「きゃああああ!」

 快晴の青空の下、蝉時雨が響き渡る夏休み初日。午前中にあった全生徒が対象の夏期補習を終えて下校していた僕の午後は、女の金切り声から始まった。

「え、ええ?」

 咄嗟に身構え、僕は周囲の様子をうかがう。
 僕がいるのは高校近くの歩道。車道に面しているとはいえ車通りは少なく、今も車は一台も通っていないから交通事故はなさそうだ。
 となると考えられるのは、不審者かひったくり。けれど、遠目に見る限りでは他の生徒や通行人は普段通りで、なにか事件に巻き込まれているようでもない。
 ならば、どこから女性の悲鳴が? さすがにこの蒸し暑い真っ昼間から心霊現象なわけはないだろうし……。
 そこで僕は、考えるのを中断した。なんにせよ、穏やかな内容ではないことは間違いない。厄介事の気配を察知した僕は、早々にその場から立ち去ろうと一歩を踏み出した、その時だった。

「きゃあっ」

 再び短い悲鳴が聞こえ、木の枝が折れる音や荒々しい葉擦れの音とともに、それはすぐ真横の茂みに降ってきた。漫画なんかであればドシーンと大きな効果音もついでにつきそうなほどアクロバティックに、それは木の上から降ってきたのだ。

「いったたた」

 声が聞こえて、僕は思わず閉じてしまった目をおそるおそる開けた。
 そこには、僕の通う高校の制服を身にまとったひとりの女子生徒がいた。幸いにも木の真下にあった植え込みがクッションになったようで、僕が想定していた最悪の状態にはなっていなかった。

「え、っと……大丈夫、ですか?」

 すぐ真横ということもあり、なにもせずスルーするのもどうかと思った僕は彼女に声をかけた。肩ほどまである長い黒髪に、黒曜石のような深く澄んだ大きな瞳。真っ直ぐに降りた綺麗な鼻筋や白い肌も印象的で、率直に可愛い子だなと思った。ただその顔には見覚えがなく、もしかしたら上級生かもしれない。なんとなく丁寧語で尋ねた僕に、目の前で尻もちをついている彼女は苦笑いを返してきた。

「あ、あははっ。ありがと、大丈夫。ごめんね、驚かせちゃって。木の上にいた猫を助けようとしたら落ちちゃって」

「木の上の、猫?」

 言われて見上げると、確かにそこそこの高さの枝に茶色い毛並みの猫が乗っていた。よくある登ったはいいが下りられなくなったパターンだろうか。

「あ」

 と思った矢先、その猫はシュタッと華麗な身のこなしで地面に降り立つと、そのままどこへともなく駆け去ってしまった。僕と彼女は、呆然としてその後ろ姿を見送る。

「大丈夫そう、でしたね」

「うん、大丈夫そうだったね」

 どうやら猫はただ枝の上でくつろいでいただけらしい。なんだか拍子抜けだ。

「それはそうと、本当に怪我はないですよね?」

 猫が見えなくなると、僕は未だに地面に座ったままの彼女のほうへ視線を移した。あの高さから落ちたのだから、道路との境にある小さな生垣がクッションになったとはいえそれなりの衝撃だったはずだ。打撲はもちろん、骨折だってしていてもおかしくない。

「うん! 大丈夫! ちょっとお尻が痛いけど、それ以外は至って普通……あ」

 怪我がないことを見せるためか、朗らかな笑みを浮かべて立ち上がろうとしていた彼女は、なぜか唐突に動きを止めた。

「ん? やっぱりどこかひねったりとか、怪我を……あ」

 気遣う言葉を口にしてから、僕も気づいてしまった。
 自分の視線の先を、彼女の視線に合わせたのがいけなかった。
 今の彼女は木の上から落下してきた時の姿勢のままで。
 彼女の服装は高校の制服姿だから下はスカートをはいていて。
 いやもう端的にいえば、下着が見えた。
 僕の声に反応してか、あるいはフリーズした脳が機能を取り戻したのか。彼女は慌てて膝元を押さえると、顔を真っ赤にして僕のほうへ鋭い視線を向けてきた。

「見た?」

 落ち着け。こういう時は、クールに冷静に、なにも見てないことを態度で示すのが大切……

「い、いや、僕はべつになにも見てないですけど」

「見てるじゃん! 本当に見てない人は『なにを?』って訊くんですー! あと態度に出過ぎ!」

 無理だった。そりゃそうだ。僕の両親はうそをつくのが下手で、僕もその遺伝子を受け継いでいるんだから。

「ふ、不可抗力だ!」

「でも見たのにはかわりないでしょ!」

 やいのやいのと僕らは学校近くの歩道で問答を繰り広げた。ほとんど勢いで僕の口調から丁寧語はとれていて、道行く人からはなにやら訝し気な視線やら興味津々な視線やら生温かい視線やらを感じた。なんとも居心地の悪いことこの上ない。
 そうこうしているうちに遠くからチャイムが鳴った。方角からして僕の高校のもので、補習の完全下校時刻を告げるチャイムだろう。そろそろ行かないと乗る予定のバスに間に合わなくなる。僕はわざとらしくスマホで時間を確認してから鞄を担ぎ直した。

「ったく、それだけ叫ぶ元気があるならほんとに大丈夫そうだな」

「心は大丈夫じゃないけどね!」

「はいはい、ごめんて。悪いけどもう時間だし、そろそろ行くわ」

 夏休み初日からなんてことに巻き込まれるんだ。こっちは心配して気遣ったというのに。
 心の中で愚痴りながら僕が歩き出そうとした時、ふいにグイっと腕を掴まれた。

「……まだなにか? バスに遅れるんだけど」

 僕の腕を掴んでいるのはもちろん彼女。さっきは気づかなかったが、制服の襟元に付けられているクラスバッジの色からして同学年のようだ。そんな同い年の彼女は、まだ頬を赤に染めつつ口を開いた。

「私の下着を見た罰、というか責任をとって、手伝ってほしいことがあります」

「はあ?」

 耳を疑う。何を言ってるんだ、この女は。
 わざとらしく睨んでみるも、彼女はまるで臆する様子もなく言葉を続けた。

「いいからっ。来て! 補習は終わったんだから少しくらいいいでしょ!」

 その顔からは、先ほどまでの怒りや羞恥心は消えていた。
 むしろ何か楽しいことを思いついた子どもみたいな表情をしていた。
 あ、これは面倒なことに巻き込まれるやつだ。
 そんな予感を心に抱きながらも、押しに弱い僕は彼女に引かれるがまま住宅街のほうへと足の向きを変えた。

 *

 彼女に連れられてやってきたのは、住宅街の端のほうにある古い平屋の家だった。昔ながらの日本家屋で、庭先の松の木には季節外れの雪吊りがしてある。敷地はそれなりに広く、塀で囲まれた隅には大きな蔵があった。

「ちょっとここで待ってて。鍵借りてくるから。あ、逃げないでよね」

「逃げないよ、ここまで来て」

 道中は何度か逃走しようかと思ったが、目ざとい彼女の妨害でことごとく失敗した。挙句には、「一緒に来てくれないと下着を見られたことを友達に相談する」とまで言われたので、ここは大人しく従うことにした。不可抗力なので大事にはならないにせよ、変な噂が立てられても困る。
 彼女は家の中へ入ると、しばらくしてタオルとペットボトルのお茶を二つずつ、そして古ぼけた鍵と変な形の木の棒を手に戻ってきた。

「はい、これ! 水分補給しないと熱中症になっちゃうよ」

「え? あ、ありがと」

 まさかそんな気遣いをされると思っていなかった僕は、ややどもりがちにタオルとペットボトルを受け取った。冷蔵庫で冷やされていたのか、ペットボトルはとても冷たく、僕は促されるままお茶を喉に滑らせる。

「ぷはっ、ふう。いやー、暑いなか飲む冷たい麦茶ってほんと格別だよね」

 同じようにペットボトルの中身をあおった彼女は、じつに無邪気な笑顔を向けてきた。同感だった僕は、頷く代わりにもうひと口お茶を口に含む。

「そういえば、自己紹介がまだだったね。私は二年五組の久空(くそら)紬未(つぐみ)。久しい空で久空、糸偏に由来の由を組み合わせた(つむぎ)と、未来の未で紬未ね!」

「わかりにくいな」

「あははっ、よく言われる! こういう漢字だよ」

 そう言うと彼女はスマホで自分の名前を打つと僕に見せてきた。普通に見せればいいのに、隣に並ぶようにして見せてきたので彼女の甘い香りが鼻先をくすぐった。不可抗力であるのは言うまでもない。

「それで君は?」

「僕は二年四組の森川(もりかわ)湊也(そうや)。森林の森に、三本線の川で森川、さんずいに奏でる(なり)で湊也」

「わかりにくいね」

「僕もよく言われる」

 彼女に倣って僕もスマホに自分の名前を打ち、画面を見せた。もちろん、僕は正面から普通に差し出す形で。

「おーなるほど。湊也くんね。よろしく、ソウくん!」

「……なんでいきなりあだ名呼びなの」

「そのほうが親近感出るかなって。ソウくんも私のことは紬未でもつぐつぐでも好きに呼んでね!」

「うん、そうするよ。久空さん」

「なんで一番距離を感じる呼び方なの!」

 久空さんの抗議に僕は特に答えることなく、もらったペットボトルのお茶を口に運んだ。そもそも僕のような友達と呼べる存在が少ない人にとって、同い年の異性を名前呼び、ましてやあだ名呼びをする習慣はない。なら選べる選択肢はただひとつだ。

「それで、久空さん。僕をこんなところに拉致してきて何を手伝わせるつもりなの?」

「えーもう本題に入るの?」

「僕だって暇じゃないんだから。明日の補習の予習とか、夏休みの宿題だってあるし」

「補習は任意参加なんだから予習は適当でダイジョーブ。夏休みだって今日が初日なんだからまだまだ時間はあるあるある!」

「最終日に終わらないって嘆くフラグだろ、それは。何事も早いに越したことはない」

 この晴れ渡った夏空に負けず劣らずの能天気な物言いに、僕は苦笑で返した。なんとも羨ましい限りだ。

「もうーせっかちなんだから。それで手伝う内容だよね。ちょっとこっちに来て」

 口先を尖らせながら渋々といった様子で彼女は僕の先を歩き、入ってすぐ右奥の塀の近くにある蔵の前で止まった。

「これは?」

「これはね、私のおじいちゃんが所有する蔵なんだ。なんでも江戸時代からあるんだって」

「江戸時代、それはすごいね」

 ひと昔前の小説が好きな僕としては、木の上から降ってきた変な少女よりも趣ある土蔵(どぞう)のほうが興味がわいた。外観としては、石垣の上に焦げ茶色の板張りがなされており、その上には漆喰(しっくい)で仕上げられた白い土壁(つちかべ)がそびえ立っている。石階段を昇った先にある(ひさし)の下には頑丈そうな土戸(つちど)が構えられていた。

「さっ、ということでほら、早速出番だよ」

「出番?」

「うん。正面の扉、重すぎて私じゃ開かないから開けてよ」

 興味わく蔵から興味のない久空さんへと視線を向けてみれば、想像以上に楽しそうな笑みを浮かべていた。なんとなく嫌な予感が背筋によぎる。

「開けたら恐ろしい怪物が姿を現す、とかないよね?」

「あはははっ! あるわけないじゃん! 小説の読みすぎだよ!」

 けたけたとあけすけに笑われ、やっぱり僕の予感は正しかったと内心頭を抱えながら、僕は足早に石階段を昇り、土戸に手をかけた。それは確かに思った以上に重く、両手と全体重をかけてどうにか開くことができた。

「え」

 達成感に包まれたのも束の間、僕の口からは呆然とした声がもれた。なぜなら重い土壁の後ろには、これまた頑丈そうな木製の扉が行く手を塞いでいたのだから。

「二重扉らしいよ。最初の扉は空襲とか火災とかがあった時に閉めて、蔵を守るんだって」

「今は空襲も火災もないのに、なんで閉めてあったの?」

「ん~ソウくんが頑張って開けてくれるところを見たかったから?」

 僕が苛立たし気に階段を下りようとすると、慌てて彼女は僕を押しとどめてきた。「うそうそ、泥棒よけにいつも閉めてるんだって!」と弁明しなければ本気で帰っていたところだ。

「それで? このごつい扉も力づくで開ければいいの?」

「あー待って待って。その扉には鍵が二つついてるから、これで開けるんだよ」

 そう言って手渡されたのは、先ほど彼女が家の中から持ってきた古ぼけた鍵と、変な形の木の棒だった。先端が少し折れ曲がっていて、その下ほどになにやら横線が一本引いてある。

「こっちの鍵はなんとなくわかるけど、この変な棒はなに?」

「その棒はね、下の方にある小さな丸い穴に入れて鍵を開けるんだよ。横線のところまで入れたら、クルって時計回りに回して、手応えがあったらその棒を入れたまま扉を引くんだよ」

「え、それで鍵が開くの?」

「うん、そうみたい。猿落としっていう昔の鍵なんだって」

「へえー」

 猿落とし。さっき彼女が木から落ちてきたのとかけているんだろうか。猿も木から落ちるということわざもあるし。

「なんか変なこと考えてる?」

「い、いや。なんでも。じゃあ、開けるぞ」

 つくづく洞察力がある彼女に背を向けて、僕は二つの鍵を使って扉を開けた。
 むわりと、蒸し暑い空気が外へ飛び出した。ややかび臭いにおいや湿ったほこりのにおいをはらませて、それは容赦なく僕の身体を通過し、晴れ晴れとした夏の大気に混ざっていく。
 そうして嗅覚で土蔵を味わっていると、次第に暗闇に目が慣れてきた。

「うわあ……」

 感嘆の息が漏れた。そこには、所狭しと木箱やら人形やら書物やらが床を覆い、壁にある棚を埋め尽くしていた。二階程度の高さにある小窓から微かに漏れる陽の光だけでは、とても見切れないほどの量だ。

「ほい、電気」

 やがて、のんきな声とともに近代技術の粋が込められた人工の光が室内を照らす。すると、蔵の隅のほうで息をひそめていた古物までもが顔をのぞかせた。その数、ざっと見渡しても三百ほどはあるだろうか。

「すごいな、これ」

「ふふっ、でしょ。私も初めて見た時はテンション上がったもん」

「それで、べつにこれを僕に見せたかっただけじゃないでしょ?」

 すぐ横からひょっこりと顔を出している久空さんに目を向ければ、「そりゃあもちろん」と満足げに頷かれた。

「ここのどこかにね、私の宝物が埋まってるの」

「宝物?」

「うん。あ、宝物そのものというか、宝物の場所を示した地図、といったほうがいいかな」

 僕はますます首を傾げた。どういうことだろうか。

「それはなに、昔から受け継がれてきたもの、とかそういうもの?」

「ううん。私がね、小さいころに作った手書きの地図なんだ。ここ、昔から蔵にあったものだけじゃなくて、物置にもなっていてね。私の小学生のころの教科書とか、それこそ昔遊んだおもちゃとかも置いてあるんだ。それで、その時に一緒にしまっちゃったみたいなの。大切な宝物の地図が」

「なるほど」

 これはつまり、この蔵の中身を軽く整理しつつ、彼女の失くし物もとい探し物を一緒に見つけてほしいということか。

「……え? この中から?」

「うん、この中から!」

 その大変さに気づいて思わず訊くも、彼女は真夏の太陽に負けない笑顔で頷き返してきた。なんてことだ。

「待って、どんだけ時間かかると思ってんの。今日中に見つかるかもあやしいんじゃ」

「まあ、そうなったら明日もよろしくということで」

「いや、あのさ。いくらなんでも図々しすぎないか」

「お茶飲んだでしょー、半分以上」

「え、これもしかして報酬?」

 まるで詐欺じゃないか。というか、この五〇〇ミリペットボトルのお茶で僕という労働力を駆り出そうと思ったのか。低賃金すぎないか。

「まあまあ、とりあえず今日だけでも手伝ってよ。私も少し前から探してて、左中ほどのところは捜索済みだから残りのところで手分けして探したいんだよね。あ、奥のところは昔の物しかないから探さなくて大丈夫だからね!」

「はあ、もうわかったよ」

 やっつけ気味に僕は了承した。どうせ今の僕には拒否権なんてない。今日だけ適当に探して、あとは知らぬ存ぜぬを決め込めばいい。

「じゃあ私は比較的きれいな左手前のところを探すから、ソウくんは右中ほどのところをお願いね!」

「それ、絶対なんかあるだろ」

「だってその辺り、怖いお面とかたくさんあるんだもん。あと虫が多い」

「最悪すぎる」

 ため息をつきつつも、僕は早く終わらせるべく鞄をわきに置くと、ほこりっぽい蔵の中へ足を踏み入れた。
 案の定、入り口付近に比べて奥のほうはよりほこりっぽさと湿気とかび臭さが充満していた。彼女が探したという左奥は確かに整頓されており、その努力の一端がうかがえた。もっとも、この努力のせいで僕に嫌な場所が回ってきたのには違いないが。

「どう~? 見つかった~?」

「いや、早すぎるだろ」

 まだ探し始めて五分どころか一分も経ってない。というか探し始めてすらない。
 せっかちなのはどっちだと、先ほどの彼女の言葉を思い出しながら僕は軽く辺りを見回した。
 入り口からではわからなかったが、確かに蔵の中には時代様々、ジャンル様々なものが陳列していた。ベビーベッドと思しき小さな柵のついた荷台やほこりの少ないダンボールが積まれたところもあれば、僕らの住む金沢らしい金箔を用いた蒔絵が施された漆器や額に入れられた加賀繡(かがぬい)、能登の輪島塗や九谷焼の茶碗なんかが棚に飾ってある。さすがにあのエリアには立ち入りたくない。
 彼女から手渡されたタオルを首にかけ、手始めに僕は足元にあったダンボールを開いていくことにした。蓋を開けば日に焼けた自由帳が出てきたので、パラパラとめくってみる。

「これは、漢字の練習ノートか。小学三年生」

「え、ちょっ」

「あ、絵描き帳も出てきたな。花の絵ばっかり描いてある」

「ちょいちょいちょい! 何勝手に見てんの!」

 小さな叫び声とともに後ろからノートをひったくられた。

「だって、こういうところにその宝物の地図が挟まってるかもしれないだろ。しっかり確認しないと」

「ないよっ! 地図は小さな銀色の缶箱に入れたんだから!」

「それを早く言わんかい」

 重要な情報を後出しされ、僕はやれやれとため息をついてみせた。まあ、ノートをめくったのは単なる嫌がらせの意味もあるが。
 ぶつくさと文句をこぼしつつ自分の持ち場へと戻っていく彼女を尻目に見送り、僕は改めて違うダンボールを手にとった。

「えーっと、缶箱、缶箱……」

 蔵の中は風が通らないため蒸し暑く、早くも嫌気がさしてきたところへ、それは目に飛び込んできた。

「……カメラ」

「え? なにか言った?」

「べつに、なにも」

 僕はそれ以上そのダンボールの中を探すことなく、先ほどの自由帳が入っていたダンボールの上に積んでおいた。
 油断、してたな。
 あの時誓った、自分の中の約束事。
 なるべく人との関わりは避けて、思い出は作らないと決めたはずなのに。
 さっさと終わらせて、金輪際彼女とも関わらないようにしよう。
 僕は次のダンボールをやや乱雑に空けながら、昔の誓い言を再び心に刻み込んだ。

 *

 僕は昔、カメラマンになりたかった。
 理由は至極単純で、綺麗な景色や笑い合う両親を撮るのが楽しかったからだ。

「ねーねー! 見て~!」

「おおっ、すごいな。綺麗に撮れてるじゃないか、湊也」

「ほんとねー。ねえ、湊也。今度は三人で撮ろっか」

 僕の両親は仲が良く、休日にはいつもいろんなところに連れて行ってくれた。動物園や水族館、遊園地といったテーマパークから、海や山や川、公園など自然の多いところまで、じつにたくさんの場所を三人で訪れ、はしゃぎ、心の底から笑い合っていた。
 そのたびに僕は両親から買い与えられた小さなデジカメを首から下げ、見上げるほどのキリンやゾウをフレームに収め、自由に泳ぎまわる回遊魚たちにデジカメを向け、ベンチに座って仲良さそうに談笑する両親の笑顔を写真として保存した。二人は僕が笑顔であちこちにデジカメを向ける様子を遠くから見守り、必ず僕が撮った写真を褒めてくれた。
 そして楽しい時間は、家に帰ってからも続いた。

「おーこの写真もいいなあ。なあ、湊也。どっちの写真を現像する?」

「えー決めれないよー。ねねっ、お母さんが決めて!」

「お母さんが決めていいの? じゃあ両方で」

「おいおいさっきからそればっかりじゃないか。アルバムに入り切らないよ」

 夕食後、僕たちはその日撮った写真をパソコンに入れ、三人で見返しながらアルバムに入れる写真を選ぶのがお約束となっていた。家電量販店に勤めていた父がイチオシするパソコンの画面を三人で眺め、父のお気に入りだったプリンターで印刷する。そしてデザイナーだった母と一緒に描いたイラストや模様で飾り付けたアルバムに写真を貼り付けていく。家族三人で思い出のアルバムを作り上げ、ふとした時に見返す時間が、なにより楽しかった。
 あの日も、そうだった。

「ねえ、お父さん! ここどこだっけ!」

「あー何年か前に行った山の上にある公園だな。いやー懐かしいなあ」

「ほんとね。ちょうどあのころからだったかな、湊也にデジカメをプレゼントしたの」

「え~あんま覚えてないんだけど」

「はっはっはっ、湊也はまだ小さかったからな。覚えてなくても無理はないさ」

「お父さんとお母さんだけ覚えててズルい! ねえ、今度の日曜日にでも行こう!」

 本当に何気なく、無邪気に、素直に、僕はおねだりをしていた。
 父も母もそんな僕に優しげな笑顔を向けてくれ、二つ返事で頷いてくれた。「そうと決まればデジカメの充電しないとな~!」と力拳を作って笑う父と、「そうね~私も張り切ってお弁当作らないと!」と鼻歌まじりに笑顔を浮かべる母の表情を覚えている。当時小学四年生だった僕は「よっしゃー!」と叫び、テンションがうなぎのぼりになっていた。
 本当に、いつもの夕食後の時間だった。
 そしてそれは、僕がカメラマンの夢を諦めるきっかけになった日の朝も同様だった。

「湊也、忘れ物ない? デジカメ持った?」

「うん、持った! ほら、早く行こ!」

「はははっ、わかったわかった。それじゃあ、行くか!」

 あの日は、よく晴れた日だった。前日まで降り続いていた雨は上がり、アブラゼミの鳴き声が姦しく響いていた。
 そんな夏空の下へ、父が運転する車に乗って僕たちは出かけた。
 いつものように僕は助手席後ろの後部座席に座り、窓の外から流れゆく景色を眺めてはカメラを向けていた。もちろんピントが合うはずもなく、満足のいく写真は撮れなかったのだけど、「いい景色でもあったのかー?」「シートベルトはしっかりしてね」と二人が笑いながら話しかけてくれるのが嬉しくて、飽きもせずにぼんやりと窓の外へ視線を留めていた。
 外の風を感じたくて少しばかり窓を開け、遠く見える山の稜線を見つめては今日はどんな写真を撮ろうかなと考えていた、そんな時だった。

「きゃああっ!」

 すぐ前から、悲鳴が聞こえた。僕は驚いて視線を前に向けると、大きく車体が左に揺れた。

「くっ、掴まれ!」

 焦ったような父の声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には甲高い衝突音と首がもげるかと思うほどの衝撃が全身を貫いた。

「うわあっ!」

「きゃあっ!」

 僕と母、二つの悲鳴が車内に響いた。衝撃が収まるまで助手席のシートにしがみつき、目を閉じること僅か数十秒。全身を震わせていた衝撃が止み、車は停止した。

「……ってて」

 僕はゆっくりと首を持ち上げ、両親がいるはずの前を見て、戦慄した。

「あ、あああ……」

 まず目についたのは、血まみれのつぶれたエアバック。
 その上には、同じ鮮血の色に頭を染めた、父の後ろ姿が横たわっていた。

「お、おとう、さん……?」

 手を伸ばし、その腕を強引にゆするもピクリとも動かない。僕は金具が歪んで外れないシートベルトの下から身体を滑らせて抜け出すと、激しく父の肩を揺さぶった。

「お父さんっ! 起きて! ねえ! お父さんっ!」

 なおも沈黙を貫く父に、僕はハッとしてすぐ隣を見た。

「お母さんっ! ねえ起きてよ……っ! おがあさんっっ!」

 同じようにエアバックの上で目を閉じ、横たえる母に僕はすがりついて名前を呼んだ。震える声で、乾いた喉を酷使しながら。それでも、父と同じく母も何も言わなかった。
 あれほどまで僕の心を温かくしてくれた声は、完全に聞こえなくなっていた。

「ねえっ! ねえってば! おぎでよっ! おどうさんっ、おがああさんっっ!」

 しゃくり上げ、大泣きしていた僕は、それから間もなくして到着した救急隊員によって救助された。ほぼ時を同じくして血まみれの父や母も救急車に乗せられ、市内にある中央病院へと搬送された。
 そこから先は、あっという間だった。
 事故の原因は相手側の前方不注意。
 父は全身を強く打ち、内臓破裂と出血多量で即死だった。
 母は一命こそとりとめたものの、靭帯断裂と神経損傷で満足に利き手を動かすことができなくなった。
 僕は、単なる軽度の打撲だけだった。
 呆然としているうちに父の葬儀は終わり、母は天職だと言っていたデザイナーの仕事を辞め、市内にある大手企業で正社員として働くこととなった。あれほどまでに笑い声に溢れていた日常は一瞬にして冷え切り、何かを忘れるように夜遅くまで働く母とはほとんど顔を合わさなくなった。
 ただひとつ、『夕ご飯です。温かくして食べてね』と添えられたメモの下に描かれた歪んだ落書きと、それに対する僕からの返信だけが、数少ない家族のコミュニケーションになっていた。
 犬の落書きには、『ご飯美味しかったよ』と。
 猫の落書きには、『またハンバーグが食べたいな』と。
 鳥の落書きには、『今度は僕がご飯を作るね』と。
 今までなら難なく口頭でしていたやりとりすらも、できなくなっていた。
 あれから、約七年。
 あの日以来、僕は一度も両親から買ってもらったデジカメを起動していない。
 そもそも、母が苦労して稼いだお金で買ってもらったスマホにも、写真は一枚も入っていない。
 カメラを向けようとすると、あの日のことがフラッシュバックしてくるようになった。
 あの日、あの事故は、僕の一言が原因で起こってしまった。
 もしあの時、僕が無邪気に「今度の日曜日にでも行こう!」なんて言わなければ、あんな前方不注意車とかち合うこともなかった。
 写真を撮ることに夢中にならなければ、アルバムを見返すこともなく、事故に遭うこともなかった。
 父が死ぬことも、母に後遺症が残ることもなかった。
 笑い声に溢れていた家庭を壊すきっかけを作ったのは、僕だ。
 そう思うと、僕は写真を撮ることが怖くなってしまった。
 楽しい思い出を作ることすらも怖くなって、自然、人と関わる機会は減っていった。
 所詮、誰かと楽しい思い出を作ったところで、いつかは悲しみに変わってしまう。
 そうなるくらいなら、はじめから楽しい思い出なんてなくていい。
 楽しい思い出に繋がる友達や恋人といった大切な人は作らず、ひとりで平凡な人生を送っていく。
 いや、平凡よりも少し下。常にマイナス二〇パーセントの人生といったところか。
 浮き沈みなんていらない。楽しくなければ、悲しくなることもきっとないから。
 そうして僕は、密かに心に誓った。
 人との関わりは最低限、敵も味方も作らず静かに生きていこうと。
 楽しくなるような、心が温かくなるような思い出は作らずに生きていこうと。
 そう、心に決めていた。


 そう心に決めていたのに、どうやら想定外の事態が起こった時は、人というやつは正常な判断ができなくなるらしい。
 突然下校中にすぐ真横の木の上から女の子が降ってきて、下着を見ただの責任をとれだの理由を付けられて押し切られたかと思えば、古びた土蔵で宝物の地図探しを手伝わされている。どこのラブコメだと思った。
 けれど、ここはラブコメの世界ではない。つまるところ、この手伝いが終われば僕と彼女の関係は赤の他人、あるいは隣のクラスにいる知り合いになる。それ以上でも、それ以下でもない。それでいいと思ってるし、そうでなければならない。僕はもう、そんな思い出に繋がりそうな人とは関わりたくないのだから。

「……にしても、ぜんぜん見つからないな」

 額から頬、そしてあごの先へと流れ落ちていく汗を拭いつつ、僕は今しがた確認し終えたダンボールを奥へ追いやった。これで一応、僕が担当していた右中ほどにある物置き場はひととおり見終えたことになる。
 結局、僕が確認した十数個にも及ぶダンボールや木箱にはそれらしい缶の箱は見当たらなかった。となると、残るは久空さんが確認している左手前の場所か、彼女も僕も確認していない右手前の場所、あるいは土壁を覆い尽くすようにして並ぶ棚のどこかにしまわれているとみて間違いない。
 手伝いはこんなところか。
 ポケットに入れていたスマホの画面を点けると、ちょうど時刻は午後四時を指していた。さすがにそろそろ帰らないと家事やら宿題やらに支障をきたしてしまう。
 これで彼女への義理……はないな。あらぬ責任は果たしたということで、僕を半ば脅して拉致してきた当人に声をかけるべく蔵の中を見渡したところで、違和感を覚えた。

「え……いない?」

 ついさっきまで少し離れた壁際であれこれ探していたようだった制服姿は、忽然となくなっていた。まさか、僕ひとりに捜索を押し付けて帰ったか、涼みに行ったのか?
 ありえない。
 僕の中でもともと低かった彼女への評価がさらに下がる。
 けれど、それはそれで僥倖(ぎょうこう)でもある。そんな薄情な人間であれば、必然的に相性は合わないし、楽しい思い出を作る相手になりえる可能性すらもないから。
 まあ逆に良かったかと変な安心感を覚えつつ、この隙に僕もお暇しようかと思った、その時だった。

「きゃあああ!」

 どこかで聞いたような悲鳴が、どこかで聞いたような角度から、降ってきた。

「うそだろっ!?」

 その可能性にはたと思い至り、僕がちょうど上を見上げたところで、けして小さくはない衝撃が僕の腹部を直撃した。

「ぐえっ」

「ふぎゃ」

 情けない声をあげて、僕らはほこり舞う地面へと倒れ伏した。濛々(もうもう)と薄茶色い粒子が大気を舞い、小窓と入り口から差し込む斜陽に照らされてキラキラと輝いた。
 本来なら突然降って湧いた出来事に混乱するところだが、図らずも僕は事態をすぐに飲み込むことができた。というのもつい最近、まさに数時間前に似たような現場に遭遇したばかりだから。

「……ったく。ねえ、大丈夫?」

 僕は内心で呆れかえりつつも、未だ僕の胸部から腹部にかけて乗っかっている事の元凶に向けて訊いた。すると、おもむろに久空さんは僕の上で起き上がり、殊勝にもペコリと頭を下げた。

「……はい、おかげさまでなんとか。ソウくんは怪我はない?」

「僕も大丈夫だけど。あのさ、一日に何度落下すれば気が済むんだよ。危ないだろうが」

「はい。返す言葉もございません」

 本当に、どこまでも素直に彼女は頭を下げてきた。さっきまでの勢いはどこへやら、急にしぼんだ彼女の態度にこそ僕はやや困惑した。僕の腹部の上でしょんぼりと首を垂れるその様子は、さながら飼い主に怒られて意気消沈した子犬のようで。その落胆ぶりに、もしかしてどこか怪我をしているのではと心配になる。

「どうしたんだ? やっぱりどこか怪我でもしたんじゃ……」

「いや、あのね。あれ見てよ」

 彼女が指差すほうへ視線を向けると、ちょうど二段目の棚のところに銀色の缶箱が半分ほど飛び出た状態で乗っかっていた。

「もしかして、あれが?」

「うん、たぶん。もうちょっとで取れそうだったのに、落っこちちゃって。悔しいな~って」

「なるほどね……ってか、いつまで乗ってる! 早く降りろ!」

 僕の心配をよそに、当の元凶はただ自分の力が及ばなかったことを嘆いているだけらしかった。しかも僕を下敷きにしたままで。なんだそれは。
 僕が叫ぶと、久空さんははじかれたように飛び退いた。さらにあろうことか、苦笑を浮かべつつもう一度頭を下げて、「あの缶箱を取ってはいただけませんでしょうか」と慇懃無礼に頼み込んできた。なんとも調子のいい。
 かといって、あれを取らなければいつまで経っても僕の身柄が解放されないので、取らないという選択肢はなかった。渋々立ち上がった僕は、彼女が乗っていた梯子に乗っていとも簡単に缶箱をとってみせた。

「わあ、ありがとう! さっすがソウくんっ!」

「いちいち調子がいいよね、久空さんは」

 どこまでが計算か。きっと教室でも僕と違ってみんなから好かれているのであろう笑顔を惜しみなく向けてくれた彼女に、僕は苦笑とともに棚から取った成果物を手渡した。

「きっとこれだと思うんだけど……」

 僕から缶箱を受け取った久空さんは、なぜか僕に見えないように背を向けると力を振り絞ってすっかり固くなった蓋を開けた。ガコンッ、と高い音が土蔵内に響き、銀色の表面が陽光を反射させる。

「あ、あった! これだよ、これっ!」

「そうか、見つかったんだ。良かったね」

 どうやらようやく僕もお役御免らしい。ふう、と小さくひと息をついた僕に、久空さんは振り返ってにやりと口の端を吊り上げた。

「見たい? 宝物の地図」

 イラっとした。
 と同時に納得もした。なるほど。これがしたかったから、開ける時に僕が見えないようにしたのか。
 もっとも、僕はそんな子どもじみたものに興味はなかったので、大仰にまたひとつため息をついてから素っ気なく答える。

「べつに」

「え~そんな強がらなくていいのに~。ほんとは見たいんでしょ?」

「いやまったく」

「強情だなあ。本音は?」

「早く帰りたい」

「なんでよ!」

 本日二回目となる押し問答が繰り広げられた。この様子を見るに、どうしても僕に宝物の地図とやらを見てほしいらしい。けれど、それを見てしまったが最後、またなにかとてつもなく面倒なことを言われる予感がしてならなかった。
 彼女の背後に見える蔵の入り口から、随分と傾いた太陽がこちらを眺めている。もう一時間かそこらで日没だろう。いい加減に帰らないと、本当にいろんなことに支障をきたしそうだ。
 ついには強引に見せようとしてくる彼女に向かって、僕は仕方なく口を開いた。

「ちなみになんだけどさ、まだなにか僕に手伝ってほしいことがあるんじゃないの?」

「ドキッ」

 わざとらしい効果音が彼女の口から漏れた。なんて白々しい。

「僕と一緒で久空さんもわかりやすいんだよ。おおかた、その地図の場所にある宝物とやらを一緒に探してほしいとかでしょ」

「ドキドキッ!」

 効果音に似合わず、彼女の瞳は爛々と輝き始めた。
 言うまでもなくそこにあるのは期待。胸の前で大事そうに抱かれた宝物の地図のしわも深くなっており、どうやら僕が想定していた一番嫌な予感は当たっているらしい。

「申し訳ないんだけど、僕が協力できるのはここまで。あとは友達とかと頑張ってよ」

「えーーーーーっ! なんでーーーーーーーっ!」

 今日一大きい叫び声が蔵の中にこだました。耳奥でキーンと耳鳴りが響き、思わず僕は顔をしかめる。

「うるさいよ。てか当然だろ」

「なんで! 一緒にほこりまみれの蔵から地図を探し出した仲じゃん!」

「君が半ば強引に連れてきて手伝わせただけだろ」

「うっ。そ、それはそうかもしれないけど……」

 宝石のように輝いていた瞳が一転、微かに潤み始めた。よろよろと僕のほうへ近づいてきたかと思うと、右の指先で小さく僕のカッターシャツの袖口を掴む。これも計算だろうか。

「そんなふうにせがんでも無理なものは無理だからな。さすがに付き合いきれない」

「ど、どうしても……?」

「どうしても。なにがなんでも無理だ」

 やや心は痛んだが、僕はピシャリと言い切った。比較的押しに弱く流されやすい僕でも、絶対に譲ってはならない線引きはわきまえているつもりだ。こういう時は曖昧にせず、しっかりと断らなければならない。そうでないと、きっと後戻りできなくなるから。
 すると彼女は物哀し気な表情から一転、不満全開といった様子で頬を膨らませた。

「けち! いいじゃん、最後の高二の夏休みなんだから! これまでにない楽しい思い出を作ったって!」

「最後の高二の夏休みだから有意義に過ごしたいんだよ」

 楽しい思い出、というフレーズにちくりと胸のあたりが痛む。いや、きっと気のせいだ。

「有意義ってなにするの? もしかして恋人とデートとか?」

「そうそうデート。だから久空さんとは宝探しデートできないんだ。ごめんね」

「うそくさい!」

 失礼極まりない言葉が飛んできた。ここに連れてきた時とは違って自分の要求が通らなくなってきたので遠慮もなくなってきたようだ。いや、最初から無遠慮だったか。
 けれど、ここまで食い下がられると僕の心の中にもひとつの疑問が出てくる。

「あのさ、なにも今日初めて話した僕じゃなくてもいいだろ。久空さんならきっと友達も多いだろうし、こういう宝探しみたいなの好きな人とかいるんじゃないか?」

 自分でいうのもなんだが、僕は比較的面白くない部類の人間だと思う。申し訳程度にくだらない話をしたり、必要最低限のコミュニケーションくらいはしたりするけれど、久空さんのように底抜けに明るくもなければ感情表現が得意なわけでもない。リアクションは微妙だし、楽しい思い出を作りたくないという信条もあって今みたいに付き合いも悪い。まあ、今日初めて話した人から幼いころに隠した宝物探しを手伝ってと言われても付き合う人は少ないだろうけど。
 けれど、そんな自己評価を下している僕にとって、ここまで粘られるのはいささか不可解だった。
 そんな僕の心境を知ってか知らずか、僕の問いかけに彼女は不思議そうに首を傾げる。

「え? そんなの決まってるでしょ。私が、ソウくんのことを気に入ってるからだよ」

「は? 気に入ってる?」

 聞き間違いかと思った。ほとんど反射的にオウム返しするも、彼女は聞き間違いじゃないことを強調するかのごとく大きく頷く。

「うん、そう。今日一日、というか半日一緒にいて思ったんだ。ソウくんと、もっと話してみたいなって。あ、好きとかそういうんじゃないからね。勘違いしないでよね」

「しないよ。するわけないだろ、バカ」

「あー! バカって言った! すっごく傷ついたから探すの手伝ってよね!」

「いや、無理やりすぎるだろ」

 安直すぎる責任のなすりつけにツッコミを入れつつ、僕は内心で驚いていた。ほんの少し話した程度で普通そこまで思えるだろうか。彼女は天然の人たらしなんだろうか。

「まあそれに、こんな子どもじみたことに付き合ってくれそうな友達は思い浮かばないんだよね、正直。みんなやっぱり夏休みはプールとかバーベキューとかアミューズメントパークとかで遊びたいみたいだし」

 次いで、至極真っ当な理由が彼女の口から飛び出してきた。僕はやはり苦笑する。

「なるほどね。でもそうなら、その理由は僕にだって言えることだと思うけど」

「んーん、それは違うかなー。だって、なんだかんだ言ってソウくんはこの宝物の地図探しは手伝ってくれたじゃん。そういうこと、ほんとは好きなんじゃないの?」

 ――やっぱり、宝物を隠すってワクワクするよな~!

 ふいに、いつかの思い出が脳裏をよぎった。僕は慌てて思考を掻き消す。

「まさか。さっきも言ったけど、ここに来たのは成り行きだよ。久空さんの友達と同じで、僕も高二の夏休みは他のことに時間を使いたい」

「もう~強情だなあ」

「どっちが」

 そこへ、午後五時を知らせるメロディが防災無線から流れ始めた。まだ夏真っ盛りということもあって空の色は明るいが、既に夕方という時間帯に入っていることには変わりはない。

「ありゃ、もうこんな時間か。今日のところは引き下がるけど、またお願いしに行くからね! あ、連絡先も交換しとく? 気が変わったら連絡してよ」

「変わらないから遠慮しとく。お願いも迷惑だし来ないで」

「あははははっ!」

 僕の容赦ない拒絶もどこ吹く風。久空さんは華麗な足取りで僕から距離をとると、無邪気な笑顔を向けてきた。
 誰からも好かれそうな、人懐っこい笑顔だった。
 そこで初めて、つい今の今までカッターシャツの袖口を掴まれていたことに僕は気がついた。