「春ちゃん」
納品を終え、書類にサインをもらっている最中。医師の芝山がぽつりと口にした。
「……え?」
「い、いや、ごめん! きみは仕事中なのに」
春ちゃん。彼からそんな風に呼ばれたのは初めてで、春子の頬が自然と赤く染まる。
予感でしかなかった恋が、今まさに花開きそうな気配を感じてそわそわした。
春子の正面で同じく頬を紅潮させているのは、耳鼻科医の芝山圭介。
五歳年上で、こんなに立派な耳鼻科クリニックを経営していて、地域の人からの信頼も厚い超ハイスペックな彼が、自分を下の名前で呼ぶだけで照れて赤くなっている……!
春子の母性本能が、か弱い小動物の鳴き声の如くきゅうんと音を立てる。
昼休みのクリニックはふたりきり。春子は本能的に〝今が攻め時だ〟と思った。
「……春ちゃんでいいです」
春子はそう言いながら、暦や夏美との暮らしと、圭介と過ごすことになるかもしれない甘い日々とを天秤にかける。
天秤は迷うように揺れる……かと思いきや、圭介の方に目いっぱい針を振った。
(暦さんのお味噌汁も大好きだけど、これからは私、彼とモーニングコーヒーを楽しむような関係になりたい……!)
春子はすっかり浮かれた恋愛脳になっていた。
「じゃあ、春ちゃん」
「はい」
ふたりきりだし、初めて名前で呼ばれたし、もしかしたらここで感極まった圭介からの熱~いキスがあるかもしれない。
春子は唇が乾燥していたらいけないと、さりげなく口の中に巻き込んで舌で濡らし、ドキドキと胸を高鳴らせる。
圭介は元々糸のような目をさらに細くして笑い、かしこまったように背筋を伸ばした。
「日曜日のデート、よろしくお願いします」
目の前で丁寧に頭を下げられ、春子は拍子抜けする。
キスはいきすぎだとしても、頭ポンポンくらいはあるかもと勝手に想像していたのだ。
(でも、ま、ここは彼の職場だし、大胆な行動はできないか……)
「こちらこそ。先生……じゃなくて圭介さんと会えるの、楽しみにしてますね」
「うん。圭介さんか。照れるなぁ」
そう言って頭をかく圭介の頬は緩みまくっていた。
これまで春子が仕事で出会ってきた医師は女性慣れしている人が多かったが、圭介はそうではないらしい。
素直で純朴な人。そんなところも高ポイントだ。
(日曜日のデートがうまくいったら、暦さんと夏美ちゃんにも報告しよう……)
ふたりのことを考えると少しの罪悪感が胸をよぎるものの、圭介のクリニックを出た春子の顔は先ほどの彼と同じく、ふにゃふにゃに緩んでいた。