「なぁ、俺と付き合ってよ」
いつもの昼休み。今日も空はよく晴れていい天気だ。屋上から見上げた青にトンボがスイスイと通り過ぎていく。カノン堂のクリームパンを手に取り袋を開けて、一口目にかぶりつこうとした時に伊原が言うから、二つ返事で頷く。
「え、いいよ。どこに?」
答えてから、伊原の返答なんて待ちきれずに口にしたパンはとろりとクリームがたっぷりと溢れ出すから最高だ。「うまぁ」と、思わず歓喜の声が出てしまう。
柵に寄りかかって座っていた俺の目の前に、伊原がしゃがみ込んで不服そうにこちらを睨む。
「なんだよ、やらねーよ?」
カノン堂のクリームパンは人気があって、朝早く行かないとすぐに売り切れてしまうんだ。
今日はたまたま早起きが出来て、なんとなく良いことがありそうだなと思いながらカノン堂に向かったら、なんと! 最後の一個だったのだ。ラッキー過ぎる。いつも寝坊して買えずにいたクリームパンが、ようやく手に入ったことで、今日は朝から気分が良かった。
そのことは、今朝から何回も伊原に呆れられるくらいに伝えたはずだ。もしかしたら、あまりにも俺が美味しいと連呼するから、伊原も食べたくなったのだろうか? いや、だからといって、いくら伊原でもこれは分けてやれない。
「今度、二個残ってたら買って来てやるよ!」
クリームパンを取られないように後ろに隠しながら、睨む伊原に反抗すると、何故かますます睨んでくる。男のくせに女よりも綺麗な顔をしている伊原に睨まれると、少し怯んでしまう。でも、これだけは譲れない。
伊原はこの見た目だから女子に絶大な人気がある。
街でモデルのスカウトとかもされたことがあるとか言っていた。背は高くて足が長いし、同じ高一とは思えないほどに大人びて見える。滅多に笑わないから、愛想は良くないけど優しいとこはある。
それに対して俺なんて、今だに小学生に間違えられるくらいにチビで童顔だ。
声変わりだって、したのはつい最近だし、特に好きな女子とかもいない。だから、成長しないのだろうか? そもそも、女の子と付き合うとかも、よく分からない。
伊原とは高校に入ってから仲良くなったけど、絶えず告白されている現場を目撃している。今はいない、と思うけど、たぶん今まで彼女の一人や二人、いや、数十人はいたんじゃないだろうか。
女子からみたら俺のポジションはかなり羨ましいらしい。
視線を目の前の伊原に戻して思考を変えた。
俺が女だったら、確かに惚れているのかもしれないな。伊原とバカやって話しているのは毎日楽しい。
俺以外に特別仲良い友達もいないような気もするし、伊原に「付き合ってよ」なんて言われるやつなんて、俺以外にたぶんいないだろう。
きっと、俺が言うことなんでもホイホイ聞くから、きっと居心地がいいんだろうな。思い返せば、一人教室でぽつんとしている伊原を見て、なんとなく声をかけてみたのが始まりだった。周りは近づき難いとか、私生活が見えないとか言ってるけど、意外と話すと穏やかで良いやつだと俺は思っているんだけど。
「……ってか、なんだよ? 睨みすぎじゃね? そんなに食いたいの?」
そこまで無言で睨まれると、あげなきゃないみたいじゃねーか。なんだか、意地悪してるみたいにあげない俺の方が、悪いような気がしてくる。
小さくため息を漏らした後で、そっとクリームが落っこちないように、一口大にクリームパンをちぎった。
「……ほら、」
まだ睨んでいる伊原に向かってクリームパンを差し出すと、手首を掴まれてグイッと引かれた。不意をつかれて、ふらつく。
「あっ……ぶねぇ」
パクッと、指まで伊原の口の中に食べられてしまう。指先に熱い体温を感じて、不覚にもドキッと胸が高鳴ってしまう。間近に見る伊原の横顔も、あまりに綺麗で、とたんに頭まで血が昇っていくのを感じた。
チラリと上目遣いにこちらを見ながら、伊原が唇に付いたクリームを舐めるから、変な気分になってしまう。
「なんだよ、顔真っ赤じゃん」
嬉しそうに笑われるから、なんだか悔しくなった。
「か、揶揄うんじゃねぇ!!」
さっきから、おかしいくらいに鳴り続ける胸の高鳴りが止むようにと、右手を振り払った。
ボトッ
「……ボト?」
嫌な音が足元に聞こえて、視線を下げた。
無惨に飛び散るカノン堂のとろとろクリームと半分以上残っていたふわふわのパンが見事に潰れて落ちていた。
「俺のクリームパンーーーーーーー!!」
「あ、ごめ……」
「ごめんじゃねぇ!! ごめんで済んだら警察なんかいらねーんだよ! ふざけんなー! 俺が、大好きな……やっと、ようやく、最後の一個で買えた、カノン堂の、クリームパンなのに……」
考えると、一気に悲しみが押し寄せて来た。目の前が歪み始めるのを感じて、制服の袖でグイッと目元を拭う。
「伊原のバカやろー! 大っ嫌いだ!」
泣き顔なんか見せたらバカにされるだけだ。たかがクリームパンって笑うんだ。また買えばいーじゃんって呆れてさ。
引き止める声がした気がするけれど、振り返らずに屋上のドアを開けて、一気に階段を駆け降りた。
「あれ? 一真くん?」
途中で名前を呼ばれた方に視線を送ると、伊原の幼なじみの須藤さんが立っていて、驚いた。
「……泣いて、る?」
困ったように首を傾げて一歩近づいてくるから、ハッとしてもう一度腕で目元を擦った。
「ご、ごみ! まつ毛かな? 入っちゃって痛くて。なんでもないから」
あははと、ごまかしてその場から逃げるように去った。須藤さんにこそ、絶対に言えない。たかがクリームパンごときで泣いてるとか。弱すぎだろ、俺。須藤さんはきっと、伊原みたいに強くて、ちょっとやそっとじゃ動じない男が好きなんだ。
「なんだよ、全然ラッキーデーなんかじゃなかったじゃん」
ポツリと呟いてから、教室に戻った。
*
放課後になると、ぐうう……とお腹が鳴る。
けっきょく一口しか食べれなかったクリームパン。我慢して昼じゃなくて部活前まで残しておけば良かったのかもしれない。そしたら、落っことすこともなかったのかも……って、そんなん考えたって仕方ない。
もう俺のクリームパンは戻ってこないんだ。
「はぁ……行こ」
落ち込む体をゆっくり立ち上がらせて、教室を出る。
そういや、伊原どっか『付き合って』って言ってたな。しょうがねぇ、今日のことはもう許してやるか。
「あ、一真くーん」
廊下を歩いていると、前から凛とした甘い声が響いてくる。
この声で呼ばれると、女の子慣れしてない俺はなんか毎回、ドキドキする。伊原の友達になれたことで、須藤さんとも仲良くなれた。二人は幼なじみで、須藤さんは伊原に接するように俺にも接してくれるから、めちゃくちゃ良い子だ。伊原もきっと、須藤さんのこと好きなんだろうな。
二人とも美男美女だしお似合いだ。なんて思いながら、毎日早く二人がくっつけば良いのにと、陰ながら勝手に応援している。
「なに? 須藤さん」
「よかったぁ、見つけられて」
息が切れるくらい探してくれていたのか、呼吸が整うのを待ってあげようとすると、いきなり右手を突き出してくる。
「これ! ごめんね、同じのは買えなかったんだけど、ここのクリームパンもめっちゃ美味しいんだよ。気に入ってもらえたら嬉しい」
ようやく顔を上げて、照れ笑いする須藤さんの前髪が汗で濡れて、束になっていた。
いつもは、ちょっとの風くらいではびくともしないくらい真っ直ぐに揃って下りているのに。そんな風になるまで、クリームパンを探しに行って来てくれたってことなのか?
なんだよ、この子、マジでめちゃくちゃ良い子じゃん! しかも、これって、たぶん伊原から事情聞いて、伊原のためだろ? あいつめちゃくちゃ幸せものじゃん! うらやま!
「わ、わざわざ買って来てくれたの?」
「うん! ごめんね、聞いたよー、柊ちゃんが一真くんのクリームパン、落っことしちゃったんでしょ?」
「あ、いや、伊原がって言うか、落っことしたのはむしろ俺……」
うん、俺が驚いて落っことしたんだ。よく考えれば、伊原は別に悪くないかもしれない。
「もう、優しいなぁ、一真くんは。柊ちゃんが好きになるのわかる気がする」
「……え?」
「あ、いやいや、これ! ここのクリームパン、甘すぎなくて柊ちゃんも好きなんだよ。二人で食べて仲直りしてね。あたし二人が仲良くしてるの見てるの幸せだから」
本当に幸せそうに頬をピンクに染めて、須藤さんは笑顔になる。真っ直ぐに素直で、一生懸命な姿に、俺も素直にかわいいと思うし、俺だって須藤さんと伊原が二人でいるところを見るのは幸せな気分になる。きっと、それと一緒なのかもしれない。
「……うん、ありがとう。俺、伊原に謝ってくる」
須藤さんの手にはクリームパンが二つ。
仲直りのきっかけを作ってくれたんだ。
でも、伊原って確かに甘いの得意じゃなかったよな? じゃあ、なんであの時あんなに睨んでまで俺のクリームパンを狙って来たんだ?
「意味がわからん」
沸々と伊原の態度に疑問とイラつきが湧き上がってくる。せっかく俺が悪かったと謝ろうと思ったのに、やっぱりなんか違う気がしてくる。
あの後、伊原は教室に戻ってこなかった。最近特にサボり癖がついているような気がする。大丈夫なのかと心配にはなるけれど、伊原のいる場所はもう決まっている。いつでも暇があれば、晴れた日に伊原は屋上にいることが多い。
階段を上ってドアを開けると、昼間よりも秋の少し冷たさの混じった風が熱った体に気持ちよく通り抜ける。太陽の、柔らかくもまだ強い日差しに、目を細めた。
すぐに、柵に寄りかかり遠くを眺めている伊原の姿を見つけた。キラキラと、色素の薄い長めの髪が風にゆれている。その横顔は、やっぱりきれいだと思う。声をかけることなく、俺はゆっくり近づく。
直前までイラつきが残ってしまったから、びっくりさせてから謝ろうと考えていた。伊原のすぐ真後ろまで気配を消して歩いた。そして、スゥッと息を吸い込んだ瞬間に、くるりと伊原が振り返るから、こっちが驚いてしまう。
「い!? が、っ、げぇっほ、げほっ!」
吸い込んだ息が驚きで気管に入り込む。苦しいほどに咳き込んでしまった俺は、もう情けなさすぎてついに涙が出てくる。
「は? 大丈夫かよ?」
背中をさすってくれる伊原に、なんだか驚かそうと企んでいたことを申し訳なくなる。顔を上げずに、無言のまま右手を差し出した。
「……ん? これって」
手からクリームパンが離れるのを感じて、俺は地面に座り込んだ。
「里帆だろ? これ」
すぐにクリームパンの出所が分かったようで、伊原は俺の隣に座って笑っている。
「さっきめっちゃ怒られたもん。なにしとんじゃって」
「な、なにを……しとんじゃ? そんな言い方しないだろ、須藤さんは。どう見たって大人しくて控えめなタイプだ」
「お前、里帆のことなんも知らねーなぁ」
呆れるみたいに笑うから、なんだかまたイラッとする。そりゃそうだ。幼なじみの二人はお互いになんでも知っているんだろうけど、俺はそこにいきなり混ざった新参者だ。知るわけがない。
でも、良いんだ。俺から見た須藤さんは女の子代表ってくらいにおしとやかで女子力高くて、かわいい女の子なんだから。
「クリームパン、悪かったな。ごめん」
ぽんっと、頭に大きな伊原の手が乗っかる。弾みで首が下がって、だけど、伊原が謝ってくれたことになんだか安心する。
──泣き顔なんか見せたらバカにされるだけだ。たかがクリームパンって笑うんだ。また買えばいーじゃんって呆れてさ。
さっきは、色々と伊原に対して思ってしまったけど、そんなこと思う奴じゃないって、俺が一番分かっていたのに。
「……俺の方こそ、ごめん」
そっと見上げた先の伊原は、優しい顔で笑ってくれる。なんでそんな優しくてカッコいいんだ。女じゃなくても惚れるだろ。
「あ、でもさ、なんで睨まれたのかは全然わかんねーんだけど」
ビリッとクリームパンの袋を開けて、まさにかぶりつこうとしていた伊原が、俺の言葉にこちらを向いた。
目が細くなって、また睨んでいるような気がするのだが。
伊原の気に触るようなことをしたってことか? そもそも元は俺のせいなのか?
頭の中で色んなことを巡らせるけれど、思い当たることがなにもない。
混乱する俺に痺れを切らしたのか、伊原が大きなため息を吐き出した。
「じゃあさ、その理由はまだわかんなくても良いから、さっき言った『大嫌い』ってやつ、あれだけは撤回して」
「……え?」
「めっちゃくちゃ傷ついたんだからな」
「……言ったっけ? そんなこと」
いや、なんだかクリームパンにパニックになってしまって、覚えてないな。
「はぁ!? マジかよ。言っただろ!」
「え……あ、じゃあ、ごめん。嫌いなんて嘘だよ。むしろ俺、伊原いないと無理」
ほんと、希望の高校受験に失敗して、地元からは遠い高校に来たんだ。友達もいなくて、はっきり言って寂しかった。でも、あの時、ひとりぼっちでいる伊原に声をかけて良かったなって、心から思う。一人でいた伊原が俺と同じく寂しかったのかは分からないけど。
「一緒にいると毎日楽しいし。勉強も部活も励まし合って頑張れる。これから先もずっと一緒にいたいよ」
うん、と頷いて、俺もクリームパンを開けて一口食べてみる。
「あ……うまぁ! なぁ、このクリームパンもめちゃくちゃうま……」
感動して隣に振り返ると、伊原の横顔が見たことないくらいに真っ赤になっていた。
「……え? 伊原?」
「なぁ、今の絶対に嘘じゃないよな?」
「……うん?」
「これから先もずっと一緒にいたいって、嘘じゃないよな?」
「……うん、嘘じゃないって! マジ! 大マジ!」
信じて欲しくて必死に訴えると、伊原は自分のクリームパンを袋に戻して地面に置く。そして、俺の手からもクリームパンの袋を取り上げ、並べて置いた。
「……ん?」
「好きだ、一真。俺と付き合って」
気がつけば、伊原の胸の中にすっぽりと包まれている。耳に当たる胸元、伊原の心音がドキドキと徐々に早く高まって行く。抱きしめられていることにようやく気がついた俺は、伊原の心音に合わせて自分の心臓まで早鐘を打ち始めて行くのを感じて、一気に顔が熱くなっていく。
「ちょ、ちょっと待て」
え? なに? 好き? 伊原が、俺を?
混乱しながらも気持ちの整理をする。
うん、俺も伊原のことは好きだ。優しいし、かっこいいし、楽しいし。
でも、え?
「……付き合って?」
って、どう言うこと?
脳内で、さっきの場面に巻き戻っていくのを感じる。
──なぁ、俺と付き合ってよ──
「そういうこと!?」
いや、待て。どう言うことだ? まだよく分かっていない。混乱している。伊原は女子に絶大的に人気があって、かわいい幼なじみがいて、女に不自由してないのに、何故に俺!?
「俺も、一真とずっと一緒にいたいって思ってる」
ギュッと、なおさらに強く抱きしめられて、ますますなんだかよくわからなくなってくる。
だけど、嫌な気はしないのはなんでだろう。
突き放すことだって出来るのに、また、大嫌いだって叫ぶことだって出来るはずなのに、それをしないって、俺、伊原の告白を受け入れてるってことなのか?
いや、よく分かんないぞ。
そもそも好きとか、付き合うとか、よくわかんないんだよ。
「……伊原、俺、伊原のことは好きだよ? でもさ、なんか、よく、分かんない」
正直に想いを伝えてみると、そっと離れた伊原が微笑む。破壊力抜群の笑顔に、一気に心臓が脈打つ。なんなんだ? これ。今まで感じたことのない感情に混乱する。
「俺だって、まだよくわかんないよ? でも、毎日一真のことばっか考えてるし、一緒にいると楽しいし、一真が悲しむのは胸が痛むし、俺の隣で一生笑っていてほしいって思ってる。それって、好きってことだろ?」
「……そう、なのかな?」
だったら、俺も一緒だけど。
「もう、隠さないでもいいよな?」
「え?」
「ずっと伝えたくて我慢できなかったんだよ。これからは堂々と好きって言うな。と、言うことで、また明日な」
「え?」
「じゃあなー」
颯爽とさわやかに去っていく伊原に、取り残される俺。いや、なにが起こった?
ってか、え?
これって、両思いってこと?
伊原が忘れて行ったクリームパンが、俺のクリームパンと並んでいる。
どっちも一口ずつ食べかけだ。
初めて食べた須藤さんおススメのクリームパンは、甘すぎないって言う割に、やけに甘ったるく感じてしまって、自販機に牛乳を買いに走った。熱る頬に秋の風が心地いい。
恋って、なんか、ワクワクする。
今までと何が違うのかは、まだ分からないけれど、明日会う伊原に、きっと俺は今日以上にドキドキするのかもしれない。
ストローを差し込み、一気に牛乳を飲む。
俺ももう少し、背が伸びますように!
伊原にかっこいいと思ってもらえるように、これからも頑張ろうと、気合いを入れて部活に向かった。
いつもの昼休み。今日も空はよく晴れていい天気だ。屋上から見上げた青にトンボがスイスイと通り過ぎていく。カノン堂のクリームパンを手に取り袋を開けて、一口目にかぶりつこうとした時に伊原が言うから、二つ返事で頷く。
「え、いいよ。どこに?」
答えてから、伊原の返答なんて待ちきれずに口にしたパンはとろりとクリームがたっぷりと溢れ出すから最高だ。「うまぁ」と、思わず歓喜の声が出てしまう。
柵に寄りかかって座っていた俺の目の前に、伊原がしゃがみ込んで不服そうにこちらを睨む。
「なんだよ、やらねーよ?」
カノン堂のクリームパンは人気があって、朝早く行かないとすぐに売り切れてしまうんだ。
今日はたまたま早起きが出来て、なんとなく良いことがありそうだなと思いながらカノン堂に向かったら、なんと! 最後の一個だったのだ。ラッキー過ぎる。いつも寝坊して買えずにいたクリームパンが、ようやく手に入ったことで、今日は朝から気分が良かった。
そのことは、今朝から何回も伊原に呆れられるくらいに伝えたはずだ。もしかしたら、あまりにも俺が美味しいと連呼するから、伊原も食べたくなったのだろうか? いや、だからといって、いくら伊原でもこれは分けてやれない。
「今度、二個残ってたら買って来てやるよ!」
クリームパンを取られないように後ろに隠しながら、睨む伊原に反抗すると、何故かますます睨んでくる。男のくせに女よりも綺麗な顔をしている伊原に睨まれると、少し怯んでしまう。でも、これだけは譲れない。
伊原はこの見た目だから女子に絶大な人気がある。
街でモデルのスカウトとかもされたことがあるとか言っていた。背は高くて足が長いし、同じ高一とは思えないほどに大人びて見える。滅多に笑わないから、愛想は良くないけど優しいとこはある。
それに対して俺なんて、今だに小学生に間違えられるくらいにチビで童顔だ。
声変わりだって、したのはつい最近だし、特に好きな女子とかもいない。だから、成長しないのだろうか? そもそも、女の子と付き合うとかも、よく分からない。
伊原とは高校に入ってから仲良くなったけど、絶えず告白されている現場を目撃している。今はいない、と思うけど、たぶん今まで彼女の一人や二人、いや、数十人はいたんじゃないだろうか。
女子からみたら俺のポジションはかなり羨ましいらしい。
視線を目の前の伊原に戻して思考を変えた。
俺が女だったら、確かに惚れているのかもしれないな。伊原とバカやって話しているのは毎日楽しい。
俺以外に特別仲良い友達もいないような気もするし、伊原に「付き合ってよ」なんて言われるやつなんて、俺以外にたぶんいないだろう。
きっと、俺が言うことなんでもホイホイ聞くから、きっと居心地がいいんだろうな。思い返せば、一人教室でぽつんとしている伊原を見て、なんとなく声をかけてみたのが始まりだった。周りは近づき難いとか、私生活が見えないとか言ってるけど、意外と話すと穏やかで良いやつだと俺は思っているんだけど。
「……ってか、なんだよ? 睨みすぎじゃね? そんなに食いたいの?」
そこまで無言で睨まれると、あげなきゃないみたいじゃねーか。なんだか、意地悪してるみたいにあげない俺の方が、悪いような気がしてくる。
小さくため息を漏らした後で、そっとクリームが落っこちないように、一口大にクリームパンをちぎった。
「……ほら、」
まだ睨んでいる伊原に向かってクリームパンを差し出すと、手首を掴まれてグイッと引かれた。不意をつかれて、ふらつく。
「あっ……ぶねぇ」
パクッと、指まで伊原の口の中に食べられてしまう。指先に熱い体温を感じて、不覚にもドキッと胸が高鳴ってしまう。間近に見る伊原の横顔も、あまりに綺麗で、とたんに頭まで血が昇っていくのを感じた。
チラリと上目遣いにこちらを見ながら、伊原が唇に付いたクリームを舐めるから、変な気分になってしまう。
「なんだよ、顔真っ赤じゃん」
嬉しそうに笑われるから、なんだか悔しくなった。
「か、揶揄うんじゃねぇ!!」
さっきから、おかしいくらいに鳴り続ける胸の高鳴りが止むようにと、右手を振り払った。
ボトッ
「……ボト?」
嫌な音が足元に聞こえて、視線を下げた。
無惨に飛び散るカノン堂のとろとろクリームと半分以上残っていたふわふわのパンが見事に潰れて落ちていた。
「俺のクリームパンーーーーーーー!!」
「あ、ごめ……」
「ごめんじゃねぇ!! ごめんで済んだら警察なんかいらねーんだよ! ふざけんなー! 俺が、大好きな……やっと、ようやく、最後の一個で買えた、カノン堂の、クリームパンなのに……」
考えると、一気に悲しみが押し寄せて来た。目の前が歪み始めるのを感じて、制服の袖でグイッと目元を拭う。
「伊原のバカやろー! 大っ嫌いだ!」
泣き顔なんか見せたらバカにされるだけだ。たかがクリームパンって笑うんだ。また買えばいーじゃんって呆れてさ。
引き止める声がした気がするけれど、振り返らずに屋上のドアを開けて、一気に階段を駆け降りた。
「あれ? 一真くん?」
途中で名前を呼ばれた方に視線を送ると、伊原の幼なじみの須藤さんが立っていて、驚いた。
「……泣いて、る?」
困ったように首を傾げて一歩近づいてくるから、ハッとしてもう一度腕で目元を擦った。
「ご、ごみ! まつ毛かな? 入っちゃって痛くて。なんでもないから」
あははと、ごまかしてその場から逃げるように去った。須藤さんにこそ、絶対に言えない。たかがクリームパンごときで泣いてるとか。弱すぎだろ、俺。須藤さんはきっと、伊原みたいに強くて、ちょっとやそっとじゃ動じない男が好きなんだ。
「なんだよ、全然ラッキーデーなんかじゃなかったじゃん」
ポツリと呟いてから、教室に戻った。
*
放課後になると、ぐうう……とお腹が鳴る。
けっきょく一口しか食べれなかったクリームパン。我慢して昼じゃなくて部活前まで残しておけば良かったのかもしれない。そしたら、落っことすこともなかったのかも……って、そんなん考えたって仕方ない。
もう俺のクリームパンは戻ってこないんだ。
「はぁ……行こ」
落ち込む体をゆっくり立ち上がらせて、教室を出る。
そういや、伊原どっか『付き合って』って言ってたな。しょうがねぇ、今日のことはもう許してやるか。
「あ、一真くーん」
廊下を歩いていると、前から凛とした甘い声が響いてくる。
この声で呼ばれると、女の子慣れしてない俺はなんか毎回、ドキドキする。伊原の友達になれたことで、須藤さんとも仲良くなれた。二人は幼なじみで、須藤さんは伊原に接するように俺にも接してくれるから、めちゃくちゃ良い子だ。伊原もきっと、須藤さんのこと好きなんだろうな。
二人とも美男美女だしお似合いだ。なんて思いながら、毎日早く二人がくっつけば良いのにと、陰ながら勝手に応援している。
「なに? 須藤さん」
「よかったぁ、見つけられて」
息が切れるくらい探してくれていたのか、呼吸が整うのを待ってあげようとすると、いきなり右手を突き出してくる。
「これ! ごめんね、同じのは買えなかったんだけど、ここのクリームパンもめっちゃ美味しいんだよ。気に入ってもらえたら嬉しい」
ようやく顔を上げて、照れ笑いする須藤さんの前髪が汗で濡れて、束になっていた。
いつもは、ちょっとの風くらいではびくともしないくらい真っ直ぐに揃って下りているのに。そんな風になるまで、クリームパンを探しに行って来てくれたってことなのか?
なんだよ、この子、マジでめちゃくちゃ良い子じゃん! しかも、これって、たぶん伊原から事情聞いて、伊原のためだろ? あいつめちゃくちゃ幸せものじゃん! うらやま!
「わ、わざわざ買って来てくれたの?」
「うん! ごめんね、聞いたよー、柊ちゃんが一真くんのクリームパン、落っことしちゃったんでしょ?」
「あ、いや、伊原がって言うか、落っことしたのはむしろ俺……」
うん、俺が驚いて落っことしたんだ。よく考えれば、伊原は別に悪くないかもしれない。
「もう、優しいなぁ、一真くんは。柊ちゃんが好きになるのわかる気がする」
「……え?」
「あ、いやいや、これ! ここのクリームパン、甘すぎなくて柊ちゃんも好きなんだよ。二人で食べて仲直りしてね。あたし二人が仲良くしてるの見てるの幸せだから」
本当に幸せそうに頬をピンクに染めて、須藤さんは笑顔になる。真っ直ぐに素直で、一生懸命な姿に、俺も素直にかわいいと思うし、俺だって須藤さんと伊原が二人でいるところを見るのは幸せな気分になる。きっと、それと一緒なのかもしれない。
「……うん、ありがとう。俺、伊原に謝ってくる」
須藤さんの手にはクリームパンが二つ。
仲直りのきっかけを作ってくれたんだ。
でも、伊原って確かに甘いの得意じゃなかったよな? じゃあ、なんであの時あんなに睨んでまで俺のクリームパンを狙って来たんだ?
「意味がわからん」
沸々と伊原の態度に疑問とイラつきが湧き上がってくる。せっかく俺が悪かったと謝ろうと思ったのに、やっぱりなんか違う気がしてくる。
あの後、伊原は教室に戻ってこなかった。最近特にサボり癖がついているような気がする。大丈夫なのかと心配にはなるけれど、伊原のいる場所はもう決まっている。いつでも暇があれば、晴れた日に伊原は屋上にいることが多い。
階段を上ってドアを開けると、昼間よりも秋の少し冷たさの混じった風が熱った体に気持ちよく通り抜ける。太陽の、柔らかくもまだ強い日差しに、目を細めた。
すぐに、柵に寄りかかり遠くを眺めている伊原の姿を見つけた。キラキラと、色素の薄い長めの髪が風にゆれている。その横顔は、やっぱりきれいだと思う。声をかけることなく、俺はゆっくり近づく。
直前までイラつきが残ってしまったから、びっくりさせてから謝ろうと考えていた。伊原のすぐ真後ろまで気配を消して歩いた。そして、スゥッと息を吸い込んだ瞬間に、くるりと伊原が振り返るから、こっちが驚いてしまう。
「い!? が、っ、げぇっほ、げほっ!」
吸い込んだ息が驚きで気管に入り込む。苦しいほどに咳き込んでしまった俺は、もう情けなさすぎてついに涙が出てくる。
「は? 大丈夫かよ?」
背中をさすってくれる伊原に、なんだか驚かそうと企んでいたことを申し訳なくなる。顔を上げずに、無言のまま右手を差し出した。
「……ん? これって」
手からクリームパンが離れるのを感じて、俺は地面に座り込んだ。
「里帆だろ? これ」
すぐにクリームパンの出所が分かったようで、伊原は俺の隣に座って笑っている。
「さっきめっちゃ怒られたもん。なにしとんじゃって」
「な、なにを……しとんじゃ? そんな言い方しないだろ、須藤さんは。どう見たって大人しくて控えめなタイプだ」
「お前、里帆のことなんも知らねーなぁ」
呆れるみたいに笑うから、なんだかまたイラッとする。そりゃそうだ。幼なじみの二人はお互いになんでも知っているんだろうけど、俺はそこにいきなり混ざった新参者だ。知るわけがない。
でも、良いんだ。俺から見た須藤さんは女の子代表ってくらいにおしとやかで女子力高くて、かわいい女の子なんだから。
「クリームパン、悪かったな。ごめん」
ぽんっと、頭に大きな伊原の手が乗っかる。弾みで首が下がって、だけど、伊原が謝ってくれたことになんだか安心する。
──泣き顔なんか見せたらバカにされるだけだ。たかがクリームパンって笑うんだ。また買えばいーじゃんって呆れてさ。
さっきは、色々と伊原に対して思ってしまったけど、そんなこと思う奴じゃないって、俺が一番分かっていたのに。
「……俺の方こそ、ごめん」
そっと見上げた先の伊原は、優しい顔で笑ってくれる。なんでそんな優しくてカッコいいんだ。女じゃなくても惚れるだろ。
「あ、でもさ、なんで睨まれたのかは全然わかんねーんだけど」
ビリッとクリームパンの袋を開けて、まさにかぶりつこうとしていた伊原が、俺の言葉にこちらを向いた。
目が細くなって、また睨んでいるような気がするのだが。
伊原の気に触るようなことをしたってことか? そもそも元は俺のせいなのか?
頭の中で色んなことを巡らせるけれど、思い当たることがなにもない。
混乱する俺に痺れを切らしたのか、伊原が大きなため息を吐き出した。
「じゃあさ、その理由はまだわかんなくても良いから、さっき言った『大嫌い』ってやつ、あれだけは撤回して」
「……え?」
「めっちゃくちゃ傷ついたんだからな」
「……言ったっけ? そんなこと」
いや、なんだかクリームパンにパニックになってしまって、覚えてないな。
「はぁ!? マジかよ。言っただろ!」
「え……あ、じゃあ、ごめん。嫌いなんて嘘だよ。むしろ俺、伊原いないと無理」
ほんと、希望の高校受験に失敗して、地元からは遠い高校に来たんだ。友達もいなくて、はっきり言って寂しかった。でも、あの時、ひとりぼっちでいる伊原に声をかけて良かったなって、心から思う。一人でいた伊原が俺と同じく寂しかったのかは分からないけど。
「一緒にいると毎日楽しいし。勉強も部活も励まし合って頑張れる。これから先もずっと一緒にいたいよ」
うん、と頷いて、俺もクリームパンを開けて一口食べてみる。
「あ……うまぁ! なぁ、このクリームパンもめちゃくちゃうま……」
感動して隣に振り返ると、伊原の横顔が見たことないくらいに真っ赤になっていた。
「……え? 伊原?」
「なぁ、今の絶対に嘘じゃないよな?」
「……うん?」
「これから先もずっと一緒にいたいって、嘘じゃないよな?」
「……うん、嘘じゃないって! マジ! 大マジ!」
信じて欲しくて必死に訴えると、伊原は自分のクリームパンを袋に戻して地面に置く。そして、俺の手からもクリームパンの袋を取り上げ、並べて置いた。
「……ん?」
「好きだ、一真。俺と付き合って」
気がつけば、伊原の胸の中にすっぽりと包まれている。耳に当たる胸元、伊原の心音がドキドキと徐々に早く高まって行く。抱きしめられていることにようやく気がついた俺は、伊原の心音に合わせて自分の心臓まで早鐘を打ち始めて行くのを感じて、一気に顔が熱くなっていく。
「ちょ、ちょっと待て」
え? なに? 好き? 伊原が、俺を?
混乱しながらも気持ちの整理をする。
うん、俺も伊原のことは好きだ。優しいし、かっこいいし、楽しいし。
でも、え?
「……付き合って?」
って、どう言うこと?
脳内で、さっきの場面に巻き戻っていくのを感じる。
──なぁ、俺と付き合ってよ──
「そういうこと!?」
いや、待て。どう言うことだ? まだよく分かっていない。混乱している。伊原は女子に絶大的に人気があって、かわいい幼なじみがいて、女に不自由してないのに、何故に俺!?
「俺も、一真とずっと一緒にいたいって思ってる」
ギュッと、なおさらに強く抱きしめられて、ますますなんだかよくわからなくなってくる。
だけど、嫌な気はしないのはなんでだろう。
突き放すことだって出来るのに、また、大嫌いだって叫ぶことだって出来るはずなのに、それをしないって、俺、伊原の告白を受け入れてるってことなのか?
いや、よく分かんないぞ。
そもそも好きとか、付き合うとか、よくわかんないんだよ。
「……伊原、俺、伊原のことは好きだよ? でもさ、なんか、よく、分かんない」
正直に想いを伝えてみると、そっと離れた伊原が微笑む。破壊力抜群の笑顔に、一気に心臓が脈打つ。なんなんだ? これ。今まで感じたことのない感情に混乱する。
「俺だって、まだよくわかんないよ? でも、毎日一真のことばっか考えてるし、一緒にいると楽しいし、一真が悲しむのは胸が痛むし、俺の隣で一生笑っていてほしいって思ってる。それって、好きってことだろ?」
「……そう、なのかな?」
だったら、俺も一緒だけど。
「もう、隠さないでもいいよな?」
「え?」
「ずっと伝えたくて我慢できなかったんだよ。これからは堂々と好きって言うな。と、言うことで、また明日な」
「え?」
「じゃあなー」
颯爽とさわやかに去っていく伊原に、取り残される俺。いや、なにが起こった?
ってか、え?
これって、両思いってこと?
伊原が忘れて行ったクリームパンが、俺のクリームパンと並んでいる。
どっちも一口ずつ食べかけだ。
初めて食べた須藤さんおススメのクリームパンは、甘すぎないって言う割に、やけに甘ったるく感じてしまって、自販機に牛乳を買いに走った。熱る頬に秋の風が心地いい。
恋って、なんか、ワクワクする。
今までと何が違うのかは、まだ分からないけれど、明日会う伊原に、きっと俺は今日以上にドキドキするのかもしれない。
ストローを差し込み、一気に牛乳を飲む。
俺ももう少し、背が伸びますように!
伊原にかっこいいと思ってもらえるように、これからも頑張ろうと、気合いを入れて部活に向かった。