最近思うことがある。
 朝の日差しが前より眩しく感じたり、隣で寝ている太陽がとても大切な存在だと思えたり。他の人からすると普通かもしれないけど、そういった少しの気づきが、俺には宝物のように感じられた。
 学校でも一緒に過ごすことができる友人ができたり、声をかけてくれる人とぎこちないながらも話ができるようになったり。少しずつだけど、太陽の影響を受けて変わっていく自分が嬉しかった。
 それでも、あの何の感情も宿っていないような父親の視線を思い出すだけで、背筋が凍るような感覚に襲われる。
 やっぱり月は、月のままで。太陽になれない。俺は幸せ過ぎて、そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。

 その日は、太陽から『今日は部活がなかなか終わらなそうだから、先に帰ってて』とメールが届いた。先に帰ってて、なんて久し振りだったから少しだけ驚いてしまう。『わかった。頑張ってね』と手短にメールをして、俺は図書室のテーブルに広げられていた教科書を片付け始める。
 リュックを背負った瞬間、また太陽からメールが届く。でも俺は、その内容を見て笑ってしまった。
『痴漢に遭ったら困るから、真っ直ぐ寄り道しないで帰るんだよ。わかった?』
 太陽は男の俺が痴漢に遭うなんて、本気で思っているのだろうか? そう考えると可笑しくて仕方がない。このどこまでも過保護な弟が、可愛らしく感じられた。

 久し振りに一人で電車とバスを乗り継いで家路につく。バスの窓から見える夜の海に、潮風の香り。そんな世界にもようやく慣れてきた。ただ、隣に太陽がいないことが寂しく感じられる。
「あいつ、ずっと俺にべったりだからなぁ」
 一人でポツリと呟く。
 太陽が家に帰ってくればまた会うことなんてできるのに、早く会いたいと思ってしまう。自分の考えが、少しずつ変わっていくことに戸惑いを感じながらも、俺は幸せだった。
 だから、やっぱり浮かれていたのかもしれない。現実はそんなに甘くないし、自分が犯した過去の罪はそう簡単に払拭できるものではない、ということを。
 自宅の最寄り駅でバスを降りる。空を見上げれば一面の星空が広がっていた。
 道路に転がっていた小石をそっと蹴れば、コロコロと転がっていく。その石が転がっていくのを視線で追いかけた俺は、思わず息を呑む。恐る恐る顔を上げれば、俺の目の前には……。
 ヒュッと喉が鳴り、呼吸がどんどん浅くなる。冷たい嫌な汗が額に滲んだ。
 そうだ……この前も俺が一人で下校したときに、この人が目の前の現れたんだった。心臓が痛いくらいに高鳴り出す。あぁ、太陽の部活が終わるのを待ってればよかったな……俺は強い後悔に襲われた。
 すぐそこに家が見えているのに、ひどく遠く感じられる。
「月臣」
「……父さん」
「今日はお前を迎えに来た」
「迎えに?」
「そうだ。お前には医者になってもらわなくては困る。だから、家に帰ろう?」
 まるで物を扱うような父親の言葉に、目頭が熱くなる。この人は、俺ともう一度一緒に暮らしたいから迎えに来たのではなく、ただ自分の跡取りがほしいだけだ……。そう思えば、心がズタズタに切り裂かれたように痛む。
 小説家になれ、と背中を押してくれた篤志さん。あの人はとても優しい瞳をしている。でも、目の前にいる人物の瞳は怖いくらいに冷たかった。
「嫌だ」
「月臣、言うことを聞きなさい」
「嫌だ、嫌だ……」
 俺は震える足を踏ん張って何とか後ずさる。血を分けた父親なのに、強い恐怖を覚えた。
「なら、力づくで連れ帰るだけだ」
「……そんな……」
「来い、月臣」
 突然腕を掴まれた俺は体を強張らせる。小さい頃から、俺はこの人に一度だって逆らったことなどなかった。そんな俺が今更歯向かうことなんて、できるはずがない。
――この人からは逃げられないんだ……。
 俺の本能がそう告げていた。目を閉じて全身の力を抜く。
 だって、俺はずっとこうやって生きてきたんだ。そしてこれからも……。あまりにも今まで生きてきた世界と違う世界に出会って、自分が幸せになったらいけないんだっていうことを、忘れてしまっていた。
――でも、最後に太陽に会いたかったな。
 目の前が涙で滲んでユラユラと揺れた。そのとき、俺は強くて温かなものに一気に現実へと引き戻される。それは大きくて逞しくて……俺を力いっぱい抱き締めてくれた。

「月から離れろ!」
「……太陽……」
「馬鹿だな、だから気を付けろって言っただろうだが?」
 自分を庇うかのように抱き締めてくれていたのは、太陽だった。太陽は顔を真っ赤にして肩で息をしている。こめかみには太い血管が浮き出ていて、激昂しているのが見て取れた。
「俺がいないときを狙って月に会いにくると思ってたんだよ。バスがないからって駅から走ってくれば案の定……本当に油断も隙もねぇ、おっさんだよ」
「なんだと? お前、口の利き方に気を付けろ」
「口の利き方じゃねぇだろうが? あんたこれ誘拐だぜ? それわかってんの?」
「…………」
「それとも、俺と喧嘩で勝負する? 言っとくけど俺、柔道有段者だよ?」
 そんな太陽と父親のやり取りを、俺は呆然と見つめることしかできない。ただ、駅からここまではかなりの距離がある。それを俺のために必死で走ってきてくれたなんて……。胸が熱くなった。
「警察を呼ばれたくなければ、もう月にちょっかいを出すな。月は『物』じゃないんだ。月が望む人生を生きればいいんだろう?」
「チッ。口の減らないガキが」
「あんただって、犯罪者にはなりたくないだろう?」
 父親を睨みつける太陽の体に更に力が籠められる。そんな太陽に抱き締められている俺は、少しだけ苦しくて眉を寄せた。
「……結局君も、太陽に絆されたんだな? 気色悪い」
「うるせぇ。純粋に月が好きなだけだ」
「もういい。月臣、また出直してくる。それまでに、きちんと医者になる覚悟をしておくんだぞ」
 まるで苦虫を噛み砕いたような顔をした父親が、俺達に背中を向ける。路上に止めてあった高級車が急発進していくのを、太陽と二人、無言のまま見送った。

「だから気を付けろって言ったじゃん! 月は隙だらけなんだよ! 俺がいなかったら、あいつに連れ去られてたかもしれないんだぞ!?」
「ごめん、太陽……ごめんね」
「あー、だからそうじゃなくて……」
 俺が唇を噛み締めて俯けば、太陽がもう一度抱き締めてくれる。一気に緊張から解放された俺は、太陽にしがみついた。もう立っているのがやっとで、足が小刻みに震えている。
「違うんだ、月。俺は月を困らせたかったわけじゃない。ただ、俺は、月とずっと一緒にいたいんだ。ただ、それだけなんだ」
「太陽、ありがとう……」
「これからも月のことは俺が守るから。だから、俺の傍にいろよな?」
「わかった」
 涙が溢れ出しそうになったから、慌てて手の甲で拭う。
「帰ろう?」
「うん」
 太陽がギュッと手を握ってくれて、俺達は手を繋いで家へと向かう。
 心は張り裂けそうなくらい痛かったけれど、繋いだ手はとても温かった。

◇◆◇◆
 
 父親と二度目の再会をしてから数日が経過したのに、未だに俺の心には小さなさざ波が立ち続けている。言いようのない焦燥感に襲われていた。 
 本が山積みになったベッドの上でボーッと海を眺めていると、俺を心配しているのだろうか、太陽がやって来た。太陽はいつも俺の心配ばかりしている。
今日も太陽は柔道の試合があったから疲れているはずなのに……。そんな中自分の心配までさせてしまうなんて、申し訳ない思いでいっぱいになってしまった。
「月、大丈夫か? 最近元気ない」
「あ、うん。大丈夫だよ」
 みんながいる前では『兄ちゃん』って呼ぶのに、二人きりの時は呼び捨てで名前を呼ばれる。だから名前で呼ばれると二人きりだって妙に意識してしまい、条件反射のように心臓が飛び跳ねた。期待や不安といった様々な感情が押し寄せてきて、溺れそうだ。
「大丈夫か? あの男に会ってから様子がおかしいよ。俺が来る前に何かあいつに酷いこと言われたの? それとも嫌なことでもされた?」
「大丈夫だよ、太陽。何も言われてないし、何もされてない」 
「嘘だ。月は俺に何かを隠してるだろう?」
「太陽……」
「俺は月が心配なんだ」
 今にも泣きそうな顔をした太陽が、俺をギュッと抱き締める。抱き締め返したい、けど……。そのまま両手を下ろした。俺が太陽を抱き締める資格なんてない。
「ごめんね、太陽。今日は試合だったんだろ? せっかく勝ったみたいなのに、お祝いもしてあげられなくて」
「そんなんどうでもいい。そんなことより月が悲しそうな顔をしてることが辛い」
「ありがとう。でも今は話せないんだ。ごめんね」
「わかってる。いつか話して? 待ってるから」
 太陽が鼻をすする音と、遠くから波の音が聞こえてくる。誰かの体温なんてはじめのうちは戸惑いでしかなかったのに、今はとても心地いい。いつか太陽に自分の過去を話せる時がくるだろうか。でも俺の過去を知ったら、きっと太陽は俺を軽蔑するだろう。それなら、隠せるだけ隠しておきたい。
「月、一緒に寝よう」
 軽々と俺を抱き上げると、そのまま太陽の寝室に向かう。一組の布団に二人で包まると、フワリと温かい空気に包まれた。それと同時に、父親に会ったときの恐怖心が徐々に薄らいでいく。ようやく体から力を抜くことができた。
 俺はこの温もりにすっかり依存してしまっている。自分の過去に太陽を巻き込みたくなんてないのに……。
「ごめんね、太陽」
 気持ちよさそうに微睡んでいる太陽の髪を、そっと掻き上げる。太陽の傍にいる喜びと、罪悪感で胸がいっぱいになった。
「ねぇ、太陽。キスしよう」
「月……」
「い、嫌ならいいよ。太陽、疲れてるから眠いよね。ごめん」
「全然嫌じゃない。嬉しいよ」
 俺は照れくさかったけど、自分からきっかけを作ってキスをねだった。素直に太陽に触れたいと思った。その思いを言葉にして、太陽に伝えたいとも……。それはグラスに入った氷がカランと音をたてて溶けていくようなイメージ。
 唇に太陽の柔らかな唇が触れた瞬間、胸が締め付けられる。でもこの感情から目を背けたくない。俺は太陽とのキスに陶酔していった。

◇◆◇◆

 放課後の図書室はとても静かだ。時々遠くから聞こえてくる生徒の声が、まるで違う世界の音のように感じられる。
 それでも最近変わったことがある。太陽の部活が終わるまでの時間を、一緒に過ごす友達ができた。友達と言っても一緒にどこかに出掛けたり、悩みを打ち明けあうような関係ではないけど。今の俺にしてみたら十分過ぎる友達だった。
 そう。俺にも以前は友達がいたんだ。あの出来事が起きる前までは。高校一年の時の出来事が、俺と家族の未来を変えてしまった。
 新しい街に引っ越して、新しい生活を始めて。何より太陽っていうキラキラ輝く弟ができたことで、少しずつ忘れることができていた過去の傷が、父親に再会したことでまた口を開けてしまった気がした。せっかく瘡(かさ)蓋(ぶた)になりかけていたのに、また温度のある血が流れ出しているのを感じる。
「百瀬君、百瀬君」
「あ、えっと、なに?」
「大丈夫? なんかボーッとしてたよ」
「大丈夫だよ。ごめんね」
 そんな俺を心配してくれる優しい友達が、俺の目の前で手をヒラヒラさせている。
「もうすぐ弟君が迎えに来る時間だろ?」
「俺達も帰るね」
「うん。また明日ね」
 また明日な、って手を振って図書室を出て行く友達。自分にこんな友達ができるなんて。心がすごく温かくなる。
「友達ってやっぱりいいなぁ」
 我慢しきれず上がってしまう頬を抑えながら、俺は笑ってしまった。ひどく懐かしい感覚だ。ニヤつきを抑えようとしていると、カタンという物音が聞こえる。部活でかなりしごかれたのだろうか。そこには気怠げな太陽が立っていた。

「兄ちゃん、さっきの友達?」
「あ、うん。俺にもようやく友達ができたんだ」
「へぇ、良かったね」
「太陽?」
 良かったね、という割には嬉しそうな顔をしていない。むしろ怒っているような、不貞腐れているな。太陽がこんな顔するなんて珍しい。「どうした?」とそっと頬に触れようとした瞬間。 
「月……」
「……え……?」
 そっと耳元で名前を呼ばれて、太陽の体重を感じる。ドサッという音と共に、俺は図書室の机の上に押し倒されていた。
 突然の出来事に太陽を見上げると、やはり今までに見たことのない顔をしている。いつも可愛らしく笑って大きな犬のようなのに、今は獲物を目の前に目を光らせる狼のようで。本能的に恐怖を感じた。
「た、太陽、どうした?」
「月は俺だけのものなのに……」
「太陽、ねぇ、離して。離してよ」
「嫌だ」
 強く腕を抑え込まれ、逃げ出すことなんてできない。
「月、好き。好きだ」
「んッ、んん……ッ」
 唇を押し付けられて強引に舌が入ってくる。クチュクチュと響く水音に硬く目を瞑れば、舌はさらに無遠慮に口内を這い回る。息もつけないほど濃厚な口付けに、飲み込みきれなかった唾液が頬を伝い流れた。そのまま太陽の唇は頬から首筋、鎖骨を這い回り、その度にチュッと強く吸われる。
「ちょ、ちょっと太陽……どうしたの? 太陽、こんなのヤダッ……!」
 ゴツゴツした大きな手が体をまさぐり始めた。その手は少しずつ艶(なまめ)かしい動きになり、思わず体を硬くする。忍び込んだ手がいやらしい手つきで腰を撫で始めたのを感じた瞬間、両手で太陽を突き飛ばした。
「はぁはぁ……やめろよ、太陽。はぁはぁ……これ以上は駄目だ」
 荒い呼吸を整えながら太陽を睨みつける。涙が滲んで溢れそうになる。
「ごめん、ごめんね、月。俺、月に友達ができてすごく嬉しいのに……月が誰かにとられちゃうかもって思ったら、めちゃくちゃ不安になった」
「太陽……」
「なんでだろう。月に幸せになってほしいのに、俺以外とはそうなってほしくない。だって、月を幸せにできるのは俺だけだ」
 床にしゃがみ込み頭を抱え、まるで呻くように言葉を紡ぐ太陽を見つめる。泣いているのだろうか……肩が小刻みに震えていた。
「俺は昔から楽天的で、いつもどうにかなるって思って生きてきた。実際どうにかなってきたんだ。でも月のことになると苦しくて苦しくて。どうしていいかわかんねぇ。なぁ、月。これって月に恋してるってことだろう?」
 顔を上げた太陽の目元は真っ赤で、子供みたいに鼻をすすり上げる。拙いながらも一生懸命に思いを伝えてくれるその姿が、とても愛おしく感じられた。
 こんなに素直に思いをぶつけてくる太陽の気持ちに応えたい……そう思う自分がいることに、もう一人の自分が警告を鳴らす。もう二度とあんな過ちを犯したくないんだ。

「月はこんなにも綺麗なのに、俺はこんなにも汚い。いつか俺が、月を汚してしまうんじゃないかって恐い。すごく恐い」
「太陽……」
 俺にしがみつく太陽を強く抱き締める。
それから、意を決して口を開いた。
「あのね、太陽。俺は綺麗なんかじゃないんだ」
「そんなことない! 月は綺麗だ。優しいし真面目だし。全然汚れてない」
 その言葉を聞いた瞬間、胸に針が刺さったような感覚に襲われる。太陽にはずっと自分の過去を隠して生きていこうと思っていた。嫌われたくなかったし、軽蔑されたくなかったから。
 それに、太陽に真実を打ち明けてしまえば、もう俺のことを「綺麗だ」なんて思わないだろう。むしろ、きっと……。でも、太陽は正面から俺にぶつかってきてくれた。話すなら、今だ。
「太陽、俺の話を聞いてくれる? なんで両親が離婚したのか。なんで俺が他人と交わることを避けてしまうのか」
 俺の言葉に太陽が顔を歪める。それでも俺から目を逸らすことはない。
「俺の過去を知ったら、太陽は俺を軽蔑するかもしれない。汚いって、思うかもしれない」
「月……」
「それでも聞いてくれるかな?」
「うん。俺も聞きたい。話してくれてありがとう」
 俺の手を取り頬擦りをしてから、太陽が静かに微笑んだ。

◇◆◇◆

 今日は母さん達が親戚のお通夜へ出掛けて遅くなるって言ってたから、作っておいてくれたものをレンジで温めて太陽と二人で食べた。結局心の準備ができていない俺は、まだ太陽に話すことができなくて……いつもより会話も少なく、ぎこちないながらも一緒に過ごした。
 太陽より先にお風呂に入って、自分の部屋から外を眺める。空には世界を青白く染め上げている、ボンヤリとした月。いつの間にか太陽は、地平線へとその姿を隠してしまっていた。
 なかなか話そうとしない俺を急かすわけでもなく、太陽はいつも通りにしていてくれた。「話さなきゃ」って口を開いてはみるものの、どう切り出すのがいいか分からず切り出すことができない。やっぱり太陽に嫌われたくない……そんな思いが決心を鈍らせた。
『帰りが遅くなりそうだから、親戚の家に泊まるね』
 母さんから連絡がきた。予想外の展開に、心臓が飛び跳ねる。
「じゃあ今夜は太陽と二人きりか……」
 一度そう意識してしまうと、急に体が火照り出すのを感じた。太陽と二人きりで夜を過ごすのは初めてだ。期待なのか不安なのか、心が落ち着かない。
「一体俺は太陽に何を求めているんだ……」
 自分で自分の気持ちを見失いながらも、意を決して太陽の部屋へと向かった。
「太陽、入ってもいいかな?」
 返事がないけど、そのままそっとドアを開く。
「入るよ」
 部屋の中を覗くと、淡い月明かりの下、壁に寄りかかり眠っている太陽を見つけた。学校でのことを気にしているんだろうか。目元が赤らんでいる。もしかしたら一人で泣いていたのかもしれない。
「太陽、太陽……」
「……ん? どうした?」
 ゆすって起こすと、まだ寝惚けた声を出す太陽が優しく髪を撫でてくれる。静かな空間には、遠くからの波の音しか聞こえてこない。月明かりだけでよかったって思う。不安でいっぱいのこんなかっこ悪い顔を見せて、太陽を困惑させたくない。
「なぁ、聞いてくれるか? 俺の笑えない昔話を」
「……うん、聞くよ。来てくれてありがとう。何を聞いても絶対に嫌いになんてならない」
 真面目な顔で見つめてくる太陽から目を背けたくなる衝動。どうしよう、やっぱり怖い……。でも、もう隠していることも苦しい。視界がユラユラと揺れて、隣の太陽がボヤけて見えた。ありのままの自分をさらけ出すことの怖さを思い知る。
「前に俺がゲイだって話しただろう?」
「うん。そうだね」
「こんな俺にも高校一年の夏、初めて恋人ができた。前の学校の同じ弓道部の先輩で、勉強も運動もできる人だった。そんな先輩に告白された俺は嬉しくて、すぐにその人に夢中になって……体の関係をもつのにも時間なんてかからなかった」

 目を閉じれば思い起こされる、甘い初恋。先輩は俺を大切にしてくれたし、優しかった。俺は初めての恋に夢中だった。
「月臣、好きだよ」
 そう微笑んでくれる先輩が俺も大好きだったし、先輩が卒業してからも、ずっと一緒にいたいと思ってた。俺達は、いつも放課後の弓道場の部室で逢瀬を重ねていた。そこは、誰にも知られない秘密の場所。部活が終わった後、毎日先輩が来てくれるのを今か今かと待ち侘びた。
「月臣、お待たせ」
「先輩……!」
 たった一日会わなかっただけなのに、まるで何日も会っていなかったかのように嬉しくなる。勢いよくその腕の中に飛び込めば、甘いキスをくれた。付き合って半年もたつ頃には、男に抱かれることに慣れるどころか、喜びまで知ってしまって。体を繋げる行為に溺れきってしまっていた。
「んッ、あ、はぁ……先輩、好き……」
「俺も好きだよ」
 先輩に気持ちいいところを突かれる度に、ユルユルと押し寄せる快感に酔いしれて。甘くて深い口付けに脳みそまで蕩けきって……。女の子みたいな声を出しながら先輩に抱かれ続けた。
 男同士だから、堂々と手を繋いでのデートもできなかったし、家には家族がいたからなんとなくお互い家で会うのも憚られた。だけど、それでもよかった。一緒にいられるだけで幸せだったから。
 同性が恋愛対象だったと自覚した時、とんでもない絶望感に襲われた。きっと、一生恋人なんてできるはずがない。諦めと同時に孤独感が押し寄せた。そんな俺にできた素敵な恋人。
 俺も先輩も夢中になり過ぎていて、冷静な判断ができなくなっていたんだ。ここは学校で、誰かに見つかるかもしれない場所だ……そんな簡単な常識が、頭の中から抜け落ちていた。
「俺が高一の冬のとき……先輩が卒業する間際に、部活の顧問にエッチしてるとこを見つかったんだ」
「部活の顧問に?」
「うん。先輩がもうすぐ卒業だったから公にはならずに、特に処分も受けずに事は済んだ。でも両親には当然連絡がいって……男同士で抱き合ってたなんて聞いた父親が逆上した。父親は厳格な医者だったから、俺は後を継いで、家庭を持って子供を授かって……みたいな将来を考えていたんだと思う。だから父親にとっては、同性愛なんてありえなくて汚らわしいことだ」
 当時のことを思い出すだけで体が震えて、胸が押し潰されそうだ。叫び出したい衝動をぐっと堪える。あんなに幸せだった時間が、忌々しい記憶となって津波のように襲い掛かる。
 俺は、その津波に飲み込まれないよう必死に過去から目を背け続けていた。

「父親はまるでゴミを見るような視線を俺に向けるようになった。母さんは俺を庇ってくれたから、父親と喧嘩をすることも増えて。暴力を振るわれることもあった」
「もしかして、月の両親が離婚した原因って……」
「そうだよ。俺がゲイだからだ。幸せだった思い出は、こんなにも否定や嫌悪の対象になる、家族を壊すものだって思い知った。俺は綺麗なんかじゃない。男に抱かれる喜びも知っているし、それで家族を壊したこともある。そんな重要なことを忘れてた。俺は自分勝手な感情から、大勢の人を傷つけてしまったんだ」
 自分の言葉に自分で傷ついて、涙が頬を伝う。でも仕方ない。だって、全ては自分が普通でないことがいけないのだから。
「だから俺はもう恋をしないって決めたんだ。それに、あまり深く人と付き合うことでゲイだってバレるのも怖かった。自分が気持ち悪いって思われることもそうだけど、それ以上にもう母さんを困らせたくない。真面目に生きて、勉強も学年トップをキープして。部長に生徒会長に学級委員……なんでも一番でいなきゃって死ぬほど努力してきた。そうすれば、本当の自分を隠すことができると思ったんだ……」
 涙がハラハラと溢れ出したけど、 最後まで話しきる覚悟で太陽を見つめた。
「月はズルいから、自分の都合で形を変えるんだ。満月になって注目を集めてみたり、三日月になって存在を隠したり。いつも同じ姿ではいられない。本当はずっと満月でいたいのに……太陽みたいに輝いてみたいのに……」
「じゃあ、月食みたいに、俺達の間を何かが邪魔してお互いの姿が見えなくなればいいの? 月にとって、俺達の間を邪魔するものは何? 過去の恋愛? それとも兄弟っていう形だけの関係?」
「太陽、痛い……」
 苦しそうに顔を歪める太陽に両腕を掴まれる。振りほどこうとしたけど、力で敵うはずもなく、逆に抱き締められてしまった。
「もう遅いよ。俺は月がこんなに好きだ」
「駄目だよ、太陽。母さんを悲しませたくないんだ。それに、俺達は住んでる世界が違い過ぎる」
「なんだよ、それ……」
「前に太陽がエッチしたことある? って俺に聞いたけど……俺は何回もあるよ。何回も男に抱かれた」
「月……」
「太陽は輝いてるんだから、普通なんだから、もっと素敵な恋ができるよ。そんな恋愛がきっと、自分たちだけじゃなくて周りも幸せにするんだ……」
「月が佐和子さんを大事にしてる気持ちは凄くわかるよ。でも、俺はこんなにも月が好きなんだ。今更、この気持ちをなかったことになんかできないよ……。佐和子さんを悲しませないくらい、月は俺が幸せにするから」
 俺を抱き締める腕が小さく震えて、話す声も涙も掠れる。そんな太陽に、俺はそっと押し倒された。怖いくらいに真剣な太陽の視線。最後の悪足掻きと言わんばかり体を捩らせた。

「俺、こういうことしたことないから教えて?」
 耳打ちされると体の奥が疼くのを感じる。ジワジワと燻る熱が少しずつ体に広がっていく感覚に、小さく身震いをした。
「駄目だって、太陽。今の話聞いてたか? 俺達が今一線を越えてしまったら悲しむのは母さんだけじゃない……篤志さんだって悲しませてしまうことになるんだぞ?」
「そんなん関係ない!」
「関係あるよ! 大体お前、俺で勃つのかよ!?」
「勃つよ! てか、もう勃ってる!」
 ついあげてしまった大声に、太陽が目を見開く。怒っているのだろうか? 切れ長の大きな瞳に涙がたくさん溜まっていて。そのうちの一粒が、俺の頬に垂れた。
 あったかい……。
 母さんにこれ以上を迷惑をかけたくない思いと、太陽の気持ちに流されてみたいという思い。二つの思いが心の中でぶつかり合う。
 その時、自分の中でいかに太陽が大きくなっていたか気付かされる。あんなに明るいものが苦手だったのに、いつからか光り輝く太陽に近付きたいと思う自分がいた。もう一度誘惑されたら、俺はきっと堕ちてしまう。所詮、月は太陽には勝てないんだ。
「月……しよう?」
「……やだッ……」
「月、可愛い」
 首筋に柔らかい唇が触れただけで、体がピクンと飛び跳ねる。そのまま前髪を掻き上げられながらキスをされれば、「ふッ、ん……ッ」と甘ったるい声を上げながら受け入れるしかない。様子を窺いながら入ってくる舌に恐る恐る舌を絡めると、勢いづいて唾液も流れ込んできて……夢中でそれを飲み込んだ。
 引き返せと警笛を鳴らす冷静な自分と、このまま快楽に溺れてみたいという好奇心旺盛な自分がせめぎ合って苦しい。それでも、若くて愚かなこの体は、目の前の太陽を求めていることを隠しきれていない。
 最後の理性を奮い立たせて太陽の体を突き放す。もう、あんな過ちを繰り返してはいけないんだ。
 でも、でも俺は……このまま太陽と触れ合っていたい。もっと体の奥深くまで可愛がってもらいたい。

「可愛い、可愛い。月、好きだ」
「あッ、はぁ……駄目だって、駄目……」
「もう黙ってて。言ってることとやってることがバラバラじゃん」
「ん……ッ……あ、ぅっ……」
 もう一度荒々しく唇を塞がれてしまえば、抵抗する気力も薄れて。それをいいことに、太陽の手が好き勝手に俺の体をまさぐり出した。
 期待にピンッと尖った胸の飾りを弄ばれ、体中を這い回る舌に感じているうちに、あっという間に着ているものを剥ぎ取られた。淡い月明かりの中舐め回すように見つめられ、恥ずかしくて顔を手で覆った。なんでこいつ、こんなに手慣れてんだよ……。初めてじゃないのかよ。
「痛かったら言ってね」
「あッ、あぁ、はぁ……」
 太陽の大きな手が、俺の恥ずかしいところを解していく。久し振りに与えられたその感覚に、ゾクゾクっと甘い電流が背中を駆け抜けて行った。
「あ、あ、あぁッ!」
「月、気持ちいい?」
「んッ、あ、もう無理……あ、あぁ……!」
 少しずつ広がっていく快感に、ブルッと体を震わせ軽く果ててしまう。背中をしならせながら余韻に浸る俺を見て、「本当に慣れてるんだね」って太陽が悲しそうに笑う。だからそう言ったのに……。
「……挿れていい?」
「……え……?」
「月の中に入りたい」
「あ、あぁッ! 太陽、待って、待って……!」
「待てないよ。だって月の中、めっちゃ気持ちいい」
 腰を押さえつけられたまま、熱い太陽自身を体の中に押し込まれる。誰かが中に入ってくる久しぶりの感触に 、体は嬉々としてそれを飲み込んだ。
「あ、あッ、あぁ……そこ駄目……」
「良かった、月、気持ち良さそう」
「太陽、あッ、あッ、た……いよう……あぁ……ッ」
 どんなに強がったところで、今更「気持ちよくない」なんて言っても説得力なんてないだろう。浅い部分を擦られたり深く突かれたりすると、津波のように気持ちよさが襲ってきた。
「月、好き、好きだ」
「んんッ、はぁ……あッ、あぁ」
 結ばれながらの深いキスは、肩で息をするくらい苦しくて。うっすらと涙が滲んでくる。汗が太陽の前髪を伝う姿も、凄く色っぽい。
 もう母さんが悲しむからとか、兄弟だからとか……そんな考えは頭から抜け落ちてしまっていた。今、あの眩しい太陽が自分の腕の中にある。それが嬉しいのに、苦しくて。自分達がとんでもない過ちを犯してしまったことに、気付く余裕がなくなっていた。
 耳元で太陽のうめき声が聞こえるとの同時に、二人の欲が弾ける。
 弾む息を整え、体の熱が少しずつ引いていくとともに、心がスッと冷めていく感覚に襲われた。

「俺は、一体何を……」
 頭の中を母さんの顔が過り、咄嗟に太陽の体を突き飛ばす。そんな俺を見た太陽がひどく傷ついた顔をしながら「ごめん」と呟いた。拳をギュッと握り締め俯いてしまう。
 俺は急いで床に散乱した衣服を身に着け、太陽の部屋を後にした。