どうしよう。朝っぱらから気まずい。どう考えてもこの状況、気まず過ぎる。俺は今しがた気づいてしまった事実を胸に抱えたまま、考え込むようにテーブルの上で手を組んだ。
「久美子さんの作る料理、世界で1番美味いっす」
「あら、豊騎くんってば嬉しいこと言ってくれちゃって。うちの想ちゃんなんていつも無言でパクパク食べちゃうから」
テーブルの向かい側に座っている親友は、こちらの気も知らずのんきに俺の母親――天辰久美子の手料理を食べている。目の前で俺がシリアスな空気を醸し出しているのに、だ。親友よりも食いもんが優先なのかよ。いや、この場合あいつの目的は料理そのものじゃなくて、別のものか。
「てか久美子! 俺のことちゃん付けで呼ばないでって言ってんのに。もう今日から高校2年生なの! 俺!」
「はいはーい。もう……ちゃん付け可愛いのに……」
母親がちゃん付けしてくるせいで、我が家にやってきた友人たちはみんなして俺を子ども扱いするようになるんだから。何度やめるように言っても、久美子は俺のことを「想ちゃん」と呼ぶ。もはやわざとなのかもしれない。未だに息子が幼稚園児だと思っているのか、なんなのか。
俺が母親に怒っている間も、豊騎は静かに箸の動きを進めている。今朝のメニューは筑前煮と茄子のおひたし、白ご飯に味噌汁だ。男子高校生が「世界イチ美味い」というにしては、渋すぎる料理。
「いっつも豊騎の好きな物ばっかりじゃん。ずりいよ」
朝はご飯よりパン派だった我が家のメニューは、去年からガラリと変わってしまった。1人暮らしで碌な食事をしていないという豊騎のために、母親が「じゃあうちに食べに来て!」なんて言い豊騎の分の飯まで作り始めたからだ。
俺だって、たまにはジャムを塗ったトーストとか、目玉焼きを食べたい。思わず愚痴をこぼすと、「わがまま言うな。作ってくれた久美子さんに失礼だろ」と豊騎に睨まれる。
高校入学以来、俺の親友となったこの男――伊佐敷豊騎は、高身長に煌めく瞳、皮肉っぽく歪められてもイケてる口元を持ち、黙っていれば周りに騒がれる程度には魅力的な風体をしていた。ただし、黙っていれば、だけど。喋り出すと憎まれ口を叩くので、よく周りからは「もうお前黙っとけよ」なんて注意されがちだ。
「ほら、茄子食え。俺よりチビなのが嫌なんだろ? なら食え、食え」
「だーッ! 口に入れんな」
豊騎がぐいぐいと箸で俺の口に茄子を入れてくる。確かに豊騎より低い身長を気にしてはいるけど、そもそも豊騎がデカ過ぎるんだ。俺だって175センチはある。それに茄子は嫌いだ。
嫌がる俺を見て、豊騎は笑っていた。朝から無駄にキラキラしやがって。ムカつく。毒づかれても、この顔を見ると許してしまうから、余計に腹立たしいんだよ。
「あ、想ちゃん、もう出なきゃ! 遅刻遅刻」
「げっ……て、久美子、またちゃん付けしてるし」
母親の声を聞き時計を見ると、なんと8時を過ぎている。始業時間まであと15分。俺の家から高校まで自転車で20分ほどかかるのに、やばい。「行ってきます!」と叫び、急いで俺たち2人は玄関を出て、自転車に飛び乗った。
朝ごはんをちゃんと食べきれなかったので、ぐう、と腹が鳴る。朝から余計なことに気づいちまったせいだ。つまるところ、豊騎のせいだ。
「豊騎のバカヤロー!」
必死にペダルを猛回転させながら、叫ぶ。自転車ですぐ横を並走していた豊騎は、「うるせえ」と言ってから、文句を言い始めた。
「そうだ想、今更だけどお母さんのことを『久美子』呼びはどうなんだ? もっと敬えや」
「お前だって『久美子さん』呼びしてるし大して変わんねーじゃん」
「俺は息子じゃないからいいんだよ」
「はあ!?」
豊騎はやっぱり……。そこまで考えて、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。今朝、母親と豊騎の話しているところを見ていてにわかに浮上した疑惑――豊騎は俺の母親のことが好きなんじゃないか、ということ。
思い起こしてみれば、そうとしか思えない態度ばかりだった。豊騎は基本的に優しくない。見た目に釣られて話しかけてきた他校の女子に対してなんて、まともに会話してるのを見たことがないくらいだ。うちの高校でも「歩く塩対応」なんて異名もついている。それぐらい、豊騎はよく言えばクールな男なのだ。
それなのに、俺の母親に対してはいつもスーパーウルトラ級の優しさを発揮するし、毎日笑顔を向けている。好きじゃないのなら、もはやなんでその態度になるのか教えてほしい。切実に。
「な、なあ、あっくん……? 好きなタイプってどんな人?」
「突然なんだよ。キショいな」
ペダルの回転数は落とさないままに、おずおずと聞いてみる。豊騎は汚物を見るような蔑みの目を向けてきたが、負けてたまるか。
「だってえ、ダチになってもう1年経つけど浮いた話聞かないし。女子たちに告られても全拒否だったし。どんな子ならお前もOKすんのかちっと気になってえ」
わざと語尾を伸ばしてかわい子ぶってみたら、「くねくねすな! アホ」と頭をどつかれた。痛い。
「……そうだな。強いて言うなら、明るくて、笑顔が可愛くて、ちょっと抜けてて、優しい人かな」
「……」
「おい。せっかく答えてやったのに無視すんな」
「……アンケートに答えて頂き、あざっしたあー!」
「意味わからん」
豊騎は俺の動揺に気づいた様子もなく、自転車の速度を上げた。張り切ってペダルを漕いだおかげか、なんとか始業時間には間に合いそうだ。俺は正直、それどころじゃない心境だったけど。
豊騎の好きなタイプ、まんまうちの母親のことなんですけど。もうこれ確定でしょ。だけど2人の年齢差いくつあると思ってんだ、と心の中で豊騎に文句を言う。久美子は今年42歳だから、25歳差だぞ、25歳差。俺、ニュース記事で豊騎の名前見たくねえよ。変な想像が止まらなくなり、嫌な冷や汗がこめかみを伝い、ポタポタと地面に落ちる。
俺の親友、俺の母親にガチ恋しちゃったの?
途方に暮れていると、校門が見えて来たので俺は考えるのを一旦やめた。
***
「やったね想ちゃーん、俺ら今年も同じクラスっ!」
「うん、よかったけどさ。想『ちゃん』言うな」
2年生の教室に入ると、去年も同じクラスだった友達、真子陽が抱き着いてきた。豊騎とも無事に同じクラスになれたし、友達作りに奔走する必要はなさそうで、ひとまずホッとする。人と話すことは好きだけど、初対面だとどうしても緊張してしまうのだ。
陽はそんなことは微塵も考えたことがなさそうな軽い男なので、「よろしく、よろしく~! あ、連絡先交換しよ?」と、クラスの色んなやつに話しかけている。まあ、あいつは女好きなので可愛い女子狙いだろうけど。
「陽がいるなら今年もうるせーだろうな」
後ろの席にいる豊騎が呟いた。名前の順で席が並ぶと、俺たちは必ず天辰、伊佐敷の並びで前後の順番になる。1年生の時に仲良くなったきっかけも、それだった。今年も豊騎が後ろにいると思うと、安心感で満たされていく。本人には絶対言わないけど。
陽が色んな女子に話しかける様を遠巻きに見ていると、ひとりの男子が俺と豊騎に近寄って来た。
「あのー、真子の友達って君ら?」
眼鏡をかけた眼光鋭い男子が、言う。その視線に少しビビっていると、「そうだけど。何か文句ある?」と豊騎が喧嘩腰で言い返す。
「ああ、いやいや、違くて。俺、真子の幼馴染の泉俊喜。このクラスに真子以外の知り合いいなくてさ。仲良くして貰えると助かるわ」
「あ、あー! そういうこと。こちらこそよろしく」
あわや一種触発か、という空気感だったので、身構えてしまった。泉くんはただ単に目つきが悪いだけの良い人みたいだ。
俺たちが新顔の泉くんと談笑していると、陽が新しいクラスの凱旋から帰ってくる。
「とっしー! みんなと挨拶した? できまちたか?」
「ひな、ふざけんなよ」
おお、本当に2人は幼馴染らしい。泉くんがさっきまでと打って変わってマジの口調だ。
だけど泉くんのドスの効かせた声も慣れっこなのか、陽は教室へ入って来た女性教師を見ては「お! 担任は花ちゃんか~、このクラス当たりじゃん!」なんて騒いでいる。
花ちゃん、とは国語担当の教師の花形美紀先生のことだ。陽の言葉を聞いて俺も教壇へ視線を向ける。「はーい、みんな席についてね」と可愛らしい声を上げている花形先生。去年新卒で入って来たから、まだ20代前半のはず。豊騎も歳上を好きになるならせめてあのくらいの歳の差の人を好きになっていれば、なんて考えが浮かぶ。
「……いや、そもそも不倫になるからダメなんだって」
「エッ、不倫!? 想ちゃん不倫してんのッ」
考えが口に出てしまっていた。そして俺の言葉を耳聡く聞きつけた陽が、大絶叫する。クラス中の人間が俺を見つめた。「は、はあ? してねえよ!」と言う声が震える。
「不倫の話は後にしてねー。ホームルーム中だから」とやんわり注意してくる花形先生に「はい、すんませんっ」と謝って、机に突っ伏した。それからホームルームが終わるまで、俺は絶対に目立たないように息を潜める羽目になった。くそ、これも全部豊騎のせいだ。
***
「そんでえ、想ちゃん。不倫ってどゆこと?」
休み時間になるや否や、陽がニタニタとチェシャ猫みたいな笑顔で俺を揶揄ってきた。説明するのもめんどくさい。
「俺じゃなくて。知り合いがー……」ここでチラッと後ろの席に座る豊騎を伺う。特に表情は変わらない、と。大丈夫そうなので、話を続けることにした。
「知り合いが人妻を好きになっちゃったらしくて。やっぱ止めたほうがいいんかな……?」
朝から俺の頭を悩ませていたことは、ズバリこれだった。豊騎を止めるべきか、黙って見守るべきか。答えを出せそうにないので、陽たちにも聞いてみることにする。
「俺は諦められないくらい好きな人がいるなら、略奪もやむを得ないと考えるかな」
そう言ったのは、泉くんだった。やはりただの眼鏡男子ではない。彼の背後に「ゴゴゴ……」と覇気の音が聞こえてくる気さえしてきた。俺は感心したけど、陽は違うらしい。「えー」と不満そうな声を漏らした。
「んー、そりゃ好きになるのは悪いことじゃないけど。それ以上の関係を求めて誰かが傷つくんなら、そっと胸に仕舞っとくべきかもねー」
「おお……意外にもまともな回答だ」
「陽もお前にだけは言われたくないやろなあ」
陽が珍しく真面目なことをいったので驚いていると、豊騎が俺を馬鹿にしたくてたまらないらしく、エセ関西弁でそんなことを言ってきた。
すると、泉くんが驚いた顔で「関西出身なんだ?」と豊騎に聞く。
「いや、東京出身」
「は?」
「あっくんのはエセ関西弁だもんねー」
「……は?」
泉くんの発する声がどんどん低くなっていったので、慌てて「あー責めないでやって、この子、お笑い大好きなんです。勘弁してやってください!」と俺がフォローを入れる羽目になった。当の豊騎は何かやっちゃいましたかね? というとぼけ顔をしている。殴りたい。切実に殴りたい。
「豊騎は中学生の頃から1人暮らしだったらしくて。話し相手がいなくてテレビばっか見てて」
「あー……」
俺が詳しく豊騎の過去について説明し始めると、泉くんは怒りの気配を収めてくれた。かわりに、今度は可哀想な子を見る目で豊騎を見つめている。でも、この話はそんなセンチメンタルな物語ではない。
「そんで関西弁の勉強し始めたんだって」
「いやなんでやねん。普通そこは芸人目指し始めました、やろ」
話のオチまで喋り終えると、泉くんからキレのあるツッコミが飛んでくる。豊騎のものに比べると段違いの切れ味だ。
「あれ、関西弁?」
「とっしーはマジで関西出身だよ。小学生の途中でこっち来たから」
陽が言う。そうなんだ、と納得していると、泉くんが「ハッ……ついツッコミ入れてしもた」と我に返って眼鏡のフレームを意味もなく直している。これが本場の関西弁か。俺が感動している間、豊騎は本物の関西人の前でエセ関西弁を喋るという己の愚行を恥じて、顔を手で覆い隠していた。気持ちはわかる。うん。俺なら今すぐUターンして家に帰ってふて寝してるね。そんな気持ちを込めて、豊騎の肩をぽん、と叩いた。
「それにしても、想ちゃんがまさか人妻好きなんてねえ」
「だから俺の話じゃないっての!」
陽はまだ俺のことを人妻好きだと誤解しているようだ。「アブノーマル趣味かあ」なんて最悪な言葉を呟いている。
そのタイミングで、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。陽と泉くんが自分たちの座席へと戻っていく。俺も準備するか、と正面に座り直して教科書を出していると、後ろから肩を叩かれる。豊騎だ。
「……さっきの話だけど。俺なら、相手が人妻でも、男でも、好きな相手は俺の手で幸せにしたいと思う。そんだけ」
「え? え、ええええーっ!?」
それって、つまり。俺の母親のことが好きですと言っているようなものなのでは――?
その後、俺が授業に集中出来なかったのは、言うまでもないことだろう。
「みんなにお知らせ~! 俺っち、新しい彼女が出来ましたあ。てへッ」
高校2年生になってまだ1か月しか経っていない、そんなある日の昼休み。ふらりと教室からいなくなっていた真子陽は、教室に戻って来るなりそんな重大発表を俺たちにかましてきた。
「てへ、じゃねえよ。帰れ帰れ」
「……チッ、クソがよお……」
え、そんな怒る? 俺は普通に「おめでとう」なんてお祝いの言葉を贈ったのに、俺以外の2人の反応が怖い。豊騎と泉くんが悪態をつくのを聞いて、俺は少し震えた。豊騎の毒舌はいつものことだからまだ耐えられるけど、泉くんは怖過ぎるでしょ。ただでさえ目つきがその筋の人もびっくりの鋭さなんだから。
「ふえええん、怖いよ想ちゃーん!」
「いや俺に助け求めんなって。あの2人に勝てるわけないじゃん」
2人が怖かったのは陽も同じだったようで、情けない顔をして抱き着いてくる。その途端、泉くんがギロリと俺のほうを睨みつけてきたので、急いで陽の腕を払い落とした。「痛いよ想ちゃん……」と陽からは泣き言を言われたけど、そんなのどうでもいい。
泉くんは悪い人じゃない。豊騎なんかと比べたらむしろ良い人だ。知り合ってまだ日は浅いけど、よくわからなかった授業のノートを貸してくれたり、頭が良いから勉強を教えてくれたりする。たぶんこれからテスト期間にはお世話になるんだろうな、と思っているくらいだ。ただ、陽が絡むとたまに人が変わるんだよな。なんでだろう。
泉くんの奇行に俺が頭を捻っていると、さっさと復活した陽が豊騎を相手に彼女の写真を自慢していた。
「どう、俺っちのニュー彼女。可愛いっしょ」
「アーカワイイ、カワイイネー」
「気持ちこもってなーい!」
「当たり前だろ。馬鹿の彼女が誰だろうと興味ねえわ」
「ひど! いいもん、想ちゃんに見せるから。想ちゃんはあっくんみたいに酷いこと言わないもんねー」
陽がそう言って、スマホの画面を見せつけてくる。誉め言葉を求めているんだろう。
陽は机にもたれかかると、期待に満ちたキラキラした瞳で俺を見上げてくる。
「……あー、うん。優しそうな子、だね? 今度は長続きするといいな」
写真の中の女の子は、なんとも言いにくい風貌の子だった。陽の歴代の彼女と比べると、かなり異質ではあった。大人しそうで、華はないものの品と育ちの良さそうな顔をしている。着ている制服は、同じ市内の女子高のものだ。なんでこんなきちんとした女子が陽と付き合うことになったのか。謎だ。
「えへへ、あんがと。そーなの、ゆうちゃんはすんごい優しい子なんだあ」
俺の反応に満足したらしい陽は、へにゃへにゃと嬉しそうに笑っている。彼女の名前はゆうちゃんというのか。ゆうちゃん、奇特な人だ。陽は去年の1年間、短期間で彼女をとっかえひっかえしていたので、ゆうちゃんが傷つかなければいいけど。
俺が会ったこともない陽の彼女の未来を憂いている間に、陽はクラスの女子たちの中へ割って入っていって、「これ俺の彼女~」と写真を見せて回っている。
「チイッ……!」
盛大に舌打ちをする泉くん。幼馴染の陽に先を越されたのがそんなに悔しいのか。それとも、自分は女子から一歩引かれてるのに(目つきが悪過ぎるせいだ)、陽は女子と仲良いのが許せないのか。どっちにしろ怖過ぎるので、早く機嫌を直してもらいたい。
豊騎はどうか、と後ろを振り返ってやつの様子を伺ってみた。俺の母親に毎朝持たされている弁当を、しっかり味わいながら食している。ちょうどほうれん草を箸で持ち上げ、うっとりと見とれているところだった。
陽の彼女の惚気を聞いて、てっきり落ち込みでもするかと思っていたけど、そうでもないらしい。豊騎の恋のお相手は俺の母親の久美子で、彼の恋が成就する可能性は限りなく低い。俺の両親、未だにラブラブだし。だからすんなりと恋人を作る陽にイラついてもおかしくはないんだけど………。
豊騎をもう一度チラ見する。まだほうれん草に夢中のようだ。ほうれん草にそんな甘い視線向けてどうすんだ。それはそれで怖い。
「どうすっかなあ……」
なんだかんだ言っても豊騎は大事なダチだし、あいつの恋路は応援してやりたい。でも久美子と豊騎が実際にどうこうなられて困るのは、俺。両親には離婚してほしくないし。
頭を悩ませながら、豊騎好みの質素な弁当に箸をつけた。
***
帰宅後、スマホアプリで不倫ものの漫画を何作か読んでリサーチをしていた俺は、途方に暮れていた。
「不倫した側が幸せになる話がひとつもねえじゃんっ……!」
考えてみれば至極当たり前のことだった。罪を犯した者は、幸せになるべからず。不倫を題材にしている漫画の全てが、そんな教訓の元に描かれているようだった。
ため息を吐いて、2階にある自室から1階に下りて、リビングへ向かう。するとそこには、職場から帰って来た父親と母親が、年甲斐もなくいちゃついていた。
「ママのためにシャインマスカット買ってきたんだよ。はい、あーん」
「あーん。やだあ、甘ーい!」
我が両親ながら、なんちゅう会話をしてるんだと呆れてしまう。冷めた目で眺めていると、俺の視線に気がついた久美子が「キャッ、想ちゃんが見てる。もうパパったら~」なんて言って、笑う。
「想ちゃんも食べる? シャインマスカット」
「いや……お腹いっぱいだからいい……」
正しくは、両親の会話を聞いて胸やけをしたから、だったけど。俺が引いてることには気にも留めず、両親はまだいちゃついている。
この調子じゃ、豊騎にチャンスはまったくないな。哀れ、豊騎。せっかくイケメンに生まれ落ちたのに、女の趣味が人妻だなんて、神様も酷なことをするよな。
リビングからキッチンに歩いていき、水をコップ一杯飲む。そして、絶望的な恋をしている親友のために俺がしてやれることを考えてみた。
両親の仲を引き裂く――は、出来そうにないので却下。母親と同世代の女性を紹介する――中々いい案だけど、俺自身に40代女性の知り合いなんて、親戚以外にいない。そうなるとどうしても久美子に頼まなければいけないし、何故紹介しなきゃならないのか、その理由を説明する必要が出てくる。豊騎が告白を望まないならこれもダメだ。
「うーん……要はあいつの恋心を何かの形で昇華させてやればいいから……」
そこまで考えを巡らせてみて、ひらめいた。そうだ。豊騎をモデルにした漫画を描けばいいんだ!
やっと豊騎を救うための答えが出て嬉しくなって、俺は階段を駆けのぼった。自室に入り、タブレットを取り出してお絵描きアプリを起動させる。
高校に入ってからは周りに公言していないが、俺はかなりオタク趣味のある男だ。陽たちに「漫画はワンピくらいしか読まんな~」なんてうそぶいていたけど、本当はめちゃくちゃたくさんの漫画を読んでいた。美少女イラストを描くのも好きだし、今でも授業中、ノートの端っこに絵を描いて遊んだりしている。豊騎には自作のイラストを見せたこともあって、いつも毒舌のあいつにしては珍しく「まあ、上手いんじゃん?」なんて褒められたこともあるくらいだ。
「待ってろよ豊騎。今、俺が幸せにしてやるからな……!」
俺、今日から豊騎のためだけの絵師になるからよ。気合いを込めて、額にハチマキを巻く。徹夜してでも、この原稿で豊騎のハッピーエンドを描いてやるぜ。うおおお、と燃えるようにやる気がみなぎる。
その日の夜は飛ぶように過ぎていった。
***
「……おはよ、泉くん。今朝は早いね」
「お、おう。そらこっちの台詞やけど」
いつもは遅刻ギリギリで豊騎と共に教室へ滑り込む俺だったけど、今朝は違った。豊騎を主人公とした自作の同人誌を描き終えるために、結局徹夜をしたのだ。
興奮冷めやらぬ状態のまま、既に教室にいた泉くんに声をかけると、泉くんは驚いたように細い目を極限まで見開いた。なんだか怯えているみたいに見える。いつもは泉くんの見た目に俺が怯えているので、立場が逆転したようで少し気分がいい。
「今日は伊佐敷と一緒に来んかったんやな」
「まあね。豊騎に見せる前に、泉くんに見せて客観的な意見をもらおうと思ってたから」
「見せる? 何を」
眉を寄せて訝しがる泉くんに、昨晩描き上げた同人誌を手渡す。表紙にでっかい太字で書かれている「男子高校生じゃ、ダメですか?」というタイトルと、エプロンを身に纏いお玉を手にした主婦(言うまでもなく母親がモデルだ)、それに豊騎そっくりのイケメンキャラを見た泉くんは、ものの見事にピシッと固まった。
「俺に……これを……読め、と……?」
「だ、ダメでしたかね……陽は何見せても『わあスゲエ!』しか言わないし、泉くんなら公平なジャッジを下してくれるかなと思ったんだけど」
もしかしたら、彼はいかにもオタクが好みそうな漫画は嫌いなのかもしれない。泉くん、成績優秀で潔癖っぽいし。嫌な思いをさせたかな、と思って同人誌を仕舞おうと手を伸ばす。
だけど、泉くんは意外にも「待って。読むから」と同人誌を手放さなかった。
ドキドキしながら、静かにページをめくる泉くんの様子を見守る。どうだろう。ひと晩かけて描いただけあって、自分としてはかなり満足のいく出来栄えなんだけど。
同人誌のストーリーはこうだ――男子高校生である主人公、睦騎は友達の家に行った際、友達の母親である恵美子に恋してしまう。家に遊びに行くたび、シングルマザーの恵美子と密かに仲を深めていく睦騎。2人の関係を知った友達の総一に最初は反発されるが、睦騎の思いの丈を知ったのち総一は2人が付き合うことを認める――これが、俺の考えた豊騎のハッピーエンドだった。
読み終えた同人誌をパタンと閉じてから、泉くんは眼鏡の縁を直して、「いっこだけ、ツッこんでもええか?」と呟く。どうぞ、と頷いた。
「じゃあ、遠慮なく……スー、ハア……なんでそうなんねんッ!」
念入りに深呼吸してから、泉くんはこれまで聞いたことのない声量で叫んだ。「なんねん……なんねん……」と、最後の言葉尻がひとけのない教室に響き渡る。
「え、そんなにダメだった?」
自信作だったんだけどな。がっかりして泉くんに聞いてみると、泉くんは「コイツ正気か?」とでも言いたげな目でこちらを睨んだ。怖い。
「絵は綺麗だったし、漫画としては面白い作品だったと思う」
「わあ、ほんと。うれし……」
「でも、伊佐敷に読ませるのはやめておけ。あいつ、これを読んだら憤死しかねない」
「そこまで!?」
泉くんの忠告に、驚嘆する。ちゃんと同じ名前にならないよう配慮もしたのに怒るのかな。と、思いつつ、賢い泉くんが言うのなら、きっとそうなんだろう。俺は無理矢理に己を納得させた。持ってきた同人誌を鞄の底のほうへ仕舞いこむ。可哀想だけど、これは家の倉庫にでも隠しておこう。
「チーっす泉。おい、想、今朝は何が野暮用だったんだよ」
同人誌を仕舞ったすぐ後に、教室の扉を開けて豊騎が入って来た。俺が朝、持っていくのを忘れた弁当を2人分、手にしている。俺の分の弁当箱を受け取って、「野暮用は野暮用だよ」と答えを煙に巻く。隣で泉くんが「同人誌の話題はコイツにぜってーすんなよ」と睨みをきかせていたからだ。
「……目の下の隈、すげえことになってっけど。昨日何してた」
豊騎はそう言うと、不意に俺の顎を手で持ち上げた。顎クイだ。俺にしてどうするよ、とうんざりして目をぐるりと回す。
「1日限定の絵師」
「はあ? なんだそれ」
絵師、天辰想はもうおしまいです。昨日の努力が泉くんいわく豊騎のためにならなかったらしいので、俺はむしゃくしゃして机に寝そべった。
これも全部、豊騎のせいだ。
黒歴史は、我に返った時点で人目につかないようゴミとして捨てるなり、山奥へ埋めてくるなり、迅速に処分しておくのがいい。今回、俺はそのことを学んだ。でも学んだところで、今置かれている危機的状況からは逃げられそうにない。俺、終了のお知らせ。
まだ梅雨の時期だというのに、悪寒がして全身が震えた。
「どうしちゃったの、想ちゃん……」
俺の母親――天辰久美子が悲しそうな顔をして、床に正座している俺を見下ろした。ここ、俺の自室の床にはたくさんの漫画やらイラストやらが散らばっている。すべて人妻ものだ。
これは違うんだ。そう言い訳をしようとしても、すぐ隣には「ドキッ! 人妻だらけの夜」なんてタイトルのいかがわしい漫画本が転がっている。何を言っても無駄かもしれない。俺が母親の立場だったとしたら、何を弁明しようが信じないだろう。だって説得力ゼロだ。どう見ても性癖が人妻な男子高校生だ。
「ちょっとエッチな漫画を読むことくらい、お母さんも止めないのよ。想ちゃんくらいの年頃の男の子なら当たり前にあることだからね。でも、人妻に執着するのはお母さんよくないと思うなあ」
俺の処分をどうするか決めかねて困ったように、母親は頭を傾げた。彼女の中では、息子は人妻に執着しているヤバイ男子高校生らしい。絶望で吐きそうになる。
「ち、違うんだ。これには訳があって……」と勇気を出して言ってみたけど、久美子はよく聞きもしないで「私の手には余るわあ。男同士の話し合いが必要かな。パパにも話しておくね」なんて恐ろしいことを言い出した。
「うわああああ! 嫌だ! こんな議題で家族会議開くなんて」
「家族会議も久しぶりねえ。想ちゃんが勝手に金髪にしちゃった中学2年生の時以来かしら? 楽しみ♪」
「いやあああああ!!」
母親の言葉によって本物の黒歴史を思い出させられてしまった俺は、古傷が痛み出した為に絶叫した。
「パパ、明日の朝には出張から帰ってくるから。明日は早起きしてね!」
母親はニコッと花が舞うような笑顔を見せる。明日の朝、どんな辱めを受けることになるのか。父親の反応を想像して思わず身を震わせた。
これも全部、豊騎のせいだ。
***
「ママから聞いたぞ……なんだ。その、あー。『人妻』がいたく好きらしいな?」
「うっ……」
翌日の朝。父親が帰ってくる前に登校すればいいんだと気づいた俺は、いそいそと朝早くから身支度をしていた。が、タイミング悪く、俺が家を出る前に父親が帰ってきてしまったのだ。間に合わなかった、と俺は心で泣いた。
「延彦さん、あんまり責めちゃダメよ。傷ついたら想ちゃんの性癖、もっと歪んじゃうかも」
「む、それはまずいな……」
朝っぱらからこんな会話を聞かされている息子の身にもなってくれ。そう叫びたかったけど、仕方なく黙っていた。今はそれよりも、両親に植え付けられた俺の性癖に関する誤解を解かなければいけない。
「想。何かきっかけとか、嫌なことでもあったのか? うん?」
変な気を遣わないでくれえええ!
恥ずかしさのあまり脳内でひとり悶えながら、早口でまくし立てた。
「あの大量の漫画は、俺じゃなくて友達のために集めてたんだ。友達が人妻を好きになっちゃって! 止めてやるべきなのかもしれないけど、友達の初恋を止める権利は俺にはないと思って。どうしても応援したいんだ! わかってくれよ、父さん……母さん……!」
めったに呼ばない父さん、母さん呼びをして同情を誘う。最初から羞恥心のせいで涙目だったから、あたかも友達のためを思って泣いている健気な子供に見えているはずだ。いや、そうであれ。俺はもう祈るしかなくて、「涙よ、いでよ!」と心の中で唱えた。
「想ちゃんったら、なんて友達思いのいい子なの……!」
「ううっ、ママの教育の賜物だなあ」
幸い、うちの両親はおつむの出来があまりよろしくないので、俺の涙ながらの説明に感極まってくれたらしい。母親も、父親も、ぶわあっと大粒の涙を流し始める。本当のことしか話していないし、俺の性癖は別に人妻じゃない。だからやましく思う必要はないんだけど、なんだかこの人たちの遺伝子を受け継いでいる自分のことがちょっと心配になった。
3人でわんわんと泣いていると、ガチャリと物音がして玄関の扉が開く。うちの朝食を食べに豊騎がやって来たのだ。
「なんだこの状況は」
入ってくるなり、豊騎は唖然としたように言った。
俺は全力で叫んだ。
「お前のせいだよおおお!!」
「責任転換すんなや!」
負けじと言い返してくる豊騎。なんのこっちゃわからないはずなのに、自信満々に言い返すのは、さすが天下の豊騎様だ。
ギン、と睨み対峙し合う、俺と豊騎。
その時、俺たちの睨み合いなどお構いなしに、久美子が涙を拭き「おはよう、豊騎くん。朝食準備するわね~」と平和な口調で言った。
「あ、そうそう。想ちゃんがね、こんなもの描いてて」
「アッ、なに渡してくれてんの!? やめろ、読むなああああ」
急いで止めたのもむなしく、俺の描いた同人誌は母親から豊騎の手に渡ってしまう。なんとか奪い返そうと豊騎の腕に飛びついたが、豊騎はサッと背伸びをして俺の届かない高さで同人誌を読み始めてしまった。悪夢だ。
「……なんだこれ。『男子高校生じゃ、ダメですか?』変なタイトル……うわ、キッツ」
「キッツとか言うな、失礼だろ! 作者の前だぞ!!」
というか、その表紙にでっかく描かれてるの、お前がモデルだぞ! そう叫びたかったものの、なんとか堪えた。
――伊佐敷に読ませるのはやめておけ。あいつ、これを読んだら憤死しかねない
この同人誌を読んだ泉くんの忠告を思い出す。俺、豊騎に殴られちゃうかも。怯えながら、同人誌を黙々と読んでいる豊騎の顔色を窺った。
「……まあ、人妻ものなのはキッツって感じだけど。悪くはないんじゃない? この主人公の友達とか、キャラデザ可愛いからコミケ? とかで結構売れるんじゃん」
まさかの高評価。泉くんの忠告は一体なんだったんだよ。いつかの泉くんに文句を言いたくなったけど、いいか。というか、主人公の友達のキャラってつまり「俺」のキャラデザじゃねえか。気に入ってんじゃねえよ。
魚の切り身に卵焼き、味噌汁。白米。食卓に並べられたザ・日本食な朝ごはんをウキウキで眺めては、さっそうと椅子に座る豊騎。俺は恐る恐る、豊騎に尋ねた。
「あー豊騎さん? 主人公の友達のキャラデザ、具体的にどんなとこがよかったですかね……?」
「そんなん、見たまんまだろ。笑顔が可愛くて馬鹿っぽいとこが好み」
それだけ言うと、豊騎は「いただきます」とちゃんと両手を合わせてから朝食を食べ始めた。頭の中に大量のクエスチョンマークが出てきて混乱し出した、俺を残して。
うん。つまりどういうことだ? 豊騎は俺そっくりに描いた俺がモデルのキャラの見た目が好きだという。恐らく俺が母親似の顔をしているから、俺の顔も好きという理論なんだろうけど、ちょっと屈折し過ぎなんじゃないか。そのうち「人妻好きはにわか。今は人妻の息子がキてる」とか言い出したらどうしよう。いつか来るかもしれない性癖がえらいことになった豊騎の姿を妄想して、俺は震えた。
「豊騎、お前……その歳で性癖エグ過ぎだろ。まだ間に合う。引き返せッ」
「ご両親の前で何アホなこというとんねん!」
久しぶりに聞いた豊騎のエセ関西弁ツッコミ。最近は泉くんの手前、豊騎のやつ遠慮してたからなあ。ふふ、可愛いやつめ。そんな生暖かい気持ちが顔に出ていたのか、言い返しもせず黙って笑顔のまま味噌汁を啜り出した俺を、豊騎はまるで珍獣を見てるみたいな目で見ていた。
いや、今日の家族会議は全部お前のせいだからね? そんな顔する資格、お前にはねえからな!
季節は初夏。放課後になってもまだ、見上げれば突き抜けるように青い空がそこにある。こうも日が長いと、夕方でもはっきりと人影が見えるからいいよな。そう。はっきりと、見えてしまう。良くも悪くも……。
「なーにしてんだろ、あいつ」
偶然帰り道で見つけた豊騎の後ろ姿を、俺は追っていた。豊騎は高校入学時から深夜のコンビニでアルバイトをしているので、放課後になると仮眠を取るため爆速で帰宅する習慣がある。それなのに、こんなところで何をしているのか。
「そりゃデートじゃね?」
一緒に帰宅路を歩いていた陽が、彼女に送るメッセージをポチポチ打ちながら言う。
デート。豊騎が? 俺の母親のことはもう吹っ切ったのか。その隣で泉くんは「違うだろ」と呟く。うん。俺も泉くんと同意見だ。
きっとたまたまこの辺に用事があったんだろう。そう決めつけていた俺だったが、次の瞬間、予想外のものを見てしまった。
駅の前にある広場で、こちらに向かって手を振る40代くらいの女性。その人は、豊騎の前まで走っていく。そしてなんと、豊騎も笑顔でその女性に挨拶していたのだ。
「何、誰!?」
思わず隣にいた陽にしがみついて問い詰めてしまった。陽は「や、俺に聞かれても」と苦笑している。
「伊佐敷のお母さんとか、か?」
「いや……あいつの母親、だいぶ前に亡くなってるって言ってた」
去年、豊騎から聞いた話だ。1人暮らしをしている理由も、そのことが関係している。実の父親からは認知されておらず、母親が亡くなりその後はしばらく親戚の家にいたそうだ。うちの母親が毎日あいつの分の飯まで用意するのは、そんな豊騎の家庭事情に同情したから、というのも大きい。
「そうだったのか」
豊騎の家庭事情を知って、なんとなくしんみりとする泉くんと、俺。
「じゃあ、あの人誰なのー?」
不思議そうに陽が首を傾げた。俺もそれが知りたい。気になった俺たちは、悪いと思いつつ豊騎と女性の後をつけることにした。
どうやら駅前で事前に待ち合わせの約束をしていたらしき豊騎と例の女性。二言三言話してから、やがて駅の中へと入っていく。慌てて俺たち3人も彼らに続いてホームの中へ入った。
「げ、逆方向じゃん」
豊騎たちの向かった先を見て、陽が呻く。陽の家は豊騎が乗ろうとしている電車とは逆方面に最寄り駅があるのだ。「陽だけ帰るか」と言うと、陽は駄々をこねるように「やだやだあ、仲間外れにしないでえ~」と言って何故か泉くんにしがみつく。
「おいひなっ、抱き着いてくんな!」
「ん? んん~? とっしーさては筋トレしてんな、大胸筋が立派だあ」
「……自分、マジでやめえやッ……!」
泉くんは陽にペタペタと胸を触られて、耳まで真っ赤になった。彼は俺の中で「友達の中でも怒らすと怖そうランキング1位」だったので、おや? と意外に思う。普段の様子を見ているとそこまでこの2人は仲良くない。むしろ、俺と陽に比べれば距離があるくらいだ。でもこうして見ると、2人はやっぱり幼馴染なんだなあ。
ほっこりとした気持ちで2人を眺めていたので、危うく豊騎を見失うところだった。
豊騎と女性が乗り込んだ電車に、俺たちも乗り込む。同じ車内の、少し離れた場所から豊騎たちを観察した。彼らの会話まではよく聞こえなかったものの、豊騎の表情はよく見えた。
「豊騎が笑ってる、だと……?」
驚きのあまり、俺はあんぐりと口を開けた。確実に、あの女性と豊騎は初対面ではない。豊騎の女性に対する数々の塩対応を見てきたので、そう直感する。でも、俺はあの人を知らない。そのことが、少し胸をチクりと痛ませた。豊騎は所かまわず威嚇しまくってる野良猫みたいなやつだけど、俺にだけは家庭の事情とか、言いづらいことも話してくれているとばかり思っていた。ただ、俺がそう思い込みたかっただけ、だったのかな。
俺がしゅんと落ち込んでいるうちに、電車は2つ分の駅を通過する。急行電車だからか。俺と豊騎の家は、学校のある駅から電車だと1つ隣の駅にある。どこまで行くんだろう。そう思っていると、電車がまた別の駅に停車する。そして豊騎たちもホームへと下りていった。走って彼らを追いかける。
「なあ、この辺って何があったっけ」
学校より5つ離れた駅から通学している泉くんに尋ねると、泉くんは顔を顰めた。
「……住宅街くらいしかなかったと思う。スーパーとコンビニはあるかもな」
「ええ……?」
本当にあの2人はどこへ向かっているというんだ。不安になりながらも追いかけ続けると、ようやく目的地にたどり着いたらしい。豊騎と女性の足取りが止まった。俺たちはサッと電柱の影に隠れて、2人の行き先を見つめた。だけど、ここには特に目ぼしい店は何もない。何の変哲もない、ただの住宅地が広がるだけだった。
「あー、おうちデートかあ」
そんな陽の呟きが聞こえたと同時に、豊騎と女性がある一軒家の中へと入っていくのが見えた。
おいおい、待て待て待て!
「それはライン超えてるんじゃないかなあ!?」
俺はいてもたってもいられず、豊騎の目の前に飛び出し、叫んだ。叫んでみてから、周りが住宅地だったことを思い出した。静かな街に、俺の声がさぞかし響き渡ったことだろう。今になって恥ずかしくなってきた。後ろからは「うわ、想ちゃんだいたーん」と緊張感のない陽の声が聞こえてくる。
「想? こんなとこで何してんだ」
女性の家に入りかけていた豊騎は驚いたのか、珍しくぽかんと口を開けて、間の抜けた顔をしていた。例の女性は家の中から不思議そうに俺たちを見つめている。うう、気まずい。なんだか俺のほうが間男のような気分だ。
「久美子……俺の母親じゃなくて、この人が豊騎の本命ならそれでもいいよ。不倫でさえなければ俺は止めない! でもさあっ、親友の俺にはひとことくらい相談してくれてもよかったんじゃねえの!?」
「何の話?」
「え?」
「いや、こっちが聞いてんだけど」
俺と豊騎は、お互いに混乱して聞き返した。
何、この状況。
いったん話を整理しよう。俺はおずおずと豊騎を見上げ、家の中にいる女性をてのひらで示した。
「え、え、この人、豊騎の彼女さん、なんでしょ?」
「違うわこのボケが!」
「コラッ、お友達になんて口きいてんの豊騎!!」
豊騎のエセ関西弁ツッコミに被さって、雷のような激しい怒号が飛んだ。突然の大声に、俺と豊騎の身体がビクッと震える。ついでに豊騎の頭には鉄拳も飛んできた。「痛ッ」と豊騎が小さく呻く。
「ごめんなさいねえ、躾がなってなくて。わたくし豊騎の伯母の伊佐敷志信と申します」
志信さん、と名乗る女性は、先ほどの怒鳴り声とは打って変わって、由緒正しいおうちの令嬢みたいな丁寧な挨拶をしてきた。
「え、お、伯母さん!?」
「そう。伯母さん」
言われてみれば、目元とか少し豊騎に似ている気がしてきた。てっきりこの女性が豊騎の彼女だと思っていたので、安堵感にホッとため息を吐く。
「なーんだ。あっくんの親戚か」
「……こんにちは」
後ろに隠れていた陽と泉くんも、豊騎の伯母さんという事実を聞き、ぞろぞろと家の前に現れる。
急に男子高校生がこう何人も出てきたら不信感を抱かれても仕方なさそうなものだけど、志信さんは意外にも「豊騎、こんなにお友達出来たの。やるじゃない!」と言って笑っていた。懐の広い人だ。
「そうだ。これから焼肉を食べるんだけど、みんなもよかったら食べていって」
志信さんのそんな提案に、陽と泉くんは「ええ~いいんすかあ!?」「ありがとうございます」と既に乗る気満々の返事をした。
「お前ら少しは遠慮しろよ……」
豊騎は迷惑そうにぼやいていたものの、伯母である志信さんにはどうやら強く出られないらしい。渋々だったけど、俺たちを玄関に招き入れている。
「――それじゃっ、あっくんの伯母さんにカンパーイ」
「「「「カンパーイ」」」」
カチン、と炭酸飲料が入ったグラスをぶつけ合う。テーブルに置かれたプレートの上で、焼かれている肉がジュウジュウと美味しそうな音を立てていた。志信さんはひとりだけビールの入ったグラスを勢いよく飲んでいる。
「……肉、多めに買ってきておいてよかったわ。まさか豊騎のお友達をこの家に招く日が来るなんてねえ」
ビールを飲み干してから、志信さんはどこか遠くを見つめてしんみりと言った。後をつけている時から薄々感じてはいたが、豊騎とはだいぶ仲がいいようだ。豊騎が友達を作り、家にまでその友達らが押し掛けてきたことが彼女にとっては嬉しい出来事だったらしい。もしかしたら豊騎が以前世話になっていた親戚とは、志信さんのことだったのか。
「なあ豊騎、ひょっとして志信さんってお前の親がわりをしてくれてた人……?」
「ああ」
なんでもないように豊騎は肉を食べながら頷く。おー、この人が。俺はなんだか感慨深くて、志信さんの顔をまじまじと眺めてしまった。すると視線に気づいた志信さんが、ニカッと白い歯を見せて笑いかけてきた。
「君が天辰くんでしょ。豊騎がいつも世話になってるね。お母さんは元気?」
「え、あ、はい。元気です」
なんで久美子の様子を聞くんだ、という疑問が頭に浮かんだけど、すぐにうちの母親が豊騎に飯を作ってることを知っているに違いない、ということに思い至る。
「あたしは豊騎の母親の姉なんだけどね。結婚も出産もする気がなかったから……あ、まあ今もないんだけど。だからこの子の母親が亡くなってからは豊騎の世話をするつもりでいたのよ。それなのにこいつってば、中学に上がったら『絶対ひとり暮らしする』って言って聞かなくて」
「あー……」
その頃の豊騎があまりにも想像にたやすかったので、俺は豊騎を見てうんうんと頷いた。豊騎は不満そうだ。眉間に皺を寄せてひたすら肉を食うマシーンと化している。豊騎に食いつくされる前に、と俺もプレートの上にある肉を箸で掴み、食べる。うん、美味しい。かなり高級なお肉なんじゃないだろうか。この家も普通の一軒家にしては立派な作りだし、志信さんは経済的にまったく困っていなさそうだ。余計に、豊騎がひとり暮らしを強行した理由がわからなくなる。
「でも中学生でひとり暮らしって、かなりハードモードっすよね? 伯母さんよく許しましたねえ」
陽は泉くんの取り皿に焼いた野菜をぽいぽいと放り込みながら、言う。泉くんは野菜が嫌いなので、口をへの字にして陽を睨んだ。
「いやいや、あたしもこの家から豊騎を出すつもりなかったよ。でもねー。『自分たちを捨てた父親を見返すんだ』って凄まれちゃって。生活費も自分で稼ぐって言い張るしで。こっちが折れたわけよ」
中学生が出来るアルバイトといったら、新聞配達くらいしかない。ということは、豊騎は中学に通いながら早朝に新聞配達の仕事もしていたわけだ。伯母さんとの仲も良好なんだし、素直に厚意に甘えておけばよかったのに。そうしないところが、豊騎を豊騎たらしめてるんだろうけど。
「……そんな豊騎がこーんなにたくさんお友達を作ったなんてねえ。子供は勝手に育つっていうの、本当だったわ」
しんみりと言った志信さんだったが、ゴクゴクとビールをおかわりするうちに、嫌なことまで思い出してきてしまったらしい。次第に「豊騎の父親はほんっとにクズなんだよ! ったくあのヤローがよお」と口調が荒々しいものになっていく。
「伯母さん、落ち着いて」
泉くんが宥めるように言って、志信さんからグラスを取り上げようとした。が、酒が回ってきた志信さんは俺たちの予想以上に凶暴だった。「酒! 酒をよこせええ!」と陽や泉くんに掴みかかる。陽は半泣きで「ギブです、ギブです!」と叫んでから缶ビールを志信さんに献上していた。
「なんか、ようやくあの人がお前の親戚だって実感したなー」
主に暴れるところを見て、だったけど。豊騎は「しのさん今日はテンションたけえなあ」なんてことを呟いていた。
いや、お前に友達が出来たのが嬉しかったんじゃねえの。とは、言わずに心に仕舞っておいた。志信さんのために。
「想ちゃん、ご飯は冷蔵庫にあるからね。ちゃんとチンして豊騎くんと食べるのよ」
「はいはい、もう10回は聞いたって」
「家の戸締りもしっかりね!」
「はいはい」
後ろ髪を引かれるように何度もこちらを振り返ってくる母親を、半ば押し出すみたいにして玄関から見送った。両親は今日から1泊2日の旅行へ出かける。
季節は夏。外から差し込む太陽の光が眩しくて、目を細めた。昼前の時間だっていうのに、外は汗ばむくらい暑い。久美子と父さんが行く軽井沢は、ここよりかは涼しいのかな。今は夏休みだし、家族旅行についていくという選択肢もあった。だけど、いつも親から必要以上に干渉されている分、こういう時くらいは親離れをしてみたい。そんな気持ちが勝った。俺をまだ小さな子だと思っている母親は、俺が旅行に行かないと言うと物凄く渋ったが、「豊騎くんが家に泊まってくれるならいいわよ」なんて交換条件を持ち出してきた。
「久美子さんたち、もう出かけたのか」
玄関の鍵を閉めてリビングに戻ると、夜勤のコンビニバイトを終えて仮眠していた豊騎が、いつのまにか1階まで下りてきていた。その姿を目にしてギョッとする。上半身が裸で、スウェットパンツしか着ていない。見たくなくても、自然と割れた腹筋や鍛えられた上腕二頭筋に視線が吸い寄せられてしまった。
「お、おま、なんちゅーカッコしとんだ!?」
「だって想の部屋、冷房の効き悪くて暑いんだよ」
目のやり場に困って、てのひらで顔を覆う。当たり前だけど何も見えなくて、勘で歩いていたら、ドン、と思い切り豊騎にぶつかってしまった。豊騎は「どこ見て歩いとんねん」とイラついたように言う。が、俺はそれどころじゃなかった。視界いっぱいに豊騎の裸――正確に言えば胸部あたりの肌、が広がっていたからだ。
「ギャアアアア!!」
「うるせえ」
「服を! 着ろ!!」
頭に触覚が生えた害虫を見つけた時と同じくらい、絶叫したと思う。ご近所さんから苦情が入ったとしたら、それは全部豊騎のせいだ。意外と柔らかくてしっとりしていた豊騎の肌の感覚を忘れたくて、俺はヘドバンするくらいの勢いで頭を振った。そして、目に毒な豊騎の裸をなかったことにするため、その辺に転がっていたTシャツを拾って、豊騎目がけてぶん投げた。
***
「おっ邪魔しまーす」
陽の声が玄関から聞こえてくる。出迎えた豊騎が「邪魔するなら帰ってやー」とふざけるのも聞こえてきた。その後すぐに黙ったのは、きっと泉くんの氷みたいに冷たい視線に黙らせられたんだろう。
夏休みだからといって、遊んでばかりいられない。今年はいつメンに救世主――泉くんのことだ――もいることだし、最終日に焦らなくて済むよう、みんなで手分けして課題を終わらせることにした。
ジュースの入った2リットルのペットボトルと、家にあった菓子類を適当に運んできた俺の自室には、豊騎と俺、陽、それに泉くんが背の低い丸テーブルを囲むようにして座っている。
「俺は国語担当するから。みんなのテキストこっちにください」
俺がそう言うと、陽が「はいよー」といい1番にテキストをこちらへ寄越した。各自、得意分野を振り分けて人数分の課題を全てこなす――そんな計画のもと、俺は今日、ここにみんなを呼びつけたのだ。絶対、1日で片をつけてやる。俺はメラメラと闘志を燃やして手に持ったシャープペンシルに力を入れた。
――そして数時間後。豊騎はこっくり、こっくりと舟を漕いでいるし、陽はずっとスマホをいじっている。まだ真面目に課題をやっているのは、泉くんだけだった。ちなみに俺はというと、問題文が難しくて途中から筆が止まってしまっていた。ダメじゃん。
「……泉くん、もう後は君次第だ。任せた」
弱気になって、俺は泉くんの肩をねぎらうように叩いた。任せられた泉くんは不服なようで、「天辰が勉強会しようって言うたのに」と愚痴っている。そんな泉くんも、かろうじて課題を進めてはいたけど、さっきから視線がチラチラと陽のスマホへと移ろっていた。陽と連絡を取っているのが誰なのか、気になるのかもしれない。俺も気になる。陽にしては長続きしている例の彼女なのか?
「そーいや想ちゃん、今日はお母さんたち留守なの? もう俺ら何時間かいるけど帰ってこないね」
俺が陽に彼女について聞こうとした瞬間、陽から逆にそんなことを聞かれてしまった。そういや説明してなかったっけ。
「ああ、今日から明日まで旅行でいないんだ」
「じゃあ想ちゃんひとりでお留守番なの!? 不安~」
「失礼な。今晩は豊騎もうちに泊まるし大丈夫だっての」
俺がそう言うと、陽は「え!」と小さく叫んでから、ニヤニヤしながら豊騎を叩き起こした。豊騎は「フガッ!?」と奇妙な声を上げて飛び起きる。まぶたが半分しか開いていない顔だ。
「え~じゃあ今夜は想ちゃんとあっくん、2人っきりなのお? キャッ」
「何が『キャッ』だよ」
「ドッキドキだねっ!」
同意を求めるように、陽は豊騎の顔を覗き込む。寝ているところを起こされて不機嫌マックスな豊騎は、陽の顔を片手で横に押しのけた。その押しのけられた陽を、泉くんが回収する。さっきからせわしなくテーブルの周りをぐるぐる動いていた陽は、元の座り場所へぬいぐるみみたいに置かれた。
「ひな、もうジブン黙っとき」
「えーん、怒られたあ」
陽が嘘泣きをし始めたところで、もう集中力が持ちそうにないと今日はギブアップすることにした。元より成績優秀者が泉くんしかいない俺たちのグループが、1日ぽっきりで夏休みの課題を終えられるわけがなかった。悲しい現実と向き合うことにした俺は、テキストを横にのけていそいそとゲーム機を取り出した。
「1階でスマブラでもやろうぜ」
ああ、これこそ男子高校生が送るべき正しい夏休みの風景だよな。勉強、の二文字を脳内から追放し、俺たちは夜までゲームに明け暮れたのだった……。
***
陽と泉くんが帰った後、我が家には俺と豊騎だけが取り残された。ちなみに豊騎は明後日までアルバイトを休んだらしいので、両親が旅行から帰ってくるまで言葉通り「2人きり」というわけだ。
豊騎が1階で散らかしたリビングの掃除をしているうちに、俺は自分の部屋のベッドの隣に、敷布団を敷いた。
「豊騎、布団敷いといたから。お前も風呂入れよー」
「ああ」
階下から響く豊騎の返事を聞きながら、なんだか浮足立つような、そわそわした気持ちになる。意識しなきゃいいのに、今朝見てしまった豊騎の裸を思い出す。張りのある筋肉。俺とは違って労働によって鍛え上げられた身体だ。正直、かっこいいと思ってしまったことは否定出来ない。しかも、見ただけでなくアクシデントで触れてしまったのがいけなかった。豊騎の体温まで思い出してしまう。
「うわ、やめろやめろやめろ」
いくら仲の良い友達だからって、裸を見せられたらそりゃ意識するよな。俺がおかしいわけじゃないよな。そもそも、あいつは俺の母親のことが好きなヤバイ性癖持ちの男なわけで……。
思考が迷走し始めたところで、ふと下半身に違和感を覚えた。なんだ? と思って下を向く。
「……ヒッ……!」
悲鳴を上げそうになって、慌てて己の口を両手で抑えた。ありえない。信じたくない。俺はショックのあまりガタガタと震え出した。そんなはずないよな。そうだよな。見間違えの可能性に賭けて、もう一度俺は自分の身体を見下ろす――だけど、現実は時に残酷だ。俺の大切な息子は、元気に起き上がっていた。
「なんでだよおおおおお」
ベッドに突っ伏して、涙した。こうなる直前に豊騎の裸を思い描いていたのだから、もう言い訳のしようもない。俺は、親友の裸に劣情を抱いてしまったケダモノなんだ。えぐえぐと泣きながらも、未だに萎えない分身を悲しく見下ろした。
最近、ちゃんと抜けてなかったせいで性欲の対象がバグったのかも。かすかな希望に縋って、いつも使っていた秘蔵本を取り出そうとベッドの下に手を伸ばした、その時。前触れもなく部屋の扉が開いた。
「……ッ、うわあ!」
「あ? 変な体勢で何しとんねん」
ベッドの上で海老反りをするという、奇天烈な行動を取った俺を見て、豊騎が呆れたように言い捨てた。俺がこの部屋で悶々としている間に、シャワーを浴びて戻ってきたようだ。くそくそくそ。豊騎のやつ、足音立ててこいよ。お前は忍者か。
急な海老反りのせいで、腰が痛かった。濡れた髪の毛をタオルでガシガシと拭いている豊騎を、俺は恨みを込めて睨みつける。すると、俺の視線を受けて何かに気づいたかのように、豊騎はニヤリと片方の口角だけを上げて、笑った。
「もしかして想……エロ本でも読んでた?」
ギクッ。図星を突かれて、俺は固まる。こういう時、嘘が上手くつけない自分の性格に嫌気がさす。何も言い返せない俺を見た豊騎は、笑顔のままゆっくりとこっちへ歩いてくる。
「な、なんだよ。こっち来るなって……!」
濡れ髪のイケメンが迫ってくるんですけど。こういうとあたかも少女漫画のあらすじみたいだったけど、俺にとってこれは危機的状況だった。特にマイ・サンが。まだ完全には萎えていない息子が反応しませんように、と俺は半泣きで祈っていた。何か萎えるものを考えないと。俺は母親の顔を思い浮かべる。うん、いい感じに賢者モードになってきたぞ。
ベッドの上に座っていた俺に近づいてきた豊騎は、そのまま俺を覆うような形でベッドに両手をついた。豊騎と接触するのを避けたせいで、俺の身体はベッドの上へ完全に倒れる。つまり、はたから見たら豊騎が俺をベッドの上に押し倒したような図が出来上がっていた。
頑張って萎えさせようと努力していたのに。もうおしまいだ。
「……は、離れろって。何ふざけてんだよ……」
消え入りそうな俺の声。豊騎の顔が至近距離にあるせいで、まともに前を見られない。少し視線を下げているから、豊騎の着ているTシャツの柄しか目に入らなかった。でも、まだ豊騎が服を着ていてくれてマシだったかも。今朝みたいに着ていなかったら、と思うとゾッとする。裸の豊騎に押し倒された俺が、性欲を爆発させて豊騎に襲い掛かる様子を妄想した。うわあ、と声が出そうになる。そうなったら俺はもう学校に行けなくなるだろうな。そんなことを延々と考えていたら、豊騎がクスリと笑った。
「なーにひとりで百面相してんだよ」
豊騎はそう言って、俺の頬を片手で軽くつまんだ。本当に軽くだったので、痛くもなんともない。豊騎らしからぬ態度に、唖然とする。これじゃまるで、恋人を揶揄うみたいな態度だ。え、俺、豊騎の恋人だったっけ? んなわけない。豊騎は俺の母親が好きなんだし。
「お、おお、お前、こういうのは久美子にしろよ。あ、いや、それもマズイか」
混乱してきた。豊騎は動揺しまくる俺のことなんかまるで気にしないようで、子猫でも可愛がるみたいに俺の頭や頬を撫でている。
まさか、本当に豊騎の性癖は「人妻の息子」になってしまったんじゃないだろうな。新たな疑惑が生まれたところで、豊騎が耳元で囁いた。
「想、お前……とんでもない勘違いしてるってこと気づいてる?」
「ななな、何の話でしゅか……」
もう呂律も回らなくて、盛大に舌を噛む。ドキドキしまくる俺をよそに、依然としてニヤニヤした笑みを浮かべている豊騎。俺の問いには答えず、更に顔を近づけてくる。キスの射程距離だ。逃げなきゃ、と思うのに、俺は豊騎の唇から目が離せない。あと5センチ。あと3センチ。あと1センチ……そして、豊騎の下唇の一部分が、俺の唇にほんの少しだけ触れた瞬間。豊騎はサッとベッドの下に手を伸ばした。
「ふーん、こういうのが好きなんだ」
豊騎が手に取り、日の下にさらされた俺の秘蔵本――それは、クーデレ系キャラがヒロインの漫画だった。一応、全年齢もの。
「あー! 俺のお宝が!」
取り返そうと手を伸ばしたが、豊騎は俺を羽交い締めにして、そのままの体勢で本を開いた。
「……ええと、なになに。『君ってほんとに馬鹿だよね。私にいいようにされて、喜んでるなんて』」
「いやあああ、脳が破壊されるうううううう!!」
「ハハハ! おもしれー」
俺はその晩、豊騎に抱き締められたまま、オカズにしていた漫画本を朗読されるという拷問を受け続けたのだった。
9月だというのに蒸し暑い空気が教室の中まで充満する、そんな不快な日。高校で行われる文化祭の準備が、始まりを告げた。
「クラスの出し物、やりたいものがある人は挙手をしてください」
学級委員長の佐藤さんがクラスメイトに呼びかけた。
出し物か、演劇なんかいいかも。そう思って「劇はどうかな? 脚本なら俺書くし」と提案した。だけどすぐに「想ちゃんが書いたらヒロインが人妻になっちゃうでしょ。人妻趣味はもういいでーす」と陽に却下される。陽のそんな発言に、クラスの連中が笑い出す。
だから俺に人妻趣味なんてないっての。
春先に豊騎のためと思って俺が描いた同人誌の話は、久美子から豊騎、豊騎から陽、泉くんにまで伝わっていた。それ以来、いくら訂正しようとしても陽たちは俺のことを人妻大好き男だと思っている節がある。
その後、俺の演劇以外にも展示、屋台、アイス屋などの意見が出たものの、出し物がひとつに決まらない。
「はいはーい! 男装アンド女装カフェはどう? 委員長、絶対似合うよ~」
膠着状態だった話し合いの最中、陽が声を上げた。おまけに佐藤さんにはウインク付きで。佐藤さんは少し頬を赤らめた。陽はチャラいけどイケメンではあるので、これも自然の摂理なのか。陽のやつ、割と長く付き合っていた「ゆうちゃん」とも最近別れたらしくて、またチャラさに磨きがかかっている。
「……チッ、あいつはまた……」
俺の2個後ろの席から、地を這うような声が聞こえてきた。俺のすぐ後ろは4月から変わらず豊騎なので、この声は泉くんだ。相変わらず、陽がモテることにキレているみたいだ。
「じゃあ、採決とります! 展示がいい人ー。屋台がいい人ー……」
佐藤さんがクラス全員に聞いて、書記の田辺さんが黒板に正の字を書いている。そして、うちのクラスの出し物は陽が提案した「男装アンド女装カフェ」に決まった。衣装係、調理係、接客係の3つに分けて作業をすることになるらしい。
「天辰くんは女装して接客ね」
「え、俺の意見は!?」
裁縫が得意ということで初めに委員長から衣装係に任命された伊藤さんは、俺の顔を見るなり接客係に指名してきた。男子の意見など彼女にとっては紙くずに等しいみたいだ。席を歩き回りながら、「伊佐敷くんは接客」「泉くんは調理」「井上くんも調理」「真子くんは接客」とひよこの性別分けでもしているようなスピードで、あれよあれよという間に役割分担が決められていく。
俺は母親似なこともあり女顔なので、女装メンバーに選ばれるのは覚悟していた。だけど、まさか豊騎まで接客係になるとは。
「……おい。何笑ってんだよ」
親友の女装姿を思い浮かべ、笑いを堪えていると、それを察したらしい豊騎が言う。
「いや、豊騎も着れるサイズの衣装用意すんの大変だろうなーって」
「あ? そんなこと言ってっけど想、お前の女装姿を写真に撮って久美子さんに送りつけてやっからな」
「それだけはやめてえええ!」
俺は豊騎の脅し文句に簡単に屈した。だって、久美子が俺の女装姿なんて見たら、その先が怖過ぎるんだもん。きっと日常的にスカートを履かせようとしてくるに決まってる。「想ちゃん似合うんだもの!」とかなんとか言って。
「はーい、接客係のひとたちは採寸するからこっちに集まって」
衣装係筆頭の伊藤さんが叫んでいる。めったに見られない豊騎の女装姿を笑ってやろうと思っていたけど、どうやらそれどころじゃなさそうだ。ため息を吐いて、俺も集まりに参加しようと席を立った。
***
文化祭当日。フリフリの可愛らしい衣装を手に、俺は葛藤していた。
「天辰くん、何固まってんの。早く着替えて」
「うわあ、はいっ」
衣装係の伊藤さんから厳しい声が飛び、思わず返事をしてしまう。うう、嫌だ。だって、文化祭の準備で仮の衣装を試着した日から、なんだか親友の視線が妖しい。まさか好きな人に似てるからって俺でもいいのか!? いつかの疑いがまた頭をもたげる。
でも、このまま俺だけ衣装を着ないわけにもいかない。教室の中、男子用にとそっけなくつけられた暗幕の影で、ひっそりと俺は衣装の袖に手を通した。男子用の衣装は、フリルがたっぷり施されたクラシカルなメイド服だ。緑のチェック柄がおしゃれなデザイン。衣装係の伊藤さんはコスプレイヤー兼衣装制作もしている、その道では有名な人だったらしい。確かに、出来栄えはすごくいい。くるぶしのちょっと上まで丈のあるスカート部分を持って、俺はひらりとその場で1回転してみた。
暗幕に取り付けられた姿見の中には、若かりし頃の母親とそっくりな俺がいる。ウィッグまで被らされてるから、再現度は完璧だ。
「これじゃあいつを勘違いさせちまうよおお」
俺が頭を抱えて呻いていると、もう衣装に着替え終わっていた陽がやって来て、「どしたん~?」なんてのんきな口調で聞いてくる。
「み、身の危険を感じるのッ!」
「えー、自分のほうが女装似合うからって自慢してる?」
「そうじゃねえよ! あ、ほら、あそこ……!」
俺が指差した先。暗幕の向こうから、こちらを覗いている豊騎と目が合った。気のせいか瞳がいつもよりギラついている気がする。
最初は俺の話を取り合おうとしなかった陽も、そんな豊騎を見て悲鳴を上げた。
「キャーッ、豊騎さんのエッチ!」
「殴るぞ?」
豊騎は陽に向かって拳を振り上げる。陽は猛スピードでこの場から逃走していく。
「あ、待てよ陽!」
俺を置いていかないでくれ。というか、豊騎と2人きりにさせないでくれ! そんな思いを込めた声は残念ながら陽には届かない。
豊騎は無言のまま、ずんずんと俺の目の前まで迫ってくる。
「……な、なんだよ……」
上から見下ろされて怖くなり、か細い声で聞くと、豊騎は「想、お前さ……」と何かを言いかけてまた口を閉ざす。なんなんだよ。こっちは緊張してんだからさっさと言え。しばらく至近距離で見つめ合うという、謎の時間が訪れた。そして、ようやく豊騎が話し出した。
「……俺も着替えるから、暗幕の外で見張っててくれ。朝から変な女子軍団に追われててさ」
「あ、うん。わかった」
少し困ったように言う豊騎に、俺は頷く。てっきり、母親そっくりの俺の女装姿に何か言うかと思ったのに。拍子抜けした俺は、なんだかもやもやとしたはっきりしない気分のままに、暗幕の外側で豊騎の着替えを待つことになった。
そんな俺のすぐ側を、「伊佐敷くんどこ行った!?」「女装姿の写真……プレミア価格つくぞ!」「探せ探せ」と恐ろしいことを言いながら女子数人が駆けていく。豊騎は女子に塩対応な男だけど見た目がそりゃあもうハチャメチャに良いので、こうしたイベントごとの時には隠れ豊騎ファンがどこかから這い出てくるのだった。まあ、さっきの子たちは写真の転売が目的みたいだったけど。
「――××高校第△回文化祭、まもなく始まります」
校内放送が流れる。今日は波乱の1日になりそうだ。
***
「キャーッ、佐藤さん一緒に写真撮ってください!」
「伊藤さん、あの、握手してもいいですか……」
俺たちのクラスの「男装アンド女装カフェ」はそれはもう人が行列を作るくらい、人気を博していた。主に豊騎と、男装した学級委員長の佐藤さんと伊藤さんが、だったけど。というか、伊藤さんは衣装係のメイン人力だったはずなのに、男装して接客もしてるし。有名コスプレイヤーらしいから集客を見込んで頼まれたんだろうけど、最初に係分けした意味とは。
俺はクラス内人事にもやつきながらも、調理係から受け取った飲み物と軽食をトレイに乗せ、客席へと運んだ。そこでは、女装した豊騎を取り囲む他クラス女子の一味を相手に、陽が値段交渉をしていた。
「真子くんとか他の男子と写真撮るのは100円なのに、伊佐敷くんだけ高過ぎませんか!?」
「すんませーん。伊佐敷は当店1番人気なので、1枚1万円になりまーす」
「ね、値下げとかって」
「しませーん。1円たりともまけられませーん」
「くっ……さ、3枚買いますっ……!」
「まいどありー」
どうやら、豊騎の隠れファンが周りをうろついていることを知った陽が、豊騎との撮影権だけをありえない値段に設定したようだ。豊騎のファンのひとりは財布を取り出して悔しそうにプルプルと震える手で、お札を取り出そうか、仕舞おうか躊躇っている。それを見ていた陽は、サッと女子の持っていた財布から3万円を奪い取った。
「はい確かにー。じゃあ、お写真どうぞ!」
「う、うう……私の3万円が……」
極悪非道な取引が行われている。女の子は悔し泣きしつつも、女装した豊騎の隣に立ってピースを作った。陽がインスタントカメラで撮影し、その場で出てきた写真を手渡している。
「わ、私も1枚買います!」
「私も!」
先陣を切った子に触発されたのか、写真の値段に引いていた他の女子たちも次々に手を上げた。豊騎は普段、写真を頼まれてもすげなく断るので、ツーショット写真が合法的に撮れるというだけでも価値があるのかもしれない。豊騎の顔は無表情で、目なんて死んだ魚みたいに輝きがないけど。あれでもいいのか、とちょっと思う。
「ぐっ、さらば、私の渋沢栄一……!」
手持ちの1万円札に別れを告げながら、豊騎と写真を撮る女子たち。
俺はさすがに豊騎のファンの子が哀れになって、そっとその子たちのテーブルに軽食のクッキーを置いた。心ばかりのサービス品だ。
俺が豊騎と写真を撮る女子たちを憐憫の眼差しで見つめていると、陽がこちらを見て駆け寄ってくる。
「あ、想ちゃん~ナイスタイミング。ちょっとここの客捌き、かわってくんない? 俺の元カノがこれから来るから、案内したくて。一瞬抜けたいんだあ」
「おう、いいけど」
元カノ、って例の「ゆうちゃん」かな。前に陽から見せられた写真の女子の顔を思い浮かべながら、頷く。陽は「あんがとー」と言うなり早足で教室を出ていった。女装しているというのにあいつ、堂々としてやがる。普段と変わらない態度で過ごしている陽に感心して、「陽の元カノが来てんだって」と豊騎に言った。豊騎は興味なさそうに「へえ」としか言わなかったが、偶然近くのテーブルの上の食器を下げに来ていた泉くんが、俺の言葉に振り返った。
「……ゆうが来てるって、あいつが言うてたんか?」
「名前は言ってなかったけど。『元カノが来る』とだけ言ってた」
「そうか」
泉くんはなんだか悲しそうだ。手にしていたお皿を持って、とぼとぼと生気のない足取りで調理場へと戻っていく。
「どうしたんだろ、泉くん」
いつもキリッとしている泉くんの見慣れない姿に俺が頭を傾げていると、豊騎が呆れたように「想はにぶ過ぎ」なんて言ってきた。にぶい? 俺が気づいていない何かがあるとでも言いたげだ。
「なんだよ。気になるなー」
「どうせそのうちわかることだから、気にすんな。それより想、ちょっとこっち見ろ」
「え?」
パシャリ。響くシャッター音。まばたきをひとつしてから豊騎を見た。豊騎はいつのまにかスマホを俺に向かって構えて、ニヤニヤと笑っている。やられた。
「おま、豊騎~! 久美子に送るなよソレ!?」
「残念。もう送った」
「ふっざけんなよ!!」
ギャハハと笑って逃げる豊騎を追いかける。笑う豊騎を見た周りの豊騎ファンの女子たちは、「伊佐敷くんが笑ってるー!」「家宝にする!家宝にする!」と大興奮でスマホカメラで連写していた。そんな女の子たちとぶつからないよう懸命に障害物を避けながら、俺は豊騎の後を追う。大して広くもない教室の中、ましてや慣れない女物の服を着ていては、逃げ続けられるはずもなく。教室の入り口付近で、俺は豊騎を捕まえた。
「さっきの写真、消せ!」
母親に見られる前に消さないと、これから定期的に女装することになるかもしれない。俺は豊騎の腕をひっしと掴んで、詰め寄った。
「……嫌だって言ったら?」
豊騎は相変わらずニヤニヤと楽しそうに笑っている。性格の悪いやつめ。ムカついたので、強引にでも豊騎のスマホを奪うことにした。
「寄こせっ」
「あ、馬鹿、危な……」
ジャンプしてから豊騎に体当たりをかます。狙いは豊騎が手にしていたスマホだったけど、勢いがあまってそのまま床に倒れこみそうになる。豊騎がなんとか受け止めてくれたおかげで、俺は床にダイブせずに済んだ。が、その後の体勢が問題だった。
「……」
「……」
豊騎にぎゅっと抱き締められた状態の俺。しかも、2人が着ているのは女物のフリフリメイド服。息がお互いの顔にかかるほど接近した俺たちは、この倒錯した絵面に困惑して、しばらく無言のままで固まった。
俺たちを見た客が口々に「百合だ……」「いや、薔薇で作った造花では」「細けえことはいいんだよ!」と騒ぎだしていたけど、そんなのどうでもよかった。
豊騎に女装なんて似合わないだろうと散々笑っていたのに、こうして間近で見ると、まるで笑えなかった。顔が、綺麗過ぎる。ドキドキと高鳴り始める心臓。頼むから今ここで反応しないでくれよ、と俺は己の下半身がいつかのように起き上がらないように祈った。
俺たち接客係の男子は、衣装係の女子たちにメイクを施されていたので、全員が女装にマッチするように顔を改造されていた。特に豊騎は元の顔の作りが精巧だからなのか、ハッとするぐらいの美形に仕上がっている。アイラインを引かれて強調された切れ長な目、彫刻みたいに美しい鼻、控えめだけど形の良いリップライン。
俺が豊騎の顔に見とれていると、豊騎は動揺したように瞳を左右に彷徨わせた。茶色がかった瞳の真ん中、黒い瞳孔がきゅっと開くのが見える。
「ただいまあ……って、想ちゃんとあっくんは何してんの」
俺と豊騎が抱き合ったまま硬直していたその時、元カノを出迎えに行っていた陽が教室へ戻ってきた。陽は俺たちを見て苦笑いしている。陽の隣には、前に写真で見たことのある育ちのよさそうな女の子が立っていた。
「な、なんでもない! いらっしゃいませ」
慌てて豊騎から離れて、陽の元カノに挨拶する。元カノは薄く微笑んで会釈してくる。おお、礼儀正しい。いかにもお嬢様女子高の生徒、って感じだ。その後、陽が手早く「こちら水城結羽ちゃん。で、こっちはダチの想ちゃんと、あっくんね」と俺たちに元カノを紹介する。やっぱり、この子が例の「ゆうちゃん」だった。
「としくんも、このクラスなんだよね?」
陽の元カノ、ゆうちゃんはそう言って、きょろきょろと教室を見回した。誰かを探しているようだ。でもとしくんって誰だ。俺が答えあぐねている間に、陽が「あー」と声を上げた。
「とっしーは裏の調理場にいるんだ。呼んでくるね」
そう言って、陽は調理場へ歩いていく。取り残される、ゆうちゃんと俺、豊騎。
おい、初対面の3人を置いていくなよ。と思いつつ、ひとつ疑問が浮かんでいた。ゆうちゃん、泉くんとも知り合いだったのか? どういう関係?
「ゆ、ゆうちゃんさん、泉くんとも友達なんですか?」
「うん。私たち3人、小学生の頃からの幼馴染なんだ」
「はえー! そうだったんですか」
幼馴染3人組のうち、2人が付き合うとかまるで少女漫画のヒロインみたいな人だな。あ、でも陽とはもう別れちゃったんだっけ。それにしては、今も仲良さそうに見えるけど。
「ゆうちゃんさん、陽とは別れた……んですよ、ね?」
あんまり根掘り葉掘り聞くのはよくないと思いつつも、つい好奇心に負けた。俺が尋ねると、ゆうちゃんは気まずそうな顔をして「うん」と言った。
「ほんとはひなと付き合うつもりなんてなかったんだけどね。としくんが私のこと、全然相手にしてくれないから」
「……ん? え、それはつまり、どういう……?」
「あっ、としくん!」
不穏な言葉を吐いてから、ゆうちゃんはこちらへやって来た泉くんを見た途端、立ち上がってぱたぱたと走り出す。そして泉くんに抱き着き、「としくん、会いたかったよ。どうしてゆうの連絡、無視するの……?」と、涙ながらに訴えた。
「……あの『ゆう』って女、とんだビッチ」
その様子を見ていた豊騎がゆうちゃんにまで聞こえる声量で失礼な発言をしたので、「あー! 女心は秋の空、と言いますよねえ!」と言葉を被せる。危ねえ。ゆうちゃん、物腰は柔らかい子だけど、なんだか怒らせたらまずい気がする。俺の第6感がそう言っている。
ゆうちゃんに抱き締められた泉くんは、物凄く苦々しい表情でゆうちゃんを見下ろしていた。そして、そんな泉くんたちを見た陽はというと、「あららー」と、どこか他人事みたいに笑っていた。
陽の元カノゆうちゃんが泉くんに抱き着いた後。ゆうちゃんが陽の元カノだと知っているクラスメイトたち(陽はゆうちゃんと付き合ってた時に周りに言いふらしていた)は、これから修羅場が起きるぞ、と固唾を飲んで陽、泉くん、ゆうちゃんの3人を見つめていた。
「ゆう、ジブンひなと付き合ぉてたんやろ。それやのにこんなことして、何してんねん」
泉くんは冷たい目でゆうちゃんを見下ろして、言った。泉くんの瞳が怖過ぎて、見ているだけで寒気がしてくる。とてもじゃないけど、女の子に向ける目ではない。2人は幼馴染なはずなのに、なんでこんなにも険悪な雰囲気なんだ。
関係のない俺でさえ震えるほど泉くんは怖い顔をしているのに、ゆうちゃんはそれでも怯まなかった。
「ひなちゃんとは、遊びだったんだもん。私の好きな人は、昔も今も、としくんだけだよ」
ゆうちゃんはそう言うと、ぎゅっと泉くんに抱き着いた手に更に力を込めた。
「ひ、陽、大丈夫か?」
思わず、陽の肩に手を置いた。「ゆうちゃんは優しい子だ」と言っていたし、陽にしては長く付き合いが続いていたので、ゆうちゃんのあんな言葉を聞いたら傷ついたはずだ。だけど陽はショックを受けた風でもなく、「あーいやあ……あはは、俺も本気じゃなかったし」なんてへらへらと笑っている。この3人、どういう関係性だよ。わけわからん。
俺が混乱していると、泉くんが動いた。抱き着いてきたゆうちゃんを、無理矢理自分からはがし、突き飛ばす。ゆうちゃんは転びはしなかったものの、ふらりとよろめいた。
「俺、前にはっきり断ったよな。『ゆうを好きになることはあれへん。他に好きな人がおるから』って。ジブンがこないしていつまでもひなを巻き込むから、ひなは俺のことを……ッ!」
泉くんはそこまで喋って、何かを思い出したようにハッとした顔になる。そして陽を見つめ、口をつぐんでしまう。え、何。話の続きが気になるんだけど。前々から陽と泉くんの、幼馴染にしては微妙な距離感が気になってはいた。まさか、ゆうちゃんの存在が原因だったんだろうか。
それにしても、この3人の関係性が複雑なので頭がこんがらがってきた。俺は声を潜めて、隣にいた豊騎に「この状況ってどういうことなんだろうね」と聞いてみた。豊騎は神妙な顔をして泉くんを一瞬眺めてから、俺を見つめる。そして、やれやれと呆れたように頭を横に振った。
「一目瞭然だろ。ゆうって女は、泉を振り向かせるためにわざと陽と付き合った。陽は全部わかった上で、泉に見せつけるため芝居してたんだ」
「え、泉くんに見せつけるため? なんで?」
「そりゃ泉が陽のことを諦めて、ゆうとやらと付き合うように、だろうが」
豊騎の言葉を聞いて、脳内に衝撃が走る。
「泉くんって陽のことが好きなの!?」
なけなしの理性が働いたおかげで、俺は小声のまま叫んだ。豊騎は「だから見りゃわかんだろ、アホ」と俺を小馬鹿にした。
豊騎は前から気づいていたらしいけど、泉くんがまさか陽のことを好きだったなんて。青天の霹靂だ。男同士だからびっくりとかではなく、泉くんは頭がよくて自分にも他人にも厳しいタイプだし、目つきも悪いし(これは関係ないか)、陽みたいなチャラついている人間は好きにならないと思っていたから。人の恋路って、よくわかんないもんだなあ。
「……あー、みんな、文化祭の途中なのに騒いじゃってごめんね。とっしー、俺からもいっこ話していいかな?」
気がつけば、陽が泉くんとゆうちゃんの前に立ち、2人を見据えていた。泉くんと比べると、陽はキャラに似合わず落ち着き計らっている。なんだか知らない人があそこにいるみたいだ。
陽は静かな声で、泉くんに語りかけた。
「とっしーもゆうちゃんも、俺にとって大事な幼馴染だよ。でもゆうちゃんに優しくないとっしーは、嫌いだ」
そう言った陽は、顔から微笑みを取り去る。初めて見る、陽の険しい表情。いつも笑っているやつの真顔って恐ろしいものなんだ、と気づく。泉くんは陽の逆鱗に触れてしまったのか。こんなに怒っている陽は、見たことがなかった。
「そないして、今回もゆうを庇うんやな。ひなは……」
泉くんは涙を滲ませながら言って、教室を走り去っていった。教室内は、騒然となる。チャラ男代表の陽がキレたかと思ったら、今度はいっつも怖い顔をしている泉くんが泣きだしたんだから、当然だ。
ゆうちゃんはすぐに走っていった泉くんを追いかけようとしていたが、陽にそれを止められていた。泉くんはどこへ行ったんだろう。
「俺、泉くんを探してくる!」
豊騎に声をかけると、豊騎は「俺も行く」と歩き出そうとした。けれど、衣装係兼、接客係の伊藤さんが豊騎の手を引いて止めに入る。
「伊佐敷くんは行かないで。うちのクラスの稼ぎ頭なんだから」
そうだった。豊騎の写真代だけでクラスの売り上げはとっくに経費分を超え、前代未聞の金額を達成しそうなのだ。もう女子とツーショット写真を撮りたくない豊騎は恨みがましい目で俺を見ていたが、仕方ない。俺は伊藤さんの指示通り、豊騎をその場に置いてひとりで教室を後にした。
***
泉くんを探して学校の周りを歩き、10分ほど経った頃。商店街の中に入ると、とあるゲームセンターで泉くんを見つけた。
「クソクソクソクソクソ!」
一生分の「クソ」を連呼しながら、泉くんは筐体のボタンを連打している。怖過ぎる。心配で探しに来たんだけど、やっぱり引き返そうかな。そう思っていたら、泉くんが視線に気づいたのか、こちらを振り返った。
「あれ、天辰。こないなとこでなにしてんねん」
「……一応、泉くんを探しにきたんだけど」
むしろそれ以外にどんな用事があったら、文化祭を途中で抜け出してこんなところに来るというんだ。そう言ってやりたかったけど、俺は泉くんの目つきが未だに怖いので、黙っておいた。すると泉くんは手を止めて、「ほな、茶でもしばくか」と言った。
「はあ、やっぱこれやわ」
コンビニの軒先にしゃがみ込んだ泉くんは、さっきコンビニで買ってきたキャラメルラテを啜って、満足そうに笑っている。好きな飲み物を飲んだら、少し機嫌が直ったらしい。泉くんは顔に似合わず(と言ったら失礼だけど)甘いものが好きなのだ。俺はカフェラテを啜り、今頃文化祭は無事に終わったのかなあ、なんて考えた。
「今日は天辰にも迷惑かけてしもたな。すまん」
「泉くんが謝ることないよ。陽にあんな態度取られたら傷つくの、わかるし。泉くんは陽のことが好きなのに……あっ」
そこまで言いかけて、泉くんが陽を好きなことは本人に言うべきじゃなかったと思い、俺は口を手で押さえた。完全にやってしまった、と冷や汗をかいていたけど、泉くんは照れくさそうに「なんや、天辰にもばれてたんか」と笑うだけだった。
「あんなキレ方してたら、そらばれるやんな。陽にもばれてるやろうな」
どうだろう。陽は泉くんが自分を好きなこと、気づいているんだろうか。豊騎が言うには「陽は泉が自分を諦めるように仕向けてた」らしいけど。
「俺、小学5年生の時にこっちに越してきてな。初めは関西弁を馬鹿にされたし、友達の作り方もわからのうて。そんな頃、ひなとゆうに出会うたんや」
泉くんはそこまで言って、またキャラメルラテをひとくち啜る。懐かしい思い出を語る彼の顔は、どこか悲しそうに見える。
「ひなはな、今はあんなチャラついとるけど、あの頃はしっかりした子やった。いつも内気やった俺とゆうのことを引っ張ってくれて。惚れてまうのに、時間はそうかからんかった」
「そういや……俺が陽を好きなこと、天辰はキモがらへんのか?」
思い出したように聞いてくる泉くんへ、「人妻を好きな男子高校生だっているんだから、それくらい普通だよ」と言う。「ああ、そういやそうやったな」と泉くんは笑った。泉くんも未だに俺の性癖は人妻だと誤解してるみたいだ。
「3人の関係が崩れ出したのは、ゆうが俺に告白してからやった。ひなが、あからさまに俺を避け出したんや」
「そうなんだ?」と俺が聞くと、泉くんは頷く。陽が泉くんを避けていたから、同じ高校なのに1年の時、陽から泉くんの話を聞かなかったわけか。今になって、数か月前に覚えた違和感の謎が解けた。同じクラスになったら避け続けるのも難しくて、また陽は泉くんと普通に話すようになった、らしい。陽は優しいんだか、冷たいんだか、よくわからないやつだ。
「あいつ、ゆうのことが好きなんやろか。俺、告白する前にふられてもうたんかな」
泉くんが俯くと、アスファルトの地面に雨が降る。泣くほど好きな相手に自分の気持ちを拒絶されるなんて、泉くんのつらさは俺なんかには1ミリも理解することなんて出来ないだろう。ずるずるとその場にうずくまってしまった泉くんの背中を、ゆっくりとさすった。
市内に流れる無線から、夕方のチャイムの音楽が流れ始める。もうすぐ日没の時間だ。
そろそろ帰らないと。でも泣いている泉くんを放って帰るわけにもいかない。どうしようと悩んでいると、商店街の向こう側から見知った人影がふたつ現れた。
「あっれー、2人ともこんなとこにいたんだ」
陽は、教室で泉くんと喧嘩したことなんてなかったかのように、普段通りの口調で言った。隣にいる豊騎は、俺に向かって「連絡くらいしろよ! 迷子のお知らせで呼び出すとこだったぞ」と文句を言う。
「とっしーはまだ泣いてんの? もう俺っち怒ってないから。泣き止んでよ~」
泣いている泉くんを目ざとく見つけた陽が、そう言って泉くんの涙で濡れていた頬を袖で拭った。泉くんは気まずそうに下を向いている。こんな2人を見ていると、さっき泉くんが話していた「ひなは昔しっかりした子だった」というのは本当だったんだな、とわかる。
「え、ゲーセンにいたんだ。いいなー。俺もなんかやろっと」
泉くんからさっきまでゲーセンにいた話を聞きつけたらしい陽は、ゲーセンの店頭に置いてあるUFOキャッチャーコーナーに走っていった。さっきは泉くんのことがあってよく見てなかったから、と俺も見に行く。そしたら、あるものを見つけた。
「ピザまるくん!」
UFOキャッチャーの景品を指差して、俺は思わず叫んだ。そこには俺が今ドはまりしているキャラクター、ピザまるくんのぬいぐるみがあったからだ。ピザまるくんはピザと秋田犬から生まれた新種の犬なのだ(という設定)。まだあまりキャラクターグッズがなくて、シールくらいしか商業化されていなかったから、このぬいぐるみは貴重だ。
筐体のガラス部分に両手をつき、覗き込む。ぬいぐるみをよくよく観察すると、チーズがとろっと溶けだしていて、サラミやピーマンが乗っているところまで、忠実に再現されていた。これは絶対にほしい!
「何これ、気持ちわるッ」
豊騎がピザまるくんを目にして悪態をつく。即座に「失礼な!」と怒り、俺はいそいそと小銭を筐体に入れ、ボタンを操作し始めた。
「うーん……あっ、惜しい。あともうちょっとなんだけどなあ……」
それから持ち金の2千円が全部なくなるまで粘ってはみたものの、ガラスケースの中にいるピザまるくん人形はピクリとも倒れなかった。項垂れていると、背後から「どけ」と豊騎の声が聞こえた。素直にどくと、豊騎はお金を筐体に入れてピザまるくんを睨みつけた。そして、「……よし」と自分を鼓舞するように頷いてから、ボタンを押し始める。俺たちが緊張した面持ちで見守る中、なんと豊騎はピザまるくん人形をゲットすることに成功した。
「やったあ! 豊騎すげえ」
大喜びでぴょんぴょんその場で跳ねていると、人形を取り出し口から取った豊騎は、「ん」と言って、俺に差し出してくる。
「え、え、くれんの!?」
「うん、やるよ。こんなんほしがるのお前くらいだし」
「ありがとー豊騎!」
なんだかんだ言って、豊騎はいつも俺を助けてくれるいいやつだ。テンションがぶち上がって、俺はどさくさに紛れて豊騎に抱き着いてしまった。やってからマズった! と反省したけど、豊騎もまんざらでもなさそうだ。笑っている。
そんな俺たちを見て何かを考えているようにあたりを見回していた泉くんは、何かお目当てのものを見つけたらしい。そそくさと姿を消したと思ったら、数分後にすぐ戻ってきた。その手には、目つきの悪いペンギンキャラの小さいぬいぐるみを持っている。
「ひな、このキャラ好きやったよな?」
「うわ、よく覚えてたねー」
「……やる」
「おー。ありがと」
泉くんは今日あんなことがあって落ち込んではいたけど、まだ陽のことを諦める気はないようだ。頑張れ、泉くん。俺と豊騎は、泉くんに向けてガッツポーズを作った。陽と泉くんが今後どういう関係になっても、こうやってみんなで遊べますように。そんな祈り込めて、俺はピザまるくんのぬいぐるみを抱き締めた。
「あ、そうだ。久美子さんの分もなんか取ってくか」
帰り際、豊騎が呟く。
豊騎はいつも俺を助けてくれるいいやつ――つい一瞬前、俺はそう思った。けど、前言撤回。やっぱあいつ、俺の母さんに取り入りたいだけなのかも。
「今日みんなに集まってもらったのは、ほかでもない。もうすぐ豊騎の誕生日だからです」
俺は自室のベッドの上に立ち上がり、我が家へ呼びつけた陽と泉くんを見下ろした。陽はくっちゃくっちゃと俺の母親から差し入れられたお菓子をひたすらに食っている。ひとりで食い尽くす勢いだ。その隣に座っている泉くんは、怪訝そうな目で俺を見上げている。
「泉くんは去年いなかったから知らないと思うし、説明するね。実は去年の豊騎の誕生日当日、豊騎をうちに呼んで俺らと久美子でサプライズパーティーしたんだよ。あいつを泣かせてやろ―と思って。飾り付けもして、ケーキも用意したの。でも豊騎のやつ、何て言ったと思う? 『あざっす』のひとことだけだよ!」
俺は去年の悔しさを思い出して憤慨した。泉くんは「そら伊佐敷は感動して泣くようなタイプやないやろ」と言う。そんな泉くんの言葉を聞いて、更に俺は怒りを爆発させた。
「だからこそ泣かせたいんだよ! 豊騎が感動して泣きじゃくる顔、見たいじゃん!? 見たくない? おい、陽はいい加減菓子食うのやめろ! 人の話聞いてんのか」
「えー聞いてる聞いてる。あっくんの誕生日でしょ。はいはい」
「適当!」
やる気のない陽の返事に出鼻をくじかれた俺は、しなしなとベッドの上で崩れ落ちる。豊騎、お前の日頃の行いのせいだぞ。俺しかお前の誕生日を本気で祝おうとはしていないみたいだ。あ、久美子と志信さんは違うけど。あの2人は無条件で協力してくれるはずだ。豊騎のことが大好きだから。
「とりあえずケーキ買って、食いもんは久美子に用意してもらおうと思うんだけど。何がいいかな、定番のチキンとかハンバーグでいいか?」
「想ちゃんが食べたいだけじゃーん。それにあっくん和食しか食べないでしょ、基本」
「俺だってたまには洋食が食べたいんだよおおお」
豊騎の誕生日にかこつけて好物の洋食を食らおうとしていた俺の計画は、陽の指摘によって早くもバレてしまった。無念。
「だって毎日毎日おじいちゃんのご飯、みたいな和食を出されてみろよ。お前だってすぐ音をあげるぞ、絶対!」
「あっくんを感動させたいって主旨はどこ行ったのさ……」
陽が呆れたように呟く。その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。久美子だ。
「想ちゃん、お菓子足りてる? もっと食べるかなと思って持って来たわよ」
「あ、お母さんありがとうございまっす! 俺もらいます」
元気よく手を上げてニコニコしている陽に、泉くんが「まだ食うんかい」とドン引きしている。
「あーそうだ、今度また豊騎の誕生日会やるからさ、うち使ってもいい? また料理を久美子にお願いしたいんだけど」
「そうなんですよー。今、料理を和食にするか洋食にするかで想ちゃんが文句言ってて」
「あら、そうなの。困ったわね~。豊騎くんは和食好きだからいつも通り和食にすればいいのに」
「……でもー、普通パーティーって言えば洋食じゃん」
洋食への未練。というか誕生日パーティーにまで茶色い和物しか出てこない食卓とか、男子高校生らしさの欠片もないだろ。久美子に作ってもらってる分際であんまり文句は言えないけど。俺は母親を前にして、もごもごと不満を口にした。久美子はそんな俺を見ると、腰に両手を当ててぷうっと頬を膨らませる。おい、40代がぶりっこ仕草しないでくれ。
「もう、想ちゃんには別に洋食も作ってあげるから。好き嫌いしちゃダメよ。将来、豊騎くんと結婚するってなった時のために和食も好きになっときなさい!」
ぶりっこ口調で俺を叱った後、久美子はとんでもない発言をした。案の定、久美子の発した「豊騎くんと結婚する」という言葉に陽が目をキラキラとさせている。揶揄い甲斐のあるおもちゃを見つけた大型犬、みたいな顔だ。
「え、結婚~? なになに、想ちゃんってばあ、あっくんと結婚する約束でもしてんの!?」
ニタニタと嫌な笑みを浮かべて、陽は俺の脇腹を小突いてくる。「そうだったのか、天辰」と母親の話を真に受けたらしい泉くんが本気で聞いてきたので、俺はため息を吐いた。
最近、豊騎の近くにいると妙にドキドキしてしまうから、この話題は心臓に悪い。まさか、家族にバレるくらい俺の気持ちって筒抜けだったりする? いや、そんなことはないと思いたい。なんとか誤魔化そうと、俺は意識して眉間に皺を寄せ、険しい表情を作った。
「んなわけねーだろ!! 久美子もなに嘘教えとんじゃい!」
「えーだって、豊騎くん毎日うちでご飯食べてるし、想ちゃんと仲良しだし。もうこれはうちにお婿として来てくれたら私もパパも安心できるんだけどなあ」
「まず大前提として言わせてもらうけど、男同士は結婚出来ないでしょうが!」
俺は理路整然と事実を述べたつもりだった。だけど、俺の言葉を聞いた久美子は、「ぷぷぷ」と笑いを抑えきれないように片手で口元を押さえた。
「やあだ想ちゃん、そんなの10年後はどうなってるかわかんないでしょー? 同性婚出来る国も増えてきてるんだから、日本でだってそのうち出来るようになるわよ」
「あーもう話が通じない!! もういい、久美子は退場してください」
ここに母親を残していたらずっと揶揄われそうなので、ぐいぐいと肩を押して部屋から追い出した。扉をしっかりと閉める。「もっとみんなとお喋りしたいのにい、ケチ!」と扉の向こうから声が聞こえてきたけど、知らんぷりをする。
「……てか、同性婚もバリバリ許容してくれる両親でよかったじゃーん」と陽が言う。口元は笑っているのに、瞳はどこか冷たい。さっきまでの久美子との会話に何か思うことでもあるのか。陽のやつどうした、という意味を込めて泉くんに視線を投げると、泉くんは言いづらそうに「ひなのとこはだいぶ保守的やもんな」と言った。
保守的な家に育ったのにチャラ男に成長するとは。陽なりの反抗なのか、それは。会ったこともない陽の両親の顔を想像してみるけど、上手くいかない。
「まーね。想ちゃんの家族とはだいぶ違うかも」
そう言って苦笑する陽。泉くんが陽を昔から好きなことを知っている手前、陽自身が同性婚についてどう思うのか、聞かなければいけない気がした。恐る恐る、「陽はどう思ってんの? 同性婚」と尋ねてみる。
「え、俺? まあ想ちゃんちみたいな家族がいて、誰も反対してこなくて、誰も泣かないで済むんだったら、すればいいと思う」
「誰も泣かないで済む、ねえ」
前から感じていたけど、どうも陽の価値観というのは、自分よりも周りが傷つくか、傷つかないかで物事を判断しているようだ。泉くんの恋路を応援したい俺としては、チャンスさえあれば2人を引き合わせたい。でも、意外にも難攻不落っぽい陽と泉くんがどうすればくっつくのか、見当もつかない。
視線だけで「ごめん」と泉くんに謝る。また泉くんが泣く日が来たら、全力で慰めよう。それくらいしか、俺は役に立てそうにないから。
「とりあえず話を誕生日会に戻すけど。料理は久美子に任せて、ケーキの受け取りは俺が行く。陽と泉くんは各々でプレゼント用意しておいて。んで、家の中の飾り付けのために当日は待ち合わせして――」
豊騎の誕生日パーティーの段取りを確認する。スマホに入れているメモ帳アプリを起動させ、豊騎の誕生日にやることリストを書き留めておく。ケーキの注文、料理の準備。それから各自で豊騎へのプレゼントの用意。俺はイラストを描いて渡すつもりだった。豊騎のやつ、今年こそ感動して泣いてくれるかな。
***
そしてやってきた10月27日。豊騎の誕生日。
豊騎を呼ぶ前に俺の家へ集まった俺、陽、泉くんの手によってバルーンが飾られたリビング。「17」の文字がテーブルの上をふよふよと漂っている。
「よっ、さそり座の男ぉ!」
陽の掛け声で豊騎がリビングへやってきた。一応サプライズパーティーなので誕生日を祝うとは言っていなかったが、去年もやったので豊騎は察していたようだった。入って来るなり、「あ、今年もあざっす」と久美子にお辞儀をしている。おい、今年もあざっすのひとことで終わらせるんじゃないだろうな。
去年と同様に用意しておいたケーキに蝋燭を灯し、みんなで「ハッピーバースデー」の歌を歌いながら豊騎に火を吹き消してもらう。ケーキをみんなで食べた後は、久美子お手製の手料理に舌鼓を打った。今年はちゃんと俺用に洋食(ハンバーグやポテトもある!)も用意されていた。
我が家のリビングにみんなの笑い声が響き渡った。志信さんも来られればよかったのに、と少し残念になる。仕事が終わらなくて、今日は来られないらしい。また後日、豊騎が志信さんの家に出向くそうだ。
そして、豊騎の涙腺をどうしても崩壊させたい俺は、「豊騎、俺たちからプレゼントもあるぞお!」と季節外れのサンタクロースみたいに床に積まれたギフトボックスを抱えて、豊騎に見せつけた。ここからがメインイベントだ。
「はい、これは俺から。誕生日おめでとうな」
そう言って、自作のイラストを豊騎に手渡す。いつかの同人誌のリベンジだ。今回は漫画ではなく、1枚絵。力を入れてフルカラーで描いた、豊騎、俺たちいつメンの似顔絵。おまけに久美子と志信さんも小さく描いておいた。豊騎は嬉しそうに微笑んで「おー、上手いじゃん。これは俺? あ、こっちのやつはお前だろ。可愛いじゃんか」とはしゃいだ。
「か、可愛いって、おま……」
「あれれえ~想ちゃん照れてんの? 照れちゃってる感じ?」
豊騎の言葉に照れなかったと言ったらそりゃ嘘だ。でも陽が小突いてくるのはウザかったので「うるせえ!」と怒鳴る。泉くんは豊騎を見てにっこり笑って、「よかったな、伊佐敷」とまるでお父さんのように言った。
「私からはこれね。ちょっとお高めのシャーペン。来年受験だし、たくさん使ってね」
久美子はそう言って小さな包みを豊騎に手渡した。受験のひとことに顔を思わず顰める。「うわ、嫌なこと思い出させんなよー久美子」と文句を言ったが、母親はそんな俺をスルーして「ああ、あとこっちは志信さんから」と言って、今度は写真立てを豊騎に渡している。
俺たちがなんだなんだとその写真立てを覗き込むと、それは豊騎らしき小さい男の子と、その子を抱えて微笑む女性の写真だった。女性のほうはたぶん、若い頃の志信さんだろう。
「え、それどうしたの」
不思議に思って久美子に聞いてみると、「志信さんに渡してくれって頼まれたのよ」となんでもないように返された。初耳なんですけど。
「え、え、志信さんと知り合いだったんだ!?」
「そりゃあそうよ。いつも食費を届けてくださって。いい人よねえ」
「……豊騎の分の食費、志信さんが出してたのか」
どうりで豊騎の好物ばかり食卓に並ぶわけだ。うちはそんなに裕福でもないのによく豊騎のためにたくさんの料理――朝食、夕食はもちろん、作り置きの夜食なんかも毎日渡している――を用意出来るな、と思っていた。志信さん、酒乱なことを除けば本当に完璧な人だよな。
「俺っちからはこれ~。食べてねッ」
「でか!」
陽が特に大きいギフトボックスを豊騎に渡すと、豊騎の顔がプレゼントの包みに隠れて見えなくなる。こんなに大きいなんて中身はなんなんだ。豊騎が緊張した面持ちで包み紙を剥がす光景を、俺たちは静かに見守る。ボックスの中身は巨大なチョコレート菓子だった。どでかい包みの中に、小さいチョコレートがたくさん詰まっている。陽は「俺にもちょっとちょうだいね」なんて言って、豊騎よりも先にチョコレートを開けて食べだしている。自由か。
これで、次に豊騎にプレゼントを渡すのは残すところ泉くんだけとなった。豊騎に喜んでもらえるか不安なのか、はたまた照れくさいのか、いつになくもじもじと所在なさげにしている泉くん。
「……伊佐敷、おめでとう。これからもよろしくな」
泉くんは小さな声で言うと、色紙と何かのディスクを豊騎に差し出した。豊騎は泉くんからそれを受け取ると、何故か目を見開いて震え出す。
「こ、これは……! 泉、お前……!」
感極まったように言葉をなくした豊騎。どうした、と様子を伺うと、なんと泣いていた。泣くほど喜んでいる。あの、豊騎が。
いったい泉くんは何をあげたんだ、とプレゼントの中身を確認する。それは、豊騎の好きなお笑い芸人のサインと、公演のブルーレイディスクだった。腑に落ちたような、それでも納得出来ないような。俺が今回目的として掲げていた「豊騎を感動して泣かせること」は達成出来たけど、まさか泉くんに先を越されるなんて。
「……な、なんか、すまんな。天辰」
「謝らないで……余計に惨めになるから……」
悔しさを押し殺して震える俺を、泉くんがおろおろとフォローするという、あまり見られない光景が見られた、奇妙な1日だった。
「ねえ、あれ伊佐敷くんじゃない?」
「ほんとだ。うわ、高そうな車乗ってる~」
ある日の午後。秋にしてはうららかな天気と、教師のゆったりとした話し声を子守歌に、睡魔と戦っていた時のことだ。
クラスメイトの女子が声を上げたのを皮切りに、授業中だというのにクラスの全員が窓の外を見た。そこには、ここ校舎の2階から見える校門の側に、黒塗りの車とその車から降りてくる豊騎の姿があった。車の前方には、誰もが知るエンブレム――円の中に星が輝く形のものだ――が掲げられている。
「何してんだ、あいつ」
今日は学校を休むって言ってたくせに。わけがわからない。今朝、俺は確かに豊騎からの【今日は学校に行けない。ご飯も不要だと久美子さんに伝えてくれ】というメッセージを受け取ったのだ。不必要な嘘を豊騎がつくとも思えない。それに、あの高そうな車は誰の物だろう。志信さんの車はレトロな配色が可愛らしいコンパクトカーなので、違う。そして、豊騎の周りに志信さん以外で高級車が買えるほどの金持ちがいたとも思えない。豊騎が俺に話していないのなら、別だけど。
そこまで考えて、ピカッと脳内に閃きが走る。
「ハッ……まさか、ヤクザの姐さん……?」
もしかして、もしかしたら。数少ない脳の皺を伸ばせ、俺。俺は真剣に今しがた目撃した高級車と、豊騎の関係を考えてみた。
豊騎に金持ちの知り合いがいるようだ、プラス、豊騎は人妻が好き、イコール、豊騎の本命はヤクザの姐さんだった!?
「姐さん? どこに姐さんがいんの?」
「いや、まだやり手の女社長って線も捨てきれない……!」
「何それ~おもろ、想ちゃん」
俺の呟きを聞きつけた陽が、横から茶々を入れてくる。けど、それどころではない。豊騎、お前……危ない世界に足を踏み入れるなんて。志信さんが泣くぞ。俺が志信さんの号泣する姿を思い描いていると、教室の扉がガラリと開いた。
「おい伊佐敷、重役出勤だな。大幅な遅刻だ」
歴史教師の黒川先生が、皮肉っぽく豊騎に言う。豊騎はちらりと先生に視線をやってから、「家庭の事情で遅れました」とだけ言って、席に着いた。豊騎はすぐ後ろの席なので、勢いよく振り返って囁く。
「豊騎、途中から来るならそう言えよ。弁当1個しか持ってきてねーよ」
「別にいい。後で購買に行くから」
豊騎はなんとなくだけど、沈んでいる様子だ。普段から陽みたいにぺちゃくちゃ喋るタイプでもないけど、今日はあからさまに人と話したくないですオーラを全身から醸し出している。
「伊佐敷くんの家ってお金持ちなのかな」
「え~知らない。聞いてみれば」
「あんたが聞いてよお」
教室の後ろのほうから、そんな噂話が聞こえてきた。豊騎はうんざりしたように顔を顰めると、机に突っ伏して寝始めてしまった。歴史の黒川先生が途端に眉をひそめたが、豊騎を注意することもなく授業を再開し出した。
豊騎に何があったんだろう。
***
「今日、これからみんなでカラオケ行かねえ?」
放課後、凝り固まった肩の筋肉をほぐすように背伸びしている陽へ、声をかけた。豊騎はまだ机に突っ伏して寝ている。遅刻してきたと思ったら、今日は1日中眠っていた。育ち盛りで眠いのか?
「俺はいいよん。とっしーは?」
「いいけど……急だな」
泉くんは突然カラオケに行こうと言い出した俺を不思議がるように、眼鏡の縁をクイッと直した。普段の俺はカラオケ好きってわけでもないから、変に思われるのは当然だ。でも、俺の行動原理はだいたい豊騎のため、というか豊騎のせいだ。
「あのな、ここだけの話……豊騎のやつ、ヤクザの姐さんに失恋したんだよ」
ひそひそと声を抑えて泉くんに伝えると、泉くんは「……は?」と、とんでもない点数のテスト結果を見せた時と同じ顔で俺を見た。
俺が1日考えた推理はこうだ――俺の母親、久美子への報われない片思いから脱却したかった豊騎は、ひょんなことからヤクザの姐さんと出会ってしまう。またしても人妻。やはり己の性癖から逃れられないのだ、と悟った豊騎は、運命を受け入れて姐さんに決死の覚悟で告白をした。だが、姐さんは常識的な女性だったので、未成年を相手には出来ない、と断られてしまった。傷心の豊騎を、高校まで高級車で送ってくれる、優しい姐さん。やっぱり諦められない! そう思った豊騎は涙にくれるのだった――
そこまで長々と説明した後、泉くんは一瞬ポカン、と口を開いて俺を見据えた。それから、「天辰はなんでいっつもそうなるんやって」と呆れたように呟き、「え、いつもって何が」と俺が返すと、今度は「ハアアア」とクソでかいため息を吐いた。そして、眼鏡を外して眉間を指で揉みだした。頭が痛むらしい。お大事に。
「豊騎、豊騎。起きろって。カラオケ行こう」
名前を呼んで眠る豊騎の肩を容赦なくばんばんと叩く。豊騎はゆっくりと身体を起こし、半分しか開いていないまぶたを手でこすっている。
「ほら、行くぞ。早く歩けって」
180センチ近くある長身の男をひきずって歩くのは、しんどい。だけど失恋した可哀想な親友のためだ。俺は体力ゲージが減るのもなんのその、と気合いを入れて、豊騎を引っ張りカラオケ店へと向かった。
***
「いかない~でえ~♪ この愛が幻だったと認めるのならあ~♪」
「何、この曲」
「知らん」
「たぶんだけど、昭和時代の歌謡曲……かなあ」
カラオケ店に着く頃にはすっかり元気を取り戻していた豊騎。だけど、マイクを握った途端、またなんだかおかしくなってしまった。誰も知らない昔の曲、しかも失恋曲ばかりを歌っている。しっかりとこぶしまで効かせて。
「……な。失恋したって俺の推理、当たってただろ?」
泉くんに囁くと、泉くんはしきりに頭を傾げて「いやでも、そんなはずは……」などと呟いている。陽は慣れない曲調にしばらく固まっていたけど、ようやく正気に戻ったようだ。部屋に置かれていたタンバリンを思う存分に使いこなし、豊騎の歌を盛り上げている。
そうして豊騎が何曲か知らない昔の歌謡曲を歌い終わった時。豊騎のスマホが震え、着信を知らせた。
「悪い、ちょっと電話してくる」
「いってらー」
豊騎を見送ってから、飲んでいたドリンクが空になっているのに気づく。マイクを独占していた豊騎の居ぬ間に、と流行りのアイドルソングを歌い出した陽を横目に、俺はドリンクバーを目指して部屋を出る。同じ階にあったよな、とカラオケ店の店内地図を思い出しながら廊下を歩くと、トイレがある方向から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「仕送りはありがとうございました。でも、金輪際やめてください。迷惑なので。学校までの送り迎えも結構です」
豊騎の声は冷凍庫の中みたいに冷たい。あいつは口が悪いし、愛想を振りまくタイプでもないけど、ここまで言葉に棘がある喋りかたをするやつでもない。電話の相手は誰なんだろう。気になって足をもう一歩進めると、トイレの中から豊騎が飛び出てきて、あわや衝突しそうになった。
「あっぶね……想、何してんだよ」
「あ、いやあ、ドリンク取りに来た」
「ドリンクバーなら反対側だけど」
「え、嘘、マジ!?」
今気づきました、みたいなオーバーリアクションで俺は飛び跳ねた。盗み聞きしてたことはなんとなく豊騎に話せなくて、黙ったままドリンクバーへ向かう。何故か豊騎もついてきた。メロンソーダをグラスに注ぎながら、「……豊騎、失恋くらい誰でもするって。お前くらいイケメンならすぐ別の相手が見つかるよ」と俺は豊騎に声をかける。
「失恋? 何の話だよ」と言う豊騎。え、だってさっき電話で揉めてたし。失恋ソング歌ってたし。きっとヤクザの姐さんに手を出そうとしたことがヤクザにばれて、穏便にことを進めようとして和解金を豊騎に渡した――そんなことなんじゃないかと思ったのだ。
「あの歌はしのさんの趣味でよく聞いてただけ。その想像力を別のことに生かせよ。想だけに」
豊騎はそんなことを言ってから、「上手いっ」と自画自賛で己の拙いギャグ台詞を称えていた。カラオケでテンションが上がってきて何よりだ。
「あ、2人ともおけーりー。なんかね、スタッフの人から大部屋に移動できますよって言われたんよ。だからあ、行こうぜ!」
部屋に戻るなり、陽はウキウキと告げてきた。親切なスタッフさんもいるもんだね、なんて談笑しながら部屋を移動する。移動先の大部屋は、恐らくこのカラオケ店で1番広い部屋だった。ずらりと部屋の隅を囲むようにソファ席が並び、部屋の中央にはミニステージもついている。これは豊騎・オン・ステージが始まってしまいそうだ。
大部屋に興奮して室内に足を踏み入れた俺たちだったが、そこですぐに異変に気がついてしまった。
「うわ、酒くさっ」
「さっきまで宴会でもしてたみたいやな」
鼻をつまんで言う、泉くん。部屋中に、アルコール臭が充満していた。この臭さだといくら消臭剤を使おうが、空気清浄機を作動させようが、すぐには臭いが取れそうにない。だから俺たちに部屋を移動するように頼んできたのか。スタッフの親切の裏にあった魂胆を知ってしまい、がっくりと力が抜ける。まあ、臭いさえ我慢すればいい話なんだけど。
既に部屋を交換してしまったし、と俺たちが諦めて部屋の扉を閉め、さあ歌おうとしたその瞬間。ダンッ、と物凄い物音を立てて、豊騎が机に倒れ込んだ。
「豊騎!? ど、どうした」
慌てて豊騎の顔を抱き起こすと、豊騎の目はとろんと夢でも見ているように甘ったるくなり、意味もなく「へへへ」と笑い出していた。どうやら、アルコールの匂いだけで酔い潰れてしまったらしい。そんなことあるのか。いや、現になってるから、あるんだろうけど。
豊騎を抱えて困惑する俺を見てから、顔を見合わせる、陽と泉くん。
「……じゃっ、後はよろしくう」
「あ、おいっ、待てよ! 俺だけ置いてくつもりか!? この裏切り者おおおお!!」
2人の袖を掴もうとしたけど時すでに遅し。陽と泉くんは俺を見捨ててさっさと大部屋を出ていってしまった。酒乱の志信さんの介抱をした経験があるから、かもしれない。アルコール分解酵素の数は、かなりのパーセンテージで遺伝的要素に左右されるという。志信さんのように、酔っぱらった豊騎が暴れ出すと思ったんだろうな。
「だからって俺ひとりでどうしろと!?」
豊騎を抱えて悲鳴を上げる。広い部屋の中に、俺の悲鳴が響き渡った。
「んん~……あつい。あついいいい!」
「わあ!? 豊騎何してる、服を脱ぐな!」
何をトチ狂ったのか、いきなり制服のシャツのボタンを外し始める豊騎。上半身の裸が露になり、鍛えられた豊騎の胸筋が目の前に広がる。初めて見るものでもないけど、俺の身体はさっそく反応してしまう。バクバクと猛スピードでケイデンスを上げる心臓。だんだんと不穏になる、俺の下半身。
「豊騎、しっかりしろお! しっかりしてくれ、そうじゃないと、俺、俺の息子がああああ……」
上裸の豊騎に抱き着かれた格好で、俺はこの状況に絶望して叫んだ。テーブルの上に置かれていたマイクが、「キイイイン」とハウリング音を鳴らした。