誰かが桜の頬に触れた気がして、桜ははっとして目を覚ます。
 目を覚ました桜はぎゅっと心臓を掴まれたみたいな息苦しさを感じた。
 桜の頬には、黒稜の手が添えられていた。

「起こしてすまない。うなされていたようだったから」

 黒稜の声は、やはり聴こえなかった。もう日が高く昇っている。だからだろう。

「おはよう、ございます、黒稜様」
「大丈夫なのか」
「はい…」

 黒稜は桜が言葉を読みやすいよう、いつもゆっくりと喋ってくれる。
 会った時からそうだが、黒稜の優しさは今の桜の心を温かくするには十分だった。

「桜…、済まなかった」
 黒稜の口が、そう言葉を形作った。
「え?」

 急な黒稜からの謝罪に桜はきょとんと目を丸くする。

「桜の自由を奪ったのは、我が一族が生み出してしまった呪いのせいだ…」

 桜が陰陽師の力を失ったのも、聴力さえも失ってしまったのも、黒稜の父、稜介が生み出してしまった強力な呪いの術式のせいだった。
 そのせいで北白河の家からは疎まれ、使用人同然に扱われてきた。

 しかしそれを故意的に使ったのは雪平だ。

 黒稜の父と母が歩んだ人生を見てしまった桜には、到底責められるようなものではなかった。
 桜はゆるゆると首を振り、ゆっくりと自分の気持ちを伝えた。

「黒稜様が、責任を感じる必要は、ないのです。呪いを利用しようとした、雪平が悪いのですから」

 聴力だけでなく、五感全てを失っていたのではないかと思うと、恐怖でいっぱいになる。
 しかし桜はこの通り、陰陽師の力も聴力もないが、美味しいご飯を食べることも、綺麗な花を見ることも、黒稜に触れることもできる。

 雪平のしたことを到底許すことはできないが、だからと言って、彼の死を願うこともできない。 
 桜はそういう人間だった。

(起こってしまったことを悔やんでいても仕方がないわ。次のことを考えなくては…)

 今回唯一の収穫だったことは、雪平が桜に呪いを掛けた犯人であること。
 その呪いは御影が作ったこと。
 それが分かったことだった。

 この家で作られた呪いならば、それを打ち消す方法も、もしかしたらこの家にあるのかもしれない。

 この家には山ほど蔵書がある。黒稜はいつも何か調べ物をしていたはずだ。何か知っていることがあるかもしれない。
 桜は近くに置いてある鉛筆と和紙を持って来て、そこに言葉を綴り始める。

【黒稜様は、何か存じ上げませんでしょうか?私にかけられた呪いを解く方法。呪いを打ち消すことのできる術式など、ないでしょうか?】

 もしかしたら黒稜なら何か知っているかもしれないと、桜は一縷の望みをかけて問うてみた。

 陰陽師の力が戻るかもしれない。そして、桜の聴力も。
 しかし黒稜は桜の質問に、眉根を寄せる。

「ここにある蔵書には一通り目を通したはずだが、呪いを打ち消す書物については読んだことがない」
「そう…、ですか…」
「しかし、まだ蔵の方には確認出来ていないものも多い。父の蔵書は山のようにあるからな」

 黒稜は桜の瞳を真剣に見つめた。

「絶対に呪いを解く方法を探す。俺はもう大切な者を失いたくはない…」

 黒稜の言葉にしては珍しく、桜は最後の方の言葉が読めなかった。

(なんて仰ったのかしら?失いたくない?)

 桜が黒稜の言葉を聴き返そうとしている間にも、話が先に進んでしまう。

「目下のところ、桜に掛けられた呪いの解術式を探すのが最優先だ。桜はその間、あまり屋敷から離れないようにしてくれ」
「あ…はい」
「雪平が今後何か仕掛けて来ないとも限らないからな」