28.眠る巨人は決意する 前
ユキ>>『アンジ?』
ユキ>>『また寝てるの?』
ユキ>>『心配だよ』
ユキ>>『なにか、あった?』
スマホの画面の中。未読で積みあがっていく僕の一方的なメッセージは、何度見ても変わらない。
アンジからは、まったく返事がないどころか、既読さえ付かない。
いよいよ不安になった僕は、アンジの家に直接行こうと自分の部屋を出たところで、はたと立ち止まる。
「アンジの、家? どこだっけ……」
思い出そうとしても、分からない。
そもそも知っていたのだろうか?
なぜ知っていると思い込んでいたのか?
「え? ちょっと待って」
昨日、姫川さんと白崎さんと三人で、トワのお見舞いへ行った時のことを思い返す。
ふたりとも――トワまでも、アンジがいないことについては、何も言っていなかった。
今までなら、「アンジは?」と誰かは聞きそうなのにも関わらずだ。
「え? え? いやまさか、そんな」
冗談みたいなことを、僕は考え始めている。
「きっとたまたまだ。うん。あ、お見舞いに行こう、そうしよう」
ぶつぶつと独り言を吐きながら、僕は家の中の階段を降りていく。
僕のバイクには車検義務はないものの、白崎さんのお兄さんのところでメンテしてもらっていて、今日はバスで動かなければならない。
「お見舞い、行ってくるね」
リビングで三時のおやつを食べていた母親に声を掛けてから、僕は玄関を出る。
春を迎えた庭先で、プランターの中のパンジーが風に揺れていた。
胸騒ぎが止まらない。
そんなバカなことがあるだろうか。
(――アンジはそもそも、存在していたのか? だなんて。考えるだけでバカバカしい!)
駅のターミナルから、市立病院行のバスに乗る。
最後尾の長椅子に腰かけてから、僕は必死に、アンジとどうやって友達になったかを思い出そうとしていた。
二年になって文系と理系に分かれたクラスでは、姫川さん以外見覚えのある顔はほぼいなかったはずだ。
中学以来ずっと人間不信だったこの僕が、なにもなしに、アンジと呼び捨てにするほど親しくなることがあるだろうか。
いや、ない。
(キレイな反語だあ)
僕はバスの最後尾で、頭を抱える。
(そうだよな、ありえないよな)
今まで疑問にすら思わなかった。
当たり前に側にいたから。
でも今思えば、それが逆に不自然すぎる。姫川さんも、普通なら「ユキくんに友達!?」と驚くはずだ。実際、トワと仲良くなった当初も心配して声を掛けてくれたぐらいだった。
考えれば考えるほど、ドツボにはまっていく。
(いやいや、忘れているだけだってば)
ふん、となぜか気合を入れてから、僕はバスを降りた。
†
春休みだからと自由に動ける、平日の夕方。
入院棟は閑散としていて、看護師さんたちはみんなでどこか別の場所を巡回しているのかと思うぐらいに、姿が見えない。
僕は顔見知りが多くなったし、勝手知ったる身だし、と迷うことなくトワの病室へと向かう。
トワの母であるナナエさんがすぐに泊まれるようにと、個室へ移っていたので、遠慮なくノックをしてから扉をガラガラと開ける。
夕日の差す窓際はカーテンが開けっぱなしで、日の光が静かに来客用ソファのあたりを焼いていた。
「天使くん?」
――人の気配が、全くしない。
「っ」
僕は慌てて個室の中へと踏み込み、目隠し代わりのカーテンの中へ体を入れた。
真っ先に視界に飛び込むのが、大きめのベッドだ。
脇には、テレビや冷蔵庫などがあるキャビネット。部屋の片隅には、おまけみたいな小さなクロゼットと、その隣に洗面台。
トワが、ベッドの上で静かに寝ている。
その枕元に――アンジが立っていた。修学旅行で、みんなでリンクコーデした時の格好をしている。
「アン、ジ」
「ふむ……まだ覚えているのか」
(え、なに?)
「深く関わりすぎた」
無表情でこちらを見ているその顔は、まるで他人みたいだ。
「なに、言ってるの?」
「……そうか、しかも邪な心が少ないからだな。なるほど」
ひとりで納得したようなアンジが、僕に向かって一言、
「すまない」
と放った。
一方的な謝罪は、僕に混乱しかもたらさない。
「いや謝られてもさっぱり意味わかんないよ! ちゃんと説明しろよ!」
思わず大声を上げてしまった、と慌ててトワの様子を見ると、まぶたがピクピクと動いた後で、ゆっくりと目が開いていく。
天井を見てから、目線だけ動かして室内を確認したトワが、僕の姿を捉えた。
「ユキ……?」
「ごめん! 騒がしくして!」
「だいじょうぶだ。アンジは……天使だから」
「え?」
戸惑う僕にふっと笑った後で、トワは電動ベッドのボタンを押す。
ウイイイインと作動音がすると頭の部分が持ち上がって、僕と目が合った。
上体を起こしたトワが、口にはめていた酸素を送るためのプラスチックカップを外してから、僕をまっすぐに見つめたまま言った。
「ボクに役目を引き継ぐため、側にいてくれたんだよ」
「なに、言ってる?」
混乱するしかない僕の目の前で、アンジの眉尻が下がった。
「そうか……わかっていたのか」
「うん。死期の近い人間に、翼は隠せないみたいだよ」
「なるほど」
「ちょっと! 待ってよ!」
アンジが天使で、トワに役目を引き継ぐ?
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「ユキ。初対面の後、ボクがいきなり変わった、と思っただろう」
「っ……うん」
はあ、はあ、と大きな息継ぎをしながら、トワがゆっくりと話すのを、僕は色んな言いたいことを我慢して聞くことにする。
「自暴自棄だったボクに、死んだ後の役割を与えてくれたんだ」
トワのセリフに合わせるように、トワの枕元に立っていたアンジが動いて、僕の方に歩いてくる。
天使だって?
得体の知れない怖い顔の存在は、悪魔にしか見えない。
そんな僕の心が見えたのか、アンジは困ったように片眉を上げてから――ばさり、と大きな翼をはためかせた。
「っ!」
「次はボクが……」
「ふっざけんな! 今まで! そのために! 利用していたのか!?」
この際天使なんか、どうでも良かった。
「天使になるためにっ、僕を……」
僕の胸の中を焼くように覆っているのは、『また裏切られた』という怒りと悲しみだ。
「信じてたのに……!」
僕の両眼からは、ボタボタと壊れた蛇口のように涙が溢れ出す。
(ああやっぱり、誰も彼も、僕の心なんてどうでも良いんだ。利用するだけ利用して、去って行く)
ところが絶望する僕に向かって、アンジが困ったような顔で告げた。
「ユキナリ。それだとそいつは、天使になれない」
「え……」
突如としていつも通りのアンジに戻った天使の目が、僕の心を射抜いている。
「お前には分かっているはずだ。利己的に自身の願いを叶える者が、善人を正しく導けるはずがないだろう。なれたとしても、道に迷う。トワは、そういう奴だったか?」
そうだ。僕の思い出の中のトワは、いつだってまっすぐで――
「違う! 誰かのために、動く奴だ!」
叫ぶように言った僕に、アンジは深く頷いた。
「そうだ」
僕とアンジのやり取りを見守っていたトワが、微笑んでいる。
満足そうに。
もう、思い残すことはない、みたいな穏やかな顔で。
「天使、くん?」
「……っく」
「天使くんっ!!」
トワが、苦悶の顔で胸の辺りを押さえる。
やがて、トワに付けられているモニターが、けたたましくアラートを鳴らし始めた――
ユキ>>『アンジ?』
ユキ>>『また寝てるの?』
ユキ>>『心配だよ』
ユキ>>『なにか、あった?』
スマホの画面の中。未読で積みあがっていく僕の一方的なメッセージは、何度見ても変わらない。
アンジからは、まったく返事がないどころか、既読さえ付かない。
いよいよ不安になった僕は、アンジの家に直接行こうと自分の部屋を出たところで、はたと立ち止まる。
「アンジの、家? どこだっけ……」
思い出そうとしても、分からない。
そもそも知っていたのだろうか?
なぜ知っていると思い込んでいたのか?
「え? ちょっと待って」
昨日、姫川さんと白崎さんと三人で、トワのお見舞いへ行った時のことを思い返す。
ふたりとも――トワまでも、アンジがいないことについては、何も言っていなかった。
今までなら、「アンジは?」と誰かは聞きそうなのにも関わらずだ。
「え? え? いやまさか、そんな」
冗談みたいなことを、僕は考え始めている。
「きっとたまたまだ。うん。あ、お見舞いに行こう、そうしよう」
ぶつぶつと独り言を吐きながら、僕は家の中の階段を降りていく。
僕のバイクには車検義務はないものの、白崎さんのお兄さんのところでメンテしてもらっていて、今日はバスで動かなければならない。
「お見舞い、行ってくるね」
リビングで三時のおやつを食べていた母親に声を掛けてから、僕は玄関を出る。
春を迎えた庭先で、プランターの中のパンジーが風に揺れていた。
胸騒ぎが止まらない。
そんなバカなことがあるだろうか。
(――アンジはそもそも、存在していたのか? だなんて。考えるだけでバカバカしい!)
駅のターミナルから、市立病院行のバスに乗る。
最後尾の長椅子に腰かけてから、僕は必死に、アンジとどうやって友達になったかを思い出そうとしていた。
二年になって文系と理系に分かれたクラスでは、姫川さん以外見覚えのある顔はほぼいなかったはずだ。
中学以来ずっと人間不信だったこの僕が、なにもなしに、アンジと呼び捨てにするほど親しくなることがあるだろうか。
いや、ない。
(キレイな反語だあ)
僕はバスの最後尾で、頭を抱える。
(そうだよな、ありえないよな)
今まで疑問にすら思わなかった。
当たり前に側にいたから。
でも今思えば、それが逆に不自然すぎる。姫川さんも、普通なら「ユキくんに友達!?」と驚くはずだ。実際、トワと仲良くなった当初も心配して声を掛けてくれたぐらいだった。
考えれば考えるほど、ドツボにはまっていく。
(いやいや、忘れているだけだってば)
ふん、となぜか気合を入れてから、僕はバスを降りた。
†
春休みだからと自由に動ける、平日の夕方。
入院棟は閑散としていて、看護師さんたちはみんなでどこか別の場所を巡回しているのかと思うぐらいに、姿が見えない。
僕は顔見知りが多くなったし、勝手知ったる身だし、と迷うことなくトワの病室へと向かう。
トワの母であるナナエさんがすぐに泊まれるようにと、個室へ移っていたので、遠慮なくノックをしてから扉をガラガラと開ける。
夕日の差す窓際はカーテンが開けっぱなしで、日の光が静かに来客用ソファのあたりを焼いていた。
「天使くん?」
――人の気配が、全くしない。
「っ」
僕は慌てて個室の中へと踏み込み、目隠し代わりのカーテンの中へ体を入れた。
真っ先に視界に飛び込むのが、大きめのベッドだ。
脇には、テレビや冷蔵庫などがあるキャビネット。部屋の片隅には、おまけみたいな小さなクロゼットと、その隣に洗面台。
トワが、ベッドの上で静かに寝ている。
その枕元に――アンジが立っていた。修学旅行で、みんなでリンクコーデした時の格好をしている。
「アン、ジ」
「ふむ……まだ覚えているのか」
(え、なに?)
「深く関わりすぎた」
無表情でこちらを見ているその顔は、まるで他人みたいだ。
「なに、言ってるの?」
「……そうか、しかも邪な心が少ないからだな。なるほど」
ひとりで納得したようなアンジが、僕に向かって一言、
「すまない」
と放った。
一方的な謝罪は、僕に混乱しかもたらさない。
「いや謝られてもさっぱり意味わかんないよ! ちゃんと説明しろよ!」
思わず大声を上げてしまった、と慌ててトワの様子を見ると、まぶたがピクピクと動いた後で、ゆっくりと目が開いていく。
天井を見てから、目線だけ動かして室内を確認したトワが、僕の姿を捉えた。
「ユキ……?」
「ごめん! 騒がしくして!」
「だいじょうぶだ。アンジは……天使だから」
「え?」
戸惑う僕にふっと笑った後で、トワは電動ベッドのボタンを押す。
ウイイイインと作動音がすると頭の部分が持ち上がって、僕と目が合った。
上体を起こしたトワが、口にはめていた酸素を送るためのプラスチックカップを外してから、僕をまっすぐに見つめたまま言った。
「ボクに役目を引き継ぐため、側にいてくれたんだよ」
「なに、言ってる?」
混乱するしかない僕の目の前で、アンジの眉尻が下がった。
「そうか……わかっていたのか」
「うん。死期の近い人間に、翼は隠せないみたいだよ」
「なるほど」
「ちょっと! 待ってよ!」
アンジが天使で、トワに役目を引き継ぐ?
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「ユキ。初対面の後、ボクがいきなり変わった、と思っただろう」
「っ……うん」
はあ、はあ、と大きな息継ぎをしながら、トワがゆっくりと話すのを、僕は色んな言いたいことを我慢して聞くことにする。
「自暴自棄だったボクに、死んだ後の役割を与えてくれたんだ」
トワのセリフに合わせるように、トワの枕元に立っていたアンジが動いて、僕の方に歩いてくる。
天使だって?
得体の知れない怖い顔の存在は、悪魔にしか見えない。
そんな僕の心が見えたのか、アンジは困ったように片眉を上げてから――ばさり、と大きな翼をはためかせた。
「っ!」
「次はボクが……」
「ふっざけんな! 今まで! そのために! 利用していたのか!?」
この際天使なんか、どうでも良かった。
「天使になるためにっ、僕を……」
僕の胸の中を焼くように覆っているのは、『また裏切られた』という怒りと悲しみだ。
「信じてたのに……!」
僕の両眼からは、ボタボタと壊れた蛇口のように涙が溢れ出す。
(ああやっぱり、誰も彼も、僕の心なんてどうでも良いんだ。利用するだけ利用して、去って行く)
ところが絶望する僕に向かって、アンジが困ったような顔で告げた。
「ユキナリ。それだとそいつは、天使になれない」
「え……」
突如としていつも通りのアンジに戻った天使の目が、僕の心を射抜いている。
「お前には分かっているはずだ。利己的に自身の願いを叶える者が、善人を正しく導けるはずがないだろう。なれたとしても、道に迷う。トワは、そういう奴だったか?」
そうだ。僕の思い出の中のトワは、いつだってまっすぐで――
「違う! 誰かのために、動く奴だ!」
叫ぶように言った僕に、アンジは深く頷いた。
「そうだ」
僕とアンジのやり取りを見守っていたトワが、微笑んでいる。
満足そうに。
もう、思い残すことはない、みたいな穏やかな顔で。
「天使、くん?」
「……っく」
「天使くんっ!!」
トワが、苦悶の顔で胸の辺りを押さえる。
やがて、トワに付けられているモニターが、けたたましくアラートを鳴らし始めた――