暦は割烹着のポケットに手を入れた。指先でそっと触れたのは、いつも箪笥の中に大事にしまってある、ふたりの娘の写真。

 春と夏が確かに生きていたことを示す、白黒のエコー写真。

「夏美ちゃんも意外と辛辣。でも大事だよねー顔」
「はい。春子さんは乗ってる車の種類と食生活もですよね?」

 歯に衣着せぬガールズトークが続く中、暦はゆっくり深呼吸をする。

 そして、いざ写真をテーブルに置こうとしたその時だった。

「なんか、それじゃ私がすごい理想高いみたいじゃーん。ねえ、お母さんはどう思――って、間違えました、すみません!」

 暦は心臓が止まるかと思った。

 今、春子が――自分をお母さんと、言った。


「あはは、春子さん。それ、小学生が先生に言っちゃって恥かくやつ。まぁでも、私にとっても暦さんは実の母なんかよりずっとお母さんだから、むしろそう呼びたいかも」
「あ、わかってくれる? 何かホッとするんだよね。暦さんが待ってる家に帰るの――」

 言葉の途中で暦の異変に気付いた春子が、息をのむ。

 彼女の視線を追って暦の方を向いた夏美も、ぎょっとして狼狽えた。

 暦自身も自分の体に起きた変化に戸惑い、震える指先で頬に触れる。そこは温かな涙で、しっとり濡れていた。

「ごっ、ごめんなさい暦さん! 私たち、勝手にお母さんだなんて言って……」
「失礼すぎましたよね! もうホントすみません! とりあえずティッシュ!」

 慌てふためくふたりに暦は『違う』と伝えたいのに、口を開いても喉が熱いもので詰まって、声にならない。

 失礼だなんて思っていない。暦が欲しくても欲しくても届かなかった特別な言葉を、彼女たちがごく自然に、当たり前のように口にしたことが信じられなかった。

 暦は思わず両手で口元を覆った。それでも、指の隙間から嗚咽が漏れてしまう。

(春と夏の母親になりたくて、なれなくて。あの子たちはきちんと成仏したのに、私の母親としての魂だけが、いつまでも天に昇れず迷子だった。それは悪いことなんだと、正さなくちゃいけないことだと思っていたけれど――だからって、間違いばかりでもなかったのだ)

 暦は春子の差し出してくれるティッシュを顔に押しつけた。心配そうに顔を覗き込む夏美は、ぎこちない仕草で暦の背中をさすっている。

 そこには確かに、本物の母と娘の間にあるそれと違わぬ愛情があった。

「……ふたりに、聞いてほしい話があるの」

 暦は震える手で今度こそ二枚の写真を取り出した。

 春と春子と、夏と夏美。四人の娘に恵まれた自分は間違いなく幸福なんだと、伝えたかった。

 枯れたと思っていた涙を久しぶりに流し、暦は娘たちにすべてを打ち明ける。

 食卓では、暦の淹れたほうじ茶がふわふわと温かな湯気を立てていた。





 おわり