先輩とのあれこれをぼんやりと思い出しながら、適当に会話を聞き流している内に、コイバナから話題はすっかり変わってしまっていたようだ。
明日の小テストでは、あそこが出そうだとか、先生が何ページをやっとけって言ってただとか、クラスの違う奴らと情報交換しながら帰り道の自転車を引く。
段々と日も落ちて、薄暗くなって行く街並みを行くうちに、一人、二人と別れて行って、最後に俺一人になるのは町を縦断する大きな川の、河川敷の辺りだ。
騒がしさから解放されるこの瞬間、ほんの少しホッとする。
部活仲間との帰り道は楽しいが、朝から部活終わりまでをフルスロットでこなしている俺はもう体力の限界で、黙って足を動かすだけで済むこの時間がやっと一息つける大事な時間なのだった。
黙々と家を目指しながら、急いで着替えたせいでいつも以上にだらしなく着込んだシャツに目をやる。
部活の後、ユニフォームから制服に着替える時は、さすがに先輩はやっては来ない。
先輩に見つかったらヤバイと思って、ネクタイも何度か試しに自分で巻いてみたこともあったけど、やっぱり上手くいかなくて、諦めてポケットの中に突っ込んでいる。
まあ、先輩は放課後は遅くまで残って生徒会の仕事をしているらしいから、今まで部活帰りに見つかったことは一度もないのだが。
ふと思い立って足を止めた俺は、自転車の脚を立たせて、ポケットに手を伸ばす。
そして、ぐしゃり、と丸め込んだネクタイを引っ張り出して、首にかけてみる。
「こうだっけ……。いや、こうすんだっけ?」
あっちこっち結び目を作って見るが、上手く出来ない。
「あーもー、俺が大人になってもネクタイ結べなくって、仕事場とかで困ったら先輩のせいだ、絶対!」
妙な言いがかりをつけて、俺は八つ当たりのようにネクタイをくしゃっと丸めて自転車カゴに放った。
今はいい。俺が結べなくたって、九条先輩が結んでくれるから。
だけど、高校を出て先輩と会わなくなっちまったら?
そしたらもう、自分でやらないと駄目なのだ。
「そんな日が来るのか……九条先輩と、会わなくなる日が……」
いや、会わないんじゃない。そもそも会えなくなるんだ。
今の今まで、そんな日を考えたことが無かったことに驚いた。想像も出来ない。
先輩の顔を見ない日が来るなんて。そしてそれは、どうしようもなく、寂しいことだと思った自分のことも、よく分からない。
「口うるさい先輩がいなくなるだけだろ」
それなのに、なんで――。
九条先輩のことなんて、今まで改めて考えたこともなかった。
学校好きの先輩は、よく校内の見回りをしていて、俺は意識していなくても学校に来さえすればいつだって先輩に会えた。
先輩の方が俺を見つけて来てくれるからだ。
口うるさくて、面倒で。でも俺は、この横暴な先輩に構ってもらえるのが嬉しかったし、特別扱いしてもらってるみたいで、ちょっとした優越感みたいなのもあった。
関わってみれば先輩は思ったより優しい人で、いちいち変わった反応を返してくるからそれが面白かったりもして――でも、だからって会えないなら会えないで構わない存在だと思っていた。少なくとも今日、同じ空を見上げたあの時までは。
「そっか、俺……先輩と会えないと寂しいのか……」
初めて知った自分の感情に、驚きを隠せないまま呟いた。
今日の俺は、変だ。ただ同じ空を見ていたというだけで、ずっと、九条先輩のことを考えている。
きっと、考えなくて良いことまで、考えている。
その日から、俺は暇さえあれば先輩を目で追うようになった。
それまでは、気まぐれに先輩の方から俺を見つけてくれてたけど、俺の方から先輩のことを見つけやすいように、生徒会室に向かう途中の階段に居座ったり、先輩がよく出入りしてるからって理由で、率先して先生の仕事を手伝って職員室に顔を出したり。
先輩は相変わらず俺を見かける度にネクタイを直してはくれたけど、構ってくれるのはその時だけだ。
元々出会いからマイナスイメージなのだ。先輩の中では、校内の風紀を乱すいち不良生徒という程度の認識だろう。俺からわざわざ学年の違う先輩のクラスまで顔を出せるような間柄ではないし、先輩が自由時間のほとんどを過ごしている生徒会室は、一般生徒が用もなく足を踏み入れるには敷居の高い場所だった。
いつの間にか俺は、偶然を装って先輩の周りをウロチョロするだけの不審者になってしまった。
そしてその最大の難関となったのは、何かと先輩の傍にぴったりとくっついている副会長の長峰先輩だった。長峰先輩は、バスケ部の主将をしていただけあって、身長は181センチの俺を遥かに凌ぐ192センチ。スポーツマンらしい体格で、鍛え上げられた筋肉が制服越しにもわかる。
とにかくガタイがいい。小柄な先輩の前に立たれると、すっかり先輩が見えなくなってしまう。別に悪い先輩じゃないんだろうけど、つい邪魔だなって思う。俺たち一言だってまともに喋ったこともないのにごめんな、長峰先輩。
九条先輩とどうこうなりたい訳じゃなかった。
もっと仲良くなりたい訳でも、遊びに行きたい訳でも。ただ、先輩が学校を去るまでの間、出来る限り長く先輩のことを見ていたかった。