翌朝、黒稜は仕事のため出掛けて行った。
旅館に一人残された桜だったが、のんびりと朝食を終え、支度をすると街へと繰り出した。
黒稜にはなるべく旅館で待っているようにと言われていた。仕事も大して時間が掛からないから、そこにいるようにと。
しかし桜は、どうしても行きたいお店があり、そそくさと旅館を出発したのだった。
(黒稜様が帰ってくる前に、早く用事を済ませてしまおう)
桜は目的地へと急いだ。
伊豆の街には朝からたくさんの人が往来していて、きっと賑やかなのだろうと思う。
桜の耳には届かないが、とっても活気づいているに違いない。
(たしかこの辺に……)
桜は辺りを見回して、とあるお店を探す。
(あった…!)
飲食店の並ぶ一角に、そのお店はひっそりと建っていた。
桜が探していたのは、全国的にも有名なお茶屋さんだった。
北白河の家にいた時、よく母が使用人に買いに行かせていて、疲れが取れ、身体にいいいのだと、桜も弥生もよく飲んでいたものだった。
(黒稜様も仕事でお疲れになっているだろうし、ぜひ飲んでもらえたら。私も好きなお茶でもあるし、せっかく伊豆に来たのですもの、買って帰りたいわ)
桜は混み合う店内で目当ての茶葉を見つけ、それを購入した。
(黒稜様に怒られる前に、早く帰らなくては)
旅館への道を急ぐ桜。
そこに向かいから走ってくる男性があった。桜が気が付く前に、その男性は桜にぶつかる。
「あ、すみません!」
桜は咄嗟に謝罪の言葉を口にする。
その声がこの賑やかな街で聴き取れたのかどうかは分からないが、男性は驚いたように桜の顔を見ていた。
(もしかして、上手く発音できていなかったのかしら?)
桜は自分が発音した言葉すら自分ではうまく聴き取れない。
もしかしたらぶつかった男性には、桜が何を言っているのか分からなかったのかもしれない。
桜はもう一度丁寧に頭を下げた。
「申し訳、ございません。ぶつかって、しまって…」
桜の言葉に、男性は深く眉間に皺を寄せて、慌てて立ち去ってしまった。
桜は眉を下げ、ふうっと息をつく。
(上手く、言葉になっていなかったのかな…。不可解そうな顔をされていたわ…)
それは桜と話す人によく見られる表情だった。
そういう場合、大抵桜が上手く発音できておらず、相手も上手く聴き取れなかったのだろうと思う。
しかし、くよくよしていても仕方がない。
男性はとっくに行ってしまったし、これ以上桜にできることは何もない。
桜は、また急ぎ旅館へと戻った。
しかしこの出会いが、桜と黒稜の平穏な暮らしを揺るがすことになろうとは、この時の桜は思いもしなかった。