【旦那様、】と桜が次なる質問をしたためていると、黒稜から制止するように手をひらひらと振られた。桜は顔を上げる。
「その呼び方はやめてくれ」
「え?」
「私とお前はただの契約結婚みたいなものだろう。謙遜する必要も、敬う必要もない」
ただ世間から黒稜と桜が結婚したのだと、把握されていればなんでもいいと黒稜は告げた。
「では、黒稜、様…」
黒稜はそれでいいと言わんばかりに頷いた。
桜は先程の質問の続きをまた和紙に紡ぎ始める。
【黒稜様は、ずっとあのお屋敷でおひとりで過ごしていらしたのですか?】
桜の質問に目を通した黒稜は、眉間に皺を寄せると、確かにはっきりと首を横に振った。
しかしそれ以上何かを話すつもりはないらしく、口は引き結ばれたままだった。
(もしかして私が使わせてもらっているお部屋は、どなたかが使っていたお部屋なのかしら…)
黒稜が黙ってしまったことに、桜は悪いことをしてしまったのではないかと少し落ち込む。
すると黒稜が窓の外に目を移してこう言った。
『そろそろ日も落ちる。帰ろう』
「……!!」
【それです!!】
と桜は慌てて和紙に大きく書いた。
日中は聴こえない黒稜の声が、夕方以降ははっきりと桜の耳に届くのだ。
聴力が回復したのかと、毎回驚いて他の物音を立ててみるのだが、聴こえてくるのは黒稜の声だけだった。
今日も店内にいる人の声は聴こえてこないのに、黒稜の声だけがはっきりと桜の耳に届く。
『それ、とは?』
黒稜は首を傾げる。
桜はまた慌てて和紙に言葉を綴った。
【黒稜様の声が聴こえるのです!】
桜の文字に黒稜は顎に手を当てた。
『以前もそのようなことを言っていたな』
桜はこくこくと勢いよく頷く。
【日中は聴こえないのです。しかし日が傾き始め、逢魔時が近付くと黒稜様の声が鮮明に聴こえるようになるのです】
黒稜と暮らし始めて、桜が一番疑問に思ったことだった。
聴力が回復したわけでは全くないのに、夜だけ黒稜の声を聴くことができる。
どうしてなのか。
『そうか…』と言った黒稜は、またもその先の言葉を紡ぐことはなかった。
黒稜が席を立ったので、桜も慌ててその後を追った。
『この辺りはあまり空気が良くない。急いで帰ろう』
黒稜の言葉どおり、桜でも分かるほどによくない気が溢れ始めた。日中大人しくしている何かが、動き始めるのもこの時間帯だ。
桜と黒稜は足早に帰途に着いた。
桜の疑問は募るばかりではあったが、二人で出掛けたその日から、桜は何となく黒稜との距離が縮まったような気がした。