「好き」って言ってもいいですか?

 カレンダーを見つめて大きな溜息をつく。胃がムカムカするしイライラもする。もうすぐ期末テストが始まる。テスト期間は俺が最も神経をすり減らす時期だ。
「絶対に一位をとらなくちゃ」
 無意識に拳を握り締める。俺の実の父は医者だったから、医者になるんだ。そして母さんを楽させてあげたい。いつからか、そんなものを背負ってしまっていた。加えて、転校先の学校は前の学校よりレベルが高く、更に努力をしなければ一位なんて夢のまた夢だ。
「もっともっと勉強しなきゃ」
 自分を追い込めば追い込むほど、どんどん苦しくなっていく。食事も喉を通らなくなるし、夜も眠れなくなる。それでも俺は、本に埋もれた部屋で時間を惜しんで勉強をした。

 それに比べて太陽は、期末テストのことなどどうでもいい、というように通常運転だ。勉強をしている姿なんか見たことないし、俺の部屋に来てゴロゴロしていることもある。
「なぁ、太陽君。テスト勉強しなくて大丈夫なの?」
「勉強? 大丈夫だよ。赤点とってから考える」
「はぁ? なんだよそれ……」
 その楽天的な考えが羨ましくさえ感じる。太陽の考え方や生き方に、少し惹かれる自分がいた。
「それより、兄ちゃんも少し休んだほうがいいよ。顔色悪いしご飯だってろくに食べてないじゃん。父さんも佐和子さんも心配してるよ」
 心配そうな顔で俺の髪を触ってくる太陽の真っ直ぐな視線が痛い。最近はこれくらいのスキンシップなら慣れたものだ。
「大丈夫だよ、ありがとう。だからもう放っておいて」 
 太陽の優しい手をそっと払い除けて、俺はまた教科書に視線を戻した。

 期末テスト三日前の朝。体調は最悪だった。
 寝不足のせいでフラフラするし、吐き気に襲われてトイレで吐いたりもした。でもいつものことだし、自分は仕方ないんだって諦めもある。とりあえず制服を着て、心配する母さんに「大丈夫だから」と言って家を出た。
「太陽君、月臣をよろしくね」
「うん」
 母さんがすがるような視線を太陽に向けていた。
 満員のバスに揺られているとどんどん気持ち悪くなってきて、目の前が一瞬真っ暗になる。ガクンと膝の力が抜け崩れ落ちそうになり、隣の太陽にしがみついた。
「おっと。兄ちゃん大丈夫か?」
「ごめん、太陽君。気持ち悪い……」
「ちょうどいいや。次のバス停で降りよう」
「大丈夫だから、このまま学校に行く」
「大丈夫じゃないよ。無理すんな」
 そう言い、太陽が停車ボタンを押す。俺達は通っている高校から大分遠いバス停で下車した。ちゃんと歩くこともできない俺を抱えて、太陽は歩き出す。どこへ向かっているのか、と一瞬頭をよぎったけど、そんなことを気にする余裕もなかった。
 自分達が歩いている場所は海岸沿いの歩道で、海が朝日を浴びて輝いている。どこまでも広がる大きな海に、感じていた気持ち悪さを一時だけど忘れることができた。 

「兄ちゃん、とりあえずここで休もう」
「ここ、どこ?」
「ばあちゃん家。何年か前に死んじゃったから今は空き家だけど」
 太陽が連れてきてくれたのは、歩道から少し離れた坂道の中腹に立っている小さな家。横開きの扉を開けると、懐かしい香りがする。空き家という割には綺麗に掃除されているあたり、誰かが管理しているのだろう。玄関から近い畳の部屋に横にならせてもらう。夜は全然寝付けないのに、急に強い睡魔に襲われる。でも……。
「太陽君、学校行かなきゃ」
「はぁ? こんなフラフラで学校行けんの?」
「だって欠席になっちゃう」
「兄ちゃんは本当に真面目だなぁ。今日は休んでここにいればいいよ」
「でも、俺学校休んだことないし」
「マジで!? なら、初体験だね」
 俺の隣に寝転ぶ太陽がニヤニヤしている。俺は真面目に話しているのに、なんだかエロいことでも想像してそうだ。
「兄ちゃんさ、何でも頑張りすぎなんだよ。適当でいいじゃん。別に死ぬわけじゃないし」
 布団がないのを気にしてか、自分のブレザーを掛けてくれる。そのまま抱き寄せられて、腕枕までされて……突然抱き締められるような体勢になりドギマギする。
「少し寝よう? 俺も昨日遅くまでゲームしてたから眠たい。ふぁあ……」
 大きな欠伸をしながら更にギュッと抱き締められる。髪に顔を埋められてしまえば、完全に太陽の腕の中に閉じ込められた形だ。
 初めて学校を休む罪悪感と太陽に抱き締められたことで、心臓がドキドキして苦しくて仕方ない。これも陽キャなら普通のことなのか……? さすがにやりすぎなんじゃ……。それでも穏やかな太陽の吐息を聞いていると、段々と瞼が重くなってくる。
「兄ちゃん、おやすみ」
 優しく髪を撫でられることが気持ちよくて、無意識に頭を太陽の手に擦り付ける。え、俺、なんでこんなこと……?
「可愛い」
「……え……?」
 甘い囁きと共に唇にフワリと温かいものが触れた感覚……もはやそれが夢か現実かわからなかったけど、そのまま俺は眠りに落ちていった。

「兄ちゃん、起きて」
 体を優しく揺すられ、静かに目を開けた。
「体調は大丈夫? バスに乗って帰れる?」
「あ、うん」
「俺、佐和子さん達に連絡するのが遅くなっちゃって……二人とも心配しているから帰ろう」
 まだ寝ぼけ眼の俺は、ここがどこなのかも理解できなくて。ボーッと太陽の顔を見つめた。久しぶりによく眠れた気がする。大きな窓から差し込むのは、夕日……? もしかして、もう夕方なのか?
「太陽君、ずっとここにいてくれたの?」
「うん。兄ちゃんの寝顔が可愛くてずっと見てた」
「な、なんだよ、それ……」
 いつも太陽は優しく髪を撫でてくれる。今日はなんだかその大きな手が、いつも以上に温かくて気持ちいい。うっとりと目を細めた瞬間、唇にまた温かくて柔らかいものが触れた。
「ん……ッ! え、ちょっと、太陽君、なに……!」
 突然のキスに太陽の肩を突き飛ばそうとしたけど、その手をいとも簡単に掴まれてしまった。
 ……なんだよ、これ。意味がわかんない。
「なんでこんなこと……お前、俺がゲイだって知っても気持ち悪いとか思わないの? それともからかってんのか?」
「ゲイ? そんなの関係ないよ。俺が兄ちゃんのことが好きだっていうことに変わりはないから」
「た、太陽も男が好きなのか?」
「男が好き? そんなん考えたこともないからわかんねぇ。ただ、兄ちゃんにキスしたかったからしただけ。そういうのいちいち考えるの苦手だ」
 どこまでも太陽は真っすぐだけど、こんな説明じゃまだ全然意味がわからない。でも、びっくりしたけど、嫌だったわけじゃないかも……。そんな自分に強い戸惑いを感じた。

「さ、兄ちゃん、帰ろうか」
 ケロッとした太陽に手を握られて、朝フラフラになりながら通った歩道を戻る。あんなことがあったあとに手なんて繋いだら、余計意識してしまう……。
「太陽君。俺は大丈夫だよ」
「駄目だよ。兄ちゃんはすぐ無理するんだから」
 朝迷惑をかけてしまった手前、何も言い返すことはできない。
「見て、兄ちゃん。海に月が映って綺麗だよ」
 太陽の視線の先には、海の上に浮かぶ真ん丸な月。淡い青色で世界を包み込んでいた。海面に映し出された満月が、波が揺れるのと同時にユラユラと揺れる。潮風が髪を優しく揺らして気持ちいい。こんな綺麗な世界、今まで知らなかった。
「綺麗だね」
「え?」
「月は綺麗だね」
 優しく微笑みながら太陽に見つめられると、なんだか急にハッとさせられる。この壮大な海と太陽の笑顔を見ると、期末テストだとか学校の出席日数なんて本当に些細なことに思えた。
 いいな。俺も太陽みたいに生きてみたい。
 自分がゲイだから他人と違うとか……そんなことを気にせず生きていける強さがほしい。
「テストの結果とか、ゲイだからとか……そんなんどうでもいいよ。いざとなれば俺が嫁にもらってやるからさ」
「よ、嫁に……?」
「あははは! そう嫁にね、おいで」
 楽しそうに声を出しながら笑う太陽を見ていると、スッと心が軽くなる気がした。結局バスの中でも太陽に寄りかかって寝てしまった俺は、息子達の帰りを待つ両親の元へと向かった。
 学校から俺と太陽が登校していないと連絡を受けた母さんは、本当に心配をしていたらしい。太陽が連絡を入れたときには、警察沙汰になる寸前だった。家に着くなり涙ぐみながら俺に飛びついてくる。
「佐和子さん、連絡するの遅くなってごめんなさい」
 太陽が詳しく事情を話すと、母さんは涙を流しながら「無理させてごめんね」って繰り返していた。母さんのせいなんかじゃないのに……。
 篤志さんからは「連絡はできるだけ早く入れるように」って言われたけど、怒られはしなかった。それから篤志さんに連れられて、夜間の救急病院に行って一日が終わっていく。
いつもだったら丸一日勉強しないだなんてありえないけど、今日は太陽のおかげで「こんな日もあるか」と思うことができた。

 病院から戻った俺を、太陽が心配な顔をして待っていてくれた。
「兄ちゃん、大丈夫?」
「ワッ!」
 駆け寄ってきた太陽を見た瞬間、カッと全身が熱くなる。あの時は疲れと眠気に負けてうやむやになっちゃったけど、俺達、キスしたんだよな? なんであんなこと……。
冷静になった途端、恥ずかしさがぶり返す。顔が火照り慌てて太陽から顔を背けた。心臓が痛くてギュッと目を閉じて、体を硬くする。
「兄ちゃん、よかった」
 検査の結果特に何も異常がなかった俺を、太陽が抱き締めてくる。あんなことがあった手前、太陽のスキンシップに戸惑いを隠せずにはいられない。
「よかった」
「太陽君……」
 そんな俺の気持ちとは裏腹に、太陽からは本当に自分のことを心配してくれてるんだってことが痛いくらいに伝わってくる。その真っ直ぐ過ぎる優しさが、かえって申し訳ない。
「大丈夫だよ、ありがとう。だからもう離れて」
「これからはもう無理しないで、お願いだから」
「うん」
 いつも強がって見栄を張って生きているけど、太陽の前では少し素直になれるような気がした。

 それから期末テスト本番を迎えた。丸一日勉強をしなかった割には、それなりに良くできたと思う。あの日以来、日付が変わる頃には太陽が迎えに来て、彼の部屋で一緒に寝るようになった。
 食事も食べないでいると、「兄ちゃん食わなきゃ駄目だよ」と、太陽が料理を口元まで運んでくる。それはいわゆるカップルがする「あーん」というやつで……。俺は恥ずかしくて「やめろよ!」なんて強く言ってしまう。
両親の前だけでも仲良くしていようと思っていたのに……。そんな俺達を、「仲がいいのね」って母さんが嬉しそうに笑って見ている。
 やっぱり太陽が勉強しているところなんて見ないまま、無事に期末テストは幕を閉じたのだった。

 テスト期間が終わり普通の生活に戻って、太陽の部活も再開した。校内で太陽を見かける度に、相変わらずたくさんの友達に囲まれている。
「太陽、購買行こうぜ。焼きそばパン奢ってやるよ」
「あー、太陽! また日直の仕事さぼる気?」
「太陽、バスケやろうぜ」
 やっぱり太陽の周りは笑顔で溢れていて、全部が輝いて見える。人も物も、太陽の光を受けてキラキラしていて……それはやっぱり俺には眩し過ぎる世界だ。
「……俺は何を勘違いしてたんだろう」
 太陽は誰にでも優しい。だから俺にだって優しいんだ。俺は大勢のうちの一人で、特別なわけじゃない。そもそも太陽と月では住んでいる世界が違うのだ。そんなことわかりきっていたのに、陰キャの俺は少し優しくしてもらえただけで調子にのってしまったみたいだ。
「あのキスに特別な意味なんてない。からかわれてただけだ」
 自分に言い聞かせるように呟き、中庭で友達とバスケをする太陽を眺めた。

 それでも変わらず部活が終わるのを待つように言われている俺は、図書館で参考書を開いて時間をやりすごしていた。初夏を迎えた今は少しだけ日が暮れる時間が延びて、転校した頃満開だった桜の木は新しい葉をつけている。
 もうすぐ、俺が一番苦手な夏がやってくる。一年の中でも、夏は一等キラキラしているから苦手だ。バーベキューに花火大会、それに夏休み。どれも眩し過ぎて、自分のみじめさが際立つ。
「太陽君、まだかな……」
  夏の大会が近いらしく、練習が終わる時間も遅くなっている。小さな欠伸をして机に突っ伏すと、ふと眠気が襲ってきた。
「待ちくたびれたな」
 少しずつ意識が遠のいた頃、頭をそっと撫でられる感触に重たい瞼を開く。
「お待たせ、兄ちゃん」
「太陽君」
「可愛いね」
 微笑みながらクイッと顎を持ち上げられて……太陽の吐息が頬にかかるのを感じた。チュッという音と共に、唇が重なり合う。太陽のおばあちゃんの家での出来事が頭をよぎり咄嗟に顔を背けたのに、追いかけてきた太陽の唇にまた捕まる。
「可愛い。俺の月」
 ここは学校だ、なんでまたこんなことを……なんて常識はスルリと頭の中から抜けていく。男同士で、しかも兄弟で。こんなこといけないってわかっているのに、今回は「嫌じゃない」どころか、太陽の強引さをどこか嬉しく感じてしまっていた。
 こんな風に大切に扱われて、優しくされて。ずっとコンプレックスだったゲイだってことも受け入れてもらえて。自分が絆されているのを自覚する。もしかしたら太陽に惹かれているのかもしれない……そんな自分が怖かった。

 数日後、期末テストの結果が張り出された。
「一位か……」
 あんなに心配していたのに、蓋を開けてみるとほぼ満点で学年一位という結果だった。こうなりたくて寝る間を惜しみ体を壊してまで勉強したはずなのに、なんでだろう……特別嬉しいわけでもない 。
「俺が欲しかったものって、こんなんだったのかな……」
 結果が張り出されている掲示板に背を向ける。胸がザワザワして落ち着かない。

 放課後になって柔道場を覗いてみる。そこには柔道着に身を包み、一生懸命乱取りをしている太陽がいた。柔道部でエースと呼ばれている太陽は、普段俺に見せる人懐こい犬のような姿はではなく、勇敢に相手へと向かっていく獅子のように見えた。そんな太陽は、やっぱり眩しくて、ひどく遠い存在に感じる。
 休憩時間には太陽の周りにたくさんの部員達が集まり、楽しそうに話をしている。
「太陽、お前期末テストどうだった?」
「どうも何も赤点ばっかだよ。夏休みも学校来なきゃかな?」
「マジで! お前の兄ちゃんは頭いいのにな」
「太陽、兄ちゃんに教わればいいじゃん」
「あ、そうだな! 俺には兄ちゃんがいるんだ」
「いいなぁ。頭のいい兄ちゃんがいて」
「だろ? ま、なんとかなるよ!」
 友達に向かい笑いかける太陽を見ると、胸がギュッと締め付けられた。そんな光景を見ていられず、逃げるように柔道場を後にする。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
 図書室に駆け込んで、床にしゃがみ込む。乱れた呼吸を何とか整えた。図書室は誰もいなくて薄暗い。時々近くを通り過ぎる生徒の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「……俺には薄暗くて、埃っぽい図書室がお似合いだ」
 期末テストで一位をとって何がしたかったのだろうか。父親のような医者になりたいわけでもないのに。
「結局、俺以外にも笑いかけるんじゃん……」
 あいつの特別は俺なんじゃないのか……。あんなに一人が良かったのに、今は一人ぼっちが寂しくて仕方ない。一度人の温もりを知ってしまった俺は、太陽や両親の温もりが恋しかった。

 どれくらい太陽を待っていただろうか。フワリと髪に温かなものが触れたのを感じ、顔を上げた。
「お待たせ、兄ちゃん」
「……太陽君!」
「あれ、兄ちゃん、もしかして泣いてた?」
 涙ぐんでいたせいで熱を持った瞼を、指先でそっとなぞられる。冷たい太陽の手が気持ちいい。俺は太陽にしがみついた。
「どうしたの? 兄ちゃんからそんなことするなんて初めてじゃん」
「なんかちょっと寂しくて……」
「ふふっ。今日は素直で可愛いなぁ」
 顔を見上げれば、優しい顔で微笑む太陽と視線が絡み合う。それだけで胸が温かくなった。これからの時間は、俺だけの太陽だ。
「ねぇ、太陽君。今更だけど……なんでこの前、キスしたの? だって俺達そもそも男同士だし、兄弟でもある……」
「……そうだね」
 太陽が俺を見つめながら寂しそうに笑う。でもこれ以上期待して、勘違いなんかしたくない。もう、傷つきたくないから。
「でも、俺、太陽君とキスするのが嫌ってわけじゃないんだ。今までずっと一人がよかったのに、太陽君と知り合って、優しい両親ができて、弱くなった気がする。一人が嫌で、誰かと、太陽君といたいんだ……。ねぇ、太陽君。キス、してくれる……?」
「え、いいの?」
「だって、さびし……ん、んん……ッ」
 突然抱き締められて、唇と唇が重なる。思ったよりも激しい口付けに、胸が震えた。
「兄ちゃん、口開けて?」
「ん……んッ、はぁ……」
 少し口を開くと、すぐに太陽の舌が俺の口内に入ってくる。
「ふぁ……ッ、んん、あッ……」
 太陽との初めての深いキスに、甘い吐息が口から溢れ出す。温かい。それに気持ちいい……。
 俺は無我夢中で太陽のキスを受け止めた。口の中に溜まった二人分の唾液をコクンと飲み込むと「めっちゃエロいね」と、頬を紅潮させた太陽が、荒い息遣いをしながら笑った。

◇◆◇◆

 その日の夜は一人で部屋に戻ったものの、無性に寂しくて仕方ない。膝を抱えて本だらけのベッドに蹲った。 ベッドくらいは使えるように片付けよう、そうずっと思っているのに、太陽と寝るのに慣れてしまい結局片付けられていない。それどころか太陽と一緒にいる口実となってしまっていたから、片付ける気なんてそもそもないのだけど……。
「兄ちゃん、大丈夫?」
 家に帰ってからもいつもと違う俺を心配してくれたのだろう。太陽が部屋まで様子を見にきてくれた。
「兄ちゃん 、今日も一緒に寝よう」
「え? でも……」
「俺だって一人は寂しいもん。だから一緒に寝よう」
「……わかった」
 手を繋いで太陽の部屋に向かう。でも今日は一組しか布団が敷いてなくて。俺は顔を真っ赤にしながら太陽を見上げた。
「今日は寒いから一緒の布団でいいよね」
「あ、あ、うん」
「くっついて寝れば、きっと温かいよ」
 照れたようにはにかむ太陽と布団に潜り込んだ。
「寒くない?」
「うん」
「兄ちゃん、あったかい……」
 俺が寒くないように抱き寄せてくれてるんだろうけど……。心臓が口から飛び出しそうだ。太陽にこの鼓動が聞こえてしまうのではないかって、恥ずかしくなってしまった。
 少し太陽から離れようとしたけど、柔道部エースの力に勝てるはずなんかない。諦めてその胸に体を預けた。不思議だなって思う。あんなに人気者の太陽を、こんな俺が独り占めできるなんて。
「太陽、本当にあったかいね」
「名前……呼び捨てにしてくれるようになったね」
「あ、ご、ごめんね」
「いいよ。俺も月って呼びたいから」
「なんか恥ずかしい。少し離れてよ」
「嫌だ。月、本当に可愛いね」
 太陽が俺に覆いかぶさってくる。少しずつ顔が近付いてきて……フワリと唇が重なった。太陽のキスはまるで全てを麻痺させる媚薬のようで。柔らかい唇、温かい舌、時々漏れる甘い吐息。全身の力が抜けて骨抜きにされてしまう。男同士だし兄弟だから……という葛藤がなくなったわけではないのに。
「ふふっ。月、蕩けてる」
 太陽が悪戯っぽく笑うけど、気持ちいいんだから仕方ない。
「あのさ……もっとしてくれる?」
 離れていった太陽の唇を、視線で追いかける。俺の体はすっかり火照り、こんなんじゃ全然物足りなくて。自分から太陽の体を引き寄せる。長い長い時間、お互いの唇を味わい続けた。
 額や頬、首筋にもキスを受けねっとりと唇を貪られたら、体が素直に次の行為を欲してしまって。つい潤んだ目で太陽を見つめてしまったらしい。ふと彼の目が悪戯っぽく細められた。
「そんな目をしないで。食べちゃいたくなる。止まらなくなるじゃん」
「え……?」
「なぁ月。エッチしたことある?」
「なんで突然そんなこと……」
「ううん、別に。俺はしたことないから。女の子とも男とも……」
 意味深げに顔を覗き込まれると、やっぱり心臓の音が存在感を増す。それでももっと近くにいきたくて、太陽の背中に腕を回した。

 その瞬間。頭の中で懐かしい声が響く。
『月臣、ごめんな……ごめん。大好きだったよ』
 苦しそうに顔を歪めながら、髪を撫でられる映像。
 俺は一気に現実へと引き戻された。サーッと血の気が引いていくのを感じる。危ない……俺はまた同じ過ちを繰り返すところだった……。

「だ、駄目だよ、太陽! やっぱり駄目だ。俺達男同士だし、兄弟なんだから! 兄弟としてやっていかなきゃ」
 我に返った俺は、慌てて太陽の腕の中から逃げ出そうと体を捩る。まさか太陽が、キスより先のことを考えているなんて思わなかった。血は繋がってないとは言え、弟と何をしているんだろうか。
「関係ないよ、兄弟とか」
「太陽……!」
「関係ない。俺たちは血も繋がってない。知ってる? 血が繋がってなければ、パートナーって認めてもらえる場所だってあるんだよ。だから大丈夫」
 必死に俺を宥めようとする太陽を見ると、また簡単に丸め込まれそうになる。
「離れてかないで。俺が月を守るから」
 俺にしがみついて駄々をこねる太陽が愛おしい。どこまでも前向きな太陽が羨ましい。怖いものなんか何もなくて、できないことなんてない。「なんとかなるよ!」そう笑顔を見せる太陽が、眩しくて仕方ない。
「俺も、そっちの世界に行ってみたい」
 強まる思い。俺も太陽の光を浴びてみたい。こんな俺でも、太陽に受け入れてもらえるのだろうか。こんな俺でも、君みたいにキラキラ輝くことはできるのだろうか……。
「太陽……。やっぱり、キス、してくれる……?」  
 もう、言ってることもやってることもチグハグで……どうしたらいいかわからなくなる。俺だけじゃない。きっと太陽も揺れているだろう。それでも、離れるっていう選択肢だけは、いつの間にか消え去っていた。
「うん。いっぱいしよう」
「うん……」
「月、大好き」
「……大好き……?」
「うん。大好きだよ」
 ほんとに……? 自分がゲイだと知っても普段通りに接してくれる太陽に、少しずつ心が解けていくのを感じる。自分を受けれてくれているということが、素直に嬉しかった。 
 それでも、太陽が向けてくる好意を素直に受け入れることができない。最後の最後で、臆病者俺は一歩を踏み出すことができない。そう、いつもだ。
 太陽は俺のことが……。考えようとしたけど、口付けに意識をもっていかれ、翻弄される。深くて息もできないくらいなのに、甘い感触。あぁ……俺は、太陽とのキスがとんでもなく好きだ。
 その晩、俺は太陽の腕の中で眠りについた。

 真夜中にふと目を覚ます。
「あ、ヤバい。明日数学のプリントの提出日だ」
 俺はまだ太陽に抱き締められていて、改めて間近で見る整った顔立ちに溜息をつく。そっと頬を指先で撫でた。今何時だろう? キョロキョロと時計を探せば、太陽がゴソゴソと動き出す。
「なんだよ、月。どうした?」
「数学のプリント忘れてたから今からやろうと思って」
「はぁ? そんなん『忘れました』で大丈夫だよ。それより寝なさい」
 まるで子供を寝かしつけるかのようにポンポンと背中を叩かれる。逃げられないくらい体を寄せられてしまった。今までプリントの提出日を守らなかったことなどなかったから、気が気でない。
「こら、月。寝ないならキスよりエロいことするぞ」
「え? なんだよそれ……」
「大丈夫だよ、プリントなんか。もう少し、肩の力を抜きなよ。なんとかなるから大丈夫。大丈夫だよ」
 そう太陽に言われると、なんでだろう。大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「そうだね、きっと大丈夫だ」
「うん。このくらいで怒る先生がいたら、俺が代わりに怒鳴り込んでやるよ」
「ふふっ。ありがとう、太陽」
 太陽なら本当にやりかねない……そう思うと可笑しい。再び目を閉じた太陽に体を寄せて、もう一度眠りについた。
 そのまま俺は、初めてプリントの提出期限を守らなかった。

「大丈夫、肩の力を抜いて……」
 大きく深呼吸をしてから、数学の佐藤先生の所に向かう。
「あの、佐藤先生。今日プリントの提出日だったんですが、やり忘れてしまいました。すみません」
 佐藤先生に向かい深々と頭を下げると、「なんだなんだ」と驚いた顔をされてしまう。
「あ、プリントの提出日、今日だったっけ?」
「は、はい。今日が提出日なんですが忘れてしまいました」
「そうか、俺もすっかり忘れてた。これから出張に行かなきゃだから、明日集めるよ。みんなにもそう言っといてもらえるか?」
「あ、わかりました」
 佐藤先生は怒るわけでもなく、あっけらかんとしていて拍子抜けを食らった気分だ。
「太陽の言う通りだった。こんなんで大丈夫なんだ」
 いつもの俺なら、徹夜してでもプリントを仕上げていたことだろう。教室に入り自分の席に着くと、どっと疲れを感じる。そんな時、そっと肩を叩かれた。

「あの、百瀬君。この前の期末テストのこの問題がどうしてもわからないんだ。教えてもらえないかな?」
「あ、それ俺もわからなかった。百瀬君わかる?」
「え、えっと……」
 クラスメイトの男子に突然話しかけられて、一瞬頭が真っ白になる。どうしよう……クラスメイトに話かけられるだけで、こんなに緊張するなんて。顔が火照りだして顔を上げることができない。そんな自分が本当に嫌になってくる。
『肩の力を抜きなよ』
その時、太陽の声が聞こえた気がした。そうだ、大丈夫。友達がいた頃を思い出すんだ。
「この問題難しいよね。ここは教科書のこのページの……」
「あ、なるほど!」
「百瀬君凄いね。とても分かりやすかったし」
「本当? よかった」
 クラスメイトの笑顔を見て、俺まで嬉しくなってしまった。
「百瀬君、次、移動教室だから行こう」
「ヤバい、遅れちゃう。急ごう」
「あ、うん」
 みんなで一斉に走り出す。誰かと一緒に行動することが久しぶりで、嬉しくて心臓がドキドキする。
 渡り廊下を通る時、体育の授業で校庭にいる太陽を見つける。
――ありがとう太陽。お前の言葉のおかげで、いいこといっぱいあったよ」
 キラキラ眩しくてかっこよくて。本当に空で輝く太陽みたいだ。
「百瀬君、どうしたの? 早くおいでよ」
「あ、うん。ごめんね」
 でも、俺も少しだけ成長できた気がするんだ。
  
◇◆◇◆
 
「あ、あの篤志さん」
「ん? どうした、月臣君」
「進路のことなんですが……」
 申し訳なさそうに進路調査票と書かれた紙を差し出すと、パソコンに向かっていた篤志さんが一瞬目を見開いた後微笑んだ。
「月臣君の成績ならどこの大学にも行けるんじゃないか? それとも、お父様のような医者になりたいのかな?」
「やっぱり、医者になったほうがいいですか?」
「ん?」
 医者……という言葉に鋭く反応してしまう。
「医者が、いいですよね?」
 今までは自分が病院を継ぐことが当たり前だと思ってた。それに篤志さんだって、自分の息子が医者になったらきっと誇らしいだろう。
「……月臣君は本当に医者になりたいの?」
「え?」
「本当に、医者になりたいと思っているのかな?」
 ひどく真剣な顔をした篤志さんと目が合う。なりたいかどうかだって? その瞬間、この人に嘘をついたって、きっと全てを見透かされてしまう……そう感じた。
「遠慮なんかしなくていい。君は、私の息子なんだから。なりたいものになればいいよ」
 そう言いながら肩を叩いてくれる篤志さんの優しい言葉に、目頭が熱くなる。見る見るうちに視界が涙で滲んだ。
「俺、本当は……本当は……」
 気持ちが高ぶって上手く言葉にすることができない。そんな俺を急かすこともせず、篤志さんは俺の言葉をゆっくり待ってくれた。
「俺本当は、篤志さんみたいな小説家になりたいんです。実はいくつかコンテストにも応募したことがあって。でも、周りの大人達は俺が医者になることを望んでいたから、言い出せなかった」
「へぇ。小説家?」
 頬を伝う涙を、ゴシゴシと上着の袖で拭う。初めて自分の本当の夢を話せた嬉しさと罪悪感で、なんの涙なのか自分でも分からない。
「そうだな、じゃあ作品を持ってきてみなさい。添削してあげるから。プロットでも構わないよ」
「篤志さん……」
「やりたいことをやりなさい。なりたいものになりなさい。君の人生なんだから。ただ、医者になるより小説家になる方が何十倍も難しいかもしれないけどね」
 ニコニコと笑いながら話しかけてくれる篤志さんの優しさに、胸が熱くなる。医者以外の道なんてないと思っていた。
「俺、行きたい大学があるんです。医学部とは全く関係ない大学なんですが……」
「へぇ。いいじゃないか。夢を追いかけてごらん。お金のことは心配しなくていいから」
「は、はい! あ、今コンテストに出したお話持ってきます!」
「ほらほら、そんなに慌てると転ぶよ」
 篤志さんの声を背中に、俺は自室へと向かう。

 それは、鍵のかかった机の引き出しに仕舞われていた。小説のコンテストに応募して、一次選考は通ったものの入賞は逃した作品。勉強の合間を縫い、寝る間も惜しんで書いたものだった。
「俺、書いていいんだ」
 堪え切れなかった涙が頬を伝う。小説が印刷された紙を大切に抱き締めた。
「俺は、書いていいんだ……よかった……」
 止まることのない涙が次から次へと溢れ出して、絨毯にシミを作る。
 あの日から他人の輪の中に打ち解けることができず、本だけが友達だった。社会の中で上手く生きることもできなくて、図書館だけが自分の居場所だった。
 大切な作品を抱き締めたまま、泣き続ける。でも不思議だ。涙が出るのに、こんなに幸せなんて……。

「おい、百瀬兄」
「はい?」
 呼び慣れない呼ばれ方をした俺は、慌てて声のするほうを振り返る。そこには英語を担当している栗原先生が立っていた。
「あ、栗原(くりはら)先生」
「百瀬兄、弟をなんとかしてやってくれ」
「え? どういうことですか?」
 栗原先生は大きく息を吐きながら、俺の肩に両手を載せた。突然のしかかる両肩の重みに、俺は思わずバランスを崩して後ずさる。太陽が一体何をしたのだろうか。
 先生が「弟をなんとかしてやってくれ」と血が繋がっていないとは言え、俺の所までわざわわざくるなんて……ただ事ではない、と思わず体が強張る。
「あの、太陽がどうしたんですか?」
「太陽な……」
「は、はい」
 ゴクッと唾を飲み込む。不良行為、まさか虐められてるとか……俺の頭の中を色々な考えが駆け巡った。

「太陽、英語の単位を落とすかもしれない」
「は? 単位を、ですか?」
「あぁ。あいつこの前の中間テストで、英語が十二点だったんだ」
「十二点……二十点満点ですか?」
「百点満点だよ……」
「えぇ?」
 それを聞いた俺は自分の耳を疑ってしまう。赤点にだって全く追いついていない壊滅的な点数。選択問題もあっただろうから、よくも十二点だけとれたものだと、逆に尊敬さえしてしまう。
「それに、この前の単語の小テストでは八点だ」
「八点……それはすごいですね……」
「太陽は勉強は壊滅的だが、本当にいい子だから何とか進級させてやりたいのに、俺たち教師が何を言っても無駄なんだ。まさに寝耳に見ず、馬の耳に念仏だ」
「そうですか……」
 大きな溜息をつく栗原先生がなんだか気の毒になってしまった。
「逆に百瀬兄は学年一位で成績優秀。柔道部の岩瀬に、太陽はお前の言うことなら聞くんじゃないかって言われて、こうやってはせ参じたわけだ」
「そうなんですね。でも太陽、俺が言えば勉強するかな? すみません、ちょっと自信がないです」
「とにかく、今度の中間テストの再試験でもう一度赤点をとれば、あいつは留年決定だ。俺は教師としてどうしても留年だけは回避してやりたい。だから、頼む、太陽の勉強を少しみてやってくれないか?」
「…………」
 自分よりも遥かに年上の教師に、こんな風にお願いされてしまえば、断ることなんてできるはずがない。俺は大きく息を吐いた。
「わかりました。俺が言って太陽が言うことを聞くかはわからないですけど、やってみます」
「おぉ! 頼りにしてるぞ、百瀬兄。再試験は一週間後だ」
「はい」
 気乗りはしないがやるしかない。「よし」と俺は心の中で気合を入れたのだった。

 栗原先生から太陽を任せられた日の放課後。いつものように部活が終わった太陽と家路についていた。
 再試験のことを自分から言ってくるのを待っていたけど、いつまでたっても触れてこない太陽に痺れを切らし、そっと問いかけた。
「なぁ、太陽。君、英語の単位を落としそうなんだって?」
「はぁ? その話誰に聞いたの?」
「英語の栗原先生」
「チッ、栗原め。月に言いつけるなんて……」
「こら、太陽。先生を呼び捨てにするなんてよくないよ? しかも舌打ちまで。それに栗原先生は、本当に太陽を心配して……」
「あー、わかったわかった! 勉強すればいいんだろう? じゃあ、月が教えてよ」
「え? 俺が教えてあげれば、太陽は勉強頑張れるの?」
「うん! 頑張れる!」
 突然大きな声を出しながら前のめりになる太陽。切れ長の目をキラキラと輝かせて、なんだかとても嬉しそうだ。もし太陽に尻尾が生えてきたら、きっとフリフリと振っていることだろう。その姿は大型犬のようで、見ていて可笑しくなってしまった。
「よし、じゃあ太陽。再試験まで一週間。再試験のある生徒は部活は強制的に休みなるらしいから、その間俺が勉強を教えてあげる」
「うん! 俺頑張る! じゃあ毎日月の部屋で勉強するの? それとも俺の部屋?」
「駄目だよ、太陽。勉強は毎日学校の図書室でやるから」
「えぇ!?」
「だって、家に帰ったらゲームや漫画本だってあるし、太陽きっとすぐに寝ちゃうもん。その点、図書室だったら誘惑するものはないから集中して勉強できるだろう?」
「そんなぁ……。俺、家で月と二人っきりで勉強がしたかった」
 なぜかガッカリする太陽を宥めるように言って聞かせる。大体、なんで図書室で勉強するのが嫌なのだろうか。何か裏があるような気がして俺は眉を顰めた。
「家で、月とイチャイチャしながら勉強がしたかった」
「はぁ? 太陽、なに言ってんだよ……」
「だって、月あれ以来キスしてくれないんだもん」
「太陽……」
「俺、月ともっとキスしたい」
 そう言いながら唇を尖らせる太陽。その顔はまるで子供のようだ。笑ったり拗ねたり、ころころと表情が変わる太陽を見ているのは楽しいけど、今はそんなことを言っている場合ではない。

「太陽、今はそんなことを言っている場合じゃなくて、まず進級だろう?」
「わかってる、わかってるけどさ……。なぁ、月?」
「な、なんだよ……」
 突然隣を歩いている俺の手を握り締める太陽。その強引さに俺の心臓が高鳴りはじめる。
「もし再試験が合格点だったら、俺のお願い聞いてくれる?」
 再試験を全部合格するなんて当たり前だろう? そう言いかけたけれど、俺はその言葉を呑み込む。俺の手を握り締める太陽の視線が、ひどく真剣に感じられたから。
「お、お願いってなに?」
「再試験が全部合格点だったら、俺、飽きるまで月とキスしてみたい」
「な、なんだよそれ!?」
「だって、ご褒美でもなければ頑張れないじゃん」
「でも……」
 以前岩瀬が、太陽は女の子に告白されたときに「ずっと前から好きな人がいるから」と断ってしまう、と言っていたことを思い出す。それなのに、自分とキスしたいと言う太陽の考えが理解できなかった。
 簡単にキスさせてくれる奴……と軽く見られてしまったのだろうか。
「お願い、俺、月といっぱいキスしたい」
「太陽、あのね……」
「お願い、月」
 甘えた声を出しながら顔を覗き込まれてしまえば、頬がひとりでに火照っていくのを感じる。心臓がうるさいくらいに鳴り響いて、呼吸がしにくい。
 ――結局俺は、太陽を拒絶できない。
 俺は大きく溜息を吐いた。
「わかった。頑張ったご褒美に、好きなだけキスしていいよ」
「本当に?」
「その代わり、留年なんかしたら父さんと母さんが悲しむから頑張ってよね」
「うん。俺頑張るね!」
 そうにっこり笑う太陽を、可愛いと思ってしまった自分に嫌気がさしてしまった。

 それから毎日放課後になると、太陽は大人しく図書室へと来るようになった。さぞ不貞腐れた顔で来ると思いきや、ニコニコしながら嬉しそうにやって来る。
「兄ちゃん、お待たせ」
 学校だから、「兄ちゃん」と甘えた声を出しながら自分の元にやって来る太陽は、やっぱり年下だなって感じる。つい甘やかしてやりたい思いを押し込めた。
 太陽は岩瀬の言う通り努力家だ。目標があればそれに向かって突き進むことができる強さを持っている。それに意外と物覚えもよくて、再試験なんて楽勝なのでは? そう思い始めた頃に事件は起きた。
「はぁ? 太陽って赤点英語だけじゃないの?」
「てか、逆に誰が英語だけって言ってたの?」
「いや、それは……」
 最近戻ってきたテストの答案用紙を太陽に見せられた俺は、思わず言葉を失ってしまう。なぜなら、どれも無惨な点数だったから。
「国語二十点、数学十六点、生物三十二点……日本史は、あ、五十三点だ」
「そう。俺ね日本史好きなんだ。すごいだろ? 五十点いったなんて」
 そう言いながら笑う太陽。褒めて、と言わんばかりに頭を突き出してきたから、とりあえず撫でてやる。でも赤点なんだよなぁ……。
「つまり、九教科中、五つが赤点か」
「うん。俺、家庭科と体育の筆記は得意なんだよ」
「そうだね。その二つのテストは全部選択問題だったみたいだから……はぁ……これは強敵だ」
「ん? 月どうした?」
「太陽さぁ、よく今まで進級できてたね?」
「あー、今まではなんとかなってきたんだよ。だから、きっとこれからもどうにかなるって」
「はぁ? なんだよその適当な考え……」
「大丈夫だって! それに、今の俺には月がいるもん。だから全然大丈夫」
「…………」
 俺の顔を覗き込んで蕩けそうな笑顔を見せる太陽。そんな顔をされたら、何も言えなくなってしまう。
 そのうち向かい合って座っていた太陽の手がそーっと伸びてきて、答案用紙を持っている俺の手に触れた。びっくりして太陽を見れば、今度は悪戯っ子のように笑っている。それから、周りの生徒に聞こえないくらいの小さな声で囁いた。
「赤点が想像以上に多かったから、頑張った分のご褒美をもっと豪華にしてもらわないと」
「な、なんだよ、豪華にって……」
「ふふっ。月、こっちきて」
 おいでおいでと手招きされたから、テーブルに体を乗り出して太陽に顔を近付ける。ニコッと笑う太陽に耳打ちされた言葉を聞いて、俺は思わずものすごい勢いで椅子から立ち上がってしまった。
 太陽の息がかかった右耳が熱くて、冷たい手で必死に冷やす。顔にもどんどん熱が篭っていって、体が小さく震えた。
「月、ここ図書室だから静かにしないと」
「う、うるさい。太陽には言われたくない」
「再試験が楽しみだなぁ」
 太陽が嬉しそうに微笑みながら教科書に視線を移す。

『全部の試験が合格点とれたら、大人がするキスしていい? それから、月の体にも触れてみたい。ねぇ、いいでしょ?』
 いつもより低い太陽の声が、頭の中から離れない。
 俺は髪を掻き毟ってから、テーブルに突っ伏す。なんで太陽はこんなにも真っ直ぐなんだろう……。
 きっと、この胸の高鳴りは当分治まってくれないはずだ。

 それから放課後図書室で勉強をするのが、俺と太陽の日課になっていた。
 太陽はもともと勉強ができないわけではなく、ただ勉強が面倒くさいだけなのかもしれない。きちんと教えてやればすぐに理解できるし、呑み込みも早い。ただ如何せん、集中力がないのだ。
 何問か問題を解くと、足で俺の足をつついてみたり、顔を覗き込んできたり。しばらく無視しているとノートに落書きをはじめてしまう。
 これはどうにかならないか……と悩んだ挙げ句、昼休みに売店で買ったチョコレートの箱を取り出す。そのチョコレートはアーモンドに包まれていて、俺も小さい頃から食べている大好物だ。
 太陽が飽きてきてしまったようで、俺の指に自分の指を絡めて遊びはじめた。「兄ちゃん手が小さいね」なんて、真剣に俺の指と自分の指の長さを比較している。
 そんな太陽に声をかける。顔から火が出そうなのをグッと我慢して……。
「ほ、ほら、太陽あーん?」
「ん?」
「チョコレートあげるから、もう少し頑張って」
「え? チョコレートくれんの? あーん」
 太陽は恥ずかしげもなく大きな口を開ける。まるで親鳥に餌をねだる雛みたいだ。
 俺は勇気を振り絞って太陽の口にチョコレートを放り込む。その瞬間、指先が太陽の柔らかい唇に触れて……心臓がトクンと跳ね上がる。慌てて手を引っ込めた。
「美味い!」
「な、なら、もう少し頑張ろう」
「うん」
 嬉しそうな顔をしながら再び教科書に視線を戻す太陽を見ていると、また少しずつ鼓動が速くなっていった。

 いよいよ、再試験が週明けに迫った金曜日の放課後。ラストスパートと言わんばかりに、俺は太陽に色々なことを教え込む。
 最初の頃は向かい合って勉強をしていたけど、最近は太陽の隣を陣取っている。隣にいれば、太陽の集中力が切れたときに肘鉄を入れることもできるし、糖分の補給でお菓子を口に放り込んでやることもできる。
 ……でも、正直、再試験で全教科赤点を回避することは難しいかもしれない。だって、俺はこんなにも焦っているのに、太陽はあくまでも通常運転だ。 
 ちょっとくらい焦ってほしい。そんな俺の願いは、太陽に届きそうもない。
「あのさ、太陽。少しくらい危機感を持ったらどうなんだ?」
「ん? なにが?」
「このままじゃ、再試験も落としそうな教科があるだろう? 太陽、不安とかないの?」
「んー、別に……ないかな」
 ポッキーを口に咥えながら屈託のない笑顔を見せる。
「あのね、太陽……」
「あ、いいこと思いついた」
「だから太陽……」
「今から俺とゲームしよう? それで兄ちゃんが勝ったら、俺もっと必死に勉強する」
 そう話す太陽は目をキラキラと輝かせている。すごく嫌な予感しかしない。
「なんだよ、そのゲームって」
「お、珍しくノリがいいね。じゃあ……」
 目の前で太陽が微笑む。先程からこちらをチラチラと盗み見ている女子の視線が気になって仕方がない。きっと、太陽が放課後毎日のように勉強にきていることが噂になり、普段は図書室になんて来ない生徒までいるのだろう。
 そう、太陽に会いたいがために。
 そんなことなどお構いなしに、太陽が教科書を勢いよく開いて目の前のテーブルの上に立てた。
 ――一体なんなんだ……。
 呆然と太陽を見つめていると、机に突っ伏した太陽に手招きされる。それは、まるで立てられた教科書に隠れているようにも見える。「なんだなんだ」と太陽に近づくと、口にポッキーを咥えていた。

「月、ポッキーゲーム知ってる?」
「な!?」
「月はこっちの端を咥えて? 先にポッキーを折ったほうが負けね」
「ちょ、ちょっと太陽……」
 狼狽える俺が面白いのだろう。太陽は満面の笑みを浮かべていた。
「だって、ここには俺達以外の生徒がいるんだよ? わかってる?」
「だから目隠しに教科書立てたじゃん?」
「だからって……」
 二人して体を屈めてヒソヒソと話す姿は、傍からはどのように映っているのだろうか。心臓がドキドキして、冷や汗が出てきた。頭の中が混乱してきて、呼吸困難になりそうだ。
「いいから、ほら月もポッキー咥えて?」
「でも……」
「可愛い弟の為でしょ?」
「太陽、いい加減にしてよ」
「月……」
 俺が太陽から体を離そうとした瞬間、腕を引かれる。その反動で、俺と太陽は教科書の壁に隠れて見つめ合ってしまった。
「月、お願い」
「…………」
「月」
 可愛くおねだりされてしまえば断りきれなくて、俺はポッキーに視線を移す。不思議と周りの騒音が聞こえなくなっていた。
 俺はポッキーの端を咥えて、少しずつ食べ進める。カリカリッと、クッキーを食べ進める音だけがやたら耳に響いて……少しずつ二人の距離が縮まっていく。太陽の温かな吐息が顔にかかった。
 ――あ、唇がついちゃう。
 そう感じて目をギュッと閉じる。いつの間にかテーブルの上で握り締めていた手に、太陽の手が重ねられていて。心臓がやかましいくらいに鳴り響いた。
 ――もう駄目だ……。
 パキッ。俺は思い切りポッキーを噛み砕き、太陽から体を離す。肩で息をしながら必死に呼吸を整えた。
 ――俺は、みんながいる場所で一体なにを……。
 冷静になって考えてみれば、血の気がサッと引いていった。
「へへ、俺の勝ち」
「太陽……」
「今日はもう帰って家で勉強の続きしよう」
 悪戯っ子のように笑う太陽を横目に、俺は火照る顔を両手で覆った。

 その週末、太陽は傍目でもわかるくらい一心不乱に勉強をしていた。ようやく危機感を持ってくれたとホッと胸を撫で下ろす。
 英語教師の栗原先生も、「最近の太陽は本当に頑張って勉強してる」って嬉しそうに話してくれた。先程から俺のベッドに居座ってワークを進めている太陽の頭を、そっと撫でてやる。本当によく頑張っていると思う。
「太陽、偉いぞ。頑張って」
「んー?」
 そんな俺を見上げたあと、突然飛び起きる。気が付いたときには俺は太陽に抱き寄せられていた。
 なんだ……そう思う間もなく、唇をフニフニと指先でつつかれる。予想もしていなかった太陽の行動に、俺は抵抗さえできなかった。
「俺はさ、留年しない、がもちろん目標ではあるけど、月とキスしたいから頑張ってるんだよ」
「え?」
「月の鈍感。アホ、マヌケ」
「ご、ごめんね」
 拗ねたように唇を尖らせる太陽に思わず謝罪してしまう。
「月、再試験全部クリアしたらキスしてくれるっていう約束……絶対に守ってくれよ」
「あ、うん」
 俺は恥ずかしくて顔を上げることさえできなくて。俯いたまま、そっと頷いた。

 週が空けた月曜日。再試験対象者が一斉に試験を受ける日だ。朝から俺は落ち着かなくて、ずっと教室でソワソワしている。おかげで授業も上の空だ。
 再試験は視聴覚室でやるって太陽が言っていたから、視聴覚室があるほうの校舎が気になって仕方がない。
「太陽、頑張って」
 傍にいてやれることさえできないことが歯痒くて。俺は強く拳を握り締めた。

 再試験が終わったあと、何の音沙汰もない太陽に待ちきれない俺はメールをする。「お疲れ様」「頑張ったね」「試験はどうだった?」と聞きたいことは山ほどあるのに……。
 太陽から返ってきた返信は「多分大丈夫なんじゃない?」という一言で。俺は一気に肩の力が抜けていくのを感じた。
「太陽……大丈夫かな……」
 俺は真っ青に晴れた空を見上げながら、大きな溜息を吐いたのだった。

 俺にしてみたら大きなイベントだった太陽の再試験。
 当の本人は何事もなかったかのように部活を再開し、普段通りの日常生活に戻っていった。
 相変わらず朝は一緒に登校して、太陽の部活が終わるのを待って一緒に下校する。当たり前の生活に戻ってしまった俺は、再試験があったことさえ夢のように感じていた。
 だって冷静に考えてみたら、高校で留年なんて余程のことがない限りありえない話だ。そう思えば、一生懸命悩んでいた自分が情けなくなる。
「何やってたんだろう」
 俺はなんだか馬鹿らしくなって外を眺めた。いい天気だな……って少しだけ気を抜いた瞬間、スマホがメールの着信を知らせる。
 もしかして……恐る恐るメールを確認すれば、案の定太陽からだった。
『再試験の結果が出たから、昼休みに屋上に上がる階段まできて』
 ――あぁ、ついにきたか……。
 やっぱり夢なんかじゃなかった。午前中の授業が終わった瞬間、俺は教室を飛び出す。気合いを入れて太陽が待つ場所へと向かった。

 その階段は屋上へと続いている。しかし、屋上に出るための扉には鍵がかけられているから、屋上へと行くことはできない。
 だから、ここはカップルの密会場所だって噂で聞いたことがある。そんな場所に呼び出された俺は、緊張してしまった。
 太陽はあんなに頑張っていたから、全教科の再試験が合格点だったらいいなって思う。だって、あんなに頑張っていたんだから。頑張っていた太陽の姿を思い出すだけで、胸が熱くなる。どうか、努力が報われますように……。

 屋上へと続く階段の一番上に太陽は座っていた。
 風が強いのだろうか? 屋上へ出るための扉がガタガタと音をたてて揺れている。
 太陽は眠そうな顔をしていて、欠伸なんかしている。こんなときまで緊張感のない太陽に可笑しくなってしまった。まったく君って奴は……。
「太陽」
 そっと近付いて名前を呼べば、弾かれたように顔を上げる。それからニッコリ微笑んだ。その顔を見ただけで、涙が出そうなくらい安堵してしまう。
「太陽、結果はどうだった? わっ!」
 俺は結果を聞かないうちに、太陽に抱き締められた。あまりにも力強く抱き締められて、一瞬息ができなくなる。
「月、ここにおいで」
「あ、うん」
 太陽の足と足の間に座らされた俺は、恐る恐るその顔を見上げた。こんなにも近くに太陽の顔があることが恥ずかしくて仕方がないけど、今は再試験の結果が知りたい。
「ねぇ、太陽……んッ」
 突然太陽に唇を奪われて、俺は真ん丸な瞳を更に見開いた。呼吸が止まりそうになったから慌てて太陽から離れようとすれば、後頭部を押さえられてしまい……それは叶わなかった。
 一瞬唇が離れたタイミングに息を吸おうとしたけど、またすぐに唇は塞がれてしまう。太陽に食べられてしまうのではないか? というキスに、もう何が何だかわからない。俺は必死に太陽からのキスを受け止めた。
「再試験、全教科合格点だったよ」
「へ?」
「おかげさまで、留年せずに済んだ」
 照れ臭そうにはにかむ太陽を見て、不覚にも目頭が熱くなってしまう。
 たかが中間試験くらいで泣くなんて、本当にどうにかしてる。でもなんでだろう。胸が熱くて苦しくて……でもすごく幸せだ。
「太陽、頑張ったね」
「うん」
 優しく頭を撫でてやれば嬉しそうに微笑む。太陽の笑顔に胸がキュッと締め付けられた。
「頑張ったからご褒美ちょうだい?」
「……もう貰ってるじゃん」
「こんなんじゃ、全然足りない」
「太陽……あ、んッ」
 少しだけ不満を漏らせば、眉間に皺を寄せた太陽にもう一度唇を奪われてしまう。
 まるで探るかのように、太陽の舌が口内に侵入してくる。そのたどたどしい舌遣いに、太陽の必死さが伝わってきて心が熱くなる。
俺は、太陽の舌を絡め取って自分の口内へと受け入れる。大人のキスがしたいって太陽が言ってたから。緊張のあまり、太陽のシャツを握り締めてしまった。
「月、可愛い……」
 耳元で太陽の甘ったるい声が響く。キスが気持ちよくて思考が正常に働かなくっていた俺は、虚ろな視線で太陽を見上げた。
 ――もっとキスして。
 口から零れ出そうになる言葉を必死に呑み込む。
 だって、そんな恥ずかしいことを言ったら、後でまた後悔することになるだろう。
 でも、でも……。太陽とのキスは気持ちがいい。
「月の体に触っていい?」
「……俺の、体に?」
「うん。普段洋服で隠れてるとこに触ってみたい」
「やだ、恥ずかしい」
「月、お願い」
 甘えるように囁く太陽の唇が、もう一度自分の唇に重ねられる。太陽の唇は温かくて、柔らかい。啄み合うように、その唇を堪能した。

 太陽が俺のシャツのボタンを外していく。それが恥ずかしくて太陽の手を掴んだけれど、やんわりと振り払われてしまった。
「月。月。可愛い」
「ん、はぁ、太陽……」
 額に頬、首筋に何度もキスをされて、俺は大きく体をしならせる。
 ――もっと太陽に触れられたい。
 太陽の頭を抱き寄せようとした瞬間……校内に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。
「……はッ」
その音で、俺は我に返る。
 ――こんな所で何をしていたんだ。
津波のように羞恥心が押し寄せてきた。心臓が口から飛び出るのではないか、というくらいドキドキして。体が自然と震え出す。でもそれと同時に、突然突きつけられた現実が悲しかった。
「ちくしょう……時間切れか……」
 太陽が悲しそうに呟く。
「このままサボって、ずっと月と一緒にいたい」
「太陽……」
「月とずっと一緒にいたい」
 子供のように自分に縋り付いてくる太陽を、強く抱き締める。
 胸の高鳴りが治まってくれなくて、胸が熱くて……目の前が涙でユラユラと揺れる。
 ――チャイムが鳴ってくれてよかった。
 俺は心の底から安堵する。こんな所を誰かに見られたら、自分達は終わりだ。そう思えば強い後悔に襲われる。
 それでも、俺の中で太陽の存在が、どんどん大きくなっていくのを感じた。

 最近思うことがある。
 朝の日差しが前より眩しく感じたり、隣で寝ている太陽がとても大切な存在だと思えたり。他の人からすると普通かもしれないけど、そういった少しの気づきが、俺には宝物のように感じられた。
 学校でも一緒に過ごすことができる友人ができたり、声をかけてくれる人とぎこちないながらも話ができるようになったり。少しずつだけど、太陽の影響を受けて変わっていく自分が嬉しかった。
 それでも、あの何の感情も宿っていないような父親の視線を思い出すだけで、背筋が凍るような感覚に襲われる。
 やっぱり月は、月のままで。太陽になれない。俺は幸せ過ぎて、そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。

 その日は、太陽から『今日は部活がなかなか終わらなそうだから、先に帰ってて』とメールが届いた。先に帰ってて、なんて久し振りだったから少しだけ驚いてしまう。『わかった。頑張ってね』と手短にメールをして、俺は図書室のテーブルに広げられていた教科書を片付け始める。
 リュックを背負った瞬間、また太陽からメールが届く。でも俺は、その内容を見て笑ってしまった。
『痴漢に遭ったら困るから、真っ直ぐ寄り道しないで帰るんだよ。わかった?』
 太陽は男の俺が痴漢に遭うなんて、本気で思っているのだろうか? そう考えると可笑しくて仕方がない。このどこまでも過保護な弟が、可愛らしく感じられた。

 久し振りに一人で電車とバスを乗り継いで家路につく。バスの窓から見える夜の海に、潮風の香り。そんな世界にもようやく慣れてきた。ただ、隣に太陽がいないことが寂しく感じられる。
「あいつ、ずっと俺にべったりだからなぁ」
 一人でポツリと呟く。
 太陽が家に帰ってくればまた会うことなんてできるのに、早く会いたいと思ってしまう。自分の考えが、少しずつ変わっていくことに戸惑いを感じながらも、俺は幸せだった。
 だから、やっぱり浮かれていたのかもしれない。現実はそんなに甘くないし、自分が犯した過去の罪はそう簡単に払拭できるものではない、ということを。
 自宅の最寄り駅でバスを降りる。空を見上げれば一面の星空が広がっていた。
 道路に転がっていた小石をそっと蹴れば、コロコロと転がっていく。その石が転がっていくのを視線で追いかけた俺は、思わず息を呑む。恐る恐る顔を上げれば、俺の目の前には……。
 ヒュッと喉が鳴り、呼吸がどんどん浅くなる。冷たい嫌な汗が額に滲んだ。
 そうだ……この前も俺が一人で下校したときに、この人が目の前の現れたんだった。心臓が痛いくらいに高鳴り出す。あぁ、太陽の部活が終わるのを待ってればよかったな……俺は強い後悔に襲われた。
 すぐそこに家が見えているのに、ひどく遠く感じられる。
「月臣」
「……父さん」
「今日はお前を迎えに来た」
「迎えに?」
「そうだ。お前には医者になってもらわなくては困る。だから、家に帰ろう?」
 まるで物を扱うような父親の言葉に、目頭が熱くなる。この人は、俺ともう一度一緒に暮らしたいから迎えに来たのではなく、ただ自分の跡取りがほしいだけだ……。そう思えば、心がズタズタに切り裂かれたように痛む。
 小説家になれ、と背中を押してくれた篤志さん。あの人はとても優しい瞳をしている。でも、目の前にいる人物の瞳は怖いくらいに冷たかった。
「嫌だ」
「月臣、言うことを聞きなさい」
「嫌だ、嫌だ……」
 俺は震える足を踏ん張って何とか後ずさる。血を分けた父親なのに、強い恐怖を覚えた。
「なら、力づくで連れ帰るだけだ」
「……そんな……」
「来い、月臣」
 突然腕を掴まれた俺は体を強張らせる。小さい頃から、俺はこの人に一度だって逆らったことなどなかった。そんな俺が今更歯向かうことなんて、できるはずがない。
――この人からは逃げられないんだ……。
 俺の本能がそう告げていた。目を閉じて全身の力を抜く。
 だって、俺はずっとこうやって生きてきたんだ。そしてこれからも……。あまりにも今まで生きてきた世界と違う世界に出会って、自分が幸せになったらいけないんだっていうことを、忘れてしまっていた。
――でも、最後に太陽に会いたかったな。
 目の前が涙で滲んでユラユラと揺れた。そのとき、俺は強くて温かなものに一気に現実へと引き戻される。それは大きくて逞しくて……俺を力いっぱい抱き締めてくれた。

「月から離れろ!」
「……太陽……」
「馬鹿だな、だから気を付けろって言っただろうだが?」
 自分を庇うかのように抱き締めてくれていたのは、太陽だった。太陽は顔を真っ赤にして肩で息をしている。こめかみには太い血管が浮き出ていて、激昂しているのが見て取れた。
「俺がいないときを狙って月に会いにくると思ってたんだよ。バスがないからって駅から走ってくれば案の定……本当に油断も隙もねぇ、おっさんだよ」
「なんだと? お前、口の利き方に気を付けろ」
「口の利き方じゃねぇだろうが? あんたこれ誘拐だぜ? それわかってんの?」
「…………」
「それとも、俺と喧嘩で勝負する? 言っとくけど俺、柔道有段者だよ?」
 そんな太陽と父親のやり取りを、俺は呆然と見つめることしかできない。ただ、駅からここまではかなりの距離がある。それを俺のために必死で走ってきてくれたなんて……。胸が熱くなった。
「警察を呼ばれたくなければ、もう月にちょっかいを出すな。月は『物』じゃないんだ。月が望む人生を生きればいいんだろう?」
「チッ。口の減らないガキが」
「あんただって、犯罪者にはなりたくないだろう?」
 父親を睨みつける太陽の体に更に力が籠められる。そんな太陽に抱き締められている俺は、少しだけ苦しくて眉を寄せた。
「……結局君も、太陽に絆されたんだな? 気色悪い」
「うるせぇ。純粋に月が好きなだけだ」
「もういい。月臣、また出直してくる。それまでに、きちんと医者になる覚悟をしておくんだぞ」
 まるで苦虫を噛み砕いたような顔をした父親が、俺達に背中を向ける。路上に止めてあった高級車が急発進していくのを、太陽と二人、無言のまま見送った。

「だから気を付けろって言ったじゃん! 月は隙だらけなんだよ! 俺がいなかったら、あいつに連れ去られてたかもしれないんだぞ!?」
「ごめん、太陽……ごめんね」
「あー、だからそうじゃなくて……」
 俺が唇を噛み締めて俯けば、太陽がもう一度抱き締めてくれる。一気に緊張から解放された俺は、太陽にしがみついた。もう立っているのがやっとで、足が小刻みに震えている。
「違うんだ、月。俺は月を困らせたかったわけじゃない。ただ、俺は、月とずっと一緒にいたいんだ。ただ、それだけなんだ」
「太陽、ありがとう……」
「これからも月のことは俺が守るから。だから、俺の傍にいろよな?」
「わかった」
 涙が溢れ出しそうになったから、慌てて手の甲で拭う。
「帰ろう?」
「うん」
 太陽がギュッと手を握ってくれて、俺達は手を繋いで家へと向かう。
 心は張り裂けそうなくらい痛かったけれど、繋いだ手はとても温かった。

◇◆◇◆
 
 父親と二度目の再会をしてから数日が経過したのに、未だに俺の心には小さなさざ波が立ち続けている。言いようのない焦燥感に襲われていた。 
 本が山積みになったベッドの上でボーッと海を眺めていると、俺を心配しているのだろうか、太陽がやって来た。太陽はいつも俺の心配ばかりしている。
今日も太陽は柔道の試合があったから疲れているはずなのに……。そんな中自分の心配までさせてしまうなんて、申し訳ない思いでいっぱいになってしまった。
「月、大丈夫か? 最近元気ない」
「あ、うん。大丈夫だよ」
 みんながいる前では『兄ちゃん』って呼ぶのに、二人きりの時は呼び捨てで名前を呼ばれる。だから名前で呼ばれると二人きりだって妙に意識してしまい、条件反射のように心臓が飛び跳ねた。期待や不安といった様々な感情が押し寄せてきて、溺れそうだ。
「大丈夫か? あの男に会ってから様子がおかしいよ。俺が来る前に何かあいつに酷いこと言われたの? それとも嫌なことでもされた?」
「大丈夫だよ、太陽。何も言われてないし、何もされてない」 
「嘘だ。月は俺に何かを隠してるだろう?」
「太陽……」
「俺は月が心配なんだ」
 今にも泣きそうな顔をした太陽が、俺をギュッと抱き締める。抱き締め返したい、けど……。そのまま両手を下ろした。俺が太陽を抱き締める資格なんてない。
「ごめんね、太陽。今日は試合だったんだろ? せっかく勝ったみたいなのに、お祝いもしてあげられなくて」
「そんなんどうでもいい。そんなことより月が悲しそうな顔をしてることが辛い」
「ありがとう。でも今は話せないんだ。ごめんね」
「わかってる。いつか話して? 待ってるから」
 太陽が鼻をすする音と、遠くから波の音が聞こえてくる。誰かの体温なんてはじめのうちは戸惑いでしかなかったのに、今はとても心地いい。いつか太陽に自分の過去を話せる時がくるだろうか。でも俺の過去を知ったら、きっと太陽は俺を軽蔑するだろう。それなら、隠せるだけ隠しておきたい。
「月、一緒に寝よう」
 軽々と俺を抱き上げると、そのまま太陽の寝室に向かう。一組の布団に二人で包まると、フワリと温かい空気に包まれた。それと同時に、父親に会ったときの恐怖心が徐々に薄らいでいく。ようやく体から力を抜くことができた。
 俺はこの温もりにすっかり依存してしまっている。自分の過去に太陽を巻き込みたくなんてないのに……。
「ごめんね、太陽」
 気持ちよさそうに微睡んでいる太陽の髪を、そっと掻き上げる。太陽の傍にいる喜びと、罪悪感で胸がいっぱいになった。
「ねぇ、太陽。キスしよう」
「月……」
「い、嫌ならいいよ。太陽、疲れてるから眠いよね。ごめん」
「全然嫌じゃない。嬉しいよ」
 俺は照れくさかったけど、自分からきっかけを作ってキスをねだった。素直に太陽に触れたいと思った。その思いを言葉にして、太陽に伝えたいとも……。それはグラスに入った氷がカランと音をたてて溶けていくようなイメージ。
 唇に太陽の柔らかな唇が触れた瞬間、胸が締め付けられる。でもこの感情から目を背けたくない。俺は太陽とのキスに陶酔していった。

◇◆◇◆

 放課後の図書室はとても静かだ。時々遠くから聞こえてくる生徒の声が、まるで違う世界の音のように感じられる。
 それでも最近変わったことがある。太陽の部活が終わるまでの時間を、一緒に過ごす友達ができた。友達と言っても一緒にどこかに出掛けたり、悩みを打ち明けあうような関係ではないけど。今の俺にしてみたら十分過ぎる友達だった。
 そう。俺にも以前は友達がいたんだ。あの出来事が起きる前までは。高校一年の時の出来事が、俺と家族の未来を変えてしまった。
 新しい街に引っ越して、新しい生活を始めて。何より太陽っていうキラキラ輝く弟ができたことで、少しずつ忘れることができていた過去の傷が、父親に再会したことでまた口を開けてしまった気がした。せっかく瘡(かさ)蓋(ぶた)になりかけていたのに、また温度のある血が流れ出しているのを感じる。
「百瀬君、百瀬君」
「あ、えっと、なに?」
「大丈夫? なんかボーッとしてたよ」
「大丈夫だよ。ごめんね」
 そんな俺を心配してくれる優しい友達が、俺の目の前で手をヒラヒラさせている。
「もうすぐ弟君が迎えに来る時間だろ?」
「俺達も帰るね」
「うん。また明日ね」
 また明日な、って手を振って図書室を出て行く友達。自分にこんな友達ができるなんて。心がすごく温かくなる。
「友達ってやっぱりいいなぁ」
 我慢しきれず上がってしまう頬を抑えながら、俺は笑ってしまった。ひどく懐かしい感覚だ。ニヤつきを抑えようとしていると、カタンという物音が聞こえる。部活でかなりしごかれたのだろうか。そこには気怠げな太陽が立っていた。

「兄ちゃん、さっきの友達?」
「あ、うん。俺にもようやく友達ができたんだ」
「へぇ、良かったね」
「太陽?」
 良かったね、という割には嬉しそうな顔をしていない。むしろ怒っているような、不貞腐れているな。太陽がこんな顔するなんて珍しい。「どうした?」とそっと頬に触れようとした瞬間。 
「月……」
「……え……?」
 そっと耳元で名前を呼ばれて、太陽の体重を感じる。ドサッという音と共に、俺は図書室の机の上に押し倒されていた。
 突然の出来事に太陽を見上げると、やはり今までに見たことのない顔をしている。いつも可愛らしく笑って大きな犬のようなのに、今は獲物を目の前に目を光らせる狼のようで。本能的に恐怖を感じた。
「た、太陽、どうした?」
「月は俺だけのものなのに……」
「太陽、ねぇ、離して。離してよ」
「嫌だ」
 強く腕を抑え込まれ、逃げ出すことなんてできない。
「月、好き。好きだ」
「んッ、んん……ッ」
 唇を押し付けられて強引に舌が入ってくる。クチュクチュと響く水音に硬く目を瞑れば、舌はさらに無遠慮に口内を這い回る。息もつけないほど濃厚な口付けに、飲み込みきれなかった唾液が頬を伝い流れた。そのまま太陽の唇は頬から首筋、鎖骨を這い回り、その度にチュッと強く吸われる。
「ちょ、ちょっと太陽……どうしたの? 太陽、こんなのヤダッ……!」
 ゴツゴツした大きな手が体をまさぐり始めた。その手は少しずつ艶(なまめ)かしい動きになり、思わず体を硬くする。忍び込んだ手がいやらしい手つきで腰を撫で始めたのを感じた瞬間、両手で太陽を突き飛ばした。
「はぁはぁ……やめろよ、太陽。はぁはぁ……これ以上は駄目だ」
 荒い呼吸を整えながら太陽を睨みつける。涙が滲んで溢れそうになる。
「ごめん、ごめんね、月。俺、月に友達ができてすごく嬉しいのに……月が誰かにとられちゃうかもって思ったら、めちゃくちゃ不安になった」
「太陽……」
「なんでだろう。月に幸せになってほしいのに、俺以外とはそうなってほしくない。だって、月を幸せにできるのは俺だけだ」
 床にしゃがみ込み頭を抱え、まるで呻くように言葉を紡ぐ太陽を見つめる。泣いているのだろうか……肩が小刻みに震えていた。
「俺は昔から楽天的で、いつもどうにかなるって思って生きてきた。実際どうにかなってきたんだ。でも月のことになると苦しくて苦しくて。どうしていいかわかんねぇ。なぁ、月。これって月に恋してるってことだろう?」
 顔を上げた太陽の目元は真っ赤で、子供みたいに鼻をすすり上げる。拙いながらも一生懸命に思いを伝えてくれるその姿が、とても愛おしく感じられた。
 こんなに素直に思いをぶつけてくる太陽の気持ちに応えたい……そう思う自分がいることに、もう一人の自分が警告を鳴らす。もう二度とあんな過ちを犯したくないんだ。

「月はこんなにも綺麗なのに、俺はこんなにも汚い。いつか俺が、月を汚してしまうんじゃないかって恐い。すごく恐い」
「太陽……」
 俺にしがみつく太陽を強く抱き締める。
それから、意を決して口を開いた。
「あのね、太陽。俺は綺麗なんかじゃないんだ」
「そんなことない! 月は綺麗だ。優しいし真面目だし。全然汚れてない」
 その言葉を聞いた瞬間、胸に針が刺さったような感覚に襲われる。太陽にはずっと自分の過去を隠して生きていこうと思っていた。嫌われたくなかったし、軽蔑されたくなかったから。
 それに、太陽に真実を打ち明けてしまえば、もう俺のことを「綺麗だ」なんて思わないだろう。むしろ、きっと……。でも、太陽は正面から俺にぶつかってきてくれた。話すなら、今だ。
「太陽、俺の話を聞いてくれる? なんで両親が離婚したのか。なんで俺が他人と交わることを避けてしまうのか」
 俺の言葉に太陽が顔を歪める。それでも俺から目を逸らすことはない。
「俺の過去を知ったら、太陽は俺を軽蔑するかもしれない。汚いって、思うかもしれない」
「月……」
「それでも聞いてくれるかな?」
「うん。俺も聞きたい。話してくれてありがとう」
 俺の手を取り頬擦りをしてから、太陽が静かに微笑んだ。

◇◆◇◆

 今日は母さん達が親戚のお通夜へ出掛けて遅くなるって言ってたから、作っておいてくれたものをレンジで温めて太陽と二人で食べた。結局心の準備ができていない俺は、まだ太陽に話すことができなくて……いつもより会話も少なく、ぎこちないながらも一緒に過ごした。
 太陽より先にお風呂に入って、自分の部屋から外を眺める。空には世界を青白く染め上げている、ボンヤリとした月。いつの間にか太陽は、地平線へとその姿を隠してしまっていた。
 なかなか話そうとしない俺を急かすわけでもなく、太陽はいつも通りにしていてくれた。「話さなきゃ」って口を開いてはみるものの、どう切り出すのがいいか分からず切り出すことができない。やっぱり太陽に嫌われたくない……そんな思いが決心を鈍らせた。
『帰りが遅くなりそうだから、親戚の家に泊まるね』
 母さんから連絡がきた。予想外の展開に、心臓が飛び跳ねる。
「じゃあ今夜は太陽と二人きりか……」
 一度そう意識してしまうと、急に体が火照り出すのを感じた。太陽と二人きりで夜を過ごすのは初めてだ。期待なのか不安なのか、心が落ち着かない。
「一体俺は太陽に何を求めているんだ……」
 自分で自分の気持ちを見失いながらも、意を決して太陽の部屋へと向かった。
「太陽、入ってもいいかな?」
 返事がないけど、そのままそっとドアを開く。
「入るよ」
 部屋の中を覗くと、淡い月明かりの下、壁に寄りかかり眠っている太陽を見つけた。学校でのことを気にしているんだろうか。目元が赤らんでいる。もしかしたら一人で泣いていたのかもしれない。
「太陽、太陽……」
「……ん? どうした?」
 ゆすって起こすと、まだ寝惚けた声を出す太陽が優しく髪を撫でてくれる。静かな空間には、遠くからの波の音しか聞こえてこない。月明かりだけでよかったって思う。不安でいっぱいのこんなかっこ悪い顔を見せて、太陽を困惑させたくない。
「なぁ、聞いてくれるか? 俺の笑えない昔話を」
「……うん、聞くよ。来てくれてありがとう。何を聞いても絶対に嫌いになんてならない」
 真面目な顔で見つめてくる太陽から目を背けたくなる衝動。どうしよう、やっぱり怖い……。でも、もう隠していることも苦しい。視界がユラユラと揺れて、隣の太陽がボヤけて見えた。ありのままの自分をさらけ出すことの怖さを思い知る。
「前に俺がゲイだって話しただろう?」
「うん。そうだね」
「こんな俺にも高校一年の夏、初めて恋人ができた。前の学校の同じ弓道部の先輩で、勉強も運動もできる人だった。そんな先輩に告白された俺は嬉しくて、すぐにその人に夢中になって……体の関係をもつのにも時間なんてかからなかった」

 目を閉じれば思い起こされる、甘い初恋。先輩は俺を大切にしてくれたし、優しかった。俺は初めての恋に夢中だった。
「月臣、好きだよ」
 そう微笑んでくれる先輩が俺も大好きだったし、先輩が卒業してからも、ずっと一緒にいたいと思ってた。俺達は、いつも放課後の弓道場の部室で逢瀬を重ねていた。そこは、誰にも知られない秘密の場所。部活が終わった後、毎日先輩が来てくれるのを今か今かと待ち侘びた。
「月臣、お待たせ」
「先輩……!」
 たった一日会わなかっただけなのに、まるで何日も会っていなかったかのように嬉しくなる。勢いよくその腕の中に飛び込めば、甘いキスをくれた。付き合って半年もたつ頃には、男に抱かれることに慣れるどころか、喜びまで知ってしまって。体を繋げる行為に溺れきってしまっていた。
「んッ、あ、はぁ……先輩、好き……」
「俺も好きだよ」
 先輩に気持ちいいところを突かれる度に、ユルユルと押し寄せる快感に酔いしれて。甘くて深い口付けに脳みそまで蕩けきって……。女の子みたいな声を出しながら先輩に抱かれ続けた。
 男同士だから、堂々と手を繋いでのデートもできなかったし、家には家族がいたからなんとなくお互い家で会うのも憚られた。だけど、それでもよかった。一緒にいられるだけで幸せだったから。
 同性が恋愛対象だったと自覚した時、とんでもない絶望感に襲われた。きっと、一生恋人なんてできるはずがない。諦めと同時に孤独感が押し寄せた。そんな俺にできた素敵な恋人。
 俺も先輩も夢中になり過ぎていて、冷静な判断ができなくなっていたんだ。ここは学校で、誰かに見つかるかもしれない場所だ……そんな簡単な常識が、頭の中から抜け落ちていた。
「俺が高一の冬のとき……先輩が卒業する間際に、部活の顧問にエッチしてるとこを見つかったんだ」
「部活の顧問に?」
「うん。先輩がもうすぐ卒業だったから公にはならずに、特に処分も受けずに事は済んだ。でも両親には当然連絡がいって……男同士で抱き合ってたなんて聞いた父親が逆上した。父親は厳格な医者だったから、俺は後を継いで、家庭を持って子供を授かって……みたいな将来を考えていたんだと思う。だから父親にとっては、同性愛なんてありえなくて汚らわしいことだ」
 当時のことを思い出すだけで体が震えて、胸が押し潰されそうだ。叫び出したい衝動をぐっと堪える。あんなに幸せだった時間が、忌々しい記憶となって津波のように襲い掛かる。
 俺は、その津波に飲み込まれないよう必死に過去から目を背け続けていた。

「父親はまるでゴミを見るような視線を俺に向けるようになった。母さんは俺を庇ってくれたから、父親と喧嘩をすることも増えて。暴力を振るわれることもあった」
「もしかして、月の両親が離婚した原因って……」
「そうだよ。俺がゲイだからだ。幸せだった思い出は、こんなにも否定や嫌悪の対象になる、家族を壊すものだって思い知った。俺は綺麗なんかじゃない。男に抱かれる喜びも知っているし、それで家族を壊したこともある。そんな重要なことを忘れてた。俺は自分勝手な感情から、大勢の人を傷つけてしまったんだ」
 自分の言葉に自分で傷ついて、涙が頬を伝う。でも仕方ない。だって、全ては自分が普通でないことがいけないのだから。
「だから俺はもう恋をしないって決めたんだ。それに、あまり深く人と付き合うことでゲイだってバレるのも怖かった。自分が気持ち悪いって思われることもそうだけど、それ以上にもう母さんを困らせたくない。真面目に生きて、勉強も学年トップをキープして。部長に生徒会長に学級委員……なんでも一番でいなきゃって死ぬほど努力してきた。そうすれば、本当の自分を隠すことができると思ったんだ……」
 涙がハラハラと溢れ出したけど、 最後まで話しきる覚悟で太陽を見つめた。
「月はズルいから、自分の都合で形を変えるんだ。満月になって注目を集めてみたり、三日月になって存在を隠したり。いつも同じ姿ではいられない。本当はずっと満月でいたいのに……太陽みたいに輝いてみたいのに……」
「じゃあ、月食みたいに、俺達の間を何かが邪魔してお互いの姿が見えなくなればいいの? 月にとって、俺達の間を邪魔するものは何? 過去の恋愛? それとも兄弟っていう形だけの関係?」
「太陽、痛い……」
 苦しそうに顔を歪める太陽に両腕を掴まれる。振りほどこうとしたけど、力で敵うはずもなく、逆に抱き締められてしまった。
「もう遅いよ。俺は月がこんなに好きだ」
「駄目だよ、太陽。母さんを悲しませたくないんだ。それに、俺達は住んでる世界が違い過ぎる」
「なんだよ、それ……」
「前に太陽がエッチしたことある? って俺に聞いたけど……俺は何回もあるよ。何回も男に抱かれた」
「月……」
「太陽は輝いてるんだから、普通なんだから、もっと素敵な恋ができるよ。そんな恋愛がきっと、自分たちだけじゃなくて周りも幸せにするんだ……」
「月が佐和子さんを大事にしてる気持ちは凄くわかるよ。でも、俺はこんなにも月が好きなんだ。今更、この気持ちをなかったことになんかできないよ……。佐和子さんを悲しませないくらい、月は俺が幸せにするから」
 俺を抱き締める腕が小さく震えて、話す声も涙も掠れる。そんな太陽に、俺はそっと押し倒された。怖いくらいに真剣な太陽の視線。最後の悪足掻きと言わんばかり体を捩らせた。

「俺、こういうことしたことないから教えて?」
 耳打ちされると体の奥が疼くのを感じる。ジワジワと燻る熱が少しずつ体に広がっていく感覚に、小さく身震いをした。
「駄目だって、太陽。今の話聞いてたか? 俺達が今一線を越えてしまったら悲しむのは母さんだけじゃない……篤志さんだって悲しませてしまうことになるんだぞ?」
「そんなん関係ない!」
「関係あるよ! 大体お前、俺で勃つのかよ!?」
「勃つよ! てか、もう勃ってる!」
 ついあげてしまった大声に、太陽が目を見開く。怒っているのだろうか? 切れ長の大きな瞳に涙がたくさん溜まっていて。そのうちの一粒が、俺の頬に垂れた。
 あったかい……。
 母さんにこれ以上を迷惑をかけたくない思いと、太陽の気持ちに流されてみたいという思い。二つの思いが心の中でぶつかり合う。
 その時、自分の中でいかに太陽が大きくなっていたか気付かされる。あんなに明るいものが苦手だったのに、いつからか光り輝く太陽に近付きたいと思う自分がいた。もう一度誘惑されたら、俺はきっと堕ちてしまう。所詮、月は太陽には勝てないんだ。
「月……しよう?」
「……やだッ……」
「月、可愛い」
 首筋に柔らかい唇が触れただけで、体がピクンと飛び跳ねる。そのまま前髪を掻き上げられながらキスをされれば、「ふッ、ん……ッ」と甘ったるい声を上げながら受け入れるしかない。様子を窺いながら入ってくる舌に恐る恐る舌を絡めると、勢いづいて唾液も流れ込んできて……夢中でそれを飲み込んだ。
 引き返せと警笛を鳴らす冷静な自分と、このまま快楽に溺れてみたいという好奇心旺盛な自分がせめぎ合って苦しい。それでも、若くて愚かなこの体は、目の前の太陽を求めていることを隠しきれていない。
 最後の理性を奮い立たせて太陽の体を突き放す。もう、あんな過ちを繰り返してはいけないんだ。
 でも、でも俺は……このまま太陽と触れ合っていたい。もっと体の奥深くまで可愛がってもらいたい。

「可愛い、可愛い。月、好きだ」
「あッ、はぁ……駄目だって、駄目……」
「もう黙ってて。言ってることとやってることがバラバラじゃん」
「ん……ッ……あ、ぅっ……」
 もう一度荒々しく唇を塞がれてしまえば、抵抗する気力も薄れて。それをいいことに、太陽の手が好き勝手に俺の体をまさぐり出した。
 期待にピンッと尖った胸の飾りを弄ばれ、体中を這い回る舌に感じているうちに、あっという間に着ているものを剥ぎ取られた。淡い月明かりの中舐め回すように見つめられ、恥ずかしくて顔を手で覆った。なんでこいつ、こんなに手慣れてんだよ……。初めてじゃないのかよ。
「痛かったら言ってね」
「あッ、あぁ、はぁ……」
 太陽の大きな手が、俺の恥ずかしいところを解していく。久し振りに与えられたその感覚に、ゾクゾクっと甘い電流が背中を駆け抜けて行った。
「あ、あ、あぁッ!」
「月、気持ちいい?」
「んッ、あ、もう無理……あ、あぁ……!」
 少しずつ広がっていく快感に、ブルッと体を震わせ軽く果ててしまう。背中をしならせながら余韻に浸る俺を見て、「本当に慣れてるんだね」って太陽が悲しそうに笑う。だからそう言ったのに……。
「……挿れていい?」
「……え……?」
「月の中に入りたい」
「あ、あぁッ! 太陽、待って、待って……!」
「待てないよ。だって月の中、めっちゃ気持ちいい」
 腰を押さえつけられたまま、熱い太陽自身を体の中に押し込まれる。誰かが中に入ってくる久しぶりの感触に 、体は嬉々としてそれを飲み込んだ。
「あ、あッ、あぁ……そこ駄目……」
「良かった、月、気持ち良さそう」
「太陽、あッ、あッ、た……いよう……あぁ……ッ」
 どんなに強がったところで、今更「気持ちよくない」なんて言っても説得力なんてないだろう。浅い部分を擦られたり深く突かれたりすると、津波のように気持ちよさが襲ってきた。
「月、好き、好きだ」
「んんッ、はぁ……あッ、あぁ」
 結ばれながらの深いキスは、肩で息をするくらい苦しくて。うっすらと涙が滲んでくる。汗が太陽の前髪を伝う姿も、凄く色っぽい。
 もう母さんが悲しむからとか、兄弟だからとか……そんな考えは頭から抜け落ちてしまっていた。今、あの眩しい太陽が自分の腕の中にある。それが嬉しいのに、苦しくて。自分達がとんでもない過ちを犯してしまったことに、気付く余裕がなくなっていた。
 耳元で太陽のうめき声が聞こえるとの同時に、二人の欲が弾ける。
 弾む息を整え、体の熱が少しずつ引いていくとともに、心がスッと冷めていく感覚に襲われた。

「俺は、一体何を……」
 頭の中を母さんの顔が過り、咄嗟に太陽の体を突き飛ばす。そんな俺を見た太陽がひどく傷ついた顔をしながら「ごめん」と呟いた。拳をギュッと握り締め俯いてしまう。
 俺は急いで床に散乱した衣服を身に着け、太陽の部屋を後にした。
 
 まだ完全に気持ちが整理できたわけではないのに、体が繋がってしまった俺達。どう接したらいいか分からなくて、その後太陽を避けるようになってしまった。
 ちょうどその頃、太陽は柔道の関東大会への強化練習が始まったらしく、朝早く家を出て帰ってくる時間も遅くなっていた。それが不幸中の幸いに思える。

 高一のあのことがあってからキラキラしたものが苦手だったのが、最近少しだけ陽の当たる場所に出て来られた気がしたけど……それはただの思い込みで、太陽が近くにいないだけで俺はいとも簡単に雲に覆われてしまう。
 そして俺は、まだ臆病なままだ。
 それに離れてみて再確認する。太陽がどれだけ眩しい存在なのかを。みんなの人気者で、彼の周りはいつも笑顔で溢れている。俺とは全く異次元の存在。
「俺は、本当にあいつに抱かれたのかな……」
 夢のようだと思ったこともあるが、それでも、あの時太陽が鎖骨に付けた跡を見る度に「夢じゃなかったんだ」と思い出す。傍にいると熱くなるのに、遠くに離れればその温かな日差しが差し込むことはない。兄弟として、だけどお互い好き同士で、なのにまだその気持ちが受け入れられなくて……。距離感がわからなくなっていた。
 お風呂から上がり、トボトボと部屋に向かう。今日太陽の姿を見たのは、いつもみたいに昼休みにサッカーをしているところだけ。大声で叫んだって太陽には聞こえない、そんな遠くから見ただけだった。
 自分でもワガママだってわかってる。近くにきすぎないでほしいのに、傍にいてほしい。こんな複雑な思い、誰が理解できるだろうか。自分にだってわからないのに。
「兄ちゃん」
「太陽……」
「髪ビショビショじゃん。風邪ひくよ」
「あ、うん。ごめん」
 今帰ってきたところなのだろう。太陽が近付いてきて、タオルで髪を拭いてくれる。太陽の手が体に触れる瞬間無意識に体が強ばってしまい……それを察した太陽が悲しそうな顔をした。
 それに太陽は、俺のことを『兄ちゃん』って呼んだ。世間一般では正しい呼び方なのに、今はひどく遠い存在に感じてしまう。最近は別々の部屋で寝ているから、一緒にいる時間なんてほとんどなかった。
「じゃあ飯食ってくるね、おやすみ」
 ふっと笑ってから母さんが待つリビングへと向かう。柔道の稽古が厳しいのだろうか? 疲れた顔をしていた。そんな太陽に触れたい気持ちを抑えて、俺は拳を握り締める。太陽の背中をそっと見送った。

 自分の部屋で寝るようになって、少しだけ部屋の中を片付けた。やる気になればこんなにすぐ片付くんだ……きっと、太陽がやってもそうだったんだと思う。
 なんやかんやで、一緒にいる理由が欲しかった。一度抱かれる快感を思い出してしまった体は、切なく疼き続ける。目頭が熱くなり、唇を噛み締めた。ここで泣いたら自分が惨めになる気がしたから、だから泣きたくなかった。
「太陽……」
 我慢しても結局溢れ出してきてしまい、俺は枕を抱き締めて顔を埋めた。
 コンコン。ドアをノックする音に顔を上げる。
「兄ちゃん、入って大丈夫?」
「あ……うん。大丈夫だよ。もうご飯食べたの?」
 急いで目元を拭ったが、さっきまでの憂鬱さは嘘みたいに飛んでいく。
「もしかして、泣いてたの?」
 心配そうに俺の顔を覗き込んだ太陽が、 残っていた涙を優しく拭ってくれた。
「ううん、大丈夫。泣いてないよ」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫だよ。太陽」
 いけない……頭ではわかっているのに、体が勝手に太陽の手を握る。突然の行動に太陽の体が一瞬強ばったように感じたけど、すぐにギュッと抱き締めてくれる。
 もし兄弟じゃなかったら……俺が女の子だったら……俺達は簡単に結ばれたのだろうか。そうだとしたら、神様は意地悪だなって思う。

「ねぇ、太陽……最近、避けちゃっててごめんね」
「ううん、俺のほうこそごめん」
 俺の猫っ毛を優しく撫でながら、太陽が首を傾げる。
「……あのね、太陽。俺が生まれた日は、十三夜だったんだ」
「へぇ、そうなんだ」
「そう。十五夜の月は真ん丸なのに十三夜の月は少しだけ欠けてるんだよ。俺はどう足掻いても完璧にはなれない。どこかが足りないんだ。それをどうにか隠さなきゃって無我夢中で頑張ってきたのに……やっぱり駄目なんだ」
「ふーん……」
 太陽が少しだけ寂しそうに呟いてからクスクスと笑う。それが擽ったくて、俺は肩を上げた。
「俺は、不完全な兄ちゃんが好きだよ」
「え?」
「だって完璧だったら一人で生きていけちゃうから、俺は一生必要とされない。でも不完全だったら、いつか俺を必要としてくれるでしょう?」
 本気なのか冗談なのか……と思って見ると、いつになく真剣な顔で俺を見つめる太陽がいた。その真剣さに少し体が縮こまる。やっぱり俺は、どこまでも弱くて卑怯者だ。
「それに兄ちゃんがゲイって知って、俺にだってチャンスがあるんだって思えた。兄ちゃんはそれで悲しい思いをしてきたのかもしれないけど……ごめんね、俺は兄ちゃんがゲイで良かったって思った」
「太陽……」
「兄ちゃんと何となく気まずくなって、距離ができちゃって……めちゃくちゃ寂しかった。でももう我慢の限界。ずっとずっと月に触りたかった」
 月って名前で呼ばれた瞬間、胸が締め付けられる。なのに「俺も」っていう素直な言葉が出てきてくれなくて、思わず俯いてしまう。太陽の真っ直ぐ過ぎる視線が痛かった。
「俺さ、ずっと考えたんだ。俺はやっぱり月が大好きだから、体だけじゃなくて、心も、過去に起こった悲しい出来事も全部受け止めたいって思う」
「太陽……」
「辛かった過去も、それからこれから来る未来も、全部俺が受け止めて月を幸せにする。だって俺は月が大好きだから」
 太陽の真剣な眼差しに、一瞬で体が火照り出す。今度こそ心臓が痛いくらいに早鐘を打った。そんな俺に追い打ちをかけるように、そっと耳打ちされる。
「ねぇ、いいでしょ? 俺は月を抱きたい……」
 太陽の甘くて低い声にギュッと目を瞑ったまま、コクンと頷いた。
「できるだけ、優しくするね?」
 そのままそっと、本に囲まれたベッドに押し倒される。一瞬高揚した気分は、ふと背徳感に姿を変える。……また、してもいいのかな?
 気持ちが整理できないまま太陽を見上げれば、緊張しているのか、その顔が強張って見える。そんな太陽を見て感じた。本当は俺も太陽もお互いに触れ合いたくて仕方ないだけ。温もりが恋しくて仕方ない……。俺達は共犯者。二人で罪悪感を抱えたまま、ベッドに沈んだ。

「ふぁ、ん、んん……ッ」
「月……」
 唇の重なる音が鼓膜に響いて、羞恥心が掻き立てられる。恥ずかしいのに興奮していく。痛いくらいの力でベッドに押し付けられて身動きがとれない。俺に刺激を与える手は、本当にこれが俺に向けられているのかと信じられないくらい、優しかった。
「月、月……」
「あぅッ、あ、あッ」
待ち侘びていた快感に、体が打ち震えるのを感じる。どんなに綺麗事を並べても、俺は太陽に触れたかったし、触れられたかった。
「ん、んんッ、はぁ……」
 貪られるように口付けられて苦しくて逃げ出そうとしても、すぐに簡単に捕まってしまう。口から溢れ出しそうな唾液を必死に飲み込んだ。桜の蕾のように期待に膨らんだ胸の飾りも、熱を帯びた俺自身も、太陽を受け入れる一番恥ずかしいところだって……俺の全部が太陽を求めてやまなかった。
それなのに、やっぱりどうしていいかわからない。何が正解かわからない。わからないならこのまま流されてしまえばいい……半分諦めが入った俺の頬を、太陽が悲しそうに撫でた。
「お願い、自暴自棄にならないで」
「太陽……」
「欠けた月は俺が真ん丸にしてあげるから。だから、俺から逃げないで」
 太陽の瞳から溢れ出した涙がポツリと落ちて、俺の頬を伝ってシーツにシミを作った。
 乳首に吸い付いたり舌で弄んだり、受け入れる場所を丁寧に解したり。身を任せているうちに、前回も感じた疑問がまた首をもたげる。
「なぁ、太陽……ん、んんッ……本当にこの前が初めて?」
「ん?」
 あまりにも慣れた手付き。さっきだって手際よく洋服を脱がされた。俺が初めての相手だなんて、ちょっとだけ疑わしい。
「なんでそんな意地の悪いこと言うの?」
「ん……ッ、はぁ……」
 ムッとした顔をした太陽に、また唇を奪われる。あ、ヤバい……って感じるくらい深いやつ。案の定息もできないくらい舌で掻き回された。苦しくて太陽の背中を軽く叩く。
「あ、むぅ。苦しッ、太陽……苦しい……」
「だって……月が……」
「ごめん、ごめんね、太陽」
 不貞腐れたように拗ねた顔をする太陽を見ると、「やっぱり年下なんだな」って可愛く思えた。
「一生懸命勉強したんだ。動画見たり、本読んだり。いつか、月とエロいことしたかったから」
「た、太陽……」
「ほら、緊張で手が震えてる。頭の中だって真っ白なんだから……お願い、黙って可愛く感じてて」
 いつの間に準備していたんだろうか。ゴムの封を口で切るとクルクルッとつけている。でも確かに、よく見たらその手はどこかぎこちない。
 飢えた狼みたいに目をギラギラと光らせて、荒い呼吸をする太陽。そんな太陽を見るだけで、ゾクゾクッと背中を電流が走り抜ける。多分俺は、これから太陽にされることを想像して、期待してるんだ。
「月……」
「大丈夫だよ、太陽。おいで」
 不安そうに俺の顔を覗き込む太陽に、チュッと自分からキスした瞬間。
「あ、あ……あ、あッ!」
「クッ、月の中気持ちいい」
 一気に中を突かれた。熱くて硬い太陽に体を押し開かれる感覚に、背中をしならせて感じ入る。無意識に逞しい背中にしがみついた。

 そのままリズムよくお腹の中を擦られて、時々口付けられて。頭の中がボーッとしてくる。堪えきれない声を押し殺そうと唇を噛めば「駄目、声聞かせて」って耳打ちされる。その低い声に、抑えようとしていた声が一気に溢れ出した。
「あ、あぁッ、あ、あぁ! 気持ちいッ、太陽、気持ちいいよぉ」
「よかった、月。ごめんね、下手で」
「あ、ヤダッ、あぅ、あ、んんッ」
 中を突かれながら胸の飾りを口に含まれて、俺自身を刺激されて。完全にキャパオーバー。もう太陽のペースに飲み込まれてしまった。ただ気持ちよくて、意味のわからない涙がポロポロ溢れてくる。
「もっと、もっと深く入ってきて……」
「月、体は平気?」
「うん。あ、あッ。気持ちいいから、もっと激しくして……んんッ、そこ気持ちいぃ……あぅ、あぁ」
「めっちゃエロいお兄さんだね」
「そんなこと、言うなぁ……」
「本当に可愛い」
「あ、あぁぁッ! あ、あッ、気持ちいい……」
 激しく突かれて、深いキスをして。体が蕩けてこのまま太陽と混ざりあってしまうんじゃないかって思う。そんな俺達を、空に浮かぶ細い三日月の光がそっと包み込んでくれた。
「月、好き。大好き」
 泣きそうな顔で何度も囁いてくれる。そんな太陽を見て思う。もう、自分の気持ちを隠し通すなんてできない。 全部洗いざらいぶちまけて、楽になりたい。太陽にも、家族にも……。 
 ドクンと熱い鼓動を感じて、太陽がイッたことを知る。耳元で小さな悲鳴が聞こえた。お互い加減なんかできなくて、夢中で抱き合った。肩で息を整えると、どっと疲れが込み上げてくる。
「んんッ」
 太陽自身が引き抜かれていく感覚に身震いをする。

 気持ちよかった……放心状態だった時、クルンッと体をひっくり返された。「え?」なんて思う暇もなく、熱く高ぶった太陽がまた入口に押し当てられる。
「月、まだ全然足りない」
「嘘、でしょ……」
「俺、まだまだ収まらないし、明日学校も部活も休みだから。お願い、もう少し頑張って?」
 可愛くおねだりされれば断るなんてできない。
「……いいよ、好きにして」
 枕を抱き締めて、太陽がやりやすいように蹲る。
 全国大会常連の柔道部エースが力尽きるまでって、どれくらいなんだろう。それを想像すると怖かったけど、なんでだろう……可笑しくなってくる。
 どれくらいの時間が経ったのか。めちゃくちゃに抱かれて気を失いかけた頃、ようやくその腕から解放された。事後の気怠さを纏った太陽が、グッタリとした俺を見ながらクスクスと笑う。
「ごめんね、やり過ぎたわ」
 そんな無邪気な顔まで輝いている。けど、冷静になってしまえば、次に襲ってくるのは罪悪感。「いけないことをしてしまった」という罪の意識はやっぱり消えない。
「大丈夫だよ、大丈夫。俺がついてる」
「太陽……」
「怖がらないで。俺が守ってあげるから。だからお願い、後悔しないで」
 温かくて大きな手が、俺の手を包み込んでくれる。あったかい……自然と気持ちが落ち着いてくる。年下なのに凄いなって思う。
「俺さ、小さい頃から一人でいることが多かったんだ。親父はその頃、朝から晩まで何かに取り憑かれたかのように小説を書いてて。きっとお袋が死んだ寂しさをそうやって紛らわせてたんだろうけど。俺は凄く寂しかった」
 太陽がポツリポツリと話し出す。

「お袋が死んで悲しかったのは俺も同じなのに。俺だって誰かに甘えたかったのに、ガキのくせにそれが親父に言えなかった。逆に、大丈夫だからって強がって笑って。でもいつも笑ってると、みんなが俺の周りに集まってくるんだ。だからいつの間にか友達もいっぱいできた」
「寂しいから、笑ってたの?」
「うん。笑ってれば友達が集まってきてくれて、寂しくなんかなかった。学校ではね」
 寂しそうに笑う太陽を見て胸が痛む。太陽はただかっこよくて、キラキラ眩しい存在かと思っていた。でも太陽だって一人ぼっちで寂しかったんだ。 辛くて全ての過去を切り捨てて一人の世界に籠った俺と、寂しかったからこそ笑顔でい続けた太陽。こんなにも違う。
 弱い俺に、強い太陽。
「でも家に帰るとやっぱり一人ぼっちで……学校で楽しかった分、一気に寂しくなるんだ。それが何年も続いて、親父が再婚することになった。その時、自分に兄弟ができるって知ったんだ。あの時は嬉しかったなぁ。俺はもう、一人じゃなくなるんだって思えたから」
「そうなんだ……」
「実は俺さ、兄ちゃんになる人がどんな人か気になって、何度が月を見に行ってるんだ」
「え? 本当に? それっていつ頃?」
「そうだなぁ。初めて会いに行ったのは、俺が高一のとき。雪が降るような寒い頃だったよ」
「そうなんだ、全然気が付かなかった」
「だって、気づかれないようしたんだもん。見に行く道中から、ドキドキしたし凄くワクワクした。で、初めて月を見て、びっくりしたんだ」
「何をびっくりしたの?」
「月があまりにも可愛くて」
「え?」
 想像もしていなかった言葉に頬が火照り出す。
「凄く可愛くて、あっという間に視線を奪われた。別に男が好きとかじゃなかったのに……。あんな可愛い人が兄ちゃんになってくれるなんて夢のようだ、って思って、それから何回か見に行った。兄ちゃんだから、惹かれたんだ」
「そんなの、全然気づかなかった」
「ふふっ。でしょ? でもさ、月はいつも一人ぼっちだった。いつも一人で寂しそうな顔をしてて。そんな月が自分にダブって見えた。寂しいのは、自分だけじゃないんだなって。そんな月を見てるうちに、自分が守ってあげたいって思うようになって……気付いたら好きになってた」
「え?」
「ごめんね。俺、月と初めてちゃんと会った日には、もう月のことが好きだったんだ」
 その言葉に心臓が大きく波打つ。
 ――もしかして、太陽がずっと好きだった人って……。
「月は、俺の気持ちに応えてくれる? それともまだ怖い?」
「……うん……ごめん、ごめんね……。決められないよ……」
「そっか。わかった。ゆっくり、兄ちゃんのペースでいいから」
 弱虫な俺は、それでも踏み出すことができない。かと言って、ようやく手に入れたこの温もりを手放すこともできない。
「とんでもない我儘野郎だ……」
 こんな自分を抱き締めてくれる太陽にしがみついて、自己嫌悪だけが募っていく。過去を手放すことも、未来に進むこともできない自分が歯痒くて苦しくて……。

 誰かが階段を登ってくる音に目を覚ます。「もう朝か……」とうっすら目を開く。
「誰か来る……」
 その瞬間、サッと血の気が引いた。だって今俺達は裸で抱き合っているのだ。こんなところを篤志さんや母さんに見られたら……慌てて洋服を着ようと太陽に背中を向けると、「シーッ」と耳打ちされる。
「ちょ、ちょっと太陽……待って」
「いいから、月。声出すなよ」
「え……ッ」
 太陽に後ろから羽交い絞めにされると、後孔に熱いものが押し当てられた。俺がヒュッと息を飲むと、それはグググッと俺の中に侵入してくる。昨夜散々虐められたそこはまだ柔らかくて、簡単に太陽自身を飲み込んでしまった。
「あ、あぁ……あ、ん……」
 少しずつ体を開かれていく感覚に、ブルブルッと体が震える。快感が爪先から頭のてっぺんへと広がった 。
「月臣、太陽君。まだ寝てるの?」
 いつまでも起きてこない俺達を心配した母さんが様子を見に来たらしく、廊下から声をかけてくる。
「ヤバい……」
 また誰かに見られる。
今すぐこんなことやめさせたいのに、馬鹿力の太陽に叶うはずなんてなく。漏れそうになる声を押し殺すことしかできない。太陽の腕にグッと爪をたてて奥歯を食い縛った。
「月、いい子だから我慢しててね」
「んんッ、あぁ……あッ!」
 一気に奥まで突き上げられて、目の前に火花が散る。そのままゆっくり中を擦られて、恐怖と快感に涙が溢れた。
「月臣、太陽君。大丈夫?」
「佐和子さん、おはよう。すみません、遅くまでゲームしてたから今まで寝てて。もう起きます」
「そう。なら朝ご飯用意して待ってるわね」 
 母さんの足音が遠ざかっていくのを感じた俺は、そろそろと太陽を振り返る。
「太陽、やめてよ。また誰かに見られたら今度こそもう立ち直れない……」
「ごめんね。でも、なんて顔してんだよ。エロすぎだろう。月、可愛い」
 突然激しく攻め立てられて、一気に気持ち良さが押し寄せてくる。もしまた見られたら、という恐怖も罪悪感もあったけど、太陽の温かさの前ではそんなことはもうどうでもよかった。
「クッ」
「あぁッ! あ、あッ!」
 最奥まで侵入を許し、自分自身から熱い精が放たれたのを感じる。同時に果てたんだろう太陽が、俺にしがみついて荒い呼吸をしている。
「月……偉いね、よく我慢できたじゃん」
「はぁはぁ……なんでこんなこと……」
「ごめんね、何となく月を虐めたかっただけ」
 優しく髪を梳いてくれた後、優しいキスをくれる。結局俺は、また気持ちを整理しきることができないまま体だけ繋げてしまった。

◇◆◇◆

 いよいよ関東大会が近付いてきた太陽は練習に明け暮れる生活に戻り、すれ違いの生活が始まった。もう少し太陽と一緒にいたい、そう思うのに、素直に伝えることもできない。いつまで俺はこのままなんだ……自分の踏ん切りのつかなさに、嫌気が差す。
「兄ちゃん!」 
 トボトボと俯きながら家に向かって歩いている途中、聞き慣れた声が背後から聞こえたから弾かれたように振り向いた。
「太陽……」
「よかった。久し振りに兄ちゃんにちゃんと会えた」
 鼻の頭をポリポリと掻きながら太陽がはにかむ。
 会いたかった……心の底から湧き上がる思い。同じ屋根の下で生活してるくせに、こんなの笑えてくる。でも俺は、久しぶりに太陽に会えて嬉しかった。
 素直になりたい。三日月じゃなくて真ん丸な満月になりたいんだ。自分から少しだけ近付いてみよう……ギュッと拳を握り締めてから、太陽を見上げた。
「俺も、太陽に会いたかった」
「え……?」
 そっと近付いて腰に腕を回し、太陽の逞しい胸に顔を埋めた。俺の行動が予測できなかったのだろう。切れ長の目をパチパチと大きく瞬かせた。そんな太陽の反応が少しだけ楽しくて、更に腕に力をこめる。
「こんなとこで抱き合ってたら誰かに見られちゃうかもよ? いいの?」
「別にいい。だって今太陽に甘えなかったら、今度いつ甘えられるわからないもん」
「なぁ月。まだ気持ちの整理つかない? 男と付き合うの怖い?」
「太陽に触れたいって思うし、触れられたいとも思う。でも……やっぱりこんな関係は間違ってるんだって思う自分もいる……だから、どうしたらいいかわからない……」
「そっか、そうだよね……」
 耳元で聞こえる太陽の声は、心なしか震えているような気がした。

 そんなある日。
 今日は朝から家の中が騒がしかった。柔道関東大会の個人戦当日らしく、母さんがいつにも増して張り切って弁当を作っているようだ。まるで自分達が試合に出るみたいに興奮している篤志さんと母さんに見送られ、太陽は家を後にした。「頑張って」って言いたかったけど、そんな二人の勢いに負けて言い出すことができなかった。
 試合の結果が気になってしまって、授業中も上の空で。気が付けば太陽のことばかり考えていた。
「優勝できるといいな」
 早く太陽に会いたい、きちんと話せないかもしれないけど……。

 家が見えてきて走ろうとしたその瞬間、名前を呼ばれて振り返る。視線の先には、またもやあの人が立っていた。
「……父さん」
「月臣。この前話したことの答えを聞きに来た」
「この前の話?」
「そうだ。男を好きだなんて寝言はやめろ。医者になる決心はついたのか?」
 いきなり本題に入るこの人に、委縮しないよう意識的に時間をかけて深呼吸をする。
「俺は……」 
 その時、スマホがメールの受信を知らせる。メールを確認すると、送り主は太陽だった。
『関東大会、優勝したよ』
 その一文に、俺の心は跳ね上がる。喜びに浸る暇もなく続けざまに送られてくるメール。その内容に、盛り上がった気持ちがヒュッと冷めた。
『今までしつこく迫ってごめん。迷惑だったよな? もっと月の気持ちを尊重するべきだった。これで終わりにするね』
 え、待って。
 なんで突然……。
 心が、頭の中が凍り付いてしまったかのように動いてくれない。目の前が真っ暗になった。
『月が望むように、俺、弟に戻るから』
 太陽のその言葉に、今目の前にいる人のことを一瞬忘れる。いつかこうなるかもしれないってわかっていたはずなのに。あまりにも突然のお別れに、何の心の準備もできていなかった俺の心は打ち砕かれた。

「俺がずっと踏み出さないから、離れていっちゃうんだ……」
 太陽は何にも恐れずに思いを伝えてくれた。それなのに弱虫な俺は逃げてばかりいて……思いに応えることも、太陽を突き放すこともできなかった。こんなんじゃ愛想をつかされて当然だ。
「行っちゃう。太陽が離れて行っちゃう……」
 溢れ出した涙が地面にシミを作る。
 いつも太陽は傍で笑っていてくれた。こんな不完全な俺の全てを受け入れてくれたし、どんなに無様な姿を見せても否定なんてしなかった。俺の全てを太陽の日差しみたいに温かな笑顔で見つめてくれてた。
 そんな優しさに、いつまでも愚かな俺は甘えていたんだ。
 本当に、痛い目を見ないと成長できない自分が心底情けない。また大切なものを失っていくのだろうか……。
「太陽、まだ間に合うかな? 俺も太陽みたいになりたいんだ。太陽ほど輝けるかは分からないけど…… 」
 俺は涙を拭いて、三度父親と向かい合う。泣いている息子を見ても顔色一つ変えない冷たい視線に圧倒された。でもここで自分の気持ちを押し殺していい子を演じてしまったら、今までと何も変わらない。
 変わらなくちゃいけない。黙ってばかりじゃダメなんだ。ちゃんと父親に気持ちを伝えて、太陽にも伝える。太陽の傍にいたいから。変わらなくちゃ……。拳を握り締めてキッと父親を睨む。
 太陽、見ててほしい。俺、変わるから。

「父さん、俺は医者にはならないよ。小説家になりたいんだ」
「なんだと? 何馬鹿なこと言って……」
「もう俺は、貴方の言いなりにはならない。それに俺はゲイだ。男が好きだ。自分を偽って生きる気なんてない。俺は、こういう自分を愛してくれる人と一緒にいたい。だから、もう会いにこないでほしい」
「月臣……」
「俺は今、幸せだから。今まで育ててくれてありがとうございました。これからは母さんの……自分を大切にしてくれる人たちの為に生きていきます」
 頭を下げた後、家に向かって走り出す。途中で父親が俺の名前を呼んだけど、振り返ることはしなかった。

◇◆◇◆

「ど、どうしたの月臣……」
 突然息を切らし泣きながら帰ってきた俺を、母さんが心配そうに出迎える。篤志さんも慌ててリビングにやってきた。
「はぁはぁ……俺、篤志さんと母さんに、話したいことがあって……」
「とにかく少し落ち着きなさい。ほら座って」
 肩に置かれた篤志さんの手をそっと払い除けて、俺は二人に向かい合った。
この人達も悲しませてしまうかもしれない。せっかく慣れてきた新しい家族から、「気持ち悪い」「最低だ」って軽蔑されるかもしれない。でも、今の俺には太陽を失うこと以上に怖いことなんてないんだ。だからきちんと向き合わないと。
「母さんは知ってると思うけど、俺は、ゲイなんだ。そのせいで母さんと父さんは別れた。学校では友達にゲイだって馬鹿にされたくないから、死ぬほど頑張って優等生を演じてた」
「月臣……」
「あと、ごめんなさい。もう一つ、やっちゃいけないことをしたんだ」
 目に涙を浮かべる母親の視線が痛くて、思わず俯いた。これじゃ今までと変わらない。俺はあれからいつもこうやって下ばかり向いて生きてきたんだ。自分の殻に閉じこもって。でも、これからは……。
「俺は篤志さんの大切な息子さんと、男同士でしてはいけないことをしてしまいました。ごめんなさい。ひどい裏切り方をして」
 拳をギュッと握って唇を噛み締める。
「ごめんなさい」
 篤志さんに殴られても仕方ない。その覚悟もできていた。
「……そんな月臣君には、大事な太陽を任せられないな」
「篤志さん……」
 予想通りの言葉だったはずなのに、その一言は俺の心を打ち砕いた。わかっていたし、覚悟だってしていたはずなのに。
「泣き喚いて土下座して、それでも太陽が好きだ! ってくらい強い気持ちがないのなら、月臣君に太陽は任せられないよ。自分達を認めてくれないなら世界の果てまで駆け落ちするとか、世の中をひっくり返すくらいの気持ちがないなら、太陽のことは諦めてほしい」
 真剣な顔で篤志さんに見つめられ、何も言い返せなくなってしまう。確かに篤志さんの言う通り、結局俺は意気地無しだ。だから今までだって、優等生っていう仮面に縋っていたんだ。 今だって、自分たちを認めてほしいのか、ただ謝りたいのか、はっきりしてなかった。

「もう、篤志さんったら意地悪ね。あんまり月臣を虐めないでちょうだい」
「だって、佐和子さん」
「月臣は繊細なの。繊細で優しくて臆病で……でも一生懸命伝えてくれてるんだから」
 母さんが愛おしそうに目を細めて、俺の頭を撫でてくれた。
「実はね、母さん達二人がお互いに恋してるって知ってたの。黙っててごめんね」
「な、なんで知ってるの!?」
 楽しそうに目を細める母さんを見て、俺は体が飛び跳ねるくらいびっくりする。
「だって、この前太陽君と一緒にカレーを作ってるとき、『俺、兄ちゃんが好きなんですよ。だから、付き合えたら嬉しいなって思ってます』って教えてくれたもの」
「え? なんだよ、それ……」
「ふふふっ。その言い方が『こんにちは。今日はいい天気ですね』って挨拶するみたいに自然で、あっけらかんとしてて……びっくりはしたけど、その場にいた篤志さんと笑いそうになっちゃったわ」
 その時のことを思い出しているのだろうか。母さんがクスクス笑っている。
「ねぇ、月臣。あなたが男の子のことが好きだとしても、母さん構わないわ。あなたが幸せなら、それで十分だもの。それにね、月臣はまだ高校三年生。もしかしたらあと十年後には、同性婚が日本でも認められてるかもしれない」
「そうだね。もしかしたらそんな同性夫婦が養子を迎えることができる社会になってるかもしれないよ?」
「やだ! そうしたら私達おじいちゃんとおばあちゃんじゃない! 血の繋がらない家族が集まって暮らす……まるで寄せ鍋家族ね」
「いいじゃないか。寄せ鍋家族」
 二人で顔を見合わせて笑う姿は穏やかそのもので、意気込んでいた俺は肩透かしをくらった気分だ。
「なぁ、月臣君。せっかくだから、これから起こるかもしれない明るい未来を夢見て過ごそうじゃないか」
「篤志さん、母さん……」
 肩の荷が下りて、気づけば涙が頬を伝う。
「それでも私たちに申し訳ないと思うなら、どうか太陽に君の本当の思いを伝えてあげてもらえないだろうか?」
「本当の思い、を……?」
「そうだ。それだけで十分だから。子供が幸せなら、私達はそれで十分なんだよ」
「篤志さん、ありがとう。ありがとうございます」
 俺は、あなたの子供になれて本当に幸せです。母さんが選んだ人は、本当に素敵な人だ。
「ほら、行きなさい。太陽はおばあちゃんの家にいるはずだよ」
「月臣。幸せを、自分の手で掴んでね」
「うん。行ってきます。父さん、母さん」
 父さん……自然と口から零れた言葉。 
 びっくりしたように目を見開く二人にそっと微笑んで、俺は大きな一歩を踏み出した。

◇◆◇◆

 バス停に向かったけど、さっきバスは行ってしまったばかりだ。俺は自転車にまたがり勢いよく漕ぎ出す。次のバスなんて待ってられない。早くこの気持ちを伝えたいんだ。
「行くぞ」
 一度だけ行ったことのある太陽のおばあちゃんの家。自宅からかなり距離がある。俺は気合を入れるために大きく深呼吸をする。今の学校に転校してから部活もしていなかったから、体が相当なまっている。すぐに息は上がるし、足はすぐに棒のようだ。冬だっていうのに、額から汗が流れ落ちる。吐き出す息は白くて、一漕ぎする度に後ろに流れていく。
「わぁ、凄い」
 ふと海に視線をやると、広い海の上に満月が浮かんでいた。ユラユラと揺れる海面に映る満月から広がる強い光。
 太陽は「月が綺麗だ」ってよく話してくれた。今なら太陽が言っていたことがよくわかる。
「太陽、月って綺麗だね」
 もう一度気合を入れ直して、また自転車のペダルを踏み出す。今すぐ太陽に会いたくて……息が切れる以上に、気持ちが前へ前へと足を動かした。

「あった……」
 おばあちゃんの家のある丘は真っ暗で、何の音もしない。本当に今太陽がいるのだろうか? 意を決して扉を開けると、そこには見慣れた太陽の靴。
「おじゃま、します。……太陽、ねぇ、いるの?」
 そっと問いかけながら部屋に上がった。それでも誰からの返事もない。
「太陽……」
 電気がついていない部屋は青白い月明かりに包まれて、とても幻想的だった。月の光ってこんなにも落ち着くんだ……俺はそっと息を吐き出す。
 居間に着いた瞬間、俺は息を飲んだ。
 障子が開け広げられた部屋からは、遥か彼方まで広がる海が一望できる。大きな海の上には、やっぱり大きな満月が浮かんでいた。そんな光景を見れば、いかに自分が小さな存在だったのかを思い知らされる。だって、月はこんなにも眩しくて綺麗だから。
「月……」
 突然名前を呼ばれて、背中から抱き締められる。あまりにも突然で俺はびっくりしてしまったけど、すぐにそれが太陽だってわかった。
 逞しい腕に温かな体。それに、太陽からはいつもお日様の香りがした。
 もう二度と感じられないかもしれないと思った体温に包まれ、涙が溢れ出す。辛かった過去に、怖くて仕方なかった未来。色んな思いが混ざった涙……そんな涙がスッと心に沁み込んでいくのを感じた。
「月、俺に会いに来てくれたの?」
「うん。俺、太陽に会いたかったから。だから自分の意志で太陽に会いにきたよ」
「なんでだよ? メール見ただろう? 俺、月の為に弟になろうって決めたんだ。すげぇ悩んで苦しんで……でも、こうやって月の顔を見たら、そんな決心、簡単に鈍っちゃう」
 耳元で苦しそうな太陽な声が聞こえる。もしかして泣いているもかもしれない。俺の洋服が温かな雫で濡れていくのを感じた。
「俺は月が好きなんだよ? こんなん、我慢できなくなる」
「ごめん、ごめん、太陽」
 自分を抱き締めてくれる太陽の腕にギュッとしがみ付く。俺より背の高い太陽の吐息が首筋にかかってくすぐったい。太陽の逞しい腕が好きで、ほっそりとした長い指も好き。柔らかい唇も、低い声も……もう全部が大好きなんだ。
「俺はね、俺がいないと生きてけない月が……太陽の光がないと輝くことができない月が好きだよ。ごめんね、月を見てると虐めたくなる。独り占めしたくて、誰にも見せたくなくて。でも思い通りにいかない。今まで、大体のことは何でも上手くできたのに……でも、月が好き。大好き」
「太陽!」
 自分の過去を切り捨てた高校一年生の冬。あの日から自分の心を押し殺して、ただ両親に迷惑をかけまいと優等生を演じ続けた。それは本当の自分を偽り、模範となる青年を生き続けた張りぼての自分。いつか自分の過去が誰かにバレるんじゃないかと、生きた心地がしなかった。辛くて、苦しくて……何度も一人で泣いた。

「ねぇ、太陽。俺……俺……好きって言ってもいいの?」
「言ってよ! いくら体を繋げても、好きって言わなきゃ気持ちは伝わらない。なぁ、好きって言って……? 月……」 
「太陽ぉ……」
「ふふっ。泣き虫だなぁ。もうこれ以上自分を虐めないで。一人で無理して強がって……月は十分頑張ったよ。だから過去の自分を許してあげよう? 大丈夫だよ、俺がいるから」
 真正面から太陽に抱き付けば、息が止まるくらい強く抱き締め返してくれる。
 そうだね、太陽。 
 もう許そうと思う。過去の自分も、同性しか愛せない自分も。大丈夫、太陽も、父さんと母さんも、全てを受け止めてくれてるから。
「太陽、大好き……大好き……んんッ、はぁ……」
 吹き込んでくる潮風に誘われるかのように、チュッと唇を奪われて。淡い月明かりの中、夢中でキスをした。
 柔らかくて温かい。うっとりと目を細めると、優しい顔をした太陽がコツンと額をくっつけてくる。至近距離で目が合って、少しだけ照れくさい。
「月は自分では光ることができないけど、太陽の光を受ければあんなにも綺麗に輝くことができるんだよ。だからずっと一緒にいよう? 一緒に輝こう。ねぇ、大好き」
「俺も、好き」
 
 俺はキラキラしたものが苦手だ。
 例えば煌びやかに輝くショーウィンドウや、ブランドのペアリング。大勢の人で賑わう週末のショッピングモールや、明らかにバーベキューをするために買い出しをしている楽しそうな男女のグループだったり……。
 でも今の俺は少しだけ違う。
 雨の日も好きだったけど、今はポカポカと太陽の日差しが差し込む陽光も好きだ。
 でも、月明かりに包まれて心穏やかに過ごす時間も心地いいと感じられる。
 きっと俺は変わっていく。キラキラと輝く太陽の日差しを受けて、もっともっと輝いて生きていけると思うんだ。 
 

 【完】

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