30.天使くん、バイバイ!
個室の扉が、ガラガラ! と派手な音を立てながら開いた。
「天乃さん!?」
大声を出しながら駆け込んでくる看護師の声で、僕はハッと我に返った。
ピコーンピコーンとけたたましく鳴るアラームを止める前に、看護師がトワの体を確かめ、
「はあ。プローブが外れていただけですね。良かった」
とすぐに僕を振り返って笑顔を見せる。
「え?」
「これでよし、と。寝返り打って取れちゃったかな。びっくりしたでしょう?」
「え、ええ。ナースコールがどこか、分からなくて……」
「ああ! あら? それも落ちちゃってましたね。ここに括りつけよっか」
看護師さんが、鮮やかな手つきでベッドのヘッド部分の金具にコードをぐるぐる巻くと、「んじゃまた何かあったらこれ、押してね」と笑顔で退室していった。
「え? 発作じゃ、ない?」
僕はそろりと、モニター画面を振り返る。何事もなかったかのようにピッ、ピッ、と穏やかな波形が画面を通り過ぎていく。
「……ユキ」
トワが、しっかりと目を開けて僕を見つめている。頬は紅潮し、血の気が戻っているように見えた。
「……なんということを……ありがとう、ありがとう」
その両頬には、透明な泉が溢れたかのような、綺麗な水の道筋ができている。
「ううん。僕は、願っただけ。叶えたのは……あれ?」
僕の頭の中を黒い靄が覆う。
近くで鳥が羽ばたいた時の風が、記憶の一部を巻き取って行くと同時に靄も晴れていく――変な感覚に、思わず頭をブルブル振る。
僕はパチパチと瞬きをしてから、トワの顔をまじまじと見た。
いつもと変わらない、大きな潤んだ瞳と、柔らかそうな髪の毛に、華奢な首。確かにトワなのに、なんだか違和感があるのはなぜだろうか。
いや気のせいに違いない、ともう一度頭を振ってから、僕は明るく声を掛ける。
「ねえトワ、いつ退院できるの?」
「! あーと……そうだな……医者に聞いておく」
「分かったら、すぐメールしてよね」
「ああ」
トワが目の前で静かに微笑んでいる。どこか寂し気だったのが、なぜだったのかは未だに分からない――
†
「ほう、ついにか」
「ついに! っくー!」
僕が握りしめているのは、『大吉』と書かれたおみくじだ。
毎年引き続けて、五十回目。つまり、五十年かけてようやく、引くことができた。
「姫川神社の宮司が、大凶を引き続けるという伝説は、今年でついに終わったか」
「終わったね! 外出許可の後押しをありがとう、天乃先生。っはー、これでもう、思い残すことはないなあ」
「おい、もう先生じゃないし、まだ早いぞ」
「ふふ。お互い定年して、だもんね。年取ったもんだよねえ」
「まったくだ」
市立病院の個室のベッドの上で、僕はボスンと枕に頭を投げ落とすようにして横になる。
自宅とは違う天井もすっかり見慣れたし、やせ細った腕に差し込まれた点滴を煩わしいと思う感覚すら、なくなった。
「……ねえトワ。何か僕に隠してること、あるんでしょ」
「うっ」
「医者のくせに、隠し事が下手だよね~。五十年も見て見ぬ振りし続けた僕、偉くない? そろそろ教えてくれてもいいよね」
「……まいったな」
トワはすっかり白くなった髪をくしゃりとかくと、僕に優しい笑顔を向ける。
わざわざひとりで僕の病室を訪れた彼に、せめてもの呼び水だ。こういうところが不器用なのは、昔から全然変わらないなと僕の頬はゆるむ。
「ユキ。『天使』のことを、話させて欲しい」
「え?」
「ユキともう一人の親友が、僕の命を救ってくれた。これは決して、僕の妄想でも作り話でもないぞ」
トワがいたずらっぽい顔をしてから、カバンから真っ白な鳥の羽根のようなものを一本取り出して、僕の目の前に掲げるようにして見せる。キラキラとした光を放っているようなそれに、僕の目はたちまち奪われた。
「それって、どういう……」
†
シャ! と無遠慮にカーテンを開けて顔をのぞかせたのは、薄茶色の髪の毛の青年医師だ。
「あ、また来てたの? 親父」
さわやかな笑顔で気軽に声を掛ける彼に、トワがじっとりとした目線を返す。
「お前に、大事な親友を任せておれんからな」
「うわ~。俺、これでもここの、未来の外科部長候補様だよ?」
「ふん。なってから言え」
拗ねる老人なんて可愛くないはずなのに、トワはなぜか可愛いと思える。人徳だなあ、と僕は眉尻を下げた。
「はは。僕は信頼しておりますよ、天乃先生」
「光栄です、ユキさん。奥様みえてますよ。あと、母さんもね。じゃ、また後で回診来ますね~」
ひらひらと手を振ってから立ち去った天乃先生の言葉で、トワが苦い顔をした。
「げ」
「あ。トワ、またリンさんに無断で来たの? 怒られるよ?」
「いやだってだな」
もごもご口を動かすトワを眺めていたら、やがて鬼の形相の女性が姿を現し、腕を組みながら放った。
「ほんと勝手なんだから」
「げげげ。リンカ」
「どうせ来るんだから。一緒に来たらいいでしょうに!」
「いやーそのーほらー」
数多の難しい手術をこなした、敏腕の天乃透羽医師とは思えない、歯切れの悪さだ。
医大卒業後、市立病院勤務を経て経験と人脈を元手に、トワは天乃医院を設立し、地域医療へ多大なる貢献をした。
儚い見た目と潤んだ瞳で、数々の看護師や患者のハートを奪った彼は、高校の同級生で看護師の女性と結婚をしたことで、数多の涙を流させたことでも有名である。
「ちょっとユッキー、何か言ってやってよ!」
高校の廊下で、ギャルは苦手だとぼやいていたトワを思い出して、僕はおかしくなった。
「あはは、ごめんごめん。男同士の話もあるんだって」
「何話したの!?」
「冥土の土産話だよ~」
「っんもう! そういわれたら何も言えないじゃない!」
白崎さんの隣で、呆れた顔をするのが僕の妻――
「リンちゃん。これがこの人のずるいところ。あきらめましょう」
「あーちゃん! くやしー!」
姫川さんだ。
彼女は美大卒業後、デザイン事務所へ就職して、本の装丁を作る仕事に従事。有名な小説や童話の表紙が彼女のデザインと思うと、鼻が高い。
退職後は、市内の高校の臨時美術教師として、進路相談にも応じている。ちなみに僕たちの娘は、姫川さんの若い頃と瓜二つ。負けん気が強くて、ファッションデザイナーを目指して上京したものの挫折して、都内で会社員をやっている。デザインができないなら、編集だ! と社畜な勢いで働き、営業の男性と社内結婚して、孫もふたりできた。姫川神社は権宮司として奉仕していた姫川さんの従甥に譲ることにして、僕は幸せなことに、普通の『じいじ』を満喫している。
「ごめんごめん」
すると、微笑む僕の目の前に、キラキラと輝く白い羽根がひとつ、ゆっくりと降って来た。
先ほどトワが見せてくれたものと全く同じものだと気づいた僕は、それから目が離せない。
「あ……」
思わず呟いた僕を、みんなが覗きこむ。
輝く白い羽根は、みんなには見えていないみたいだ。
「ユキ?」
「どしたの?」
「ユキくん?」
落ちてきた羽根を手のひらで受け取ると同時に、僕はあの日の約束を鮮明に思い出した。
「ああ……! そうか……」
(約束、守ってくれたんだ。迎えに来てくれたんだね)
「嬉しい。僕は、幸せ者だ」
安心した僕は、ゆっくりと目を閉じる。
「ユキ!」
「ユッキー!?」
「ユキくんっ!!」
(ねえ。毎日祈り続けられたのは、君のお陰だよ)
『いいや。ユキナリの努力だろう。お陰で、元の役目に戻れたぞ。さあ、行こうか』
相変わらず怖い顔の天使が、空で微笑んで、手を差し伸べている。
「ありがと」
僕はそのひんやりとした力強い手を、迷わず掴む。
と、前にもこの手に触れたことを思い出した。
(ああ、そっか。同じようなことがあったね。すっかり忘れていたな)
『うむ。たくさん思い出話をしよう』
(うん。アンジのロボットダンス、面白かったなあ)
『……それを言うなって』
(あはは!)
大きな白い翼に包まれながら、僕は笑顔で光り輝く道へ一歩踏み出す。
少しだけ立ち止まって、後ろを振り返って、大きく手を振った。
「バイバイ!」
白い羽根が舞い散る青空を、僕は迷わずまっすぐに、歩いていく――
個室の扉が、ガラガラ! と派手な音を立てながら開いた。
「天乃さん!?」
大声を出しながら駆け込んでくる看護師の声で、僕はハッと我に返った。
ピコーンピコーンとけたたましく鳴るアラームを止める前に、看護師がトワの体を確かめ、
「はあ。プローブが外れていただけですね。良かった」
とすぐに僕を振り返って笑顔を見せる。
「え?」
「これでよし、と。寝返り打って取れちゃったかな。びっくりしたでしょう?」
「え、ええ。ナースコールがどこか、分からなくて……」
「ああ! あら? それも落ちちゃってましたね。ここに括りつけよっか」
看護師さんが、鮮やかな手つきでベッドのヘッド部分の金具にコードをぐるぐる巻くと、「んじゃまた何かあったらこれ、押してね」と笑顔で退室していった。
「え? 発作じゃ、ない?」
僕はそろりと、モニター画面を振り返る。何事もなかったかのようにピッ、ピッ、と穏やかな波形が画面を通り過ぎていく。
「……ユキ」
トワが、しっかりと目を開けて僕を見つめている。頬は紅潮し、血の気が戻っているように見えた。
「……なんということを……ありがとう、ありがとう」
その両頬には、透明な泉が溢れたかのような、綺麗な水の道筋ができている。
「ううん。僕は、願っただけ。叶えたのは……あれ?」
僕の頭の中を黒い靄が覆う。
近くで鳥が羽ばたいた時の風が、記憶の一部を巻き取って行くと同時に靄も晴れていく――変な感覚に、思わず頭をブルブル振る。
僕はパチパチと瞬きをしてから、トワの顔をまじまじと見た。
いつもと変わらない、大きな潤んだ瞳と、柔らかそうな髪の毛に、華奢な首。確かにトワなのに、なんだか違和感があるのはなぜだろうか。
いや気のせいに違いない、ともう一度頭を振ってから、僕は明るく声を掛ける。
「ねえトワ、いつ退院できるの?」
「! あーと……そうだな……医者に聞いておく」
「分かったら、すぐメールしてよね」
「ああ」
トワが目の前で静かに微笑んでいる。どこか寂し気だったのが、なぜだったのかは未だに分からない――
†
「ほう、ついにか」
「ついに! っくー!」
僕が握りしめているのは、『大吉』と書かれたおみくじだ。
毎年引き続けて、五十回目。つまり、五十年かけてようやく、引くことができた。
「姫川神社の宮司が、大凶を引き続けるという伝説は、今年でついに終わったか」
「終わったね! 外出許可の後押しをありがとう、天乃先生。っはー、これでもう、思い残すことはないなあ」
「おい、もう先生じゃないし、まだ早いぞ」
「ふふ。お互い定年して、だもんね。年取ったもんだよねえ」
「まったくだ」
市立病院の個室のベッドの上で、僕はボスンと枕に頭を投げ落とすようにして横になる。
自宅とは違う天井もすっかり見慣れたし、やせ細った腕に差し込まれた点滴を煩わしいと思う感覚すら、なくなった。
「……ねえトワ。何か僕に隠してること、あるんでしょ」
「うっ」
「医者のくせに、隠し事が下手だよね~。五十年も見て見ぬ振りし続けた僕、偉くない? そろそろ教えてくれてもいいよね」
「……まいったな」
トワはすっかり白くなった髪をくしゃりとかくと、僕に優しい笑顔を向ける。
わざわざひとりで僕の病室を訪れた彼に、せめてもの呼び水だ。こういうところが不器用なのは、昔から全然変わらないなと僕の頬はゆるむ。
「ユキ。『天使』のことを、話させて欲しい」
「え?」
「ユキともう一人の親友が、僕の命を救ってくれた。これは決して、僕の妄想でも作り話でもないぞ」
トワがいたずらっぽい顔をしてから、カバンから真っ白な鳥の羽根のようなものを一本取り出して、僕の目の前に掲げるようにして見せる。キラキラとした光を放っているようなそれに、僕の目はたちまち奪われた。
「それって、どういう……」
†
シャ! と無遠慮にカーテンを開けて顔をのぞかせたのは、薄茶色の髪の毛の青年医師だ。
「あ、また来てたの? 親父」
さわやかな笑顔で気軽に声を掛ける彼に、トワがじっとりとした目線を返す。
「お前に、大事な親友を任せておれんからな」
「うわ~。俺、これでもここの、未来の外科部長候補様だよ?」
「ふん。なってから言え」
拗ねる老人なんて可愛くないはずなのに、トワはなぜか可愛いと思える。人徳だなあ、と僕は眉尻を下げた。
「はは。僕は信頼しておりますよ、天乃先生」
「光栄です、ユキさん。奥様みえてますよ。あと、母さんもね。じゃ、また後で回診来ますね~」
ひらひらと手を振ってから立ち去った天乃先生の言葉で、トワが苦い顔をした。
「げ」
「あ。トワ、またリンさんに無断で来たの? 怒られるよ?」
「いやだってだな」
もごもご口を動かすトワを眺めていたら、やがて鬼の形相の女性が姿を現し、腕を組みながら放った。
「ほんと勝手なんだから」
「げげげ。リンカ」
「どうせ来るんだから。一緒に来たらいいでしょうに!」
「いやーそのーほらー」
数多の難しい手術をこなした、敏腕の天乃透羽医師とは思えない、歯切れの悪さだ。
医大卒業後、市立病院勤務を経て経験と人脈を元手に、トワは天乃医院を設立し、地域医療へ多大なる貢献をした。
儚い見た目と潤んだ瞳で、数々の看護師や患者のハートを奪った彼は、高校の同級生で看護師の女性と結婚をしたことで、数多の涙を流させたことでも有名である。
「ちょっとユッキー、何か言ってやってよ!」
高校の廊下で、ギャルは苦手だとぼやいていたトワを思い出して、僕はおかしくなった。
「あはは、ごめんごめん。男同士の話もあるんだって」
「何話したの!?」
「冥土の土産話だよ~」
「っんもう! そういわれたら何も言えないじゃない!」
白崎さんの隣で、呆れた顔をするのが僕の妻――
「リンちゃん。これがこの人のずるいところ。あきらめましょう」
「あーちゃん! くやしー!」
姫川さんだ。
彼女は美大卒業後、デザイン事務所へ就職して、本の装丁を作る仕事に従事。有名な小説や童話の表紙が彼女のデザインと思うと、鼻が高い。
退職後は、市内の高校の臨時美術教師として、進路相談にも応じている。ちなみに僕たちの娘は、姫川さんの若い頃と瓜二つ。負けん気が強くて、ファッションデザイナーを目指して上京したものの挫折して、都内で会社員をやっている。デザインができないなら、編集だ! と社畜な勢いで働き、営業の男性と社内結婚して、孫もふたりできた。姫川神社は権宮司として奉仕していた姫川さんの従甥に譲ることにして、僕は幸せなことに、普通の『じいじ』を満喫している。
「ごめんごめん」
すると、微笑む僕の目の前に、キラキラと輝く白い羽根がひとつ、ゆっくりと降って来た。
先ほどトワが見せてくれたものと全く同じものだと気づいた僕は、それから目が離せない。
「あ……」
思わず呟いた僕を、みんなが覗きこむ。
輝く白い羽根は、みんなには見えていないみたいだ。
「ユキ?」
「どしたの?」
「ユキくん?」
落ちてきた羽根を手のひらで受け取ると同時に、僕はあの日の約束を鮮明に思い出した。
「ああ……! そうか……」
(約束、守ってくれたんだ。迎えに来てくれたんだね)
「嬉しい。僕は、幸せ者だ」
安心した僕は、ゆっくりと目を閉じる。
「ユキ!」
「ユッキー!?」
「ユキくんっ!!」
(ねえ。毎日祈り続けられたのは、君のお陰だよ)
『いいや。ユキナリの努力だろう。お陰で、元の役目に戻れたぞ。さあ、行こうか』
相変わらず怖い顔の天使が、空で微笑んで、手を差し伸べている。
「ありがと」
僕はそのひんやりとした力強い手を、迷わず掴む。
と、前にもこの手に触れたことを思い出した。
(ああ、そっか。同じようなことがあったね。すっかり忘れていたな)
『うむ。たくさん思い出話をしよう』
(うん。アンジのロボットダンス、面白かったなあ)
『……それを言うなって』
(あはは!)
大きな白い翼に包まれながら、僕は笑顔で光り輝く道へ一歩踏み出す。
少しだけ立ち止まって、後ろを振り返って、大きく手を振った。
「バイバイ!」
白い羽根が舞い散る青空を、僕は迷わずまっすぐに、歩いていく――