夏休みが終わって新学期になると、有無を言わさず部活の時間は秋冬用に切り替わる。
 だけど今は、まだ季節の変わり目で、直ぐに夜が来たりはしない。
 夕暮れ時に切り上げてしまうのは、少し早い気がする。
「もうちょっいやれるよなー?」
 同意を求めて、一緒に帰っている部活仲間に言ったら、
「お前は元気でいいなぁ、若い!」
 なんて、同じ年のくせに言う。

「お前は、今日は走り込みをちょろっとしただけだし、体力余ってんだろ」
「そうだった、そうだった! ぼーっとしちゃってさ。何見てたんだよ? な、女?」
 いつもは人一倍練習に励んでいる俺が、心ここにあらずだった様子を不思議に思っていたんだろう。その場にいた連中が、一斉に俺の方に集まって来て、「何があったんだ」と、興味深々に俺の顔を覗き込んで来る。
「いや、別に大したことじゃ……知り合いが見えたっつーか……」
 何と言ったらいいのか分からず、あやふやな答えを返すと、すかさず。
「やっぱ女か!?」
「いやん、高坂ちゃん、やらしー!!」 
 お調子者の(はやし)武田(たけだ)が、ふざけて囃し立てる。
「だーから、違うっつーの! お前ら、全部そっち方面に持って行くのやめろよな」
「だってなあ、俺達の年で興味あることつったら、そんなモンじゃん?」
 その場にいる全員が頷く。
 こんな状況で、空が綺麗だったから見てた、なんて言ったら、場が白けるどころではない。いい笑い者だ。
 まだ、たまたま女子の着替えが窓から見えたから覗いてた、って言った方が恥ずかしくないなんて、まったく変な話だ。

「まあまあ、隠すな、隠すな。お前見てたのって三階? 今年の一年は可愛い子が多いもんなあ。よくあることだって」

 俺も高田さんが歩いてたら見る、と林が言うと、俺は中野ちゃん、なら俺は橋口さん、と皆思い思いにお気に入りの後輩の名前を口にする。俺は誰が誰とかよくわかんねぇけど、確か”中野ちゃん”はふわっとした茶髪が優しそうな子で、大きくはだけたシャツからデカイおっぱいが見えるから、俺らの間では割と頻繁に話題にあがる子だった。
「なー、やっぱお前も橋口さん派だろ?」
「え? あー……うん」
 ガシっと肩に腕を回されて、武田が言うのに頷いた。適当なところで手を打っておかないと、話が余計にややこしくなってしまう。実際、間違ってもいない気がした。可愛い子って言うには、強くて、性格がきつくて……更に言うなら、“男”だけれど。

 九条貴文(くじょうたかふみ)――可愛い見た目に反して、生徒会の権力を思うままに振るっている、我が校唯一無二の暴君。

 なんでも、九条先輩の家はこの地域を治めていた地主の家柄だとかで、今俺たちの通っているこの学校も、先輩のひいひいひいお爺さんだとかが作った学び場が元だったのだと言う。九条先輩の家は学校から道一つ挟んだだけのところにあって嫌でも目に入るし、その門構えは確かに時代劇でみたお殿様の家っぽい、噂も納得の大豪邸なのだった。今でも九条家は多額の寄付を学校にしていて、そのせいで先生たちも九条先輩には頭があがらない。
 全部が家の力なのかと言えば、そうでもなくて。校内模試は入学以来全科目一位、学外模試でも全国十位以内の常連。ガリ勉タイプかと思いきや、所属する剣道部では主将を務め、これまた全国制覇までやり遂げてしまった武闘派だったりするのだから、名実共に九条先輩は、ウチの学校のトップに君臨する存在だ。
 俺のような一般生徒からすれば、雲の上にいるような人。
 学年も違うし、本来知り合うきっかけも無いはずの人だが、俺の場合は全く接点が無いという訳でもない。
 全国有数の強豪校と言われるうちの野球部に、期待の新人としてスポーツ特待生でやって来た俺は、九条先輩とまではいかないまでも、この学校ではそこそこの有名人だったりする。そのせいだろうか。俺が九条先輩に目を付けられるのも早かった。
 
 中学での活躍を元に推薦枠をもらって憧れの高校に入学した俺は、甲子園常連の野球部での生活が始まることに、その当時ワクワクしていた。
 中学時代の学ランから、ブレザーの制服になって、少しだけオシャレにも興味が湧いた。
 野球部は皆坊主頭で、硬派で洒落っ気が無いなんてのは、昔の話だ。俺たちの学年は、髪型にはなんの制限もなかったし、彼女持ちも当たり前にいるし、普通にモテたい盛りの男子高校生だ。あまり厳しくしすぎるのは、人権問題だとかなんとか、学校側にも色々と問題があるらしい。
 俺は正直、特別真面目でも不真面目な性格でもなかったが、制服の着こなしに関しては、完全に自分の見た目に引きずられた感がある。
 母方の父――つまり俺の爺ちゃんがスイス人で、いわゆるクォーターの俺は、生まれつき髪は染めたような明るめの茶髪で、背も180を越えているので、完全に見た目は髪を派手に染めてゆるふわパーマをかけたチャラい男でしかない。そんな男が、制服だけきっちり真面目くんのように着ていたら、チグハグ感でダサさが際立ってしまう。俺はそんな謎のバランス理論によって、制服はなるだけゆるく着こなすことに決めていた。
 そうは言っても、目は濃いめの茶だからそんなに目立たないし、ピアス穴は開いてないし(親からもらった大事な身体を傷付ける気はしない)、野球の邪魔になる指輪だとかネックレスだとかの装飾品は一切付けない。髪も、地毛であることの証明書はいつも持ち歩いているし、どちらかといえば素行はマシな方に分類されていたとは思う。中学の時だってまともに学ランの襟をつめたことはなかったが、身なりに関して先生やコーチから注意を受けたことは、入学してからただの一度もなかった。
 だから、まさかそのことが原因で九条先輩から厳重注意を受ける羽目になるとは、その時は思いもしていなかったのだ。

 入学式当日の朝。
 普段は週替わりの先生と共に風紀委員の生徒たちが校門前に立って生徒たちの遅刻の取り締まりや制服チェックをしているのだが、その日は新入生と初の顔合わせということで、風紀委員たちを引き連れて、生徒会長の九条先輩自らが生徒たちの風紀検査に当たっていた。今思えば、先輩は二年でありながら生徒会長という立場に居座っていた訳だが、そもそも一年で入学した時から生徒会長だったらしいから、もうこの人に常識など通用しないのだ。
 ねえ、と初対面にしては酷く親しげな声音で、校門をくぐろうとした俺を引きとめた九条先輩は、不機嫌そうに眉を寄せて言ったのだ。

「君の家は、ネクタイ買えないほど貧乏なの?」
 
 俺はその時、意味が分からなくて、「は?」って、思いっきり訊き返してしまった。
 純粋に、何を言われているのか理解出来なくて間抜けな声を上げただけだったのに、それが口ごたえのように聞こえてしまったのかもしれない。
 九条先輩は俺の態度を反抗的と取ったのか、苛立った様子でさらに暴言を吐いた。

「違うんだったら、そういう格好やめてくれないかな? すっごく、馬鹿っぽい」
 
 そんなきつい言葉を、当然のことのように無表情のまま言うものだから、俺は腹を立てるだとか、反発するだとか以前に、『なんか凄い人だ、この人』って、逆に感心してしまった。
 こう言ってはなんだが、俺は人当たりは良いほうだったので、男女問わず初対面は必ずと言って良いほど相手の反応は好感触だった。だから少なからず、この名も知らぬ偉そうな先輩からいきなりマイナスの感情をぶつけられたことに、俺はひどく戸惑った。
 
 意外だったことと言えば、先輩の喋り方もそうだ。
 思ったより低めの声で(何故先輩の声がもうちょっと可愛いイメージだったのかというと、俺がデカすぎるのを差し引いても、先輩の目線はせいぜい俺の肩くらいで、小柄な印象だったせいである)、真面目な生徒会長らしく固い口調なのかと思ったら、やや子供っぽいとも取れる砕けた口調だったことに、俺は心底驚いてしまった。

「あ、えっと……」
 何を言ったらいいのか、咄嗟には言葉が出て来ない。
 呆気に取られて口ごもる俺を尻目に、先輩はポケットから予備のネクタイを取りだして、俺の首にあっと言う間に巻いてしまった。
 もちろん、第2ボタンのところまで開けてあった胸元は、きっちり首まで閉じられている。
「え?」
 あまりの早業に目を見張る。
 かろうじて放置されている、セーターからシャツアウトしている部分が、中途半端に見えてむしろ恥ずかしかった。
 その不格好な様を、先輩は自分でやっておきながら、「似合ってるよ」と鼻で笑った。
 普通ならこんな仕打ちを受ければ、怒って当然なのかもしれない。だけど、これがまた性質の悪いことに、先輩は所謂美形だった。長めの前髪に隠れている切れ長の目は、正面から見据えられると冷たい印象があったが、楽し気に目を細めていると酷く無邪気で、すっかり毒気を抜かれてしまう。
 とてもじゃないけれど、怒れない――。
 先輩の笑顔には、悪戯が成功した子供のような、悪びれないあどけなさがあった。

 艶やかな黒髪は、サイドにかけて少し長めではあるが、至って普通の高校生男子らしく短く切りそろえられているだけだと言うのに、形良くまとまっている。頭の形が元々綺麗なのだと思う。髪と同じく漆黒の瞳は、くっきりとした睫毛で縁どられていて、猫の目のように可愛いらしい。そういう見た目なのに、言うことが恐ろしく辛辣なのだから、余計にこっちは混乱してしまう。

「次からはきちんとした身なりで登校するように。わかった? 野球部の大物ルーキー高坂郁人(こうさか いくと)くん」
 
 九条先輩は、隣に立っていた生徒会副会長の長峰(ながみね)先輩からバインダーを受け取って、その場で違反者リストに俺の名前を追加した。
 わざわざ俺の名前を出したのは、逃げようたってそうはいかないぞ、と言う、先輩なりの脅しだったんだろう。この高校では、校則違反のペナルティーが、点数制で記録されている。遅刻一点、制服違反一点、髪型違反一点、などなど。
 名前を知られていたこともそうだが、地毛証明書を求められなかったところをみると、どういう訳か九条先輩は俺について、ある程度事前調査を済ませていたようだった。

 俺何か目立つようなことしたっけ?
 
 まあ、俺のことを”大物ルーキー”と呼んだからには、先輩も野球部には多少興味があったのかもしれない。愛校心の強い先輩は、学校の名声に寄与する部活が大好きだ。予算の振り分けも、先輩のおめがねに適った部活が優先されるというのだから、本当にとんでもない暴君だ。
 九条先輩が俺の名を書き込んだ専用の用紙を長峰先輩に渡す。
 こうして入学式早々、俺は立派な前科者となり果てた。

「これ、溜まりすぎると部活にも影響出るからね。せいぜい気をつけなよ?」

 先輩は変わらず楽しそうに笑って、悠然と俺に背を向けて去って行った。
 学校の風紀検査なんて、いい加減なモンで風紀委員会の子たちも形だけで滅多に記録はしなかった。目に余る違反や、特に悪質な態度を取る奴には制裁の意味を込めて記録してはいたようだが、一般生徒の着崩し程度には目を瞑るのが暗黙の了解ってやつだった。そうでなければ、全校生徒の半分以上が掴まってしまうからだ。
 それがこの日ばかりは、型通りに九条先輩が仕事してしまったせいで、違反者がとんでもない数になってしまったそうだ。
 それでも頭の回る奴らは、適当なクラスと名前を書いて、その場をやり過ごしたりしていたらしいが、俺の場合はちょっと顔が知れていたせいで、まんまと先輩に捕まって、しっかり記録されてしまったという訳だ。この時ほど、大物ルーキーとやらの肩書きを面倒に思ったことは無い。

 九条先輩の俺への第一印象は、まず間違いなくマイナスの部類だっただろう。
 それでも、ここで俺が大人しく引き下がっていれば、お互い出会った時のちょっとしたイザコザなんて、すぐに忘れてしまえるはずだった。問題は、俺が極度に大雑把というか、一度や二度注意された程度じゃ、態度を改めるような可愛げのある奴じゃなかったってことだ。

 別に、表立って先輩に反抗する気なんて無かった。そうじゃなくて、本気で面倒で、ついネクタイをするのを忘れてしまう。せめて制服だけでもきっちり着込もうかと、先輩に言われた通りにボタンをしめてみたけれど、やっぱり無理矢理真面目ぶってるみたいに見えて痛々しくてやめた。
 そんな俺を学内で見かける度に、九条先輩は律儀に毎回ネクタイを巻きにやって来て、きちんと制服を着るようにと説教をする。
 それがもう、一年とちょっと続いている。
「君、バカだから覚えられないんだね」との嫌味は毎回ついて居たが、それにしたって先輩は随分とお節介で、どちらかと言えばお人好しだった。
 だって、放っておけばいいじゃん。
 気に入らない不良生徒の一人や二人。
 勿論、俺だけじゃなくて、他にも先輩の目に余る行動をするような奴が居れば、速攻で注意しに行く。先輩の小言は大概ネチネチとしているので、見た目も家柄もいいのに、先輩の悪評は増すばかりだった。

「――大変そうっすね」
 毎度俺が先輩に指導を受けている間、通りすがりの男子生徒たちの舌打ちを聞いて、ある時俺は言った。

 俺も時々、目立つからというどうしようもない理由で謂れのない悪意を向けられたりすることもあるけれど、九条先輩といる時はあからさまに先輩に向けての悪意をぶつけられることがある。そしてそれは大体の場合、ちゃんと理由がある。教師ですら見逃した小さな校則違反を理由に先輩に切符を切られたり、それを足掛かりに推薦とか、成績の点でケチをつけられた連中だ。明らかに、「先輩、それはやりすぎってやつでしょう」ってモンだ。しかし幸か不幸か九条先輩の周囲には、絶対的忠誠を誓っている副会長の長峰先輩と、これまた九条先輩に絶対服従の会員たちしかいないので(そうでないと彼と一緒に仕事は続けられない)、九条先輩の横暴は誰に咎められることなく通ってしまう。教師たちだって、この学校が九条家から受けている寄付金のことを考えれば、滅多に口出しは出来ない状況だ。

「僕のことを気遣ってくれるなら、君もいい加減手間かけさせないでくれるかな?」
 ハァとため息をつきながら、頭一つ分俺より下のところで九条先輩は俺のネクタイを結びなおす。

「俺は面倒はかけてるかもだけど、反抗もしてないじゃないっすか。先輩がやってくれるから、俺が自分でしなくてもいいかなって」
 そもそもネクタイを結ぶのは苦手なのだ。昔から手先が不器用で、細かい作業に向いてない。無駄に手がデカイからだと二つ下で、だんだんと小生意気になってきた妹には言われるが、事実ネクタイなんて真っ直ぐ綺麗に結べた試しがない。
「先輩が甘やかすからでしょ?」
 暗に、俺のせいではなく九条先輩のせいだと言ってやれば、珍しく先輩が、ぐぅと言葉を詰まらせる。俺の適当な言葉に言いくるめられてる辺り、先輩は本当は素直な人なんだろうと思う。言うほど理不尽でもない。ただ、自分の正しいと思ったことを、貫かずにはいられない人なのだ。悪い人ではないと思う。頭は固いけど。
 そんな訳で、俺としては先輩に対して悪感情は一切ないのだけれど、先輩は俺の言葉を聞くや否や、ものすごく嫌そうに顔をしかめた。
「君、調子に乗ってる?」
「別に。事実を言っただけっす」
 俺に構うのが面倒なら、放っておいてくれたらいい。そうすれば俺は、先輩に毎日ネクタイ結んでくださいなんて言いに行ったりしないんだから、先輩は晴れて俺のネクタイ係から解放される。先輩はどう思ってるかわからないけれど、俺は真面目に授業も出るし、部活だって頑張っている。どちらかと言えば、善良な一生徒なのだから、先輩に見逃してさえもらえれば、お互いに平和な学園生活が送れるのだ。

「俺、先輩が結構優しいこと知ってます」

 本来なら、俺の毎日の服装違反のペナルティーは、溜まり溜まって、部活停止くらいにはなっているはずだ。そうなっていないのは、九条先輩は俺を捕まえるだけ捕まえておいて、それを風紀に連絡していないからだ。お陰様で俺の点数は、一番最初に先輩に声をかけられた時以来、全然増えていない。そのことを指摘してやると、先輩は明らかに動揺した様子を見せた。

「僕は風紀委員じゃない。あくまで生徒会長だ。君の風紀検査は、元々僕の仕事じゃないからね」
 だから報告はしない、と。言い訳のように言う先輩の頬は、ほんの少し赤かった。
 その日先輩が結んでくれたネクタイは、首元が絞まり過ぎの、ちょっと不格好な結び目をしていた。