取り乱す桜を見て、黒稜はひとつ小さく息を吐き出した。
『いいから少し落ち着け』
黒稜の声がはっきりと桜の耳に届き、和紙を探していた桜は勢いよく振り返った。
ひとつ深呼吸をして、黒稜の前に戻ってくると、行儀よく座り直した。
(まだ夜が明けきっていないからか、黒稜様の声が聴こえる…)
耳の聴こえない桜にも、夜の間だけは黒稜の声を聴くことができる。
桜はゆっくりと口を動かし始めた。
「黒稜様、お怪我は、大丈夫なのでしょうか…?」
黒稜は自分の胸元を触り、『ああ、どうやら』と呟く。
はやる気持ちを抑えながら、桜は丁寧に言葉を紡ぎ始めた。
「黒稜様は昨晩、血だらけで、帰って来られたのです」
桜の言葉に、黒稜は自嘲気味な笑みを浮かべる。
『情けない話だ。退治したあやかしから、最後に一撃をくらわされた』
「大怪我を追うほど、恐ろしいあやかしと、対峙してらっしゃるのですか?」
『帝から受ける命は、その辺の陰陽師では到底敵うことのないあやかし退治の任ばかりだ。このくらいの怪我、なんてことはない』
(なんてことはないって……)
「黒稜様、とても苦しそうにされていたのです!」
『放っておけばそのうち治る」
「放っておけば、って、そんなはず…」
『治るんだよ、私は』
桜の言葉を遮った黒稜は、そう力強く返す。
『いつもならこれくらいの傷、すぐに治るのだ。しかし、昨日は違った』
普段ならいとも容易く治るような怪我なのだが、傷が深かったのか自然治癒が追い付かず、多くの血を流してしまった。
黒稜は苦しいながらも、昨晩のことを薄っすらと憶えていた。
薄れゆく意識の中、なんとか家に辿り着いたはいいものの、そこで力尽きたのか、身体が動かなくなった。
するとぱたぱたと桜が駆けて来た。
桜は今にも泣き出しそうな顔をして、黒稜を見ていた。
次に意識が戻ったのは、傷の辺りに何か温かなものを感じたからだった。
痛みがすっと和らいでいき、途端に苦しさがなくなった。
薄っすら目を開けると、桜が黒稜の傷口に手を当てながら、必死に祈っていた。
するとみるみるうちに血が止まり、傷口が塞がっていった。
黒稜は驚いた。
桜はただの陰陽師の家系の人間のはずだ。治癒の術など使えるわけがない。
(しかし、これはもしかしたら…)
黒稜は疲労に耐えきれず、そのまま眠りに落ちて行ったのだった。