「この香り……もしかして暦さん、栗茹でてます?」

 警察犬のごとく見事な嗅覚に、暦が目を丸くする。

「よく気づいたわね。確かに栗だけど、まだ皮も剥いていないうちはそんなに匂わないはずなのに」
「わかりますよ。もう私、とにかくこういうちゃんと情緒ある料理に飢えてたので!」
「情緒ある料理……?」

 ただの茹で栗が?と暦は声に出さずに呟く。

 手の込んだ料理というわけでもなく、ふたりの帰りを待つ間手持無沙汰にならないよう、栗を茹でて下ごしらえまで済ませておこうと思っただけだったのに。

 首を傾げる暦に、そっと近づいてきた夏美が耳打ちする。

「春子さん、今日会ってた人が食事に無頓着だったせいで、ランチもディナーも満足に食べられてないそうなんです。口にしたのは映画館のポップコーンと、移動中に寄ったコンビニのおにぎりだけって」
「あらまぁ、それは確かに……」

 情緒がないわね、と暦が言葉を継ぐ前に、恐ろしいほど刮目した春子がテーブルにバン!と両手をついた。

「そりゃ、映画館のポップコーンをふたりで分け合っている途中に手が触れてドキドキ!みたいな展開があればそれはそれで情緒があったかもしれませんよ? でも、いざ売店に並んだら、謎の経済力アピール?なのか、ひとり一個ずつにしようって言い出して、『ああ大丈夫。きみの分のポップコーンも僕も買うよ。ニコッ』――って。ニコッ、じゃねぇんだわ! たったの420円で目がハートになる経験は高校生で済ませてるっつーの! しかもポップコーンなら奢るくせに『環境のことを考えたら、これからは小さい車が主流になっていくと思うんだ』って、うちの実家の母親が乗ってるみたいなださいクリーム色の軽に乗ってて、百歩譲ってそれは個人的な好みもあるから許すとしても、意中の相手とデートって時くらい、カッコつけてレンタカー借りるとかないわけ!?」

 政治家の選挙演説にも負けないほどに唾を飛ばす春子。

 鬼の形相が一瞬緩んだのは、『ニコッ』と言いながら、一緒にいた男性のモノマネをした時だけである。その落差が何ともブキミだった。

「挙句、トイレに行きたいからってコンビニに寄って、その時点で蛙化現象ここに極まれり!って感じだったのに、車で待ってた私に『これ、いつも病院で時間がない時に食べるんだけど結構おススメ』って、夕方六時くらいにおにぎり渡されて、これは間食なのかご飯なのか、今食べるべきなのか持ち帰るべきなのか悩みまくって、ひとりシェイクスピアですよ! 結局お腹空いてたので食べましたけどね!」

 言い終えた春子はぜいぜいと肩で息をしていた。

 SNSに投稿したら血祭りに上げられそうな言い分である。――しかし一方で、リアルな女性心理でもある。

 暦も夏美も少なからず共感し、春子に同情した。そして彼女の恋(と言えるかどうかも怪しい)の顛末を悟った。