九条先輩を意識し出してからのおよそ半年は驚くほどあっさりと過ぎた。

 俺は先輩が卒業生代表として壇上で挨拶をするのを、ただの顔見知りの一後輩として見送った。
 先輩が普段の先輩の語り口通りの柔らかい喋り口調で読み上げた文は、この街が好きで、この学校が好きで、だからここで過ごせて良かったと、地元愛と愛校心に満ちた、やっぱり風変わりな挨拶だった。なんだよそれ。俺たちまだ高校生なのに、まるで昔話ばっかりする爺ちゃんみたいな話だったよ。やっぱりアンタ、相当の変人だ。
 それなのに、壇上から俺たちの顔を見まわして、優しい目を向ける九条先輩は中身の変人具合なんてすっかり忘れちまうくらいに綺麗に笑っていて、そんで俺はペンライト振ってるアイドルファンみたく、「あ、今絶対目があった」なんてくだらないことを思った。
 卒業式に、思い出に一枚写真撮ってくださいの一言すら言えなかった。
 どちらかと言えば孤高のイメージが強く、仲の良い友達などがいる風でも無かった先輩は、それでも卒業式の時にはクラスメイトや、生徒会の後輩たちに囲まれていて、とても俺が話しかけれるような状況ではなかった。先輩は卒業後は、貿易業を営んでいるという、お父さんの会社を手伝うために、イギリスの大学に留学を決め、この学校どころか日本からも出て行ってしまうのだと言う。そんな、同学年であれば誰でも知れる情報だけを手に、俺は九条先輩とサヨナラをした。

 必死というほどでもなく、とはいえ常に視界の端で九条先輩を追いかけていた日々が過ぎてしまえば、あとは自分のことが忙しくなってくる。
 高校三年生――主要な大会で順当な成績を残し、大学もスポーツ推薦を受けていた俺は、受験戦争からはいち早く抜けた口だが、暇をしている訳ではない。流石に部活という訳にもいかず、専門のコーチについて放課後は本格的なトレーニングで体づくりに励む毎日だ。出席は必要だし、その後の大学生活のことを考えれば、学業だっておろそかには出来ない。単位を落とさないよう、中間、期末テストは平均点以上を目指して、俺なりに必死に勉強もした。
 先輩と学校で会うこともなくなれば、そのうちにこの妙な執着とでも言うのか――先輩を気にしている気持ちだってなくなると思っていた。
 実際、俺は学校にいる間や、トレーニング中に先輩のことを考えるなんてことは圧倒的に減った。けど、ふとした瞬間。例えば、屋上で弁当食べてる時とか、風呂に入って寝る前だとか、ほんのちょっと俺の意識が忙しさから解放されたその時を狙って、先輩との些細な思い出が頭をよぎった。しかもそれが、僅かな時間だからこそ、なんだかやたらと輝いていて、前より重症になってきた気がする。
 学校で見かける九条先輩はいつも余裕顔で、背筋をピンと伸ばしてゆっくりと歩くさまは、どこか優雅ですらあった。
 それは彼が卒業するその時まで変わらなくて、だからこそ俺は、もしかして先輩はこのまま来年も当たり前にここに居てくれるんじゃないかなんて、馬鹿らしい夢もみたものだ。
 普通は受験を機に引退する生徒会の仕事も、先輩は最後までやっていたみたいだし、頭の良い人だったから、受験で特別負担が増えるということも無かったのかもしれない。それがどんなに並外れたことだったか、今自分が同じ学年になって初めて分かる。  
 空が晴れた日などは、特にひどい。
 見上げた空に、初めて先輩を意識し始めたその日のことが繰り返し思い出されて、そうやって同じ思い出ばかり繰り返しなぞっている内に、そもそもそれ以前にだって俺は九条先輩のことを特別意識していたんじゃないかって気づかされて頭を抱えた。

 九条先輩を知って、最初の夏だった。
 俺は九条先輩の顔に、見惚れたことがある――。

 当時一年だった俺は、部活の先輩でも、委員会の先輩でもない九条先輩のことを、顔と名前だけは知っていた。それは何も俺だけの話ではなくて、二年生でありながら学校代表として、入学式でも在校生代表として壇上に立ち、俺たちに歓迎の挨拶をした九条先輩のことは、俺たちの学年全員知ってはいた。そうでなくても先輩は有名人だったから、九条先輩が近くを通ると誰彼かまわず、あれが九条先輩なんだと、余計な噂話を添えて教えてくれたりもした。

 グラウンド脇の水飲み場で、直接水道の蛇口に口を近づけると、よく見えたのだ。
 渡り廊下の突き当たり――図書館の入口は、いつも校舎の影で少し冷えていた。木の壁が古めかしい、何の変哲もない場所だ。俺が卒業する頃には、老朽化を理由に改装が始まった。それくらい、ボロい場所。
 試験前には多少は人も増えたが、普段はあんな辛気臭い場所、ほとんど人もいなかった。
 だから余計に目立ったんだと思う。
 九条先輩は、一番右の窓の傍らで本棚に寄りかかって、カーテンの影に隠れるようにして本を読むのが気に入っているらしかった。何かから身を隠すように、ひっそりと本を読む姿が、普段威風堂々としている先輩のイメージと違って、妙に引っかかった。
 頭が良いことは知っていたから、読書が趣味と言われても不思議だとは思わなかった。だけど、手元の本に集中して、先を惜しむみたいに大事に一ページ、一ページ本をめくる先輩は、おもちゃを前にした子供みたいにどこか無邪気に見えた。泣く子も黙る生徒会長という、どちらかと言えば恐ろしいイメージしかなかった先輩の素顔に、きっと俺は驚いてしまったんだと思う。どうか放っておいてくれ、と願うような先輩を見つけてしまった後ろめたさのようなものもあったのかもしれない。

 そして、その瞬間は、唐突に訪れた。
 何度も同じ光景を見たはずなのに、その時は少しばかり違うことが起きた。
 いつものように、汗まみれの顔を上向けた蛇口に近づけて、身を屈めた時だった。
 普段であれば本の方へと向いているはずの先輩の視線が、俺の視線とかち合うのを感じた。

 ふいに、先輩の顔がやたらと近くに見えた気がした。ぶれていたカメラの焦点が、ぴったりと先輩に定まって、ズームされたような感覚。けれど目が合ったと感じたのは一瞬。すぐに先輩の顔は伏せられて、また本に意識を戻したのだと分かる。俺はそれが勿体ない気がして、ちょっと風邪気味だからとコーチに無理を言って早あがりの許可をもらうと、ユニフォームから制服に着替えて、こっそり図書館に向かった。

 中に入って、周囲を見回す。ひと気がないとは思っていたけれど、実際窓際の席に陣取る九条先輩以外には入り口の図書委員の眼鏡女子一人以外誰もいなかった。俺は、先輩の横顔をこっそり伺える、同じテーブルの対角線上に視線を隠すための大き目の本を持って座った。そうして、じっくりと先輩の表情を観察する。
 面白そうに紙面を追う瞳。時折、何事かを呟く唇。さらさらと緩い風に吹きあげられている前髪。そこから覗く、案外可愛らしいオデコに至るまで。

 一言で言えば、先輩の纏う空気は洗練されていて、まるで絵のごとく背景に溶け込んでいたのだった。
 噂に聞く、変人だとか、暴君だとか言った雰囲気は微塵も感じさせない。
 初めてはっきりと見た先輩の顔は、とても綺麗だった。
 単純に好きな顔だったんだと思う。直感で好きだなって思う感じ。
 この顔ならずっと眺めててもいいな、なんて思っていたら、本当に長い時間が過ぎていたらしい。
 気づいたら、全校生徒に帰宅を促す放送が流れていて、先輩はそれを合図に静かに椅子を引いた。先輩が手にしていた本を直すのを見届けて、俺は一行だって読んでない本を元の場所に戻す代わりに、その本を手に取ってカウンターに持っていた。

「あの……大丈夫だった? 九条くんに何か言われたりとかは……」
「え? やっ、何もなかったっすけど」
「そう」

 ホッとしたように息をついた図書委員の眼鏡女子――名札を見たところ、三年の先輩だった――の反応でようやく分かった。ここにひと気が無いのは、偶然なんかじゃなかった。九条先輩がいると知って、誰も入ってこなかったのが正しい。九条先輩に目をつけられるのを恐れる生徒たちは、出来る限り先輩との接触を避けているのだった。その時は、幾らなんだって何の罪もない奴に難癖をつけて来たりなんてないだろうと思っていたけれど、その後制服を着崩した程度でずっと絡まれることになった俺としては、それが満更間違っていなかったことを知る。
 タイトルも見ずに借りていったその本は、「郷土と私」とか言う、この地域に残る昔話とかが集められた現代日本において全く役に立たなそうな本で、俺は表紙を捲っただけで読むのを諦めた。
 それが多分、先輩に目を奪われた最初の話。
 学年も違えば、接点もろくにない。そんな俺と先輩の思い出はひどく断片的で、時系列もバラバラに、切り取ったようにシーンが浮かんでは消えていく。