それから数日経った、新月の夜。
 桜は黒稜に呼ばれ、中庭へとやってきた。目の前には春を目前に、花々が蕾を大きくさせている。
 春が近いとは言っても、まだ夜は肌寒い。
「黒稜様、いかが、されたのでしょうか?」
 夕餉の片付けを済ませた桜は、黒稜の言いつけ通りに中庭にやってきたのだが、内容までは知らされていなかった。
 月のない真っ暗な夜空を見上げていた黒稜は、桜へと振り返る。
『桜、ひとつ試してみたいことがあるんだ』
「はい…?」
 黒稜は着物の袖から一冊の書物を取り出す。
「それは…」
 それは先日、李央が解術の役に立たないかと持ってきた書物だった。
 黒稜はどれもほぼ試したことがある、と一蹴していたはずなのだが、まだ何か試す余地のある術式があったのだろうか。
 黒稜は書物の最後のページを捲る。そうしてそのページを桜に見せた。
「え……」
 それは李央との話にも上がっていた、あやかしの血を使う必要のある、解術式だった。
 桜は訳が分からず、黒稜に問い掛ける。
「この術式が、どうされたのでしょうか…?これはあやかしの血が必要で、無理なはずでは……?」
 まさか黒稜があやかしを殺してまで血を手に入れているはずもないだろうし、そんなことをしていれば、あやかしの気配に敏感な桜が気が付かないはずがない。
 しかし黒稜ははっきりとそれを口にした。
『これを、試してみようと思う』
 黒稜の言葉に、桜は目を丸くする。
 夜は黒稜の声がはっきりと聴こえる桜にとって、聞き間違うはずもなかった。
「え、でも……」
『桜はあやかしから無理に血を取ることに反対しているのだろう?そんなことは分かっている。だから、』
 黒稜はそこで一度言葉を切ると、目を瞑った。
 月明りのない闇の中で、黒稜の周りだけが青白い炎を帯びていく。
 するとみるみるうちに黒稜の頭には大きな狐の耳が表れ、爪は鋭く伸び、ふさふさの尻尾が揺れ始めた。
「黒稜、様……?」
 久しぶりに見る黒稜のあやかしの姿に、桜は目を瞬かせる。
『新月はあやかしの力が強くなる。それは桜も知っているだろう?』
「は、はい…」
 満月は引力の力で人間の精神的な力が活発になると言われている。
 しかし逆に新月は人間の悪い気が外に出やすくなり、その悪い気を食ったあやかし共が活発になると言われているのだ。
 故に新月はあやかしの力が強まると、陰陽師の間では特別警戒する日でもあった。
 黒稜の言いたいことがいまいち分からない桜に、黒稜はこう言い放った。
『私のあやかしの血を使って、この呪いの解術式を完成させる』
 その言葉に、桜は目を見開き、思い切り首を横に振る。
「それはだめです!黒稜様!!」
 桜はかつて、桜の受けた呪いを作るために、稜介がどれほどのあやかしを手に掛けてきたのかを、過去を視て知っている。
 生半可な血の量では、この解術式も完成しないだろう。
 とすると、どれほどの血が必要になると言うのだろうか。桜には想像もできない。
「黒稜様が、死んでしまいます……!」
『しかし、試してみる価値はあるだろう』
 黒稜はもうとっくに決意を固めていたようだ。
 桜が何を言っても、その決意は揺るがないようだった。

(どうしたら…どうしたら黒稜様を止められるの?)

 黒稜が辛い思いをするくらいなら、桜は今のままでいいと思っている。
 陰陽師の力なんて取り戻せなくてもいいし、耳が聴こえなくても、黒稜と一緒にいられれば、それだけで幸せなのだ。
「だめ……だめ、です…っ」
 泣き出しそうな桜を、黒稜は優しく抱きしめる。
『桜、頼む」
 黒稜の優しい穏やかな声が桜の耳に届いて来る。
 実際は耳に届いているのか、頭に言葉が響いてくるのかは分からない。
 しかしその声は温かく、桜を愛する気持ちが伝わってくる。
『これは、御影家が生み出してしまった呪いだ。現当主である私には、その呪いをどうにかする責任がある。こと大事な妻を苦しみから救えると言うのなら、私のあやかしの血など、いくらでも捧げよう』
 桜は首を横に振り続ける。
 もう一度黒稜を説得しようと顔を上げたとき、地面がほのかに光り出す。
 桜ははっとして自分たちの立つ足場を見下ろす。
 そこにはすでに何らかの術式が施されており、所々に札が置かれていた。
 黒稜は桜がここへ来る前にすでに解術式を準備しており、必要なものはあとあやかしの、黒稜の血だけであった。
「黒稜様……っ!」
 黒稜はあやかし化した自身の鋭い爪で、左腕の手首の辺りをすっと切り裂いた。
 するとおびただしい量の血が腕からぼたぼたと零れ落ち、足元の術式へと広がっていく。
「黒稜様…っ!!」
 顔を歪めた黒稜は、片膝をつくと、術式に向かって何かを呟く。
 桜の足元の術式はますます強い光を帯び、桜を包み込んでいく。
「黒稜様っ、やめて、…やめてくださいっ……」
(このままじゃ、黒稜様が死んでしまう…っ)
 このまま続ければ、いくらあやかしの力が強くなっている黒稜であろうとも、生死に関わることになるだろう。
 黒稜を止めようとする桜に、しかし黒稜は強く言い放った。
『桜、私はお前を救いたい。お前が笑って過ごせる世界を作りたいのだ』
「そんなの……」
(そんなものはもう、叶っているのです。黒稜様、貴方さえいれば…!)
 桜は力強く祈る。
(どうか、どうか、黒稜様を苦しませないで)
 黒稜は散々苦しい想いをしてきたはずだ。
 それなのに桜のことに関してまで責を負う必要などないのだ。
(黒稜様…!黒稜様…!)
 術式が力を帯びるにつれ、桜の握った手からも温かな光が溢れ出す。
 キーンと何か甲高い音のようなものが聴こえ、酷い頭痛に襲われる。
(頭が割れるように痛い…、この痛み…いつかも…)
 そうして二つの光が混ざり合い、桜はそのまま意識を失った。