29.眠る巨人は決意する 後
トワに付けられている心電図モニターが、けたたましくアラートを鳴らしている。
僕は絶望感でいっぱいになりながらベッドへ駆け寄り、ナースコールを探すため、トワに覆い被さるようにしてベッドの上をまさぐる。
手を動かしながら、行き先のない焦燥を、言葉で吐き出す。
「アンジ、どうしよう! 助けたい! 助けたいよ!」
泣き叫びながら狼狽える僕に、アンジは何も言わない。
「たすけてよおーーーー!」
涙も鼻水もシーツに落ちて、真っ白で清潔なトワの居場所を濡らしていく。こうやって汚してでも、僕の命を分けてあげられたらいいとさえ思った。だが僕には何の力もない。無力だ。いつだって、誰かに頼ることしかできない。
「あああああ……やだ、やだよお、いやだああああ、何でもするからああああ」
スーパーでお菓子を買って貰えない子供みたいに、僕はわがままな自我を撒き散らす。
自分の髪を掴んで頭を振り、地団駄を踏み、シーツを掴んで揺さぶって。
ダメなものはダメだと分かっている。
けれども、欲しいという欲望を吐き出す先がない。だから、ぶつける。
キーン……――。
「!?」
突然、痛いぐらいの耳鳴りが僕を襲った。
ぎゅっと耳を手で押さえてから放し、部屋の中を見回す僕は、なぜか時が止まったことを認識できた。
アラーム音が消え、窓から差し込んでいた夕日の温度もなくなり、何よりトワが、苦しんでいない。穏やかな顔をしてただそこに、在る。
「……そうだよな……俺も、助けたい」
困ったような低い囁きは、聞き取れるか取れないかぐらいの小さなものだったけれど、僕にも確かに聞こえた。
「アンジ……?」
躊躇いなく振り返る僕の目線の先で、アンジがぽりぽりと後ろ頭をかいている。
「これまで何人もの人間を見送ってきたが、皆死ぬことを諦めとして受け入れていてな」
そんな姿は、クラスメイトとして過ごしたアンジでしかない。天使などではない。ただのアンジだ。
だから僕は、気安く声を掛けることができた。
「そうなんだ?」
「ああ。善人を導くという役目は、穏やかで何の変わりもなく、ただの決まった作業になっていた。最期の言葉も聞き流すくらいのな。淡々と正しい方向へ道案内をするだけの……」
「……僕、アンジのことロボットみたいって何回も思ってたよ」
はあ、と大きな溜息を吐くアンジの、感情が目に見えるようになってきた。やれやれとか、恥ずかしいとかいう彼の気持ちが、表情から透けてみえる。
「それでは良くない。誰もを満足した状態で導いてやらなければならないのに、俺にはもう長いことできなくなっていた。そのせいで存在自体が保てなくなり、消滅するかもしれないという時に出会ったのが、トワだ」
「存在が、保てない?」
「存在には、使命と意義が必要だからな」
「なるほど……だから引き継ぎだね?」
僕は、シャツの袖で乱暴に頬をこする。
涙が滲んで濡れたけれど、構わない。
しっかりと最後まで見届けなくては。
「その通りだ。俺はトワに『自身が心から望んだことを叶えてこそ、この存在になれる』と言った。すると彼は、誰かの役に立ちたいのだと」
「役に……立ちたい……」
「出来損ないと父親に蔑まれてさえ、医者を志すような心根の人間が何をするかと思えば」
そこでアンジが、心底おかしそうに、クックックと笑った。
「友達が欲しかったんだよ。友達になるために、人の役に立とうだなんて。ほんと不器用なやつだよな。クックック」
拭ったはずの僕の涙が、再び溢れ始めた。
「不器用すぎるよ」
きっと僕は『友達になろう』と言われたところで、なれなかっただろう。トワは、僕がまた人を信じられるように、ずっと僕の側で頑張ってくれていたのだと気づいた。
――そうして僕らは、友達になった。唯一無二と言ってもいいぐらいに、大切な、親友に。
「あああ……やだよ……やだなあ……せっかく友達になれたのに……」
「俺も、嫌だと思ってしまってな」
アンジの眉毛が、八の字に歪んでいる。
「私情を持ってしまっては、もう役目にも戻れん」
「え? アンジ?」
「なあユキナリ」
「なに?」
「たくさんのメッセージをありがとう。なんだか俺もまるで」
「友達だよ! 当たり前じゃんか! いつもさりげなくフォローしてくれて! 翼作ったり、悪いヤツ追いかけたり! 誰がなんと言おうと、僕らは!」
アンジが目を見開いた後で、はっはっは! と声を上げて笑う。僕が初めて見たアンジの笑顔は、豪快で楽しそうだった。
「ああそうか。これが満足というやつか」
「アンジ?」
「ユキナリ。友人として、頼みがある」
「なに!?」
先程までの柔らかな表情とは打って変わって、にわかに真剣になったアンジが、僕に詰め寄った。
「本気で、トワを助けたいか」
「助けたい」
「なら、今まで積んで来たお前の善行。くれるか?」
「ぜんこう?」
「善人となるべく貯めてきた徳とでも言おうか。なくなれば、死んだ後地獄行きに」
「あげる!」
アンジが言い切る前に迷いなく即答した僕を見て、アンジはさらに僕に迫る。
「悪人とみなされるのは、辛いぞ」
「あのね。僕これから、姫川神社の権禰宜になる予定なんだよ。修行、頑張る!」
「……なるほど、それならばそれほど影響は多くないか。ちょっと不運なことが続くぐらいで……」
「ちょっと不運が続く!?」
「はっは。まあ、くじに当たらないとか、うっかり電車を乗り過ごすとか」
「地味に嫌すぎるけど、トワの命に比べたら全然だね!」
アンジは、これ以上ないぐらいニヤリとした。まるで悪魔の微笑みだ。
「決まりだな。俺の手を取れ」
僕は、差し出された大きな手のひらを、躊躇いなく掴む。ひんやりしていて、力強い。
「矢坂幸成の善行そして、わたしの今までの善行及び残りの役目を、天乃透羽の寿命に替えよう」
「アンジッ」
「気にするな。今までは『善人を導く役目』。これからは、『悪人の魂を狩る役目』に変わるだけだ」
「それって天使から死神になるってことじゃん……!」
「そうとも言う」
イタズラっぽく笑うアンジは、みるみる真っ黒なローブにその身を包んでいき、背中には大きな黒い鎌を背負う。白い羽に覆われた綺麗な翼は、黒い蝙蝠のような翼に変わっていった。
完全に、死神だ。むしろこちらの方が似合っているというのは、言わないでおこう。
「さて、憂鬱すぎる役目だが……ユキナリ」
「なに?」
「おまえが死ぬ時までには、なんとか天使に戻ってやる」
「え、それって……アンジが、迎えに来てくれるってこと!?」
僕がずいっと迫ると、アンジは皮肉を言う時のような顔をした。やっぱり死神、似合っている。
「おまえなら、これから善行を重ねて、善人として迎えに行けるようになるはずだ」
ゼロになったものを、また一から積み上げるのはきっと大変なことだ。だからこそアンジは、こうして僕の未来を導こうとしてくれているんだろう。
(すごい圧かけてくるよね。でも僕は、やるよ。やってみせる)
「うん! 頑張るからね。絶対アンジが迎えに来てよ!」
「約束だ」
「約束!」
「じゃあそれまで、さよならだ」
「アンジ!」
目の前でどんどん消えていくもう一人の友達に、僕は涙をこらえて、精一杯の笑顔で手を振った。
「っ、バイバイ!」
トワに付けられている心電図モニターが、けたたましくアラートを鳴らしている。
僕は絶望感でいっぱいになりながらベッドへ駆け寄り、ナースコールを探すため、トワに覆い被さるようにしてベッドの上をまさぐる。
手を動かしながら、行き先のない焦燥を、言葉で吐き出す。
「アンジ、どうしよう! 助けたい! 助けたいよ!」
泣き叫びながら狼狽える僕に、アンジは何も言わない。
「たすけてよおーーーー!」
涙も鼻水もシーツに落ちて、真っ白で清潔なトワの居場所を濡らしていく。こうやって汚してでも、僕の命を分けてあげられたらいいとさえ思った。だが僕には何の力もない。無力だ。いつだって、誰かに頼ることしかできない。
「あああああ……やだ、やだよお、いやだああああ、何でもするからああああ」
スーパーでお菓子を買って貰えない子供みたいに、僕はわがままな自我を撒き散らす。
自分の髪を掴んで頭を振り、地団駄を踏み、シーツを掴んで揺さぶって。
ダメなものはダメだと分かっている。
けれども、欲しいという欲望を吐き出す先がない。だから、ぶつける。
キーン……――。
「!?」
突然、痛いぐらいの耳鳴りが僕を襲った。
ぎゅっと耳を手で押さえてから放し、部屋の中を見回す僕は、なぜか時が止まったことを認識できた。
アラーム音が消え、窓から差し込んでいた夕日の温度もなくなり、何よりトワが、苦しんでいない。穏やかな顔をしてただそこに、在る。
「……そうだよな……俺も、助けたい」
困ったような低い囁きは、聞き取れるか取れないかぐらいの小さなものだったけれど、僕にも確かに聞こえた。
「アンジ……?」
躊躇いなく振り返る僕の目線の先で、アンジがぽりぽりと後ろ頭をかいている。
「これまで何人もの人間を見送ってきたが、皆死ぬことを諦めとして受け入れていてな」
そんな姿は、クラスメイトとして過ごしたアンジでしかない。天使などではない。ただのアンジだ。
だから僕は、気安く声を掛けることができた。
「そうなんだ?」
「ああ。善人を導くという役目は、穏やかで何の変わりもなく、ただの決まった作業になっていた。最期の言葉も聞き流すくらいのな。淡々と正しい方向へ道案内をするだけの……」
「……僕、アンジのことロボットみたいって何回も思ってたよ」
はあ、と大きな溜息を吐くアンジの、感情が目に見えるようになってきた。やれやれとか、恥ずかしいとかいう彼の気持ちが、表情から透けてみえる。
「それでは良くない。誰もを満足した状態で導いてやらなければならないのに、俺にはもう長いことできなくなっていた。そのせいで存在自体が保てなくなり、消滅するかもしれないという時に出会ったのが、トワだ」
「存在が、保てない?」
「存在には、使命と意義が必要だからな」
「なるほど……だから引き継ぎだね?」
僕は、シャツの袖で乱暴に頬をこする。
涙が滲んで濡れたけれど、構わない。
しっかりと最後まで見届けなくては。
「その通りだ。俺はトワに『自身が心から望んだことを叶えてこそ、この存在になれる』と言った。すると彼は、誰かの役に立ちたいのだと」
「役に……立ちたい……」
「出来損ないと父親に蔑まれてさえ、医者を志すような心根の人間が何をするかと思えば」
そこでアンジが、心底おかしそうに、クックックと笑った。
「友達が欲しかったんだよ。友達になるために、人の役に立とうだなんて。ほんと不器用なやつだよな。クックック」
拭ったはずの僕の涙が、再び溢れ始めた。
「不器用すぎるよ」
きっと僕は『友達になろう』と言われたところで、なれなかっただろう。トワは、僕がまた人を信じられるように、ずっと僕の側で頑張ってくれていたのだと気づいた。
――そうして僕らは、友達になった。唯一無二と言ってもいいぐらいに、大切な、親友に。
「あああ……やだよ……やだなあ……せっかく友達になれたのに……」
「俺も、嫌だと思ってしまってな」
アンジの眉毛が、八の字に歪んでいる。
「私情を持ってしまっては、もう役目にも戻れん」
「え? アンジ?」
「なあユキナリ」
「なに?」
「たくさんのメッセージをありがとう。なんだか俺もまるで」
「友達だよ! 当たり前じゃんか! いつもさりげなくフォローしてくれて! 翼作ったり、悪いヤツ追いかけたり! 誰がなんと言おうと、僕らは!」
アンジが目を見開いた後で、はっはっは! と声を上げて笑う。僕が初めて見たアンジの笑顔は、豪快で楽しそうだった。
「ああそうか。これが満足というやつか」
「アンジ?」
「ユキナリ。友人として、頼みがある」
「なに!?」
先程までの柔らかな表情とは打って変わって、にわかに真剣になったアンジが、僕に詰め寄った。
「本気で、トワを助けたいか」
「助けたい」
「なら、今まで積んで来たお前の善行。くれるか?」
「ぜんこう?」
「善人となるべく貯めてきた徳とでも言おうか。なくなれば、死んだ後地獄行きに」
「あげる!」
アンジが言い切る前に迷いなく即答した僕を見て、アンジはさらに僕に迫る。
「悪人とみなされるのは、辛いぞ」
「あのね。僕これから、姫川神社の権禰宜になる予定なんだよ。修行、頑張る!」
「……なるほど、それならばそれほど影響は多くないか。ちょっと不運なことが続くぐらいで……」
「ちょっと不運が続く!?」
「はっは。まあ、くじに当たらないとか、うっかり電車を乗り過ごすとか」
「地味に嫌すぎるけど、トワの命に比べたら全然だね!」
アンジは、これ以上ないぐらいニヤリとした。まるで悪魔の微笑みだ。
「決まりだな。俺の手を取れ」
僕は、差し出された大きな手のひらを、躊躇いなく掴む。ひんやりしていて、力強い。
「矢坂幸成の善行そして、わたしの今までの善行及び残りの役目を、天乃透羽の寿命に替えよう」
「アンジッ」
「気にするな。今までは『善人を導く役目』。これからは、『悪人の魂を狩る役目』に変わるだけだ」
「それって天使から死神になるってことじゃん……!」
「そうとも言う」
イタズラっぽく笑うアンジは、みるみる真っ黒なローブにその身を包んでいき、背中には大きな黒い鎌を背負う。白い羽に覆われた綺麗な翼は、黒い蝙蝠のような翼に変わっていった。
完全に、死神だ。むしろこちらの方が似合っているというのは、言わないでおこう。
「さて、憂鬱すぎる役目だが……ユキナリ」
「なに?」
「おまえが死ぬ時までには、なんとか天使に戻ってやる」
「え、それって……アンジが、迎えに来てくれるってこと!?」
僕がずいっと迫ると、アンジは皮肉を言う時のような顔をした。やっぱり死神、似合っている。
「おまえなら、これから善行を重ねて、善人として迎えに行けるようになるはずだ」
ゼロになったものを、また一から積み上げるのはきっと大変なことだ。だからこそアンジは、こうして僕の未来を導こうとしてくれているんだろう。
(すごい圧かけてくるよね。でも僕は、やるよ。やってみせる)
「うん! 頑張るからね。絶対アンジが迎えに来てよ!」
「約束だ」
「約束!」
「じゃあそれまで、さよならだ」
「アンジ!」
目の前でどんどん消えていくもう一人の友達に、僕は涙をこらえて、精一杯の笑顔で手を振った。
「っ、バイバイ!」