朝、鏡に映るしゃきっとした白いシャツが、薄暮の中で、売れ残りのレタスのように萎びている現象を、我々は黙認せねばならぬのだ。

駅のロータリーにて、長身のイマドキ大学生の前に仁王立ちして、「疲れた」とこぼす。

いつから待っていたのだろう、額にうっすらと汗を滲ませているその人は、「定時で、ラッキーじゃん。お疲れ」と笑った。

「待った?」と聞いたら、「待ってる間に、オンデマンドの課題ふたつ出せたよ」と可愛い返事をくれる。

年下の、社会的な立場(地位だと言うと、たぶん拗ねるが、偉そうにしたくなるときはあるよね!)が違う恋人は、今日も贔屓目、贔屓目、の末に、百点満点だ。

私の戦闘服である白シャツは可哀想なレタスのようなのに、彼の着ているビッグサイズのカーキのTシャツは、もぎたてのフレッシュさを維持している。身にまとう人間の鮮度と同じである。

今日も、今日とて、麗しい。汗かいてるよ、と、鞄の中からハンドタオルを出したら、背骨を丸めて顔を近づけてくるから、拭いてあげた。ありがとう、と犬みたいに顔に皺を寄せて笑う顔が見たいから甘やかす。

駅のロータリーを抜けて、八百屋に向かって、月曜日の終わりまでゆく。恋人は、夏は手を繋がないタイプらしい。暑さのせいで、気持ちまで溶けてしまったら大変だろ、とかなんとか言っていた。

ただ、恋人の隣に並んで歩いていると、朝の憂鬱な満員電車で行き場のない殺意が胸の奥で生まれたこと、会社のトイレから一生出ねーからな! と誓った一分後には洗面所で手を洗っていたこと、萎びたレタスをまとうために生きているわけではないこと、どこかで虐殺が起こっているのに私はふつうに生きているというどうしようもないこと、そういうものが束の間、どこか遠いところにいって、買ってもないくせに宝くじがあたりますようにと願ったり、年下の恋人が将来的に石油王になれば万事解決ではないかと考えたり、それよりも、私たち、これからも、このどろどろした社会の中で固体のまま、なるべく健やかに生きていけますように、と祈ったりする。

恋人の横顔を見上げた。

「ところで、一週間がはじまりましたけど」
「そのようでございますね」
「汽水の占いしか勝たんでござるよ」
「それなに?」
「毎週月曜に更新される占い。あたるし、元気がでるんだよ」
「バーナム効果だ」
「ほんとにあたるんだからね。タヨリの星座まで、いつも確認してあげてるんだよ」
「じゃあ、嘘でもいいから、運勢最高、いいことしか起こらないって言ってよ」
「ラッキーアイテム、私ってとこ?」
「セナさん、それ自分で言って恥ずかしくないの? 俺、恥ずかしい」
「べっつにー、だって、疲れたんだもん」

おつかれさまあ、と、柔らかいふにゃりとした声でまた言われて、「タヨリもおつかれサマー」と言い返す。

暑い。暑い。夏って嫌い。仕事も嫌い。嫌いなものばっかりに囲まれているのに、溶けずにやっている私って超エライ。駅のロータリーで課題をふたつも出したタヨリも超エライ。それ以外の人は知らないので褒められない。私は完璧に無責任にはなれないのである。

だけど、みんなに一人は、「君って超エライ、エラすぎる!」って言ってくれる人がいてほしいなとは思っている。恋人でも、家族でも、たまたま隣に居合わせた知らない人でも、誰でもいいからさ、「君って超エライね、くじけても全然いいのに、くじけないって天才」ってね、本当の顔をして伝えてくれるような人間。

固体を保っていてほしい。これは、同じ地球人として、本能的な祈りである。

「セナさん。夕飯、どうする?」
「餃子にしようよ。火水木金土日、まるごとぶっ潰せるような」
「あなたは今日も過激っすね」
「タヨリも、試験期間なんでしょ。言ってたじゃん」
「ダイガクは、誰にも迷惑かけない特殊な場所なので、気が楽なんだよ。別に、ぶっ潰すような曜日もないし、モノゴトもない」
「うわ、裏切り者だ」
「でも、俺のラッキーアイテムは死守せねばならないので、一緒に戦ってあげるわ」
「タヨリ、それ自分で言ってて恥ずかしくないの」

さっきの仕返しをして笑ったら、「セナさんといると、恥ずかしさの感覚がマヒして最悪だな」と変な角度の文句を零してきた。

どうして、冬じゃないんだろ。繋ぎたくなってる。手を。タヨリの手に触りたい! 夏は、やっぱり嫌いである。

八百屋についたら、店の中は、ウェルカム!オツカレ!マッテタヨ!の歓迎の言葉の代わりのように、強烈な冷風が吹いていた。だから、私とタヨリは、涼しくて気持ちいいね、と言い合って、夏の例外として手を繋いでもいいことになった。

「餃子に、ニンニクたくさんいれよ」
「大葉もいれたい」
「いいね。てか、セナさん知ってた? 大葉と青じそって同じらしい」
「タヨリ、浮気したの?」
「待って、何その返し。めちゃくちゃ意味わかんなくてぞっとした。そして、してない。するわけない」

困惑している年下の男の手を引っ張って、たしかに意味わかんないな、と思いながら八百屋の中を歩く。

売れ残って100円引きのシールが貼られたレタスの横を通り過ぎる。タヨリはどれだけ萎びてくたくたのシャツをまとった、鮮度が落ちた私であっても見捨てないでほしいなあ、と情けないことを思った。

「あ、アスパラの値段、私の誕生日だ」
「じゃあ、買う?」
「買わないけど。もう少しで、きみと期間限定の六歳差になります」
「きついわー」
「おばさん、きついわー?」
「違いますー。ガキ、きついわーだけど」

可愛いなあ、本当に見捨てないでほしい。君がいないと、溶けてしまう。それが夏だ。情けないけれど、仕方があるまい。それくらい、毎日、嫌いなものに囲まれて、私は瀕死だ。それでも、月火水木金土日を何度も繰り返して、どれだけくたびれても、人間のかたちを保ったま生きているのだから、小さな依存のひとつくらいさせてくれ。

餃子の材料を買って、ついでに八百屋の前にある今ではもう珍しい酒専用の自販機で缶ビールを二本買って、私とタヨリは私のマンションへと向かう。

手は離さなかった。一週間がはじまっている。

タヨリ、汽水の占い、餃子とビール、機関銃の代わりに私はそれらを選んで、生きている。私の私だけの戦場で、どうしようもなく生きている。世界のそこら中で様々な戦争が、起きている。私は、そのこともろくに考えていられなくて最悪なのに。

「タヨリ、」
「どしたの?」
「セナさん、エライって言って」
「エライ、エライ」
「エラすぎる!って叫んで」
「きつ。マンション着いたらね」
「年上の女のくせになんだこの女って思ってる?」
「思ってるけど、べっつにーって感じ。だって、セナさんも、年下の男のくせになんだよ、可愛くねーな、てかお前も稼げよ、やっぱり、こんなだっせー、無駄に背だけ高い、ちょっと見た目がいいかもしれないガキより、年上の上司しか勝たんなって思ってるだろ」
「え、なにそれ、自虐すごすぎて鳥肌立った。思ってないよ。上司、まじできもくて無理だし」
「あなたのダイガクセイは、自虐と自己嫌悪の毎日よ」
「かっなしー。甘やかしてあげる」
「俺も、セナを、甘やかしてあげる」
「ここぞというときに、タヨリ、セナって呼んでくるの、面白いよね」

うるさ、と少し嫌な顔をして、隣の男は唇を尖らせた。可愛いから、ゆるせない。確実に迫ってきている私の火曜日に殺されないようにしなければ。あなたを、守りたい。だから、守ってほしい。

「餃子、プラス、ビールの数式」
「セナさん、急になんなの。……イコール?」
「ひっみつー」
「俺、プラス、セナさんの数式」
「イコール、愛?」
「さっむって言いたいところだけど、暑すぎる」

タヨリ、今夜も同じベッドで、私と眠ってね。

ねえ、明日も頑張ろう。頑張らなくても、固体を保てたら、それは、もう努力のたまものなのだ。

今日、頑張れなかった人間だって、よく聞いてほしい。頑張らないことは頑張ることより難しいですよって、昔、くじけたときに、タヨリが言ってくれた。本当にそうだと思うのだ。誰も彼も、私の嫌いなヤツも残念ながら、全ての人間にあてはまる。例外はない。

自分だけのお守りで、機関銃の代わりに愛とかそれに満たないワンコインで手に入る食べ物とか、本当に些細な言葉とか、そういうもので、君は、救えるし、救ってもらえるはずだから。

誰も、月曜の生贄にはならないで。