それは伊豆から帰ってきて、少し経った日のある晩のことだった。
 その日の夜も、黒稜はあやかし退治の任に出ていて、桜一人で夜を過ごしていた。
 この前と同じように、早くに戸締りをするよう言われていた桜は、日が暮れ始めてすぐに各部屋の戸締りを行っていた。

 最後に玄関の戸締りをしようとしたところ、玄関先に人影があり、桜は顔を上げた。

『御免ください』

 声が聴こえたような気がして驚いた桜だったが、続く言葉はやはり桜の耳には届かなかった。

「ここは、御影の家で間違いございませんか?」

 目の前の小さな男性の口が、そう動いた。
 桜は頷く。

「はい、そうです」

 桜の返事に嬉しそうに頷く男性。

「そうですかそうですか。で、ご当主様はいらっしゃいますかな?是非ともお話したいのですが」
「今は、出ておりまして。帰りは、いつになるか、分からないのです」
 桜がそうゆっくりと説明すると、男性はにこやかにうんうん頷きながら、「そうですかそうですか」とまた繰り返した。

「御用でしたら、また明日…」
 と桜が口を開くと、男性は顔の前で手をひらひらと振った。

「いやいや、それには及びません」
「え?」
「私が用があるのは、貴方なのですから」

 先程までにこやかだったはずの男性が、急に冷たい空気を纏った気がした。
咄嗟に危険だと判断した桜は、さっと後方に飛び退いた。

するとそこにすかさず、札が飛んできて、地面に突き刺さり燃えて消えた。あやかし退治の際に陰陽師が使う、祓いの力を込めた札だ。

桜は足元で燻る火を見つめ、ごくりと唾を呑み込んだ。

(避けていなかったら、私、燃やされていた…?)

「おやおや、何故避けるのですか?」
 男性は柔らかな表情のまま、不思議そうに桜に問い掛ける。

「この札なら、苦しまずに貴女を葬ることが出来たと言うのに」

 桜は背中に冷や汗が伝うのを感じた。

(この人、どういうつもり…?どうして私の命を?)

 目の前の男性が桜の命を狙っているのは明白だ。
 しかし何故、桜が狙われなくてはいけないのだろうか。目の前の男性と面識はないはず。
桜には自分の命が狙われる理由など、まったく心当たりがなかった。

「どうして私の命が狙われるの?、そう疑問に思っているような顔をしていますねえ」
 柔らかい男性の表情が、人間とは思えないほどに醜く歪んでいく。

「それはね、貴方が北白河の人間だから、ですよっ!!」

 男性はまたも力を込めた札を桜に向けて投げてきた。
 桜はそれを先程のように避けたが、勢いよく避けた時に足を痛めてしまったのか、途端に足首がズキズキと痛んだ。

「いっ…」

 陰陽師の力を失って、何の修行もしていなかった桜だ。昔のように機敏に動くことはできないし、何の力も使えない。

 桜に男性を退ける術はなかった。

 そんな桜の様子を見て、男性は更に口角を上げた。

「おやおや、この程度でもう根を上げるのですか。北白河の長女であるというのに、なんて情けない」

 桜はきっ、と男性を睨みつける。

(北白河の人間であるからなんだというの?)