、無慈悲な言葉が突きつけられた。ひどすぎる。
「あのな。何度も言うけど僕はべつにいらなくないか。藤田が好きそうな水着なんて知らないし」
「それでも男子高生の意見は聞いておきたいじゃない。私たちはもっとわからないし」
「じゃあ好きなの買えばいいだろ」
「もう、ああ言えばこう言うー。一度了承したんだからつべこべ言わない!」
ぴしゃりと打ち切られたところで、ちょうど目的のお店に着いた。数十分前に適当な返事をした自分を呪いたい。
到着したお店は、それはもうさらに僕の精神をすり減らす場所だった。右側にも左側にもあるのは水着ばかり。当たり前だ。ここは水着を売っているお店なんだから。
「じゃあ僕は前で待ってるから。決まったら適当に意見言うから呼びに来」
「あーもうそれは面倒だから却下。私たちの近くにいれば変な目で見られないから大丈夫! ほら、行くよ!」
僕の最後の抵抗も虚しく、駄々をこねる子どもを宥める母親に連れて行かれる心持ちで、僕は店内の奥へと足を踏み入れた。身も蓋もないことを言ってしまえば、男子高生にとって女性用の水着を売っているお店なんて下着を売っているお店となんら変わらない。僕は一体全体どんな態度でいればいいのか。誰か教えてほしい。
「え、えっと……森川くん、ごめんね。私が、意見を訊いてみたいなんて言ったから……」
「あーべつに、山下さんのせいじゃないよ。紬未は一度言い出したらきかないから」
僕の態度を気遣って謝ってくる山下さんに僕は肩をすくめてみせた。本当に、紬未の押しの強さには困ったものだ。すると、山下さんはクスリと笑う。
「うん、わかるよ。紬未ちゃんて、ちょっと強引なところがあるよね」
「ちょっとどころじゃないよ。猪もびっくりなくらい猪突猛進気味にゴリ押ししてくるんだから」
「ふふふっ、確かに」
さらに山下さんはクスクスと短く笑う。ここに来るまでの間で山下さんの緊張は幾分かほぐれてくれたようだった。当日のことを考えれば慣れてくれたほうがサポートはしやすいので、これだけが不幸中の幸いといったところか。
「ちょっとぉー! 二人っきりでなに話してるのー!」
そこへ、新作水着のポップに惹かれてお店のどこぞに行方をくらませていた話題の人物が、頬を膨らませ水着を片手に紛れ込んでくる。噂をすればなんとやらだ。
「べつになんでも。紬未の押しが強いって話」
「なんだとおー! 私のどこが押しが強いって!?」
「全部だよ。というか、その手にあるのは?」
「ああ、これ? マナちゃんに似合うと思って!」
「え、ええっ!? 黄色の三角ビキニって……無理だよ」
「無理じゃない無理じゃない! ささっ、ほら! とりあえず試着してみよ!」
「そういうところだよ、紬未」
僕の華麗なツッコミも虚しく、ブレない紬未はそのまま狼狽える山下さんを連れて試着室へと連行して行った。
腑に落ちなかったのは、「これは藤田くんに見せる水着なんだからソウくんは見ちゃダメ! ここで待っててね」と言われたことだ。見てはいけないのはなんとなくわかる。そもそも海でもプールでもないところで異性の水着姿なんて見るわけにはいかない。それはいいのだが、ならやはり僕はべつにいなくてもいいのではないだろうか。なんのために恥ずかしい思いをしてまでレディースファッションの階を回り、水着の売られているお店に入ったのか。謎だ。
僕が遠ざかっていく二人の背中を見送りながらそんなことを考えていると、すぐ近くからヒソヒソ声がした気がした。声のほうを見れば、大学生くらいの女性二人が僕のほうをチラチラとうかがいながら何やら話していた。そうだ。そういえば、紬未から「私たちの近くにいれば変な目で見られないから大丈夫!」と言われてたんだっけ。それはすなわち、紬未たちの近くにいなければ変な目で見られるというわけだ。なんて残酷な世界なんだろうか。
僕が閉口して近くの柱に寄りかかり紬未たちを待っていると、ほどなくして二人は戻ってきた。それと見てわかるほどに赤面した山下さんと、どこか満足げに胸を張って歩く紬未から察するに、購入する水着は早々に決まったんだろう。結構なことだ。
「おーい。決まったならさっさと買って帰ろう」
ようやく帰れる。滞在時間の短さのわりに積年の思いを口にするような感慨で紬未に言うと、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「え? 私のがまだだけど」
「は?」
呆然とする。今言われた言葉の意味がわからず、頭の中で反芻した。
ワタシノガマダ。
わたしのがまだ。
私のが、まだ?
「え、紬未も買うの?」
「当たり前でしょっ! そのためにソウくんを連れてきたんだから!」
「いや、聞いてないって!」
「あ、あはは……ほんと仲良いね、二人とも」
苦笑する山下さんに助けを求めようとするも、「私はお邪魔だろうから先にお会計してるね」と変な気を遣われた。いや待って、お願いだから。
「ほらほら! 早く行こっ! 私、こっちの水着が気になるの!」
「いやだから聞いてな、ちょちょちょっ、引っ張るなって! だからそういうとこだぞ!」
僕は抵抗し奮戦するも、押しに弱い人が押しの強い人に敵うはずもなく連れて行かれたのは言うまでもない。
紬未は次から次へと候補を持ってきては僕の意見を聞いてきた。時には試着してくるとまで言われた。赤面し、慌てふためき、そんな僕の様子を意地悪くニマニマと笑ってからかわれた。
最終的には三つに候補を絞ったものの、そこから先は乙女の秘密だとか言われて僕はお店から追い出された。ついぞ、どの水着を買ったのかは教えてくれなかった。
ほんとなんなんだ、いったい。
*
ショッピングモールでの一件から数日後の日曜日。
今日も今日とて燦々と照りつける太陽の下、僕は海に来ていた。
「マージでどういう風の吹き回しだよ、これは」
自転車から降りるや、バシッとやや強めに背中を叩かれる。リュック越しなので痛くはない。もっとも、振り返った際に向けられた探るような視線とは目を合わせていられなかった。そんな僕の反応を見て、今日の相手役である藤田はさらに笑みを深める。
「なんか最近変だと思ってたんだよ。いきなし久空がクラスに乗り込んできたかと思えば、『ソウくん』呼びだしな」
「それは前も話してた通り、勉強を教えることになったからだ。不覚にもね。今日のもなんというか、成り行きで決まった感じだから」
「成り行きで? 女子二人と海に? かーっ、お前も手癖が悪くなったもんだなあ」
「誤解を招くようなことを言わないでくれる? 僕が誘ったんじゃないんだから」
藤田には今回の一件を、紬未が山下さんと海に行くからせっかくだし藤田も誘って四人で行こうとなった、と説明していた。藤田は山下さんと幼馴染で、紬未とは中学からの友達だから不自然ではない。それに、藤田自身も海に行きたいと言っていたことを引き合いに出せば来るだろうとは思っていた。そして案の定、藤田はかなり乗り気で僕の話に賛成してくれた。まあ、今以上にいじられ倒したのは言うまでもないが。
「それにしても、久空がいるとはいえ真奈美が海に行くなんて珍しいな。あいつ、結構なカナヅチだったのに」
二人の姿を探しながら藤田はつぶやく。紬未たちとは現地集合になっており、まだ来てないみたいだった。
「そうなんだ。幼馴染って聞いたけど」
「ああ、そう。家が同じ町内にあって、小学生のころはよく遊んでた。最近はまあ、疎遠になってるけどな」
「ふーん。じゃあ今日は久しぶりに遊ぶことになるのか」
「ああ、そうだな」
藤田はどこか寂しげに笑った。彼のこんな表情はあまり見たことがない。
ふいに、時折り山下さんが見せていた表情と重なって見えた。なんとか寂しさを堪えて、精一杯の笑みを作っている。そんな表情だ。
これはきっと、藤田も山下さんのことを憎からず想っているのだろう。けれど、異性の幼馴染ということもあって疎遠になり、モヤモヤとした気持ちを伝えられずに今に至るといったところか。
昨日紬未とも話していたが、彼女も藤田の気持ちが山下さんに向いていることは薄々わかっていたらしい。あとは当人同士の話なので、周囲は陰からサポートするしかない。全力で応援すると言っていた紬未の言葉が、ようやく腹に落ちたような感じがした。
「まっ、俺らのことはともかく、森川のほうこそどうなんだよ?」
「は? 僕?」
「そーそー。あんなにクラスのやつらから距離とってた森川が、誘われたとはいえ遊びについていくなんてさ。少なくとも嫌ってはいないってことだろ? 実際問題、森川は久空のことどう思ってんだ?」
藤田は額に浮き出た汗を拭い、快活な笑みを浮かべる。そこには先ほどまでのからかうような含みはなく、むしろどこか嬉しそうですらあった。
「んー、どうなんだろう」
そんな顔をされては、無下にするわけにもいかない。けれど、素直に答えようにも僕自身にもなぜなのかわからなかった。
考えてみる。
最初こそ紬未の強引さに辟易とし、楽しい思い出への忌避感もあって距離を置きたいと思っていた。宝物探しを手伝うことになったものの、親しくならないよう冷めた態度で、適当に接するつもりだった。
けれど彼女は、紬未は、そうはさせてくれなかった。
持ち前の明るさと押しの強さで僕を連れ回し、いつも無邪気な笑顔を振り撒いていた。適度な距離なんてとれるはずもなく、宝物探しとは関係ない時も一緒にいることがしばしばあった。
そうして気づけば、僕の考えも少しずつ変わっていた。
紬未と距離を置くつもりだったのに、いつの間にか彼女と一緒にいる時間に夢中になっていた。
楽しい思い出なんて作るつもりはなかったのに、いつの間にか彼女と一緒に過ごす時間を楽しんでいた。
忘れてしまっているはずの彼女との記憶を思い出したいと思うようになっていた。
そしてついには、理由があるとはいえ一緒に水着を買いに行き、海まで来ている。しかもそれが僅か二週間足らずの出来事ときた。藤田が勘繰るのも無理はない。
嫌っていないかと訊かれれば、確かに今は嫌っていないだろう。
じゃあ、どう思っているかと訊かれたら……やっぱりわからない。
一緒にいてドキドキするとか恥ずかしいとかいったことはないし、藤田や山下さんのような恋ではない。なら友達かと言われると、宝物探しや成り行きで出かけることはあれど普段から遊びに行くような関係ではない。宝物探しが終われば、それ以降は一気に関わる機会が減るに違いない。関わる理由がなくなってしまうから。
そこまで考えて、ふいに胸の辺りに違和感が走った。
なぜだかわからず、僕は戸惑う。
「んで? どうなんよ? やっぱり久空のこと、気になってんのか?」
待ち切れずといった様子で、藤田は僕の肩を組んできた。熱気が僕の肌にまとわりつく。
「いや……それはないかな」
僕は暑苦しさからすぐさま逃げて答えた。心の違和感は、すでに消えていた。
「えーマジ? 言っとくけど、久空って結構人気あるんだぞ? サッカー部でも狙ってるやつそこそこいるんだからな」
「まあ明るくて社交的だからね。僕とは違って」
「ったく、卑屈なところは変わんねーのな」
「おーーいっ! ふーたーりーとーもー!」
僕らの話がひと段落したところで、真夏の青空を駆ける溌剌とした声が響いた。声のほうへ目を向ければ、自転車にまたがって手を振る紬未と、恥ずかしそうに苦笑いしている山下さんが遠目に見えた。
「まっ、俺らはもう高校二年生で来年は受験だ。悔いの残らないようにな」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すよ」
「お、言うなあ。やっぱり変わったよ、森川は。いい意味でな」
もう一度彼は僕の背中を軽く叩いた。まるで元気づけるような、仄かな強さだった。
僕には出ない大声で返事をする藤田に次いで、僕も小さく手を振り返す。
まったく、なにを言ってるんだか。
遥か上空で、名前も知らない白い鳥がひと鳴きしていた。
紬未や山下さんが合流すると、早速僕らは海水浴場へ足を踏み入れた。
「わーーっ! 海だーーー!」
青と白のボーダーTシャツにショートデニムといういかにも夏らしい格好の後ろ姿が、海辺にパタパタと駆けていく。今日は少し波が高いのに。あれだとすぐびしょ濡れになるんじゃないだろうか。
「ちょ、ちょっと紬未ちゃん。まだ水着じゃないよ」
「むー、じゃあ早く着替えにいこっ!」
「わわっ」
思うだけの僕とは違い、しっかりと静止の声をかけた山下さんはすぐさま紬未に更衣室へと連れ去られていった。なんともご愁傷様だ。
「おーやっぱりいいねえ、夏の海は。目の保養になる」
「なにいってんだ」
二人が更衣室に行っている間に、じゃんけんに負けた僕らはテント張りをすることになっている。夏休みでしかも日曜日ということもあり、海水浴場はそれなりに混み合っていた。この暑苦しいさなか、さっさと場所を決めて準備をしてしまいたいんだが。
まるで手伝おうとしない藤田を急かしつつ、僕は近くにあった手頃な場所にレジャーシートと簡易テントを下ろした。しかし彼は止まるところを知らないらしく、また僕の肩を組んでくる。かと思えば、海水浴を満喫しているグループのひとつを指差した。
「それにほら見ろよ、森川。あそこ」
彼の指の先には、少し離れたところでビーチチェアに寝転ぶ大学生と思しき集団がいた。おそらくサークルかなにかの集まりだろう。……だから?
「え、大学生が、なに?」
「一番奥の女子大生だよ、すごくね?」
アホな言葉が飛んできた。
「なにがだよ」
「またまたぁ〜わかってるくせに〜〜ってぇっ!?」
「ちょっと二人ともっ!」
僕が彼の肩口から抜け出そうとしたところで、鋭い声とともに軽い衝撃が後頭部に飛んできた。悲鳴をあげた藤田に続き、僕も後ろ頭をおさえる。
「ってて、なんで僕まで」
「なんでもなにも、ソウくんも見てたでしょ! サイテー!」
「龍くんに森川くんも……だ、ダメだよ……!」
振り返れば、鋭い目つきでこちらを睨む紬未と、気まずそうに視線を泳がす山下さんがいた。もう着替えてきたのか。
「ったく、俺たちは男のロマンをだなあ…………あ」
僕と同じように二人を見て、不服そうに持論を展開しようとしていた藤田が固まった。その反応に、にんまりと紬未の笑みが深くなる。
「ふっふっふ~。どうどう? 小学生以来に見たマナちゃんの水着はっ!」
「わわっ!」
山下さんは紬未によって軽く背中を押され、よろめきつつ藤田の前へ躍り出た。ショッピングモールで買った黄色の水着が、夏の陽光を受けて海に映える。ショッピングモールで見た時は普通の水着という感じがしたが、こうした海辺で見るとじつに夏らしさが引き立っていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
引き立っている、のはいいのだが、この沈黙はどうしたものか。
山下さんはもちろんのこと、普段から気さくに女子とも話している藤田も未だに固まっている。二人の顔は、日焼けとはまたべつの意味で、とても真っ赤だった。
「……えと、龍くん。なんか言ってよ。恥ずかしいよ……」
「あ、ああ、わり。えと、すげえ似合ってるぞ! 馬子にも衣装って感じで!」
「それは、褒めてるの?」
しばらくして、先に正気を取り戻した山下さんが話しかけ、それに藤田が答えていた。自分たちの世界に入りかけている二人から、僕はそっと距離をとる。
「なんか、いい感じだね」
僕のすぐ隣に、紬未が並んだ。どうやら僕と同じことを思っているらしい。
「ああ、そうだな。とりあえず、第一段階は成功とみていいのかな」
「いいでしょ。ていうか、どう見たって好き合ってるじゃん。もう告白すればいいのに」
「同感だけど、そんなことをこの距離でいうのもどうかと思うけど」
「大丈夫大丈夫、聞こえてないって」
クスリと紬未が笑う。確かに、これだけ話していても二人はまるで気にする気配もなく歓談を続けている。最初のころに垣間見えた久しぶりゆえの気まずさは、もうすっかりなくなっているようだった。
「ねっ、それよりも。どう? 私のほうは?」
「え!?」
微笑ましい気持ちになりながら藤田たちを眺めていると、ふいに耳元へささやかれた。僕は驚き、思わず横へ距離をとる。
すぐ真横には、んふふふと妖艶とも小悪魔ともつかない声をこぼして笑う紬未が上目遣いに僕を見ていた。かと思えば、くるりとその場で一回りする。
「感想、聞かせてよ。どうかな、私の水着は?」
彼女の動きに合わせて、真夏の砂浜に水色のフレアスカートが翻った。胸元につけられたフリルも風をはらみ、白い肌が微かに顔をのぞかせる。たったそれだけの動作で周囲の気温が五度ほど上がり、心臓が早鐘を打ち出すのは免疫がないからだろうか。
いや、免疫というならあるはずだった。だってこの水着は、ショッピングモールで既に見ているんだから。
ラスト三着に絞り込んだうちの一番最後。彼女が悩みに悩んでにらめっこを繰り返していた、ワンピースタイプの水着だった。
「……結局、その水着にしたんだ」
これ以上の沈黙はいけないと、どうにか言葉を絞り出す。でも、どうしてか。どうしてショッピングモールの試着室前で見た彼女の姿と、浜辺で見る彼女の姿の印象がこうも違うのか。あの時も気恥ずかしさはあったけれど、なんだかレベルが段違いだ。言葉を選ばずに心の中だけでとどめておくなら、とても可愛いと思ってしまった。
「えー感想それだけー?」
くるりくるりと紬未は三度その場で回ってみせる。どうも今の感想だけでは不服らしい。かといって、素直に思ったことを言うのもからかわれる未来しか見えないので言いたくない。となれば口にする他の感想はひとつだ。
「……に、似合ってるよ。とても」
「ふふふっ! ありがと!」
無難な感想。なんなら藤田の言葉を拝借している。けれど、詰まらせながらどうにか述べたそんな言葉に、紬未は満足してくれたようだった。くそう、なんだこれは。
「おーおー、お熱いこって」
「あ、えと……邪魔しちゃ悪いよ、龍くん」
そこへ、大仰な口笛とともに聞こえてきた声に、僕はハッと我に返った。
「え、二人とも、いつの間に……」
「俺らに気づかないほど久空に見惚れてたのかよ、このこの~」
「紬未ちゃん、ごめんね。せっかくいい感じだったのに……」
「んーん! 私は大満足だからいーの! ほらっ、今度こそあそぼ!」
本気でうざいくらいに絡んでくる藤田の相手をしているうちに、紬未たちはじゃれ合いながら波打ち際へ駆けていく。まさに青春、といった絵面だった。
それから僕たちは、思い思いに海水浴を満喫した。
潮騒に紛れて、紬未と山下さんは海水を掛け合いはしゃいでいた。途中、大学生らしき男二人にナンパされていたが、藤田が助けに入る間もなく「あそこに彼氏がいるので無理でーす!」と叫ぶ紬未に撃退されていた。色黒の大学生二人に睨まれ、僕は身が縮こまる思いだった。
その後藤田はいきなり「芸術作品を作ろうぜ!」と息巻き、テントの下で火照った身体やら顔やらを冷ましていた僕を引きずって磯遊びを始めた。途中からは紬未たちも混ざり、四人でそこそこ大がかりな洋風の城を作り上げた。SNSにあげるのだと藤田たちは写真を撮っていた。あとで送ると言ってくれた藤田に、僕は適当に頷き返しておいた。
そうこうしているうちにいつの間にかお昼は過ぎており、僕らは近くにあった海の家で焼きそばを買って食べた。僕が家で作って食べる焼きそばとそう変わらない、むしろやや質素な具材だったのになぜかとても美味しく感じられた。僕だけかと思いきや、みんな同じみたいだった。紬未に至ってはおかわりをしていた。
もちろん、当初の予定も忘れてはいない。昼食後、テントで休憩している藤田と山下さんから僕と紬未はそっと離れた。
「上手く離れられたね! どうする? 遠目から見る?」
「のぞき見なんて趣味が悪いよ」
「失礼な。これはのぞき見じゃなくて見守りだよっ。大事な大事な友達の恋の行く末を私たちは見届けなければいけないの! ね? だからさ、ほらあそこの岩陰なんか隠れ場所としてちょうどいいと思わない? ね? ね?」
「あーはいはい。隠れ場所とか言ってる時点で本音駄々洩れだから。ほら、いくよ」
「えーけち。じゃあ我慢する代わりにかき氷奢ってよね! イチゴ味だから!」
「あーはいはい」
いつもの宝物探しとはまったく違う場所で、まったく違う会話をしているのに、僕らの間に漂う空気はいつも通りだった。やっぱり、僕と紬未の間にあるのは藤田たちみたいな関係性ではない。
先ほど焼きそばを買った海の家で、今度はかき氷をふたつ買う。ご要望通り紬未はイチゴ、僕はブルーハワイを購入した。
「んーーっ! おいしー! やっぱりかき氷といえばイチゴだよね!」
もっとも色と香りが違うだけでかき氷の味はすべて同じらしいので、どれを買おうと大差はない。もちろん、嬉々としてかき氷を頬張る無邪気な彼女に、そんな無粋なことは言わないけれど。
「紬未が楽しそうでなによりだよ」
代わりに小さく肩をすくめて、僕はブルーハワイのかき氷を口に運ぶ。ソーダみたいな香りが口から鼻に駆け抜け、冷たさと甘さが火照った身体に染み渡っていく。美味しい。これがイチゴとまったく同じ味だなんてわかってても信じられない。
「私はいつも、いつでも楽しいよ。ソウくんも楽しんでる?」
「まあ、そうだな。それなりには」
「ふふふっ、そっか」
まるで、僕の考え方みたいだと思った。
夏休み前の僕と、今の僕。どちらも僕だけれど、考え方はまるで違う。夏休み前の僕が今の僕を見たら、吃驚すること間違いなしだろう。不思議なものだ。
「ねぇ、二人は上手くいってるかな?」
「んー好き合ってるのは確かだから、大丈夫じゃないかな」
「だよね。もしかして告白して付き合ってたりして。そしたら私たちは二人のキューピッドだね! きゃー」
「ほんと紬未が楽しそうでなによりだよ」
僕らは海の家の近くにあるベンチに腰掛け、シャリシャリとかき氷を食べた。いつの間にか陽はかなり低くなっており、人も随分と減ってきていた。
「でもね、私がこんなにも楽しいのはソウくんが一緒にいてくれるから。ソウくんのおかげなんだよ」
「へ? どゆこと?」
「そのままの意味! 宝物探しも勉強も海に来ることも、とっても楽しい思い出になってる。だから、今さらだけどありがとね」
「なにいきなり。今から雨でも降る?」
「ひどっ。もうー、ほんと相変わらずだなあ。ふふっ、ほんと、やっぱり思い出は希望の種だ」
やがて紙コップの底に残った氷のかけらを僕は喉に滑らせた。やや遅れて、紬未も最後のひと口を食べ終える。
「それ、たまに言ってるけど、どういう意味なの? どこかで聞いたことがあるような気もするんだけど」
「んーー、えーー? 知りたい? どうしよっかなあーー」
「いや、教えたくないならべつにいいけど」
「もうーそうやってすぐ拗ねないの。いつか教えてあげるから」
「それでも『いつか』なんだ。まあ期待しないで待ってるよ」
空になった紙コップをベンチに置いて、僕らはぼんやりと波間を眺めていた。紬未はまだ楽しそうに、足を前に後ろに振っている。
穏やかな時間だった。帰りたくないな、と無意識に思ってしまうくらいには、充実していた。
「大丈夫。ちゃんと教えるよ。少なくとも、私が死ぬ前には」
「…………え?」
唐突に、波音が止んだ。いきなり飛んできた言葉に、僕は驚いて紬未を見る。
「ん? どうしたの?」
しかし紬未は、それまでとまったく同じ和やかな会話をするみたいな調子で訊いてきた。それが余計に、僕の戸惑いを大きくする。
正直、僕は忘れかけていた。
こんなにも明るくて元気にはしゃぐ彼女の身体に、大病が潜んでいることを。
彼女の余命が、もういくばくしかないことを。
「いや、だって、そんな……なんで、急に?」
「えー急じゃないよー。みんなそうでしょ? 死ぬ前にやりたいことをやる、楽しいことをする、秘密を教える約束をする。普通だよ」
僕はどうにか言葉を絞り出したのに、紬未はなんでもないことのように答える。いや、確かに死んだ後の世界なんてものはないのだから、死ぬ前にやりたいことやできることをするのはそうだ。でも、その「死ぬ前」という言葉の意味は、僕と彼女とでは違う。
「人間いつ死ぬかわからないんだし、今を全力で生きるのは当たり前でしょ? 私も、ソウくんも」
にへら、と紬未は笑った。
いつも通りの、屈託のない笑顔だった。
西陽の光を受けて、紬未の笑顔は輝いていた。
そこで、僕は気づいた。
気づきたくなかった。
だから、僕は嫌だったんだ。
紬未と一緒にいることで、こんな気持ちになってしまうんじゃないかと思ったから。
どれだけ距離を置いても、どれだけ冷たく接しても、すべてを覆されそうな気がしていたから。
僕は紬未に、死んでほしくないと思った。
昔一緒に宝物を埋めたのなら、その時のことを思い出したいと思った。
これからも楽しい思い出を作っていきたいと思った。
一緒に笑ってみたいと、思った。
僕は紬未のことを、好きかもしれないと思った。
「…………それなら、言葉の意味だって今教えてほしいけど」
けれど、もちろん自分の気持ちなんて言えるはずもなくて。僕も相変わらずぶっきらぼうに、憎まれ口をたたいていた。
「おおー確かに。こりゃ一本取られたね」
僕の気持ちに気づくことなく、紬未はまた笑う。真夏の太陽に負けないくらい眩しかった。
「おーい! やっと見つけた!」
「紬未ちゃんに、森川くんもー。ここにいたんだ」
そこへ僕らの名前を呼ぶ声がした。僕たちは揃って、声のほうを見る。
「あっ! 見て、ソウくん」
「ああ、見た。成功したみたいだな」
二人の繋がれた手を見て、僕らは顔を見合わせて小さく笑った。それから紬未はベンチから跳び降りると、同じくらい大きな声で彼らの名前を呼ぶ。
その声には嬉しさが混じっていた。
もちろん僕も、嬉しかった。
でもそれだけじゃなかった。
僕は、羨ましかった。
遠慮なく気持ちを通じ合わせて、明るい未来を夢見ている二人が、羨ましかった。
「ちょっとちょっと、なになになに〜〜! 二人とも手繋いじゃってーーー!」
「白々しいぞ久空」
「つ、紬未ちゃん、恥ずかしいよ……」
茜色に変わっていく空の下でも、藤田と山下さんの顔はそれとわかるほどに赤くて、幸せそうだった。
「おめでとう、二人とも」
だから僕も、最近覚えた笑顔で二人に祝福の言葉を送った。
藤田は自慢げに親指を立てて、山下さんは俯きがちにお礼を言っていた。
まるで、僕らとは正反対の姿を見ているみたいで、僕は上手く笑えているかわからなかった。
それから僕たちは後片付けをすませて、各々の自転車に乗って帰路についた。
明日から再開する宝物探しで、僕はどんな顔をすればいいのだろうか。どんな気持ちで、これから紬未と接していけばいいのだろうか。
まだ生ぬるい八月の風を頬に受けながら、僕はそんなことばかりを考えていた。
家に帰ってからも、考えていた。夜ご飯を食べて、夏休みの宿題をそれなりに終わらせて、寝る直前になっても、思考は常にぐるぐると同じところを回っていた。
けれど、そこで僕はようやく知ることとなった。思い知ることになった。
僕と紬未の関係は、どうしようもなく終わりが見えていることに。
『ごめん! しばらく入院することになった笑』
翌日の補習が終わった直後。正午を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、マナーモードにしていた僕のスマホが振動した。
いつかの日に見た猫のスタンプとともに送られてきたメッセージの中でも、彼女は笑っていた。
僕は、ぜんぜん笑えなかった。
お盆間近の土曜日。
僕は、もう二度と来ないと勝手に誓っていた中央病院を訪れていた。
ここは、僕の父の最期を看取り、母が定期健診を受けに来ている病院だ。僕自身はあの事故での打撲が治って以来、この病院には一度も来たことがなかった。僕は嫌な記憶が濃密に詰まったこの病院を毛嫌いしていた。
けれど、今日はそうもいかなかった。
久しぶりに訪れた外来で受付をし、案内されるがままにエレベーターに乗って五階を目指した。消毒液の匂いをくぐり、台車を押す名前も知らない看護師さんに会釈をしながら、僕は奥まったところにある病室に向かう。
なんの因果か、紬未が通院し、治療を受けている病院もここだった。
「ふう……」
いやに小綺麗なドアの前に立ち、僕はひとつ深呼吸をする。目的の病室はすぐに見つかった。個室なのかネームプレートはひとつしか入れるところがなく、そこには確かに「久空紬未」と名前が書かれていた。
ひんやりとした冷房の風に背中を押されて、僕は重厚そうなドアの中央をノックする。
「はいはーい」
返事はすぐにあった。促されるがままに、僕はゆっくりとドアを開けて中に足を踏み入れた。
「……え」
ここに来るまでに、僕はいろいろな覚悟をしていた。
肝臓に大病を抱え、余命僅かとなった彼女が入院をしたのだ。それは確実に、病気の悪化を意味する。もしかしたら、得体の知れない管や呼吸器に繋がれて、思わず目を背けたくなるような光景すら想像した。
いや、いきなりそこまでは行かずとも、もしかしたらひどく弱った彼女の笑顔を目の当たりにして、聞きたくないような現実を突きつけられることを想定していた。僕が絶句する姿を見て、「仕方ないんだよ」と弱々し気に笑う紬未の笑顔を、何度も夢に見たくらいだ。
そんな数十にも及ぶ脳内シミュレーションをしたにもかかわらず、僕が今ドアを開けて目の当たりにしたのは、そのどれもに当てはまるものではなかった。
「すこーしそこで待っててね……今、すごく大事なところだから……」
これまでに聞いたことのない慎重な彼女の声。あんなに無邪気で明るくはしゃぎ回っていた時の高らかさは微塵も感じられない。むしろドキドキと心臓の鼓動が高鳴ってしまうような緊張感が、彼女の声には含まれていた。
ごくりと彼女は喉を鳴らし……最後の一段である頂上に、トランプの山を立てた。
「「あ」」
その時、僅かにベッドが揺れた。理由は定かではない。しかし確実にベッドが振動して、その揺れが伝わり彼女の眼の前に積み上げられていた建造物は脆くも崩れ去った。トランプタワーは、失敗した。
「ああああーーーー! もう少しだったのにいいいいいーーーーー!」
咆哮のような叫び声が僕の鼓膜を衝き抜け、咄嗟に僕は後ろ手にドアを閉めた。あんな声を、他の患者さんに聞かせるわけにはいかないと反射的に考えた結果だった。それが功を奏したのか、額に汗を浮かべた看護師さんが慌てて病室に駆け込んでくるといった事態にはならなかった。
……いや、そうじゃなくて!
「え、紬未、なにしてんの? 病気が悪化して入院してたんじゃないの? なにベッドの上に立って壮大なトランプタワーを建造してんの? あと声大き過ぎだし、ここは病院なんだからもっと抑えてほしいんだけど」
「質問と注文が多い! どれかひとつにして!」
僕が勢い余って矢継ぎ早にした質問は、ベッドの上で悔しがる紬未に一蹴された。
「じゃあ一番大事なこと! 紬未、病気は大丈夫なの!?」
「大丈夫! 多分!」
大丈夫らしかった。それじゃあ一安心、とはなるはずもない。
紬未から入院したと連絡があってから五日が経過していた。その間、僕は人生で初めてと言っていいほどスマホをいじり倒していた。
『入院って、いつまで?』
『んー今のところ未定! わかったら教えるね!』
一日目も。
『もしかして、病気が悪化したの?』
『んーまだそうとも言い切れないんだよね。精密検査次第というか』
『じゃあお見舞いに行くよ』
『ごめん、今はまだ無理なの! 土曜日くらいなら大丈夫だと思う!』
『じゃあ土曜日の午後から行くね』
二日目も。
『来る時さ、お菓子持ってきてよ』
『いいよ、なにがいい?』
『チョコレート系がいいなあ。死ぬまでにお腹いっぱい食べてみたいくらい好きなの』
『死ぬなんて言わないでよ』
『あれー? もしかして心配してくれてるのー? んふふふっ、このこのー』
『心配してるんだから、ふざけないで』
『ひょえーはあーい』
三日目も。
四日目も、五日目も。
僕は普段ほとんど見ることのないメッセージアプリを開いたり閉じたりしていた。
そうしてようやく面会の許可が彼女から降り、面会可能時間と入院している病院名を教えてもらってお見舞いにきたわけだ。精密検査で使う薬の副作用もあって、連絡がなかった一昨日と昨日の日中はじつにやきもきとしていた。昨日の夜に検査が無事に終わったことを教えられた時は、心の底から安堵した。もちろん、紬未本人には言っていないけれど。
「あ! もしかしてそれがお菓子?」
「そうだけど」
「やったー! ありがと、ソウくん! 病院食って薄味すぎて物足りないんだよねー。ほら、一緒に食べよ!」
めざとい彼女に見つけられ、僕は手に持っていた紙袋の中からお菓子を取り出す。どうやら肝臓が蝕まれても食べたいほど甘いものに目がないようなので、近所の洋菓子店で作られているチョコレート菓子を買ってきた。そのお店はあまり知られていないわりにはとても美味しく、きっと紬未も気に入るだろうと思ったのだ。
そして案の定、僕の手から菓子箱を受け取った紬未は、プレゼントをもらった幼子のように目を輝かせて箱を開け、すぐさまそのうちのひとつを口に放り込んだ。
「んーーーーーっ! 美味しいーーーっ! 久しぶりすぎて涙出るううーーー」
頬に手を当ててじつに恍惚とした表情を浮かべる紬未の目尻には、本当に涙が溜まっていた。「涙が出る」と言って本当に泣いてる人は珍しい。というか、そんなに美味しかったのか。
「久しぶりって言っても五日ぶりくらいだろ? 先週の日曜日はかき氷食べたんだし」
「五日も食べてなかったら充分久しぶりなの! 病気のせいでたくさんは食べられないし! はぁぁぁーー生き返るーーー」
大げさな、なんて正直思いはしたけれど、紬未が喜んでいるようなのでよしとした。こんなに喜んで食べてくれるなら買ってきたかいがあるものだ。
けれど、そんな嬉々として元気に振る舞う彼女を見ても、僕の心はいまいち晴れなかった。もちろん原因も、わかっている。
「……それで紬未、体調はどうなの?」
壁際の丸椅子をベッド脇に移動させて腰掛け、僕は訊いた。紬未は「今日はこれで終わりっ」と本日最後のチョコレートを食べ終えてから僕を見る。
「んーー? 元気だよ、フツーに」
「そんなわけないでしょ。入院までしてるのに」
「いや、ほんとに元気なんだよ。沈黙の臓器って言われるだけあって、怠さとか痛みとかなんにもないの。それが逆に怖いんだけどね」
紬未はチョコレートが入っていた包み紙を丸めると、窓際のゴミ箱めがけて投げた。包み紙は放物線をえがき、小気味良い音とともに中へ吸い込まれていった。
「私ね、いつも一週間に一回検査してるの。今週の月曜日にも行ったんだけど、結果があんまり良くなかったみたいで。それで少し入院することになったんだー」
「昨日言ってた精密検査のためか」
「そうそうー。来週もべつの検査しないとなんだよねー。あーあ、夏休み丸潰れだーーもうーー」
紬未は不満げにシーツをたたく。そりゃ紬未のようなアクティブな人にとっては二週間以上も病院で缶詰めなんて地獄でしかないだろう。
「宝物探しもさー、あとちょっとのところまで来てるのに。現地に行けないと探せないじゃない」
「まあ宝物は逃げないし、検査が終わってからまた探しに行けばいいだろ。見つかるまでは、僕も付き合うからさ」
なるべく深刻に捉えすぎないように軽い調子で言うと、にんまりと紬未は笑う。
「あららー? 珍しいー。やっぱり探してるうちに宝物がなにか気になってきちゃったとか?」
「べつにそういうわけじゃないけど」
「もうー素直じゃないなあーー。本当は気になってるんでしょ?」
「もうそういうことでいいよ」
いつもならうんざりしているところだが、今日ばかりは違った。紬未が調子良くイジってきて、僕が適当に答える。そんな何気ないやりとりを、少しばかり嬉しく感じていた。
それから紬未はなにかのスイッチが入ったように、宝物探しのことや一緒に埋めた男の子のことを話していた。なんでも最近、よくその時のことを夢に見るらしい。夢の中で彼女は泣いていて、鼻をすすりあげていると必ずその男の子がやってきて笑わせてくれる場面だそうだ。昔の僕はそんなに男らしいことをしていたのだろうかと不安になるほどに、彼女の思い出にある男の子は美化されていた。
そして、もうひとつ。どうやら宝物を埋めたのはどこか高いところにある木の根元で、よくある四桁のダイヤルロックで鍵をかけたとのことだった。
「そんなに大きな木じゃないんだけど、葉がたくさん茂っててね。夢の中で私は、その男の子とシャベルで穴を掘ってるの。すぐに近くには鍵のかかった銀色の缶箱があったんだ」
「鍵って、大丈夫なの? 開けられる?」
「んーたぶん大丈夫じゃない? いざとなったら壊せばいいんだし」
「脳筋すぎるよ。あと銀色の缶箱って、あの宝物の地図が入ってたのと同じやつ?」
「んーん、あれとは違うものだよ。にしても、あははっ、よく覚えてるねー! あっちはね、私の好きなクッキーが入ってた缶箱で、家にたくさんあったものなんだ。あの頃は辛いことがあったらすぐ缶箱に入ったクッキーを食べててね、よく食べ過ぎて怒られちゃったんだよね~」
ケタケタと思い出し笑いをしつつ、紬未は終始楽しそうに子どものころの話もしていた。もっともそこでわかったのは、昔はよく泣いていたけど今はよく笑うようになったことと、昔も今も甘いものには目がないことくらいだった。
そうして話は脱線に脱線を重ね、病気のことを知らなかった時期の彼女はスーパーマンになることが夢だったという話をしたところで面会終了時刻となった。
「うわあ、もうこんな時間かあ。ねえ、またお見舞いに来てくれるよね? ね?」
「うん、来るよ。そんなに寂しいなら明日も来てあげようか?」
「言ったね!? じゃあ明日も来てよ! あ、午前は親来るから午前に来てね!」
「なんでだよ、午後に来るよ」
話し相手に飢えていることが丸わかりな紬未の表情を見ると、なるべく相手をしてあげたいと思った。……いや、もしかしたら、僕がただ一緒にいたいだけかもしれない。まあそれでも、さすがに紬未の親と鉢合わせる度胸も勇気もないけれど。
そんな会話を区切りに、僕は荷物を持って立ち上がった。病室の窓から見える太陽は低く、橙色の淡い光が病室へ降り注いでいた。
病院は嫌いだけど、なるべく来るようにはしよう。
僕がそんな決意を固め、病室の出入り口へ向かおうとしたところで、ふいに腕のあたりに違和感があった。
「ねえ、ソウくん」
紬未だった。紬未が、僕の袖を掴んでいた。
「ありがとね」
夕陽を背に受けて、彼女は微笑んでいた。いつもの快活とした笑みでもなく、僕をからかうような小悪魔的な笑みでもない。
本当にただ、小さく口元を綻ばせていた。
その笑顔を見て、僕は悟った。
やはり、彼女の病気は悪化しているのだと。
きっと、大丈夫などではないのだということを。
僕と紬未が過ごす時間は、決して多くはないのだということを。
そしてそれは、逆説的に僕の心の奥底にある気持ちを強めてしまった。
僕はやはり、紬未に生きてほしいと思った。死んでほしくないと思った。可能な限り長く、紬未の満面の笑顔を見ていたいと思った。
僕はやはり、紬未のことが好きなんだと思った。
「……うん。どういたしまして」
僕は、それだけ言うのがやっとだった。
*
余命僅かな人を好きになってしまった時、どうするのが正解だろうか。
僕はここ数日、一生考えるはずのないことを必死に考えていた。
そう、一生考えるはずのないことだった。僕が彼女を、紬未を好きになるだなんてあるわけがない、そのはずだった。
「ソウくん! 今日も来てくれたんだ!」
「え……と、その」
「どうも、はじめまして。紬未の母です。あなたがソウくん? いつも紬未から話に聞いてます。仲良くしてくれて、ありがとうね」
翌日。予定通り午後に僕が紬未の病室に行くと、いるはずのない紬未の親がいた。紬未の母親は、彼女によく似て人懐っこい笑みを終始浮かべていた。彼女の母親が帰った後に問い質すと、ただ単に引き合わせてみたかったのだと悪戯っぽく笑っていた。僕はまた、彼女に振り回されたのだと自覚して肩をすくめた。
本当に紬未は、出会った時から変わっていない。
いつも無邪気な笑顔を振り撒いていて、押しに弱い僕をあっちにこっちにと振り回している。その理由を訊けば楽しみたいからだと純真無垢な笑みを浮かべて語り、僕はその根底にある彼女の考えを知りたいと思って一緒にいることにしたのだ。
危機感はあった。いつか悲しみに変わる楽しい思い出を作りたくない僕にとって、紬未の性格は天敵そのものだったから。けれどまさか、僕が紬未のことを心から好きになることまでは想像できなかった。
そしていざ好きだと自覚すると、僕は、どうしたらいいのかわからなかった。
「よーっす、久空。元気してるかー?」
「こんにちは、紬未ちゃん。盲腸で入院なんて、大丈夫だった?」
紬未の母親と鉢合わされてから数日後。お盆を過ぎたあたりに、僕は紬未のお願いもあって藤田と山下さんを連れ立ってお見舞いに訪れた。紬未と相談した結果、二人には盲腸で入院しているということにしておくことにした。いつかは話さないといけないけれど、やはりギリギリまでは隠しておきたいらしい。
「おーおいでなすったなー、二人とも! 甘々とろとろの惚気話をぜひ聞かせてよー」
「はあっ!?」
「ええっ!? そ、そんなのないよ……!」
二人が来た時も、紬未は通常運転だった。
藤田と山下さんは海水浴で想いを伝え合ったあと、夏休みを利用してあちこちにデートに行っているらしい。これまでどことなく疎遠になっていた反動もあるのか、ほぼ毎日会っているのだそうだ。紬未は変わり映えのない退屈な入院生活のストレスを発散するように、矢継ぎ早に藤田や山下さんに質問しまくっていた。山下さんは顔を赤くしてあわあわしており、藤田は「これくらい付き合ってるなら普通だろ!」と同じく顔を真っ赤にして叫んでいた。僕は傍からそんな様子を眺めつつ、藤田たちの顔から湯気が出そうなタイミングで紬未をたしなめていた。
これがきっと、普通の高校生の恋愛なんだろう。好きだと自覚してから、気持ちを伝えるか悩んで、どうやって伝えるか悩んで、親しい人に相談して、協力をとりつけつつなんとか気持ちを絞り出す。不器用でも、不格好でも、後悔のないように行動した結果、藤田と山下さんは結ばれることができた。理想的な、青春恋愛だ。
僕の場合は、どうしたらいいんだろう。
そもそも僕と紬未は、イレギュラーなことが多すぎる。
まず、気持ちを伝えるべきかどうか。これはわかっている。伝えるべきじゃない。今を楽しく生きるのが紬未の信条だ。もし僕が紬未に好意を抱いているなんて知られたら、紬未は笑ってからかってくれるかもしれないけれど、きっと内心では困らせてしまう。受け入れられるはずもなく、拒絶するという行動を取らせてしまえば、おそらく今までのようにはいられない。気まずくなって、疎遠になって、ある意味で僕が当初望んだような距離ができてしまうだろう。なんて笑えない。
あとはそう、もし僕が紬未と一緒に宝物を埋めた男の子ならば、そのことを紬未に伝えるかどうか。これは正直わからない。宝物探しを手伝うことになった当初は正直どっちでもよかった。確信もあまりなかったし、そもそも宝物探し自体はどうでもよかったから。
けれど、最近は違う。紬未と一緒に過ごすようになって、不本意ながらも考え方を変えられて、紬未と過ごした記憶を思い出したいと思えるようになった。そして紬未と、その時のことについて話してみたいと思った。思っていた。
ただ、僕は紬未との日々を楽しく感じるあまり、彼女の病や余命のことを忘れかけていた。彼女との日々を楽しみすぎていた。そのことを、紬未の入院によってまざまざと突きつけられた。
紬未との記憶を思い出したとして、果たして僕は今、楽しく紬未と話せるだろうか。病気に苦しむ紬未が前を向くきっかけになった男の子像とはかなりかけ離れている。病気が悪化した今、夢に見るほどに拠り所としているなら、その正体が僕だなんて明かしてどう思うのだろうか。
まあ、そもそも明かすかどうかは僕が思い出してからだ。自分自身のトラウマも克服していない今、僕は彼女に下手なことを言うべきじゃない。今の僕にできることは、空いた時間を利用して紬未の話し相手になることくらいだ。
「あーあー! 私もデートしたいなあー!」
「だってよ、森川。久空が退院したら、退院祝いにどっか連れてってやったらどうだ?」
「おーいいね~! ソウくん、どこ行こっか?」
「この前海に行ったばかりだけど。それに退院祝いならここの四人で行かないと」
「わ、私たちに気を遣わなくても、大丈夫だよ?」
「そうそう。遠慮せず行ってこいって!」
「うんうん、ソウくん。思う存分、私の退院を祝ってよ」
「なんなの、みんな」
そんな会話をしてからさらに三度、僕はひとりでお見舞いに行った。
紬未はそのたびに嬉々として喜んでくれた。
けれど、紬未の口から「退院」の二文字が出ることは、ついになかった。
*
お盆が過ぎ、八月も終わりに近づいていた。
夏の盛りは終わりへと近づいているのに、空から僕らを見下ろす太陽の光は相変わらず容赦がない。僕は額や背中に汗をにじませながら、後半の補習に参加するべくやや久しぶりとなる教室に足を踏み入れた。
「おーす、森川。おはよさん」
「あれ、藤田。珍しいね、こんな朝早く」
朝の喧騒に紛れて思いがけない声が聞こえてきて、僕はつい目を丸くした。
紬未が入院してから、僕はいつもより一本前のバスに乗り、早めの時間に登校するようにしていた。なんとなく、いつもの時間に紬未が待っていた街路樹の前を通ることがはばかられたからだ。そのせいもあって、始業時間ギリギリに来る藤田と鉢合わせすることはなくなっていた。
しかし、今日の藤田は僕よりも早く学校に着いている。なぜだろうか。
何気なく尋ねた僕の問いに、藤田は小さく肩をすくめた。
「なーんか早くに目が覚めてな。せっかくだから早めに学校に来て森川と話そうかなって思ってさ」
「僕と?」
変なやつだ。早く来て僕と話すくらいなら、同じ町内に住んでいるらしい山下さんと一緒にのんびり登校したらいいのに。
「そそ、たまにはいいだろ。最近の森川は久空にとられてばかりだからな」
「べつにとられてるわけじゃないけど。それで、なに? そう言うからには、なにか話したいことがあるんだろ?」
「ああ。ぶっちゃけ訊きたいのは、久空のことだ」
ピタリと鞄から教科書を取り出す手が止まる。また思いがけない言葉が飛び出してきた。僕はなるべく平静を装って訊き返す。
「紬未が、なに? また退院祝いデートがどうとかって話?」
「いや。久空ってさ、ほんとに盲腸で入院してるのかって話」
「は?」
予想外の問いに、心臓が嫌な音を立てた。意図せず手に汗が滲み始める。
「久空が入院してそろそろ二週間だ。盲腸ならあとしばらくもすれば退院だろ? なのに、最近の森川はどこか元気がないからな」
「……そうか?」
「あとはこの前のお見舞い行った時、ずっと浮かない顔してたよな。それに心配そうに久空のことをチラチラと見てた」
「……そんなことないと思うけど。というか藤田、僕のこと見過ぎじゃないか。僕じゃなくて山下さんのほう見てればいいのに」
「そんな軽口も余計に怪しいんだが?」
誤魔化そうにも、藤田は口の端を吊り上げて逃してはくれなかった。その表情は笑っているように見えるのに、目はまったく笑っていない。
……けれど。
「……心配はしてるよ。紬未のことは、本気で気になってるから」
僕はなるべく同じ調子で小さくつぶやいた。僕の言葉に、藤田は驚愕で目を見開く。
「マジで?」
「マジで」
僕の口から、彼女の病気を言うわけにはいかなかった。そのためなら僕の気持ちだって話してもいい。藤田のことだから山下さんには言っても紬未には言わないだろうし、山下さんも友達とはいえ紬未本人には言わないはずだ。
僕の決死の逃げの策に、藤田はまんまと引っかかった。
「おおお、ままマジか! いや、もしかしてとは思ってたけど、マジか!?」
「だからそうだって」
僕がイラつき気味に返事をすると、藤田はここぞとばかりに肩を組んでくる。
「そう恥ずかしがるなって。俺も他人のこと言えんけど、気持ちは痛いほどわかるからさ」
わかってない。僕の気持ちなんて、わかるはずがない。
「……わかるならそっとしといてくれない? 藤田と違って、僕の気持ちはまだ決まってないんだから」
「おお、わりーわりー」
藤田はなぜか嬉しそうに謝ると、パッと手を離した。僕は乱れたシャツを整え自席に座る。
自分から話題に挙げておいて、なんだか無性にイライラとした。捨て身の作戦は文字通り、僕の心を掻き乱した。
藤田にも言った通り、僕の気持ちはまだ決まってない。
紬未とどう接すればいいのか、行き場のない僕の気持ちをどうしたらいいのか、紬未のためになにができるのか、わからない。
そんな迷いをずっと考えていると、ふいに思う。
もしかしたら、最初に僕が思った通り、距離をとるのがいいんじゃないかと。
紬未は大人になる前に亡くなってしまう。少なくとも、僕より先に死ぬ確率は圧倒的に高い。もしこれ以上一緒にいて、彼女のことを想う気持ちがさらに強くなろうものなら、紬未が死んでしまった後の悲しみは計り知れない。僕はまた、大切な人が死ぬ悲しみなんて味わいたくない。それなら、紬未との宝物探しをさっさと終わらせるか、下手な芝居でも打って喧嘩して、僕のことを嫌いでもなんでも思ってもらって、それでさよならしたほうがずっといいんじゃないか。
紬未は僕なんかよりぜんぜん強いし、すぐに新しい楽しみを見つけてくれるだろう。それにこれ以上親しくなると彼女自身、死ぬ直前に苦しい思いをしてしまうかもしれない。悲しくなってしまうかもしれない。そんなものは、なるべく少ないほうがきっといいはずだ。だから、だから。心は痛むけれどお互いのためを思えば、これ以上悲しくなることはきっとない、離れるという決断をしたほうがいい……はずだ。
「……」
じくじくと胸の中心が痛む。こんなことを考えてみても、僕の心は今一つ決めきれていない。なんともまあ優柔不断で情けないことだろうか。そんな自分に嫌気がさしてきて、さらにひとつため息をつく。
するとそこへ、なにかが飛んできた。
「いたっ!?」
額への急な衝撃。もっとも、思わず「痛い」と言ってしまったが、そこまで痛くはない。床へ転がり落ちたそれに目を向ければ、小さく丸めた紙切れだった。
「藤田、なにすんの?」
「なんかよくわかんねーけど、難しく考えすぎだろ、バーカ」
さすがに怒りを覚えて、投てきした本人、藤田を睨みつけると、呆れたような罵倒が返ってきた。
「眉間にしわ寄りすぎ。さすがの俺もそこまで深刻に考えてはねーわ。お前、マジでなにに悩んでんの?」
「……っ、それは」
「あー言わなくていいよ。どうせ言いたくないんだろうし。ただな、前の森川もそうだったけど、いつもいろいろと考えすぎなんだよ。頭がいいぶん、納得のいく答え出さないと行動できないんだろうけど、そんなんじゃ手遅れになるぞ」
藤田はゆっくりと近づいてきて、僕の足元に転がった紙切れを拾う。
「なにに悩んで足踏みしてるのか知らねーけど、森川のやりたいように、森川にできることをやりゃーいいんだよ。結果なんてもんは後回しだ」
ひと息に言い切ると、藤田は丸めた紙切れを教室の出入り口近くにあるゴミ箱めがけて思いっきり放った。いつかのチョコレートの包み紙のように、紙切れは口を開けた穴へと入っていく。
「森川はさ、ほんとはどうしたいんだよ」
ハッとした。そして無茶苦茶だと思った。
自分の中で答えを見つける前に、やりたいように行動する? 結果は後回し?
見切り発車すぎる。危険すぎる。それで失敗したら後悔しか残らないんじゃないのか。
「……僕は」
なるべく先のことまで考えて、なるべく自分や相手のためになる方法を模索して、多少の犠牲や我慢は承知の上で決断して……それが、ベストなんじゃないのか。
「ほんとのお前がやりたいようにやれよ、森川湊也」
軽快な音を立てて、僕の背中が叩かれた。と同時に、補習開始の予鈴が鳴る。
気がつけば、僕は鞄を引っ掴んで教室から飛び出していた。
僕は今まで、それなりに真面目な人間として過ごしてきた。
人との関わりを極力少なくしようとしているのだから、せめて勉学くらいは真面目にやっておこうと、そう思った。
それがどうだ。友達、と呼べるのかわからないクラスメイトに鼓舞され、自分でもなにかわからない感情に急き立てられるように僕は授業が今まさに始まろうとしている学校をあとにしていた。そのまま僕は快晴の空の下を汗だくになりながら小走りに駆け、普段登下校に使うのとはべつのバスに乗った。
涼しい車内で息を整え、後方にある誰も座っていない二人掛けの席に腰を落ち着ける。どうにか気持ちも落ち着けてみようと何度か深呼吸をしてみるも、胸のあたりに巣食うもやは一切晴れてくれなかった。そうこうしているうちにバスは僕を目的地へと運んでくれた。いくぶんか冷静になった頭で僕は降車ボタンを押し、乗車料金を払ってアスファルトの上に降り立つ。
ふわりと、消毒液の匂いが香った気がした。
もちろん気のせいだろう。こんなところまで、匂いが漂っているはずがない。
僕は、夏空の下にそびえたつ中央病院を見上げた。
ここまで来たら、あとには引けない。僕は夏の熱気を含んだ風に背中を押されながら、いやに小綺麗な自動ドアをくぐる。リノリウムの床を踏み締め、ここ最近では顔なじみになりかけている受付の看護師さんと挨拶を交わし、僕は彼女のいる病室へと向かった。
数回きてすっかり慣れてしまったと思っていたのに、心臓はバクバクと早鐘を打っていた。これは何に対する緊張なのか、わからなかった。答えも出そうにない。ゆえに考えても仕方ないので、ここは藤田の言葉を免罪符に行動することにした。
「どうぞー」
病室のドアを三回ノックをすると、室内からはやけに落ち着いた声が響いてきた。僕はやや驚きつつも、僕の知っている彼女の声には違いなかったので中に入る。
直後、涼風が僕の顔を撫でた。
夏の日差しが差し込む病室。白のカーテンが心地よさそうに揺れている。
そして日差しの先には、紬未がいた。
紬未はベッドから上半身を起こし、ベッドテーブルの上でなにかを書いていた。開け放たれた窓からまた微かに風が吹いて、彼女の黒い髪がたなびく。
静かだった。そこだけまるでゆっくりと時間が流れているみたいな、落ち着いた空気が漂っていた。
「……あれ」
病室へ入ってきた訪ね人がなにも言葉を発さないことを不思議に思ったのか、彼女は手を止めてこちらを見た。自然、僕と目が合う。
沈黙が下りた。僕らの間にここまでしっかりとした沈黙がおとずれたのは、初めてだった。それは紛れもなく、紬未がなにも言葉を発していないからだった。
でも、今日ここへ訪ねてきたのは僕だ。べつに紬未に呼ばれたわけではない。だから用事があるはずなのは僕のほうだ。僕はさらにやや間をおいて、ようやく口を開く。
「……やあ」
「え、どうして? 今日から補習じゃないの?」
僕のこの上なく簡素な挨拶を皮切りに、紬未の思考も再開されたようだった。驚いた顔をして僕を見ている。
「補習だよ。ただなんとなく、サボってきた」
「え、え? なんで?」
「わからん」
なんとも意味不明な回答だ。我ながらどうかしていると思う。
「わからんて……あははっ、なーにー? もしかして、急に私に会いたくなったとか?」
紬未はベッドテーブルに広げていた紙やペンをサイドボードの引き出しにしまうと、ポンポンと近くにあった丸椅子をたたいた。促されるままに、僕はその椅子に座る。
「まあ、そんなところかな」
「え」
続けて発した僕の回答に、さらに彼女は目を丸くした。
「なになに、ほんとにどうしたの? もしかして熱でもある? あ、だから病院に来たとか? 私がナースコールで看護師さん呼んであげようか?」
「そんなナースコールの使い方は聞いたことないし、熱もなく至って健康だから押さなくて大丈夫だよ」
「えええ、じゃあほんとに私に会いたかっただけ?」
今度はやや頬を赤くしながら、探るように訊いてきた。声も小さく、なんだかいつもの紬未らしくない。
「うん、そう。紬未のことだから、退屈してるんじゃないかなって」
「確かに退屈はしてたし来てくれて嬉しいけど、補習サボってまで来るなんてソウくんらしくないなー」
僕と同じような感想を、紬未も抱いていたらしい。僕たちはどちらも、今日はらしくないようだ。
「まあ、たまにはいいかなって。それで、急に来たもんだからなにも持ってきてないんだ。なにか買ってこようと思うけど、欲しいものある?」
「あはは、ほんとにソウくんらしくないねー。でも今は間に合ってるから大丈夫だよ。さっきお母さんが来てくれたから」
「そうなんだ。鉢合わせなくてよかったよ」
「今回に至っては本当にねー」
クスクスと紬未が笑う。
「いやむしろ鉢合わせたほうがよかったかな。そしたら今度は逆に紬未を驚かせられそうだし」
「そんなことしたら私の心臓が飛び上がってあっという間にご臨終だよ。死因は病死じゃなくて恥ずか死になっちゃう」
「なんとも名誉な死に方だな」
「どこが」
次は僕も小さく笑った。お互いに静かに笑い合って、空気は随分と和やかになっていた。気づけば、僕が入室した時に感じた俗世から離れたかのような空気は跡形もなく霧散していた。そこにはいつもの日常が戻りつつあった。
もっとも、僕が補習をサボってまで紬未の元へ来たのはいつものようにふざけた歓談をするためではない。いや、ふざけた歓談もしたいけれど、それがメインになってはいけない。本当の目的は、べつにある。
「それで? ソウくんは今日、どうして来てくれたの?」
今日の病院食はいつにも増して薄味だったという話を終えたところで、そんな僕の心中を察したらしい紬未は居住まいを正して訊いてきた。本当に、彼女には敵わない。
だから僕は、おもむろに口を開いて言った。
「紬未に、どうしても訊きたいことがあったんだ」
「へえ~。補習をサボってまで訊きたいことなんて緊張しちゃうな~。なになに?」
「紬未は僕に、なにをしてほしい?」
紬未がそれと見てわかるほどに固まった。それまでニヤニヤとほころんでいた口元が、途端にポカンと開いたままになる。
「なんていうか、これまで紬未と一緒にいて、わかったんだ。紬未といる時間を、僕は楽しんでるって。それから、紬未にはもっと楽しい時間を過ごしてほしいって。だからその、紬未がしてほしいことで、僕にできることならなるべくしてあげたいんだ。それを、言いにきた」
「……補習を、サボってまで?」
「うん。補習をサボってまで」
僕の言葉に、紬未はなんとも言えない表情をしていた。驚いた表情をしたかと思えば、途端に無表情になった。そしてすぐにシーツに顔を埋めたあと、プルプルと震え出した。やがて起き上がった顔はまた無表情で、さらに困ったように眉をひそめると、今度はゲラゲラとお腹を抱えて笑い出した。
「……笑い過ぎじゃない?」
一定時間、それはもう一生分と言えるんじゃないかと思えるほどに紬未が笑ったところで、ようやく僕は言葉を挟んだ。
「あははははははっ、だ、だって……いやもう、ほんと、これ、ダメ、ダメだって……あははっ!」
「僕はわりと真面目なんだけど」
「あはははっ、ご、ごめん……、そうだよね、あははっ。だって、もうほんとに、嬉しくて、さ……!」
さらにもう一息笑ったところでようやく、ほんとにようやく紬未は笑うのをやめた。いや、僕が意識的に真っ直ぐ彼女を見据えると途端に噴き出すので心の中ではまだ笑っているかもしれないけれど。
「でも、そっかあ。なるほど、なるほどねえー。私がソウくんに、してほしいことかあーー」
かみしめるように、彼女はつぶやく。改めて言葉に出されるととても恥ずかしくて、僕は思わず彼女から視線を逸らした。それだけじゃ足りず、足元の鞄からペットボトルのお茶を取り出して四分の一ほど飲み干した。そこで初めて、喉がカラカラに渇いていたことを知った。
その間に紬未は答えを出したらしく、「よしっ」とひとつ頷いた。僕はお茶をしまって背筋を正す。
「じゃあ、行こっか!」
正した背筋は、すぐにゆがんだ。目の前で白い歯を見せて快活に笑う彼女は、勢いよくシーツをめくるとベッドから降りる。
「は? どこに?」
僕が思わず尋ねると、紬未は何も言わずにいきなり僕の左手を掴んできた。かと思えば、もう一方の手で点滴スタンドを引いて病室の出入り口へと向かう。
「いいから、ついてきて」
朗らかに、しかしどこか落ち着いた口調で紬未は言った。また彼女らしくない声調に、思った以上に細い手の感触に、僕は黙って頷いた。
そのまま僕は彼女に手を繋がれたまま、ゆっくりとした足取りでリノリウムの床を歩いていった。初めて彼女と手を繋ぎ、歩いたのは病院の廊下だった。それから紬未は僕が通ったのとはべつの通路から大きく迂回してエレベーターに乗り込むと、慣れた手つきでボタンを押した。
エレベーターの中は、僕と紬未だけだった。でも、会話はなかった。微かな機械音だけを響かせて、僕らを乗せた鉄の箱は十階建ての中央病院の五階へと行き着いた。
「着いた~!」
エレベーターを降り、やや人通りが減った廊下からガラス戸を開いて出た先には、快晴の青空が広がっていた。冷房の効いた院内とは正反対の熱気が肌にまとわりついてくる。
「行こっかって、屋上? え、来ていいの?」
「ここは普通に開放されてる屋上庭園だからね、場所という意味なら来ていいよ。でも私がという意味なら、トイレ以外で病室から出るのも禁止されてるからダメ」
「は?」
あっけらかんと言い放った紬未に、僕は呆然とした。そんな僕の様子を見て、してやったりと紬未は笑う。
「いいじゃん、ソウくんも補習をサボって来てくれたんだし。私もルール破っちゃうもんねー」
「いや、僕のとは比べ物にならないと思うんだけど」
「いいのいいの、すぐ戻るから。どうしてもここで、ソウくんとしたいことをしたらね」
紬未は僕の手を引いて、屋上の手すりの近くまで移動した。すぐ近くにある落葉樹の木々から、夏らしい蝉の鳴き声が響いてくる。
「それでやりたいことって、なに?」
「うん。私と一緒に、写真を撮ってほしいの」
なぜだろうか。紬未のお願いに、僕はそこまで驚かなかった。
言われる準備はしていなかった。けれど、もしかしたら言われるかもしれないなとは思っていた。
「……なんで、写真を?」
「私がソウくんと一緒に撮りたいから」
それ以上の理由なんてないでしょ、とでも言いたげに、紬未はこてんと首を傾げた。肩口からさらりと落ちた彼女の髪先が、僕の腕をくすぐった。
僕は小さく肩をすくめて、ポケットからスマホを取り出した。これまで決して起動することのなかったカメラアプリをタップし、インカメに切り替える。
「撮る場所は、ここでいいの?」
「うん。あ、でもいかにも入院患者っぽい点滴は入らないようにしてね!」
「はいはい」
僕はおもむろにスマホを構えて、画角を調整する。画面に映った自分の顔に、否が応でもバクバクと心臓が嫌な音を立て始めた。
「ドキドキするね」
そこへ、紬未が僕の近くへ顔を寄せてきた。スマホの画面には、僕と紬未の顔が映り込む。
甘い匂いがした。触れ合う腕のあたりに神経が集中してしまう。
ただでさえ早い心臓の音が、さらに早くなっていく。
でもそのおかげか、恐怖は薄れていった。
今なら撮れそうな気がした。紬未と一緒なら、乗り越えられる気がした。
「じゃあ、撮るよ?」
「うん! ピースッ!」
紬未の声に合わせて、僕は撮影ボタンを押した。シャッター音が鳴り、ぎこちない表情の僕の顔と、満面の笑みを浮かべた紬未の顔が切り取られてスマホに保存される。
撮れた。
それはもう肩透かしを食らったようにあっけなく、思い出が保存された。
「やった! ありがと! その写真、あとで私のスマホにも送ってね!」
「う、うん。それはもちろん。あ、他の場所でも撮る?」
「ううん! 今日はその一枚で充分!」
にへら、と紬未は相好を崩す。
可愛いと思った。だから僕は思わずスマホを構えて、撮影ボタンを押していた。
「あーー! ちょっとーー! なんでいきなり撮るのーーー!」
「あ、ごめん。つい、思わず」
「いま全然準備できてなかったんだけど!」
笑顔から一転、むくれたように頬を膨らませる紬未。またスマホを構えたくなったけれど、今度は我慢した。
「これはもう罰として、来週の一時退院の時に私と遊んで写真撮るしかないね! それもすっごく可愛く!」
「はいはい……って、一時退院? え、聞いてないんだけど」
「だって今はじめて言ったんだもーん」
ケラケラと紬未はあけすけに笑った。ころころと表情が変わって、本当に忙しいやつだと思った。
そしてまた、僕は衝動に駆られる。まるで、ずっと我慢してきた感情が溢れ出すみたいに、写真を撮りたくなってくる。彼女との思い出を画面に収めて、積み重ねていきたくなってくる。
例え紬未と、近い将来お別れすることになるのだとしても。
「次は宝物探し兼撮影デートだからね!」
「なんだか忙しいな」
「こういう時は充実してて楽しそうって言うんですー!」
加えて、僕は決心する。
その撮影デートで、僕は紬未に告白しよう。結果なんて知らない。
そして僕の中にある宝物を埋めた記憶の断片についても話そう。結果なんて知ったことじゃない。
まだしっかり思い出せないけれど、僕が紬未のいう男の子と同一人物かはわからないけれど、違ったら違った時だ。その時は、紬未に盛大に笑われよう。そしてそんな大口を開けて笑う紬未を写真に収めて、仕返しをしてやろう。
真夏の空の下で笑顔を浮かべる紬未を見て、決意を固くする。
「ねっ、ソウくん。少しそのままでいて」
「え?」
その時だった。
紬未は流れるような足取りで僕に近づいてきて。
屋上庭園に咲く花の香りに混じって、僕は唐突に甘い匂いに包まれた。
驚きのあまり、身体が硬直する。
それに反比例するように、柔らかな感触が肌伝いに感じられた。
「つぐ、み……?」
「いいから。少しだけ。お願い」
僕は紬未に、抱きすくめられていた。
両腕も含めてがっちりと抱き締められていて、身動きがとれない。僕はいつも以上に、なされるがままだった。
「……うん、よしっ。ありがとう!」
時間にして一分にも満たない僅かな時間だった。
夏の暑さすら忘れる温もりは、ゆっくりと遠ざかっていく。
「理由は、訊かないほうがいいんだよね?」
僕が尋ねると、紬未はこくりと小さく頷く。
それからまた笑顔になって、「そろそろ病室戻ろ!」と僕の手をとった。
彼女にもきっと、思うところがあるんだろう。
そんな紬未の気持ちも、限りある未来の中で聞けたらと思う。
「病室戻ったらまた宝物探しについて作戦会議しないとだね!」
「その前に一時退院について聞きたいんだけど」
「えーどうしよっかなあー」
紬未の笑顔を見て、感じる。
とめどなく溢れてくる楽しいという感情を、紬未とお別れしたくないという感情を、紬未のことが好きだなという感情を、紬未にはずっとずっと笑っていてほしいという感情を、紬未とこれからも手を繋いでいたいという感情を、紬未に死んでほしくないという感情を、僕は一心に嚙み締めていた。
*
補習をサボった日からさらに一度のお見舞いを経て、紬未が一時退院する日がきた。
「午前中は家に一度戻ったりマナちゃんと約束してたりするから、宝物探しは午後から行こうね! 集合場所はそうだな~、『小石のじゅうたんがあるところ』で!」
「はいはい、犀川の河原ね」
「もう、情緒ないなー」
彼女の言う宝物探し兼撮影デートの約束は、たったの一往復と半分の会話で終わった。その後は彼女の病気のこととか、あとはなんともたわいのない雑談ばかりをしていた。
紬未いわく、病気については悪化しているわけではないらしい。数値の異常は一時的なもので、三度の精密検査で特に問題は見られなかったとのことだった。当初の予定通り、余命はもうすぐあと一年を切ろうとしているのだと笑っていた。僕は紬未ほど器用には笑えずに、薄く口元をゆがめるだけだった。
正直、紬未は確実に痩せてきていた。一番自覚したのは紬未と手を繋いだ時。ここまで細かったかと、本当に驚いた。
でも今にして思えば、海水浴の時や水着選びで着ていた水着はどれも体型を隠せるフリルのついたワンピースタイプのものだった。あの時から……いや、きっと僕の気づかないほど前から、着実に、異常は身体に出ていたのだと思う。
本当に、紬未には死んでほしくないと思う。
けれど、それは叶わない願いだ。
叶わないのなら、今の僕にできることは、今の僕がしたいことは、なるべく紬未と一緒にいて、紬未が楽しいと思える時間を可能な限り増やしていくことだ。
もっとも、こんな暗くなるような話はものの二十分もしていなかった。一緒にいた時間の多くは、藤田と山下さんの交際状況だとか、一時退院した日は山下さんと買い物に行くのだとか、やっぱり入院生活は暇すぎるだとか、一時的じゃなくて完全に退院できた暁には一度遠出をしてみたいだとか、その時には強制的に僕も連行していくだとか、それはそれとして秋になって入院していたら授業をサボってまたお見舞いに来てくれるかだとか、それはさすがに勘弁してほしいと言ったら秋の高校の文化祭は一緒に回れだとか、どんな出し物が好きだとか、どんな出し物をしたいだとか、出し物といえば月末に花火大会があるから一緒にいきたいだとか、夜に外出許可って出るのかなとか、その時はまた手を繋いでよねだとか、本当に中身のない日常的な話ばかりだった。
そんな一日を過ごしてから数日後の日曜日、紬未は一時退院した。
『私服最高ーーっ!』
退院してからの初連絡は、なんとも彼女らしい一言だった。僕が優雅に朝ご飯を食べ終え、コーヒーをたしなんでいるところに来たものだから、思わず吹き出すような文言じゃなくて良かった。
『それは良かった。午前中は山下さんと買い物だよね。楽しんできて』
『あいさー! あ、今日のデート楽しみにしてるからね!』
『宝物探しね。はいはい』
簡単なやりとりだけを交わしたあと、僕は午前中は夏休みの宿題をして過ごすことにした。紬未と一緒にいる時間が長くなればなるほど、夏休みの宿題の進捗は遅れた。いつもならお盆明けにはほとんど終わっているというのに、未だ三分の一ほどの量を残していた。さすがにそろそろエンジンをかけないと、初めて夏休み最終日に泣きを見る目になりそうだった。
涼しい冷房が効いた自室で、僕は黙々と勉強をしていた。
けれど、どこか集中しきれないでいた。
ざわざわと胸のあたりが落ち着かなかった。
紬未が「デート」だなんて修飾語もつけずに言うからだ。というかそもそもデートではない。これまでと同じただの宝物探しに、写真撮影が加わっただけだ。……告白は、するつもりだけれど。
ようやく英語の課題プリントを一枚終わらせると、何の気は無しにスマホを見た。もちろん連絡は来ていない。時間的にも楽しんでいるころだろう。
そんなことを考えている矢先、タイミングよくスマホが通知を知らせた。紬未からだった。その通知をタップすると、でかでかと紬未の写真が表示された。
『見て見てこの服ー! すっごく可愛いと思わない?』
カメラ目線でキメキメのⅤサインをする紬未の笑顔に、僕の口元からは思わず笑みがこぼれた。
『可愛いと思うよ。なに、その服を着て来てくれるとか?』
『ざーんねん。ソウくんに見せるとっておきの服はべつですー。写真なんかで見せてあげませーん』
『だと思った』
またしょうもないやり取りを二、三交わして、僕は夏休みの宿題に戻った。予想以上に進まなかったのは言うまでもない。
午前十一時三十分を知らせる時報の音楽が鳴り響いたところで、僕は身支度を始めた。クローゼットの中からよく着ている半袖の白のTシャツと黒のスキニーパンツを取り出し、部屋着を脱ぎ捨てる。
そこで、手が止まった。言わずもがな紬未のせいだ。あんな写真を送ってきたせいで、今の僕の中には果たしてこの服でいいのだろうかという葛藤が生まれていた。
「いや、いいだろ」
ひとり、僕しかいない部屋で言い聞かせるように吐き捨てると、僕はそのまま取り出した服を着た。立ち鏡の前でくるりと一回りしてみる。変じゃなかった。けれど、なんとなく僕はその上にベージュの半袖ジャケットを羽織った。ショッピングモールに水着を買いに行った帰りに、紬未からおすすめされて買った一着だった。忘れずにタグも切って、僕のお出かけコーデは決まった。
「っと、これも、忘れないようにしないと」
もうひとつ。僕は机の上に置いて充電しておいたデジカメを手にとる。
このデジカメは、幼い頃に買ってもらったものだ。そしてあの交通事故をきっかけにダンボールに入れて、クローゼットの奥深くにしまってあったもの。僕は午前中のうちにクローゼットから見つけ出し、久しぶりに充電しておいた。
けれど、まだ電源をつけられてはいなかった。
なんとなくまだ、怖さが残っていた。ただ、もしかしたら今日でその怖さも克服できるかもしれないと考え、念のため持っていこうと思ったのだ。もしこのデジカメで今日写真を撮ることができたら、僕はまた一歩、前に進むことができる。紬未と一緒なら、きっとできそうな、そんな気がしていた。
「あ、やばい。もうこんな時間か」
そうこうしているうちにそろそろ家を出ないといけない時刻になり、僕は財布やらスマホやらもショルダーバックに詰めると急いで家を出た。道中のコンビニでサンドイッチとお茶を買い、最寄りのバス停でバスに乗り込む。息を整え、汗を拭き、今日これから紬未に会うことを想像しているうちに、バスはあっという間に目的地に着いた。時間通りだった。
バスを降りると、もう飽き飽きとしてきた夏の熱気が僕を出迎えてくれた。今年は本当に雨が少なく、今日も今日とて青く澄み渡った青空が頭上に広がっていた。
僕は行儀悪くサンドイッチを頬張りながら集合場所……いや、宝物探しの始まりの場所である「小石のじゅうたんがあるところ」を目指した。きっと紬未は昔の思い出を振り返りながら、始まりの場所から終わりの場所へと向かうつもりなのだろう。宝物を隠したのと同じ道順で、同じように心を躍らせながら。
河川から吹き付ける風に目を細める。
なんとなく、思う。
もしかしたら紬未は、一緒に宝物を埋めた男の子が誰か知っているんじゃないかと。
ずっと気になっていた。
どうして紬未は、僕を宝物探しに誘ったのか。
紬未は僕をお気に入りだとかなんだと言っていたけれど、僕のどこに気に入る要素があったのか未だにわからない。そもそも、僕はたまたま彼女が木から落ちたところに居合わせただけで、そこから気に入って宝物探しに誘う意味がわからない。大切な宝物探しに、僕を巻き込む理由がなにか。
「ははっ……」
僕はまだ、紬未との記憶を思い出せていない。だから本当にそうなのか、確信が持てない。けれど、断片的にある記憶や宝物の地図を見た時の既視感、そして紬未が執拗に僕を宝物探しに誘っていたことも踏まえると、「そう」である可能性はかなり高い。
そしてもし「そう」なら、僕は最初から彼女の手のひらの上で踊らされていたことになる。僕を無理やりに宝物探しに引き込み、楽しい思い出をたくさん築き、僕に記憶のきっかけとなる楽しさを思い出せてくれたことになる。もしかしたら、最後は僕から言ってくれるのを待ってくれているのかもしれない。
本当に彼女には、紬未には敵わない。きっと僕は死ぬまで、彼女に敵わないだろうな。
満面の笑みを浮かべて僕を見る紬未を想像したところで、またスマホが振動した。
さっきと同じメッセージアプリの通知欄の上に表示された時刻を見れば、もうすぐ話していた集合時間だった。もしかしたら、先に着いたのだろうか。
また待たせただのなんだのと怒られるなと思いつつ、僕はメッセージアプリの通知をタップした。
『森川くん』
『紬未ちゃんが』
『交通事故にあって』
『いっぱい血を流してて』
『病院に』
『早く』
『早く病院に来て』
すがるような山下さんからのメッセージに、僕は血の気が引いた。
手に持っていたサンドイッチを取り落とした。
目の前が真っ暗になりかけたところで、僕は紬未の笑顔を思い出した。
僕は急いで病院に向かった。
生まれて初めてタクシーを使った。
流れゆく景色が、いやに遅く感じた。苛立ちと焦りがどうしようもなく僕の心を支配した。
舌打ちをされながらも急いでくれた運転手さんに一万円を渡して、お釣りも受け取らずに僕はタクシーから飛び出した。
その時だった。
「紬未ちゃん、が…………――」
彼女が今しがた亡くなった電話を、受け取ったのは。
久空紬未の葬儀は、滞りなく執り行われた。
まるで映画か小説のように、彼女の葬儀の日だけが雨だった。久しぶりの傘を差し、僕は無感情なまま彼女の家族に挨拶をし、お焼香をあげた。こんなものより、きっとチョコレートをあげたほうが彼女は喜ぶだろうな、なんて場違いなことを思った。
あの日。僕は山下さんからの電話を受け、何事かを喚き散らしながら真っ白な頭で病院へ飛び込んだ。焦燥のあまり冷静ではいられず、ようやく顔見知りとなった看護師さんに早口でまくし立てた。そうして冷静とは程遠い僕が案内されたのは、山下さんが待つ別室だった。家族以外に、遺体となった彼女に会わせるわけにはいかないらしかった。僕は彼女の死に目にあえなかった。
「もり、かわ……くん……」
目を真っ赤に腫らした山下さんから、僕は事の次第を涙ながらに説明された。
紬未と山下さんは昼食を食べたあと、それぞれの行き先へ向かうべくカフェの前でわかれた。山下さんは藤田とのデートに、紬未は僕が待つ犀川の河原へと向かうところだった。
交差点で信号待ちをしていたところへ、ふいに彼女が歩いていった後方から物凄い衝突音と悲鳴が聞こえたらしい。
咄嗟に振り返れば、近くの電柱付近についさっき紬未が持っていた紙袋が転がっていた。嫌な予感と悪寒がして慌てて向かってみれば、そこには頭から血を流して倒れている見慣れた服の女性がいた。紬未だった。急いで駆け寄るも意識はなく、頭からは目を覆いたくなるほどの血が流れていた。
少し距離を置いて見守る野次馬の話によれば、どうやら紬未はスピード違反と信号無視の車から幼い女の子を庇って轢かれたらしかった。紬未に突き飛ばされた女の子はかすり傷だった。
必死で紬未の名前を呼びかけているところへ救急車が駆けつけて、そのまま付き添いとして一緒に病院まで運ばれたらしい。
山下さんはずっと泣いていた。でもなぜか、僕は涙が出なかった。何も考えられずに、僕はうずくまって嘆く山下さんのそばにいた。やがてやや遅れてきた藤田に山下さんを預けると、僕はすぐさま病院をあとにした。
力ない足取りで家に辿り着いて間もなく、藤田からメッセージがあった。山下さんはひとまず落ち着かせたこと。僕の調子は大丈夫かということ。お通夜や葬儀の日程のこと。それだけが簡潔に書かれていた。
そして昨日、僕はお通夜に行った。泣けなかった。
さらに今日、僕は葬儀に行った。やっぱり泣けなかった。
どちらも無感情なままに、僕は彼女の遺影を眺めていた。
奇しくも、彼女の遺影は僕が先日病院の屋上庭園で撮った写真が使われていた。その時の僕には驚きも怒りも戸惑いも落胆もなかった。ただ無感情に、満面の笑顔で僕を見る、これ以上なく彼女らしい写真だなと思っただけだった。少なくとも棺で眠る死に化粧をされた紬未よりは、魂が宿っている気がした。
それからは、僕は自室に引きこもった。
理由は明白で、僕は泣いていないとはいえ少なからず紬未の死にショックを受けていた。外になんか出歩く気にもなれず、補習はすべて休んでひたすらに部屋に閉じこもって夏休みの宿題を進めていた。
こういう時、勉強はいい。頭の中に他のことを考える余裕をなくす数学や暗記系なんかは特にいい。国語や英語はダメだ。だから僕は、ものの二日で国語と英語を除いた夏休みの宿題を全て終わらせた。夏休み最終日に泣く泣く宿題をやっつける未来は、これでほぼ潰えた。
じゃあ他になにをするかと思えば、なにもすることはなかった。こんなにも一日は長かったものかと、紬未が死んで三日目にして思った。紬未と一緒にいる時は、あっという間に時間が過ぎ去っていったのに。
宝物の地図を探している時も、カフェで作戦会議をしている時も、河原でただ水を掛け合っている時も、図書館で勉強している時も、ショッピングモールで買い物をしていた時も、海水浴に行った時も、何気ない登下校の時でも、ぜんぶぜんぶ、紬未と一緒にいた時間はすぐに終わっていた。
それほどまでに、僕は紬未との時間を楽しんでいた。夢中になっていた。
それなのに、呆気なく唐突に、その時間は終わりを告げた。
否応なく、昔のトラウマもよみがえる。あの頃と同じだった。また僕は、大切な人を亡くした。よりにもよって同じ死因で、唐突に。
けれどもはや、なにも感じない。横たわる父や母の背中を思い出しても、息苦しさや頭痛はない。スマホの中で笑う紬未を見ても、なにも思わない。あるのはただ、ぽっかりと心に空いた喪失感だけ。宿題を終えてしまえばやることはなく、僕は彼女が亡くなってから三日目の一日をほとんど寝て過ごしていた。
もう、なにもかもがどうでもよくなっていた。
僕はいったい、なんのために紬未と一緒に過ごしていたのだろうか。
僕はどうして、紬未と一緒に宝物探しをしていたのだろうか。
僕はなんで、紬未のことを好きになったんだろうか。
楽しいは楽しいで、素直に行動した結果がこれだ。いつか悲しみに変わる楽しい思い出なんていらない。その信念に沿って行動していれば、こんな気持ちになることもなかった。ただ隣のクラスの何某さんが交通事故で亡くなったらしいよ、ふーん、気をつけないとな、で終わったはずだった。
わからないわからないわからない。
なぜ僕は、紬未に関わってしまったんだろうか。紬未と出会ってしまったんだろうか。
そもそも僕が紬未と深く関わっていなければ、紬未と出会っていなければ、紬未は事故で死なずに済んだかもしれないのに。
あるいは一時退院の日に約束をしていなければ、紬未は山下さんとその後も行動をともにしていて、助かった女の子には悪いけれど、事故現場に出くわすこともなかっただろうに。
結局は、僕のせいなんだろうか。
……なんて、今さらそんなことを考えたところで仕方がない。
どうあがいても、後悔しても、紬未は戻ってこない。いつもみたいに笑って、僕を振り回してくれることもない。もうすべてが、遅すぎるのだ。
ぐるぐると答えの見えない思考を繰り返しているうちに、いつの間にか紬未が死んでから四日目に突入していた。カーテンの隙間から漏れる日差しが、今日も快晴であることを知らせてくれる。
寝たのか寝てないのかよくわからない頭で僕が起き上がると、同時にスマホが振動した。目覚ましかなにかかと思って見てみれば、藤田からだった。
『会って話せないか?』
無理だと送った。どうせ僕を元気づけようとしてくれているのだろう。余計なお世話だ。
布団を被り直すと、またスマホが振動した。いい加減うるさいと、電源を落とそうと思ってもう一度画面を見た。
『宝物探しの男の子の正体、で話したいことがある』
そこでようやく、僕は外へ出ざるを得なくなった。
外はうざいくらいに、晴れ渡っていた。
*
「ひでー顔してんな」
指定されたカフェに行き、藤田の向かいの席につくなり彼は開口一番そんな言葉を投げかけてきた。
「そういう藤田はいつも通りみたいだね」
「んなことねーよ。結構きてる」
僕の軽口に、藤田は苦笑して答える。今朝鏡で見た僕の顔よりは随分とマシに見えるが、どうやらそうではないらしかった。
そこで、藤田はそっと横目で隣に座る山下さんを見た。
なるほど。
山下さんは、それと見てわかるほどにやつれていた。俯き、髪に隠れていてよくはわからないけれど、目元や頬は赤くなっていた。あまり見るものではないと思って、僕はすぐに視線を逸らした。
「……それで? 僕に話したいことって、なに?」
注文したアイスコーヒーが運ばれてきて、ひと口飲んでから僕は訊いた。
「いきなりだな」
「悪いけど、あんまり無駄話をする体力も気力も余裕もなくてさ」
もう一度ストローに口をつけ、半分ほどを飲み干す。僕の心は急いていた。
「単刀直入に訊くよ。どうして、宝物探しの男の子について知ってるの?」
宝物探し自体は、紬未は僕にしか話していないようだった。藤田や山下さんと一緒にいる時はその話はしなかったし、ましてや彼女が急に亡くなった今となっては僕以外知る人はいないはずだ。
それに宝物探しだけならまだしも、藤田の口から「男の子」の話が出ることは完全に予想外だった。さすがに無視するわけにもいかず、傷の癒えてない僕はこうして今ここにいるわけで。
僕がさらにアイスコーヒーを飲むと、ようやく藤田は口を開いた。
「さーてね。俺にはわからん」
「…………は?」
またも予想だにしていなかった言葉を吐かれて、僕は三度瞬きをした。藤田は小さく肩をすくめる。
「俺は、俺たちは、頼まれただけだから。久空に。最後の宝物探しの、仲間としてね」
「なにを、言って……?」
「……グスッ、こ、これ……」
戸惑う僕の言葉に返事をしたのは、それまでずっと俯いていた山下さんだった。彼女がおずおずと僕に差し出してきたものを見て、僕は息が詰まりそうになった。
山下さんが差し出してきたのは、例の宝物の地図のコピーだった。
「どうして、これを……?」
「お盆明け、くらいかな。紬未ちゃんに呼ばれて、お見舞いに行ったんだ。そしたらこれを渡されて、頼まれたの。『もし私に何かあったらソウくんにこれを渡して。そして最後まで宝物探しを見届けてあげてほしい』って」
「なにかあったらって、え、え?」
意味がわからなかった。紬未は交通事故で死んだ。予期なんてできるはずもない。
「詳しくは、私もわからないの。聞いたのは、とても重い病気で入院していることと、幼い頃に埋めた宝物を森川くんと探していることと、今どこまで進んでいるかの進捗だけで」
そこで山下さんは言葉を区切ると、ちらりと横にいる藤田に目を向けた。
「俺も真奈美と同じだ。お盆明けくらいに、真奈美とはべつに久空に呼ばれた。病気のことも聞いて、マジで驚いた。久空自身も心配だったけど、なによりお前のことが心配だった。久空と一緒にいるようになって、ようやく森川が変わってきてたから。久空が死んだら、森川はどうなるんだよって思わず言っちまった」
どこか悔しそうに一息で話すと、藤田はひとつ深呼吸をしてから続けた。
「そう言ったら、久空は笑って言ったんだよ。『もし私に何かあって、ソウくんが引きこもっちゃったら、宝物探しの男の子の正体で話がある、って言ってみて。きっと出てきてくれるから』ってな」
「だから、藤田は……」
「ああそうだ。お盆明けの補習で、思わずいらんことを言いそうになったけどな。それと、あとはほとんど真奈美と同じだ。宝物探しのこととか進捗のことしか聞いてない」
「え、え、ええ?」
頭が混乱していた。情報量が多すぎる。
紬未は自分になにかあった時のことを考えて、その保険として藤田と山下さんにあとのことを託した?
藤田には僕を引っ張りだす役目を、山下さんには宝物探しを後押しする役目を?
どうして、このタイミングで……?
「正直、俺らも唐突すぎてわかってないんだ」
「グスッ……うん、頼まれた矢先にこんなことになって、まるで、紬未ちゃんが……近くに、死ぬことをわかってた……みたいで……ううっ」
涙ぐみ始める山下さんの頭を、藤田はゆっくりと撫でた。僕もなんとか自分の心を落ち着けようと、残ったアイスコーヒーを飲み干す。けれどそれだけでは足りず、僕は呆然と見慣れた宝物の地図を眺めた。
「あ、れ……?」
そこで、違和感に気づく。
宝物の地図の、左上。
本来なら破り取られていてなくなっていた場所に、なにかべつの文字が書かれていた。
――最後の謎解きはね、『宝物は、希望の種にある』だよ。私たちの宝物をよろしくね、ソウくん!
彼女の、紬未の明るくて無邪気な声が、聞こえた気がした。
「んで、宝物探しの当事者さん? 俺たちは久空から頼まれた役目は果たしたわけだけど、どうする?」
「グスッ、お願い、森川くん……紬未ちゃんのためにも、どうか……」
落ち着いた山下さんと、見守るような眼をした藤田が、そろって僕のほうを見た。
「……うん、行こう。宝物を見つけに」
バスに乗り、僕たちが目的の丘陵公園に到着した時にはお昼を随分と過ぎていた。
一日で最も暑い午後二時をやや過ぎたころに、僕たち三人は汗だくになりながら木製の丸太階段を登っていた。
ここに来たのは、資料室での手伝いをした後以来だ。あの時は紬未と一緒に来ることを想像し、幼い彼女との記憶を思い出したいと切に願ったものだった。そんなに昔のことではないはずなのに、もう随分と遠くに来てしまったみたいだ。
「ここ、たまに部活で来るんだよな」
「私も。坂をよく走らされるよね」
「へえ、体力トレーニングとか?」
「ああ。まさか、ここが宝物探しの場所だったなんてな」
眼下に広がる金沢の街並みを後ろに、言葉少なく僕たちはひたすら登り続けた。あちこちに立ち並ぶ樹木からは蝉の声が絶え間なく響いており、夏の気配がより色濃く表れていた。
そうして木々の隙間を縫い、木漏れ日に目を細めつつ登り切る。
誰もいない見晴らし台は、白い雲と夏の眩しさを体現する太陽が近くに感じられた。
「ここが?」
「ああ、そのはずだ」
ゆっくりと、見晴らし台の中央へと歩いていく。
遥か彼方まで続く空の下。あの街のあちこちで、僕は紬未といろんな思い出をつくってきた。
それらは、幼い頃に埋めた宝物から始まっていた。
そうして今、その宝物を掘り起こそうとしている。
本当は四日前に、紬未と一緒に来るはずだった。
「……最後の謎解きは、『宝物は希望の種にある』らしい。二つ目の謎、『終わりは一〇〇メートルの眺めの後ろ』とも合わせると、きっとこの雑木林のどこかなんだと思う」
「結構広いな」
「うん。もう少し、場所を絞らないとだね」
丘陵公園というだけあって、見晴らし台の後方には右から左までたくさんの木々が植えられていた。しかも今は季節が夏ということもあり、どこも緑の葉が鬱蒼と生い茂っている。手掛かりを見つけようにも一苦労しそうだった。
「そういえば、紬未はなにかの木の根元って言ってたな」
「木の根元、か。その『希望の種』って言葉をそのまま受け取るなら、『希望の木の根元』ってことか?」
「でもよ、そもそも『希望の木』ってなんだ?」
「さあ」
藤田と顔を見合わせ、唸る。紬未が残してくれた宝物の地図のコピーを見ても、具体的な場所までは書かれていない。勢い余ってきてしまったけれど、今日中に見つけ出せるのだろうか。
でもきっと、紬未と一緒に来ても同じように悩んでいただろうな。
それを思えば、近くに紬未がいるような気がした。そして同じように頭を悩ませて、「もうわかんないっ! もっと簡単に場所書いておいてよーー!」などと叫んでいるのかもしれない。
一抹の寂しさを覚えながら自嘲気味に笑うと、それまで何事かを調べていた山下さんが「あっ」と声をあげた。
「ね、これ見て。もしかしたら、『希望の木』って樹言葉かも」
「樹言葉?」
「そう。樹木の花言葉みたいなものなんだけど。この丘陵公園にも植えられているみたいなの、その『希望』の言葉を持つ木が」
「名前、わかる?」
「うん、レンギョウっていうみたい」
僕は急いで雑木林に駆け寄ると、それぞれの木にかかっている札を見て回る。ここの丘陵公園には、それぞれの木の幹や根本に名前やちょっとした説明書きが添えられていた。そこを見れば、どれがレンギョウかわかる、はずだった。
「これ、字が掠れてて読めないな」
悔しそうに藤田がつぶやく。そうなのだ。多くの雨風にさらされ、腐食が進んでいる説明書きのほとんどは、文字が薄くなっていて何の木かわからなかった。
「どう、したら……」
途方に暮れる山下さんの声が聞こえる。
僕の心中にも悔しさが込み上げていた。
こんな時もし僕が昔のことを思い出せていたら、と思わずにはいられなかった。
そうしたらきっと、どこに埋めたのかすぐにわかるだろうに。
トラウマを克服して、写真も抵抗なく撮れるようになっていたら、きっと……。
「あ」
そこで、はたと思い至った。僕は急いで、肩にかけていたショルダーバッグをあさる。
果たして、どこまでが偶然で、どこまでが彼女の思い描いた必然だったのか。
紬未と撮影デートの約束をした日にいれたデジカメが、確かにまだそこにあった。
「……もしかしたら、最後の場所がここに写っているかもしれない」
「お、マジか!?」
「ほんとに?」
期待に満ちた二人の声が聞こえる。
でも、僕の手はデジカメを握ったまま動かなかった。
電源ボタンが、押せなかった。
――ねえ、今度の日曜日にでも行こう!
幼い頃の僕がねだる声。
――湊也、忘れ物ない? デジカメ持った?
まだデザイナーをしていた優しい母の声。
――それじゃあ、行くか!
もう二度と会えない、大好きだった父の声。
――次は宝物探し兼撮影デートだからね!
快活に笑う、紬未の笑顔……。
次々と、声が、笑顔が、あの事故の光景が、脳裏を過ぎった。
紬未と一緒なら、と思っていれたデジカメが、やけに重く感じられた。
そんな紬未は、もういない。彼女のいない四日目の世界で、僕がトラウマを乗り越えるなんて……。
「大丈夫だ、森川!」
「大丈夫だよ、森川くん!」
その時、唐突に肩を軽く叩かれた。
急に背中を優しくなでられた。
見れば、紬未を通して仲良くなった二人が、両隣にいた。
――次は宝物探し兼撮影デートだからね!
再び、彼女の笑顔が蘇る。紬未が近くで、僕を見ているような気がした。
……そっか。もうひとりじゃない、か。
今さら当然のことに気づいて、僕は短く笑う。
簡単なことだった。だから僕は、そっと電源ボタンを押した。
懐かしい企業ロゴが画面に写り、デジカメが起動した。
ゆっくりとボタンを押して保存された写真を見ていく。
小さいころの僕と、死んでしまった父が、笑顔で映っていた。
僕と母が映っていた。これは、水族館に行った時のものらしい。イルカショーやら様々な回遊魚の写真もあった。そういえば、母は水族館が好きで、あの頃はよく三人で行っていたんだっけか。
すっかりと忘れていた思い出を噛み締め、僕はさらにその先へと視線を進めていく。
心の底から幸せで、楽しかった思い出たち。
ずっと忌避して、辛く悲しい思い出に変わり果ててしまったと思っていた。
けれど今は、大丈夫だった。
「「「あ」」」
百数十枚近くの写真を遡ったところで、僕らはほぼ同時に声を発した。
そこには、一枚だけ写真があった。
やや低い木をバックに、二人の子どもが並んで写真に写っていた。石の上かどこかに置いて自動シャッター機能を使ったのだろうその写真は、不自然に傾いていた。
そして確かに、その木の幹には「レンギョウ」と描かれた札がかかっていた。写真の位置からしてこの木の場所は……
「っ!」
僕は、一目散に駆け出した。
近くの茂みのやや奥に隠れるようにして生えていた低木の根元。三日前の雨で柔らかくなっていた土を、必死で手で掘り起こした。藤田も山下さんも一緒に手伝ってくれた。手が泥だけになるのも構わずに、三人で僕らは掘り進めていった。
「あ、あった……!」
それは、静かに土の中に埋まっていた。ビニール袋で何重にも覆われ、十年近い年月をものともせずにそこにあった。
僕は震える手でゆっくりとその銀色の缶箱を穴の中から持ち上げた。宝物の地図が入っていたものよりもやや大きく、頑丈な造りをしているようだった。丁寧にビニール袋の結び目をほどいていき、ダイヤルロックに手をかける。
「番号、わかるのか?」
「宝物の地図に、書いてあった。紬未の落書き入りで」
始まりは、小石のじゅうたんがあるところ。犀川の河原を指す川の横に、「かわらは07! 水かけ楽しかったね!」と水しぶきの絵が描かれていた。
ダイヤルロックの左から二つを、「0」と「7」に合わせる。
終わりは、一〇〇メートルの見晴らしの後ろ。高校の近くにある丘陵公園を指す山の横に、「きゅうりょうこうえんは21! 別の場所だったけど、やっぱり楽しかったよ! 最高!」とピースサインが描かれていた。
ダイヤルロックの右から二つを、「2」と「1」に合わせる。
カチッと金属音がして、鍵が外れた。
ハンカチで手を拭いてから、おもむろに蓋をあける。
「…………――――っ」
思わず、息を呑んだ。
缶箱の中には、実にいろいろなものが入っていた。
丸い小さな石が、数個あった。
――よしっ、宝探しの出発場所はここな! なんか謎っぽくしようぜ!
――謎って、どんなの?
――んーそうだなあ。ツグミはここ、どんな場所だと思う?
――えと、んーと……小石のじゅうたん、とか?
――いいな、それ! やるう、さっすがツグミ!
そうだ。そうだった。確か僕たちは、一緒に遊んだ時に見つけた物を箱の中に入れていた。
四つ葉のクローバーの押し花が、二つあった。
――やっと見つけた! 四つ葉のクローバー!
――やったね!
――よし、これを押し花して宝箱に入れとこうぜ。大人になっても幸せでありますように、ってな!
――大人に……なれるのかな。
――大丈夫だよ、ツグミなら。ほら、約束しようぜ。大人になったら絶対、二人で見つけに来ような!
一緒に見つけたものはすべて宝物で、楽しい思い出で、またそれを大人になったら思い出そうって、約束していたんだ。
ほかにもたくさん、たくさんあった。
それらを手にとるたびに、次々と、陽気な声とか細い笑い声が、空から降ってきた。
しかも缶箱には、それだけじゃなかった。
裏紙にされた、彼女の遺書があった。
――いい加減やめろ。つか、なんだよその紙?
――え、これ? 私の遺書だけど。
――そんなもんでたたくな、なでるな。
――じゃあ、これの後ろに話し合いの内容メモしていこうよ。それで、わかる? 『小石のじゅうたんがあるところ』がどこか。
――待て待て。メモもするな。
僕が紬未の書いた遺書を見つけて、そこから本格的に宝物探しが始まった。
二つ折りにされた、夏休みの課題プリントがあった。
――ソウくんの教え方すっごく良かったよ! おかげで夏休み明けのテストはぐーんと良い点数がとれそう!
――あれだけの勉強でそんな簡単にとれるものでもないと思うけど
――もちろん自分で勉強もするよ。でもその時に、ああここソウくんが教えてくれたとこだーって思い出せるの。それだけで、やる気も理解度も段違いなのです。
朗らかに笑う、紬未の表情が思い出された。好きだった。確かに僕は、彼女のことが好きだった。恋をしていた。
「おい、これって」
「あの時の水着、だね。もう紬未ちゃん、なんてもの入れてるんだろ」
藤田と山下さんが苦笑する声が聞こえた。
それに紛れて、また紬未の声が蘇る。
――私がこんなにも楽しいのはソウくんが一緒にいてくれるから。ソウくんのおかげなんだよ。
そんなの、僕のほうこそだ。紬未がいてくれるから、僕は毎日を楽しいと思えるようになった。
――宝物探しも勉強も海に来ることも、とっても楽しい思い出になってる。だから、今さらだけどありがとね。
僕のほうこそ、お礼を言いたかった。紬未にありがとうって、たくさん言いたかった。もっと素直に、なればよかった。
――大丈夫。ちゃんと教えるよ。少なくとも、私が死ぬ前には。
そういえば、約束を違えられたっけ。僕は紬未からまだ、「思い出は希望の種」の意味を教えてもらっていない。教えてよ、紬未。もうわかっているけど、僕は、紬未の口から、その意味を聞きたかった。
――次は宝物探し兼撮影デートだからね!
「あ……」
そうして、僕は見つけた。
缶箱の一番下に、数枚の便箋があった。
ひとつ唾を飲んで、開く。
いつかのように、そこには『遺書』とは書かれていなかった。
『私の大切な友達と、大好きな人へ』
夏らしい青空と雲の便箋は、紬未の人間性を体現する溌剌とした文字で、彩られていた。
*
『はじめに。これを読んでいるのは、私の大切な友達、マナちゃんと藤田くん、そして私が大好きなソウくんの3人だと思ってます。その前提で書いているので、もしそれ以外の人が読んでいたら、そっと元の場所に戻しておいてください。お願いします。
さてさて、まずはおめでとう! まさか本当に宝物を見つけてくれるなんてね!
隠した当人のひとりとして、すっごくすっごく嬉しいです!
そしてこれが読まれているということは、きっと私は余命をまっとうすることなく死んじゃったんでしょう。
もしそうなら、少しだけ残念だな。
ごめん、うそ。
すっごく残念。めちゃくちゃ残念。とにかく残念!
できる限り長く、楽しい毎日を過ごしていたかったなーーーーー。
まっ、いつ死んでも同じことを思うだろうから、あんまり意味はないかもしれないけどね。
はい、そうです。この手紙はね、「私が宣告された余命よりも早くに死んじゃった時用のもの」です。
きっと、驚いていると思う。
ひょっとしたら、怒っているかもしれないね。「なに突然死んでるんだ紬未ーーー!」って(笑)
でもね、人生きっとそんなもんなんだよ。
余命を宣告されたからって、その余命が尽きるまで生きられる保証はないの。残り僅かな余命は、確実に生きられる命の期間じゃない。
もしかしたら、突然病気が悪化しちゃうかもしれない。(これが一番可能性が高いと思う)
もしかしたら、今この瞬間に隕石が私の病室に降ってきちゃうかもしれない。(これが一番可能性が低いと思う)
もしかしたら、明日階段から落ちちゃうかもしれない。
もしかしたら、ちょっと外に出かけた時に交通事故に遭っちゃうかもしれない。
もしかしたら、私がいきなり人生に絶望して、自殺しちゃうかもしれない。
もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。
そんなふうにあげていったら、私たちはいつ死んでもおかしくないの。
命の価値が平等っていうのは、きっとこのことをいうんだと思う。
だから私は、この手紙を書こうと思いました。
私が思いがけず死んじゃった時に、私の周りにいてくれた大切なみんなになにも言えないなんて、悲しすぎるから。
マナちゃんに藤田くん。私のいきなりのお願いを聞き届けてくれてありがとう。
二人のおかげで、この手紙を届けることができました。本当に、感謝しかありません。
そしてソウくんも。
突然私が死んじゃったのに、最後まで宝物を探してくれてありがとう。見つけてくれて、すっごく嬉しいです。
でも本当はね、二人で見つけたかったなあ。
それが、一番の心残りです』
「そんな、そんな、そんな………紬未ちゃん……っ、つぐ、み、ちゃん………っ!」
すぐ隣で、山下さんが泣き崩れた。藤田は黙ったまま彼女を抱きすくめる。
衝撃の文言に、僕も言葉を失った。
息がつまるかと思った。
紬未は、近くに死ぬことをわかっていたわけじゃなかった。
紬未は、いつ自分が死んでも後悔しないようにしていただけだった。
紬未は、誰よりも真摯に死に向き合っていたからこそ、この手紙を残していた。
僕はゆっくりと、二枚目の便箋に目を落とす。
『ここからは、個別に書いていきます。うまくまとまらないかもしれないけれど、許してね。
マナちゃんへ。
ソウくんに宝物の地図を渡してくれてありがとう。
ソウくんが宝物を見つけるところまで見届けてくれてありがとう。
きっと私がいきなり死んじゃって、混乱してるよね。そんな中、こんなことを頼んじゃってごめんなさい。マナちゃんにしか頼めなくて、甘えちゃいました。
マナちゃんは、私の大切な友達です。マナちゃんはいつも臆病で不器用だとか言ってるけれど、私はそんなことないと思ってるよ。マナちゃんはね、とっても優しいの。相手のことをたくさんたくさん考えてるだけ。藤田くんとの関係だってそう。私から見れば二人とも明らかに好き合ってるし、正直じれったかった(笑)
だからこそ、藤田くんドキドキさせよう海水浴大作戦(私が勝手にそう呼んでた)で恋人同士になったって聞いた時は嬉しかった。本当に心の底から嬉しくて、なにより羨ましかった。私には一生かかっても手に入れられなかった、眩しい幸せだから。
マナちゃん。どうか楽しい毎日を過ごして、もっと幸せになってね。
優しいマナちゃんなら、絶対ぜーったい大丈夫だから!
もし藤田くんに嫌なことをされたら、ソウくんを差し向ければいいと思うよ。ソウくんには私がやれって言ってたって言えば、きっとなんでも協力してくれるだろうから(笑)
本当に今までありがとう、マナちゃん。
マナちゃんは、私の一生の友達で、親友です。
天国から、ずっとずっと見守っています。大好きだーーーっ!!!』
「ぐすっ……うわああああああああああん……っ! 紬未ちゃん、つぐみちゃん……っ、つぐみちゃああああん…………っ!」
紬未からの手紙を胸に抱いて、山下さんは泣き崩れた。
繰り返し繰り返し、紬未の名前を呼んでいた。
藤田はゆっくりと山下さんの背中をさすっていた。
僕は、なにも言えなかった。
『藤田くんへ。
ソウくんを部屋から引っ張り出してくれてありがとう。
きっとソウくんのことだから、かなり面倒な理由とか屁理屈とかつけてたと思う。頑固で臆病なやつだから(笑)
でもだからこそ、これも藤田くんにしか頼めなかった。他の誰でもない。ソウくんのことを気にかけてくれていた藤田くんだから頼めた。
本当にありがとう。ずっとソウくんのことを気にかけてくれて、ありがとう。
そうそう、ついでにもうひとつ。
どうか、これからもソウくんのことを気にかけてあげてください。
彼、ああ見えて結構寂しがり屋だから。お願いします。
それとなにより、マナちゃんのことを大切にしてあげてね。
マナちゃん、ずっとずーっと藤田くんのことを見てたんだよ。気づいてた?
気づいてなかったでしょ。バーカバーカ!(笑)
マナちゃんは優しいから、きっと藤田くんがこれからも無遠慮でバカなことをしても許してくれると思うよ。
でも絶対に、絶対に絶対にぜーーーったいに甘えすぎたらダメだよ!
マナちゃんのことを大切にして、楽しく笑わせて、藤田くん自身もたくさん笑って、どうか幸せになってね。
天国からずっと見守ってるから。
本当に今までありがとう!
あ、マナちゃんみたいに大好きなんて書かないからね? 心底残念かもしれないけれど(笑)
マナちゃんから大好きってたくさん言ってもらってください。あらまー照れちゃってーーこのこのーっ!』
「……ぐっ、あいつ……最後の最後まで、なにやってんだよぉ……っ!」
藤田は声を押し殺して、繰り返し手紙を読んでいるみたいだった。
それから山下さんのことを強く抱き締めて、泣いていた。
それからなぜか、僕の背中をバシバシと叩いてきた。
その強さは、今まで叩かれたどの強さよりも、強かった。
『そして、ソウくんへ。
今、ソウくんはなにを思ってるのかな。
いきなり私が死んじゃって、悲しんでくれてるのかな。
あるいは、怒ってるのかな。もしかしたら、拗ねてるのかな。へこんでるのかな。さすがにスッキリしてる、なんてことはないよね? もしそうだったら泣いちゃうよ、私。えーん。
ふふっ、なーんてね。冗談、怒らないで。
どんな気持ちでもいいの。
それがきっと、ソウくんの素直な心だから。
その心のまま、どうか最後まで手紙を読んでください。
ソウくんとは、本当にいろんなことがあったね。
初めて会った時のこと、覚えてる?
なーんて、木から落ちてきた女の子なんて忘れられるわけないよね(笑)自分でも思うもん、アホかって(爆笑)
それから私がソウくんに難癖つけて、宝物探しに引きずり込もうとしたんだよね。蔵で宝物の地図を探してた時も上から落ちちゃって、あれはさすがにちょっとへこみかけたなあ。私の印象最悪だったらどうしようって(笑)(こらー、今さらだなんて言わない!)
そしていざ宝物探しに本格的に引きずり込もうかって時に、うっかり落とした遺書を見られちゃうんだもんなあ。あれは焦ったよ。
もしかしたら、私の本来の目的まで知られちゃったんじゃないかって。
もう今だから言うね。この手紙が読まれてるってことは、たぶん私は直接言わずに死んじゃったんだろうし。(くそう)
私の本当の目的はね、ソウくん、君にまた楽しいって笑ってもらうことだったんだ。
じつは、この宝物を一緒に埋めた男の子っていうのは、ソウくんなの。
小学校三年生の時に、親戚の家に遊びに来ていたソウくんと偶然出会ったの。その時私は、犀川の河原で泣いてたの。病気の治療が辛くて、いつか死んじゃう未来が怖くて。
でもソウくんは、そんな泣き虫な私を元気づけてくれた。楽しい遊びをいっぱい教えてくれた。最初は気乗りしなかったんだけど、小さいころのソウくん強引でさ(笑)あちこち連れ回されちゃってる間に、いつの間にか私も楽しんでたんだよね。
そして最後に、この宝物を埋めたの。一緒に遊んだ思い出をたくさん、埋めたの。
大人まで生きられないって泣いてた私と、ソウくんは約束してくれた。
大人になったら一緒に宝物を探しにこようって。
それまできっと生きられるからって。
今日たくさん笑えたから、これからもきっと笑える。
今日笑えたのに、明日笑えないなんてことはない。
笑っていれば身体は元気になって、大人まで生きられる。
この思い出は私たちの宝物で、確かな証で、これ以上の楽しい思い出もこれからきっと築いていける。
だから思い出は、希望の種なんだって。
私は、この言葉に本当に救われた。この言葉のおかげで、ソウくんのおかげで、私はまた笑えるようになった。
笑っていたら本当に身体も楽になってきて、あんなに悲しそうだったお父さんもお母さんも笑ってくれるようになった。
私はソウくんとの再会を夢見て、高校生まで生きてくることができた。
でも。いざ再会したソウくんは、すべてを忘れてるみたいだった。
それだけじゃない。ソウくん、あんなに好きだったカメラを見て、すっごく辛そうにしてた。
ほかにもずっとソウくんは苦しそうで、悲しそうだった。
ソウくんの親が小学生の時に亡くなったことも知った。(友達から勝手に聞いてしまってごめん。)
前の私みたいな表情をして苦しんでいるソウくんを、私は放っておけなかった。
この宝物探しはね、恩返しなんだ。
私に笑顔を思い出せてくれたソウくんに。
私に生きる楽しさを教えてくれたソウくんに。
私に大切な言葉と思い出をくれたソウくんに。
私ができることを精一杯したいって、そう思ったの。
だから、公園で話している時にソウくんが笑ってくれて、本当に嬉しかった。心の底から嬉しくて、泣いちゃいそうになった。
それから宝物探しをして、たまには寄り道とかもして、また私はソウくんとの思い出をたくさん作れた。恩返しのつもりだったのに、ソウくんは私にまたたくさんの楽しさをくれた。思い出をくれた。幸せをたくさんたくさんくれた。
そしてついさっき、ソウくんは補習をサボって入院している私のところに来てくれた。
驚いちゃった。あとこの手紙、見られちゃったかと思ったよ。うまくごまかせたと思うけど、内心チョー焦ってたからね(笑)
しかもソウくんが言ってくれた言葉が、私の耳の奥から離れてくれないの。
「紬未といる時間を、僕は楽しんでる」
「それから、紬未にはもっと楽しい時間を過ごしてほしい」
「だから紬未がしてほしいことで、僕にできることならなるべくしてあげたい」
夢かと思ったよ。本当に、本当に、本当に嬉しかった。たくさん笑ってたのは、涙を誤魔化すためなんだ。笑ってごめんね。でも本当に、私は幸せだなあって実感したの。これだけでもう、私の人生勝ち組だよね(笑)
あとね、もうこれも書いちゃう。
恥ずかしいから、この手紙を読み終わったら忘れてね。
私は、ソウくんのことが好き。
大好き! 大好き大好きだーい好き!
ソウくんがまた写真を撮ってくれて、それだけで幸せだったのにもう我慢できなくて、私はさっきソウくんに抱きついちゃいました。また心臓がバクバクしてきたよ。顔だって熱いよ。次会う時、どんな顔をすればいいかわかんないよ。
本当にそのくらい、私はソウくんに恋をしてる。
ソウくんは私に、恋まで教えてくれたの。
もう私は、本当に幸せ。幸せ幸せ幸せ!
本当はこれからももっと幸せになりたい。幸せを味わいたい。幸せをソウくんと共有したい。
今度は二人っきりで海水浴に行きたい。
二人で花火大会に行きたい。
二人でお買い物したい。
二人で水族館に行きたい。
二人で紅葉狩りをしたい。
二人で文化祭を見て回りたい。
二人で雪を見たい。
二人で温かいミルクティーを飲みたい。
二人でクリスマスを過ごしたい。
二人で新しい年を迎えたい。
本当は二人で、卒業まで過ごしていきたい。ううん、卒業のその先も、ずっとずっと一緒にいたい。
でも、それは叶わない。(涙やばい。にじんで読めなかったらごめん。)
もう私は、この世界のどこにもいない。
でもね、私の大好きなソウくんはこの世界にいる。この世界に生きてる。
どうか、私との思い出を胸に、この世界を生きていってください。
私と楽しい思い出をつくれたんだから、これから先の人生でもきっとつくれるはずだよ。
思い出は、希望の種なんだから。
もちろん、それをつくれるかはソウくん次第。
だからどうか、お願い。
ソウくん、幸せになって。
恋人や、ほかにも友達をたくさんつくって、もっともっと、幸せになって。
ソウくんが幸せに生きていてくれたら、私は天国でも笑顔でいられるから。
そしていつか、ソウくんがおじいちゃんになった時に、私にたくさん思い出を話して聞かせてください。
その時は私が、お腹を抱えて笑ってあげるから!
本当にありがとう、ソウくん。
私の大好きなソウくん。
さよならなんて、そんな悲しい言葉は書きません。
ずっとずっと見守って、待ってます。
ありがとう、ありがとう。
ありがとうーーーーーーーー!!!!!
久空紬未より』
「…………」
前が、見えなかった。
紬未が死んだと聞いた時も、紬未の葬式に行った時も、紬未との記憶を思い出した時も、涙は出てこなかったのに。
視界がにじんで、仕方がなかった。
もうなにもかもが、限界だった。
「あああぁぁ……っ……! ああああああああああああああああああっ…………!」
僕は泣いた。
みっともなく泣いた。
夕陽が照らす丘陵公園の頂上で、僕は恥ずかしげもなく大声で泣きじゃくった。
ずるいと思った。
言いたいことをすべて手紙に託して、用意周到に準備まで整えて、しっかりと伝えて、彼女は逝ってしまった。
死と真剣に向き合った、覚悟の違いだった。
僕はもう、彼女に伝えることができない。
紬未に気持ちを伝えることもできない。
僕がなんとなく宝物の地図に既視感を持っていたことも伝えられない。
僕も紬未との日々をどれほど楽しいと思っていたかも伝えられない。
僕も紬未のことを大好きだと思っていたことも、伝えられない。
泣いた。泣いた。とにかく泣いた。
紬未の声が、匂いが、笑顔が、鮮明に思い出された。
もう紬未の声を聞くことはできない。
もう紬未の匂いを感じることはできない。
もう紬未の笑顔を間近で見ることはできない。
どれほど願っても、泣いても、叫んでも、僕は紬未に気持ちを届けることはできない。
その現実をようやく、ようやく実感して、受け入れて、認めることができて、僕の強がりの仮面は粉々に砕かれた。
僕たち三人は、声が枯れるまで、身を寄せ合って泣いていた。
必ずこの悲しみを受け入れて、紬未との思い出を胸に抱いて、また笑って前を向くからと、心の中の彼女に約束をしながら。
――思い出は、希望の種なんだよ!
誰かが言った。
本当に、その通りだと思った。
夏休みが終わって学校が本格的に始まり、秋も深まるはずの十月に入ったころ。
未だ辛抱強く空を駆け抜けるアブラゼミの声を聞きつつ、僕らは先々月も登った坂を歩いていた。
「いやーにしても、あっちいなあ」
「ほんとだよね。もう十月になるのに」
「天気予報では今週も最高気温は三十度前後らしいよ。まだまだ残暑は続きそうだ」
「どうせなら夏休みも続いてくれればいいのにな」
「龍くん、さすがに夏休みの補習で出た課題プリントはぜんぶ終わったよね? 先生から先週呼び出されてたみたいだけど」
「もちろん残ってるよ。当たり前だろ?」
「いや、当たり前じゃないと思うけど」
口から出るのは相変わらずなんてことはない話ばかり。そこに大きな声で突撃してくる明るい彼女がいないのは寂しいけれど、少しずつ僕らは立ち直ろうとしていた。
道中で買ったスポーツドリンクも飲みつつ先週とは違う舗装された坂道を登り切ると、少し離れたところにお墓の竿石が見えた。
「あったな。ここでいいんだよな?」
「ああ。そのはずだよ」
僕らはそれぞれの手に彼女からの手紙と花を持ち、墓地へと入っていく。周囲には赤や黄色にやや色づき始めた木々がこれでもかと生い茂っており、葉擦れの音が僕らを出迎えていた。
紬未が亡くなってから約二ヵ月後。心の奥底にまで溜め込んでいた涙を枯らした僕らは話し合い、納骨を終えた紬未の墓に墓参りをしに行くことにした。
理由はそれぞれ、様々にあった。
「やあ、紬未」
「久しぶりだね、紬未ちゃん」
「久空、来たぞ」
先に紬未の実家に立ち寄って挨拶を済ませ、教えてもらったお墓の前に立つと、僕らは挨拶を口にした。
夏のころと大差ない太陽に見守られながら僕らは顔を見合わせ、小さく頷き合う。
まずは山下さんが、ゆっくりと前に出て花を供えた。
「紬未ちゃん。私ね、今も龍くんと仲良くやってるよ。相変わらずな龍くんだけど、毎日とっても楽しいの。紬未ちゃんが言ってくれた優しさを大切にして、あとこれからは厳しくする優しさも持っていきたいなって思ってます」
「え、初耳」
「藤田、黙ってなよ」
「そうだよ、龍くん。静かにして」
「うわあ、厳し」
山下さんは丁寧に、紬未の墓に向かって語りかけていた。
紬未が好きだと言ってくれた優しさを、もっともっといろんな形にして、大切にしていくのだと誓っていた。当面の目標は厳しくする優しさで、その対象は藤田らしい。どうやら甘やかすばかりではないようだった。
そんな小さかったはずの山下さんの背中は、前よりもずっと大きく見えた。
「はい、お待たせしました。次は龍くんね」
「ほい来たー。少しそこで嫉妬しながら待っててな、湊也」
「うるさいな、早く行ってこい」
僕が軽く彼の背中を押すと、藤田は嬉しそうに笑った。そして山下さんと同じように、おもむろに花を墓前に供えて、口を開く。
「久空。お前の言葉、ぜんぶ身に沁みたよ。俺って人への気にかけがアンバランスみたいなんだよな。特に身近な存在になると余計に。これからはしっかり、真奈美の気持ちを気にかけて寄り添っていきたいと思う。あと、久空に頼まれた親友の湊也もな」
「いつ親友になったんだっけ」
「ずっと前からだが?」
「初耳だな」
「もうー森川くん、今は龍くんの番だから静かに、ね?」
「おい真奈美、俺の時と扱い違い過ぎないか!?」
「嫉妬するなよ、藤田」
お墓に似合わない笑い声がこだます。やっぱり、四十九日の納骨とずらして良かった。この僕ららしいテンションは、まだ他の人には見せられないから。
藤田はそれから言葉多めに僕への気遣いを頑張ることを宣誓していた。言葉多きは品少なしということわざを今度教えてやろうと思ったけれど、きっと紬未は満足しているだろうからやめておこうと思った。
こんな友達、もとい親友を持てて、僕は幸せ者だ。
「ほら、待たせたな。大トリは湊也だ。行ってこい!」
「頑張ってね、森川くん!」
「そんな気張ることでもないけど」
照れ隠しを口にしつつ、僕は改めて彼女の墓を見やった。
夏の残滓を含む秋の陽光に照らされて、キラキラと輝いて見えた。
それはまるで、紬未が僕を見て笑っているようだった。
だから僕も小さく笑いかけて、そっと花を供えた。
「紬未、久しぶり。ここに来るまで言いたいことがたくさんあったんだけど、いざ本番となるとなかなか出てこないものだね」
伝えたいことは、本当にたくさんあった。
宝物探しの記憶のことも、楽しかった紬未との日々のことも、僕が抱えて伝えられなかった好意も、紬未からもらった手紙についても。本当にいろいろとあるのだ。でも言葉や感情が渋滞していて、口からは渇いた息が漏れるばかりだった。
僕はひとつ息を吸って、吐いてから、もう一度前を見る。
「紬未、まずはありがとう。僕は紬未や藤田、山下さんのおかげで、ずっと目を背けていたトラウマを乗り越えることができた。今度の文化祭でね、卒業アルバムのためのカメラマンを担当することになったんだよ。僕だけじゃ、ここまで来られなかった。そのきっかけを作ってくれた紬未には、感謝をしてもし足りない。楽しい思い出をくれたことにしてもそうだ。一緒に埋めた宝物を大切にしてくれていたことも、手紙でたくさんの想いや言葉をくれたことも、本当にありがとう」
目を閉じれば、今も鮮明に紬未との思い出がまぶたの裏を駆け巡る。
紬未の声が、すぐ近くから聞こえてきそうな気配すらしてくる。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
「僕も紬未のことが、大好きだ。紬未は手紙を読んだら忘れてとか書いていたけれど、無理だよ。僕はこの恋を、ずっと忘れられない。でも安心して。引きずるつもりも、ないから。紬未との思い出を胸に、僕はしっかりと前に進んでいくから。そしていつかまた、一緒に笑おう」
今、僕が浮かべられる精一杯の笑顔を向けた。
また視界がにじみそうになって、慌てて僕は上を向いた。
紬未はそんな僕を見て、「ソウくんってじつは泣き虫なんだね~」なんて笑いながらからっているかもしれない。
でも、それでいい。
そんな紬未を想像すると、僕の心も温かくなるから。楽しくなるから。
僕は笑う、笑えるよ、紬未。
楽しいときは楽しいって、思えるようになったよ。
「それじゃあ、また来るから。またね」
僕は目元を拭ってから、振り返る。
笑顔を浮かべた藤田に肩をたたかれ、やや目を赤くした山下さんに小さく頷かれた。
「ははっ、さ、行こうか」
「ああ!」
「だね!」
僕らは笑い合って、もう一度紬未の墓に手を振った。
――またねーーー!
紬未の笑い声が、すぐ近くで聞こえた気がした。
僕らはまた、大きな声で笑った。
希望の種の芽生えを、感じとりながら――。