あの夜を越えて、何かが大きく変わったかと言えばそうでもない。相変わらず会うのは保健室。
昼休み開始のチャイムと同時に教室を飛び出し、外庭へ向かう。すっかり冬の気温で、ブレザーを忘れた体に寒さが堪えた。
細く開けた保健室の窓から神崎が顔を覗かせる。息を弾ませている颯真の姿を見るなり、整った顔が歪んだ。
「馬鹿だろ、受験生が風邪ひくつもりかよ」
「慌てて出たら忘れちゃった」
呆れたようなため息が聞こえる。神崎の姿が見えなくなり、颯真がいつものように壁を背もたれにして座ろうとしたところで、窓から上着が差し出された。
「着てろ」
「えっ、でも」
「いいから着てろ!」
ぴしゃりと言うと、今度こそベッドに行ってしまう。優しいなあ、と聞こえないように呟きながら神崎のブレザーに腕を通す。おっきくて、あったかい。心までほこほこしてしまって、いつもより弁当がおいしく感じられた。
神崎は週に一度ほど、颯真の部屋を訪れる。以前より頻度が少なくなったのは受験が近いせいだ。神崎が部屋にいたって邪魔になんてならないが、そこは神崎が折れなかった。仕方がない。
二学期の期末テストも無事終わり、冬休みが間近に迫ったある日のこと。
「え、旅行?」
「旅行って言うか、赴任先のお父さんのところに行こうと思って」
ウキウキと母が言う。しょっちゅう電話をしている、仲睦まじい夫婦だ。
「僕は?」
「あんたは受験生でしょ。勉強してなさい」
「はあい」
三泊四日、忙しい母にしてみれば長期休暇だ。その替わり、正月からバリバリ働くらしい。ひとりの時間が長い颯真にとっては母親が数日外泊しようが、特に困ることもないのだけれど。
「……ねえ母さん、相談していい?」
そして、色んな意味で待ちに待った冬休み。
塾が終わり、そしてバイトが終わった晩、神崎と外で待ち合わせをして、ふたりで颯真の家に帰った。神崎は黒いリュックを背負っていて、そこには着替えや勉強道具が入っている。
「そんな緊張しないでよ。来慣れてるだろ」
「それとこれとは違うって言うか……」
早く上がってよ、とリュックをひったくる。妙に浮かれている自覚があった。
不在のあいだ神崎を泊まらせていいかと問うと、少し考えた母は「いいよ」と答えた。自分のやるべきことはちゃんとやること。母の提示した条件に、もちろん、と颯真は頷いた。
「いまさらだけど、神崎のお母さん、ひとりにして平気だった?」
「ああ、病院もあるし、武兄《たけにい》……野宮センセも様子を見に来てくれるから」
「先生も知ってるの_!?_ まあ……仕方ないけどさ」
新学期からのホームルームが気まずいじゃないか。もしかして、終業式に「気を抜くなよ」と声を掛けられたのはこのことだったのか。あのときは受験に向けて頑張れよ、という意味だと捉えたが、神崎との関係に浮かれすぎるなよと忠告したというのが正解なのかもしれない。
「颯真の邪魔だけはすんなって口酸っぱく言われた」
「邪魔したことなんてないのにね……今日はまかない食べてないんでしょ、お腹すいたよね。ご飯にしようか」
「お、おう」
夕食は表示通りに茹でてレトルトのソースをかけるだけのパスタだ。それでも神崎はうまいと言って、それから黙ってしまった。気まずいというか、自分の家なのに妙に落ち着かない。互いに風呂に入って颯真の部屋に引き上げれば、部屋の隅には神崎用の布団が畳まれており、心臓がおかしな音を立てて鳴った。
神崎も一瞬布団に視線をやったものの、ふうと息を吐くと自分のリュックから勉強道具を取り出した。
「この机、借りていいか?」
「え、うん、もちろん」
「勉強すんだろ」
小さなちゃぶ台は颯真が小さい頃にお絵描き用に使っていたもの。神崎はそこにノートを、床にテキストを広げた。
「狭くない?」
「へーき。家では全部床でやるから」
「そっか。あ、参考書が必要なんだったら――」
「颯真、俺に構わなくていいから自分の勉強しろよ」
「はい……」
邪魔になっていたのは颯真の方だったのかもしれない。たしなめられた颯真は気合を入れ直して参考書を開く。シャーペンの芯を出して深く息を吸うと、ようやく頭がすっきりしていった。
ノートから視線を上げて背伸びをすると、背中がミシミシと軋んだ音を立てて鳴った。飲み物を取りに行くついでに神崎に近寄る。猫背になって小さなちゃぶ台に向かっている姿がなんだか愛おしい。
神崎もすごく集中しているようで、颯真がノートを覗き込んでいることに気が付いていなかった。
「そこ、計算が間違ってる」
「うわッ! なんだ、驚かすなよ。……どこ?」
「ここ」
「マジか。じゃあ」
解き直した神崎が「どうだ」と顔を上げる。その表情が褒めてと言わんばかりだったから、優太朗にするみたいに「正解」と頭を撫でてやろうとして――ハッとした。
「ごめん、嫌だった、よね……?」
「お前に触られるのは平気だって言ってんだろ」
颯真の手を掴んだまま、神崎が「だから」と言う。
「だから……?」
どうしよう、神崎から視線が外せない。整った顔が近づいてくる。吐息を感じ、神崎が目を閉じたから、颯真も同じようにした。
それはほんの一瞬。
柔らかいものに触れた、と思っただけで、それがキスだと実感したのは、わずかに頬を赤く染めた神崎と視線が合ったからだった。
「あ、の……僕っ」
「嫌だった?」
火照ってしまった顔を横に振る。一晩だけでも神崎がゆっくり寝られたらいいなと思って招待したものの、下心というか、触れあうことができたらなという気持ちが無かったかと言えば、嘘になる。
ファーストキスは、あまりに一瞬で、しかも緊張しすぎてよく分からなかった。
「もう一回していい?」
「……うん」
今度はちゅっと音を立てて唇が重なった。本当にちゅって音がするんだな、と変なところに感動する。
顎の下に指が添えられ、再び唇が重なる。唇の表面だけで何度も触れたかと思えば、今度は唇を潰すように押し付けられる。唇を受け止めながら、ぎゅっと神崎の寝間着を握り締めた。
柔らかくて、温かい。唇だけでなく、髪を撫でてくれる手や顎に添えられた指から、神崎の体温を感じる。気持ちい、もっと。頭がぼうっとし始めたとき、唇が離れていった。
「お前、顔まっか」
「ふぇ……?」
「息、してなかっただろ」
「ん……」
ふわふわしている体を持ち上げられ、向かい合う形で神崎の太腿に下ろされる。腰を支えながら、神崎が「ちょっとだけ触っていい?」と耳元で訊ねた。
「ちょっとって……」
「ちょっとだけ。でもお前が嫌なことは絶対しないって約束する。だから嫌だったら正直にそう言ってほしい」
寝間着の下から神崎の手が滑り込んでくる。お腹をじかに撫でられて、ぐっと体に力が入った。窺うように、神崎が見つめてくる。お腹に当てられた手は熱く、湿っていた。緊張しているのだろうか。神崎も。
手は戸惑いがちに体をゆっくりと上っていく。勝手に体がピクピクと震えた。出そうになる声を必死に飲み込んでいると、神崎がたしなめるように「颯真」と呼ぶ。
「声、出していいから」
「っでも、へんな声になる……」
「いい。お前の声、聞きたい」
そう言った神崎は唇で颯真の口を塞いだ。ちゅ、ちゅっと軽い音を立ててキスを繰り返しながら、颯真の腰を撫でる。ぞくっとした瞬間、唇が離れていった。
「あっ!」
「いいな、もっと聞かせろよ」
一度声が出てしまうと、抑えることは難しい。「あっ、あっ」と触れられるたびに声が漏れてしまう。自分の声じゃないみたい。下半身が熱を持ち、形を変えていくのが分かる。
「だめだ、神崎っ、かん……」
「ンー?」
「っあ、だめっ、てば……や……碧《あお》っ」
「どうした?」
「あの、ごめん」
「……嫌だった?」
心配そうなまなざしで見つめられる。
「違う……嫌じゃないんだけど、その」
「たつから駄目?」
「……気付いてんじゃん」
「いいよ。反応ねえ方が寂しい。な、脱がしていい?」
「や……」
さすがにそれは恥ずかしすぎる。自分の体にコンプレックスがあるわけではないが、他人に体を見られることに慣れていないのだ。修学旅行でも大浴場の隅で、さっと体を洗ったほど。
「じゃあ下着ずらすだけ。パンツ汚れるの、嫌だろ?」
汚れるって。口ごもった颯真をチャンスとばかり、神崎が寝間着のズボンに手を掛けた。「う、わっ」膝のあたりまでずらされ、緩く立ち上がったペニスが晒される。
「颯真」
至近距離、熱っぽい声で呼ばれ、顔を上げれば唇が重ねられる。指が颯真のぷっつりとした乳首に触れ、「ああっ」と声が出た。
「ん、あっ、あっ」
「きもちい?」
「そんなの、わかんないっ」
「でも硬くなってる……ほら」
笑いながら小さな粒を弾く。さっきまでとは違う、ピリピリと電気が走るような感覚は、知らない。声を上げるたびに神崎はそこをひっかき、押し潰す。見たくはないが、ペニスが完全に硬くなり上を向いて、先端からあふれた液体がとろりと砲身を伝うのが分かった。
「はぁ……やばい、颯真、かわいい」
「もう、やぁっ……あお、碧っ」
「すっげえどろどろ……ちょっと扱いたら出そう」
「まっていま触っちゃ、あ……ッ!」
ペニスが神崎の手に包まれた瞬間、びゅるっと精液が飛び出てしまった。腰が勝手に飛び跳ねて、神崎の手に擦りつけるように残滓を吐き出す。
「ほんとに出たな。おい、逃げんなって」
「だってこんなの、きたない……ッ」
逃げる腰を神崎が掴み直す。力が入らない体で逃げられるはずもなく、あっという間に元の体勢へ。
「汚くねえよ。気持ちよかった?」
「知らないっ」
「颯真」
「……うん」
いい子、と神崎が頭を撫でる。そのままくったりと神崎に体を預けていたが、体が落ち着いてくると神崎が*まだ*だったと気が付いた。
「あの……僕、も……」
「颯真?」
「僕も碧の、やる……」
寝間着越しに恐る恐る触れた神崎の中心は、芯が通り始めていた。
「俺のはいいから」
「僕だけ、なんて不公平だし……」
「いいんだよ、俺はっ……颯、」
むん、と尖らせた唇を神崎の口に押し付け、彼がやったみたいに寝間着からペニスを取り出す。初めて触れた他人のもの――不思議と嫌悪感はなく、まだ柔らかいそれをごしゅごしゅと扱いた。
「う……ン……ッ」
つう、と首筋を撫でられ、甘えたような声が自分の口から漏れる。再び兆し始めたペニスが神崎のものとそれを扱く自分の手に触れ、背中を震わせた。
神崎がからかうように「自分の手に擦りつけてるみてえ」と笑う。ほんとだ、これじゃあ――……。
気を取り直して神崎のものを扱いたが、一向に硬くなる気配はない。神崎は唇の先端だけで口づけると、動き続ける颯真の手をそっと止めさせた。
「ごめん、僕が下手だから……」
「違うんだ颯真、俺、たぶん駄目なんだ」
え、と向かいの神崎を見上げる。神崎は申し訳なさそうな、それでいて今にも泣きだしそうな顔をしていて――体の熱が一気に引く。あは、と乾いた笑いがこぼれた。
「はは……ごめん、やっぱり僕なんかじゃ駄目だよね。こんな頼りない体でもやっぱり男だし」
「違うんだ颯真! お前のせいじゃねえ!」
「気、遣わなくて大丈夫だよ……最初から、わかってたことだから」
「そうじゃねえ、聞いてくれ颯真っ」
「ちょっと飲み物淹れてくるね」
颯真、と大きな声で呼ぶ神崎を部屋に残し、ティッシュを回収して一階へと逃げる。
精液を拭ったティッシュをトイレで流しながら、大きくため息をついた。どうしてこう、うまくいかないんだろう。やっと神崎と恋人らしく過ごせると思ったのに。
「はあ……」
性別の壁だけは颯真だってどうすることもできなかった。恐怖心はあっても、性的なことは女性がいいのだろうか。それともやっぱり、自分だから駄目だったのだろうか。
シャワーを浴びようか考え、これ以上神崎を待たせるのも悪い気がして、キッチンに向かった。小さな鍋に牛乳と蜂蜜を入れ、ふつふつと小さな泡が浮いてくるのを見つめる。
「颯真!」
ふたり分のマグカップを持って部屋に戻ると、珍しく慌てた様子の神崎に手首を掴まれた。マグカップのふちギリギリまで、ホットミルクの白い波が立つ。
「碧……危ないよ」
「悪い、お前を傷つけた……!」
「ううん、気にしてない」
「違うんだ颯真、ほんとにお前は悪くないんだ」
「僕は大丈夫だから、ね?」
「聞けって!
懇願と苛立ちが混ざったような大きな声に、颯真はビクンと体を強張らせる。ハッとした神崎が戒めるように自分の額を拳で殴り、クソッと吐き棄てた。
震える手からマグカップをそっと取り上げ、颯真の視線に合わせて膝を曲げる。
「頼むから俺の話を聞いてくれ。ちゃんと……話す、から」
「は、なし……」
「そう。温かいもの用意してくれたんだよな、さんきゅ。それ飲みながら、聞いてくれる?」
促されてベッドに腰を下ろすと、神崎がマグカップを握らせてくれた。柔らかく揺れる湯気をふーっと息で散らして飲めば、牛乳と隠し味の蜂蜜の甘みがふわりと広がる。隣に座る神崎とは拳ひとつ分ほど開いていて、それがなんだか今の自分たちの距離のように思えてしまう。近いけれど、くっつかない距離。
「俺な、勃たねえの。相手が誰かとかじゃねえ、誰にでも反応しねえんだ。もちろん自分の手も」
「え?」
「まどろっこしい言い方なんてしないで、最初からこう言えばよかったな。お前には全部見せるって決めたのに、まだカッコつけたかったんだろうな……」
「……本当?」
「お前には本当のことしか言わねえよ。マジで、さっき颯真がしてくれたときのまんま。この歳でEDだぜ、笑える」
性的興味が薄い颯真ですら月に一、二度は処理をする。体は辛くならないのだろうか。でも勃起を抑えるための処理なのだから、そもそも勃たなければ……?
「何でも聞いていいぜ? そういう顔、してる」
「っゴメン!」
神崎が颯真の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。颯真の罪悪感を払拭させるためにおどけて見せたのだ。
「いいよ、もうこれ以上ダセエことなんてねえし」
「……いつ、から?」
「最初の数回は出せてたから、それ以降だな。ナニをどうやってセックスすんのか具体的に知って、そっから勃たなくなった。ウチの環境が特殊っていうのもあるけど」
自分の母親がその……何をしているか理解してしまったのだろう。
「それって、心因性のものじゃないの?」
「どうだろうな。医者に診てもらったこともねえから分かんねえ。不便はなかったんだ。セックスしたいって思ったこともなかったし」
……今までは。
神崎は視線を落とし、寂しそうに笑った。彼の言わんとすることが分かって、颯真はカアッと顔を赤くする。
「初めて、したいって思えた。できるかもって思ったけど、そんなに甘くなかったな……お前に嫌な思いをさせた。悪かったな」
「謝らないで! 碧のせいじゃないっ」
「別れるか?」
「え……なん、で……」
「セックスできねえんだぜ。今はよくても、そのうち不満に思うときが来る。お前は可愛いから女でも男でもすぐ相手が見つかるよ」
「あお、は……別れたい……?」
神崎は小さく頷いた。そのときに左の目が細くなったのを颯真は見逃さなかった。「嘘だ」颯真はマグカップをちゃぶ台に置いて神崎の正面へ移動する。
「本当のことしか言わないって言ったのに、嘘ついた」
「松永?」
「それは碧の本心じゃない。本当はこんなことで別れたくないんでしょ。僕だって嫌だよ。勝手に僕の未来を想像しないで……そうやってまた独りになろうとするんだ。嫌だよ、行かないでよ」
「……でも俺は」
「行くなって言ってんだろ!」
張り上げた大きな声に、神崎が目を見開く。ケホ、と乾いた咳をひとつして、神崎の手を強く握った。セックスが、と自分の口から出てきたことにちょっと驚く。
「……できなくたって、いいんだ。そばにいたい」
「そう思うのは今だけだ。お前だって性欲くらいあるだろ。すぐに物足りなくなる。他の相手探せよ」
「キスもセッ……それ以上のことも、碧じゃないと駄目なんだ! 僕、は……碧以外の人に触られるなんて耐えられないよ。碧は?」
「俺は……」
「僕たちはきっと、お互いをすごく嫌いにならないと離れられないんだ。――だから、とことんまで一緒にいよう? 空気が嫌いになるまで、顔も見たくなくなるまで」
「まつ……」
「ンー?」
口調を真似ると、神崎が顔をくしゃっと歪めて笑った。
「颯真」
「うん」
「颯真」
「うん」
「いいのか? 本当に……俺、で」
「碧がいいって言ってる」
震えながら伸ばした手が神崎に届き、彼の小さな頭を自分の胸に押し付ける。
「一緒に、いよう?」
「……ん」
そっちに行っていいかと問われ、うん、と頷いてベッドの端に寄る。空けたスペースに神崎が入ってきて、向かいあってちゅっとキスをする。
「知らない布団は落ち着かない?」
「いや、そういうわけじゃねえけど」
「眠れない?」
時間は夜中の一時。学校がある日ならとっくに寝ている時間帯。
「まあな。この時間は、特に」
その言葉が何を指すのかあまり想像したくなかったけれど、「そっか」と分かったふりをする。
神崎の腕が首の下に差し込まれ、抱き寄せられた。
「腕枕? なんだか慣れてる」
「慣れてねえよ。カッコつけてるだけ。なあ、お前が嫌じゃなかったら、また触っていい?」
「触るって……」
「最後まではできねえけどな。キスで顔真っ赤にしてんのも、体触られてピクピクしてんのも、めっちゃかわいかった」
「へんな声、出てたでしょ」
「まさか。なんて言うか……ここら辺に刺さった」
トントン、と寝間着越しに颯真の尾てい骨の上あたりを小突く。振動が体に響いて、颯真は足の指をきゅっと丸くした。
「颯真の受験が終わったら、していい?」
「いいけど……たまに、だったらそこまで待たなくても」
「ばーか、受験が優先だろ」
「前から思ってたんだけど……碧って真面目だよね」
しみじみ言うと、神崎はピンと颯真の額を指で弾いた。言葉や態度が荒っぽいのは根の真面目さを隠すためなのかもしれない。
「卒業したら家を出ることにした」
神崎が、呟くように言う。
「え?」
「父親がいなくなって……母親がおかしくなって、アイツの替わりに俺がそばにいてやんなきゃって思ってたんだけど、それが間違いだったんだ。俺がいると母さんは幸せだった頃のことを思い出してしまう、俺にアイツの面影を重ねてしまう……良くなるどころか、ふたりで蟻地獄にはまっていくようなモンだった。でもそれじゃあ駄目だって、やっと気付いたんだ。母さんに今必要なのは俺じゃない、病院での治療だって」
髪を撫でる神崎の手を取り、そっと握る。その手は颯真が包んでも小さく震えていた。神崎の大きな決断――状況が変わる恐ろしさや心細さは颯真も嫌というほど知っている。だからぎゅっぎゅっと、その手を握った。
だいじょうぶ、ひとりじゃないよ。
僕もいるよ。
「母さんも入院することになった。武兄が母親の母親……ばあちゃんを説得したんだ。金も、ほとんど出してもらえるらしい。今まで辛い思いをさせて悪かったって、武兄伝いに聞かされて……」
「でも、赦せない……?」
「まだそこまで理解が追いついてねえんだ。今わりと頭ン中、ぐちゃぐちゃ」
「ん……焦らなくてもいいんじゃないかな。まずはひとつずつ――新生活に慣れるところからクリアしていこう?」
「お前だってすぐにテンパるくせに」
ふっと笑った神崎が繋いだ手に力を込めた。
「うん。だから僕がぐちゃぐちゃになったときは碧が引っ張ってね」
「約束する」
「……引っ越したら遠くなっちゃう?」
「ばァか、俺の就職先、忘れたのか? 今と同じバイト先――ほとんど変わらねえよ。まだ住むところとか全然決めてねえんだけどな」
「そっか」
「だから……だから引っ越したら、いつでも来いよ」
ばっと顔を上げようとしたら、布団の中に押し込まれた。けれども近くにある神崎の体からドクドクと速い心臓の音が聞こえてきて、照れてるんだと分かる。ぷはあ、と水面から顔を出すように飛び出せば、神崎はそっぽを向いていた。けれど耳は真っ赤で――愛しさが込み上げる。
「うん、行くよ、いっぱい行く!」
ちゅ、と触れるだけのキスを何度も交わし、神崎の胸に額を当てる。髪をそっと撫でられるのが気持ちいい。ほとんど落ちかけた意識の中で、優しい「おやすみ」が聞こえた。
首の下にあった腕はいつの間にか無くなっていて、けれど向き合う体勢で眠っていたことにくすぐったさを覚える。時計を見れば六時半で、日曜なのだからもう少し眠っていてもいいのだけれど、颯真はそっとベッドから抜け出した。
朝の支度を済ませコーヒーを淹れて部屋に戻ると、神崎はまだ眠っていた。
「よく寝てる」
静かに笑い、机に向かう。エアコンの切れた冬の朝――頭が覚める寒さは嫌いじゃない。音を立てないように問題集を開く。
神崎が目を覚ましたのは颯真が起きてから二時間後のことだった。
「おはよう」
しゃがんで顔を覗き込めば、神崎は重そうな瞼を何度か持ち上げ「……ぁよ」と言った。低く掠れた声にドキドキしてしまう。寝起きなんてこれまでにもたくさん見てきているはずなのに。
「寝れた?」
「ん……なんか、久々に寝た気がする……」
「よかった。支度ができたらリビングにおいで。朝ご飯食べよ」
大きく開いた神崎の目から涙が落ちた。本人にも自覚はなかったようで、慌てて目元に触れる。
「碧?」
「あれ、なんでだろ……わかんね……」
どれだけ拭っても止まらない涙。必死に拭おうとする姿に胸がぎゅうっと締めつけられ、神崎の体を包み込む。
「悪ィ……ダセェ……」
「ううん」
腕の中で震える大きくて小さい体。胸に押し付けた頭を撫でながら颯真は囁いた。
「おはよう」