「その着物…」
 ある日の朝食の時間での出来事。
 二人分の食事を運んできた桜に、黒稜はぽつりと呟いた。

 この前黒稜と街に出た時に買ってもらった桜柄の着物。
 特に何があるわけでもない平凡な日ではあるが、なんとなく着てみたくなったのだ。
 せっかく買ってもらったというのに、しまいっぱなしというのももったいない。

 ちょうど黒稜の顔を見ていた桜は、黒稜の呟いた言葉に、慌てて鉛筆を取った。

【この前買っていただいたお着物です。いかが、】
 まで言葉を和紙に綴って、桜は筆を止めた。

(似合うかどうかなんて、訊いても仕方がない、よね。黒稜様もそんなことを訊かれても困るだろうし…)

 しかしそこまでの文章を、黒稜が隣からひょいと覗き込む。
 桜は慌てながらも、途中まで書いた和紙を見せた。

 すると黒稜は桜の着る薄ピンク色の着物をまじまじと見つめた。
 相変わらず表情に乏しい黒稜ではあるが、淡々と言葉を紡ぐ。

「似合っている。お前が気に入ったのならよかった」

 まさか褒められるとは思っていなかった桜は、頬に熱が籠るのを感じた。

「あ、ありがとう、ございます…」

 こんな何気ない会話を、きっと幼い頃はいつもしていたというのに、なんだか酷く久しぶりで、それだけで桜の心は解されていく。
 桜のために気を遣ってわざわざ褒めるようなことをする黒稜ではないと思うから、桜はその言葉を信じ大切に胸に閉まった。


「今日はあやかし退治の任を受けている」
 箸を置いた黒稜は、桜にそう告げる。

「帝からの命だ。少し時間が掛かるかもしれない」
(帝様からの仕事…。ということは、力のあるあやかしがどこかに現れたのかしら…)
「分かりました、お気を付けて」

 桜の言葉に、黒稜は何故かふっと笑った。

「そう気遣いの言葉を聴くのは、いつぶりだろうな…」
「?」

 首を傾げる桜に、黒稜はしっかりと目を見て言った。
「しっかりと戸締りをしておけ。結界は張っておくが、油断はするな」
「はい」
「あやかしの気配は分かるだろう?何があっても、戸は開くな」

 一晩空けるだけだというのに、黒稜にしてはやたらと何かを警戒するような口ぶりだった。
 桜が御影家に嫁いで、黒稜が一晩家を空けるのは確かに初めてのことだった。

(一人になってしまう私を、心配してくださっているのかしら…?)

 黒稜の心情は相変わらず分からない。
 桜は力強く頷いた。