茜色に染まる世界で最初に立ちあがったのは、夕日を背にそびえ立つ巨大な観覧車だった。
「遊園地?」
 つぶやいた瞬間に世界が生まれた。
 轟音を立てながら三回転するローラーコースター、オルガンの音とともに回りつづけるメリーゴーランド。コーヒーカップが回り、空中ブランコも回る。どこもかしこも回ってばかりだ。最初に生まれた巨大な観覧車だってもちろん、止まっているかのような顔をしながら高台の上で回っている。
 いくつものアトラクションが、まるで最初からそこにあったかのようにして生まれでた。ローラーコースターのレールが、夕日に照らされて長い影を落としている。アトラクションはみな、チカリチカリと点滅する電飾に彩られていた。
 アトラクションだけじゃない。絶叫マシンに悲鳴をあげる子供たち、そして園内を行きかう家族連れや恋人たちも後を追うようにして生まれた。
「なんでアタシ、遊園地に?」
 周囲を見まわしたけれど、もちろん知ってる人なんて誰も居なかった。道ゆく人たちが珍しいもでも見るかのように、大通りの真ん中に突っ立っているアタシをに丸く見開いた目を向けながらすれ違っていく。
 何だろう。変な格好でもしてるのだろうか……そう思って着衣を確かめると、なんとアタシ、素っ裸だった!
 いやいやいやいや!
 待って! ちょっと待って!
 ないわ! これはない!
 あわてて隠すところを隠して……って言うか、どこをどう隠せばいいか解らないまま、建物と建物の間の裏路地へと駆けこんだ。
「ゆ、夢だよね。これ、夢だよね。解ってるんだからね! 最初からおかしいと思ってたもん! 夢だよこれ! 夢! 絶対に夢!!」
 自分に言い聞かせるように叫んだ。ふと思いついて頬をつねってみる……痛くない。ほら、やっぱり夢じゃん。
 夢だと判れば、恐れることなんて何もない。好き放題やってしまったって、問題はないだろう……とは言うものの、それでも素っ裸で歩き回るのは恥ずかしい。夢の中とはいえ、裸で公衆の面前を歩き回れるほど大胆ではないし、裸を見られて興奮するほどの変態性なんて持ち合わせちゃいない。
 逃げ込んだ裏路地には夕日も届かず、奥に行くほどに闇が深くなっている。もう少し奥に行って、人目につかない所でゆっくりと考えよう。そう思っておもむろに立ち上がった瞬間だった。
 おしりを触られた。
 悪寒を感じてとっさに振りむく。
「ふぁ!?」
 思わず変な声が出てしまった。
 パンダだ。体長二メートルほどもある大きなパンダが、二本足で立っいた。そして片手で、アタシのお尻を触っている。
「よっ!」
 そう言ってパンダは、お尻と反対の手を軽く挙げた。
「あ、どうも……」
 思わずペコリと頭を下げる。いや待て、のんきに挨拶してる場合じゃないだろ!
「パ、パンダがしゃべった!」
 驚きに、思わず二メートルほど後ずさる。
「ア、アンタ、何でしゃべって……てか、なに、なんでパンダ……てか……」
「まぁ、落ち着けよ」
 パンダがとぼけた声をあげながら、掌の匂いを嗅いでいる。アタシのおしりを触った手だ。最低パンダだ……コイツ。
「何でいきなりケツ触ってんのよ! このド変態!!」
 パンダを指さして抗議した。もうこの際、パンダだろうが何だろうがどうでもいい。おしりを触ったことが許せない!
「……どうでもいいけど、丸見えだお」
 パンダがアタシを差しかえす。
 しまった! アタシ素っ裸だったんだ! 胸を隠しながらその場にしゃがみ込む。
「まぁ、ガキの胸ペッタン見ても、嬉しくないけ……グハッ!」
 言い終わるよりも先に叩き込んでやった。パンダのみぞおちに、アタシの拳を。
「良いパンチ……持って……やがるぜ……」
 うめき声をもらしながら、パンダがその場に崩れおちた。
 拳をかかげて勝利のポーズ……って駄目だ、アタシ裸だった。
「面倒くさいからさ、服着てくんない?」
 背後から、パンダの声がした。足元に倒れているはずの姿はすでに無く、いつの間にか背後に立っている。しかもコイツまた、アタシのおしりを触っている。
「この、変態パンダ!」
 再びみぞおちへ叩き込んだはずのアタシの拳は空を切り、体勢を崩してしまいつんのめる。顔から地面に突っ込む寸前、パンダがアタシの体を支えてくれた。
「助けてくれたことにはお礼を言うけど……どこ触ってんのよ、この変態パンダ!」
 体を支えるパンダの大きな手が、ちょうどアタシの胸に当たっていた。
「ごめん、ごめん。てっきり背中かと思っ……イテッ!」
 思いっきり噛みついてやった。パンダの腕に。
「だから、早く服着ろって……」
 アタシを助け起こしたパンダが、呆れた声をあげる。
「だって服無いんだもん……」
「無くったって、着ようと思えば着られるお?」
「あ、そうか。ここって、ゆ……」
 夢の中だもんねと言おうとした。
 でも、言い終わる前にパンダのバカでかい手の平が、ものすごい勢いでアタシの顔面を張り倒していた。頭がモゲるかと思った。裏路地から大通りへ三メートルほど吹っ飛んだアタシは、地面に叩きつけられるとそのまま十メートルほど転がって、メリーゴーランドのフェンスに激突して止まった。
「いきなり何すんのよ!」
 ひしゃげてしまったフェンスから、ヨロヨロと立ち上がってはみたのだけれど、派手に吹っ飛ばされたというのに痛みはなかった。そうか、ここ、夢の中だった……。
「夢だと気づくのは良いお……」
 またもや背後に立ったパンダが、耳元でささやく。アタシのおしりを触りながら。
「いや、本当は駄目だけど、気づいてしまったものは仕方ないお」
 振り向きざまに放った拳が、今度もかわされて空を切る。
「でも、それを口にしちゃ駄目だお。いい?」
 変態パンダが人差し指を立てて、自らの口元に添える。キザな仕草が似合わない……だってパンダだし。
 パンダを殴ることをあきらめ、とりあえず素っ裸を何とかしようと試みる。着ようと思えば着られる……パンダはそう言った。服を思い浮かべてみたけど、巧くいかなかった。
「ねぇ、服着たいんだけど。思い浮かべれば良いの?」
「服を思い浮かべるってより、服を着ている感覚を思い描く感じだお」
 言われたとおりにやってみる。服の肌触りや、着てるときの感触を思い起こす。できるだけリアルに、できるだけ具体的に……。
 おぉ! 巧くいった……。でも、アタシの体を包み込んだものは、うちの高校の制服だった。
「な、なんで制服なのよ! もっと可愛い服がいいよ!」
「着たことがない服は難しいお?」
 変態パンダに反論できず歯ぎしりしてしまう。
「アンタ何なの? なんでパンダなの? なんでパンダがしゃべってんの?」
「質問は、ひとつづつにして欲しいお……」
「んじゃ、名前とかあんの?」
 パンダは待ってましたとばかりに、戦隊モノのようなポーズを決める。
「キャプテン・ウイングだお。夢の修理屋ですしおすし……」
 きっと本人的には、クールにキメたつもりなのだろう。だが、どれだけキメようがパンダだ。しかも口調がやけにヲタクっぽい。
「親しみを込めて、『翼くん』って呼んでくれても良いのだぜ!」
 握った拳の親指をピンッと立てると、ニカッと笑った口元に白い牙が光った……ように見えた。それでもやっぱり、どうにもキマらない。だってパンダだし。なんかヲタクっぽいし。
「アタシは……」
 自己紹介しようとした言葉を、キャプテンがさえぎる。チッチッチと舌を鳴らしながら、目の前に人差し指を立ててメトロノームのように振っている。
「知ってるお。相川アイコ、一六歳、乙女座。好きな食べ物はカレー、嫌いな食べ物は野菜全般。好きなアーティストは YOASOBI 、嫌いなアーティストは……」
「待って! ちょと待って!!」
「なんだお。ココからが良いところなのに……」
「なんでそんなこと知ってるのよ!」
「なんでって、修理屋ですしおすし」
「何なのよ、その修理屋って?」
「修理屋は修理屋だお。壊れた夢を直すんだお」
 そんなことも知らないのかとでも言わんがばかりに、キャプテンはため息をついて説明を始める。
 そもそも夢というものは、無意識の深い部分を人類で共有しているのと同じように、人類間でつながっているのだそうだ。いや正確には、睡眠によって意識が深い共有レベルまで降りてきたときの記憶こそが夢だというのだ。なるほど解らん……。とにかく、全人類の夢ってのは、どうやらつながっているらしい。
 そして、夢は壊れるものでもあるらしい。さらに夢を壊す存在ってのも居るらしい。
 だからキャプテンのような、修理屋が存在している。夢から夢へと渡って壊れた夢を直す。修理に必要な情報は、夢から読み取ることができる。例えば、アタシの名前とか歳とか好きなものとか……。
「壊れてるってこと? アタシの夢」
 キャプテンが、深くうなづく。
「アイコが夢であることを認識してることが、何よりの証拠なんだお」
 いきなり呼びタメとは、馴れ馴れしいパンダだ。
「どこが壊れてんの?」
 問われてキャプテンは、高台の上を指差す。
「観覧車!?」
 高台にそびえる観覧車は、この場所からではよく見えない。何事が起こっているのかと目を凝らしてみると、知らぬ間に観覧車のそばまで移動していた。夢、便利じゃん。
 すでに日は西に落ちてしまったけれど、観覧車はライトアップされて薄闇の中に浮かび上がっている。それに観覧車の全面に配された色とりどりの電飾も、観覧車の存在を際立たせていた。
 目を凝らしてみると、電飾の間に黒くうごめく存在に気づく。握りこぶしくらいの大きさはあるだろうか。どうやら影はひとつだけではなく、無数の影がうごめいていることが判った。
「夢喰バグだお」
 うごめく影に一番似ているのは、カミキリムシみたいな甲虫だと思った。こぶし大の無数の巨大甲虫がびっしりと観覧車に取り付いて、鉄骨をかじり続けていた。
     ◇

 朝日のまぶしさに目がさめる。カーテンの開け放たれたサッシから差し込む朝日が、アタシの顔を直撃している。
 覚めきらぬ目をこすりながら布団から這いだして、畳の上で伸びをする。早くに寝たはずなのに、体がだるい。寝汗でパジャマが、ぐっしょりと濡れていた。
 夢を見ていたような気がする。けれども、何の夢だったのか思いだすことができなかった。何だかとても大切な夢だったような気がするのだけれど、思いだせないのだから仕方がない。忘れてしまうくらいなのだから、きっと大した夢ではないのだろう……。
 天気が良い。窓の外を見て、まぶしさに目を細める。たまにはサッシを開けて、部屋に新鮮な空気でも取り込もうと思ったのだけどやめた。きっとガタピシと引っかかるばかりで、窓枠のゆがんだサッシはまともに開かないのだろうから。
 隣のキッチンに、人の気配がある。きっとママが帰ってきている。顔を合わせるのは、三日ぶりだろうか。またあの不機嫌な顔を見なければならないのかと思うと、気が滅入った。
 部屋とキッチンを仕切るふすまを開けると、予想通り険しい表情で下着姿のママがスマートフォンをにらんでいた。アタシの顔をチラリと見やると、興味なさそうにまたスマートフォンに視線をもどした。くわえたタバコから、灰が落ちそうになっている。キッチン全体が、白く煙っていた。
 なるべく息を吸い込まないようにガスコンロの前までたどり着くと、こみよがしに大きな音を立てて換気扇のスイッチを引っぱった。異音混じりにノロノロと動き出した換気扇は徐々に回転を上げ、十秒ほど経ってようやく部屋の空気を吸いだし始めた。
 背後から舌うちが聞こえた。振り返ってみると飲みかけのチューハイの缶に、ママがタバコを放りこむところだった。チュンと音を立てて、缶の中でタバコの火が消えた。
 大きくため息をついて立ち上がると、ママは隣の部屋へと消えた。後ろ手に閉められたふすまが、ピシャリと殊のほか大きな音を立てた。
 ママと言葉を交わさなくなって、どれくらいになるだろうか。夜の仕事をしているママは、アタシが学校から帰ってくる頃にはもう出勤している。今朝みたいに起きた頃に帰っていることもあるけど、帰って来ない日だって多い。基本的にすれ違っているのだから会話がないのも仕方がないとは思うのだけれど……小学生になって少しした頃から、ずっと避けられているように感じている。
 小学校に上る前は、毎晩バァバが来てくれていた。バァバが死んでしまってからはずっと、ママが仕事に行っている間を独りで過ごしている。
 朝ごはんを食べようと、冷蔵庫の上の袋から、八枚切りの食パンを一枚取り出してテーブルに出しっぱなしの皿に乗せる。おかずになるような物がないかと冷蔵庫を開けたけど、いつもと変わらず庫内にはチューハイの缶が詰まっているだけだった。
「よかった、まだ残ってた」
 缶の影に、いちごジャムの瓶を見つけた。ほとんど空になっているけど、パン一枚に塗るくらいなら大丈夫そうだ。
 たまには牛乳でも飲もうかと、紙パックをテーブルに置く。シンクの洗い物の山の中からガラスのコップを引っぱり出してすすぐ。牛乳をコップに注ぐと、ドロリとしたかたまりが出てきた。駄目だ、傷んでいる……。
     ◇

 茜色の世界に再び遊園地が立ち上がった時、キャプテンは当然であるかのようにその場に居た。
「お、今日は服着てんじゃん」
「何度も裸を見られてたまりますかって」
「胸ペッタン見たって、仕方ないんだお」
「うっさいわ! これから育つんじゃ!」
 今日も憎たらしい変態パンダだ。
 こやって夢の中の遊園地でキャプテンと会うのは、もう五回目になる。アタシが裸で登場したのは最初の二回だけで、一昨日からは制服を着た状態で夢の世界に現れている。
「しかし、相変わらずいびつな遊園地だお」
「仕方ないじゃん。遊園地なんて来たことないんだもん」
 この遊園地、一見それらしい作りにはなっているのだけれど、細かいところはかなりいい加減だ。メリーゴーランドの馬なんて何の支えもなく宙に浮いているし、轟音を響かせるローラーコースターだって車輪が付いてない。仕方ないじゃないか……本物なんて見たことがないのだから。アタシの持つイメージで、この夢の世界は形作られている。
「そんじゃ行きますか……夢を直しに」
 観覧車の鉄骨には、相変わらず甲虫の姿をした夢喰バグが取り付いている。四日間の駆除作業でだいぶ数は減っているけど、それでもまだ相当な数のバグが観覧車をかじり続けていた。
「今日中に勝負きめんと、やばいかもな……」
 観覧車の状態を確認していたキャプテンが、ポツリとつぶやく。
「ま、とりあえず始めるお」
 そう言うといつものように、ピコピコハンマーを一本アタシに手わたした。
 鉄骨をよじ登ってハンマーを振りおろす。ピコン!と軽い音を立てて、ハンマーがバグを捉えた。叩かれたバグは、ノイズが走るかのように歪んでその場で霧散する。こうやって一匹づつ叩いて駆除する地道な作業が、もう四日も続いているのだ。
「終わりの見えない作業って、やる気なくすよね」
「ここはアイコの夢だお。アイコがやる気なくして、どうするんだお」
「そりゃそうなんだけどさ……」
 べつにやる気がない訳ではないのだ。でもなんかこう、バーッと一気に片付く方法はないものかと思ってしまう。
 ピコン! ピコン! ピコン!
 ピコン! ピコン! ピコン!
 ピコン! ピコン! ピコン!
 二人ならんで、黙々と夢喰バグを潰していく。
 二時間ほど潰し続けた頃だろうか。夜の帳がおりてライトアップされた支柱のバグを潰しながら、キャプテンがおもむろに口を開いた。
「余計なお世話かもしれないけどさ……」
「何よ、改まって」
「ママンと、仲良くしたほうがいいお?」
 突然ママの話を振られ、思わず手が止まってしまう。
「……な、なんでママのこと知ってるのよ」
「そりゃ、修理屋ですしおすし」
 そうだった。修理屋は、必要な情報を夢から得ることができるのだ。アタシやママのことだって、必要な情報に含まれているのだろう。
「そんなこと言ったって……」
 思わず口ごもってしまう。ママがアタシのことを避けているんだから、仕方ないじゃないか。避けられてるのにすり寄っていくだなんて、アタシにはできそうもない。
「ママンはアイコのこと、嫌ってなんかいないお」
 アタシの考えを見透かしたようにつぶやく。
 変わらぬペースで、ピコン! ピコン! と、キャプテンがバグを潰す音が響いていた。
「なんでそんな事が解るのよ」
「修理屋は、夢から夢へ渡れますしおすし……」
「行ってきたの? ママの夢に?」
 アタシの問に答えず、キャプテンはバグを潰し続けている。
 アタシのことを嫌ってないのなら、どうしてあんなに他人行儀な態度をとるのだろうか。どうして言葉ひとつ交わそうとしないのだろうか。あり得ない、あのママがアタシを嫌いじゃないなんて……。
 ピコン! ピコン! ピコン!
 ピコン! ピコン! ピコン!
 ピコン! ピコン! ピコン!
 キャプテンがバグを潰す規則的な音を聞きながら考え込んでいると、不意に取り付いている鉄骨に衝撃が走った。驚いて鉄骨にしがみつくともう一度大きな衝撃が走り、巨大な構造物がひしゃげる不快な音が響き始めた。
「支柱が崩れるお!」
 キャプテンが叫ぶと、アタシの体を抱えて鉄骨から飛び降りる。その高さおよそ二十メートル! 思いがけないフリーフォール! なにこれ超こわい!
 アタシを抱えたまま、キャプテンは見事な着地をキメる。あわてて見上げると支柱の崩壊は止まる気配がなく、時折、金属がこすれ合う音や破断する音が響く。
 ひときわ大きな断裂音が響いたかと思うと、観覧車の大きな輪っかがゆっくりと地に落ちた。轟音とともに、地震のように地面が揺れる。輪っかは微妙なバランスを保ったまま、高台から転げ落ちそうになっている。観覧車の転がる先はどこかと見やれば、街の灯が輝いていた。
「まずいお! 転がりだすお!!」」
「どうせ夢なんだし、何が起こったって……」
「駄目だお。夢の中の物が壊れるってことは、アイコの心が壊れるってことだお。そうなったら……」
「そうなったら?」
 目をつむって、キャプテンが首を横にふる。
 なにそれ。とても口には出せないような事態になっちゃうわけ!?
「夢の中で輝いてる部分は、夢の主が大切にしてるものだお」
 キャプテンが観覧車の先の街の灯を見やる。
「何としても、止めるんだお!」
 真剣な面持ちで成り行き見守っていたキャプテンが、不意に走り出す。慌ててアタシも後を追う。
 観覧車が鉄骨をきしませながら、おもむろに高台の斜面を転がり始める。百メートルの大車輪が木々をなぎ倒しながら轟音を上げる。
 キャプテンはなんと、その行く手に立ちはだかった。いくらキャプテンがデカいとはいえ、百メートルと二メートルでは勝ち目がない。
「潰されちゃうよ!」
 叫ぶアタシに向かって、キャプテンは親指を立ててニカッと笑った。口元に白い牙が光った……けれど、やっぱりどうにもキマらない。だってパンダだし。
 あと少しで潰されちゃう! 目を閉じそうになった瞬間、キャプテンが叫んだ。
堕天使の戦鎚(ルシファーズ・ハンマー)!」
 キャプテンと観覧車の間の空間がまばゆく輝いたかと思うと、長さ八十メートルのピコピコハンマーが現れた。巨大ピコハンはキャプテンの両腕でしっかりと支えられ、観覧車の行く手をさえぎっている。さすがはアタシの夢……スケールがデカい!
「いまだお! アイコ、観覧車を再構築だお!!」
「さ、再構築!?」
 何だ、何をどうすれば良いんだ!? 突然振られたって、何をすればいいか解らず慌ててしまう。
「制服を出した要領だお! 観覧車を思い描いて、高台の上に再構築するお!」
「無理だよ! アタシ、観覧車なんか乗ったことないもん!!」
「アイコは乗ったことがあるんだお、この観覧車に! アイコならできるお!!」
 観覧車になんか、乗ったことはないはずだ。そんな記憶なんて無い。それどころか、遊園地に来たことすら無いのだから。
 その時、キャプテンが食い止めている観覧車のゴンドラに、人影が見えた。すべてのゴンドラに人が乗っている。すべての人影が、同じ人のように見えた。
 母と子の親子連れだ。子供は五歳くらいの女の子だろうか。大変な事態になっていると言うのに、楽しげに窓の外を指差してはしゃいでいる。母親も女の子の指さす先を楽しそうに見つめている。
「もしかして……アタシ!?」
 そうだ、間違いない。
 パンダのぬいぐるみを抱いて、外を指さし笑っているのは幼い頃のアタシだ。そして一緒にいるのは若き日のママだ。もしかしてママが、アタシを遊園地に連れてきてた?
 疑問が頭をよぎった瞬間、記憶がよみがえった。一度だけ遊園地に連れてきてもらったことがある。夕暮れ時になってママが帰ろうと言うのに、帰りたくないってワガママを言って……そうだ、あのときママはワガママを聞いて、最後に観覧車に乗せてくれたんだ。
 茜色に染まる夕焼け空をみながら、ママと二人で観覧車に乗った……どうして忘れていたんだろう。
「ママ……」
 そうつぶやくと、知らぬ間に涙が頬をぬらしていた。
 頬をつたう涙が、夢の世界へとこぼれ落ちる。するとキャプテンが食い止めていた観覧車が闇に溶けるように消え、代わりに高台の上に壊れる前の観覧車が再構築されていく。
 観覧車が消えその場に残された夢喰バグの群は、ふたたび高台に現れた観覧車へ取り付いて鉄骨をかじり始めた。駄目だ、このままではまた観覧車がやられてしまう……。
「観覧車が! 観覧車がまた食べられちゃう!」
 涙声の叫びに、キャプテンが力強く応える。
「心配すんな! 最終奥義でキメるお!」
 なんだそれ。そんな技があるのなら、最初から使えっつーの!
「クールにキメるぜ!」
 叫んでキャプテンは、八十メートルのピコピコハンマーを大きく振りかぶる。
「大熊猫彗星打《メテオ・ストライク》!!」
 巨大なハンマーが観覧車を打ち、轟音が響き渡る。観覧車に取り付いていた夢喰バグは、衝撃で砕けて霧散していった。
 そして破壊されたものは、バグだけではなかった。観覧車に……いや、観覧車の在る空間自体に亀裂が入り、ボロボロと崩壊を始めている。ひび割れた空間の向こう側は光があふれるばかりで、様子をうかがうことができなかった。
「この技を使うと夢が強制終了するんだお。二度とココに来られなくなるんだお……」
 そう言うとキャプテンは、寂しそうに笑った。
「大切な記憶を思い出すことができた……アイコはもう大丈夫だお」
 八十メートルの巨大ピコハンを担いだキャプテンが、アタシに優しい笑顔を向けている。
 ハンマーが打ち砕いた空間を中心に、亀裂は遊園地中に走り、夢のあちこちで崩壊が始まっている。キャプテンとアタシの間にも、大きな亀裂が走る。
「お別れだお。無茶したから、現実に影響が出たらゴメンにょ」
 突然の別れに、何を言えば良いのか解らなかった。影響とか適当な仕事してるんじゃないわよと悪態をつきたい衝動に駆られたけど、そんな余裕なんてなさそう。
 だから一言だけ叫んだ。
「ありがとう!」
 アタシの言葉に、キャプテンが親指をピンッと立てる。ニカッと笑った口元に白い牙が光ったけれど、やっぱりどうにもキマらない。だってパンダだし。

     ◇

 朝日のまぶしさに目がさめる。カーテンの開け放たれたサッシから差し込む朝日が、アタシの顔を直撃している。
 覚めきらぬ目をこすりながら布団から這いだして、畳の上で伸びをする。早くに寝たはずなのに、体がだるい。寝汗でパジャマが、ぐっしょりと濡れていた。
 夢を見ていたような気がする。いつもなら見ていた夢を思い出すことなんてできないのに、今日はハッキリと憶えている。キャプテンがアタシの夢を……ううん、アタシを助けてくれたことを憶えている。夢を憶えているだなんて……これが強制終了の影響なんだろうか?
 天気が良い。窓の外を見て、まぶしさに目を細める。サッシを開けて部屋に新鮮な空気を取り込む。窓枠の歪んだサッシはガタピシと開くことを拒んだけど、それでも最後にはあきらめて全開になった。吹き込む風が気持ちいい。
 隣のキッチンに、人の気配がある。きっとママが帰ってきている。顔を合わせるのは、三日ぶりだろうか。
 部屋とキッチンを仕切るふすまを開けると、下着姿のママが険しい表情でスマートフォンをにらんでいた。アタシの顔をチラリと見やると、興味なさそうにまたスマートフォンに視線を戻した。くわえたタバコから、灰が落ちそうになっている。
「おはよう」
 アタシが挨拶すると、ママが驚いた表情で顔を上げた。
 呆気にとられた口元から火のついたタバコが床に転がる。慌てて拾い上げると、ママは飲みかけのチューハイの缶に放り込んだ。
 椅子に座り直して深い溜息をついたママは、不安げに見つめるアタシを見やった。
「お、おはよう……」
 そう言うとママは、照れくさそうに笑った。

(了)

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