製薬会社の営業、いわゆるMRの春子を、営業先である個人クリニックの耳鼻科医が気に入ってくれており、日曜にデートに誘われているのだ。春子の方も実はまんざらでもない。
(……でも、別にまだ付き合うとか決まったわけじゃないし!)
ふと医師の顔を思い浮かべてしまった春子は、慌ててその妄想をかき消す。
恋の予感に多少浮ついてはいるものの、この家での心地いい生活を手放してまで飛び込む勇気があるかと聞かれたら、自信がない。
暦や夏美に話すのは、もう少し向こうの出方を伺ってからにしようと決めている。
「その不健康で甘ったるいのは何番目の旦那さんだったんですか?」
春子は内心を悟られないよう、冗談っぽく問いかけた。
「旦那じゃない人よ。若い頃、火遊びした相手」
ふふっと微笑む暦には年齢相応の深みと艶やかさがあって美しい。若い頃もとびきり美人だっただろう。
「気になる~。火遊びって、具体的にどういう?」
「年寄りのそんな話はいいじゃない。それより春子ちゃん、あんまりゆっくりしていると遅れるわよ」
「あっ。ホントだ! やばっ」
「食器はそのまま置いといていいわよ」
春子があわただしく席を立つと、ちょうどリビングダイニングののドアが開く。
入れ替わりのように入ってきたのは、幽霊のような顔をした夏美だ。
太めのヘアバンドで上げていたはずの前髪が何束か額に落ち、軽くずれている眼鏡の奥ではまぶたがぽってり腫れている。
この家で一番若いのに、一番生気がなかった。完全に寝不足なのだろう。
「夏美ちゃん、おはよう。原稿上がった?」
「……はい。ギリ」
すれちがいざまに春子が尋ねると、疲労の滲みまくった表情とは対照的にぐっと親指を立てる仕草は力強かった。
そのプロ根性に毎度ながら感銘を受けつつ、春子は腕時計を見て軽く手を上げる。
「じゃあ行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「慌てると危ないから気を付けなさい」
なんだか、母と妹にでも見送られている気分である。そのくすぐったさに口元を緩めつつ、春子はパンプスに足を突っ込んだ。
納品作業のため社用車で午前中から取引先を回り、春子が最後に訪れたのは例の耳鼻科クリニックだった。
すでに午後一時を過ぎていたが、この時間にやってきたのには意図がある。午後の診療が始まる二時半まで、例の医師とふたりきりで話ができるのである。
日曜日のデートにはどんな意味があるのか。期待していいのか。自分は彼を好きになれそうなのかそうでないのか。
春子はその辺りを探るつもりでいた。