26.約束の件

 三学期が始まったある日。体育館裏のベンチで、僕らはお昼ご飯を食べていた。
 
 座り切れないアンジは、体育館に入るための石段に(じか)で座っている。
 姫川さんと白崎さんは、ベンチに座った膝の上にジャージの上着を敷いてから、お弁当を広げて食べている。
 
「白崎さん、決めたんだね」
「うん。先生に色々相談してる。学費がやばいけど、看護奨学金っていうのがあるらしくって」
「すごいなあ」

 照れた顔で笑う白崎さんは、三学期のはじめに行われた進路相談で、担任の橋本先生に看護系学校や大学の資料を取り寄せてもらったのだと教えてくれた。
 二月の寒空の下で、決意をしたギャルは、頼もしくて眩しい。

 心臓マッサージを学び、母親の入院を優しく介助(かいじょ)してくれる人たちを見て、自分も看護師になりたいと思ったのだそうだ。

「いやあ、すごいなあ」
「何回言うのよ」

 真ん中の白崎さんを挟んだ向こうで、姫川さんが眉尻を下げている。
 そんな姫川さんの進路相談は『保留』中だ。

「あーちゃんは、再試合?」
「ちょっとユキくん、何よその言い方」
「あはは、ごめごめ」

 姫川母とは、まだ進路のことでやりあっているらしい。それを僕は『泥仕合(どろじあい)』と言ったりして、こうしてからかっている。
 
「もー。そういうユキくんだって、まだ決めてないんでしょ?」
「んー」

 決めたけれど。僕()()では決められない。
 どうしたものかな。なんて言えば良いかな。
 こんな時、トワが側に居てくれたら……でもこれからは、自分で踏み出さないと。

 もやもや考えていたら、唐突にアンジが
「……白崎」
 と後ろから呼んだ。
 
「ん? ん!?」

 白崎さんが、びっくりして振り向く。

「なななななに!? 巨人がしゃべった! 起きてる!?」
「話がある。来い」
「は?」

 普通なら、告白? などと胸がときめくシチュエーションかもしれないが、相手はあのアンジだ。それだけは絶対ない、むしろ恐怖、という視線で白崎さんが僕を見上げる。
 目線だけで助けを求められても、と思いつつ
「えーと、なんだろう、アンジ?」
 と僕が代わりに尋ねると、思いっきり溜息を吐かれた。
 
「はあ。やっぱ向いてねえ」
「え?」
「たぶん、話があるのはユキナリだ」
「んん!?!?」

 僕も、思いっきり動揺した。

「だから白崎。俺らは席を外そう」
「あーね……」

 納得したようなしないような顔で、白崎さんはいそいそと弁当をしまうと、アンジと一緒に素直に去っていく。
 その間、姫川さんはずっとポカンとしていた。

「えーっと、ユキくん? なにあれ?」
「えーっと、あー」

(なんで? アンジまで知ってんの? まさか、天使の仕業(しわざ)か!? あんにゃろう、やっぱ悪魔だ!)

「ユキくん? おーい。ユキくんてば!」

 姫川さんの顔が、近づいてくる。
 黒くて大きな瞳と、白い肌と、いつもサラサラな黒髪。小さなころから、綺麗だなと思っていた。あの時は無邪気に――
 
「約束したよね」
「約束?」

(あああああああああうっかり言ってる僕ううううううう)
 
「……っちが、ちがうっ、いやちがわない、えっと」

 アンジの乱暴なパスが僕にクリティカルヒットしたから、次のアタックが読めなくなってグダグダなバトルに――いやもう本当に動揺しすぎて、何をどう言えばいいか分からない。
 
 僕は、三回深呼吸をしてから、ようやく口を開く。
 ここが僕の、人生の分岐点だ。そして僕は、道を選択した。

「僕が神様のお世話をする。だからあーちゃんは、好きなところに行っていいんだよ……あーちゃんが良ければ、だけど」

 僕のセリフを聞いた姫川さんの動きが、ぴたっと止まる。
 僕には勇気がなくて、顔を上げられない。彼女の目を、見られない。彼女の膝にある手の先、形の良い桜色の爪を見てしまう。

「ユキくん」

 だから彼女は、いつも僕を優しく呼んでくれるんだ。
 顔を上げると、潤んだ大きな黒い瞳と目が合った。
 
「それだと、半分だけだね?」

 いたずらっぽく姫川さんが笑うので、僕は精一杯キリッとした顔で応えた。

「今までの僕は、本当に情けなかった。あとの半分は、これからの僕を見て、考えてくれたら嬉しい。……すごく勝手だけど」
「ふふ。はい、はい」

 姫川さんは呆れたような声だけれど、顔はとても嬉しそうだったから、安堵した僕はまた卵焼きを交換しようと誘う。

 いつの間にか心を閉じて、色々なことから逃げていた僕のことを、姫川さんはちゃんと見てくれていた。
 トワに背中を押されるまで目を逸らし続けていた、今までの臆病な僕には、心の中でバイバイをする。
 姫川さんが、ニコニコとエリコの卵焼きを頬張っていて、とても幸せな気分になった。

「ん~! やっぱりおばさんの卵焼き、おいしい~」
「そう? 僕は甘いのも好きだよ」
「んじゃ、ママにレシピ聞いておかなくちゃ」
「作ってくれるの!?」

 姫川さんが、今までに見たことがないものすごい可愛い顔で
「ユキくんの胃袋、掴んでおかなくちゃだもん」
 と言ってくれて、僕は思わず「可愛いなあ」とぽろり。

「えっ、私が?」
「うん」
「気が強いとか怖いとかじゃなく?」
「うん。あーちゃんはいつも一生懸命で、可愛いよ」
「そんなこと言うの、ユキくんだけだよ」
「……僕だけでいいじゃん」
「……うん」

 ウブな僕らは肩を寄せあって、残りのお弁当を食べる。それから、休み時間が終わるまでの少しの間、手を繋ぎながら思い出話をした。
 ――二月の寒空の下でも、暖かく感じた。
 

 なんとなくふたりして照れながら教室に戻ると、白崎さんが青い顔をして
「巨人は巨人じゃない。ロボットだった!」
 と訴えてきたので理由を聞いたら、僕らがいなくなると全く喋らなくなって、教室に戻るや机に突っ伏して寝始めたのだそうだ。

「うわぁ」
「ホラーね」
「もう二度と、奴とふたりきりにしないでっ! ね! お願いよおおおお!! うあーーーーーん!!」
 
 ギャルの悲鳴が教室にこだまして、アンジのモテ期は――無事終わりを迎えた。
 
   †

 家に帰った僕は、これでも人生の一大決心だとばかりに、夕食後のダイニングテーブルで両親を目の前にして
神道(しんとう)学部に行こうと思う」
 と告げた。
 ところがエリコはあっさりと
「あらそう。初志貫徹(しょしかんてつ)だなんて、幸成のくせにやるじゃない」
 だって。
 
「え。あの。もし本当にそうなったら、矢坂家はなくなっ」
「守らなきゃならない家なんてないわよ。ねえ、お父さん」
「うん。僕ただの役人だし、兄さんも弟もいるしね。姫川幸成。戦国武将みたいだ! かっこいい!」

 全身から力が抜けた。へなへな・へろへろだ。
 
「それより、あやめちゃんは本当にいいのかしら? だって幸成よ?」
 さすがエリコだ。核心を突きすぎる。
「そうだよね、幸成だもんねえ。あやめちゃん美人さんだし賢いし、もったいなすぎるよ」
 普段ぽやぽやしている父親からすらも、即死級の大ダメージ。僕のHPゲージは一瞬にして真っ赤だ。

「わかんない……がんばる……」
 
 吐血のグラフィックがあったなら、是非今の僕に適用していただきたい。エンドロールにはきっと、天使の羽根が舞っているに違いない。